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裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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2007/10/21のBlog
[ 22:30 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■ここ5年ほど,私の自宅の周りで不審火が続いている。十数件である。ほとんどがぼや程度なのだが,中には「住まいのクワザワ」の倉庫全焼といった大火事も含まれている。その他にも自動車修理工場のトラックが爆発したり,アパートの2階全焼といったものまであった。住民としては,やはり心おだやかではいられない。今日,床屋に行くと,どうやらあの放火犯が捕まったらしいと床屋のご主人。トラックを爆発させられた自動車修理工場の社長さんがお客さんだということで,その社長さんに警察から連絡があったらしい,というのである。しかも犯人はどうも未成年らしい,それも中高生らしい,という。やれやれ。
■今日,指圧に行くと,両足のふくらはぎと右肩肩胛骨のあたりの張りがひどいと言う。普通の生活をしていたら,こんなふうにはならないと言う。どういう生活をしているのかと尋かれたので,PCに向かう時間はかなり長いのですがと応えると,そんなことではこんなふうにはならないと一蹴される。しばらく考えて,最近になって週に4回程度,バドミントンをするようになったと話したら,「それですね」と納得された。ちゃんと準備体操とストレッチをやっていますか?と尋くので,「面倒なのでやっていない」と応えると叱られた。「お客さん,躰こわれますよ。二十代のときと違うんですから」とのことである。おまけに「いまに腰に来ますよ,腰に…」と脅された。やれやれ。
■それでも,頭もスッキリ,躰もスッキリで,ずいぶんと気分の良い日曜日である。サザエさんの「給料日前の3日間」という一話も,ほのぼのと昭和を想起させる逸品だった。我が家もサザエさん一家よろしく,鍋をつついた。すり身に鶏肉に豚肉となかなか豪華である。野菜もたんまり入っている。鍛高譚をロックでかぶ飲みしながら食べているうちに目が回って,気がついたら犬に顔を舐められながら寝ていた。テーブルを見ると,鍋は見事に片付けられている。おじやはおあずけである。おじやのない鍋の寂しさよ。やれやれ。
2007/10/20のBlog
[ 23:59 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■更新がほぼ一週間滞ってしまった。月から金まで,学校祭と合唱コンクールの準備でごった返していた。間には学力テストもあったりして,まさに怒濤だった。この1週間の忙しさは事前にわかっていたこととは言うものの,また毎年のこととは言うものの,かなりきつい1週間だった。学祭も合唱も目鼻が立ち,学力テストの結果もまずまず。この1週間を,すべてを上昇気流で乗り切ることができた。こういう怒濤の時期に上昇気流に乗れると,もう大丈夫である。残り2ヶ月の2学期も,上昇気流に乗り続けられる。経験則から言って,これはまずもって間違いない。
■クライマックスシリーズを中日ドラゴンズが制した。福留のいないドラゴンズと由伸のいないジャイアンツという,ともに「打の主役」を欠いた対戦は,ドラゴンズの3連勝という予想外の結果で幕を閉じた。実は私は,セは中日,パはロッテというマイナー指向である。北海道ではどちらのファンも珍しい。私がプロ野球を見始めた昭和49年,両リーグの覇者は中日とロッテだった。私が小学校2年生のときである。当時の私は「中日とロッテというのは強い球団なのだなあ」と思った。以来,41歳に至る現在まで,この2球団を応援し続けている。中日の優勝は高校時代(昭和57年)から何度か見てきたけれど,ロッテの優勝は一昨年が本当に久し振りの盛り上がりだった。
■学祭・合唱・学テの怒濤の1週間,テレビを見ることはなかったが,新聞でロッテと中日の動向は気にしていた。ファンとしてはやはり気になるところである。「中日vsロッテ」の日本シリーズを33年振りに見られるか,という期待もあった。しかし,日ハムとロッテが2勝2敗のタイになってから,なんとなく「これは,ロッテが勝ってはいけないのではないか…」と思い始めた。シーズンのリーグ戦を制した日ハムがたった5試合の対戦で負け越したからと言って,2位のロッテが日本シリーズに進出するというのはいかがなものか。もちろんこれを言い始めると,一昨年のロッテの優勝も同じ理屈で否定しなければならなくはなるのだが,やはりどうもしっくり来ない。そう思ってパ・リーグを見ていた私は,今回のセ・リーグもやはり,巨人が出るべきなのでは?と内心思っていた。誤解のないように言っておくが,私は大のアンチ巨人であり,日ハムは昔からパ・リーグで最も嫌いな球団である。北海道に来たときにも「なんでこんな球団が来るんだ」と思っていたクチである。
■思うに,クライマックスシリーズは「日本シリーズ」の質を変えてしまった。両リーグの今年の覇者同士がぶつかり合い,「日本一を競う」という位置づけから,「秋のレクリェーション的な野球イベント」という趣に変えてしまったのである。当然のことながら,短期決戦というのは偶然性に支配される要素が大きくなる。その時々の一瞬の「流れ」に支配される要素も大きくなる。それだけ「遊び」の要素,「お祭り」の要素だけが大きくならざるを得ない。夏の祭典オールスターのような趣になっていく。ひいきのチームがこれに勝つことは確かに嬉しいけれど,これまでの日本シリーズに勝つことほどは嬉しくない。嬉しさに〈微妙なためらい〉が生じるのだ。これなら,しっかりと「お祭り」と位置づけてしまって,両リーグ1チームずつなんていうケチなことは言わないで,両リーグ1位から3位までを3チームずつ出し合って,6チームでリーグ戦を戦った方が面白い。サッカーのように,1カード2戦ずつ,ホーム&アウェイで10試合ずつ闘えばいい。クライマックスシリーズから日本シリーズへと続く4週間近い日程で,消化できる試合数であるはずだ。中日とロッテなどという球団を応援する者としても,この方が,ひいきのチームのいろいろなカードを見られて面白い。自分のひいきチームが優勝すれば当然楽しめるし,早々に優勝候補から脱落したとしても,優勝を争っているチームとどう闘うのか,優勝争いをしているチームにどう絡むのか,最後まで楽しむことができる。相撲で同じ部屋,同じ一門の力士が優勝争いをしているときに,その力士が優勝争いをリードするために優勝を争っている相手を本気で倒しに行くことで助けるということがよくあるが,それと同じことがリーグ戦の後半には同一リーグチームで行われるようになるはずだ。それも大きな見どころになる。
■今日,落合博満の勝利監督インタビューを聞きながら,こんなことを考えた。
2007/10/14のBlog
[ 22:38 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■トイレで読もうと思い,書斎の積ん読の中から新書を一冊。『〈美少女〉の現代史』(ササキバラ・ゴウ/講談社現代新書/2004年5月)である。うーん。おたくを論じた本だ。あんまり気分じゃないな……思いつつ,他を選ぶのも面倒なので,そのままトイレに持ち込む。読み始める。読み始めてしまうと面白い。なかなかやめられない。結局,1時間近くもトイレにこもってしまった。私を捕らえたのは,クラリス論である。そう。1979年。「ルパン3世 カリオストロの城」の,あのクラリスである。
■ササキバラはまず,クラリスと,ルパンの歴史的なヒロイン峰不二子を比較する。不二子が行動的でセクシーなキャラクター性を強くアピールしているのに対し,クラリスが非常に地味で,いかにも少女らしい外見のキャラクターとして設定されており,身体のフォルムに関しても大人っぽさをアピールするような特徴を一切もっていない,と。にもかかわらず,「カリオストロの城」では,「カッコいい女性」の典型として描かれ続けてきた峰不二子が完全に脇役へと追いやられ,ファンの人気の対象は地味な外見のクラリスに集中し,いまから振り返れば,その後の〈美少女ブーム〉を巻き起こしたエポック的キャラクターとして定着してしまった,と。
□このことは,「カリオストロの城」というアニメの性質をよく表しています。この作品が,公開当時から現在にいたるまで多くの人から絶賛されつづけている一方で,「これはルパンとしての面白さでしない」という評価が常につきまとってきたのは,理由のないことではありません。「カリオストロの城」は,「ルパン三世」である以前に「宮崎駿のアニメ」だったのです。この映画では,宮崎駿が脚本(山崎晴哉と共同)・絵コンテ・監督を務めており,原作まんがとは大きく乖離した,宮崎独自の内容となりました。実際このアニメを見ていると,主人公のルパンは,もはやほとんどルパンではありません。アニメの導入と結末では一応「大泥棒ルパン」らしく登場しますが,それ以外は別の役割をもったキャラクターとして活躍します。だからルパンの世界のヒロインだった峰不二子も,そのような「ルパンではない」ストーリーの中では,もはやヒロインたりえません。そこで代わりに活躍するのは,「宮崎アニメのヒロイン」なのです。《45頁》
■このようなベクトルを示した上で,著者は「カリオストロの城」を「古典的なお姫様と王子様の物語」であると規定する。確かに「カリオストロの城」は,城に住む「悪い王様」が無理矢理結婚しようとしている「お姫様」を救うために「王子様」が命がけの闘いを挑み,結局,その闘いに勝利して「お姫様」を救い出しハッピーエンドを迎えるという物語に過ぎない。ここで,著者が立てた唯一の〈問い〉は次である。
□ルパンはなぜクラリスを救うのか
■「カリオストロの城」は,「古典的なお姫様と王子様」のストーリーでありながら,その「王子様」が「お姫様」を救う理由については最後まで描かれない。一般な「王子様」と「お姫様」であれば,「王子様」が「お姫様」を救い出そうとすることには何の疑問も生じ得ない。それは古今東西,古典的物語の一プロットであり,読者や視聴者はなんの疑問も抱くことなく,当然のこととしてその物語内に没入することができる。しかし,ルパンは「王子様」ではない。「大泥棒」である。「大泥棒」が「王子様」の役割を演じる権限をもつには,なんらかの理由が必要である。しかし,「カリオストロの城」ではそれが描かれない。この宮崎駿の演出は強引でさえある。なぜか。
□ここで,このアニメに「ねじれ」が生じています。宮崎駿はルパンというキャラクターに本来結びつかないはずの王子様という役割をかぶせ,それを自分なりのロマンティシズムで強引に押し切っているように見えます。/だからこのアニメを見る者は,ルパンの中に存在しないはずの王子様の根拠を,自分で勝手に見つけずにはいられません。その根拠が空白であるがゆえに,それを補わずにはいられないのです。ルパンがわざわざ命をかけてまでクラリスを救わなければならない,その根拠を。/それは,アニメの表立ってなにも描かれていない以上,外からは見えないルパンの内面に求められることになります。観客はそこで漠然と,恋愛的な感情を見つけることになります。恋愛感情以外には,無理なくルパンの行動を説明できる根拠がないからです。実際,アニメのラストではそのようなものが,におわされています。《47-48頁》
□本来なら「恋愛」などというものをことさら表現しなくても,お約束ごと的に成立するはずの「王子様とお姫様」の物語は,強引にルパンという別世界に移植されることで,ルパンの側にそのような根拠を必要としてしまったのです。《48頁》
■ここで著者ササキバラは一つの問題構図を提起する。一般に,「古典的なお姫様と王子様」の物語においては,王子様は王子様であることによってお姫様に愛され,お姫様はお姫様であることによって王子様に愛される。それはその根拠を考えるまでもなく当然のことであり,いわば必然のこととして受け入れられ何の疑問も生じない。しかし,大泥棒ルパンを「古典的なお姫様と王子様」の物語に移植することは可能としても,そこにはクラリスを愛する根拠も,クラリスに愛される根拠も持っていない。仮にルパンの側に「恋愛感情」を仮想することで「愛する根拠」を捏造したとしても,クラリスの側,つまり「お姫様」の側に「愛される根拠」の方はまったく存在しない。ここに「カリオストロの城」が,「ルパン3世」というキャラクターに強引に「お姫様と王子様」の物語を移植したことによる重大な欠陥が生じてしまった。だが,しかし,この欠陥こそがクラリスを《美少女ブーム》の火付け役としてエポック的存在に高めた秘密があった。
□たぶん,方法はひとつです。愛される根拠を持たない男が,お姫様との恋愛を成就させようと思うならば,「お姫様の側から一方的に愛される」以外に手段はありません。根拠を欠いた王子様が本当の王子様になるためには,お姫様の側が自分を王子様だと認めてくれる以外に,方法は存在しないのです。ルパンは,そういう受け身の立場にならざるをえません。/このとき,その男の命運は,すべて彼女の手に握られることになります。自分という男の価値は,彼女によって裏づけられることになるのです。そういう事態が,ここで生じています。私という男の価値を裏づけてくれる絶対的な存在として,そこに「彼女」という存在が出現しています。/クラリスとは,そのようなキャラクターです。/恋愛的な物語の中で,無根拠な自分に根拠を与えてくれる存在-それが「カリオストロの城」で宮崎駿が生み出した美少女のイメージです。/これはもはや,男にとって絶対的な存在といわざるをえません。男である私の価値を決定し,私ごときに恩寵を下さる,崇めるべき女神のようなものとして,「美少女」がイメージされています。《49-50頁》
■そうだったのか……という思いを禁じ得なかった。目の前が明るくなるのを感じた。ササキバラがここで下敷きにしているのは,間違いなくジョルジュ・バタイユの「エロティシズム」論である。バタイユが性行為において,女性が身を開くことによって男性に「男としての根拠」を与え,女性がオルガスムスに達することによって更に「男のしての根拠」を増幅させ,更にはオルガスムスへの同時達成によってこの上ない「死への埋没」的な感覚が成就される,そこに「エロティシズム」の根拠を求めたのと同じ構図がここに見られる。しかし,バタイユが性行為のアナロジーによって「エロティシズム」を語り,それが全世界で受け入れられたのとは対照的に,クラリスをエポックとする《美少女》の系譜に見られる「エロティシズム」の構図は,もはや〈肉体〉を必要としていない。「死への埋没」において,認識(思考イメージ)と存在(肉体感受)とが完全に切り離されてしまっている。「美少女おたく」とは,「エロティシズム」(バタイユ)において,或いは「死に至る病」(キルケゴール)において,精神と肉体とが切り離され,精神(思考イメージ)だけが突出した現代的な病理だったのである。「女性の肉体」を括弧に括った,現象学的還元と言い換えてもいい。そうなると,世に言う「おたく」が80年代から台頭してきたことにも納得が行く。AVが世の中に普及し,男性にとって「美の象徴」,自分に「存在根拠を与えてくれる他者」として君臨してきた女性という幻想は穢され,浮き世に埋没していった。しかし,この女性の浮き世への埋没から,「美少女おたく」たちは女性の「汚れなき精神」という幻想だけを切り離し,「美少女」に移植したのである。そうだったのか。だから「おたく」には美男がいないし,だから「おたく」には社会の中で地位を占めている者がいないのだ。「おたく」が社会的地位を占めても,その地位にに何の興味も示さず,むしろ稼いだ金で「おたく化」を更に進めてしまうのもそういうことなのだ。浮き世の現実的な地位よりも精神性なのである。それは現実的な肉体よも精神性を選ぶ,その「美少女おたく」の構図と同じなのだ。そうだったのか。「おたく」は頭でっかちの突出した形態だったのである。なるほど「80年代おたく」の中から,現在に影響を与える哲学的言論が多数出現してきたことにも納得が行くというものである。
■「カリオストロの城」の結末において,私も泥棒になると言うクラリスをルパンは「オレのように汚れちまってはいけない」と,大袈裟な演技までして抱きしめないことを選ぶ。そりゃそうだろう。クラリスは穢してはいけない精神性の象徴なのだから。世の「美少女おたく」は,自分に根拠を与えてくれる女性をイメージの中で仮想している存在なのだ。ゴスロリは男に根拠を与える絶対的女神になりたい少女たちなのだ。「おたく」とは《絶対者になりたい人たち》だったのだ。そう考えれば,「おたく」の言論者が必ず天皇論を語り出すことにも納得が行く。大塚英志も宮台真司も,そして東弘紀もみんなそうだ。そうか。そうだったのか。いやはや,勉強になった。
2007/10/13のBlog
[ 23:59 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■第二土曜日がやってきた。「研究集団ことのは」の月例会である。今日の中心テーマは学校祭。私の学校はまだ終わっていないものの,札幌市内の多くの中学校では,既に9月末に終えている。そこで,勤務校で生徒会部の長である森くんに,学校祭の企画段階から各係にどういう風に仕事をさせるのか,隙間仕事をどのように埋めるのか,といった諸々のことを提案してもらおうという企画である。いわば,働かない教師,やる気のない教師,能力のない教師をどう捲き込んで,すべての生徒に担当教師によって損をした気にさせないかという,責任者としての運営の在り方の提案である。こういう実態に応じた現実的な研究は,官制研究会では決してできない。教師はみんな能力があって,みんなやる気があって,更に良いものをつくるために創意工夫の仕方を学ぶ,それが公的な研究会の建前だからだ。官制研究会が現実には役に立たないと言われる所以である。しかし,敢えて言っておきたいのだが,真に能力があってやる気もある者には,官制研究会はけっこう役に立つ。「官制研究会は役立たない」と公言する者は,実は自分の無能さを公言しているようなものである。私はこの言葉を吐く教員に憐れみを感じている。
■森くんの提案はひと言でいえば「王道」だった。全体企画を建たあとは,計画通りの日程にあわせて常に早めに提案する,生徒にそのまま伝えればいいようなプリントを各担任に配布して連絡に漏れがないようにする,各担当者には当日の朝に活動場所を確認に行くようにといった細かな事案までプリントで徹底する,完全に同僚を信用していない,いわば管理型オンリーのマネジメントである。そこにはアイディアを吸い上げることや各発表物づくりのコツを伝えるといったことが〈システム化〉されていない。私は森くんの提案を批判しているのではない。森くんの勤務校は,私のかつての勤務校でもあり,その学校らしいシステムであると思うし,これが現実的だとも思う。これは言わば,学校祭を,年間行事で位置づけられたビックイベントでありながら,教師集団としては消化行事と捉えている,この学校独自のスムーズな運営を目指す思想から生まれたシステムであると思う。言ってみれば,結果を出すことが大切なのであり,学校祭で生徒が育たなくても良いのである。私もこの学校に勤務していたときは,そうだったからよくわかる。もちろん,行事を通る中で結果的に生徒は育つのだが,それは「活動あって指導なし」の典型であり,その混沌とした活動の中で,生徒達が自らの「学ぶ力量」によってそれぞれ勝手に学んでいるだけで,教師や学校の意図的・計画的な「学びの場」ではない。要するに,「教師の力量で結果は出す。あとはお前たちが勝手に学べ」というシステムである。そういう行事運営は確かに「あり」であり,実は「現実的」でさえある。これは皮肉でなく,「王道」である。
■次には,私の昨年の学校祭ステージ発表のビデオ視聴。「ミッキーマウスと愉快な仲間達 ver.5」である。単なるディズニー・キャラクターのショーなのだが,①ミッキー・ミニーの場,②不思議の国のアリスの場,③白雪姫の場,④ピノキオの場,⑤ディズニー・バレードという5場構成になっているところがミソである。総出演者は50人を超える。30人でも出来るし,100人でもできる。そういう工夫の為された,ある種のオムニバスである。さて,今回のミソは「ピノキオの場」をこれまでに比べてかなり作り込んだところである。これで①③④⑤の作り込みが終わり,数年後,再びこのステージを行うときに「②不思議の国のアリスの場」の作り込みを完了すれば,完成品のステージになる。この13年間で私はこのステージを5回行っているが,1回目(94年)は「とにかくやる」,2回目(97年)は「白雪姫の場を作り込む」,3回目(98年)は「ミッキー・ミニーの場を作り込む」,4回目(03年)は「不思議の国のアリスの場を作り込む」(失敗。満足できず),5回目(06年)は「ピノキオの場をつくり込む」という流れできている。私にとっては,これも立派な研究なのであり,私にとっては長年かけて研究を続けている〈題材〉なのである。昔,学生時代の恩師の一人である潟沼先生は私に「研究とは息の長いものだ。堀くんには息の長い,本物の研究をして欲しい」とおっしゃられた。私にとって,このステージはその一つとして意識されている。ここまでを読んで,読者の方々は単なるステージ構成の問題として捉えられたかもしれない。しかし,そうではない。私が「○○の場を作り込む」というとき,キャストの一つ一つにどういうタイプの生徒を配置するとどのようにかけ合わされるかとか,それぞれのかけ合わせが相乗効果を産むときと産まないときの違いは何かとか,何日前にどういう指示を出すと教師がつかなくても練習が機能するかとか,どの部分をフレームとして教師が提示し,どの部分に生徒のアイディアを活かす自由度を与えるかとか,そういうことを含んでいる。だから私は,一回のステージが終わると,そのビデオを繰り返し50回くらい見るし,その後も月に一度程度の割合でそのビデオを見続ける。準備時間のいろいろな場面が想い出され,本番でこういう結果になったのはあのときのあのやりとりの結果だとか,あのときにあそこをもうひと言詰めておくべきだったとか,そういうことを考えながら見ている。私にとってはとても大切な内省の時間である。意外と知られていないことだが,私は校内では,「国語屋」でもなく「研究屋」でもなく「生徒指導屋」でもなく,一つだけ挙げるとすれば「特活屋」イメージ,「行事屋」イメージの教師である。
■例会内容の第三は,太布さんの来週火曜日の空知教育センターの研究授業。模擬授業で発問・指示の検討,そして指導案の検討である。「ことのは」では久し振りの「話すこと・聞くこと」領域。生徒協議会の議論を学級に報告するという授業である。教材は3本。短めの練習教材1本と隣同士で報告し合うための長めの教材が1本ずつ。しかし,練習教材と中心教材の間に難易度の差がありすぎたので,間に中間的な教材をもう1本入れるように指示。これで授業構成としてはスッキリした。また,我々がセンターの研究などにコミットする場合のスタンスの取り方についても議論になった。その議論内容については,良きにつけ悪しきにつけ,公開するには少々問題がありそうなので割愛する。
■第四に,山下くんの「形」(菊池寛・中2)の模擬授業。これは教材解釈がずいぶんと深まるいい議論が展開された。特に,日文協が主張する「共同性」と「公共性」の問題に「ことのは」内で初めて議論が及んだ。画期的な議論だったと言って過言ではない。ただ,「共同性」も「公共性」も,説明しようと叙述的な言葉を用いると,陳腐な構造に回収されてしまう。これを陳腐にしないための言葉遣いはないものかという,大変質の高い議論が展開された。冬の合宿に向けて,たいへん良い〈布石〉となった。実はこういう瞬間こそが「公共性の希求」なのだが,「結局,そういう経験のない者にはわからないのではないか」という議論に終始せざるを得なかった。日文協の提案も,そして「ことのは」の提案でさえも,本質的には一般の先生方に伝わらないのは,経験の差なのだという絶望的な結論に至った。日文協が主張していることも,「ことのは」が主張していることも,題材は違えども結局は,「人生とは発見と倒壊と再構築の連続なのであり,そういうベクトルを持つことこそが人の生きる道として尊い」ということに過ぎない。それを日文協は「公共性」と呼び,「ことのは」は「メタ認知」と呼んでいるだけだ。しかし,こんなシンプルな構造がなかなか一般の人たちには伝わらない。伝えられない。さて,どうしたものか。今度,須貝さんと飲もう。
■いずれにしても,久し振りに例会らしい例会,濃い例会だった。