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2007/10/13のBlog
[ 23:59 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■第二土曜日がやってきた。「研究集団ことのは」の月例会である。今日の中心テーマは学校祭。私の学校はまだ終わっていないものの,札幌市内の多くの中学校では,既に9月末に終えている。そこで,勤務校で生徒会部の長である森くんに,学校祭の企画段階から各係にどういう風に仕事をさせるのか,隙間仕事をどのように埋めるのか,といった諸々のことを提案してもらおうという企画である。いわば,働かない教師,やる気のない教師,能力のない教師をどう捲き込んで,すべての生徒に担当教師によって損をした気にさせないかという,責任者としての運営の在り方の提案である。こういう実態に応じた現実的な研究は,官制研究会では決してできない。教師はみんな能力があって,みんなやる気があって,更に良いものをつくるために創意工夫の仕方を学ぶ,それが公的な研究会の建前だからだ。官制研究会が現実には役に立たないと言われる所以である。しかし,敢えて言っておきたいのだが,真に能力があってやる気もある者には,官制研究会はけっこう役に立つ。「官制研究会は役立たない」と公言する者は,実は自分の無能さを公言しているようなものである。私はこの言葉を吐く教員に憐れみを感じている。
■森くんの提案はひと言でいえば「王道」だった。全体企画を建たあとは,計画通りの日程にあわせて常に早めに提案する,生徒にそのまま伝えればいいようなプリントを各担任に配布して連絡に漏れがないようにする,各担当者には当日の朝に活動場所を確認に行くようにといった細かな事案までプリントで徹底する,完全に同僚を信用していない,いわば管理型オンリーのマネジメントである。そこにはアイディアを吸い上げることや各発表物づくりのコツを伝えるといったことが〈システム化〉されていない。私は森くんの提案を批判しているのではない。森くんの勤務校は,私のかつての勤務校でもあり,その学校らしいシステムであると思うし,これが現実的だとも思う。これは言わば,学校祭を,年間行事で位置づけられたビックイベントでありながら,教師集団としては消化行事と捉えている,この学校独自のスムーズな運営を目指す思想から生まれたシステムであると思う。言ってみれば,結果を出すことが大切なのであり,学校祭で生徒が育たなくても良いのである。私もこの学校に勤務していたときは,そうだったからよくわかる。もちろん,行事を通る中で結果的に生徒は育つのだが,それは「活動あって指導なし」の典型であり,その混沌とした活動の中で,生徒達が自らの「学ぶ力量」によってそれぞれ勝手に学んでいるだけで,教師や学校の意図的・計画的な「学びの場」ではない。要するに,「教師の力量で結果は出す。あとはお前たちが勝手に学べ」というシステムである。そういう行事運営は確かに「あり」であり,実は「現実的」でさえある。これは皮肉でなく,「王道」である。
■次には,私の昨年の学校祭ステージ発表のビデオ視聴。「ミッキーマウスと愉快な仲間達 ver.5」である。単なるディズニー・キャラクターのショーなのだが,①ミッキー・ミニーの場,②不思議の国のアリスの場,③白雪姫の場,④ピノキオの場,⑤ディズニー・バレードという5場構成になっているところがミソである。総出演者は50人を超える。30人でも出来るし,100人でもできる。そういう工夫の為された,ある種のオムニバスである。さて,今回のミソは「ピノキオの場」をこれまでに比べてかなり作り込んだところである。これで①③④⑤の作り込みが終わり,数年後,再びこのステージを行うときに「②不思議の国のアリスの場」の作り込みを完了すれば,完成品のステージになる。この13年間で私はこのステージを5回行っているが,1回目(94年)は「とにかくやる」,2回目(97年)は「白雪姫の場を作り込む」,3回目(98年)は「ミッキー・ミニーの場を作り込む」,4回目(03年)は「不思議の国のアリスの場を作り込む」(失敗。満足できず),5回目(06年)は「ピノキオの場をつくり込む」という流れできている。私にとっては,これも立派な研究なのであり,私にとっては長年かけて研究を続けている〈題材〉なのである。昔,学生時代の恩師の一人である潟沼先生は私に「研究とは息の長いものだ。堀くんには息の長い,本物の研究をして欲しい」とおっしゃられた。私にとって,このステージはその一つとして意識されている。ここまでを読んで,読者の方々は単なるステージ構成の問題として捉えられたかもしれない。しかし,そうではない。私が「○○の場を作り込む」というとき,キャストの一つ一つにどういうタイプの生徒を配置するとどのようにかけ合わされるかとか,それぞれのかけ合わせが相乗効果を産むときと産まないときの違いは何かとか,何日前にどういう指示を出すと教師がつかなくても練習が機能するかとか,どの部分をフレームとして教師が提示し,どの部分に生徒のアイディアを活かす自由度を与えるかとか,そういうことを含んでいる。だから私は,一回のステージが終わると,そのビデオを繰り返し50回くらい見るし,その後も月に一度程度の割合でそのビデオを見続ける。準備時間のいろいろな場面が想い出され,本番でこういう結果になったのはあのときのあのやりとりの結果だとか,あのときにあそこをもうひと言詰めておくべきだったとか,そういうことを考えながら見ている。私にとってはとても大切な内省の時間である。意外と知られていないことだが,私は校内では,「国語屋」でもなく「研究屋」でもなく「生徒指導屋」でもなく,一つだけ挙げるとすれば「特活屋」イメージ,「行事屋」イメージの教師である。
■例会内容の第三は,太布さんの来週火曜日の空知教育センターの研究授業。模擬授業で発問・指示の検討,そして指導案の検討である。「ことのは」では久し振りの「話すこと・聞くこと」領域。生徒協議会の議論を学級に報告するという授業である。教材は3本。短めの練習教材1本と隣同士で報告し合うための長めの教材が1本ずつ。しかし,練習教材と中心教材の間に難易度の差がありすぎたので,間に中間的な教材をもう1本入れるように指示。これで授業構成としてはスッキリした。また,我々がセンターの研究などにコミットする場合のスタンスの取り方についても議論になった。その議論内容については,良きにつけ悪しきにつけ,公開するには少々問題がありそうなので割愛する。
■第四に,山下くんの「形」(菊池寛・中2)の模擬授業。これは教材解釈がずいぶんと深まるいい議論が展開された。特に,日文協が主張する「共同性」と「公共性」の問題に「ことのは」内で初めて議論が及んだ。画期的な議論だったと言って過言ではない。ただ,「共同性」も「公共性」も,説明しようと叙述的な言葉を用いると,陳腐な構造に回収されてしまう。これを陳腐にしないための言葉遣いはないものかという,大変質の高い議論が展開された。冬の合宿に向けて,たいへん良い〈布石〉となった。実はこういう瞬間こそが「公共性の希求」なのだが,「結局,そういう経験のない者にはわからないのではないか」という議論に終始せざるを得なかった。日文協の提案も,そして「ことのは」の提案でさえも,本質的には一般の先生方に伝わらないのは,経験の差なのだという絶望的な結論に至った。日文協が主張していることも,「ことのは」が主張していることも,題材は違えども結局は,「人生とは発見と倒壊と再構築の連続なのであり,そういうベクトルを持つことこそが人の生きる道として尊い」ということに過ぎない。それを日文協は「公共性」と呼び,「ことのは」は「メタ認知」と呼んでいるだけだ。しかし,こんなシンプルな構造がなかなか一般の人たちには伝わらない。伝えられない。さて,どうしたものか。今度,須貝さんと飲もう。
■いずれにしても,久し振りに例会らしい例会,濃い例会だった。
■森くんの提案はひと言でいえば「王道」だった。全体企画を建たあとは,計画通りの日程にあわせて常に早めに提案する,生徒にそのまま伝えればいいようなプリントを各担任に配布して連絡に漏れがないようにする,各担当者には当日の朝に活動場所を確認に行くようにといった細かな事案までプリントで徹底する,完全に同僚を信用していない,いわば管理型オンリーのマネジメントである。そこにはアイディアを吸い上げることや各発表物づくりのコツを伝えるといったことが〈システム化〉されていない。私は森くんの提案を批判しているのではない。森くんの勤務校は,私のかつての勤務校でもあり,その学校らしいシステムであると思うし,これが現実的だとも思う。これは言わば,学校祭を,年間行事で位置づけられたビックイベントでありながら,教師集団としては消化行事と捉えている,この学校独自のスムーズな運営を目指す思想から生まれたシステムであると思う。言ってみれば,結果を出すことが大切なのであり,学校祭で生徒が育たなくても良いのである。私もこの学校に勤務していたときは,そうだったからよくわかる。もちろん,行事を通る中で結果的に生徒は育つのだが,それは「活動あって指導なし」の典型であり,その混沌とした活動の中で,生徒達が自らの「学ぶ力量」によってそれぞれ勝手に学んでいるだけで,教師や学校の意図的・計画的な「学びの場」ではない。要するに,「教師の力量で結果は出す。あとはお前たちが勝手に学べ」というシステムである。そういう行事運営は確かに「あり」であり,実は「現実的」でさえある。これは皮肉でなく,「王道」である。
■次には,私の昨年の学校祭ステージ発表のビデオ視聴。「ミッキーマウスと愉快な仲間達 ver.5」である。単なるディズニー・キャラクターのショーなのだが,①ミッキー・ミニーの場,②不思議の国のアリスの場,③白雪姫の場,④ピノキオの場,⑤ディズニー・バレードという5場構成になっているところがミソである。総出演者は50人を超える。30人でも出来るし,100人でもできる。そういう工夫の為された,ある種のオムニバスである。さて,今回のミソは「ピノキオの場」をこれまでに比べてかなり作り込んだところである。これで①③④⑤の作り込みが終わり,数年後,再びこのステージを行うときに「②不思議の国のアリスの場」の作り込みを完了すれば,完成品のステージになる。この13年間で私はこのステージを5回行っているが,1回目(94年)は「とにかくやる」,2回目(97年)は「白雪姫の場を作り込む」,3回目(98年)は「ミッキー・ミニーの場を作り込む」,4回目(03年)は「不思議の国のアリスの場を作り込む」(失敗。満足できず),5回目(06年)は「ピノキオの場をつくり込む」という流れできている。私にとっては,これも立派な研究なのであり,私にとっては長年かけて研究を続けている〈題材〉なのである。昔,学生時代の恩師の一人である潟沼先生は私に「研究とは息の長いものだ。堀くんには息の長い,本物の研究をして欲しい」とおっしゃられた。私にとって,このステージはその一つとして意識されている。ここまでを読んで,読者の方々は単なるステージ構成の問題として捉えられたかもしれない。しかし,そうではない。私が「○○の場を作り込む」というとき,キャストの一つ一つにどういうタイプの生徒を配置するとどのようにかけ合わされるかとか,それぞれのかけ合わせが相乗効果を産むときと産まないときの違いは何かとか,何日前にどういう指示を出すと教師がつかなくても練習が機能するかとか,どの部分をフレームとして教師が提示し,どの部分に生徒のアイディアを活かす自由度を与えるかとか,そういうことを含んでいる。だから私は,一回のステージが終わると,そのビデオを繰り返し50回くらい見るし,その後も月に一度程度の割合でそのビデオを見続ける。準備時間のいろいろな場面が想い出され,本番でこういう結果になったのはあのときのあのやりとりの結果だとか,あのときにあそこをもうひと言詰めておくべきだったとか,そういうことを考えながら見ている。私にとってはとても大切な内省の時間である。意外と知られていないことだが,私は校内では,「国語屋」でもなく「研究屋」でもなく「生徒指導屋」でもなく,一つだけ挙げるとすれば「特活屋」イメージ,「行事屋」イメージの教師である。
■例会内容の第三は,太布さんの来週火曜日の空知教育センターの研究授業。模擬授業で発問・指示の検討,そして指導案の検討である。「ことのは」では久し振りの「話すこと・聞くこと」領域。生徒協議会の議論を学級に報告するという授業である。教材は3本。短めの練習教材1本と隣同士で報告し合うための長めの教材が1本ずつ。しかし,練習教材と中心教材の間に難易度の差がありすぎたので,間に中間的な教材をもう1本入れるように指示。これで授業構成としてはスッキリした。また,我々がセンターの研究などにコミットする場合のスタンスの取り方についても議論になった。その議論内容については,良きにつけ悪しきにつけ,公開するには少々問題がありそうなので割愛する。
■第四に,山下くんの「形」(菊池寛・中2)の模擬授業。これは教材解釈がずいぶんと深まるいい議論が展開された。特に,日文協が主張する「共同性」と「公共性」の問題に「ことのは」内で初めて議論が及んだ。画期的な議論だったと言って過言ではない。ただ,「共同性」も「公共性」も,説明しようと叙述的な言葉を用いると,陳腐な構造に回収されてしまう。これを陳腐にしないための言葉遣いはないものかという,大変質の高い議論が展開された。冬の合宿に向けて,たいへん良い〈布石〉となった。実はこういう瞬間こそが「公共性の希求」なのだが,「結局,そういう経験のない者にはわからないのではないか」という議論に終始せざるを得なかった。日文協の提案も,そして「ことのは」の提案でさえも,本質的には一般の先生方に伝わらないのは,経験の差なのだという絶望的な結論に至った。日文協が主張していることも,「ことのは」が主張していることも,題材は違えども結局は,「人生とは発見と倒壊と再構築の連続なのであり,そういうベクトルを持つことこそが人の生きる道として尊い」ということに過ぎない。それを日文協は「公共性」と呼び,「ことのは」は「メタ認知」と呼んでいるだけだ。しかし,こんなシンプルな構造がなかなか一般の人たちには伝わらない。伝えられない。さて,どうしたものか。今度,須貝さんと飲もう。
■いずれにしても,久し振りに例会らしい例会,濃い例会だった。
2007/10/12のBlog
[ 23:59 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■「研究集団ことのは」という国語教育研究サークルで活動を始めて丸16年が過ぎようとしている。20代半ばから40代前半くらいまでの中学校国語教師ばかりが集っている30名弱のサークルである。例会は原則として月に一回だが,その他にも冬の合宿研究会をはじめとして,様々な活動をしている。累積科学国語教育研究会や教室実践力研究会の活動事務局として機能しているし,教師力BRUSH-UPセミナーや授業づくりネットワークといった他団体の研究会に登壇することも多い。かつては法則化運動に学んでいる方々と合同研修会をもつこともあった。
■さて,私が代表を務めるこの「研究集団ことのは」は,私の勤務校の学校長から見れば,おそらく「裏文化」だ。直接的には公務とはつながっていないし,学校の校内研究とも端から見ればつながってはいない。しかし,である。私は今年で教員生活17年目であるが,現在の私の身につけている企画力,授業推進力,授業技術,生徒指導力,発想法,その他諸々……いわゆる「教師としての資質・能力」の九割以上は,「研究集団ことのは」とそれに関わる様々な活動で培われたものである。私は公務を推進するにあたって,学校や官制研究会での学びよりも,圧倒的に「ことのは」での学びを活かしている。学校における教務部印としてり新教育課程づくりや,学年主任としての生徒指導のノウハウ,学年運営の手法においても「ことのは」での学びをもとにアイディアを提出している。これは間違いない。
■しかし私はもちろん,「研究集団ことのは」を中心とする活動に際してかかった金額を研究推進費として請求しもしないし,特に求められない限りは活動の内容について説明することもしない。公務とのつながりを持てば持つほど,或いは同僚や上司に活動内容を知られれば知られるほど,サークル活動の自由度が奪われることを感覚的に知っているからだ。なぜ,そうなるのかと言えば,それは教員が資質・能力を磨くために,個人的に研究団体に所属し,それを公務に活かすというシステムが構築されていないからであり,しかもそういったコンセンサスもないからである。
■生徒達は校外で,学校とは直接的に関係していない様々な団体に所属している。いわゆる学習塾をはじめとして,英会話・バレエ・ダンスといった習い事,サッカーのクラブチーム,ボーイスカウトやボランティア団体などなど……。
■これらは,学級担任から見れば,おそらく「裏文化」だ。直接的には学級運営とつながっていないし,学級の係り組織,行事運営ともつながってはいない。つながっているのは,合唱コンクールにピアノを習っている生徒が伴奏者として参加するときくらいだろう。しかし,生徒達は学校生活以上に多くのことを学んでいる。彼らは決して,学習塾で教科の勉強だけを,クラブチームでサッカーだけを学んでいるわけではない。芸能情報,ファッションから時事問題に至るまでたくさんの情報と,物事に対する考え方を学んでくるのである。その学習効果は明らかに学校以上である。そしてそこで学んだ情報や観点を活かして,学校生活を送っているのだ。
■だというのに,多くの教師は生徒の実態に生きて働いているこれらの学びに無関心である。学校生活とは別物だと考えている。いや,意識さえしていない教師が多い。なぜ,そうなるのかと言えば,それは生徒が資質・能力を磨くために,個人的に様々な団体で学び,それを学校生活に活かすというシステムが構築していないからであり,そういったコンセンサスもないからである。
■生徒にしても教師にしても,学校における「学び」の共同体づくりは,「公」だけでなく,生徒や教師の「私」の領域,つまり「裏文化」をどのように学校生活の上に位置付けるのか,位置付けられるのかにかかっていると言って良い。「私」だけではもちろん駄目だが,「公」だけでも機能しない時代だ。
■さて,私が代表を務めるこの「研究集団ことのは」は,私の勤務校の学校長から見れば,おそらく「裏文化」だ。直接的には公務とはつながっていないし,学校の校内研究とも端から見ればつながってはいない。しかし,である。私は今年で教員生活17年目であるが,現在の私の身につけている企画力,授業推進力,授業技術,生徒指導力,発想法,その他諸々……いわゆる「教師としての資質・能力」の九割以上は,「研究集団ことのは」とそれに関わる様々な活動で培われたものである。私は公務を推進するにあたって,学校や官制研究会での学びよりも,圧倒的に「ことのは」での学びを活かしている。学校における教務部印としてり新教育課程づくりや,学年主任としての生徒指導のノウハウ,学年運営の手法においても「ことのは」での学びをもとにアイディアを提出している。これは間違いない。
■しかし私はもちろん,「研究集団ことのは」を中心とする活動に際してかかった金額を研究推進費として請求しもしないし,特に求められない限りは活動の内容について説明することもしない。公務とのつながりを持てば持つほど,或いは同僚や上司に活動内容を知られれば知られるほど,サークル活動の自由度が奪われることを感覚的に知っているからだ。なぜ,そうなるのかと言えば,それは教員が資質・能力を磨くために,個人的に研究団体に所属し,それを公務に活かすというシステムが構築されていないからであり,しかもそういったコンセンサスもないからである。
■生徒達は校外で,学校とは直接的に関係していない様々な団体に所属している。いわゆる学習塾をはじめとして,英会話・バレエ・ダンスといった習い事,サッカーのクラブチーム,ボーイスカウトやボランティア団体などなど……。
■これらは,学級担任から見れば,おそらく「裏文化」だ。直接的には学級運営とつながっていないし,学級の係り組織,行事運営ともつながってはいない。つながっているのは,合唱コンクールにピアノを習っている生徒が伴奏者として参加するときくらいだろう。しかし,生徒達は学校生活以上に多くのことを学んでいる。彼らは決して,学習塾で教科の勉強だけを,クラブチームでサッカーだけを学んでいるわけではない。芸能情報,ファッションから時事問題に至るまでたくさんの情報と,物事に対する考え方を学んでくるのである。その学習効果は明らかに学校以上である。そしてそこで学んだ情報や観点を活かして,学校生活を送っているのだ。
■だというのに,多くの教師は生徒の実態に生きて働いているこれらの学びに無関心である。学校生活とは別物だと考えている。いや,意識さえしていない教師が多い。なぜ,そうなるのかと言えば,それは生徒が資質・能力を磨くために,個人的に様々な団体で学び,それを学校生活に活かすというシステムが構築していないからであり,そういったコンセンサスもないからである。
■生徒にしても教師にしても,学校における「学び」の共同体づくりは,「公」だけでなく,生徒や教師の「私」の領域,つまり「裏文化」をどのように学校生活の上に位置付けるのか,位置付けられるのかにかかっていると言って良い。「私」だけではもちろん駄目だが,「公」だけでも機能しない時代だ。
2007/10/11のBlog
[ 23:44 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■「道徳教育改革集団」の機関誌「道徳教育改革」第4号を御恵贈いただいた。知っている人は知っていると思うのだが,元「マル道」が「教育技術の法則化運動」から独立して立ち上げた研究会である。深澤久先生を代表に,佐藤幸司先生,桃崎剛寿先生,山中太先生,田中利幸先生ら,錚々たるメンバーが集う硬派な「道徳授業改革」を標榜するグループである。その機関誌は毎号100頁を超える重厚さである。私は第0号(創刊準備号)からお送りいただく幸運に恵まれいるが,この機関誌の重厚さは「量」だけではない。「質」も重厚という形容に相応しい内容である。今号の特集は「〈教育再生〉を問う」。私も4頁ほど執筆する機会を与えていただいたが,その他に,野口芳宏先生,有田和正先生,石川晋先生,駒井康弘先生が御執筆されている。連載陣には,杉渕鉄良先生,長田百合子先生のお名前もある。民間教育研究団体が自前でつくっている機関誌としては,どこよりも優れた,まさに第一級品と言って良い。
■言っておくが,ここまでの文章内容には一切のお世辞はない。自分でいうのも何なのだが,他団体を褒めることのないと言われている堀がこれだけ褒めているのも珍しいことである。しかし,実物をひとめ見ていただければ,私のいうことが大袈裟でないと誰もが納得するはずである。編集長の辻川和彦先生に敬意を表したい。私にも経験があるが,あとはどれだけ続けられるか,だけだと思う。この質を維持するだけでも大変なことであるが,きっとこの機関誌は更に充実していくのだろうと思う。今回,その確信を得たので,私の思うところを記しておきたい。
■実は私は,初めて原稿依頼をいただいた編集部に対しては必ず一度,喧嘩を売ることにしている。もちろん,編集部に裏で喧嘩を売るような真似はしない。必ず,私に依頼された原稿の中で,その団体に対して私が抱いている「負のイメージ」を投げつけるのである。それに対する編集部の応対の仕方で,その後,お付き合いすることになるのか,それきりになるのかが決まる。私が喧嘩を売ると,多くの編集部は二度と依頼を寄越さない(ひどいのになると,私のその原稿を掲載しないという場合さえある)。しかし,その後,長く付き合うことになる編集部は,必ずその後にも依頼が来る。しかも短期間の後に,である。なぜかと言えば,〈外部の人間から批判されること〉の価値を知っているからだ。実は〈外部の人間から批判されること〉は,〈内部の人間〉にとってはとてつもないチャンスである。その批判に答えようとして反論を考えることは,〈内部の人間〉にとってはものすごく思考の深まる経験となる。そこから新しい何かが産まれることも多々ある。新しい発想法であったり,新しい研究コンテンツであったり,コラボレーション企画であったり,産まれてくるものはいろいろなのだが,何かが産まれる可能性はきわめて高い。それは内部であれこれ小競り合いをやっているのとは雲泥の差である。流儀の異なる相手を冷静に説得しようとする試みは,かなり大きなエネルギーを必要とする。多くの人はそのエネルギーを費やすことを拒む。要するに面倒なのだ。だから無視する。
■批判してくれる〈外部の人〉は強ければ強いほどいい。例えば,アフガンテロ対策への協力は「特措法」で何とかしのいでいこうとしていた自民党が,小沢一郎という強力な批判者を得たとき,一気に現状の問題点を洗い出して恒久法を議論し始める。もちろん現在議論されている新法がいいと言っているわけではない。自民党内部ではこれまでと比べて,かなり広い視野から深い議論がなされるようになっただろう,ということである。「自民党の考えていることなんか…」というなかれ。「これまでと比べて」というのがミソである。例えば,今回,小沢一郎が提起したことによって,自衛隊がインド洋でしていること,自衛隊のアフガン派遣とイラク派遣との意味の違い,自衛隊の給油活動の具体的手立て,国連の機能と位置づけ,日本の国連イメージと諸外国の国連イメージの違い等々,こういったことを初めて考えさせられたという人は多いのではないだろうか。あなたがいくら自民党に対して悪いイメージをもっていたとしても,あなたが考えている程度のことを,自民党の内部が考えていないわけがないでしょ? そしてそういうことを熱心に考えさせているのが,小沢一郎の「強さ」なのである。自民党にも国民にもこれらの問題を真剣に考えさせたというだけで,小沢一郎という政治家は評価されるに値する,と私は思う。
■さて,話は政治ではない。〈批判されること〉がどれだけ組織にとってプラスになるかという話である。「組織」というものは常に〈発展途上〉であることを自覚していないと活力をもてない。大抵の組織は,立ち上げの時には勢いがあるものの,立ち上げから十年経つとコアなメンバーとそうでないメンバーとに分かれ,完全な上位下達型組織となっていく。更に十年経つと,宗教になっていく。そしてその宗教内ではああでもないこうでもないとやり続けているのだが,〈外部の人〉に対する影響力は急激に失われていき,最終的には〈外部の人〉からまったく相手にされなくなってしまう。そういうものである。
■実は「道徳教育改革集団」は,「マル道」時代から含めて,既に立ち上げから20年を超えている組織である。その組織が,私の批判を歓迎し,実は次年度,私たちのグループに連載せよ,とまで言ってきたのである。私は「道徳教育改革集団」にとって,小沢一郎のような強力な批判者にはなり得ないが,私の考えていることを率直に述べていこうと思う。私の中にある,研究における第一のテーゼは「批判こそ礼儀」である。最近,一般に,この言葉が通じなくなってきているという印象を抱いている私にとって,今回の「道徳教育改革集団」の対応は,ちょっと嬉しい出来事であった。このことを御報告させていただいて,今日は寝ることにする。明日も学校祭準備と合唱コンクールの練習で忙しい。おやすみなさい。
■言っておくが,ここまでの文章内容には一切のお世辞はない。自分でいうのも何なのだが,他団体を褒めることのないと言われている堀がこれだけ褒めているのも珍しいことである。しかし,実物をひとめ見ていただければ,私のいうことが大袈裟でないと誰もが納得するはずである。編集長の辻川和彦先生に敬意を表したい。私にも経験があるが,あとはどれだけ続けられるか,だけだと思う。この質を維持するだけでも大変なことであるが,きっとこの機関誌は更に充実していくのだろうと思う。今回,その確信を得たので,私の思うところを記しておきたい。
■実は私は,初めて原稿依頼をいただいた編集部に対しては必ず一度,喧嘩を売ることにしている。もちろん,編集部に裏で喧嘩を売るような真似はしない。必ず,私に依頼された原稿の中で,その団体に対して私が抱いている「負のイメージ」を投げつけるのである。それに対する編集部の応対の仕方で,その後,お付き合いすることになるのか,それきりになるのかが決まる。私が喧嘩を売ると,多くの編集部は二度と依頼を寄越さない(ひどいのになると,私のその原稿を掲載しないという場合さえある)。しかし,その後,長く付き合うことになる編集部は,必ずその後にも依頼が来る。しかも短期間の後に,である。なぜかと言えば,〈外部の人間から批判されること〉の価値を知っているからだ。実は〈外部の人間から批判されること〉は,〈内部の人間〉にとってはとてつもないチャンスである。その批判に答えようとして反論を考えることは,〈内部の人間〉にとってはものすごく思考の深まる経験となる。そこから新しい何かが産まれることも多々ある。新しい発想法であったり,新しい研究コンテンツであったり,コラボレーション企画であったり,産まれてくるものはいろいろなのだが,何かが産まれる可能性はきわめて高い。それは内部であれこれ小競り合いをやっているのとは雲泥の差である。流儀の異なる相手を冷静に説得しようとする試みは,かなり大きなエネルギーを必要とする。多くの人はそのエネルギーを費やすことを拒む。要するに面倒なのだ。だから無視する。
■批判してくれる〈外部の人〉は強ければ強いほどいい。例えば,アフガンテロ対策への協力は「特措法」で何とかしのいでいこうとしていた自民党が,小沢一郎という強力な批判者を得たとき,一気に現状の問題点を洗い出して恒久法を議論し始める。もちろん現在議論されている新法がいいと言っているわけではない。自民党内部ではこれまでと比べて,かなり広い視野から深い議論がなされるようになっただろう,ということである。「自民党の考えていることなんか…」というなかれ。「これまでと比べて」というのがミソである。例えば,今回,小沢一郎が提起したことによって,自衛隊がインド洋でしていること,自衛隊のアフガン派遣とイラク派遣との意味の違い,自衛隊の給油活動の具体的手立て,国連の機能と位置づけ,日本の国連イメージと諸外国の国連イメージの違い等々,こういったことを初めて考えさせられたという人は多いのではないだろうか。あなたがいくら自民党に対して悪いイメージをもっていたとしても,あなたが考えている程度のことを,自民党の内部が考えていないわけがないでしょ? そしてそういうことを熱心に考えさせているのが,小沢一郎の「強さ」なのである。自民党にも国民にもこれらの問題を真剣に考えさせたというだけで,小沢一郎という政治家は評価されるに値する,と私は思う。
■さて,話は政治ではない。〈批判されること〉がどれだけ組織にとってプラスになるかという話である。「組織」というものは常に〈発展途上〉であることを自覚していないと活力をもてない。大抵の組織は,立ち上げの時には勢いがあるものの,立ち上げから十年経つとコアなメンバーとそうでないメンバーとに分かれ,完全な上位下達型組織となっていく。更に十年経つと,宗教になっていく。そしてその宗教内ではああでもないこうでもないとやり続けているのだが,〈外部の人〉に対する影響力は急激に失われていき,最終的には〈外部の人〉からまったく相手にされなくなってしまう。そういうものである。
■実は「道徳教育改革集団」は,「マル道」時代から含めて,既に立ち上げから20年を超えている組織である。その組織が,私の批判を歓迎し,実は次年度,私たちのグループに連載せよ,とまで言ってきたのである。私は「道徳教育改革集団」にとって,小沢一郎のような強力な批判者にはなり得ないが,私の考えていることを率直に述べていこうと思う。私の中にある,研究における第一のテーゼは「批判こそ礼儀」である。最近,一般に,この言葉が通じなくなってきているという印象を抱いている私にとって,今回の「道徳教育改革集団」の対応は,ちょっと嬉しい出来事であった。このことを御報告させていただいて,今日は寝ることにする。明日も学校祭準備と合唱コンクールの練習で忙しい。おやすみなさい。
2007/10/10のBlog
[ 22:22 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]