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裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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2007/10/23のBlog
[ 21:41 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■今度は比内地鶏か……と思ったのは,私だけではあるまい。赤福,白い恋人,不二家のケーキ。ミートホープは論外にしても,有名ブランド,それも観光と切り離せない地域ブランドから人々の多くが親近感をもつ日常ブランドまで,ありとあらゆる食品に賞味期限や使用材料の偽装が次々と発覚している。日本人のモラルハザードを指摘する向きもあるようだが,私が知りたいのは,こうした偽装はバブル崩壊後の不景気に伴って止むに止まれぬ打開策として講じられた手立てなのか,それともバブル期以前から行われていたことなのか,という点である。前者なら多少の同上の余地もあるし,日本人のモラルハザードという指摘もあながち誤りではないことになる。また,後者だとすれば,こうした「ばれなきゃいいや」という行動原理が日本人がもともと持っていた資質ということになり,それはモラルハザードなどではなく,日本経済を裏で下支えしていた,必要悪的な行動原理の露呈ということになる。ちょうど接待や談合の裏に,贈答文化や護送船団文化という日本独特の価値観に伴う行動原理によって,日本経済を下支えしていたように……。比内地鶏,赤福,白い恋人,不二家のケーキ,どれに関しても食中毒で営業停止というような話を,私は聞いたことがない。
■ここから予測されることは一つしかない。食中毒等で問題になったことがない食品関係の企業も,多くが同じような偽装をしていて,しかしながら,そのほとんどがこれまで問題になったことがない。そして,それでもこれまでは何事もなくこの国は動いていた。変わったのは,企業の営業方針・営業方法ではなく,国民の意識の方である。ブランドという付加価値にこそ金を払うに値するのに騙していたなんて,賞味期限を超えたものは食べないことにしているのに騙していたなんて,そういう意識である。私が子供の頃,人々は2ヶ月も冷蔵庫に入れっぱなしの納豆を平気で食べていたし,床に落ちた程度のものならちょっとふいて食べてしまうなんていう人はいっぱいいた。私は子供の頃から,床に落ちたものどころか,机の上,テーブルの上に落ちたものにさえ箸をつけなかったが,それを見て「堀はぜいたくだ」とたしなめる大人・友人がたくさんいたことを覚えている。彼等の口調には,明らかに私の態度を責めるトーンが垣間見られた。そういうトーンがいま懐かしくさえ感じられるのはどうしてだろうか。
■もちろん,偽装を許せと言いたいわけではない。しかし,かなり厳しめの絶対的な一線を引いて,それを1ミリでも超えたら袋叩き……そういう〈正しい姿勢〉を貫くことによって,私たちが〈失っているもの〉がないかと考えてみた方が良いのではないだろうか。鳥インフルエンザやBSEと賞味期限の偽装とが同じレベルで論じられてはいないか。校門圧死事件とげんこつや正座は同じレベルの体罰か。酒鬼薔薇事件や佐賀バスジャック事件とどこの学校にもいる非行少年とを同じレベルで論じていいのか。かつて東横イン社長が言っていた「速度規定60キロを70キロで走ったという程度」という非常に日本的な認識は,実はいまだに日本国民のコンセンサスではないのか。ホテルパコの女社長が化粧っけもなく涙を浮かべたことにころりと騙される方が,実は問題なのではないか。あれは非難を長期化させないための演出だとみんなわかっていたのではなかったか。東横インの社長の方が正直で一本気だったのでは……そんな疑問が湧きはしないか。〈正しい姿勢〉が〈正しすぎる姿勢〉に転化してしまい,結果的に悪影響を与えているということがあるのではないか,私にはそう思えてならないのだ。
■若い頃,車をもっていなかった私は家庭訪問を徒歩でまわっていた。5日間の家庭訪問週間の間,毎日,最後の訪問家庭では私に夕食を用意してくれていた。寿司をとってくれる家庭もあった。食べているうちにお父さんが仕事から戻ってきて,いっしょにビールを飲み始める,そんなことも一度や二度ではない。お父さんと話しているうちに,私と高校の同窓であることわかり,一緒に校歌を歌いながら一升瓶を空けたことさえあった。これは教師の行動として,そんなにもいけないことだろうか。そんなに賄賂性があるのだろうか。いまは,家庭訪問で出されたコーヒーにさえ手をつけてはいけないのが教員世界なのである。こんなつまらない事例においても,〈正しすぎる姿勢〉によって〈失っているもの〉があるのではないか。
■一緒に一升瓶を空けた私と同窓の父親。その息子は多少ぐれていた。しかし,その日,父親と担任の同窓故の鉄壁の連帯を見て以来,少しずつ生活態度が改まっていった。私には笑いながら「親父に言いつけるぞ」と言われ続け,父親には「先生の言うことを聞け。オレの後輩に悪いヤツはいない」と言われ続け,どうしようもない八方塞がりを楽しむようになっていった。それでも卒業まで,私は彼に評定1をつけ続けたし,息子も父親も文句を言ったことなど一度もなかった。父親は「息子は誰がどう見たって1だよ」と笑っていた。そんなものである。しかし,ここには〈正しすぎる姿勢〉ではない,「+α」の教育が機能していた。教育とは,この「+α」ではなかったか。それがコーヒーにも手をつけては行けないという〈正しすぎる一線〉を設けることで,小さな接待を受けることもダメ,だれに対しても客観的平等を,いかなる小さな体罰もダメ,怒鳴ることもダメ,いつもニコニコ,カウンセリングマインド……教師の在り方にこの一線が敷かれてしまうと,マクドナルドの店員よろしく,「いらっしゃいませ。こちらでお召し上がりですか?それともお持ち帰りですか?」的教育へと埋没してしまう。この国はいま,そんな教師を必要としているのだろうか。教師とはもっと生身の,〈エロス的存在〉ではなかったか。
■教育の世界になぜ,〈正しすぎる一線〉が設けられたのか。それはいわゆる「指導力不足教員」「不適格教員」のせいである。あの先生はとてもいいのに,うちの先生はダメだ。隣の担任はしっかりしているのに,うちの子の担任はだらしない。うちの子の担任はダメ教師だ。「指導力不足教員」だ。「不適格教員」だ。こういう理屈である。しかし,ダメ教師をダメ教師のままにしているのは,隣の「いい担任」なのである。隣のしっかりした担任がフォローをしないから,その担任はダメなのである。学年主任がフォローしていないのである。校長が学級間格差を知りながら指導力を発揮していないのである。もちろん,ダメ教師に責任がないとは言わない。しかし,まわりの「いい先生」にも同じくらいの責任があるのだ。それを世論がわかっていない。だから〈最低限の一線〉をつくるために,小さな接待もダメ,客観的に平等じゃなきゃダメ,いかなる小さな体罰もダメ,怒鳴ることもダメ,いつもニコニコしてなくちゃダメ,このダメダメ攻撃が「カウンセリング・マインド」などというしょうもない理論をはびこらせる。怒るときに怒らないで教育などあり得ない。叱るときに叱らないで,何のための教師か。そんな当たり前のことが当たり前として認識されない。教師の手足を縛り付ける。しまいには,カウンセリング・マインド万能主義に自分の実力のなさから逃げようとする馬鹿者教師まで現れる始末。悪循環である。
■教育の世界になぜ,〈正しすぎる一線〉が設けられたのか。それは保護者が「結果平等」を求めすぎるからである。しかし,ちょっと考えてみればわかるはずではないのか。だれもが同じ結果を出せるはずがないではないか。できる子もいればできない子もいる。そんなこと,あったりまえ中のあったりまえではないか。できる子にはできる子なりの教育を,できない子にはできない子なりの教育をするのが学校ではないか。ふだんはできる子に多くの機会を与え,できない子には従わせる。ときにはできない子に機会を与えて,できる子には言い含めて支えさせる。縁の下の力持ちをも経験させる。我慢することをも体験させる。しっかりした真面目な子には生活委員を,先頭切って自分から走り出す子には体育委員を,読書好きの女の子に図書委員を,あったりまえではないか。能力がないのに合唱コンクールの識者に立候補した子に,「どうしてもやるってんなら,がんがん指導するから覚悟しろ」と脅す。それでもやるって言うなら,がんがん指導する。それを見てりゃ,みんな「仕方ねえ,やるか」となるかもしれない。そんな賭けみたいなことだって,学校ってところにはあるに決まってるじゃないか。そんな不平等がドラマを生み出すんじゃないか。それを学級会の厳正なる話し合いを通じて決めるべき,いい方向に教師は導けるはず……馬鹿なことを言っちゃいけない。公平な場における厳正なる話し合いによって物事を決める会社がどこにある? 学校にだけそんなものを求めたって無理に決まってるじゃないか。しかし,保護者は,世論は,「結果平等」を求めたがる。だから〈最低限の一線〉をつくるために,小さな接待もダメ,客観的に平等じゃなきゃダメ,いかなる小さな体罰もダメ,怒鳴ることもダメ,いつもニコニコしてなくちゃダメ,このダメダメ攻撃が「カウンセリング・マインド」などというしょうもない理論をはびこらせる。馬鹿を言っちゃあいけない。学級だって,その場の〈状況の論理〉で動くのである。物事はその場の〈空気〉で決まるのである。〈空気〉の流れを読みながら,その場その場,その時その時の判断の連続で学級を運営していくのである。そんな当たり前のことが当たり前として認識されない。教師の手足を縛り付ける。しまいにゃ,「なぜ,うちの子が指揮者になれないのか」とクレームまでつける始末。学級で決まったことについては,保護者も管理職も外野なのだ。
■教師にも,教室にも,〈エロス〉を取り戻せ。それが教育再興の唯一の道である。(ははは……我ながら,今日は滅茶苦茶な論理だ。学祭が近くなってお祭り男が浮かれている証拠だ。いえ~い!今日は校正しないぞ。下書き一発アップ!どーだ!べろんべろんだよ~ん!)
2007/10/21のBlog
[ 22:30 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■ここ5年ほど,私の自宅の周りで不審火が続いている。十数件である。ほとんどがぼや程度なのだが,中には「住まいのクワザワ」の倉庫全焼といった大火事も含まれている。その他にも自動車修理工場のトラックが爆発したり,アパートの2階全焼といったものまであった。住民としては,やはり心おだやかではいられない。今日,床屋に行くと,どうやらあの放火犯が捕まったらしいと床屋のご主人。トラックを爆発させられた自動車修理工場の社長さんがお客さんだということで,その社長さんに警察から連絡があったらしい,というのである。しかも犯人はどうも未成年らしい,それも中高生らしい,という。やれやれ。
■今日,指圧に行くと,両足のふくらはぎと右肩肩胛骨のあたりの張りがひどいと言う。普通の生活をしていたら,こんなふうにはならないと言う。どういう生活をしているのかと尋かれたので,PCに向かう時間はかなり長いのですがと応えると,そんなことではこんなふうにはならないと一蹴される。しばらく考えて,最近になって週に4回程度,バドミントンをするようになったと話したら,「それですね」と納得された。ちゃんと準備体操とストレッチをやっていますか?と尋くので,「面倒なのでやっていない」と応えると叱られた。「お客さん,躰こわれますよ。二十代のときと違うんですから」とのことである。おまけに「いまに腰に来ますよ,腰に…」と脅された。やれやれ。
■それでも,頭もスッキリ,躰もスッキリで,ずいぶんと気分の良い日曜日である。サザエさんの「給料日前の3日間」という一話も,ほのぼのと昭和を想起させる逸品だった。我が家もサザエさん一家よろしく,鍋をつついた。すり身に鶏肉に豚肉となかなか豪華である。野菜もたんまり入っている。鍛高譚をロックでかぶ飲みしながら食べているうちに目が回って,気がついたら犬に顔を舐められながら寝ていた。テーブルを見ると,鍋は見事に片付けられている。おじやはおあずけである。おじやのない鍋の寂しさよ。やれやれ。
2007/10/20のBlog
[ 23:59 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■更新がほぼ一週間滞ってしまった。月から金まで,学校祭と合唱コンクールの準備でごった返していた。間には学力テストもあったりして,まさに怒濤だった。この1週間の忙しさは事前にわかっていたこととは言うものの,また毎年のこととは言うものの,かなりきつい1週間だった。学祭も合唱も目鼻が立ち,学力テストの結果もまずまず。この1週間を,すべてを上昇気流で乗り切ることができた。こういう怒濤の時期に上昇気流に乗れると,もう大丈夫である。残り2ヶ月の2学期も,上昇気流に乗り続けられる。経験則から言って,これはまずもって間違いない。
■クライマックスシリーズを中日ドラゴンズが制した。福留のいないドラゴンズと由伸のいないジャイアンツという,ともに「打の主役」を欠いた対戦は,ドラゴンズの3連勝という予想外の結果で幕を閉じた。実は私は,セは中日,パはロッテというマイナー指向である。北海道ではどちらのファンも珍しい。私がプロ野球を見始めた昭和49年,両リーグの覇者は中日とロッテだった。私が小学校2年生のときである。当時の私は「中日とロッテというのは強い球団なのだなあ」と思った。以来,41歳に至る現在まで,この2球団を応援し続けている。中日の優勝は高校時代(昭和57年)から何度か見てきたけれど,ロッテの優勝は一昨年が本当に久し振りの盛り上がりだった。
■学祭・合唱・学テの怒濤の1週間,テレビを見ることはなかったが,新聞でロッテと中日の動向は気にしていた。ファンとしてはやはり気になるところである。「中日vsロッテ」の日本シリーズを33年振りに見られるか,という期待もあった。しかし,日ハムとロッテが2勝2敗のタイになってから,なんとなく「これは,ロッテが勝ってはいけないのではないか…」と思い始めた。シーズンのリーグ戦を制した日ハムがたった5試合の対戦で負け越したからと言って,2位のロッテが日本シリーズに進出するというのはいかがなものか。もちろんこれを言い始めると,一昨年のロッテの優勝も同じ理屈で否定しなければならなくはなるのだが,やはりどうもしっくり来ない。そう思ってパ・リーグを見ていた私は,今回のセ・リーグもやはり,巨人が出るべきなのでは?と内心思っていた。誤解のないように言っておくが,私は大のアンチ巨人であり,日ハムは昔からパ・リーグで最も嫌いな球団である。北海道に来たときにも「なんでこんな球団が来るんだ」と思っていたクチである。
■思うに,クライマックスシリーズは「日本シリーズ」の質を変えてしまった。両リーグの今年の覇者同士がぶつかり合い,「日本一を競う」という位置づけから,「秋のレクリェーション的な野球イベント」という趣に変えてしまったのである。当然のことながら,短期決戦というのは偶然性に支配される要素が大きくなる。その時々の一瞬の「流れ」に支配される要素も大きくなる。それだけ「遊び」の要素,「お祭り」の要素だけが大きくならざるを得ない。夏の祭典オールスターのような趣になっていく。ひいきのチームがこれに勝つことは確かに嬉しいけれど,これまでの日本シリーズに勝つことほどは嬉しくない。嬉しさに〈微妙なためらい〉が生じるのだ。これなら,しっかりと「お祭り」と位置づけてしまって,両リーグ1チームずつなんていうケチなことは言わないで,両リーグ1位から3位までを3チームずつ出し合って,6チームでリーグ戦を戦った方が面白い。サッカーのように,1カード2戦ずつ,ホーム&アウェイで10試合ずつ闘えばいい。クライマックスシリーズから日本シリーズへと続く4週間近い日程で,消化できる試合数であるはずだ。中日とロッテなどという球団を応援する者としても,この方が,ひいきのチームのいろいろなカードを見られて面白い。自分のひいきチームが優勝すれば当然楽しめるし,早々に優勝候補から脱落したとしても,優勝を争っているチームとどう闘うのか,優勝争いをしているチームにどう絡むのか,最後まで楽しむことができる。相撲で同じ部屋,同じ一門の力士が優勝争いをしているときに,その力士が優勝争いをリードするために優勝を争っている相手を本気で倒しに行くことで助けるということがよくあるが,それと同じことがリーグ戦の後半には同一リーグチームで行われるようになるはずだ。それも大きな見どころになる。
■今日,落合博満の勝利監督インタビューを聞きながら,こんなことを考えた。
2007/10/14のBlog
[ 22:38 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■トイレで読もうと思い,書斎の積ん読の中から新書を一冊。『〈美少女〉の現代史』(ササキバラ・ゴウ/講談社現代新書/2004年5月)である。うーん。おたくを論じた本だ。あんまり気分じゃないな……思いつつ,他を選ぶのも面倒なので,そのままトイレに持ち込む。読み始める。読み始めてしまうと面白い。なかなかやめられない。結局,1時間近くもトイレにこもってしまった。私を捕らえたのは,クラリス論である。そう。1979年。「ルパン3世 カリオストロの城」の,あのクラリスである。
■ササキバラはまず,クラリスと,ルパンの歴史的なヒロイン峰不二子を比較する。不二子が行動的でセクシーなキャラクター性を強くアピールしているのに対し,クラリスが非常に地味で,いかにも少女らしい外見のキャラクターとして設定されており,身体のフォルムに関しても大人っぽさをアピールするような特徴を一切もっていない,と。にもかかわらず,「カリオストロの城」では,「カッコいい女性」の典型として描かれ続けてきた峰不二子が完全に脇役へと追いやられ,ファンの人気の対象は地味な外見のクラリスに集中し,いまから振り返れば,その後の〈美少女ブーム〉を巻き起こしたエポック的キャラクターとして定着してしまった,と。
□このことは,「カリオストロの城」というアニメの性質をよく表しています。この作品が,公開当時から現在にいたるまで多くの人から絶賛されつづけている一方で,「これはルパンとしての面白さでしない」という評価が常につきまとってきたのは,理由のないことではありません。「カリオストロの城」は,「ルパン三世」である以前に「宮崎駿のアニメ」だったのです。この映画では,宮崎駿が脚本(山崎晴哉と共同)・絵コンテ・監督を務めており,原作まんがとは大きく乖離した,宮崎独自の内容となりました。実際このアニメを見ていると,主人公のルパンは,もはやほとんどルパンではありません。アニメの導入と結末では一応「大泥棒ルパン」らしく登場しますが,それ以外は別の役割をもったキャラクターとして活躍します。だからルパンの世界のヒロインだった峰不二子も,そのような「ルパンではない」ストーリーの中では,もはやヒロインたりえません。そこで代わりに活躍するのは,「宮崎アニメのヒロイン」なのです。《45頁》
■このようなベクトルを示した上で,著者は「カリオストロの城」を「古典的なお姫様と王子様の物語」であると規定する。確かに「カリオストロの城」は,城に住む「悪い王様」が無理矢理結婚しようとしている「お姫様」を救うために「王子様」が命がけの闘いを挑み,結局,その闘いに勝利して「お姫様」を救い出しハッピーエンドを迎えるという物語に過ぎない。ここで,著者が立てた唯一の〈問い〉は次である。
□ルパンはなぜクラリスを救うのか
■「カリオストロの城」は,「古典的なお姫様と王子様」のストーリーでありながら,その「王子様」が「お姫様」を救う理由については最後まで描かれない。一般な「王子様」と「お姫様」であれば,「王子様」が「お姫様」を救い出そうとすることには何の疑問も生じ得ない。それは古今東西,古典的物語の一プロットであり,読者や視聴者はなんの疑問も抱くことなく,当然のこととしてその物語内に没入することができる。しかし,ルパンは「王子様」ではない。「大泥棒」である。「大泥棒」が「王子様」の役割を演じる権限をもつには,なんらかの理由が必要である。しかし,「カリオストロの城」ではそれが描かれない。この宮崎駿の演出は強引でさえある。なぜか。
□ここで,このアニメに「ねじれ」が生じています。宮崎駿はルパンというキャラクターに本来結びつかないはずの王子様という役割をかぶせ,それを自分なりのロマンティシズムで強引に押し切っているように見えます。/だからこのアニメを見る者は,ルパンの中に存在しないはずの王子様の根拠を,自分で勝手に見つけずにはいられません。その根拠が空白であるがゆえに,それを補わずにはいられないのです。ルパンがわざわざ命をかけてまでクラリスを救わなければならない,その根拠を。/それは,アニメの表立ってなにも描かれていない以上,外からは見えないルパンの内面に求められることになります。観客はそこで漠然と,恋愛的な感情を見つけることになります。恋愛感情以外には,無理なくルパンの行動を説明できる根拠がないからです。実際,アニメのラストではそのようなものが,におわされています。《47-48頁》
□本来なら「恋愛」などというものをことさら表現しなくても,お約束ごと的に成立するはずの「王子様とお姫様」の物語は,強引にルパンという別世界に移植されることで,ルパンの側にそのような根拠を必要としてしまったのです。《48頁》
■ここで著者ササキバラは一つの問題構図を提起する。一般に,「古典的なお姫様と王子様」の物語においては,王子様は王子様であることによってお姫様に愛され,お姫様はお姫様であることによって王子様に愛される。それはその根拠を考えるまでもなく当然のことであり,いわば必然のこととして受け入れられ何の疑問も生じない。しかし,大泥棒ルパンを「古典的なお姫様と王子様」の物語に移植することは可能としても,そこにはクラリスを愛する根拠も,クラリスに愛される根拠も持っていない。仮にルパンの側に「恋愛感情」を仮想することで「愛する根拠」を捏造したとしても,クラリスの側,つまり「お姫様」の側に「愛される根拠」の方はまったく存在しない。ここに「カリオストロの城」が,「ルパン3世」というキャラクターに強引に「お姫様と王子様」の物語を移植したことによる重大な欠陥が生じてしまった。だが,しかし,この欠陥こそがクラリスを《美少女ブーム》の火付け役としてエポック的存在に高めた秘密があった。
□たぶん,方法はひとつです。愛される根拠を持たない男が,お姫様との恋愛を成就させようと思うならば,「お姫様の側から一方的に愛される」以外に手段はありません。根拠を欠いた王子様が本当の王子様になるためには,お姫様の側が自分を王子様だと認めてくれる以外に,方法は存在しないのです。ルパンは,そういう受け身の立場にならざるをえません。/このとき,その男の命運は,すべて彼女の手に握られることになります。自分という男の価値は,彼女によって裏づけられることになるのです。そういう事態が,ここで生じています。私という男の価値を裏づけてくれる絶対的な存在として,そこに「彼女」という存在が出現しています。/クラリスとは,そのようなキャラクターです。/恋愛的な物語の中で,無根拠な自分に根拠を与えてくれる存在-それが「カリオストロの城」で宮崎駿が生み出した美少女のイメージです。/これはもはや,男にとって絶対的な存在といわざるをえません。男である私の価値を決定し,私ごときに恩寵を下さる,崇めるべき女神のようなものとして,「美少女」がイメージされています。《49-50頁》
■そうだったのか……という思いを禁じ得なかった。目の前が明るくなるのを感じた。ササキバラがここで下敷きにしているのは,間違いなくジョルジュ・バタイユの「エロティシズム」論である。バタイユが性行為において,女性が身を開くことによって男性に「男としての根拠」を与え,女性がオルガスムスに達することによって更に「男のしての根拠」を増幅させ,更にはオルガスムスへの同時達成によってこの上ない「死への埋没」的な感覚が成就される,そこに「エロティシズム」の根拠を求めたのと同じ構図がここに見られる。しかし,バタイユが性行為のアナロジーによって「エロティシズム」を語り,それが全世界で受け入れられたのとは対照的に,クラリスをエポックとする《美少女》の系譜に見られる「エロティシズム」の構図は,もはや〈肉体〉を必要としていない。「死への埋没」において,認識(思考イメージ)と存在(肉体感受)とが完全に切り離されてしまっている。「美少女おたく」とは,「エロティシズム」(バタイユ)において,或いは「死に至る病」(キルケゴール)において,精神と肉体とが切り離され,精神(思考イメージ)だけが突出した現代的な病理だったのである。「女性の肉体」を括弧に括った,現象学的還元と言い換えてもいい。そうなると,世に言う「おたく」が80年代から台頭してきたことにも納得が行く。AVが世の中に普及し,男性にとって「美の象徴」,自分に「存在根拠を与えてくれる他者」として君臨してきた女性という幻想は穢され,浮き世に埋没していった。しかし,この女性の浮き世への埋没から,「美少女おたく」たちは女性の「汚れなき精神」という幻想だけを切り離し,「美少女」に移植したのである。そうだったのか。だから「おたく」には美男がいないし,だから「おたく」には社会の中で地位を占めている者がいないのだ。「おたく」が社会的地位を占めても,その地位にに何の興味も示さず,むしろ稼いだ金で「おたく化」を更に進めてしまうのもそういうことなのだ。浮き世の現実的な地位よりも精神性なのである。それは現実的な肉体よも精神性を選ぶ,その「美少女おたく」の構図と同じなのだ。そうだったのか。「おたく」は頭でっかちの突出した形態だったのである。なるほど「80年代おたく」の中から,現在に影響を与える哲学的言論が多数出現してきたことにも納得が行くというものである。
■「カリオストロの城」の結末において,私も泥棒になると言うクラリスをルパンは「オレのように汚れちまってはいけない」と,大袈裟な演技までして抱きしめないことを選ぶ。そりゃそうだろう。クラリスは穢してはいけない精神性の象徴なのだから。世の「美少女おたく」は,自分に根拠を与えてくれる女性をイメージの中で仮想している存在なのだ。ゴスロリは男に根拠を与える絶対的女神になりたい少女たちなのだ。「おたく」とは《絶対者になりたい人たち》だったのだ。そう考えれば,「おたく」の言論者が必ず天皇論を語り出すことにも納得が行く。大塚英志も宮台真司も,そして東弘紀もみんなそうだ。そうか。そうだったのか。いやはや,勉強になった。