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2005/02/21のBlog
[ 16:26 ]
自ら死を望んで、20歳の男性が交番に押し入り拳銃を強奪しようとした事件が起こった。
「死にたい、拳銃ください」と交番に侵入 下田で無職男を逮捕
20日午後2時10分ごろ、静岡県下田市の下田署下田市中央交番に男が押し入り、「死にたい。拳銃をください」などといいながら、受付にいた巡査(20)にナイフを突きつけた。
さらに受付台を乗り越えて迫ったため、巡査が交番内にいたほかの警察官とともに取り押さえ、強盗未遂、銃刀法違反などの現行犯で逮捕した。
はじめこの記事を読んだときに書こうと思ったことがいくつかあった。
が、切込さんところの「一人のニートが警察に押し入った」 からその自殺志願者のBlogを読む機会を得た。ちなみにこのブログだ。
03年の6月から始まっている。とりあえず、私も一通り読んでみた。
読み終えてみると、記事を読んでいた直後とは少し違う感想を覚えた。
はじめは、まことに失礼な話かもしれないが、かってに死んでくれと思っていた。が、彼の中に渦巻く苦悩とその表現を感じることで、簡単に切り捨てることはできないように思える。
2月20日付の日記には、下見というタイトルでごく短い文章があげられている。
いい天気になった。ちょっと自殺の下見をしてこようと思う。方法は2つ考えてある。崖から飛び降りるか、警官の銃を奪って頭を撃ち抜くか、どちらかだ。飛び降りるのはかなり勇気が必要だが、飛んでしまえば後は楽だろう。拳銃自殺はちゃんと弾薬が装填された銃を奪えるかどうかが問題だ。いちおうボーイスカウトに入るときに買ったアーミーナイフを用意している。いささか強度に難ありだ。警官を傷つけることなく奪うことができればそれがいちばんいいんだけれど。さて、そろそろ行ってくる。気が向いたらそのまま決行してしまおう。
彼は、後者の方を選択したらしい。単純に自殺するということを考える上で効率的とは言いがたい方法だ。が、彼がそうしたのはおそらく彼が何かとつながりを持っていたいという心の奥底に潜んでいた欲求のせいかもしれない。
崖から飛び降りれば、それが高さと場所さえ間違えなければ上手く死ねるだろう。そのとき死ねなくても発見されなければやがて死ねる。そしてそれはかなり孤独な作業だ。
警察へ赴き、自分が死を望んでいるということを誰かに知ってもらいたかった、あるいはそれを制止してほしかったのかもしれない。この日記の続きを読むことができるのかどうかはわからないし、この考えはまったく推測の域を出ない。
「宿命を超えて、自己を超えて」というブログのタイトルはいささか皮肉的である。
自殺するというのは、一線たりとも自己を超えてはいないし、その内側にとどまっているということにほかならない。が、とりあえず彼は彼はそれに失敗した。
その事実にまた彼は落胆するのだろうか、それともそのことに何ならの意味を見出すのだろうか。願わくば後者のほうであってほしい。二度と同じことを繰り返さないでいれば、きっと何かがあると思う。その何かというのは、可能性かもしれない。あるいは、自分の理想なんてばかげたものだ、と受け入れることかもしれない。
それがなんにせよ、死という状態と生という状態はほとんどまったくといっていいほど違うのだ、ということさえ気がつけば、いいんじゃないかなと思う。
「人生いきちょるだけでまるもうけ」である。
「死にたい、拳銃ください」と交番に侵入 下田で無職男を逮捕
20日午後2時10分ごろ、静岡県下田市の下田署下田市中央交番に男が押し入り、「死にたい。拳銃をください」などといいながら、受付にいた巡査(20)にナイフを突きつけた。
さらに受付台を乗り越えて迫ったため、巡査が交番内にいたほかの警察官とともに取り押さえ、強盗未遂、銃刀法違反などの現行犯で逮捕した。
はじめこの記事を読んだときに書こうと思ったことがいくつかあった。
が、切込さんところの「一人のニートが警察に押し入った」 からその自殺志願者のBlogを読む機会を得た。ちなみにこのブログだ。
03年の6月から始まっている。とりあえず、私も一通り読んでみた。
読み終えてみると、記事を読んでいた直後とは少し違う感想を覚えた。
はじめは、まことに失礼な話かもしれないが、かってに死んでくれと思っていた。が、彼の中に渦巻く苦悩とその表現を感じることで、簡単に切り捨てることはできないように思える。
2月20日付の日記には、下見というタイトルでごく短い文章があげられている。
いい天気になった。ちょっと自殺の下見をしてこようと思う。方法は2つ考えてある。崖から飛び降りるか、警官の銃を奪って頭を撃ち抜くか、どちらかだ。飛び降りるのはかなり勇気が必要だが、飛んでしまえば後は楽だろう。拳銃自殺はちゃんと弾薬が装填された銃を奪えるかどうかが問題だ。いちおうボーイスカウトに入るときに買ったアーミーナイフを用意している。いささか強度に難ありだ。警官を傷つけることなく奪うことができればそれがいちばんいいんだけれど。さて、そろそろ行ってくる。気が向いたらそのまま決行してしまおう。
彼は、後者の方を選択したらしい。単純に自殺するということを考える上で効率的とは言いがたい方法だ。が、彼がそうしたのはおそらく彼が何かとつながりを持っていたいという心の奥底に潜んでいた欲求のせいかもしれない。
崖から飛び降りれば、それが高さと場所さえ間違えなければ上手く死ねるだろう。そのとき死ねなくても発見されなければやがて死ねる。そしてそれはかなり孤独な作業だ。
警察へ赴き、自分が死を望んでいるということを誰かに知ってもらいたかった、あるいはそれを制止してほしかったのかもしれない。この日記の続きを読むことができるのかどうかはわからないし、この考えはまったく推測の域を出ない。
「宿命を超えて、自己を超えて」というブログのタイトルはいささか皮肉的である。
自殺するというのは、一線たりとも自己を超えてはいないし、その内側にとどまっているということにほかならない。が、とりあえず彼は彼はそれに失敗した。
その事実にまた彼は落胆するのだろうか、それともそのことに何ならの意味を見出すのだろうか。願わくば後者のほうであってほしい。二度と同じことを繰り返さないでいれば、きっと何かがあると思う。その何かというのは、可能性かもしれない。あるいは、自分の理想なんてばかげたものだ、と受け入れることかもしれない。
それがなんにせよ、死という状態と生という状態はほとんどまったくといっていいほど違うのだ、ということさえ気がつけば、いいんじゃないかなと思う。
「人生いきちょるだけでまるもうけ」である。
2005/02/20のBlog
[ 15:25 ]
[ 哲学・思想 ]
未成年が凄惨な事件を起こす。それは大抵もはや取り返しのつかない事件である。
どうしてそんなことを、とその理由を考えたくなってくる。
社会学者が、心理学者が、政治家が、コメンテイターが、さまざまな理由を提示する。
それらは、筋の通っているものもあれば、全然わけのわからないものもあるかもしれない。それらに触れることによって、なんとなく納得してしまう。
でも、それは事の本質に迫ってはいない。
犯罪を行う理由は人それぞれである。結局「あるもの」がその人というフィルターを通して形になったものが理由である。
我々は、そのフィルターから出たものを分析することはできる。ああだ、こうだということが職業の人もいる。だが、そのフィルターに乗っていたものはなんだったのか、そしてそこに注ぎ込まれたものは何であったのか、ということが事の本質ではないだろうか。
大阪で起こった教師殺傷事件を起こした少年は、そういう兆しはまったく見られなかったという。手段カウンセリングにも通っていたというし、将来にも自分なりの道を探していたということだ。
自分が事件を起こせば、どういうことになるかを理解出来ていなかったわけではないだろう。それで何を失うかということくらいは理解できる年齢であったはずだ。
だが、彼はそれを行ってしまった。彼は逃げる様子すらなかった。それが非常に怖い。
自暴自棄になっていた、というのでもない。人生に希望を抱けなかった、というのでもないのだろう。
ただ、ひととき彼の意識が、そういってよければ魂がどこかに飛んでしまったのだろう。
我々はそれを阻止しなければいけない。
学校のセキュリティーという問題ではなく、人が自らの魂をとどめておく力をサポートしていかなければならない。
技術が進めば進むほど、我々がその能力よりもはるかに高いことが実現可能になればなるほど、我々は自分というものをとどめておくのが難しくなってくる。
何でもできるように感じられながらも、実際にできないことのほうが多いというギャップは当たり前のこととして受け止めていかなければいけない。
それは、もちろん教育の問題だろうし、大きな意味で社会の課題でもあるのだろう。
どうしてそんなことを、とその理由を考えたくなってくる。
社会学者が、心理学者が、政治家が、コメンテイターが、さまざまな理由を提示する。
それらは、筋の通っているものもあれば、全然わけのわからないものもあるかもしれない。それらに触れることによって、なんとなく納得してしまう。
でも、それは事の本質に迫ってはいない。
犯罪を行う理由は人それぞれである。結局「あるもの」がその人というフィルターを通して形になったものが理由である。
我々は、そのフィルターから出たものを分析することはできる。ああだ、こうだということが職業の人もいる。だが、そのフィルターに乗っていたものはなんだったのか、そしてそこに注ぎ込まれたものは何であったのか、ということが事の本質ではないだろうか。
大阪で起こった教師殺傷事件を起こした少年は、そういう兆しはまったく見られなかったという。手段カウンセリングにも通っていたというし、将来にも自分なりの道を探していたということだ。
自分が事件を起こせば、どういうことになるかを理解出来ていなかったわけではないだろう。それで何を失うかということくらいは理解できる年齢であったはずだ。
だが、彼はそれを行ってしまった。彼は逃げる様子すらなかった。それが非常に怖い。
自暴自棄になっていた、というのでもない。人生に希望を抱けなかった、というのでもないのだろう。
ただ、ひととき彼の意識が、そういってよければ魂がどこかに飛んでしまったのだろう。
我々はそれを阻止しなければいけない。
学校のセキュリティーという問題ではなく、人が自らの魂をとどめておく力をサポートしていかなければならない。
技術が進めば進むほど、我々がその能力よりもはるかに高いことが実現可能になればなるほど、我々は自分というものをとどめておくのが難しくなってくる。
何でもできるように感じられながらも、実際にできないことのほうが多いというギャップは当たり前のこととして受け止めていかなければいけない。
それは、もちろん教育の問題だろうし、大きな意味で社会の課題でもあるのだろう。
2005/02/18のBlog
[ 17:18 ]
[ エッセイ ]
何にしろ、物事に完璧な秩序を求めてしまうと、多かれ少なかれ失望を味わうことになる、というのが私が今までに学んだことのひとつである。
いくつもいくつも反証を挙げられる方がおられるかもしれない。そしてその反証は「合っている」のだ。たとえば数学だ。
数学は全てが秩序だっている。秩序だっているからこそ数学という学問が成り立つといえなくも無いかもしれない。
しかし、しかしである。それを扱うのが人間である以上、そこには多少の混乱が紛れ込む余地がある。計算間違い、写し間違い、展開間違い、公式の覚え間違い・・・。
ひたすら時間をかければそういうものをなくしていくことはできる、ただ人間という存在はどうしても時間の有限性と戦っていかなければいけない。
だから、間違っていないと100%言い切ることは難しい。関係する物事が複雑になっていけばいくほど、不確からしさというのは増えていく。
どのような人間もミスをする可能性は必ずある。
それは良いことでもなし、悪いことでもない。ただそうあるというだけである。
先を見通すこともできないし、過去を変えることもできない。要するにそういう存在なのだ。
本棚というのは大体の家庭にひとつくらいはあると思う。(少なくとも平均すれば絶対にひとつはあるはずだ)
で、当然本棚には本を入れるわけだ。その行為に人間性が出てくる。
本の数が少なければ、おそらく多くの人がきちんとそれらを分類すると思う。
ただ、少しずつ少しずつ本が増えてきたときに、何かが破綻する人と、それを必死で守ろうとする人がいる。
本をたくさん買っている人や、本屋や図書館で働いておられる方ならばわかっていただけると思うが、本棚を完璧に管理にするのは難しい。一ヶ月に10冊程度しか増えなくても、それはかなり大変な作業なのだ。
一番の問題は本棚の幅はとりあえず一定である、ということだ。
はじめ幅が余っているうちは、新しく本が入ってきても、アレをこっち、コレをあっちとやっていけばそれなりにすっきりする、だがしかし、本徐々にその数を増し、幅がいっぱいになるにつれてにおえなくなってくる。
いくつもいくつも反証を挙げられる方がおられるかもしれない。そしてその反証は「合っている」のだ。たとえば数学だ。
数学は全てが秩序だっている。秩序だっているからこそ数学という学問が成り立つといえなくも無いかもしれない。
しかし、しかしである。それを扱うのが人間である以上、そこには多少の混乱が紛れ込む余地がある。計算間違い、写し間違い、展開間違い、公式の覚え間違い・・・。
ひたすら時間をかければそういうものをなくしていくことはできる、ただ人間という存在はどうしても時間の有限性と戦っていかなければいけない。
だから、間違っていないと100%言い切ることは難しい。関係する物事が複雑になっていけばいくほど、不確からしさというのは増えていく。
どのような人間もミスをする可能性は必ずある。
それは良いことでもなし、悪いことでもない。ただそうあるというだけである。
先を見通すこともできないし、過去を変えることもできない。要するにそういう存在なのだ。
本棚というのは大体の家庭にひとつくらいはあると思う。(少なくとも平均すれば絶対にひとつはあるはずだ)
で、当然本棚には本を入れるわけだ。その行為に人間性が出てくる。
本の数が少なければ、おそらく多くの人がきちんとそれらを分類すると思う。
ただ、少しずつ少しずつ本が増えてきたときに、何かが破綻する人と、それを必死で守ろうとする人がいる。
本をたくさん買っている人や、本屋や図書館で働いておられる方ならばわかっていただけると思うが、本棚を完璧に管理にするのは難しい。一ヶ月に10冊程度しか増えなくても、それはかなり大変な作業なのだ。
一番の問題は本棚の幅はとりあえず一定である、ということだ。
はじめ幅が余っているうちは、新しく本が入ってきても、アレをこっち、コレをあっちとやっていけばそれなりにすっきりする、だがしかし、本徐々にその数を増し、幅がいっぱいになるにつれてにおえなくなってくる。
その結果がこれである。
すでに縦に置くことでできず、横に寝ている本が大量にある。この写真では見えないが、この左側の棚は前後で2列になって本が詰められてあり、もはや後ろには何が並んでいるかまったくわからない、という有様である。
しかも事態が深刻なのは、これ以外の二つの本棚も同様の状態になっている、ということである。このままのペースで本が増えていくと、20年後には人間のいるスペースより、本棚のしめる割合の方が多くなってしまう。大問題である。そのうち床でも抜けるんじゃないか・・・、それはないか。
とりあえず、去年まではきっちりジャンルごとに、作家ごとに並んでいたのだがもはや私はその作業を一切放棄した。今からこの本棚整理するのは、一面雪景色のジグソーパズル(1000ピース)を作ることよりもはるかに困難さを伴うことだろう。何せジグソーは一度固定してしまえばそれで次に進めるが、本棚は整理していくうちにだんだん本が増えていくのだ。まるでそれ自身が分裂するかのように・・・といっても私が買っているわけだが。
一度整理してしまうことを放棄すると、かなり気が楽である。読み終わった本はどんどん本棚なにつんでいけばよい。楽チンである。が、後で読み返したくなった場合それを検索するのにはかなり時間がかかる。続き物が全然別のところに並んでいたり、同じ作家の本が上のほうと下のほうに飛んでいたり・・・。というわけで最近は前の本を読まなくなった。唯一誰かから「~の本貸して」といわれたときだけは、あくせく本を探さなければいけない。私の家に来た友人達に、「読みたい本があったらテキトーに借りて帰っていいよ」と私はよく言う。そのときは何を持って帰るか私に伝えてほしいと一言添えて。
しかしながら、貸す本が増え、帰ってくる本が少ないと(なかなか帰ってこない)私の記憶のノートも徐々に混乱してくる。一体誰がどの本を持って帰っているのか、そもそもその本は私の家にあるのか、誰かの家にあるのか・・・。
そのような状況で、特定の本を貸してと言われると、私は本棚を隅々探さなければいけない。何せあるかないかさえわからないところがスタートなのだから。
こういう作業をしていると、いつも決まって本棚を整理しようと、整理虫がムクムクと動き出し始めるのだが、それを実行に移せたためしは無い。
これは皆さんのPCのHDDでも似たような事態が起こっているのではないでしょうか。
こういうのは、「まあそういうもんだから仕方ない」と割り切ってしまうと結構楽に生きられるんですね、後が大変ですが。
人間とは混乱という名の卵をひたすらかき混ぜてゆく存在なのだ。
すでに縦に置くことでできず、横に寝ている本が大量にある。この写真では見えないが、この左側の棚は前後で2列になって本が詰められてあり、もはや後ろには何が並んでいるかまったくわからない、という有様である。
しかも事態が深刻なのは、これ以外の二つの本棚も同様の状態になっている、ということである。このままのペースで本が増えていくと、20年後には人間のいるスペースより、本棚のしめる割合の方が多くなってしまう。大問題である。そのうち床でも抜けるんじゃないか・・・、それはないか。
とりあえず、去年まではきっちりジャンルごとに、作家ごとに並んでいたのだがもはや私はその作業を一切放棄した。今からこの本棚整理するのは、一面雪景色のジグソーパズル(1000ピース)を作ることよりもはるかに困難さを伴うことだろう。何せジグソーは一度固定してしまえばそれで次に進めるが、本棚は整理していくうちにだんだん本が増えていくのだ。まるでそれ自身が分裂するかのように・・・といっても私が買っているわけだが。
一度整理してしまうことを放棄すると、かなり気が楽である。読み終わった本はどんどん本棚なにつんでいけばよい。楽チンである。が、後で読み返したくなった場合それを検索するのにはかなり時間がかかる。続き物が全然別のところに並んでいたり、同じ作家の本が上のほうと下のほうに飛んでいたり・・・。というわけで最近は前の本を読まなくなった。唯一誰かから「~の本貸して」といわれたときだけは、あくせく本を探さなければいけない。私の家に来た友人達に、「読みたい本があったらテキトーに借りて帰っていいよ」と私はよく言う。そのときは何を持って帰るか私に伝えてほしいと一言添えて。
しかしながら、貸す本が増え、帰ってくる本が少ないと(なかなか帰ってこない)私の記憶のノートも徐々に混乱してくる。一体誰がどの本を持って帰っているのか、そもそもその本は私の家にあるのか、誰かの家にあるのか・・・。
そのような状況で、特定の本を貸してと言われると、私は本棚を隅々探さなければいけない。何せあるかないかさえわからないところがスタートなのだから。
こういう作業をしていると、いつも決まって本棚を整理しようと、整理虫がムクムクと動き出し始めるのだが、それを実行に移せたためしは無い。
これは皆さんのPCのHDDでも似たような事態が起こっているのではないでしょうか。
こういうのは、「まあそういうもんだから仕方ない」と割り切ってしまうと結構楽に生きられるんですね、後が大変ですが。
人間とは混乱という名の卵をひたすらかき混ぜてゆく存在なのだ。
2005/02/17のBlog
[ 16:27 ]
[ 政治・社会 ]
極東さんところの「環境税(温暖化対策税)はしばらくやめにしたらどう」を読んで。
これは、うんそうだな、という気がする。環境税をとるのはとるとして、それをどのような方面に使っていくのかというのが、全然見えてこない。
京都議定書に関していろいろ話題は多い。
とりあえず、このDoblogでも動きはある。
温DOWN化計画 身近で感じた温暖化ストーリーというブログである。内容は説明するまでも無いが、地球があったまってきているぞということを個人が認識すれば、それなりに動きとしては意味があるのかなとは思う。が、この計画のネーミングについてはとりあえず苦笑しておくしかない。
京都新聞のWebページでは「脱温暖化」へ 歴史的第一歩 京都議定書が正式発効という記事が当然のように大々的に書かれている。
この京都議定書というのは、各国々にとってそのポジションはかなり違ってくる。日本はかなり苦しい立ち位置であることは間違いない。EUでは先進的なところもあるが、完璧とは言いがたいし、発展途上国は受身になりがちである。
京都議定書が発効、二酸化炭素6%削減が国際公約に(読売)
地球温暖化防止のための京都議定書が16日、発効した。これにより、先進国に課された二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの削減目標は国際公約となり、法的拘束力が生じた。
日本に課せられた2008―12年の温室効果ガス排出量の削減目標は、1990年比で6%。しかし、03年の排出量は削減どころか、逆に8%増えており、実際は14%削減しなければならない。
政府は森林によるCO2吸収で3・9%の削減を確保し、8・5%(約1億トン)を省エネによる化石燃料の消費抑制などで削減。残る1・6%については、排出量取引などを活用して国外から「買う」形で調達するシナリオを描いている。
まあ、単純に考えてもこれはかなりきついシナリオである。
各国と日本の取り組みは違ってくるだろうし、アメリカやオーストラリアの不参加の問題もある。京都議定書そのものに問題はあるにしても、とりあえず日本は温室効果ガスの削減に取り組んでいかなければいけない。国際的な問題として温暖化が取り扱われるようになったということは、やはり進歩とよんでいいのではないだろうか。
とりあえず日本のお得意の、ひたすら金を積むという作戦が効果的なのか、というのが疑問である。誰がどのように何に取り組めば、この14%削減が可能になるのか、はっきりとした、そして具体的なビジョンはほとんど見えてこない。
が、逆にそれがわが日本のチャンスでもあるような気がする。
産業を含めた、「環境」への大々的なシフト、それに伴う新しい技術の開発によるわが国のリード、そういうものに取り組んでいくタイミングなのだろう。時間が足りるかどうかは別として。
わが国の環境への配慮やその技術が輸出できるようになるレベルになれば、これはいろいろな「道」が見えてくるのではないか。
今までの、しなければいけないから取り組むという姿勢よりも、それをすることにより何かを得られるかもしれない、というモチベーションを維持していければ産業の改革も可能かもしれない。
これは、うんそうだな、という気がする。環境税をとるのはとるとして、それをどのような方面に使っていくのかというのが、全然見えてこない。
京都議定書に関していろいろ話題は多い。
とりあえず、このDoblogでも動きはある。
温DOWN化計画 身近で感じた温暖化ストーリーというブログである。内容は説明するまでも無いが、地球があったまってきているぞということを個人が認識すれば、それなりに動きとしては意味があるのかなとは思う。が、この計画のネーミングについてはとりあえず苦笑しておくしかない。
京都新聞のWebページでは「脱温暖化」へ 歴史的第一歩 京都議定書が正式発効という記事が当然のように大々的に書かれている。
この京都議定書というのは、各国々にとってそのポジションはかなり違ってくる。日本はかなり苦しい立ち位置であることは間違いない。EUでは先進的なところもあるが、完璧とは言いがたいし、発展途上国は受身になりがちである。
京都議定書が発効、二酸化炭素6%削減が国際公約に(読売)
地球温暖化防止のための京都議定書が16日、発効した。これにより、先進国に課された二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの削減目標は国際公約となり、法的拘束力が生じた。
日本に課せられた2008―12年の温室効果ガス排出量の削減目標は、1990年比で6%。しかし、03年の排出量は削減どころか、逆に8%増えており、実際は14%削減しなければならない。
政府は森林によるCO2吸収で3・9%の削減を確保し、8・5%(約1億トン)を省エネによる化石燃料の消費抑制などで削減。残る1・6%については、排出量取引などを活用して国外から「買う」形で調達するシナリオを描いている。
まあ、単純に考えてもこれはかなりきついシナリオである。
各国と日本の取り組みは違ってくるだろうし、アメリカやオーストラリアの不参加の問題もある。京都議定書そのものに問題はあるにしても、とりあえず日本は温室効果ガスの削減に取り組んでいかなければいけない。国際的な問題として温暖化が取り扱われるようになったということは、やはり進歩とよんでいいのではないだろうか。
とりあえず日本のお得意の、ひたすら金を積むという作戦が効果的なのか、というのが疑問である。誰がどのように何に取り組めば、この14%削減が可能になるのか、はっきりとした、そして具体的なビジョンはほとんど見えてこない。
が、逆にそれがわが日本のチャンスでもあるような気がする。
産業を含めた、「環境」への大々的なシフト、それに伴う新しい技術の開発によるわが国のリード、そういうものに取り組んでいくタイミングなのだろう。時間が足りるかどうかは別として。
わが国の環境への配慮やその技術が輸出できるようになるレベルになれば、これはいろいろな「道」が見えてくるのではないか。
今までの、しなければいけないから取り組むという姿勢よりも、それをすることにより何かを得られるかもしれない、というモチベーションを維持していければ産業の改革も可能かもしれない。
2005/02/16のBlog
[ 17:39 ]
[ 政治・社会 ]
参院選の敗北認め「政権失う危険も」 自民若手が危機感
自民党の若手議員が、わさわさと動いている、という感じだろうか。
自民党は15日、11月の結党50年に向けた一連の記念事業の基本方針をまとめた。若手が中心になってつくった文書は、小泉首相や党執行部が公式には認めていない昨夏の参院選の敗北を事実上認め、「このままでは政権を失う可能性も否定できない」との危機感がありあり。無党派層の取り込み策でも「密室イメージを払拭(ふっしょく)する」「古い自民党を印象づけてはならない」など、悲壮感さえにじんでいる。
そりゃーまーそうだろう、という気がする。前回の選挙では自民党は勝利を収めたとは到底言いがたい結果であった。しかしながら、その後政府方針は国民の意思を反映するというのとはまったく反対のほうに動き、年金改革の中途半端さ、郵政民営化への力の投入など、的外れもここまで来ると、一芸さながらの滑稽な「舞台」を演じ続けている。
若手議員は、必死にならざる得ないであろう。この先選挙を重ねていくたびに苦しくなっていくのは目に見えている。特に小泉総理がその舞台から降りたとき、担ぎ出す人物がいなければ、その選挙は敗北必死である。
昨年の参院選の敗因を「国民に魅力的な将来ビジョンと説得力あるメッセージを伝えられなかった」と分析。「継承すべきは継承し、捨てるべきは捨て、変えるべきは変える。新しい自民党を国民に訴える」とし、記念事業では、対話イベントの重視や新憲法草案づくりへの幅広い国民参加など「説明責任」をポイントにした
ビジョンとメッセージが伝えられなかった、のではなく、はなからそのようなものは持ち合わせていないのだろう。特に老年議員の方々は。それはまあしゃーないと言うしかない。今までは彼らはそのような仕事をする必要がなかったのだから。危機感をまったく持たないまま仕事を続けてきた彼らに突然変革を迫ったところでほとんど意味は無い。
そういう意味で、若手議員が自民党の将来に危機感を持っているとするならばそれは良い兆候だといえなくも無い。そしてその危機感から「沈む船からの脱出」という方向に進んでくれれば、日本の政治にひどい悲壮感を持たなくてすむようになるかもしれない。
しかし、何で自民党に入ったんだろうね、そういう若手議員は?先読みが甘いんでないかい?
自民党の若手議員が、わさわさと動いている、という感じだろうか。
自民党は15日、11月の結党50年に向けた一連の記念事業の基本方針をまとめた。若手が中心になってつくった文書は、小泉首相や党執行部が公式には認めていない昨夏の参院選の敗北を事実上認め、「このままでは政権を失う可能性も否定できない」との危機感がありあり。無党派層の取り込み策でも「密室イメージを払拭(ふっしょく)する」「古い自民党を印象づけてはならない」など、悲壮感さえにじんでいる。
そりゃーまーそうだろう、という気がする。前回の選挙では自民党は勝利を収めたとは到底言いがたい結果であった。しかしながら、その後政府方針は国民の意思を反映するというのとはまったく反対のほうに動き、年金改革の中途半端さ、郵政民営化への力の投入など、的外れもここまで来ると、一芸さながらの滑稽な「舞台」を演じ続けている。
若手議員は、必死にならざる得ないであろう。この先選挙を重ねていくたびに苦しくなっていくのは目に見えている。特に小泉総理がその舞台から降りたとき、担ぎ出す人物がいなければ、その選挙は敗北必死である。
昨年の参院選の敗因を「国民に魅力的な将来ビジョンと説得力あるメッセージを伝えられなかった」と分析。「継承すべきは継承し、捨てるべきは捨て、変えるべきは変える。新しい自民党を国民に訴える」とし、記念事業では、対話イベントの重視や新憲法草案づくりへの幅広い国民参加など「説明責任」をポイントにした
ビジョンとメッセージが伝えられなかった、のではなく、はなからそのようなものは持ち合わせていないのだろう。特に老年議員の方々は。それはまあしゃーないと言うしかない。今までは彼らはそのような仕事をする必要がなかったのだから。危機感をまったく持たないまま仕事を続けてきた彼らに突然変革を迫ったところでほとんど意味は無い。
そういう意味で、若手議員が自民党の将来に危機感を持っているとするならばそれは良い兆候だといえなくも無い。そしてその危機感から「沈む船からの脱出」という方向に進んでくれれば、日本の政治にひどい悲壮感を持たなくてすむようになるかもしれない。
しかし、何で自民党に入ったんだろうね、そういう若手議員は?先読みが甘いんでないかい?
2005/02/15のBlog
[ 15:00 ]
[ ささやかな質問 ]
ささやかな質問です。良ければお答えください。
もし、手に入るとしたらどちらの力を望みますか?
1 好きなように人を殺せる力
2 好きなように人を生き返らせる力
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マタイ16・26)
もし、手に入るとしたらどちらの力を望みますか?
1 好きなように人を殺せる力
2 好きなように人を生き返らせる力
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マタイ16・26)
[ 14:59 ]
[ 政治・社会 ]
また悲しい事件が起きてしまった。各新聞の一面はこの記事だったので事件の詳細は省くが、学校、未成年、不登校、殺人というある種の要素が集まった事件である。
■各記事
小学校に侵入、教師刺殺 17歳卒業生を逮捕 大阪(朝日)
教職員3人殺傷の17歳、引きこもりTVゲーム(読売)
モニターでチェックのはずが…教職員3人死傷の小学校(読売)
小学校乱入:17歳少年 ゲームに夢中、中1で不登校(毎日)
ゲーム好き高じ不登校に? 小学校で殺傷の少年(産経)
■ゲーム脳? 学校をめぐる環境
大体どの記事も同じような切り口である。読売は学校の管理体制についても触れているが、管理の体制がきちんと動いていても17歳の青年が学校に入るのを阻止できたとは思えない。とても彼は不審者には見えなかったと思う。
彼の周りの評価について、ゲーム好きというのがあげられている。これは確かに事実なのだろう。
ただ、産経の書き方はあまり感心できない。一応タイトルに?マークが入っているが、ゲーム好きが高じて不登校になったという表現がされている。
これは、おそらくまったく逆のことだろう。
現実に対面したくない何かがあったからこそ、ゲームに退避しそれにのめりこんでいった、ということではないだろうか。この記事は何か特定の方向に誘導したいのではないかとかんぐりたくなってくる。
たまたま彼の波長にあったのが、「ゲーム」という世界であり、それが別の人には「読書」であったり「映画」であったりする、というだけだ。身近にあふれかえっているのがゲームであるから、それにはまる人が多いというのは確かだが。
この事件で、ことさらゲームを攻撃するような有識者がでてくるかもしれない、要注意だ。あと、おそらくネットも同様に取り上げられてくるだろう。彼の世代でネットに繋がったPCがあれば、何かしらの「サイト」や「掲示板」とかかわりを持っていたということは容易に推測できる。
が、もちろんそれらに問題があるわけではない。もしそこで何かがあったとしても、それは単なるきっかけに過ぎない。彼の中に押さえ込まれていた「何か」は、結局何かの形で表に出ることになったであろう。
結局のところ、なぜ彼がそのような「何か」を溜め込んでいったのか、ということを議論しなければ同じようなことは再び繰り返されるだろう。どんなに学校のセキュリティーのレベルを上げても、防ぎようのない事件はきっと起こる。
今回の事件では児童まで被害が及ばなかった。精神面でダメージを受けた子供もいるかもしれないが、それでももし直接的な被害者が出てしまったときのことを考えるとずいぶん「まし」である。
■引っ張る力
おそらく現代の子供たちは、両極端の力からグイグイと引っ張られているか、それともまったく引っ張る力が働いていないという二つの状態のどちらかにおかれているのではないか。
両方から引っ張る力というのは、今まで通りの価値観を押し付けてくることしかしない大人と、それがまったく嘘だというはっきりとした現実というこだ。
自分なりの位置を見極められない子供はとても緊張を強いられる社会であろう。
また、まったく放置されてしまう子供たちもいる。彼らは自分が「自分」であるというそもそもの前提を築くことができないでいる。これもつらいことだ。
それはどちらの状態にいても、「良い」とはいえない。子供の伸びる方向に押す力が適切に働くような教育制度について深い議論が必要なのであろう、そんな気がする。
■各記事
小学校に侵入、教師刺殺 17歳卒業生を逮捕 大阪(朝日)
教職員3人殺傷の17歳、引きこもりTVゲーム(読売)
モニターでチェックのはずが…教職員3人死傷の小学校(読売)
小学校乱入:17歳少年 ゲームに夢中、中1で不登校(毎日)
ゲーム好き高じ不登校に? 小学校で殺傷の少年(産経)
■ゲーム脳? 学校をめぐる環境
大体どの記事も同じような切り口である。読売は学校の管理体制についても触れているが、管理の体制がきちんと動いていても17歳の青年が学校に入るのを阻止できたとは思えない。とても彼は不審者には見えなかったと思う。
彼の周りの評価について、ゲーム好きというのがあげられている。これは確かに事実なのだろう。
ただ、産経の書き方はあまり感心できない。一応タイトルに?マークが入っているが、ゲーム好きが高じて不登校になったという表現がされている。
これは、おそらくまったく逆のことだろう。
現実に対面したくない何かがあったからこそ、ゲームに退避しそれにのめりこんでいった、ということではないだろうか。この記事は何か特定の方向に誘導したいのではないかとかんぐりたくなってくる。
たまたま彼の波長にあったのが、「ゲーム」という世界であり、それが別の人には「読書」であったり「映画」であったりする、というだけだ。身近にあふれかえっているのがゲームであるから、それにはまる人が多いというのは確かだが。
この事件で、ことさらゲームを攻撃するような有識者がでてくるかもしれない、要注意だ。あと、おそらくネットも同様に取り上げられてくるだろう。彼の世代でネットに繋がったPCがあれば、何かしらの「サイト」や「掲示板」とかかわりを持っていたということは容易に推測できる。
が、もちろんそれらに問題があるわけではない。もしそこで何かがあったとしても、それは単なるきっかけに過ぎない。彼の中に押さえ込まれていた「何か」は、結局何かの形で表に出ることになったであろう。
結局のところ、なぜ彼がそのような「何か」を溜め込んでいったのか、ということを議論しなければ同じようなことは再び繰り返されるだろう。どんなに学校のセキュリティーのレベルを上げても、防ぎようのない事件はきっと起こる。
今回の事件では児童まで被害が及ばなかった。精神面でダメージを受けた子供もいるかもしれないが、それでももし直接的な被害者が出てしまったときのことを考えるとずいぶん「まし」である。
■引っ張る力
おそらく現代の子供たちは、両極端の力からグイグイと引っ張られているか、それともまったく引っ張る力が働いていないという二つの状態のどちらかにおかれているのではないか。
両方から引っ張る力というのは、今まで通りの価値観を押し付けてくることしかしない大人と、それがまったく嘘だというはっきりとした現実というこだ。
自分なりの位置を見極められない子供はとても緊張を強いられる社会であろう。
また、まったく放置されてしまう子供たちもいる。彼らは自分が「自分」であるというそもそもの前提を築くことができないでいる。これもつらいことだ。
それはどちらの状態にいても、「良い」とはいえない。子供の伸びる方向に押す力が適切に働くような教育制度について深い議論が必要なのであろう、そんな気がする。
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