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Rashita's Style Blog
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2004/08/09のBlog
現在24時24分。Doblogが重い。
というのは、まったく記事の内容に関係ない報告です。
時間帯的に込む時間なんでしょうかね。

閑話休題。

たとえば価値観という言葉は、「それぞれの人によって違う」というイメージを持つ。

だから仕事の「価値」というのも人それぞれに違う。

短時間で高収入を得ることできる仕事
終身まで雇用してくれて保険制度を完備している仕事
一人でも多くの人の役に立つ仕事
何もしないでよい仕事
ひたすら自分に利益が誘導できる仕事

これらのどれを良い仕事と呼ぶかは個人の自由である。これ以外にも良い仕事の定義、価値のある仕事の定義はいろいろあるだろう。

しかし、私なりに仕事の価値というものを定めるとしたら
「満足感(充足感)を感じることができる」というのが一番上にくるだろう。
その次に
「生活できるだけの金銭を得ることができる」がきて、その後に
「社会的な地位をある程度提供してくれる」というのがくる。

好きなだけ贅沢できる収入というのは、私の中では仕事の価値には入らない。

確かに、多くの収入を得られるということは自分の仕事が周りから評価されているということだ。あるいはうまく立ち回っているということかもしれない。
だからといって私は、多くの収入を得ることができる=良い仕事とはとても思えない。

かといって逆に、多くの収入を得ることができる=悪い仕事とも思えない。

結局のところ、金銭そのものにはたいした価値がないというのが、私の意識の中に強く根付いているのだろう。

遊びについても考えてみよう。
お金をたくさん使ったからってそれがそのまま面白さにはつながらない。
お金をかけなくても楽しく遊べるし、逆にお金をかけても楽しく遊べる。
何をどうこうしても楽しく遊べない人もいる。

結局遊びにおいても、お金の量とその価値とはあまり関係がないということだ。

仕事についても遊びについても共通して言えるのは、「価値」というのは与えられるものではないということだ。
自らが動き、自らが感じるものなのだ。

だが、今メディアの中で様々な価値が「唯一絶対」であるかのように提示されている。
あたかも、それでなければ他は全然意味のないものであるかのような不気味な風潮である。

保険がしっかりしていない会社はダメだ、今はやりの会社はこれだ、飲み会はこうでないと盛り上がれない、お勧めのデートコース・・・。

さぁ、一体どれくらいの価値があるのだろうか。

同じ作業の仕事でも、意欲を持って取り組むのと、ただ与えられたのをこなすのとではまったく違う。その上自分の将来を見据えている人間とそうでない人間とはさらに違う。
おぼろげながらでも10年後20年後の自分を想像している人間、あるいは使用としている人間は自ら価値を作っていく。
彼らが前を見て進んでいったそのあしあとが「価値」になるのだ。

遊びでも、一時ただ騒ぐだけの関係と、長い付き合いを想定した関係ではまったく違う。慎重になったり、議論しあったりしながら何かを交換し合う。その何かが後から振り返ってみたときに「価値」になる。

いろいろ考えてみると仕事と遊びは対立するものでもないし、まったく別のものでもない。ただ自分を「表現」する場所が違うだけのことに過ぎないのかもしれない。

2004/08/07のBlog
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karesansuiさん記事 実戦麻雀クイズその3経由

さて、そろそろジャンル「麻雀」を打ち立てねばならないときがきたかもしれません(笑)

麻雀を知らない方は、イコカのようにスルっとスルーしてください。

局面を見てみよう。東3局、ドラはウーソー。
自らは西家。7順目にしてメンホンチートイの聴牌。
親は字牌・端牌の切り出しから、タンピン系まだ手牌のまとまりはなく、ドラを持っていてもおかしくない感じ。
南家は字牌の切り出しから、5順目にリャンワン切ってリーチ。待ちが良いのか、どらを抱えているのか、やや読みにくい感じ。
北家は、ピンズに偏った感じ。自分の色偏りから考えても、それなりにピンズを持っていてもおかしくない。

さて、この状況で選択肢は
ローソー切って白待ちリーチ(あるいはダマ)
白切ってローソー待ちリーチ(あるいはダマ)
ということでしょうが、ローソー切って白待ちのダマというのは個人的にあんまりない選択肢ですね。この状況でローソーを切るというのは聴牌あるいはイーシャンなのは見え見えですしそこでリーチをかけないということは、リーチ者の現物で待っていることくらいわかる人にはすぐわかるでしょう。ということはローソー切るなら白自分で持ってきますくらいの意気込みでリーチと行きたいところ。色に偏った北家ならば白を一枚くらい抱えていてもおかしくはないし、二枚もたれていても出てこないとは限りません。プレッシャーを与える意味でもリーチと行きたいところ。

逆に白きるならダマです。
ただ、ウーソーツモってきたときの変化が微妙なところ。
つまり、ウーソータンキでうけるか、リャンソー、發のシャボで受けるかという選択。
まぁ、ここまできたら倍満確定でしょ、ということでウーソータンキです。明らか対子場ならツモれます。大丈夫(意味不明な自信)


チューわけで、最善手ではなく、自らの選択肢ならローソー切って追っかけ。あたり牌つかんで爆死というのがお決まりのルートですね(なら、しなけりゃいいのに)
2004/08/06のBlog
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親記事jirosantaさん 脳内チェック

●あなたの頭脳タイプ <Da型>

社長になれる度数99%


あなたは既に何らかの形で、代表か社長またはリーダー的存在で活躍していることでしょう。一風変わった感覚を持った個性派です。自由主義で枠 にはまらず、規制されることを何より嫌います。
しかしその個性は尊重されるべきで、若い時代には多少窮屈かもしれませんが、めげずに独自の道を歩んでください。
基本的には図形的空間的センスに優れているので、芸術や都市計画・環境な どの分野で大きな視野をもち斬新な発想をもって望んでください。

[相性判断]
◇Ba、Bb、Bc型の人とコンビを組むとあなたの発想は現実味をもちます。
◇あなたをもうひと回り大きくしてくれる人はDb、Dc、Cb、Ccの人達です。

●あなたの知能領域(考えたり憶えたりする材料 )
あなたは、ものの形・位置・方角などを材料に
『図形的にとらえ』考えたり憶えたりする能力に優れています。

●あなたの知能活動(どのように頭を働かせるか)
『転換的思考型』
ひらめきが良く、逆転の発想などまったく別の角度からの視点をもって考えられるタイプ。発見・発明タイプ。

ということらしいっす。とりあえず、私をもう一回り大きくしてくれるDb、Dc、Cb、Ccの人、なにか一緒にやりましょう(笑)
[関連したBlog]

ということで、着メロ。

携帯を変えるまでは、
「刑事コロンボのテーマ」

現在は
「Tank!」

です。あえて曲の説明はしません。
(面白みのないTBですいません)
[ 15:39 ] [ 哲学・思想 ]
仕事でも器用な人、不器用な人がいる。
突き詰めていけば、個人の能力と適性なので不器用な人はとことん不器用である。

これは、遊びについてもあるんじゃないかな~と思う。

よくみんなで集まって遊んでいると、だいたいいくつかのタイプに分かれる。

まず、場を盛り上げる人。大学生のサークルのノリだと全員がこういう人のこともあるが、大体は1~3人くらいいる。良くしゃべるし、どんどん面白いことを言う。またその人もその場を楽しんでいる。

そして、それにノル人。これが大体一番多い。場を盛り上げる人の作ったウェーブに乗っかって楽しむ人たち。

あと、一歩引いて場をまとめる人。これは幹事的な存在でもある。「終電そろそろじゃないの?」とか、割に盛り上がっていても、冷静に場を見ている人。この人も、それなりにその場の雰囲気を楽しんでいる。

さて、上のどれでもない、積極的に場のノリに消極的(?)になっている人。
飲み会などでは一番端のほうに座る、移動するときはだいたい一番最後のほうを歩く。
話をふられても、あんまり関与しない。自ら積極的に発言することはない。
もちろん、その場を楽しめているとはとてもじゃないがいえない。
すくなくとも、周りのテンションを1~2くらいは確実に下げてくれる。
そういう人が、まぁまぁの確率でいる。

こういう人は、「場を盛り上げる人」から見るとノリが悪いということになる。
私も、もうちょっとがんばれよな~と思うときもある。
しかし、いろいろ考えてみると、それも個人差なので仕方がないという結論にたどり着く。
別にみんなが一様に「楽しむ」必要はない。

多少テンションを下げられたとしても、全体が「楽しく」まとまっていれば、それでいいじゃないかという気もする。

そういう「ノリの悪い人」はたまに、ボソッと良い発言をしたりしてなかなか侮れない存在である。

最近の若い人たちの「一様化」を見ていると、そういう多様さを認めない感じがして、うすら寒い感じがする。大丈夫なのだろうか?
2004/08/04のBlog
日本の「会社員」という人々はいろいろなものに縛られている。
そして、その代わりに何かを得ていた。

たとえば、私が10年くらいある会社に勤めたとしよう。がんばった。
で、自分のキャリアを考えて、もう少し高級が取れる会社からオファーが来たとしよう。
あるいは、自発的にどこかの会社に面接に行ったとしても良い。

そうしたときに、私のなかの天秤に乗るのはもちろん退職金だ。
ある程度働いていた会社を辞めて別の会社に行くというのは、今までの日本の会社のスタイルで言えばかなり損といえる。

長い間働いている人ほど、高い退職金を得ることができる。会社側にとっては当たり前の制度だ。自分のところで育ててきた社員が簡単に別の会社に行かれれば、目に見えなくとも「損害」になりうる。それを抑制するためにも退職金の制度というのは有効であった。

別の会社に移るのではなくて、自分で会社を起こす場合はどうだろう。
退職金に加えて、厚生年金もほとんど無駄になる。

このような社会では、自分で会社を起こす人が増えないのは当然であろう。

が、少なくない人間がそれを使用とする。自分が得られるであろうメリットを捨てて会社を出る人がいる。
その人から見れば、会社を出ることで得られる何かが「退職金」よりも大きかったのだ。

年功序列や退職金の制度の中にいる限り良くも悪くも会社に「守られている」ことになる。
昔はそれが生活の保証として存在できていたのだろう。

大きな会社はつぶれることなく、問題なく仕事をこなしていれば段々と給料が上がってくる、そして退職金を貰って余生を過ごす。という人生の設計図が成り立っていた時代があったのだ。

今私がその設計図を描いたとしても、実現することは難しいであろう。

現在は、大企業であっても、従業員に与えることのできる「保証」というものは絶対でなくなった。そういうことがあちこちのメディアで流されている。それはまさにそうなのだ。
しかし、ではどういう設計図が成り立つのかを示すメディアはない。
自分が人生を送る上で、何が有利なのか何が不利なのかをきちんと見極めなければいけない。
しかし、それができない人々が確かに存在する。
肩書きのみに自分のアイデンティティを確立している人たちだ。

特に何も考えず、自分の学力に見合った「大学」に入り、特に何も考えず、大学を卒業し、特に何も考えず、就職する。会社の中で1年2年と過ごすうちに段々と何も考えなくなり、10年20年たつと自分の地位ができる。その人間は〇〇という会社の中の〇〇という肩書きのみがアイデンティティになってゆく。
と、突然彼は上司から肩をたたかれ、それなりの退職金を貰って会社をやめざる得なくなる。
はじめはどんな給料でもどんな仕事でもいいから会社に置かせて欲しいと上司に頼み込む。が、会社はそれを受け入れるような余裕はない。同じ給料を払うなら力と未来がある若い人間に払ったほうが有益である。
やがてその人間は会社を辞める。会社の仲間や部下達は送迎会をしてくれる。
長い間働いてきてよかったなとそのときは思う。

が、会社を辞めたとたん、まずお中元やお歳暮がこなくなる。いつもは溢れんばっかりに届いていた品物がとたんに途絶える。正月になっても誰も挨拶こない。

それとともに彼は自分が何をしたいのかわからなくなる。どこかで別の仕事につこうと思っても履歴書を書くことができない。自分は何をしてきて、何をする能力があるのか自分で表現することができない。そんなことは今まで必要ではなかったのだ。

段々とその人間は混乱してくる。自分が誰なのかいつも頭の中でクルクル回ってしまう。やがてその人間は人間不信に陥り周りの人間にきつく当たる。そうすることでまた回りの人間から距離を置かれ悪循環に陥る。

不安・恐怖・混乱・人間不信・・・それらを抱え込みすぎてしまったその人間は・・・。

と結末はいくらでも考え付くがあえて書かないことにしよう。あくまで、この話は虚構である。しかしありえない話でもない。

長い間会社に守られてきた人間は、少しずつ「何か」を失ってゆく。
逆に会社の中で自分を発揮してきた人間は「何か」を得てゆく。
そういう人間は会社から出ても、生活していくことができる。

とりあえず、退職金などの制度のためだけに一つの会社にいることが「あたりまえ」という考え方は、ちょっと危ないな~という気がします。
2004/08/02のBlog
[ 16:04 ] [ 哲学・思想 ]
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犯罪というものは、いろいろある。

日本は法治国家なので、犯罪があるのではなく、まず法律があってそれに違反したものが「犯罪」となる。

これは、逆に言えば、法律に規定されていなければ人間的にどんなひどいことをしても犯罪ではないということである。

これは国家権力の暴走を食い止めるためには仕方がないことだ。

しかし、社会の情勢がとてつもない勢いで変化する現在、現実の「犯罪」に法律が追いついていないという状況が生まれている。

私が想像する中で、個人の人間が起こしうる一番最悪な「犯罪」がレイプである。
大量殺人、親が子供を殺す、金品を狙った強盗殺人、放火・・・といろいろ最悪な犯罪がある。
しかし、それらの事件を聞いたときに私に一番最初に沸き起こる感情は「哀しみ」である。なぜ、親が子供を殺さなければいけなかったのか、どれほど切迫した事情が、彼ら彼女らの家庭に迫っていたのか。そういうことを想像せずにはいられない。

全部を人くくりにできるわけではないが、そういった事件では加害者もある意味で被害者という状況も十分ありえる。

しかし、和田被告の事件を聞いたときには、正直怒りしか感じなかった。

彼が長い間、女性にいじめられてその鬱憤が爆発したというような状況なら心理的に認めることはできる、良いか悪いかは別として。
しかし、明らかにそういうことはない。復讐でも、うらみでもない。

たんなる欲望の充足ということでしかない。これは、本当に最悪である。
他人とただ物としてしか見れないような人間の人権は・・・とこれ以上書くのは問題がありそうなのでやめておく。

しかし、私ははっきりいって同じ「人間」のカテゴリーに入れてもらいたくない。

書いているうちに段々欝になってきた、もうやめよう。
[ 15:55 ] [ ささやかな質問 ]
若干プライベートな質問なので、差し支えなければお答えください。
・未婚のみなさまに質問です
「自分が結婚したいと思う年齢は何歳ですか?」
・既婚のみなさまに質問です
「(一番最初に)結婚したのは何歳ですか?」

別に結婚案内状からダイレクトメールが届いたりはしないと思いますので、安心してお答えください(笑)