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2005/01/26のBlog
[ 10:59 ]
[ 政治・社会 ]
先日の国会の代表者質問を見ていて本当にうんざりした。
あの、民主と社民がぞろぞろと退場していったあの日のことだ。
「首相の態度は許し難い」と民主・岡田代表
こちらとしても、現行の国会がまともに機能しているとは考えていないが、首相のとぼけた答弁、それに対する審議拒否と、ますます、どうでもよい雰囲気がかもし出されている。
もともと、用意された質問と答えを読み上げるだけなので、緊迫感など本来ひとかけらも無いはずであるがそれにしても酷い有様だ。
小泉首相の任期の間、もう選挙はないので(解散すればありうるが)小泉総理としても、かなり安心して独断的な政治を行えることは間違いない。
しかし、問題はその独断的な政治というものすら、まともに行えない人物が総理のいすに座っているということだ。
先の記事へのリンクの中で、
民主党は同日午前の役員会で「見過ごせば議会の形がい化につながる」として、今後の国会論戦でも徹底的に追及していく方針を確認した。
とあるが、国民からすれば、議会などとっくに形骸化している。ほとんどが官僚主体の立法で、国内の事情にちっとも明るくない大臣がうようよいるのだ。これに一体何を期待せよというのか。
このまま進んでいけば、一番の懸案である改憲というものも、ぐずぐずとしょうもない終わり方をするかもしれない。まあ防波堤として国民投票というものもあるが、それがどのような形になるかによってその効果もはっきりとしない。
その辺りの詳しい話はまた別の機会に譲るとする。
結局、次の選挙までは、このような状態が続くであろう。
政府と与党がまとまらなくなって、民主との内閣不信任案が決議されるときがくれば、
まだもう少しましなのだが・・・。
そういえば、民主党のとある議員が、総理に「郵政民営化が成功しなかったらどうするか、次の3つのうちから答えてくれ」というなかなか人を馬鹿にした質問をしていた。
当然、総理はどれも選ばないといういつもの手段できた。しかし、これははっきりと総理が質問に答えていないということを国民にアピールしていてなかなか面白い試みである。
あの、民主と社民がぞろぞろと退場していったあの日のことだ。
「首相の態度は許し難い」と民主・岡田代表
こちらとしても、現行の国会がまともに機能しているとは考えていないが、首相のとぼけた答弁、それに対する審議拒否と、ますます、どうでもよい雰囲気がかもし出されている。
もともと、用意された質問と答えを読み上げるだけなので、緊迫感など本来ひとかけらも無いはずであるがそれにしても酷い有様だ。
小泉首相の任期の間、もう選挙はないので(解散すればありうるが)小泉総理としても、かなり安心して独断的な政治を行えることは間違いない。
しかし、問題はその独断的な政治というものすら、まともに行えない人物が総理のいすに座っているということだ。
先の記事へのリンクの中で、
民主党は同日午前の役員会で「見過ごせば議会の形がい化につながる」として、今後の国会論戦でも徹底的に追及していく方針を確認した。
とあるが、国民からすれば、議会などとっくに形骸化している。ほとんどが官僚主体の立法で、国内の事情にちっとも明るくない大臣がうようよいるのだ。これに一体何を期待せよというのか。
このまま進んでいけば、一番の懸案である改憲というものも、ぐずぐずとしょうもない終わり方をするかもしれない。まあ防波堤として国民投票というものもあるが、それがどのような形になるかによってその効果もはっきりとしない。
その辺りの詳しい話はまた別の機会に譲るとする。
結局、次の選挙までは、このような状態が続くであろう。
政府と与党がまとまらなくなって、民主との内閣不信任案が決議されるときがくれば、
まだもう少しましなのだが・・・。
そういえば、民主党のとある議員が、総理に「郵政民営化が成功しなかったらどうするか、次の3つのうちから答えてくれ」というなかなか人を馬鹿にした質問をしていた。
当然、総理はどれも選ばないといういつもの手段できた。しかし、これははっきりと総理が質問に答えていないということを国民にアピールしていてなかなか面白い試みである。
2005/01/25のBlog
[ 07:55 ]
[ ネット・ブログ ]
なんだか、NHKの朝のニュースで「ブログ」が特集されていた。
広がる「ブログ」活用みたいなタイトルだったように思う。
急速に利用者の広がるブログとその有効な利用法みたいな感じである。
そこで一番最初に出てきたのが、このブログだ。
サイエンスゼロのつながりからだろうか。
一日8万件を超えるアクセスらしい。かなりすごい。1月12日の記事には1200を越えるトラックバックがついていた。これもすごい。
まあそれはともかく、ブログのメリットとは何だろう。
まずは、使いやすいということだろう。記事を投稿する人も、それを読む人も使い勝手も良い。
HTMLやCSSを人も簡単にできるし、知識を有する人は、よりオリジナリティを出しやすい。
コメントとトラックバックの機能によって、ブログを有する人の間での有機的なつながりというものが生まれやすい。
しかし、それに伴ってデメリットも生まれてくる。
人間同士のことなので、感情的行き違いや、軋轢が生じやすい。
ブログを有する人と有しない人の議論ならば、管理人である人間が一方的にコメントを削除できるので、対等な議論になりにくいという可能性もある。
しかしながら、全体を通してみれば、ブログというのは割とメリットが多い技術であるような気がする。あまりにも簡単なので、3日でやめてしまうようなブログもどこどこ生まれてくるが、それも機会の平等が与えられているのだからしかたない。
今まで、個人差なんて面倒でできないとか、知識がないとか言うWEBというものから距離を置いていた人々が、とりあえず試しに参加してくる流れはまだ続いていくだろうと思う。そこからものすごいブログが生まれる可能性もある。
単純に、誰かの意見や考え方、日記的な使い方だけでなく、はじめから議論を目的としたブログや、あるいは特定の情報を共有する目的のブログというものいろいろ可能性が考えられるだろう。
そういうのを考えていくのはなかなか楽しいことだ。
まったく話とは関係ないが、「ブログ」という言葉のアクセントは
ブ・ロ・グと均一に読むのか
ブ・ロ・グとブにアクセント置くのか
ブ・ロ・グとロにアクセント置くのか・・・。
どうも、NHKを見ているとたまに気持ち悪いアクセントの使い方をしている人が気になる。
広がる「ブログ」活用みたいなタイトルだったように思う。
急速に利用者の広がるブログとその有効な利用法みたいな感じである。
そこで一番最初に出てきたのが、このブログだ。
サイエンスゼロのつながりからだろうか。
一日8万件を超えるアクセスらしい。かなりすごい。1月12日の記事には1200を越えるトラックバックがついていた。これもすごい。
まあそれはともかく、ブログのメリットとは何だろう。
まずは、使いやすいということだろう。記事を投稿する人も、それを読む人も使い勝手も良い。
HTMLやCSSを人も簡単にできるし、知識を有する人は、よりオリジナリティを出しやすい。
コメントとトラックバックの機能によって、ブログを有する人の間での有機的なつながりというものが生まれやすい。
しかし、それに伴ってデメリットも生まれてくる。
人間同士のことなので、感情的行き違いや、軋轢が生じやすい。
ブログを有する人と有しない人の議論ならば、管理人である人間が一方的にコメントを削除できるので、対等な議論になりにくいという可能性もある。
しかしながら、全体を通してみれば、ブログというのは割とメリットが多い技術であるような気がする。あまりにも簡単なので、3日でやめてしまうようなブログもどこどこ生まれてくるが、それも機会の平等が与えられているのだからしかたない。
今まで、個人差なんて面倒でできないとか、知識がないとか言うWEBというものから距離を置いていた人々が、とりあえず試しに参加してくる流れはまだ続いていくだろうと思う。そこからものすごいブログが生まれる可能性もある。
単純に、誰かの意見や考え方、日記的な使い方だけでなく、はじめから議論を目的としたブログや、あるいは特定の情報を共有する目的のブログというものいろいろ可能性が考えられるだろう。
そういうのを考えていくのはなかなか楽しいことだ。
まったく話とは関係ないが、「ブログ」という言葉のアクセントは
ブ・ロ・グと均一に読むのか
ブ・ロ・グとブにアクセント置くのか
ブ・ロ・グとロにアクセント置くのか・・・。
どうも、NHKを見ているとたまに気持ち悪いアクセントの使い方をしている人が気になる。
2005/01/23のBlog
[ 13:10 ]
[ 雑記 ]
情報とか、経験というものがある。
人間はそれらを得て、変化していく。
だから、人間はそういうものをしまっておく「引き出し」というものがある。
ただ、人によってその引き出しの使い方や性質は違う。
貪欲に手当たり次第に目に付くものをバンバン入れていく人もいれば、
情報を慎重に吟味して、気に入ったものだけを入れる人もいる。
広い引き出しを、整理整頓しながら使う人もいれば、
恐ろしく狭い引き出しを混沌とともに使いこなす人もいる。
自分が持っていないものを入れることをいとわない人もいれば、
頑なに自分の持っているものの関連したものしか入れない人もいる。
人間が持っている性質というものに加えて、こういう引き出しの使い方が成長というものに大きくかかわってくる。
本来、引き出しはどのようにも使えるし、どのようにも形を変えられるようなもののはずである。
だが、何かに凝り固まった人は、先に自分の引き出しの大きさを考えて、「あ、これは入らないな」と情報を捨ててしまうこともある。非常にもったいないことだ。
自分の引き出しに入らない情報ならば、引き出しのサイズを変えればよい。
それが、その人間の変化につながっていく。
変化を嫌がる人間は多いが、柔軟さを失ってしまえばただ老いて行くだけである。
それはあまりにも寂しいことなのではないかと思う。
人間はそれらを得て、変化していく。
だから、人間はそういうものをしまっておく「引き出し」というものがある。
ただ、人によってその引き出しの使い方や性質は違う。
貪欲に手当たり次第に目に付くものをバンバン入れていく人もいれば、
情報を慎重に吟味して、気に入ったものだけを入れる人もいる。
広い引き出しを、整理整頓しながら使う人もいれば、
恐ろしく狭い引き出しを混沌とともに使いこなす人もいる。
自分が持っていないものを入れることをいとわない人もいれば、
頑なに自分の持っているものの関連したものしか入れない人もいる。
人間が持っている性質というものに加えて、こういう引き出しの使い方が成長というものに大きくかかわってくる。
本来、引き出しはどのようにも使えるし、どのようにも形を変えられるようなもののはずである。
だが、何かに凝り固まった人は、先に自分の引き出しの大きさを考えて、「あ、これは入らないな」と情報を捨ててしまうこともある。非常にもったいないことだ。
自分の引き出しに入らない情報ならば、引き出しのサイズを変えればよい。
それが、その人間の変化につながっていく。
変化を嫌がる人間は多いが、柔軟さを失ってしまえばただ老いて行くだけである。
それはあまりにも寂しいことなのではないかと思う。
2005/01/21のBlog
[ 10:24 ]
[ 政治・社会 ]
防衛軍創設を明記 中曽根元首相が憲法改正試案
大体の新聞サイトでは記事として扱われているが、産経が詳しいのでリンクを張っておく。
書き出しはこうだ。
中曽根康弘元首相は20日、自衛のための「防衛軍」創設と国会承認があれば海外での武力行使を可能とした憲法改正試案を発表した。現行憲法を全面的に書き直した内容で全116条。前文で「独自の文化と固有の民族生活」を形成してきた日本-という国家像を打ち出し、天皇を「象徴的元首」と規定。家庭を社会の基本的な単位と位置付ける「家庭条項」や国防の責務なども盛り込んだ。
もちろん現行の憲法は、世界情勢にもマッチしないし、日本国内の情勢にすら対応できていない部分がある。よって改憲という流れは当然のものである。
ただ、細かい部分をどう変えるかということよりも、大きなビジョンを示せるかどうか、というのがこの改憲の一番のポイントになってくるのではないだろうか。
つまり現行の憲法で矛盾や問題があるところを直すという目的だけでなく、日本という国は今後こういう方向に向かっていきますよということをきちんと国民に示せなければたいした成果は無いような気がする。
仮に自衛隊が、自衛軍にとして、日本はどの程度集団的自衛権を行使するのか、あるいはしないのかが、この場合重要である。
それは、国連的な力を求めていくのか、それとも日米同盟を主軸にいくのか、ということとも深くかかわりあってくると思う。
戦後、我々は憲法によってひとつの枷をつけられていた。その枷は我々の行動の自由を奪ってきたが、その半面で我々が危険な場所に向かうことも制限してきたとも言える。
我々が、他国から平和をむさぼっていた国とののしられることは仕方が無い。それはひとつの事実である。
我々は戦争の惨禍を広めることも無く、またそれを鎮めることもしてこなかった。
それが良かったのか、悪かったのか、そういうところが問題ではない。
そのことをひとつの事実として、じゃあ我々が今後何をしていくのか、ということが本質的な問題である。
また、この改憲が実現されれば即ち、わが国で初めて国民投票というものが実施されたということだ。そしてそれ以降も、国民投票というものが起こりえる可能性がでてくる。
それは、国民が今までよりも国の情勢について知識・関心を持たなければいけないことを意味する。
結局のところ、地方分権と、国民投票というものがもっと実現されれば、より「民主」的な国の整備が出来上がるということだ。その中で我々は一人の個人であるとともに「国民」でなくてはいけない。
果たしてどの党が、改憲を実現させるのか。それが楽しみである。
大体の新聞サイトでは記事として扱われているが、産経が詳しいのでリンクを張っておく。
書き出しはこうだ。
中曽根康弘元首相は20日、自衛のための「防衛軍」創設と国会承認があれば海外での武力行使を可能とした憲法改正試案を発表した。現行憲法を全面的に書き直した内容で全116条。前文で「独自の文化と固有の民族生活」を形成してきた日本-という国家像を打ち出し、天皇を「象徴的元首」と規定。家庭を社会の基本的な単位と位置付ける「家庭条項」や国防の責務なども盛り込んだ。
もちろん現行の憲法は、世界情勢にもマッチしないし、日本国内の情勢にすら対応できていない部分がある。よって改憲という流れは当然のものである。
ただ、細かい部分をどう変えるかということよりも、大きなビジョンを示せるかどうか、というのがこの改憲の一番のポイントになってくるのではないだろうか。
つまり現行の憲法で矛盾や問題があるところを直すという目的だけでなく、日本という国は今後こういう方向に向かっていきますよということをきちんと国民に示せなければたいした成果は無いような気がする。
仮に自衛隊が、自衛軍にとして、日本はどの程度集団的自衛権を行使するのか、あるいはしないのかが、この場合重要である。
それは、国連的な力を求めていくのか、それとも日米同盟を主軸にいくのか、ということとも深くかかわりあってくると思う。
戦後、我々は憲法によってひとつの枷をつけられていた。その枷は我々の行動の自由を奪ってきたが、その半面で我々が危険な場所に向かうことも制限してきたとも言える。
我々が、他国から平和をむさぼっていた国とののしられることは仕方が無い。それはひとつの事実である。
我々は戦争の惨禍を広めることも無く、またそれを鎮めることもしてこなかった。
それが良かったのか、悪かったのか、そういうところが問題ではない。
そのことをひとつの事実として、じゃあ我々が今後何をしていくのか、ということが本質的な問題である。
また、この改憲が実現されれば即ち、わが国で初めて国民投票というものが実施されたということだ。そしてそれ以降も、国民投票というものが起こりえる可能性がでてくる。
それは、国民が今までよりも国の情勢について知識・関心を持たなければいけないことを意味する。
結局のところ、地方分権と、国民投票というものがもっと実現されれば、より「民主」的な国の整備が出来上がるということだ。その中で我々は一人の個人であるとともに「国民」でなくてはいけない。
果たしてどの党が、改憲を実現させるのか。それが楽しみである。
2005/01/19のBlog
[ 16:37 ]
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[関連したBlog]
これなかなか微妙な感じなんですよね。友達と好きなコの差っていうのは。
やっぱり、自分的にはある種の雰囲気といいますか、空気といいますがそういうのが違うんですけども、それを明確に言葉にするのは難しいです。
ただ、友達にしても好きなコにしても、ある種の何かは共通していて、何かが違う。
ただ、たとえるならば、シーソーみたいなものかもしれません。
友達にしろ、好きなコにしろ自分と同じシーソーには乗ってるんです。
ただ、友達の場合は、上がり下がりしながらもバランスが取れてるんですが、好きなコの場合はどうやってもこっちがあがっちゃってどんどん下に引きずられていく、そんな感じ。
いやはやなかなか難しいな。
これなかなか微妙な感じなんですよね。友達と好きなコの差っていうのは。
やっぱり、自分的にはある種の雰囲気といいますか、空気といいますがそういうのが違うんですけども、それを明確に言葉にするのは難しいです。
ただ、友達にしても好きなコにしても、ある種の何かは共通していて、何かが違う。
ただ、たとえるならば、シーソーみたいなものかもしれません。
友達にしろ、好きなコにしろ自分と同じシーソーには乗ってるんです。
ただ、友達の場合は、上がり下がりしながらもバランスが取れてるんですが、好きなコの場合はどうやってもこっちがあがっちゃってどんどん下に引きずられていく、そんな感じ。
いやはやなかなか難しいな。
2005/01/18のBlog
[ 08:28 ]
[ 哲学・思想 ]
改めて考えるまでも無いかもしれないが、「働く」ことに対する価値観というのは人それぞれ違っている。
ある人は言う、「仕事は仕事、趣味は趣味、仕事は面白くなくても私生活が充実してればいいんだよ」
また、ある人は言う「とりあえず、安定した収入。それ以外は二の次」
そしてある人は言う「仕事が満足してできれば、たとえ安定しなくてもいい」
そのそれぞれがまっとうな意見だ。どれかが正しくて、他が間違っているという類のものではない。
熱く夢を語る青年がいたとする。彼の夢に声援を送ることもできる。「現実」という名のそこら辺に転がっている事例を示すこともできる。
その、どちらでもかまわない。何だっていい。ただその言葉に説得力があるかどうか、それが問題だ。
やっぱり生きていくうえで「仕事」のことについて考えるのを避けるわけにはいかない。
たとえ宝くじに当選しようとも、働くべきか、働かないで暮らすかを考えなければいけない。そこには自分の価値観というものがでてくる。
私は勤労主義者でもなんでもないが、やっぱりどのような経済状況であろうと働くという選択肢ははずさないだろうし、働く以上、楽しんで働きたいと思っている。
自分の人生において違う選択をした場合については想像をめぐらすしかないが、違う環境で働いていたらさぞかし苦痛だったのではないかな、と思う。案外適応していたのかもしれないが、そうでない可能性のほうが高い。
結局のところ自分の性質に合わせた仕事につくのが一番ということだ。
ということは、働くのが嫌な人間は働かないのが一番、ということになる。
それでいいのだろうか?それでいいのだろう、きっと。
社会が力があれば、その人間を支えていけるし、そうでなければ嫌でも働かなければいけない、それだけだ。
不思議なのだが、大学に入って4年という長い期間があるにもかかわらず、自分の将来の仕事について真剣に考えない輩がいる。考えていないから準備ができていない。
準備ができていないから、まともに仕事が選べない。
なんだか、不毛である。
当たり前だが、40代になってから自分は何に向いているのか考えても、けっこう手遅れである。取り戻せる人もいるかもしれないが、それは稀な例である。
じゃあ、いつ考えるのか?
10代は、自分について何も知らなさ過ぎる。それがゆえに大きな夢も描ける。
30代は、すでに稼いでいないとつらい。
となると、やはり20代ということになる。
20代のころ、うんうんうなりながらひとつ道を見つけるのもいいし、行き当たりばったりと失敗を繰り返しながら、自らにフィットする仕事を見つけるのもいい。
当然、自分にあった仕事を考える上で、「自分」というものをどうしても一度スルーしていかないといけない。それはかなりつらい作業であることも多い。そういう経験をつんでいない人も多い。そうしなくても何とはなしに生きていけるのが日本という国の文化であった。
しかし、現在はそういうものが少しずつ失われていこうとしている。ほったらかしにしておいても、誰も自分の道を示してくれないし、道に迷って立ちすくんでいても、同情はしてくれても手を差し伸べてくれる人は少ない。
大人の大部分はあまり頼りにならない。いわば「あっち」側の人間だからだ。
こっち側の我々の立ち位置をうまく理解してくれない。彼らのルールに沿ったアドバイスはくれるかもしれないが、そんなものはローマ字入力のL程度の役にしか立たない。
日本に渦巻く閉塞感というのは、結局こういう曖昧な対立によって作られているのかもしれない。それは本来なら対立であるはずのものが、さまざまな手をかけて対立とは別の姿に変えられているのだ。
少なくとも、ひとついえることは、「働く」意思となんらかの技術を持っていれば、食っていくのはだいぶ楽になる、ということだけだ。
-----------------------------------------------------
この記事は、以下の「朝日」のイベント情報に触発されて書きました。
「働く」を考える――村上龍氏と大学生の集い、参加者募集
ある人は言う、「仕事は仕事、趣味は趣味、仕事は面白くなくても私生活が充実してればいいんだよ」
また、ある人は言う「とりあえず、安定した収入。それ以外は二の次」
そしてある人は言う「仕事が満足してできれば、たとえ安定しなくてもいい」
そのそれぞれがまっとうな意見だ。どれかが正しくて、他が間違っているという類のものではない。
熱く夢を語る青年がいたとする。彼の夢に声援を送ることもできる。「現実」という名のそこら辺に転がっている事例を示すこともできる。
その、どちらでもかまわない。何だっていい。ただその言葉に説得力があるかどうか、それが問題だ。
やっぱり生きていくうえで「仕事」のことについて考えるのを避けるわけにはいかない。
たとえ宝くじに当選しようとも、働くべきか、働かないで暮らすかを考えなければいけない。そこには自分の価値観というものがでてくる。
私は勤労主義者でもなんでもないが、やっぱりどのような経済状況であろうと働くという選択肢ははずさないだろうし、働く以上、楽しんで働きたいと思っている。
自分の人生において違う選択をした場合については想像をめぐらすしかないが、違う環境で働いていたらさぞかし苦痛だったのではないかな、と思う。案外適応していたのかもしれないが、そうでない可能性のほうが高い。
結局のところ自分の性質に合わせた仕事につくのが一番ということだ。
ということは、働くのが嫌な人間は働かないのが一番、ということになる。
それでいいのだろうか?それでいいのだろう、きっと。
社会が力があれば、その人間を支えていけるし、そうでなければ嫌でも働かなければいけない、それだけだ。
不思議なのだが、大学に入って4年という長い期間があるにもかかわらず、自分の将来の仕事について真剣に考えない輩がいる。考えていないから準備ができていない。
準備ができていないから、まともに仕事が選べない。
なんだか、不毛である。
当たり前だが、40代になってから自分は何に向いているのか考えても、けっこう手遅れである。取り戻せる人もいるかもしれないが、それは稀な例である。
じゃあ、いつ考えるのか?
10代は、自分について何も知らなさ過ぎる。それがゆえに大きな夢も描ける。
30代は、すでに稼いでいないとつらい。
となると、やはり20代ということになる。
20代のころ、うんうんうなりながらひとつ道を見つけるのもいいし、行き当たりばったりと失敗を繰り返しながら、自らにフィットする仕事を見つけるのもいい。
当然、自分にあった仕事を考える上で、「自分」というものをどうしても一度スルーしていかないといけない。それはかなりつらい作業であることも多い。そういう経験をつんでいない人も多い。そうしなくても何とはなしに生きていけるのが日本という国の文化であった。
しかし、現在はそういうものが少しずつ失われていこうとしている。ほったらかしにしておいても、誰も自分の道を示してくれないし、道に迷って立ちすくんでいても、同情はしてくれても手を差し伸べてくれる人は少ない。
大人の大部分はあまり頼りにならない。いわば「あっち」側の人間だからだ。
こっち側の我々の立ち位置をうまく理解してくれない。彼らのルールに沿ったアドバイスはくれるかもしれないが、そんなものはローマ字入力のL程度の役にしか立たない。
日本に渦巻く閉塞感というのは、結局こういう曖昧な対立によって作られているのかもしれない。それは本来なら対立であるはずのものが、さまざまな手をかけて対立とは別の姿に変えられているのだ。
少なくとも、ひとついえることは、「働く」意思となんらかの技術を持っていれば、食っていくのはだいぶ楽になる、ということだけだ。
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この記事は、以下の「朝日」のイベント情報に触発されて書きました。
「働く」を考える――村上龍氏と大学生の集い、参加者募集
2005/01/17のBlog
[ 08:06 ]
たまたま仕事で起きていたので、5時46分に短い黙祷をささげた。
多くの無くなった人のことを思い、悲しい気持ちに包まれながら頭を垂れた。
10年という時間は長いのだろうか、短いのだろうか。
おそらく地震という出来事を忘れるほどには長く、死というものを忘れるには短い時間であろう。
近畿圏で生活していても、気がつくと地震があったことは心の中の片隅のほうに追いやられ埃をかぶってしまう。
「たった一秒先が予知できない人間の限界」
これは重い言葉だ、そして心に刻み付けておかなければいけない言葉だ。
人間は万能でもなんでもない、一瞬先にはどうなってしまうかなんて誰にもわからないのだ。
我々が地震で無くしたものはあまりにも大きなものだ、それと引き換えに「何か」を手にしなくてはいけない。悲しみや喪失感というもの以外の我々の栄養分となる何かを見つけ出さなくてはいけない。
あんなことはもう忘れてしまいたい、という人もいるだろう。そういう人は忘れていいと思う。でも「我々」はそれを覚えておかなければいけない。
もし、全ての人々があの地震をただの出来事として捉えるようになっては、あまりにも悲しすぎる。
地震は人々に教訓を与えるために起きたのではない。が、そこから何か学ばなければ我々はただ失い続けていくだけの存在になってしまう。
人は環境という土を与えられ、経験という水を得て成長していく。
多くの無くなった人のことを思い、悲しい気持ちに包まれながら頭を垂れた。
10年という時間は長いのだろうか、短いのだろうか。
おそらく地震という出来事を忘れるほどには長く、死というものを忘れるには短い時間であろう。
近畿圏で生活していても、気がつくと地震があったことは心の中の片隅のほうに追いやられ埃をかぶってしまう。
「たった一秒先が予知できない人間の限界」
これは重い言葉だ、そして心に刻み付けておかなければいけない言葉だ。
人間は万能でもなんでもない、一瞬先にはどうなってしまうかなんて誰にもわからないのだ。
我々が地震で無くしたものはあまりにも大きなものだ、それと引き換えに「何か」を手にしなくてはいけない。悲しみや喪失感というもの以外の我々の栄養分となる何かを見つけ出さなくてはいけない。
あんなことはもう忘れてしまいたい、という人もいるだろう。そういう人は忘れていいと思う。でも「我々」はそれを覚えておかなければいけない。
もし、全ての人々があの地震をただの出来事として捉えるようになっては、あまりにも悲しすぎる。
地震は人々に教訓を与えるために起きたのではない。が、そこから何か学ばなければ我々はただ失い続けていくだけの存在になってしまう。
人は環境という土を与えられ、経験という水を得て成長していく。
2005/01/15のBlog
[ 23:37 ]
あけましておめでとうございます。
本年、そして今月もよろしくお願いします。
そして、いらっしゃいませ。ブログの記事に関係ないコメントはこちらにどうぞ。
ほぼ定期的企画 「一ヶ月に何冊読書できるかね?」
・12月の読書結果 計2冊 →惨敗
☆1月の目標数 →5冊
************** 1月中に読んだ本 ********************
1/09 「トモガラのエン」 榊 一郎
1/11 「悪人正機」 吉本隆明 糸井重里
1/13 「月の影 影の海㊤」 小野不由美
1/14 「月の影 影の海㊦」 小野不由美
1/15 「風の海 迷宮の岸㊤」 小野不由美
1/15 「風の海 迷宮の岸㊦」 小野不由美
1/16 「東の海神 西の滄海」 小野不由美
1/20 「図南の翼」 小野不由美
1/29 「学校の役割は終わったのか」 NHK「日本の宿題」プロジェクト
**************************************************
本年、そして今月もよろしくお願いします。
そして、いらっしゃいませ。ブログの記事に関係ないコメントはこちらにどうぞ。
ほぼ定期的企画 「一ヶ月に何冊読書できるかね?」
・12月の読書結果 計2冊 →惨敗
☆1月の目標数 →5冊
************** 1月中に読んだ本 ********************
1/09 「トモガラのエン」 榊 一郎
1/11 「悪人正機」 吉本隆明 糸井重里
1/13 「月の影 影の海㊤」 小野不由美
1/14 「月の影 影の海㊦」 小野不由美
1/15 「風の海 迷宮の岸㊤」 小野不由美
1/15 「風の海 迷宮の岸㊦」 小野不由美
1/16 「東の海神 西の滄海」 小野不由美
1/20 「図南の翼」 小野不由美
1/29 「学校の役割は終わったのか」 NHK「日本の宿題」プロジェクト
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