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Rashita's Style Blog
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2004/11/06のBlog
[関連したBlog]

というわけで、お二人紹介したいと思います。基本的に主役をバンバンやる人よりは、個性のある脇役をびしっとハマリながら演る俳優さんが好きです。

モーガン・フリーマン 代表作(セブン、チェーン・リアクションなど)
渋い。まずこの一言に尽きます。あとなぁ~んか影がありそうな感じ。味方か?敵か
見たいな感じがいいですね。

ゲイリー・オールドマン 代表作(レオン、フィフス・エレメント、エアフォース・ワンなど)
レオンで見て一発で好きになりました。切れてます、完全に頭の線が切れてますというような役柄も、まったく違和感なくこなしてくれます。
最近では「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」にも出演され、ご活躍されているようです。この人の演技はホントに演技なのか?と疑いたくなるものがありますね。
ブチぎれた(あるいはラリった)悪役というキャストなら、まず間違いなくこの人の右に出る人はいないでしょう。

以上です。
そろそろほとぼりがさめてきただろうからちょっと書いて見たい。きっかけは、極東ブログさんところの「香田証生さん殺害シーンを語ることの意味について」(参照)である。

私はネットを徘徊するのは週一回程度なので、あまりディープは話は大体疎い。
要するにネットで香田証生さん殺害シーンの映像が流れている、ということらしい。
そして、この映像を見るべきか、見ないべきかで2chでも問われているらしい。スレッド「殺害動画から目をそむけるバカどもへ 」(参照

このスレッドを見て大きく考えさせられることになった。
まず個人的な感想を述べさせてもらえば、ああいった映像は見るべきでないと思うし、私は見たいとも思わない。
もしも、見たいという人がいてもそれはそれで仕方がない。
しかし、それを一般的に拡大して「映像を見るべきだ」として主張するのは大きく誤っている気がする。

この問題は二つの構造から捉えることができる。それは戦争というものを内包した我々の「現代社会」の現実というものであり、あるいは個人の死というものである。

前者の構造から見てみれば、この映像を見たことで個人にどのような影響があるかを考えてみる。考える一番のスタートはこの映像を流したのは、殺害したテロリスト集団であるということだ。テロリストである以上、その映像は何らかの目的があって流されている、そしてその目的は恐怖を与えることだ。

そういう意味でいえば、この映像を見てテロリストに憤慨を覚えたりすること事態、彼らの思惑に乗っかっていることになる。たとえばそこから戦争反対や政府批判が生まれたとしてもその親元はテロリストということになる。映像から覚える怒りや恐怖は、テロリスト達の望むものになる可能性が高い。

そういった意味合いにおいて、この映像を見ることは社会的に価値を有するとは思えない。しかし、突っ込んで考えたいのは、個人の死ということである。

社会的な構造を取り除いてみると、この映像は一人の人間が他人に殺される、という映像だ。しかも首を切られるという残虐な方法である。そしてもう一つが我々と同じ日本人であるということだ。

ものすごく単純な意見に「人が死ぬシーンを見ることによって、死を見つめることができるのだ」というものがある。しかしこれはあまりに話を単純化しすぎている。
私が香田さんの殺害される場面を見ておぼえる感情と、香田さんの家族が見ておぼえる感情、これは違っている。

同じ日本人であったとしても私にとって香田さんの死というのは、あくまで第三者の死に過ぎない。養老 孟司風に言えば、三人称の死ということになる。
しかし家族にとっては二人称の死だ。

一人の人間が本当に死を見つめる場合に、考えなければいけないのが、二人称の死であるはずだ。死によって何が失われ、何が得られるのか、そういうことを考える上で三人称の死はあまりに遠すぎる。

映像で香田さんが位置する場所に自分の姿、あるいは自分の近くにいる人間を想像できてこそ、個人にとっての死を考える上で初めて意味を持つ。しかし、はっきりと存在する人間をおきかえることは難しいし、また映像のインパクトが強ければそれも難しいのではないだろうか。

本当はそういう意味で機能するのが、文学などの芸術であるはずだ。特定個人の死というものではなく、一般的に置き換えられる死というものこそが、個人個人で対象化、内服され、死を考える想像力を養う。

結局のところ、死を見つめるという意味合いにおいては殺害シーンを見ることはあまり役に立たない。あまりに直接的すぎるし、また別の意味合いで間接的すぎる。

死というものを見つめたければ、自分が大切にしている人が死んでしまった場合を想像してみるといい。うまく想像力が働いているなら、「命の大切さ」なんて事をことさら強く叫ばなくたって、生きていることの価値がわかるのではないか、と私は思う。

*************************************************************
「あなたはたまたま宇宙船にひとりで乗っています。
そのときあなたは超高速で地球に衝突するコースで進む隕石を発見しました。
そのままいけば、間違いなく地球上のどこかの地域は壊滅するとコンピュータは判断しました。しかも、その地域はあなたの生まれた国である確率は限りなく100%に近い数字です。
あなたが乗っている宇宙船は核動力で動いています。コンピュータはこの宇宙船を突撃させれば衝突のコースは変えられると判断しました。しかし、あなたは脱出することはできません。
また、つんでいるミサイルを全て打ち込めば、あなたの母国に直撃するのは避けられそうです。しかしどの国に直撃するのかまではわかりません。
あなたが、この宇宙船に乗っていることは誰にも知られていません。何もしなければ、半年後に地球に戻ることになっています。
コンピュータはそろそろ決断のリミットタイムが迫ってきていることを知らせています。


サテ、アナタハドウシマスカ?
2004/11/05のBlog
[ 19:53 ] [ ネット・ブログ ]
ブログ:ネット上で開く個人日記の始め方(毎日)

毎日新聞のサイトでで面白そうな記事が載っていたのでチェック。
この記事でブログの定義はこうなっている。

「ブログ」をご存じだろうか。インターネット上に開く個人の日記のようなもので、従来のホームページより手続きが簡単で使いやすく愛好者が広がっている

また

ブログはインターネットを意味する「ウェブ」と、記録の「ログ」を組み合わせた造語「ウェブログ」の略。01年9月の同時多発テロを機に米国で広まり、日本でもニフティやライブドアなど大手プロバイダーが、個人向けに無料の開設サービスを始めて急速に普及した。米大リーグ・メッツの松井稼頭央選手や歌手の倉木麻衣さんら著名人の開設も増えてきた。

まあ要するに日本のブログというのは、個人のWEBサイトで公開されていた日記をCGIを使って公開しやすくしたものということになるらしい。現状の認識では、まさにそうだろう。

発端となった米国のBLOGというのは、個人が発信するジャーナリズムであったり、メディア批判であったりする。

そのどちらが優れているのか、という議論は本質的に無意味だ。

同じシステムを使いながらも、こういった発達の違いをみせたのは、日本と米国の文化的な違いが原因であることは間違いない。

そもそも日本には個人がジャーナリズムを発信するという概念はあまり普及していない。しかし、そのような「おもちゃ」が入ってきた場合に、日本人にあった使い方をするというのが、実に日本人的である。

日米のブログ文化の発達の違いを認識した上で、今後これがどのように展開していくのか、というのは非常に興味がわくところである。

はっきりいって私はこのツール自体はすごくパワフルであると思う。こうしてブログで記事をあげていることは、単純にHTMLで文章をアップしているよりははるかにパブリックな感じがする。
簡単に付けられるコメントと、トラックバックによって、ネットでの個人と個人の結びつきというのはさらに変化していくような気がする。

プロバイダーが容量を提供して、個人のWEBサイトが乱立していく中、見る価値のない(内容がない、更新しない)サイトが増えていき、やがてそういう波もおさまった、というのと同じような道をブログというのも辿るのだろうか。

おそらく、そうはならないのではないか。世の中にはたくさんの書き手が溢れかえっている。良質のコンテンツを提供できる人もいるだろう。日常の出来事をたくさんの人の共感を得られるように表現できる人もいるだろう、おもしろいブログが増えていけば、個人WEBサイトのように衰退することもないのではないだろうか。

個人が、すっごく単純に自分の意見を述べられる場所というのはこれからとても大切なものになっていくと思う。

ちなみに、記事の中でブログを作れる主なサイトととして紹介されていたのは
▽ウェブリブログ▽gooブログ▽ココログ(ニフティ)▽はてなダイアリー▽ブログ人(OCN)▽ライブドアブログ▽楽天広場
だけである。ここってけっこうマイナーなのか。
2004/11/04のBlog
[ 17:23 ] [ 文化・国際 ]
まあ、なんと言いますか、大方の予想通りブッシュ大統領が再選されました。

日本の総理大臣にとっては良かっただろうし、我々日本人的にもよかった、のであろうか。

とにかくアメリカという国はブッシュを信任したというわけだ。
ケリーでは役不足ということであったのであろう。
少なくとも圧倒的な差がついたわけではないところが、私的には良かったように思う。
少なくともアメリカの中にもいくつかの価値観があるということだ。
あとは選挙のやり方で勝敗は分かれてくるだろう。

このまま民主党が次回以降勢いづいていく流れが生まれたのか、それともここを最後に盛り下がっていくのかはわからない。

まあ、自分の国の大統領でもないので、そんなに感慨はない。喜ぶ人もいたし、悲しむ人もいた、それだけだ。

ブッシュが大統領を再び務めるということは、イラクに関して、また彼がいろいろと対処していかなければいけないということだ。やるだけやって逃げるようなことにならなかったということだけは、まあ評価できるんじゃないかな、となんとなく思う。
2004/11/02のBlog
現在も、おそらくは日常生活とはかけ離れたインフラの中で生活することを余儀なくされている人々がたくさんおられるのでしょう。いくつかの新聞等の報道で気になったことを取り上げてみたいと思う。

新潟中越地震:義援金が20億円を突破 県災害対策本部(毎日)
メッツ、松井選手 100万円を寄付(毎日)

すくなくとも、人の善意を信じさせてくれる出来事だ。記事によると

 新潟県災害対策本部によると、1日までに同本部に寄せられた義援金が20億円を突破し、20億4181万円になった。10月25日から受け付けを始め、金融機関を通じた振り込みと現金の持ち込みを合わせ、12万2622件が寄せられた。義援金は被害の状況に応じて、被災者に渡される

ということだ。この20億というお金は、政府がいろいろな書類や手続きを要求して出すお金とはまったく意味合いが違う。もちろん義援金にしろ、税金にしろ、国民の懐という意味では出所は同じなのだが、やっぱり受ける印象はだいぶ違う。

私だって、募金したいと思ったし、実際に家計に問題が発生しない程度は募金させていただいた。そのお金がどのように活用されるかは不明だが、本当にかすかでも何かの役に立てればそれで十分だ。が、それだけで満足するわけにはいかない。

書いたとおりに、そのお金がどのように活用されるかは私には見えてこない。
新聞の記事をそのまま信用すると、義援金は被害の状況に応じて、被災者に渡されるということらしい。いったいどのくらいの人々がお金を求めていて、それがどのくらいの規模に上るのか、その辺が不透明だ。また、政府が提供するであろう支援とどのように関連していくのかもイマイチよくわからない。

気になったので、いろいろ調べてみた。
新潟県の出納局のサイトが一番適切であろう(参照
サイトの中で、義援金の使い方として以下のようにある。

義援金は、県、日本赤十字社新潟県支部、新潟県共同募金会、新潟県社会福祉協議会、新潟日報社、NHK新潟放送局、地元民間放送事業者、その他義援金受付団体等で構成される義援金配分委員会により公平に配分が決定されます。
 災害に対する義援金は、被災された方々に届けられ、行政の行う復興事業等のために用いられることは、原則としてありません。


ということは、被災者の方々に直接現金が行くことになるのだろう。公平に、という部分がいったいどのような意味を指しているのかここからでははっきりとはわからない。
毎日の記事によると、被害の状況に応じてその金額が決まるのだろう。ではその被害の状況というのはいったい何で判断されるのだろうか。

家の崩壊度であろうか、それとも人的被害であろうか。
家が完全に崩壊してしまった人と、家族の大半をなくしてしまった人は、どちらのほうが「被害の状況」がより大きいのだろうか。
こういうことは、無用な突っ込みなのかもしれない。そんなことは考えず、とりあえずお金を送っていればいいんだ、というような考え方もあるかもしれない。
しかし、自分たちが送ったお金が、ただ杓子定規に使われたり、本当に送るべきところに送られなかったりすることは大変悲しいことだ。

おそらく対策本部の方々も私が想像し得ないくらい忙しい状況であろう。しかし直接私たちが手を差し伸べられない人々に、なんとかうまくお金を回して欲しいと思う。

タイトルに雑感とかいて、結構長くなってしまったが、まだ続きます。

先ほどの新潟県の出納局のサイトには新潟県中越地震災害義援物資の受付についてというページもあった(参照)。

 この度の地震により被災された皆様に、全国から多くの義援物資の申し出をいただき厚くお礼申し上げます。
 おかげをもちまして、現在、緊急に必要と思われる物資につきましてはほぼ確保され、速やかに被災された皆様にお届けしているところであります。
 今後、ライフラインの復旧や避難生活の長期化及び厳しい冬の到来などにより、被災された皆様にとりまして必要な物資は変わってきており、その的確な把握に努めていきますので引き続きご支援をお願いいたします。


ということらしく、その後に被災者の皆様に今後必要と思われる物資としてリストがあげられている。日用品や、乳幼児・介護用品・保存食・衣類や寝具などである。
どうして、新聞はこういうリストを大きく載せないのだろうか。もちろんこのサイトに行けば見れるわけだが、日常に生活している人が、いちいち新潟県のサイトまでのぞきにくるだろうか。そこまでする人はよっぽど熱心な人か、私みたいにちょっと変わった人間だけでろう。

日常生活において、新聞というのは目にすることが多い。雑誌などよりもはるかに速度が速いし、一般的な情報の信頼度も高い。メディアの仕事というのは情報を伝えることだ。現地で必要とされていること、必要とされていないこと、そういう情報を我々に伝えることがメディアのあり方としては一番適正ではないだろうか。

しかし、悲しいながら、多くの報道を見ると、「被災者の方々はつらい生活をおくっておられます」という報道が多く目に付く。それは確かだろう。関西に住んでいる私でもそんなことは十分に想像できる。おそらくこのような報道があるからこそ、義援金が集まるのかもしれない。ほんとうにそうだろうか。こんな風に過剰に(けっして過言ではないはずだ)被害を報道しなければ、人々は被災者に何の感情も持たないのか。決してそんなことはないはずだ。少なくとも私はそう信じたいと思う。

メディアは被害を伝えるとともに、そこで今何が必要なのか、我々は何を提供できるのか、それをするにはどうすればよいのか、そういう情報こそ積極的に発信されるべきではないだろうか。
そういう意味合いでは、マスメディアはあまり機能していないかもしれない。それを補完するように、マスでないメディアが動いていくべきなのだろう。

さて、実はまだ続く。エントリーを変えたほうが良いかもしれないが、地震関連なので、ひたすら長く書くことにする。

新聞記事のタイトルはこうだ
感謝の映像は? 被災地視察報道に自民が不満
なんと言うべきか。
バカ?
そう、それが適切であろう。

2日午前の自民党総務会で、新潟県中越地震など一連の災害で政府要人や自民党幹部が視察した際のテレビ報道について「被災者が支援に感謝する映像は流されず、住民の不満の声ばかりが報道されている」との批判が相次いだ。武部勤幹事長も「『物資をありがとう』とお礼を言われているところが全然放映されていない」との不満を示した。

いやもう、ただのバカとしか思えない発言である。何からどうツッコミを入れるか迷うほどだ。たしかにマスコミの報道は偏ったものだったであろう。そんなことはこのブログでなくてもさまざま指摘がある。それはそれとしておいて、なぜ武部幹事長が感謝されているシーンが流されなければいけないのか。なんだ、物資の支援はお前のイメージアップのためのものなのか。

政治家であるならば、被災者のお礼の言葉だけで、不眠不休の労働の対価になりうるだろう。だいたいその物資はだれの懐からでているのだろうか。お前のポケットマネーで全てまかなったのか?それとも税金なのか?その辺はわからないが、まあおそらく税金であろう。
それで、彼は感謝の言葉を述べられている、自分の映像が流されないのを不満がっているのだ。いったいこれをバカという言葉以外にどう表現すればいいのかわからない。
政治家、そして与党にいる人間ならなおさら現地に視察に行くのは当然の行為だ。
それが国政に携わる政治家の仕事であろう。
なんだが、書いているうちにばかばかしくなってきたのでやめる。

最後に、義援金詐欺が行われているようなので、みなさんご注意ください。

地震の義援金募集で詐欺? 千葉で不審チラシ配られる (朝日)
2004/11/01のBlog
どうも、いらっしゃいませ。ブログに関係ないコメントなどはこちらにどうぞ。

ほぼ定期的企画 「一ヶ月に何冊読書できるかね?」
・9月の読書結果 計8冊
・10月の読書結果 計8冊
☆11月の目標数 →10冊
 ************** 11月中に読んだ本 ********************
11/04 「ほぼ日刊イトイの本」 糸井重里
11/07 「バッカーノ! 1931 鈍行編」 成田良悟
11/09 「仏教入門」 三枝 充悳
11/11 「ストック経済を考える」 野口悠紀雄
11/13 「若い読者のための短編小説案内」 村上春樹
11/18 「武器よさらば」 アーネスト・ヘミグンウェイ
11/19 「愛国殺人」 アガサ・クリスティー
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地域リンク 「関西、関西、関西」 募集中
  関西人の方はぜひ!
関西人への質問」 はじめました。
 同時におもしろ企画も募集中!

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2004/10/31のBlog
finalventさんの極東ブログで「あなたは偽善者ですか?」という記事があった。はてなのアンケートで関連したものがあったようだ。(参照

こういった議論で混乱するのは言葉の定義が非常に曖昧だからだ。
まず、第一義的に「善」という概念が明確に言葉にするのは難しい。となると偽善というのはさらにややこしくなってくる。

たまに友人からお前のやっていることは偽善だよ、と罵り気味に言われることがある。
が、それを聞いても私は特になんとも思わない。というか善を偽ることがすなわち悪になるのだろうか、ということがまず疑問として出てくる。

とりあえず、「善」という言葉の定義は置いておいて、偽善という言葉が、「善」を偽って悪なる行為をすることを言うのか、自らの気持ちを偽って「善」なる行動をすることを言うのか、というのが非常にわかりにくい。なんか両者が混同されているような気がする。

というわけで、goo辞書で調べてみると
 「本心からではない、うわべだけの善行。」
となっている。じゃあ、やっている行為は「善」なわけで、それだったら別にいいじゃないかな、なんて思ってしまう。

基本的に自分の心がそれをやるべきだと思うから、行為というのは行われるわけであって、それが「善」だからやるということではないと思う。つまり「善行」をすることが目的ではないということだ。行為をした結果それが、善であったということに過ぎない。

はじめから、私は「善人」だから「善行」をしなければならない、ということだとしたら、偽善だろう。しかし、偽善でっても善なる行為であることには変わらない。別に犯罪でもない。基本的に自分の心を偽っているかどうかなんて他人にはわからない。おそらく自分自身でもわかりかねないところだろう。

だから、他人に偽善者といわれても、あぁそうですかという気持ちしか湧かない。自分が偽善者であるという他人の評価はほとんど意味がない。自分が自分の行動に満足し、他人に何らかの良いものを与えられればそれで十分だ。それ以上でもそれ以下でもない。

なんとなく、偽善者という言葉が、世間で悪いイメージで語られているので、ちょっと書いてみたが、少なくとも善行を行うだけ、ぜんぜんいいんじゃないかなと思う。
とりあえず、亡くなられた香田証生さんに深く追悼の意を表しておく。

今回のイラク人質事件に関してはいろいろ思うことがあった。

まず、政府関係の人たちは台風や地震の被害と重なっていろいろお忙しかっただろう。
でも、それが仕事である。まあ仕方ない。

ただ、今回はあまりこの問題を扱っていなかったように感じる。ほとんどが地震の被害に関するものばかりだ。たしかに情報は強く求められているだろうし、それを伝えるのがメディアの役割であるとしても、あまりに報道が偏りすぎていたような気がする。
私見だけで言わせてもらえれば、読者が読みやすい「物語」的なものを流していただけな様な気がする。それが商売のやり方だと言われれば、それまでなのだが。

とりあえず、地震のほうが一段落して、香田さんの死亡が確認されれば、さすがにメディアも無視することはできない。

バグダッドの男性遺体、香田証生さんと確認 指紋が一致

軍や政府に関係のない人間を人質にして、かつそれを殺害するというのは非常に卑劣である。が、テロリストにモラルを要求するのは、カニに前に進むように要求するようなものだ。

なくなった香田さんと私は同世代の人間である。彼がどのような気持ちでイラクへと旅立ったのか私には理解できない。イラクの情勢を直接眼で見ることがどうしても必要だったのかもしれない。あるいはただの思いつきだったのかもしれない。
彼の心情を私はうまく想像することができない。非難されることを覚悟して言えば、彼の行動は愚かだったと思う。しかし、愚かな行動をとったからといって、それが殺されてもよいということには決してならない。

混迷して行くイラク情勢のなか、日本がどのように世界の平和とかかわっていくのか、あるいは関わりうることができるのか、そのことについて考えさせられた。