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2007/11/18のBlog
[ 20:34 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■昨日は1ヶ月半振りに「研究集団ことのは」の公開研究会。「第5回国語科授業改革セミナーin札幌」と銘打った「ことのは」のコンテンツを紹介する小さなイベントである。予定していた人数よりも少しだけ多い,25名ほどが集まった。終了後,森くん,友利くん,石田さんと4人で小宴。石田さんはわざわざ愛知県からこの会のために来てくれた。いやはや,すごい行動力である。僕は最近,本州で「行きたいなあ」と思う研究会があっても,「面倒だなあ」が先に立ってしまう傾向がある。まあ,「面倒だ」と思うときは「面倒」なのだから仕方ない,と楽観しているけれど。
■さて,この研究会,僕の出番は9:15~10:45でプレゼンテーションについて90分間の講座,そして15:15~16:45でマイクロ・ディベートについての90分講座。二つの講座の間に,午後の講座で原稿用紙を使おうと思い立った。あいにくいつもは鞄に入れているはずの原稿用紙がなかったので,コンビニに行った。会場近くのセブンイレブン。ところが,当然あると思っていた原稿用紙が売っていない。車を飛ばしてローソンにも言ってみたが売っていない。更にサンクス,ファミリーマートとまわってみたが,ない。実はかつて,同じことがあった。午後の講座で使う原稿用紙を用意するのを忘れていて,昼休みにコンビニに買いに走ったのである。おそらく数年前のことである。そのときには,原稿用紙はコンビニで当然のように売られていた。ところが,今回は,4軒まわって1軒も置いていなかった。結局,会場から車で15分ほどかけて,TSUTAYAで購入することができ事なきを得たのだが,時代は原稿用紙を必要としなくなっているのだと改めて実感させられる出来事だった。
■国語教師として,実はけっこうショックを受けている自分を感じている。
■さて,この研究会,僕の出番は9:15~10:45でプレゼンテーションについて90分間の講座,そして15:15~16:45でマイクロ・ディベートについての90分講座。二つの講座の間に,午後の講座で原稿用紙を使おうと思い立った。あいにくいつもは鞄に入れているはずの原稿用紙がなかったので,コンビニに行った。会場近くのセブンイレブン。ところが,当然あると思っていた原稿用紙が売っていない。車を飛ばしてローソンにも言ってみたが売っていない。更にサンクス,ファミリーマートとまわってみたが,ない。実はかつて,同じことがあった。午後の講座で使う原稿用紙を用意するのを忘れていて,昼休みにコンビニに買いに走ったのである。おそらく数年前のことである。そのときには,原稿用紙はコンビニで当然のように売られていた。ところが,今回は,4軒まわって1軒も置いていなかった。結局,会場から車で15分ほどかけて,TSUTAYAで購入することができ事なきを得たのだが,時代は原稿用紙を必要としなくなっているのだと改めて実感させられる出来事だった。
■国語教師として,実はけっこうショックを受けている自分を感じている。
2007/11/04のBlog
[ 20:33 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■全国学力・学習状況調査について原稿を1本。書き上げたところで煙草を一服。うーん,うまい。全身から余計な力が抜けていく。今回の原稿にはずいぶんと苦労させられた。苦労したのではない,苦労させられたのである。たかだか3頁の雑誌原稿なのだが,締切を1ヶ月も過ぎてしまった。まあ,調査結果の公開が1ヶ月遅れたのだから,必然的にこの原稿の完成が遅れるのは致し方ない。問題は「さあ書こう」となってからなかなか書けなかったことである。なぜか。その理由は超簡単である。札幌市がこの調査結果について原則非公開との方針を決めたからである。自分はその結果を知っている。しかし,それを書くことは禁じられている。このような状況の中で,調査結果を分析する原稿を書かなければならない。なんという苦痛。このデータは公開して良いのか。これはどうか。いちいち新聞報道や様々なホームページを開いて,「ああ,これは使って良いのだな」という作業が必要になる。なんとも面倒この上ない。もう3ヶ月近くも前に依頼されたものなのだが,この原稿依頼は断れば良かったと悔やんだ。まあ,書き上げてしまったいまとなっては,どうでもいいことだが。昨日は一日中苦しみ,夜が更けてから酒の力を借りて「えいや!」と書き上げ,今朝,早起きをして校正である。校正作業にもデータの公開可能性について調べる作業がつきまとう。ぶつぶつ。まあ,書き上げてしまったいまとなっては,どうでもいいことだが。ぶつぶつ…。いずれにしても,こういう限られたデータで書く原稿というものは,全体像を提示して語ることができないので,難しくなりがちである。発表媒体は若い教師向けの雑誌なのだが,どうせ読み飛ばされるに決まっている。だいたい自分が二十代なら,この原稿は間違いなく読み飛ばす。意味のない原稿だってことだ。まあ,書き上げてしまったいまとなっては,どうでもいいことだが。ぶつぶつ……。
2007/11/03のBlog
[ 23:59 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■10時。朝から原稿を書こうと思ったら,学校にある資料がないと書けないことが発覚。車を飛ばして資料を取りに行く。帰宅して,さて原稿を書こうと思ったら,後頭部に重い痛みがあることが発覚。車を飛ばして指圧に向かう。帰宅して,さあ原稿を書こうと思ったら,なんとしばらく犬と散歩に出ていないことが発覚。二匹の犬を連れて小一時間ほど散歩する。帰宅して,さあ原稿を書こうと思ったら,自分が原稿を書きたくないことが発覚。そこで一太郎を終了してスパイダーソリティアを立ち上げたら,なんと中級で3連勝。運の良さを実感する,ちょっとさわやかな土曜日……。もう夕方である。こうして原稿を書くのをやめてしまった。はっはっは。
■17時。冷凍庫のまぐろとかつおを溶かしておいたのだが,わさびが切れていること気がついた。スーパーに食材を買いに行く。買い物途中に,自分が原稿が書けないのは書斎が寒いからであることに気がついた。そのままホームセンターへ。ハロゲンヒーターを二つ買う。ついでに来るべき冬に向けて長靴も。長靴を見ているうちに,もう年末も近く,このままでは年末年始にDVDも見られないことに気がついた。我が家のテレビが壊れて既に1ヶ月半。テレビ番組が見られないのは良いとして,あの暇な年末年始にDVDを見られないのは致命的である。というわけで,近くの大型家電店へ。おお,あるわあるわ……。結局,アクオスの型古が10万円引きで出ていたので,それを買う。45型。まずまずの大きさである。明後日以降のお届け…というのを,何が何でも明日届けろとねばったところ,「明日の午後,お届けします」とのこと。ねばり勝ち。そりゃそうだ。平日なんて受け取れない。何時になるかわからないもの。はっはっは。
■21時。まぐろとかつおとしめさばで浦霞を少々。買ってきた山わさびが効く。ついでに長芋もすって,まぐろの山かけ。明日から何のDVDを借りてこようかとイメージしながら,ぺろり。酔っぱらって朦朧とした頭で原稿を書き始めると,今日をあと15分残したところで原稿が出来てしまった。浦霞の最後の一杯をすすりこむと,ホリは,フッと,満ちてきたアイディアに滑り入り,一太郎画面に沈んでいきました。ハロゲンヒーターがあったかい。書斎の空気が甘い。酔ってしまえば,書斎はホリのもの。酔ってしまえばだいじょうぶ。はっはっは。
■17時。冷凍庫のまぐろとかつおを溶かしておいたのだが,わさびが切れていること気がついた。スーパーに食材を買いに行く。買い物途中に,自分が原稿が書けないのは書斎が寒いからであることに気がついた。そのままホームセンターへ。ハロゲンヒーターを二つ買う。ついでに来るべき冬に向けて長靴も。長靴を見ているうちに,もう年末も近く,このままでは年末年始にDVDも見られないことに気がついた。我が家のテレビが壊れて既に1ヶ月半。テレビ番組が見られないのは良いとして,あの暇な年末年始にDVDを見られないのは致命的である。というわけで,近くの大型家電店へ。おお,あるわあるわ……。結局,アクオスの型古が10万円引きで出ていたので,それを買う。45型。まずまずの大きさである。明後日以降のお届け…というのを,何が何でも明日届けろとねばったところ,「明日の午後,お届けします」とのこと。ねばり勝ち。そりゃそうだ。平日なんて受け取れない。何時になるかわからないもの。はっはっは。
■21時。まぐろとかつおとしめさばで浦霞を少々。買ってきた山わさびが効く。ついでに長芋もすって,まぐろの山かけ。明日から何のDVDを借りてこようかとイメージしながら,ぺろり。酔っぱらって朦朧とした頭で原稿を書き始めると,今日をあと15分残したところで原稿が出来てしまった。浦霞の最後の一杯をすすりこむと,ホリは,フッと,満ちてきたアイディアに滑り入り,一太郎画面に沈んでいきました。ハロゲンヒーターがあったかい。書斎の空気が甘い。酔ってしまえば,書斎はホリのもの。酔ってしまえばだいじょうぶ。はっはっは。
2007/11/01のBlog
[ 13:43 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■11月の声を聞いた。開校記念日。要するに休みである。あいにくの雨。しかもかなり激しい雨。別に外出の予定もないからいいのだが,犬と散歩に行こうという予定は土日まで延期である。結局,ここ2週間くらい聴き続けているポール・サイモンを今日も聴きながら,おだやかな休日を過ごしている。しかも,週の半ばの休日は,一般の人が働いているだけにウキウキものである。あれもしたいこれもしたいと思うのだが,きっと何もしないままに一日を終えるに決まっている。そんなネガティヴな予定調和さえ楽しめる。
■昨夜,ある新聞社の取材を受けた。その新聞社の教育特集の一環として,現役教師として教育再生の方向に関してインタビューを受けたわけである。記者は30代後半のバンカラな雰囲気の漂う男だったが,私が今回の学校祭でつくったビデオを見せると,涙をあふれさせながら「オレもこんなビデオが欲しかった」と繰り返していた。そうなのだ。大人には見ただけでこのビデオの価値が伝わるのだ。そう確信した一瞬だった。
■今回,私が学校祭のステージ発表として生徒たちとともに作った映像は,20分間に及ぶテレビ番組やCMのパクリ映像。そして最後に,マーチ「威風堂々」に載せて150枚余りの生徒達のスナップ写真を展開,最後の1分半は体育館で学年生徒100名が整然と並びカメラに向かって敬礼する。それだけの映像である。しかし,これは,組織に帰属意識をもち,集団に支えられながら自己を形成していくという,無意識裡に日本人の誰もが抱いているメンタリティを喚起する。期せずして記者が言ってくれたように,この映像をつくった私自身が,いまから子ども時代を振り返って自分が欲しかった映像,あったら良かったのにと思う映像,そしてかつて自分を指導してくれた先生方につくって欲しかった映像,私自身がそんなふうに思える映像をつくったのである。これが大人にはわかる。このビデオの価値が大人ならわかる。この映像が体育館のスクリーンに流され,「FIN」の文字が浮かんだとき,保護者席に座る多くの人達がハンカチで目頭をおさえる瞬間を僕は見ていた。保護者にもわかるのだ。この映像の価値が。
■しかし,当の子供達にはそれがまだわからない。おそらく生徒達がこの映像がこの世の中に存在することの価値に気がつくまでに,早い子で5年,遅い子で20年の時を要するに違いない。しかし,そろそろ日本人は気づくべきだ。こういう〈時差〉にこそ,教育というものの本質があるのだということに。教育を受けている当事者には,いま自分がやっていること,いま自分がやらされていることの価値はわからないものなのだ。それは長い時を隔て,ふとある瞬間に過去を振り返ったときに,本人にとっては意識さえすることができないままに大きな効力を発揮し,あくまで抽象的にフラッシュバックされる。そのとき初めて価値が生まれる。それが教育というものの〈構造〉なのである。
■しかし,現在,教育をとりまく言説のほとんどはこの〈教育の構造〉を踏み外している。子どもが納得するように教師は指導すべきだ,うちの子が先生を批判しているのだから先生の教育はうちの子にはあわないという何よりの証拠だ,学校は教育サービスを提供し顧客満足を得るサービス業である,ゆとり教育を反省し授業時数を3割増やして学力向上を目指す,子どもたちの規範意識を育てるために教師が威厳を持って指導できるようなシステムを整備しなければならない,子どもの問題行動には保護者にも一定の責任を負わせるべきだ,どれもこれも「子どものいま」「保護者のいま」「教師のいま」「学力のいま」「学校のいま」しか考えない発想から出てきている議論に過ぎない。この短絡的な発想こそがこの国の教育をダメにしているのである。日本人のリスクマネジメントの欠如とは,簡単に言えばこういうことなのだ。すべてを単線的な因果関係だけで計れると考えるこの短絡。なんとかしなければこの国は滅ぶ。教育とは因果関係による実体を指すのではない。あくまでも方向性を指す,つまり〈ベクトル〉を指す概念なのである。リスクがあろうと,それによるマイナスがあろうと,総合的にポジティヴなベクトルを示していればそれを成功と捉える,「大体そっちの方向を向いているね」という評価しかすることができない,そういった「大体論」でしか語ることのできない,そういう概念なのである。このことに世論もマスコミも,そろそろ気がつくべきだ。
■ともあれ,今回の学祭ビデオの出来はまずまずである。なぜ敬礼なのかという疑問を私に投げかけた人が数名いた。堀は軍国主義者なのか,と。まったくそんなことはない。あまり言いたくないことだが,軍国主義者かとまで言われたら応えねばなるまい。その理由は馬鹿馬鹿しいほど単純である。1987年の年末,「男女七人秋物語」で明石家さんまに別れを告げる際の岩崎宏美の敬礼があまりにも格好良かったからだ(笑)。それ以上でもそれ以下でもない。単なる「80年代の男」の「80年代的な思いつき」に過ぎない。
■昨夜,ある新聞社の取材を受けた。その新聞社の教育特集の一環として,現役教師として教育再生の方向に関してインタビューを受けたわけである。記者は30代後半のバンカラな雰囲気の漂う男だったが,私が今回の学校祭でつくったビデオを見せると,涙をあふれさせながら「オレもこんなビデオが欲しかった」と繰り返していた。そうなのだ。大人には見ただけでこのビデオの価値が伝わるのだ。そう確信した一瞬だった。
■今回,私が学校祭のステージ発表として生徒たちとともに作った映像は,20分間に及ぶテレビ番組やCMのパクリ映像。そして最後に,マーチ「威風堂々」に載せて150枚余りの生徒達のスナップ写真を展開,最後の1分半は体育館で学年生徒100名が整然と並びカメラに向かって敬礼する。それだけの映像である。しかし,これは,組織に帰属意識をもち,集団に支えられながら自己を形成していくという,無意識裡に日本人の誰もが抱いているメンタリティを喚起する。期せずして記者が言ってくれたように,この映像をつくった私自身が,いまから子ども時代を振り返って自分が欲しかった映像,あったら良かったのにと思う映像,そしてかつて自分を指導してくれた先生方につくって欲しかった映像,私自身がそんなふうに思える映像をつくったのである。これが大人にはわかる。このビデオの価値が大人ならわかる。この映像が体育館のスクリーンに流され,「FIN」の文字が浮かんだとき,保護者席に座る多くの人達がハンカチで目頭をおさえる瞬間を僕は見ていた。保護者にもわかるのだ。この映像の価値が。
■しかし,当の子供達にはそれがまだわからない。おそらく生徒達がこの映像がこの世の中に存在することの価値に気がつくまでに,早い子で5年,遅い子で20年の時を要するに違いない。しかし,そろそろ日本人は気づくべきだ。こういう〈時差〉にこそ,教育というものの本質があるのだということに。教育を受けている当事者には,いま自分がやっていること,いま自分がやらされていることの価値はわからないものなのだ。それは長い時を隔て,ふとある瞬間に過去を振り返ったときに,本人にとっては意識さえすることができないままに大きな効力を発揮し,あくまで抽象的にフラッシュバックされる。そのとき初めて価値が生まれる。それが教育というものの〈構造〉なのである。
■しかし,現在,教育をとりまく言説のほとんどはこの〈教育の構造〉を踏み外している。子どもが納得するように教師は指導すべきだ,うちの子が先生を批判しているのだから先生の教育はうちの子にはあわないという何よりの証拠だ,学校は教育サービスを提供し顧客満足を得るサービス業である,ゆとり教育を反省し授業時数を3割増やして学力向上を目指す,子どもたちの規範意識を育てるために教師が威厳を持って指導できるようなシステムを整備しなければならない,子どもの問題行動には保護者にも一定の責任を負わせるべきだ,どれもこれも「子どものいま」「保護者のいま」「教師のいま」「学力のいま」「学校のいま」しか考えない発想から出てきている議論に過ぎない。この短絡的な発想こそがこの国の教育をダメにしているのである。日本人のリスクマネジメントの欠如とは,簡単に言えばこういうことなのだ。すべてを単線的な因果関係だけで計れると考えるこの短絡。なんとかしなければこの国は滅ぶ。教育とは因果関係による実体を指すのではない。あくまでも方向性を指す,つまり〈ベクトル〉を指す概念なのである。リスクがあろうと,それによるマイナスがあろうと,総合的にポジティヴなベクトルを示していればそれを成功と捉える,「大体そっちの方向を向いているね」という評価しかすることができない,そういった「大体論」でしか語ることのできない,そういう概念なのである。このことに世論もマスコミも,そろそろ気がつくべきだ。
■ともあれ,今回の学祭ビデオの出来はまずまずである。なぜ敬礼なのかという疑問を私に投げかけた人が数名いた。堀は軍国主義者なのか,と。まったくそんなことはない。あまり言いたくないことだが,軍国主義者かとまで言われたら応えねばなるまい。その理由は馬鹿馬鹿しいほど単純である。1987年の年末,「男女七人秋物語」で明石家さんまに別れを告げる際の岩崎宏美の敬礼があまりにも格好良かったからだ(笑)。それ以上でもそれ以下でもない。単なる「80年代の男」の「80年代的な思いつき」に過ぎない。