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2008/05/31のBlog
[ 23:59 ]
■北海道札幌市の公立中学校国語教師である堀裕嗣が,日々の教育活動や読書の中から感じたことを綴っています。よろしければお立ち寄り下さい。
■私のHP「静かに水の流れが岸をけずる」もご覧いただければ幸いです。
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2008/05/11のBlog
[ 22:32 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
一 文科省の想定学力を把握する
■十月半ば、全国学力・学習状況調査の結果が公表された。「主として知識」を問うたとされる[国語A]が概ね八割、「主として活用」を問うたとされる[国語B]が概ね七割の正答率。まずまずの結果と見て良いのではないか。問題の質が少々簡単すぎるのではないかとの危惧もあるが、現場としては、「文部科学省が国語学力の基準として置いている一線がこのレベルであるという参考資料になる」と、一応はポジティヴに捉えるべきであろう。その上で、問題点を指摘し、今後の改良を図るべきである。
二 国語学力の現状を見据える
■今回の調査結果の問題点を三点挙げたい。
■まず第一に、[国語A][国語B]双方ともに共通して見られる、記述式問題における無解答率の大きさである。記述式問題は[国語A]で一問、[国語B]で三問の計四問が出題されているが、無回答率はこの四問のどれにおいても約一割を占めている(全国公立)。この現実は、我が国の国語科授業が、もう少し広く言えば学校教育が、或いは教育行政までも含めたこの国の教育制度の実態が、「面倒なことには取り組まない」という生徒を一割程度、事実として生み出していることを表している。
■これからの国語科を(或いは教育を)考えるときに、この一割程度の生徒たちにどう対処していくかということが、今後の教育の在り方を考える上での試金石となる。つまりは、一割程度のイレギュラーは仕方がないものとして臨教審以来のエリート教育を進めていくのか、或いはこの一割の存在を国家的な重要課題と位置づけ、「この一割に機能する新学力観的教育」(記述式問題に対する無解答率の高さを考えるとき、そこにはこの一割程度の生徒の「面倒なこと」に対する意欲の醸成が必要となるのであり、それへの対処は低学力生徒に特化した新学力観的発想で行われることになる)を進めていくのか、或いは双方ともに教育機能を発揮できるような選択履修・習熟度別学習等を目に見える形で進めていくのか、という問題に帰着するわけだ。わかりやすく言えば、「落ちこぼれ」と「吹きこぼれ」をそれぞれどうしていくのかという問題である。
■第二に、学校の授業でなければ身につかない学力(例えば[国語A]における「春はあけぼの」の「あけぼの」を埋めさせるといった出題)と、家庭の教育力によって常識として身につく学力(例えば[国語A]における手紙の形式を問う出題)とをどう仕分けしていくかという問題がある。
■札幌市が調査結果を公開しない方針なので、私も立場上、詳しくは言えないのだが、私には、現在担任している生徒たち(三年生・今回の調査対象となっている)に、家庭教育で身につけることのできるタイプの問題について二年次までに教えていないものがあった。しかし、生徒たちのその問題に対する正答率は六割程度を示しており、このことは今回の調査結果が学校教育の成果を示しているとは限らないということを表しているのである。少なくとも、その要素があるということだけは確かであろう。 この調査は、少なくとも国語科において、国語科の授業が、或いは学校教育が、どのように機能しているかということを示しているとは、一概には言えないということである。
■第三に、今回の調査においては、「PISA調査」で言うところの連続型テキストに関する出題のほとんどが選択式を採用している、という問題がある。
■言うまでもなく、現在、全国的に多くの国語科授業は「PISA型読解力」を念頭に置いて行われているわけではない。とすれば、今回の「読むこと」領域の出題とは別の傾向の問題、つまりは従来の国語科授業モデルに即した問題を出題しない限りは、現行の授業の効果は計れないということである。「読解力」の概念を変更しようとする過渡期の調査故に致し方ない部分があると承知の上で、問題点の三つ目としてこのことを指摘しておきたい。
三 国語学力の未来を想定する
■この度の学力調査は、周知のように、全国の小学校六年生・小学校三年生全員を対象としておこなっている。継続的に学力調査を重ね、この国の学力がどうなっているのかというデータを収集し、教育政策をどう施していくべきかの参考にしようとするものである。この志は否定されるべきでない。これまでこうした調査をしていなかったことの方が不思議である。もっと言えば、データもなしに教育政策を施してきたこれまでの行政の姿勢が問われるべきである。更に言えば、全国学力調査が教育の国家統制につながるとしてデータ収集をはばんできた日教組や一部識者の姿勢が問われるべきである。その意味では、この度の学力調査は教育界において歴史的意味をもつ。しかし、この度の調査が七○億円近い予算をかけた価値があるのかと問われれば、それは熟考を要する。
■まず第一に、各設問で問うことのできる学力が、想定されている以上に狭いのではないか、という問題である。
■例えば、[国語B]において、芥川龍之介「蜘蛛の糸」の第三場面の有無について、その適否を八○~一二○字で自分の意見を書くという出題があった。全国の正答率は七割五分。この問題は出題者の意図としては、「書くこと」領域と「読むこと」領域双方の学力をともに「活用すること」を目論んだものであろう。しかし、七割五分という正答率から予測されるのは、「書くこと」領域の指導事項に従って、形式が整っていれば(賛成か反対かの結論を述べているとか、結論と根拠が照合しているとか、主述の乱れがないといった)正答としたであろう、ということである。つまり、この問題はおそらく、「蜘蛛の糸」の第三場面の価値が読めていなくても正答することができる問題なのである。私はこの問題は、「書くこと」と「読むこと」の二領域の活用問題ではなく、あくまでも形式に則って叙述する力を見る、「書くこと」領域のみの問題でしかないと思う。
■私はここで、「蜘蛛の糸」の第三場面を読む力が生徒たちに必要であるとか、「読むこと」領域をもっと重視すべきであるとか、ましてやかつての文学教育を復活させるべきであるとかといった、国語教育に対する個人的な意見を主張したいのではない。そうではなく、この問題が、「蜘蛛の糸」を読むこととはまったく関係なく、ある種の形式に則って叙述する力、つまりは国語科の授業で「構成指導」が施されているか、文法的に正しい文を書く能力がどの程度の子どもたちに身についているか、そうした正しい文を連ねて八○~一二○字程度にまとめられる子どもたちがどの程度いるのか、こうした点しか明らかにしないのだ、ということを指摘したいのである。
■第二に、統計的には不必要な、全員に同じ問題を解かせるということをしたがために、今後、役立つような統計結果が得られていない可能性があるという問題である。
■例えば、ないものねだりであるが、もしも一九七○年代にこの調査を実施していたとしたらどうだったろうか。おそらくは同じ中学三年生でも、形式的な文章を書ける者は現在よりも少なかったかも知れないが、「蜘蛛の糸」の第三場面の価値を読み取り、その価値に言及する生徒が現在よりも多かったであろうことが予想される。それは同時に、今回と同じ基準で採点すれば、その正答率は七○年代当時よりも現在の方が高いということを意味しているはずなのだ。当時の国語科授業においては、言語技術的な作文指導はほとんど行われていなかったからである。しかし反面、おそらく「蜘蛛の糸」を題材とした文学教育は現在よりも多く、或いは一般的にと言ってさえいいほどに行われていたはずである。
■さて、こうした時に、七○年代当時の生徒たちと現在の生徒たちとのどちらがより高い国語学力をもっているかという問題は、「国語学力」をどう定義するかにかかっているのである。そして私がここで強調したいのは、教育界において「国語学力」の定義が、或いはもっと広く「学力」の定義がと言ってもいいのだが、時代の流行によって変化するものであるという事実なのである。この度の全国学力・学習状況調査は、この点に考えが及んでいない。あり得ないことではあるが、例えば、二○三○年代に「国語学力の中核は文学作品の価値を読み取ることだ」という国語学力観が流行したとしよう。そのとき、中学三年生の「文学作品の価値を読み取る力」の変遷を調べようとしても、今回の調査は意味をなさない。こういうことがあり得るのである。
■私は、この度の調査が、全員に同じ問題をやらせるのではなく、様々な学力観に基づいた様々な問題を組み合わせて、統計的に優位になるように地域ごとに分担し、様々な学力観に基づく「国語学力」のデータを収集すべきであったと思う。全員に同じ問題に取り組ませるということは、全員が限られた同じだけの時間で限られた同じ問題だけを解くことを意味する。それだけ問題の質を狭め、一面的な調査にならざるを得ないのである。次回調査においては、「百年後にも使えるデータ」を合い言葉に、もっと真剣に調査問題づくりに取り組むべきである。そうでなければ、国語科教育の未来も、学校教育の未来も、延ては教育行政の未来も、暗いと言わざるを得ない。
■十月半ば、全国学力・学習状況調査の結果が公表された。「主として知識」を問うたとされる[国語A]が概ね八割、「主として活用」を問うたとされる[国語B]が概ね七割の正答率。まずまずの結果と見て良いのではないか。問題の質が少々簡単すぎるのではないかとの危惧もあるが、現場としては、「文部科学省が国語学力の基準として置いている一線がこのレベルであるという参考資料になる」と、一応はポジティヴに捉えるべきであろう。その上で、問題点を指摘し、今後の改良を図るべきである。
二 国語学力の現状を見据える
■今回の調査結果の問題点を三点挙げたい。
■まず第一に、[国語A][国語B]双方ともに共通して見られる、記述式問題における無解答率の大きさである。記述式問題は[国語A]で一問、[国語B]で三問の計四問が出題されているが、無回答率はこの四問のどれにおいても約一割を占めている(全国公立)。この現実は、我が国の国語科授業が、もう少し広く言えば学校教育が、或いは教育行政までも含めたこの国の教育制度の実態が、「面倒なことには取り組まない」という生徒を一割程度、事実として生み出していることを表している。
■これからの国語科を(或いは教育を)考えるときに、この一割程度の生徒たちにどう対処していくかということが、今後の教育の在り方を考える上での試金石となる。つまりは、一割程度のイレギュラーは仕方がないものとして臨教審以来のエリート教育を進めていくのか、或いはこの一割の存在を国家的な重要課題と位置づけ、「この一割に機能する新学力観的教育」(記述式問題に対する無解答率の高さを考えるとき、そこにはこの一割程度の生徒の「面倒なこと」に対する意欲の醸成が必要となるのであり、それへの対処は低学力生徒に特化した新学力観的発想で行われることになる)を進めていくのか、或いは双方ともに教育機能を発揮できるような選択履修・習熟度別学習等を目に見える形で進めていくのか、という問題に帰着するわけだ。わかりやすく言えば、「落ちこぼれ」と「吹きこぼれ」をそれぞれどうしていくのかという問題である。
■第二に、学校の授業でなければ身につかない学力(例えば[国語A]における「春はあけぼの」の「あけぼの」を埋めさせるといった出題)と、家庭の教育力によって常識として身につく学力(例えば[国語A]における手紙の形式を問う出題)とをどう仕分けしていくかという問題がある。
■札幌市が調査結果を公開しない方針なので、私も立場上、詳しくは言えないのだが、私には、現在担任している生徒たち(三年生・今回の調査対象となっている)に、家庭教育で身につけることのできるタイプの問題について二年次までに教えていないものがあった。しかし、生徒たちのその問題に対する正答率は六割程度を示しており、このことは今回の調査結果が学校教育の成果を示しているとは限らないということを表しているのである。少なくとも、その要素があるということだけは確かであろう。 この調査は、少なくとも国語科において、国語科の授業が、或いは学校教育が、どのように機能しているかということを示しているとは、一概には言えないということである。
■第三に、今回の調査においては、「PISA調査」で言うところの連続型テキストに関する出題のほとんどが選択式を採用している、という問題がある。
■言うまでもなく、現在、全国的に多くの国語科授業は「PISA型読解力」を念頭に置いて行われているわけではない。とすれば、今回の「読むこと」領域の出題とは別の傾向の問題、つまりは従来の国語科授業モデルに即した問題を出題しない限りは、現行の授業の効果は計れないということである。「読解力」の概念を変更しようとする過渡期の調査故に致し方ない部分があると承知の上で、問題点の三つ目としてこのことを指摘しておきたい。
三 国語学力の未来を想定する
■この度の学力調査は、周知のように、全国の小学校六年生・小学校三年生全員を対象としておこなっている。継続的に学力調査を重ね、この国の学力がどうなっているのかというデータを収集し、教育政策をどう施していくべきかの参考にしようとするものである。この志は否定されるべきでない。これまでこうした調査をしていなかったことの方が不思議である。もっと言えば、データもなしに教育政策を施してきたこれまでの行政の姿勢が問われるべきである。更に言えば、全国学力調査が教育の国家統制につながるとしてデータ収集をはばんできた日教組や一部識者の姿勢が問われるべきである。その意味では、この度の学力調査は教育界において歴史的意味をもつ。しかし、この度の調査が七○億円近い予算をかけた価値があるのかと問われれば、それは熟考を要する。
■まず第一に、各設問で問うことのできる学力が、想定されている以上に狭いのではないか、という問題である。
■例えば、[国語B]において、芥川龍之介「蜘蛛の糸」の第三場面の有無について、その適否を八○~一二○字で自分の意見を書くという出題があった。全国の正答率は七割五分。この問題は出題者の意図としては、「書くこと」領域と「読むこと」領域双方の学力をともに「活用すること」を目論んだものであろう。しかし、七割五分という正答率から予測されるのは、「書くこと」領域の指導事項に従って、形式が整っていれば(賛成か反対かの結論を述べているとか、結論と根拠が照合しているとか、主述の乱れがないといった)正答としたであろう、ということである。つまり、この問題はおそらく、「蜘蛛の糸」の第三場面の価値が読めていなくても正答することができる問題なのである。私はこの問題は、「書くこと」と「読むこと」の二領域の活用問題ではなく、あくまでも形式に則って叙述する力を見る、「書くこと」領域のみの問題でしかないと思う。
■私はここで、「蜘蛛の糸」の第三場面を読む力が生徒たちに必要であるとか、「読むこと」領域をもっと重視すべきであるとか、ましてやかつての文学教育を復活させるべきであるとかといった、国語教育に対する個人的な意見を主張したいのではない。そうではなく、この問題が、「蜘蛛の糸」を読むこととはまったく関係なく、ある種の形式に則って叙述する力、つまりは国語科の授業で「構成指導」が施されているか、文法的に正しい文を書く能力がどの程度の子どもたちに身についているか、そうした正しい文を連ねて八○~一二○字程度にまとめられる子どもたちがどの程度いるのか、こうした点しか明らかにしないのだ、ということを指摘したいのである。
■第二に、統計的には不必要な、全員に同じ問題を解かせるということをしたがために、今後、役立つような統計結果が得られていない可能性があるという問題である。
■例えば、ないものねだりであるが、もしも一九七○年代にこの調査を実施していたとしたらどうだったろうか。おそらくは同じ中学三年生でも、形式的な文章を書ける者は現在よりも少なかったかも知れないが、「蜘蛛の糸」の第三場面の価値を読み取り、その価値に言及する生徒が現在よりも多かったであろうことが予想される。それは同時に、今回と同じ基準で採点すれば、その正答率は七○年代当時よりも現在の方が高いということを意味しているはずなのだ。当時の国語科授業においては、言語技術的な作文指導はほとんど行われていなかったからである。しかし反面、おそらく「蜘蛛の糸」を題材とした文学教育は現在よりも多く、或いは一般的にと言ってさえいいほどに行われていたはずである。
■さて、こうした時に、七○年代当時の生徒たちと現在の生徒たちとのどちらがより高い国語学力をもっているかという問題は、「国語学力」をどう定義するかにかかっているのである。そして私がここで強調したいのは、教育界において「国語学力」の定義が、或いはもっと広く「学力」の定義がと言ってもいいのだが、時代の流行によって変化するものであるという事実なのである。この度の全国学力・学習状況調査は、この点に考えが及んでいない。あり得ないことではあるが、例えば、二○三○年代に「国語学力の中核は文学作品の価値を読み取ることだ」という国語学力観が流行したとしよう。そのとき、中学三年生の「文学作品の価値を読み取る力」の変遷を調べようとしても、今回の調査は意味をなさない。こういうことがあり得るのである。
■私は、この度の調査が、全員に同じ問題をやらせるのではなく、様々な学力観に基づいた様々な問題を組み合わせて、統計的に優位になるように地域ごとに分担し、様々な学力観に基づく「国語学力」のデータを収集すべきであったと思う。全員に同じ問題に取り組ませるということは、全員が限られた同じだけの時間で限られた同じ問題だけを解くことを意味する。それだけ問題の質を狭め、一面的な調査にならざるを得ないのである。次回調査においては、「百年後にも使えるデータ」を合い言葉に、もっと真剣に調査問題づくりに取り組むべきである。そうでなければ、国語科教育の未来も、学校教育の未来も、延ては教育行政の未来も、暗いと言わざるを得ない。
[ 22:31 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
[ 17:30 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
[ 17:18 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
[ 11:38 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
steely dan
★★★★
1. The Last Mall
2. Things I Miss The Most
3. Blues Beach
4. Godwhacker
5. Slang Of Ages
6. Green Book
7. Pixeleen
8. Lunch With Gina
9. Everything Must Go
2003年。20年振りの前作から3年でリリースされた新作に、ファンは驚かされた。21世紀はsteely danをたくさん聴けるのかも知れない。ちょっとライヴ感覚があって、昔のsteely danとは異なるけれど、心地よいアルバム。夜のドライヴなんかには最適だと思う。でも、ガソリンが高いからねえ……(笑)。
★★★★
1. The Last Mall
2. Things I Miss The Most
3. Blues Beach
4. Godwhacker
5. Slang Of Ages
6. Green Book
7. Pixeleen
8. Lunch With Gina
9. Everything Must Go
2003年。20年振りの前作から3年でリリースされた新作に、ファンは驚かされた。21世紀はsteely danをたくさん聴けるのかも知れない。ちょっとライヴ感覚があって、昔のsteely danとは異なるけれど、心地よいアルバム。夜のドライヴなんかには最適だと思う。でも、ガソリンが高いからねえ……(笑)。
2008/05/09のBlog
[ 23:15 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■私はここで、「第三の選択肢」の体現の例として、教育出版社の中学校教科書「伝え合う言葉」を挙げたい。この教科書は、その構成に志の高さが感じられるのみならず、おそらくは我が国の教科書史においても「革命的」と言ってよい画期的な教科書である。その「画期的」の中味は私見によれば次の三点である。
■第一に、「必修教材」「選択教材」「言語事項教材」の三部構成とした点である。この教科書は、例えば田中実が「もはや改変と言うより、国語教科書に革命を起こそうとする強い意志の現れ」(「研究紀要Ⅸ」科学的『読み』の授業研究会)と評したように、教科書が用意した教材内容をそのまま教えることにとどまらず、主体的に教材を選択させることによって、教師個々に国語科の教科内容を組み立てることを促している。この一事をとっても、この教科書は「画期的」と呼ばれて良い。しかし、私がこの教科書を「革命的」と呼ぶのは、このような教科書構成に対してではない。教科書の形こそとらないまでも、このような発想自体は古くから国語教育界にあったのであり、私自身、様々な自主教材を必修教材と関連させたり、或いは複数の教材から読み取った内容について批評させたりといった指導は、二十代の頃からおこなっていた。そうした教師は、実践研究に熱心な国語教師の間では決して珍しい存在ではなく、「画期的」ではあるにしても決して「革命的」な発想とは言えない。この教科書構成の新しさは、あくまでこの発想を教科書の形で具体化し、一部の研究熱心な教師の発想を全国教師に浸透させようとしたという点のみにあると言ってよい。
■この教科書の真の価値は、思想的に一貫した教材を採択し、教科書自体が一つの一貫した思想に貫かれている、という点にある。つまり、教科書自体が一種の思想書として機能するようにつくられているのである。これが「画期的」の第二の点である。日文協では「言葉の力」(池田晶子)ばかりが取り上げられている感があるが、「言葉の力」がもっている教材価値は、実はこの教科書の至る処に散りばめられている。
■「言葉の力」の教材価値は、人間が日常的に当然のこととして受け止めている道具言語観を見直し、言霊言語観への転換を求めているところにある。ソシュール以来の言語論的転回を求めていると言っても良い。しかし、この教材に見られる思想は、「言語」を題材としながらも、実は我々が当たり前と思っていることを疑うことによって、もっと深く、もっと広い世界観が得られるのではないかという、日文協国語教育部会が追い求めている「公共性の希求」の構図を提示していることにこそある。もちろん「公共性とは何か」を提示しているという意味ではない。我々が当然と思っている自己の世界観の上には、「メタ自己世界観」があり得るのだということを一つの思想として示唆しているのだという意味である。つまり、自己の狭い世界観を包み込んでいる広い世界観の存在を想定せよ、というメッセージと受け取れる。この「メタ自己世界観」の存在を常に意識するという構図が、即ち「公共性の希求」の構図であることは言うを待たないであろう。
■教育出版中学校教科書「伝え合う言葉」は、一学年版の表紙裏に佐藤雅彦『プチ哲学』から「ケロちゃん危機一髪」が採られており、「見る枠組みを変えると、同じ行為でも逆の意味さえもってしまいます」と、メタ認知の構図を提示している。また、中学校入学後の第一教材「ふしぎ」(金子みすゞ)は「わたしはふしぎでたまらない、/たれにきいてもわらってて、/あたりまえだ、ということが。」と「あたりまえからの転換」を迫る。この他にも、この教科書には同様のテーマが目白押しである。例えば説明的文章であれば、三人の職人の知恵を題材に際限なき世界観の広がりを提示したり(「ものづくりの知恵」小関智弘・一年)、人間からは超能力としか思えないような動物たちの能力を題材にもっと広い知性観への転換を促したり(「ガイアの知性」龍村仁・二年)、細分化された自然科学の学問をかつての博物学のような広い観点から見直し、人文系学問とも協調することで世界の本質に辿り着けるのではないかと投げかけ、専門分化への警鐘とともに広い視野の必要性を強調したり(「『新しい博物学』の時代」池内了・三年)といった教材が採択されている。また、文学的文章では、登場人物を批評しながら物語っていく「牛飼い」自身の自己倒壊を描き、更には「牛飼い」という語り手とその「牛飼い」を語る語り手という語り手に二重構造をもたせた教育出版の定番教材「オツベルと象」(宮沢賢治・一年)をはじめとして、語り手の聞いた客の独白の中に幼少期・成人後という語り手の二重構造をもたせることによって、結果、語り手機能に三重構造をもたせた「少年の日の思い出」(ヘルマン=ヘッセ・高橋健二訳・一年)、登場人物に対する語り手の批評意識を全面に出した逸品「形」(菊池寛・二年)、独白構成を採りながらも離郷に際して自己への批評性を垣間見せる定番教材「故郷」(魯迅・竹内好訳・三年)など、こちらも世界観の二重構造、三重構造を意識して採択された教材群が並んでいる。中には、「ウミガメと少年」(野坂昭如・三年)のような、沖縄戦を題材としながらも戦争の悲惨さを訴えず、自然を対置して人間の抱く戦争観を相対化して見せるという、沖縄戦被災者に対して挑発的とさえ思われる教材さえ見られる。私は正直、この教科書を初めて手にしたとき、「よくもこれだけ思想的に一貫した教材を集めたものだ」と感嘆してしまったほどである。繰り返しになるが、この教科書は三部構成によって教師に意識改革を求めている点が革命的なのではない。文種を問わず、このようなテーマの一貫した教材を採択し、一種の思想書として機能させようとの志をもって編集されたことこそが革命的なのである。
■この教科書が画期的であることの第三は、実は編集の経緯にある。私はこうした革命的な教科書がどのような経緯で成立したかを詳かにしないが、少なくとも想像を絶する苦労があったであろうことだけは想像に難くない。まず、自らの文学観に従って〈公共性の希求〉というテーマを掲げ、中学生にとってその布石となるような教材を採択しようとする構想をもったはずである。そのために、この構想に沿った文学作品を広く探し求めたであろうことも間違いない。そして次には、文学教材のみならず、おそらく説明的文章にも〈公共性の希求〉というテーマを担わせることを構想したはずである。そのために、様々な書き手にテーマを伝えて教材執筆を依頼したはずである。この教科書の説明的文章の書き下ろし教材の多さがその苦労を物語っている。更には、このような革命的な教科書は、一般の教科書関係者からは思想的に偏った教科書に見えるはずであるから、また、三部構成という教科書史上類のない試みであるから、編集部を説得するのも、教育出版社自体を説得するのも並大抵の苦労ではなかったはずである。シェアがすべての教科書業界にあって、この試みは社運を賭ける覚悟がなければ実現し得ない。要するに、編集の経緯を想像すれば、この教科書が世に出ていること自体が奇跡と言って過言でないほどに困難であるはずなのだ。
■しかし、私たちはいま、この教科書を手にしている。この教科書の中心編集者は、また編集部は、〈公共性の希求〉という自らの〈文学〉の理念を具現化するために、様々な困難を乗り越える〈政治力〉を発揮せねばならなかったはずである。それは冒頭の「教師力ピラミッド」に準えて言えば、自らの〈文学〉を具現するための「先見性」や「創造性」はもちろん、「指導力」に象徴されるような人間関係を紡ぐ力、「事務力」に象徴されるような研究的であると同時に現実的でもなくてはならないという膨大な構想力、また、人心を把握するための「モラル」「生活力」への熟知、これらの総合力がなくては実現し得ない。まさに、〈文学〉と〈政治〉の〈あいだ〉、〈文学〉と〈教育〉の〈あいだ〉を体現する者だけが為し得る仕事である。これを私は「第三の選択肢」の一つの象徴的事例として、心からの敬意を表したい。
■日文協国語教育部会には言うまでもないことだが、この教科書づくりに編集委員として中心的な役割を果たしたのは須貝千里である。私の須貝に対する本格的な出会いは、冒頭にも紹介した本誌五四巻第八号である。須貝の「夢」の比喩から語り出す文章の演出に、私は「ああ、この人は〈文学〉と〈教育〉を真につなげようと絶望的な試みに向かっている」との印象を抱いた。そして一年の後、私は自分の使う教科書によって、自らの直観が正しかったということを確信するに至る。私が須貝をして「第三の選択肢」「第三の道」を体現する者として敬意を表する所以である。
■実は、教育出版中学校教科書には、中心的な編集委員として北原保雄が名を連ねている。このたび、北原を委員長とする検討委員会が世田谷区の日本語特区に際して、「日本語」(小学校用、低・中・高学年の三分冊)及び「表現」「哲学」(中学校用)を編集した。しかし、これらは、①道具言語観に基づいたメッセージ性の高い教材、②音朗読の流行と復古主義に基づき、日本語の韻律を体感させるための教材、という二種類だけで構成されている感がある。こうした教材採択の在り方は、「文学教育」から最も遠いところにあると言わざるを得ない。私には「ないよりはましなもの」「やらないよりはましなこと」にしか見えなかった。
■第一に、「必修教材」「選択教材」「言語事項教材」の三部構成とした点である。この教科書は、例えば田中実が「もはや改変と言うより、国語教科書に革命を起こそうとする強い意志の現れ」(「研究紀要Ⅸ」科学的『読み』の授業研究会)と評したように、教科書が用意した教材内容をそのまま教えることにとどまらず、主体的に教材を選択させることによって、教師個々に国語科の教科内容を組み立てることを促している。この一事をとっても、この教科書は「画期的」と呼ばれて良い。しかし、私がこの教科書を「革命的」と呼ぶのは、このような教科書構成に対してではない。教科書の形こそとらないまでも、このような発想自体は古くから国語教育界にあったのであり、私自身、様々な自主教材を必修教材と関連させたり、或いは複数の教材から読み取った内容について批評させたりといった指導は、二十代の頃からおこなっていた。そうした教師は、実践研究に熱心な国語教師の間では決して珍しい存在ではなく、「画期的」ではあるにしても決して「革命的」な発想とは言えない。この教科書構成の新しさは、あくまでこの発想を教科書の形で具体化し、一部の研究熱心な教師の発想を全国教師に浸透させようとしたという点のみにあると言ってよい。
■この教科書の真の価値は、思想的に一貫した教材を採択し、教科書自体が一つの一貫した思想に貫かれている、という点にある。つまり、教科書自体が一種の思想書として機能するようにつくられているのである。これが「画期的」の第二の点である。日文協では「言葉の力」(池田晶子)ばかりが取り上げられている感があるが、「言葉の力」がもっている教材価値は、実はこの教科書の至る処に散りばめられている。
■「言葉の力」の教材価値は、人間が日常的に当然のこととして受け止めている道具言語観を見直し、言霊言語観への転換を求めているところにある。ソシュール以来の言語論的転回を求めていると言っても良い。しかし、この教材に見られる思想は、「言語」を題材としながらも、実は我々が当たり前と思っていることを疑うことによって、もっと深く、もっと広い世界観が得られるのではないかという、日文協国語教育部会が追い求めている「公共性の希求」の構図を提示していることにこそある。もちろん「公共性とは何か」を提示しているという意味ではない。我々が当然と思っている自己の世界観の上には、「メタ自己世界観」があり得るのだということを一つの思想として示唆しているのだという意味である。つまり、自己の狭い世界観を包み込んでいる広い世界観の存在を想定せよ、というメッセージと受け取れる。この「メタ自己世界観」の存在を常に意識するという構図が、即ち「公共性の希求」の構図であることは言うを待たないであろう。
■教育出版中学校教科書「伝え合う言葉」は、一学年版の表紙裏に佐藤雅彦『プチ哲学』から「ケロちゃん危機一髪」が採られており、「見る枠組みを変えると、同じ行為でも逆の意味さえもってしまいます」と、メタ認知の構図を提示している。また、中学校入学後の第一教材「ふしぎ」(金子みすゞ)は「わたしはふしぎでたまらない、/たれにきいてもわらってて、/あたりまえだ、ということが。」と「あたりまえからの転換」を迫る。この他にも、この教科書には同様のテーマが目白押しである。例えば説明的文章であれば、三人の職人の知恵を題材に際限なき世界観の広がりを提示したり(「ものづくりの知恵」小関智弘・一年)、人間からは超能力としか思えないような動物たちの能力を題材にもっと広い知性観への転換を促したり(「ガイアの知性」龍村仁・二年)、細分化された自然科学の学問をかつての博物学のような広い観点から見直し、人文系学問とも協調することで世界の本質に辿り着けるのではないかと投げかけ、専門分化への警鐘とともに広い視野の必要性を強調したり(「『新しい博物学』の時代」池内了・三年)といった教材が採択されている。また、文学的文章では、登場人物を批評しながら物語っていく「牛飼い」自身の自己倒壊を描き、更には「牛飼い」という語り手とその「牛飼い」を語る語り手という語り手に二重構造をもたせた教育出版の定番教材「オツベルと象」(宮沢賢治・一年)をはじめとして、語り手の聞いた客の独白の中に幼少期・成人後という語り手の二重構造をもたせることによって、結果、語り手機能に三重構造をもたせた「少年の日の思い出」(ヘルマン=ヘッセ・高橋健二訳・一年)、登場人物に対する語り手の批評意識を全面に出した逸品「形」(菊池寛・二年)、独白構成を採りながらも離郷に際して自己への批評性を垣間見せる定番教材「故郷」(魯迅・竹内好訳・三年)など、こちらも世界観の二重構造、三重構造を意識して採択された教材群が並んでいる。中には、「ウミガメと少年」(野坂昭如・三年)のような、沖縄戦を題材としながらも戦争の悲惨さを訴えず、自然を対置して人間の抱く戦争観を相対化して見せるという、沖縄戦被災者に対して挑発的とさえ思われる教材さえ見られる。私は正直、この教科書を初めて手にしたとき、「よくもこれだけ思想的に一貫した教材を集めたものだ」と感嘆してしまったほどである。繰り返しになるが、この教科書は三部構成によって教師に意識改革を求めている点が革命的なのではない。文種を問わず、このようなテーマの一貫した教材を採択し、一種の思想書として機能させようとの志をもって編集されたことこそが革命的なのである。
■この教科書が画期的であることの第三は、実は編集の経緯にある。私はこうした革命的な教科書がどのような経緯で成立したかを詳かにしないが、少なくとも想像を絶する苦労があったであろうことだけは想像に難くない。まず、自らの文学観に従って〈公共性の希求〉というテーマを掲げ、中学生にとってその布石となるような教材を採択しようとする構想をもったはずである。そのために、この構想に沿った文学作品を広く探し求めたであろうことも間違いない。そして次には、文学教材のみならず、おそらく説明的文章にも〈公共性の希求〉というテーマを担わせることを構想したはずである。そのために、様々な書き手にテーマを伝えて教材執筆を依頼したはずである。この教科書の説明的文章の書き下ろし教材の多さがその苦労を物語っている。更には、このような革命的な教科書は、一般の教科書関係者からは思想的に偏った教科書に見えるはずであるから、また、三部構成という教科書史上類のない試みであるから、編集部を説得するのも、教育出版社自体を説得するのも並大抵の苦労ではなかったはずである。シェアがすべての教科書業界にあって、この試みは社運を賭ける覚悟がなければ実現し得ない。要するに、編集の経緯を想像すれば、この教科書が世に出ていること自体が奇跡と言って過言でないほどに困難であるはずなのだ。
■しかし、私たちはいま、この教科書を手にしている。この教科書の中心編集者は、また編集部は、〈公共性の希求〉という自らの〈文学〉の理念を具現化するために、様々な困難を乗り越える〈政治力〉を発揮せねばならなかったはずである。それは冒頭の「教師力ピラミッド」に準えて言えば、自らの〈文学〉を具現するための「先見性」や「創造性」はもちろん、「指導力」に象徴されるような人間関係を紡ぐ力、「事務力」に象徴されるような研究的であると同時に現実的でもなくてはならないという膨大な構想力、また、人心を把握するための「モラル」「生活力」への熟知、これらの総合力がなくては実現し得ない。まさに、〈文学〉と〈政治〉の〈あいだ〉、〈文学〉と〈教育〉の〈あいだ〉を体現する者だけが為し得る仕事である。これを私は「第三の選択肢」の一つの象徴的事例として、心からの敬意を表したい。
■日文協国語教育部会には言うまでもないことだが、この教科書づくりに編集委員として中心的な役割を果たしたのは須貝千里である。私の須貝に対する本格的な出会いは、冒頭にも紹介した本誌五四巻第八号である。須貝の「夢」の比喩から語り出す文章の演出に、私は「ああ、この人は〈文学〉と〈教育〉を真につなげようと絶望的な試みに向かっている」との印象を抱いた。そして一年の後、私は自分の使う教科書によって、自らの直観が正しかったということを確信するに至る。私が須貝をして「第三の選択肢」「第三の道」を体現する者として敬意を表する所以である。
■実は、教育出版中学校教科書には、中心的な編集委員として北原保雄が名を連ねている。このたび、北原を委員長とする検討委員会が世田谷区の日本語特区に際して、「日本語」(小学校用、低・中・高学年の三分冊)及び「表現」「哲学」(中学校用)を編集した。しかし、これらは、①道具言語観に基づいたメッセージ性の高い教材、②音朗読の流行と復古主義に基づき、日本語の韻律を体感させるための教材、という二種類だけで構成されている感がある。こうした教材採択の在り方は、「文学教育」から最も遠いところにあると言わざるを得ない。私には「ないよりはましなもの」「やらないよりはましなこと」にしか見えなかった。
2008/05/08のBlog
[ 21:24 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■三島由紀夫の自決に際して、当時の総理大臣佐藤栄作と防衛庁長官中曽根康弘が「気が狂っているとしか思えない」「常軌を逸した行動というほかない」と、三島を罵倒する発言をしたのは有名な話である。これに対して、多くの文学者が「志を持って自決した死者を、恥ずかしめるわけにはゆかない」(いいだもも・昭和46年11月6日・讀賣新聞)と両者の発言に異を唱えたことも有名な話である。
■かつて文芸批評家磯田光一は、三島の自決と佐藤・中曽根発言との間に「文学の論理」と「政治の論理」との断層を見た(「三島事件と知識人」)。この構図に、「思想の一貫性」と「現実管理の要請」との無限のミゾが浮き彫りにされているからである。前者の志向対象が自己(個人)の完成であるのに対し、後者の志向対象はあくまで集団の秩序であって、両者は決して相容れない性質をもつ。しかし、ここで重要なのは、「自衛隊よ、なぜ立たぬか」という三島由紀夫の「思想の一貫性」が、「教授会よ、何故立たぬか」という全共闘の「思想の一貫性」と等しい位相にあるという点である。大学紛争において、大学知識人がもしも「思想の一貫性」を選択するならば、当然、「現実管理の要請」つまり「秩序」を放棄しなければならない。また、もしも「現実管理の要請」を選択するならば、自分の教えた革新思想を最も急進的に実現しようとしている学生達を裏切らねばならなくなる。このような二項対立を見据えて考えるとき、三島由紀夫に対して自民党政府がとった態度も、全共闘に対して教授会がとった態度も、「現実管理の要請」を通じて集団の秩序を確保したということでしかない。
■政治が組織の上部に位置する限り、そこには「権力」が必要とされる。「権力」とは「公認された暴力」のことであり、それなくしては組織の秩序も保たれない。議会制民主主義とは、この「公認された暴力」の「公認」の部分だけを為政者に臨時に委託することにほかならない。そしてこの構造は、体制側だけでなく、反体制側にも適応できる普遍的な構造なのである。革新勢力もまた、反体制という名の政治組織であって、内部に必ず「権力」の論理をもたずには成立し得ない。しかも、官僚的な統制の行き届いた組織ほど実は政治的には大きな効率をもつのが現実なのである。しかし、官僚制は官僚制であるが故に、まさしく「現実管理の要請」に近接せずにはいられない。そして、組織が「現実管理の要請」に基づいた政治に近づくとき、それを否定すべく発生するのが「文学の論理」(磯田は「ラジカリズム」と呼んでいる)である。しかもそれは、必ずしも大衆の底辺からの批判勢力として発生するとは限らない。「文学の論理」は「政治の論理」を否定するが故に、最終的には死を志向する。それは有効性の彼方にあるものであり、時に政治的有効性を断念した場合にのみ絶望を基盤として急進化する行為である。更にそれは、しばしば悲劇的な敗北を自明の前提として行われる場合がある。だが、そのような絶望的な悲劇が浴びせられるのは、「三島は気が狂っているんだ」という佐藤・中曽根の醜悪な声であり、「諸君、無駄な抵抗は止めてください」という東大学長の白々しい声でしかない。
■磯田はこうした論理を提示した上で、三島由紀夫の自決に「知識人の存在理由を抹殺するための自決」という象徴性を読み取り、三島の中に次の四つの悪意を読み取った。
(1)心情的ラジカリズムで三島を越えようと思ったら死を賭けてみろ。
(2)政治にたずさわるなら、知識人などを廃業して佐藤栄作か宮本顕治になってみろ、そのほうがよほど筋が通っている。
(3)政治の論理を拒否するなら、文学と政治を混同しないで『金閣寺』を書いてみろ。
(4)ただの非政治的生活者をバカにするな。
■言うまでもなく、この〈文学〉と〈政治〉の相克に見られる構図は、そのまま〈文学〉と〈教育〉の相克の構図にも当て嵌まる。全共闘に対した東大教授会のみならず、すべての教育機関は「現実管理の要請」の上に成り立っている。その意味で、学校教育は〈政治〉なのであり、教育研究としての「文学教育」を構想することもまた、「現実管理の要請」から自由ではあり得ないのである。とすれば、三島が政治的知識人に投げかけた悪意は、そのまま教育研究としての「文学教育」を構想しようとする我々にも向けられていると見なければならない。死を賭けろとまでは言わないにしても、磯田が三島の自決から読み取った二つの象徴性、つまり、政治にたずさわるなら、知識人的態度よりも佐藤栄作や宮本顕治のごとき政治家的な態度の方がよほど筋が通っている、政治の論理(現実管理の要請)より文学を優先したいというのなら、〈文学〉と〈教育〉とを混同することなく、〈文学〉の世界のみで生きてみよ、と突きつけられているのである。要するに、〈管理〉に徹するか、〈文学〉に徹するか、どちらかを選択せよというわけだ。しかし、当然のことながら、私たちはどちらを選ぶことも許されない。「文学教育」にとって、〈文学〉と〈教育〉とは車の両輪、コインの裏表であって、切り離すわけにはいかないのである。そのとき、私たちにはいかなる選択肢が用意されているであろうか。
■そこには、三島のごとき「心情的ラジカリズム」を〈文学〉に向けるのでなく、〈文学〉と〈教育〉の本質的背馳、〈文学〉と〈教育〉の〈あいだ〉にこそ向けるという道しか残されてはいない。しかもそれはおそらく、政治的有効性を断念し絶望を基盤に急進化させるのでなく、悲劇的な敗北を自明の前提として行うのでない、理想的にして現実的な道を希求するという、遙かの山に聳える城を希求する道である。佐藤栄作にも宮本顕治にもならずに政治的効率性を求め、非政治的生活者にさえ〈文学〉を機能させると同時に〈教育〉をも成立させることが目標となる。それは、先の「教師力ピラミッド」で言えば、教師に求められる能力のすべてを具え、現実的な〈教育〉を機能させ、それでいて〈文学〉の理想を決して見失うことのない、教師自身が「文学教育」の体現者となる道である。私はこの困難な道を指して「第三の選択肢」と呼んだのである。
■かつて文芸批評家磯田光一は、三島の自決と佐藤・中曽根発言との間に「文学の論理」と「政治の論理」との断層を見た(「三島事件と知識人」)。この構図に、「思想の一貫性」と「現実管理の要請」との無限のミゾが浮き彫りにされているからである。前者の志向対象が自己(個人)の完成であるのに対し、後者の志向対象はあくまで集団の秩序であって、両者は決して相容れない性質をもつ。しかし、ここで重要なのは、「自衛隊よ、なぜ立たぬか」という三島由紀夫の「思想の一貫性」が、「教授会よ、何故立たぬか」という全共闘の「思想の一貫性」と等しい位相にあるという点である。大学紛争において、大学知識人がもしも「思想の一貫性」を選択するならば、当然、「現実管理の要請」つまり「秩序」を放棄しなければならない。また、もしも「現実管理の要請」を選択するならば、自分の教えた革新思想を最も急進的に実現しようとしている学生達を裏切らねばならなくなる。このような二項対立を見据えて考えるとき、三島由紀夫に対して自民党政府がとった態度も、全共闘に対して教授会がとった態度も、「現実管理の要請」を通じて集団の秩序を確保したということでしかない。
■政治が組織の上部に位置する限り、そこには「権力」が必要とされる。「権力」とは「公認された暴力」のことであり、それなくしては組織の秩序も保たれない。議会制民主主義とは、この「公認された暴力」の「公認」の部分だけを為政者に臨時に委託することにほかならない。そしてこの構造は、体制側だけでなく、反体制側にも適応できる普遍的な構造なのである。革新勢力もまた、反体制という名の政治組織であって、内部に必ず「権力」の論理をもたずには成立し得ない。しかも、官僚的な統制の行き届いた組織ほど実は政治的には大きな効率をもつのが現実なのである。しかし、官僚制は官僚制であるが故に、まさしく「現実管理の要請」に近接せずにはいられない。そして、組織が「現実管理の要請」に基づいた政治に近づくとき、それを否定すべく発生するのが「文学の論理」(磯田は「ラジカリズム」と呼んでいる)である。しかもそれは、必ずしも大衆の底辺からの批判勢力として発生するとは限らない。「文学の論理」は「政治の論理」を否定するが故に、最終的には死を志向する。それは有効性の彼方にあるものであり、時に政治的有効性を断念した場合にのみ絶望を基盤として急進化する行為である。更にそれは、しばしば悲劇的な敗北を自明の前提として行われる場合がある。だが、そのような絶望的な悲劇が浴びせられるのは、「三島は気が狂っているんだ」という佐藤・中曽根の醜悪な声であり、「諸君、無駄な抵抗は止めてください」という東大学長の白々しい声でしかない。
■磯田はこうした論理を提示した上で、三島由紀夫の自決に「知識人の存在理由を抹殺するための自決」という象徴性を読み取り、三島の中に次の四つの悪意を読み取った。
(1)心情的ラジカリズムで三島を越えようと思ったら死を賭けてみろ。
(2)政治にたずさわるなら、知識人などを廃業して佐藤栄作か宮本顕治になってみろ、そのほうがよほど筋が通っている。
(3)政治の論理を拒否するなら、文学と政治を混同しないで『金閣寺』を書いてみろ。
(4)ただの非政治的生活者をバカにするな。
■言うまでもなく、この〈文学〉と〈政治〉の相克に見られる構図は、そのまま〈文学〉と〈教育〉の相克の構図にも当て嵌まる。全共闘に対した東大教授会のみならず、すべての教育機関は「現実管理の要請」の上に成り立っている。その意味で、学校教育は〈政治〉なのであり、教育研究としての「文学教育」を構想することもまた、「現実管理の要請」から自由ではあり得ないのである。とすれば、三島が政治的知識人に投げかけた悪意は、そのまま教育研究としての「文学教育」を構想しようとする我々にも向けられていると見なければならない。死を賭けろとまでは言わないにしても、磯田が三島の自決から読み取った二つの象徴性、つまり、政治にたずさわるなら、知識人的態度よりも佐藤栄作や宮本顕治のごとき政治家的な態度の方がよほど筋が通っている、政治の論理(現実管理の要請)より文学を優先したいというのなら、〈文学〉と〈教育〉とを混同することなく、〈文学〉の世界のみで生きてみよ、と突きつけられているのである。要するに、〈管理〉に徹するか、〈文学〉に徹するか、どちらかを選択せよというわけだ。しかし、当然のことながら、私たちはどちらを選ぶことも許されない。「文学教育」にとって、〈文学〉と〈教育〉とは車の両輪、コインの裏表であって、切り離すわけにはいかないのである。そのとき、私たちにはいかなる選択肢が用意されているであろうか。
■そこには、三島のごとき「心情的ラジカリズム」を〈文学〉に向けるのでなく、〈文学〉と〈教育〉の本質的背馳、〈文学〉と〈教育〉の〈あいだ〉にこそ向けるという道しか残されてはいない。しかもそれはおそらく、政治的有効性を断念し絶望を基盤に急進化させるのでなく、悲劇的な敗北を自明の前提として行うのでない、理想的にして現実的な道を希求するという、遙かの山に聳える城を希求する道である。佐藤栄作にも宮本顕治にもならずに政治的効率性を求め、非政治的生活者にさえ〈文学〉を機能させると同時に〈教育〉をも成立させることが目標となる。それは、先の「教師力ピラミッド」で言えば、教師に求められる能力のすべてを具え、現実的な〈教育〉を機能させ、それでいて〈文学〉の理想を決して見失うことのない、教師自身が「文学教育」の体現者となる道である。私はこの困難な道を指して「第三の選択肢」と呼んだのである。
[ 21:23 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
THE POLICE
★★★★★
1. Synchronicity I
2. Walking in Your Footsteps
3. O My God
4. Mother
5. Miss Gradenko
6. Synchronicity II
7. Every Breath You Take
8. King of Pain
9. Wrapped Around Your Finger
10. Tea in the Sahara
11. Murder by Numbers
1986年6月リリース。ミーハーと言われればそれまでだが、このアルバムが好きでたまらない。好きと言うより、あまりに格好良くて、知的で、高校時代の憧れの心象をいまもそのまま抱いている、という感じ。このアルバムだけが、ポリスだけが理由ではないが、80年代に青春期を送れて本当に良かったな、と思うことがよくある。同じように感じている同世代はかなり多いはずだ。たぶん80年代ってのは、それ以前とそれ以後との両方をともにもっていた、稀な時代だったのだと思う。自分達よりも上の世代のこだわりも理解できるし、自分達よりも若い世代の感性にも通底している、そんな実感が僕らの世代にはある。いま、僕らの世代がテレビ番組の製作を牛耳っているようで、僕らの世代には耳慣れた80年代のヒットソングが、ずいぶんと番組のBGMに多用されている。それもまた、楽しい。そんな愛すべきヒットソング達の中で、このアルバムは確かに大きな存在感をもっているアルバムであるはずだ。同世代の多くが、大きくうなずいてくれると思う。
★★★★★
1. Synchronicity I
2. Walking in Your Footsteps
3. O My God
4. Mother
5. Miss Gradenko
6. Synchronicity II
7. Every Breath You Take
8. King of Pain
9. Wrapped Around Your Finger
10. Tea in the Sahara
11. Murder by Numbers
1986年6月リリース。ミーハーと言われればそれまでだが、このアルバムが好きでたまらない。好きと言うより、あまりに格好良くて、知的で、高校時代の憧れの心象をいまもそのまま抱いている、という感じ。このアルバムだけが、ポリスだけが理由ではないが、80年代に青春期を送れて本当に良かったな、と思うことがよくある。同じように感じている同世代はかなり多いはずだ。たぶん80年代ってのは、それ以前とそれ以後との両方をともにもっていた、稀な時代だったのだと思う。自分達よりも上の世代のこだわりも理解できるし、自分達よりも若い世代の感性にも通底している、そんな実感が僕らの世代にはある。いま、僕らの世代がテレビ番組の製作を牛耳っているようで、僕らの世代には耳慣れた80年代のヒットソングが、ずいぶんと番組のBGMに多用されている。それもまた、楽しい。そんな愛すべきヒットソング達の中で、このアルバムは確かに大きな存在感をもっているアルバムであるはずだ。同世代の多くが、大きくうなずいてくれると思う。
2008/05/07のBlog
[ 22:13 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■少々遠回りの感は否めないが、教師の役割から議論を始めたい。
■学校バッシング、教師バッシングが喧しい昨今、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分らはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。二○○○年前後には学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩する毎日。それから丸七年が経とうしている現在、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、ますます闊歩の度合いを強めているように見える。その証拠に、二○○○年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、昨今はかの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっている。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第二回学校再生分科会議事録)と定義していることから見ても、私のこの状況認識はある種の妥当性をもっているようだ。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。
■二○○三年四月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰していることを意味している。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見てよいだろう。
■学校バッシング、教師バッシングが喧しい昨今、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分らはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。二○○○年前後には学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩する毎日。それから丸七年が経とうしている現在、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、ますます闊歩の度合いを強めているように見える。その証拠に、二○○○年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、昨今はかの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっている。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第二回学校再生分科会議事録)と定義していることから見ても、私のこの状況認識はある種の妥当性をもっているようだ。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。
■二○○三年四月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰していることを意味している。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見てよいだろう。
■こうした状況の中で、最近、必要に迫られて、教師に必要な能力を分析して図解した「教師力ピラミッド」というモデルを作成した。マスコミや保護者といった学校外の人間も、そして教師自身も、教師に必要とされる能力と実態を知ることが問題解決の出発点になるだろう、と考えたからである。 「教師力ピラミッド」は、教師の日常的な仕事に関して、教師に求められている資質と能力をわかりやすく網羅し、三角形の底辺から頂点に向けて、能力習得の難易度に応じて三段階にランクづけしたものである。
■第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。
■第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。
■ また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編成という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。 更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。
■〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳について考えるとき、教師の置かれている位置と文学の機能とのせめぎ合いが問題となる。私はかつて次のように書いたことがある(「日本文学」第54巻12号/日本文学協会)。
□かの竹内好の言を引くまでもなく、「文学」と「教育」とは背馳する。「文学を志す教師」は皆、いやが上にもこの矛盾に投げ込まれる。そのとき、教師には三つの選択肢が用意されている。第一の選択肢は自らの中で「教育」を捨て「文学」を独立させること。しかしこれは、変人教師と揶揄されながら生きるか、エセ研究者的な教師になるかのどちらかを意味する。第二の選択肢は「文学」を捨て「教育」に流されること。しかし、これはもはや「文学を志す教師」とは言えない。そして第三の選択肢が、「文学」と「教育」との矛盾にこそ「了解不能の《他者》」の価値付けを施し、その公共性を目指して次々に自らに巣くう共同性を倒壊させていく道である。須貝が研究者の道を選んで十数年を経てなお、この第三の道を歩み続けていることは、本誌第五四巻第八号の須貝論文に明らかである。
■〈文学〉は「教師力ピラミッド」で言えば、最上段の三角形「先見性・創造性」の頂点にある。私の言う「第一の選択肢」とは、この頂点と「事務力」の一つに過ぎない「研究力」とだけに特化した生き方をしている教師の在り方を指す。「第二の選択肢」とは、再下段「モラル・生活力」、第二段の必要とされる「指導力」の現実に鑑みた「研究力」しか発揮せず、最上段の頂点たる「文学」を捨て形式的な「エセ文学教育」(例えば「読解指導」「分析批評」「読者論的読み」と呼ばれるような)に特化した教師を言う。いずれも〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳に正対せず、自らの「共同性」(自らが捉える「文学と教育の関係性」を基盤とした世界観)に埋没する教師なのであり、その「共同性」を超えた「公共性」(現段階で自分には見えていない「文学と教育の関係性」の世界観があると想定すること)のベクトルを見据えていない、その志向性さえ抱いていない、そんな教師の在り方である。
■言うまでもなく田中実の主張する「文学教育」は、最上段の三角形の頂点に位置する〈文学〉をさえ超えようとする文学観に支えられている。いまだ見えてない「公共性」を追究する主体をこそ価値付け、そのベクトルを追い求める姿勢にこそ〈文学〉の機能を見る、そうした文学観である。それは文学教育の理論としては機能し得ても、現段階では実践として機能し得ない。せいぜい田中の置かれている大学教育において専門教育に特化した場において少しばかりの機能を示す程度であろう。その意味で、田中の文学観・文学教育観のそのままの具現化を目指す国語教師達を、現実を変える力を持たない姿勢として、或いは田中の文学観に埋没しつつ「第一の選択肢」を選んだ姿勢として捉え、私は「田中実のエピゴーネン」と揶揄したのであった(本誌五五巻八号)。
■しかし、須貝千里の姿勢はこれらとは一線を画す。須貝はいまだ到達し得ない「公共性」のイメージを、論文の冒頭で自らの「夢」として演出して見せた(本誌五四巻八号)。それは例えば、かつて野間宏が『暗い絵』において、冒頭で「ブリューゲルの絵」を描写して時代と世代の心象を開示して見せたのと同一の手法である。もちろんこれが学術論文としてどうかという点には議論もあろう。だが、「公共性」のベクトルを提示し、〈文学〉と〈教育〉の相克に正対する姿勢を堅持する者にとって、問題の本質はそのような些末な論点にはあり得ない。私が須貝を「第三の選択肢」の体現者と評する所以である。
■第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。
■第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。
■ また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編成という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。 更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。
■〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳について考えるとき、教師の置かれている位置と文学の機能とのせめぎ合いが問題となる。私はかつて次のように書いたことがある(「日本文学」第54巻12号/日本文学協会)。
□かの竹内好の言を引くまでもなく、「文学」と「教育」とは背馳する。「文学を志す教師」は皆、いやが上にもこの矛盾に投げ込まれる。そのとき、教師には三つの選択肢が用意されている。第一の選択肢は自らの中で「教育」を捨て「文学」を独立させること。しかしこれは、変人教師と揶揄されながら生きるか、エセ研究者的な教師になるかのどちらかを意味する。第二の選択肢は「文学」を捨て「教育」に流されること。しかし、これはもはや「文学を志す教師」とは言えない。そして第三の選択肢が、「文学」と「教育」との矛盾にこそ「了解不能の《他者》」の価値付けを施し、その公共性を目指して次々に自らに巣くう共同性を倒壊させていく道である。須貝が研究者の道を選んで十数年を経てなお、この第三の道を歩み続けていることは、本誌第五四巻第八号の須貝論文に明らかである。
■〈文学〉は「教師力ピラミッド」で言えば、最上段の三角形「先見性・創造性」の頂点にある。私の言う「第一の選択肢」とは、この頂点と「事務力」の一つに過ぎない「研究力」とだけに特化した生き方をしている教師の在り方を指す。「第二の選択肢」とは、再下段「モラル・生活力」、第二段の必要とされる「指導力」の現実に鑑みた「研究力」しか発揮せず、最上段の頂点たる「文学」を捨て形式的な「エセ文学教育」(例えば「読解指導」「分析批評」「読者論的読み」と呼ばれるような)に特化した教師を言う。いずれも〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳に正対せず、自らの「共同性」(自らが捉える「文学と教育の関係性」を基盤とした世界観)に埋没する教師なのであり、その「共同性」を超えた「公共性」(現段階で自分には見えていない「文学と教育の関係性」の世界観があると想定すること)のベクトルを見据えていない、その志向性さえ抱いていない、そんな教師の在り方である。
■言うまでもなく田中実の主張する「文学教育」は、最上段の三角形の頂点に位置する〈文学〉をさえ超えようとする文学観に支えられている。いまだ見えてない「公共性」を追究する主体をこそ価値付け、そのベクトルを追い求める姿勢にこそ〈文学〉の機能を見る、そうした文学観である。それは文学教育の理論としては機能し得ても、現段階では実践として機能し得ない。せいぜい田中の置かれている大学教育において専門教育に特化した場において少しばかりの機能を示す程度であろう。その意味で、田中の文学観・文学教育観のそのままの具現化を目指す国語教師達を、現実を変える力を持たない姿勢として、或いは田中の文学観に埋没しつつ「第一の選択肢」を選んだ姿勢として捉え、私は「田中実のエピゴーネン」と揶揄したのであった(本誌五五巻八号)。
■しかし、須貝千里の姿勢はこれらとは一線を画す。須貝はいまだ到達し得ない「公共性」のイメージを、論文の冒頭で自らの「夢」として演出して見せた(本誌五四巻八号)。それは例えば、かつて野間宏が『暗い絵』において、冒頭で「ブリューゲルの絵」を描写して時代と世代の心象を開示して見せたのと同一の手法である。もちろんこれが学術論文としてどうかという点には議論もあろう。だが、「公共性」のベクトルを提示し、〈文学〉と〈教育〉の相克に正対する姿勢を堅持する者にとって、問題の本質はそのような些末な論点にはあり得ない。私が須貝を「第三の選択肢」の体現者と評する所以である。
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