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Rashita's Style Blog
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2004/08/14のBlog
[ 14:30 ] [ 哲学・思想 ]
前回の「仕事」というエントリーで書いた記事にいくつかのコメントをいただいて、さらにいろいろ考えたので、少しまとめてみたい。

まったく、話は逸れるが、私にとってBLOGというものの良さは、こういう「触発」である。昔は一人でノートにいろいろ書いていたが、それは書き終わった時点で完結してします。1年後くらいに読み返したら面白いのだが、そこから何かが広がることはあまりない。
すくなくとも、こうやって書いたことを、他の方の視点からのアプローチを提示していただければ、私の足りない想像力がすくなくとも幾分かましに働いてくれる。
やっぱりなかなか「自分の考え方」から抜け出すのは難しい。

閑話休題。

心の拠り所について。

ふと考えてみると自分は何を心の拠り所にして生きているのだろうか?

仕事?家族?家庭?趣味?・・・。

どれもそうだな~と思うが、フィットする感じはない。
おそらくその何がかけても、自分の人生は成立しないかもしれないが、それが心の拠り所になっているとは、なぜだか言い難い。

自分の心を偽りなく覗いてみれば、おそらく私は「自分」というものを自分の心の拠り所にしているのだと思う。
なにか禅問答のようだが、言葉にするならば
「私は、私であるが故に生きている」
ということになる。

こういう話を私の連れ合いにすると、「じゃあ私はあなたの人生に関係ないわけ?」などと切り返されるのだが、それは少しばかり違う。でもなかなかうまく説明することはできない。

人は一人では生きていくことができない。そして人は一人で生きてゆかなければならない。まったくの矛盾である。が、そういう矛盾ともいえる状況で生きていくのが人生である。

社会的に、人は絶対に他人の存在を必要とする。社会を必要としない山の奥に篭って一人で生活している人はともかくとして、社会の中で生きていくということは、他人の存在を前提にしているということである。
このような意味合いで、人は一人で生きていくことはできないといえる。

しかし、人間的に見れば、人は一人で生きてゆかなければいけない。
もう少し言えば、自分の行動には「自分」で責任を負わなければいけない。
私が今日なにか失敗をしても、それを誰かの責任にしたり、その失敗をなくしてしまうことはできない。結果は全部自分の背中の上にのっかってくる。
そういう意味で、人は一人で生きていかなければいけない。

「心の拠り所」という言葉は、つまり自分がなぜ生きているか、あるいはこれから生きていくかということの理由である。ニファンスで言えば「アイデンティティ」とは少し違ったものになる。

心の拠り所はどうしても必要か?と考えれば、今の時代ではどうしても必要だと答えると思う。
何も意識しないで生きていれば、自分がなぜ生きているかなんて考える必要はない。

が、一度その疑問が頭によぎってしまった場合、その問いに満足な回答を与えるのは難しい。仕事があるか、家庭があるから、家族がいるから・・・。
そういう答えで満足できる人はいい、それができない人はどんどんと永久ループにはいっていってしまう。
これが心の拠り所をなくした状態だ。

こういう疑問が生まれないときは、心の拠り所はほとんど意識されない。ただ生きているから生きていくのだ。それ以外の何者でもないと思う。私はそういう状況が一番良いと思う。

でも、あちらこちらで生きていく意味というものに対する疑問を見る。
心の拠り所もなければ、アイデンティティも見つけられない。
絶望。

悲しいがそれが今の現実である。何がそれを引き起こしてしまったのだろうか?
人間に与えられた新たなる試練なのだろうか。

ともかく、心の拠り所=生きていく理由、というのがあればよい。
闇の中を照らすライトのようなものがあればよい。
そして、それが家族や家庭ならばもっとよい。
なぜならば、そこには「自分」が含まれるからだ。

心の拠り所に「自分」が含まれていないと、それはひどく不安定なものになってしまいかねない。100%自分が含まれていないのなら、それは依存である。
依存することが良いか悪いかという議論は置いておいて、とりあえず私は完全な依存は幸福な状態を生み出さないと思っている。依存していれば満足な状態がうまれるかもしれないが、満足=幸福ではない。

結論として、私は自分自身を大切にせよ、と言いたいわけではない。むしろまったく逆である。ゴールはさまざまであろうが、「自分」の出発点は自分である。そしてその自分というものは避けがたく他のもの(人やその他の存在を含めて)によって成立している。
そのバックボーンを理解していれば、必然的に他者の存在というものの大切さがわかるのではないかと思う。
2004/08/12のBlog
仕事をすることで、私達は何を得ることができるのだろうか・
まずは、報酬(賃金)。
そして、社会的な地位(肩書き)。
最後に、自らの充足感。
仕事をすれば自動的にこれらのものが手に入るわけではない。仕事しても報酬が得られない場合もあるし、自らの充足感を毎回得られるというわけでもない。
そして、これらを全て手に入れられるわけでもないし、逆に全てを手に入れるような人もいる。

資本主義社会のあり方として、日本社会ががんばって隠してきた所得の二極化というものが段々と露呈してきている。

これからの社会では、自分の中でどれが一番優先順位が高いのかをしっかり認識したほうが、「有利」である、と私は思う。
自分の価値観を設定することで、仕事から選ばれるのではなく、仕事を選ぶことができるようになる。

もう一つ考えておきたいのが、宗教である。
現在の日本人の多くは、生きていくための宗教を持たない。そしてこれからもしばらくその状況は変わらないであろう。

人間は、どうしてもよりどころとしていくものが必要なのだ。
人それぞれによって、それが宗教だったり科学だったり、仕事だったり、家庭だったりする。
何が良くて何が悪いということを決めることはできない。
宗教にも良いところはたくさんあるし、逆に悪いところもたくさんある。
所詮は、等価交換での「選択」に過ぎない。

が、今の日本のメディアではそういうことが認識されていないのではないだろうか。
人間は、人間存在だけで生きていくことはできない。
社会的な関わりがある程度必要となってくる。

人が溢れ情報が溢れる社会では、自分が他の人間と違って「自分である」という認識を持つためには、宗教に代表されるいろいろなものが必要なのだ。
それは、科学技術が進んで、脳の仕組みが解明されたとしても、すぐに解決する問題ではない。その人間の「孤独性」を改善するということは、「人間」を改善するという問題につながっていく。それは多くの議論がすんでからのことであろう。

一昔前、リストラという言葉が急に目立つようになってきてからいろいろな事件が新聞に出るようになった。
サラリーマンがリストラにあって再就職先も決まらず、自殺したというような事件だ。
これは、単に経済的に行き詰った、ということだけが原因でないと思う。

自分がよりどころとしてきたものが、根本から否定されてしまったということが原因であろうと思う。その人にとって「仕事」が宗教と同じような働きをしていたのだろう。

「仕事」(←労働だけでなく広義の仕事)が宗教に変わりうる存在であるか、というのはなかなか難しい問題だ。
高度経済成長の社会の中では、おそらく宗教の代用として「仕事」は機能してきたのだろうと思う。

が、単純に考えて、仕事というのは何かを得るための手段である。
仕事そのものが目的ではない。
その点が宗教と異なるところだと思う。
宗教も目指すところはあるものの、宗教を信じるということは、それ自体が目的である。
それを信じることで何かを得られるというのは副産物である。
だからたいていの人は、自分が信じる宗教に欠点を見つけても見てみないふりをする人が多いのではないか。
この宗教はダメだから、別の宗教へ、と簡単に変えられる人はそんなに多くないと思う。

仕事は、本来ならそれが簡単にできるはずである。
報酬を得ることが目的ならば、Aの仕事がダメならBの仕事へという風に代理がきくし、そのことになんら矛盾はない。

おそらくこれからの社会では、仕事を「宗教的」によりどころにしていくのは難しくなっていくだろう。あくまで何かを得るための手段という認識がないと、パニックに陥ってしまうような事態がたくさん待ち構えているのではないか。

結局のところ心構えで、いろいろなことが変化する、という言葉が通じるのは若い世代までである。ある一定の脳が老化しつつある人間にはそういう言葉はほとんど通じない。彼らの世界はもう「できあがって」いるのだ。

そういう「出来上がった世界」に飲み込まれて生きていくことも、自らの世界を見つけ出していくことも、それぞれに「大変さ」があると思う。結局のところここでも、一つの選択でしかないということだ。
自分が何を選ぶのか、あるいは選びたいと思っているのか。それを知ることは結構大切なことなんじゃないかな~と思う。
2004/08/10のBlog
[ 17:11 ] [ ささやかな質問 ]
ささやかな質問です。よろしければお答えください。

選択できるならどれがいいですか?
1、自分の時間を8~9割使わなければいけないが、年収が5000万を超える仕事
2、自分の時間が6~8割確保できるが、年収が500万円以下の仕事
3、使う時間も、収入もまったく予測できないが、自分のやりたいことができる仕事

[ 11:08 ] [ 哲学・思想 ]
なかなか大層なタイトルだが、そんなに大げさな話ではない。

昨日ちょっと用事があって、三重県の津市へ車で向かった。
片道2時間程度の道のりである。

私の住んでいる町は都会と田舎のちょうど間ぐらいの中途半端な町である。
津までの国道沿いにはいろいろな町があり村があり市がある。

もちろん同じ日本というカテゴリーに属する社会なのだが、車で通り過ぎただけでもはっきりと環境の違いというものを見て取ることができる。

ある村では山のふもとまでひたすら畑が広がっている。その中にほんの少し家が並んでいるだけである。国道も片側一車線で追い抜きなんてとてもできないくらい狭い道だ。わき道にいたっては・・・、である。
ひたすらコンビニもドラッグストアもパチンコ屋すらない。おそらく自動販売機もほとんどないであろう。

そういう風景が、ひたすら広がっているのを見て、私は「田舎は不便だな」とか「生活が大変そうだな」とは全然思わなかった。おそらくそこで生まれ生活している人にとってはそれが当たり前の生活なのだ。

ちょっと考えてみても、そういう「田舎」で20年間生きてきた若者と、片側3車線や4車線もある道路があちらこちらに走っていて、信号やバカみたいにうるさい車で溢れ変えていて、深夜0時を過ぎても眠らない「都会」で20年間生きてきた若者がまったく同じような考え方を持っていたとしたらそれは驚きである。

おそらく価値観や世界観はかなり異なったものになっているであろう。
しかしながら、TVやインターネットというものは、そういう環境の差をある程度吸収してしまうものだと思う。良いにしろ悪いにしろ。

TVやインターネットはちょっと置いといて、とりあえずそういった異なった価値観や世界観を持っていたとしても同じ「日本人」なのである。そのくくり方には多少の無理があるかもしれない。

そういう「田舎」を過ぎると今度は過剰なまでに住宅地や商業店や工場が密集した地域に出会う。このギャップが凄い。
確かに人が集まるところにすんだほうが効率的だし、便利なことも多い。
でも、そんなに密集しなくてもいいんじゃないか、というような気もしてくる。

さらに進むと今度は伊勢湾にぶつかる。海だ。

京都府の南のほうに住んでいると川を見ることはあっても、普通の生活の中で「海」を見ることは少ない。
「海」を見て覚える感動は、「山」をみて覚える感動とはまたちょっと違ったものだ。

おそらく海を見て育った人と山に囲まれて育った人というのも、何か違ったものを持っているだろう。

別に海が開放的で山が閉鎖的であるというわけではない。

海にしかないもの、山にしかないもの、それぞれが異なっている。ただそれだけだ。

普通に生活しているとなぜだが「都会>田舎」見たいな図式ができているような気がする。
しかし、それはあまりにも馬鹿げたものの見方である。

ある人にとっては、「>」で、別の人にとっては「<」でありうるということだ。

価値観の押し付けが、あちらこちらで行われている気がする。
価値観というと何か違う気がするな、ものさしの押し付けというともう少しぴったりするな。

「あなたは何も考えなくてもいいですよ、これが『良いもの』なんです」というような空気と言い換えてもよい。

いろいろな人間がいて、その人間はいろいろな環境に囲まれて生きてきた。
その人それぞれが異なった価値観を持つというのは、ごく自然なことだ。
という主張は間違っているだろうか?

私の中には「等価交換」という絶対的な法則がある。
あるものを得ればそれに等しい何かを失う。別のものをとれば、また別のものを失う。
そこでは、何を得ようとするのか、そしてそのためには何を失ってもよいのか、という基準が私の中での「価値観」の定義である。
2004/08/09のBlog
現在24時24分。Doblogが重い。
というのは、まったく記事の内容に関係ない報告です。
時間帯的に込む時間なんでしょうかね。

閑話休題。

たとえば価値観という言葉は、「それぞれの人によって違う」というイメージを持つ。

だから仕事の「価値」というのも人それぞれに違う。

短時間で高収入を得ることできる仕事
終身まで雇用してくれて保険制度を完備している仕事
一人でも多くの人の役に立つ仕事
何もしないでよい仕事
ひたすら自分に利益が誘導できる仕事

これらのどれを良い仕事と呼ぶかは個人の自由である。これ以外にも良い仕事の定義、価値のある仕事の定義はいろいろあるだろう。

しかし、私なりに仕事の価値というものを定めるとしたら
「満足感(充足感)を感じることができる」というのが一番上にくるだろう。
その次に
「生活できるだけの金銭を得ることができる」がきて、その後に
「社会的な地位をある程度提供してくれる」というのがくる。

好きなだけ贅沢できる収入というのは、私の中では仕事の価値には入らない。

確かに、多くの収入を得られるということは自分の仕事が周りから評価されているということだ。あるいはうまく立ち回っているということかもしれない。
だからといって私は、多くの収入を得ることができる=良い仕事とはとても思えない。

かといって逆に、多くの収入を得ることができる=悪い仕事とも思えない。

結局のところ、金銭そのものにはたいした価値がないというのが、私の意識の中に強く根付いているのだろう。

遊びについても考えてみよう。
お金をたくさん使ったからってそれがそのまま面白さにはつながらない。
お金をかけなくても楽しく遊べるし、逆にお金をかけても楽しく遊べる。
何をどうこうしても楽しく遊べない人もいる。

結局遊びにおいても、お金の量とその価値とはあまり関係がないということだ。

仕事についても遊びについても共通して言えるのは、「価値」というのは与えられるものではないということだ。
自らが動き、自らが感じるものなのだ。

だが、今メディアの中で様々な価値が「唯一絶対」であるかのように提示されている。
あたかも、それでなければ他は全然意味のないものであるかのような不気味な風潮である。

保険がしっかりしていない会社はダメだ、今はやりの会社はこれだ、飲み会はこうでないと盛り上がれない、お勧めのデートコース・・・。

さぁ、一体どれくらいの価値があるのだろうか。

同じ作業の仕事でも、意欲を持って取り組むのと、ただ与えられたのをこなすのとではまったく違う。その上自分の将来を見据えている人間とそうでない人間とはさらに違う。
おぼろげながらでも10年後20年後の自分を想像している人間、あるいは使用としている人間は自ら価値を作っていく。
彼らが前を見て進んでいったそのあしあとが「価値」になるのだ。

遊びでも、一時ただ騒ぐだけの関係と、長い付き合いを想定した関係ではまったく違う。慎重になったり、議論しあったりしながら何かを交換し合う。その何かが後から振り返ってみたときに「価値」になる。

いろいろ考えてみると仕事と遊びは対立するものでもないし、まったく別のものでもない。ただ自分を「表現」する場所が違うだけのことに過ぎないのかもしれない。

2004/08/07のBlog
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karesansuiさん記事 実戦麻雀クイズその3経由

さて、そろそろジャンル「麻雀」を打ち立てねばならないときがきたかもしれません(笑)

麻雀を知らない方は、イコカのようにスルっとスルーしてください。

局面を見てみよう。東3局、ドラはウーソー。
自らは西家。7順目にしてメンホンチートイの聴牌。
親は字牌・端牌の切り出しから、タンピン系まだ手牌のまとまりはなく、ドラを持っていてもおかしくない感じ。
南家は字牌の切り出しから、5順目にリャンワン切ってリーチ。待ちが良いのか、どらを抱えているのか、やや読みにくい感じ。
北家は、ピンズに偏った感じ。自分の色偏りから考えても、それなりにピンズを持っていてもおかしくない。

さて、この状況で選択肢は
ローソー切って白待ちリーチ(あるいはダマ)
白切ってローソー待ちリーチ(あるいはダマ)
ということでしょうが、ローソー切って白待ちのダマというのは個人的にあんまりない選択肢ですね。この状況でローソーを切るというのは聴牌あるいはイーシャンなのは見え見えですしそこでリーチをかけないということは、リーチ者の現物で待っていることくらいわかる人にはすぐわかるでしょう。ということはローソー切るなら白自分で持ってきますくらいの意気込みでリーチと行きたいところ。色に偏った北家ならば白を一枚くらい抱えていてもおかしくはないし、二枚もたれていても出てこないとは限りません。プレッシャーを与える意味でもリーチと行きたいところ。

逆に白きるならダマです。
ただ、ウーソーツモってきたときの変化が微妙なところ。
つまり、ウーソータンキでうけるか、リャンソー、發のシャボで受けるかという選択。
まぁ、ここまできたら倍満確定でしょ、ということでウーソータンキです。明らか対子場ならツモれます。大丈夫(意味不明な自信)


チューわけで、最善手ではなく、自らの選択肢ならローソー切って追っかけ。あたり牌つかんで爆死というのがお決まりのルートですね(なら、しなけりゃいいのに)
2004/08/06のBlog
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親記事jirosantaさん 脳内チェック

●あなたの頭脳タイプ <Da型>

社長になれる度数99%


あなたは既に何らかの形で、代表か社長またはリーダー的存在で活躍していることでしょう。一風変わった感覚を持った個性派です。自由主義で枠 にはまらず、規制されることを何より嫌います。
しかしその個性は尊重されるべきで、若い時代には多少窮屈かもしれませんが、めげずに独自の道を歩んでください。
基本的には図形的空間的センスに優れているので、芸術や都市計画・環境な どの分野で大きな視野をもち斬新な発想をもって望んでください。

[相性判断]
◇Ba、Bb、Bc型の人とコンビを組むとあなたの発想は現実味をもちます。
◇あなたをもうひと回り大きくしてくれる人はDb、Dc、Cb、Ccの人達です。

●あなたの知能領域(考えたり憶えたりする材料 )
あなたは、ものの形・位置・方角などを材料に
『図形的にとらえ』考えたり憶えたりする能力に優れています。

●あなたの知能活動(どのように頭を働かせるか)
『転換的思考型』
ひらめきが良く、逆転の発想などまったく別の角度からの視点をもって考えられるタイプ。発見・発明タイプ。

ということらしいっす。とりあえず、私をもう一回り大きくしてくれるDb、Dc、Cb、Ccの人、なにか一緒にやりましょう(笑)
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ということで、着メロ。

携帯を変えるまでは、
「刑事コロンボのテーマ」

現在は
「Tank!」

です。あえて曲の説明はしません。
(面白みのないTBですいません)