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裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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2007/11/28のBlog
[ 21:54 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■勤務校は北区,自宅は白石区。札幌に詳しい人にしかわからないだろうが,間には東区をはさんでいる。毎日,三つの区を移動していることになる。学校を出て車で5分も走ると東区に入る。北区と東区の境目は,タマネギ畑の中に道路が一本走っているだけ。そんな趣である。退勤途中に見る「ここから東区」,出勤途中に見る「ここから北区」,この看板を見るたびに,僕はいつも,何を基準にここに区の境界線を引いたのだろうかと不思議に思っていた。境界線には道路もなければ線路もない。川もなければ山もない。つながっている,だだっ広いタマネギ畑の上を,眼には見えない区を分ける境界線だけが走っているのだ。現在の勤務校に転勤して2年8ヶ月,僕にとってはけっこう大きな謎だった。実はその謎が今日,解けた。
■19:00に学校を出た。雪が降っていた。下から巻き上げるような風に,一粒一粒が右往左往している,雪がそんな舞い方をしていた。雪の舞いに規則性はないのかと,目をこらして1分ほど立ち止まっていたのだが,どうも規則性らしいものはないようで,観察は失敗に終わった。車に積もった雪を払い,走り出す。最初の交差点で左折しようとブレーキを踏むと,止まらない。ツルツルに凍っている。ああ,こりゃだめだ。時速30キロでゆるゆると走る。なにせ校区内。こんなところで事故でも起こしたら大変である。アクセルを踏み込まないように気をつけながら,それでいて雪の舞いを気にしながら走っているうちに,いつもの看板が見える。ここから東区。その看板を越えると同時に,雪の舞が,消えた。あとかたもなく消えた。僕は車を止めた。車から降りて境界線に立つ。境界線の真上に立つ。右半身は北区,左半身は東区。右半身は雪の舞いに包まれ,左半身は…向こうの明かりが染みこんでくるように視界が広い。右半身は小さな粒上の冷たさが頬にも手にも当たる。左半身はただ刺すような冷たい風。これなのだ。これが北区と東区の違いなのだ。ここに境界線を引いた人たちはこのことを知っていたのだ。でもなぜ。この一線がなぜこの一線なのだ。僕にはわからない。
■時速30キロでツルツルの道を更に30分走った。右左折するたびにタイヤがすべらないかと冷や冷やしながら。豊平川をわたった。この川をわたると白石区。わたった途端に,地上から雪が消えた。道路脇にさえ積もっていない。しかも,まわりを走っている車がビュンビュン飛ばしているではないか。ついさっきまで,僕と同じスピードで走っていたのに。見ると,道路が乾いていた。ためしにブレーキをふんでみた。夏と同じように,止まった。間違いない。道路は乾いているのだ。凍っていないのだ。時速60キロで走り出した。これまでハンドルを握る手も,アクセルにおいて右足も緊張していたことに気がついた。自分の運転する車のスピードが,ずいぶんと速く感じられた。
■通勤の楽しみが一つ増えた。これまでみたいに好きな音楽を聴くだけの時間ではなくなるを感じた。
2007/11/22のBlog
[ 23:59 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■学校バッシング、教師バッシングが喧しい昨今、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分らはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。2000年前後には学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩する毎日。それから丸七年が経とうしている現在、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、ますます闊歩の度合いを強めているように見える。その証拠に、2000年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、昨今はかの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっている。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第2回学校再生分科会議事録)と定義していることから見ても、私のこの状況認識はある種の妥当性をもっているようだ。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。
■2003年4月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰していることを意味している。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見てよいだろう。
■こうした状況の中で、最近、必要に迫られて、教師に必要な能力を分析して図解した「教師力ピラミッド」というモデルを作成した。マスコミや保護者といった学校外の人間も、そして教師自身も、教師に必要とされる能力と実態を知ることが問題解決の出発点になるだろう、と考えたからである。
■「教師力ピラミッド」は、教師の日常的な仕事に関して、教師に求められている資質と能力をわかりやすく網羅し、三角形の底辺から頂点に向けて、能力習得の難易度に応じて三段階にランクづけしたものである。
■第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。
■第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。
■また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編成という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。
■更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。
2007/11/19のBlog
[ 23:59 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■これまで3週間近くそれだけに取り組んできた原稿に目鼻がついた。一応べた書きが終わったので,一日寝かせて明日校正。明日がぎりぎり待てる期日として指定された日である。なにせ締切10月20日の原稿である。もう待ったなしの状態だった。それでもなんとか間に合ってよかった。これで3連休はDVDでも借りてきてゴロゴロできる。あとは「授業づくりネットワーク」に「教職研修」,数本の同人誌原稿を書けば,今年も終わりである。年末年始の幸せな退屈に埋没できる。今年もあと40日か。
新聞に掲載されるということは,しかも地元紙に掲載されるということは,やはり直接的な影響力をもつもののようで,小学校時代,中学校時代,高校時代の友人から「新聞見たよ」というメールが届いた。どの友人もここ数年,なかにはここ数十年,音沙汰のなかった友人もいる。きっと新聞記事を見て,僕の名前で検索し,このHPを見つけ,メールアドレスを知り,メールを送ってきた,こういう流れなのだろう。かつての友人・知人と再びつながるというのはなんとなく照れくさい反面,やはりいいものである。あまりマスコミには出たくないと考えている自分だが,彼等からメールをもらえたことで良しとしよう。
■原稿に没頭していたために,犬の誕生日を忘れていて,妻に嫌みを言われた。今日,2日遅れでケーキを買ってきて,誕生日を祝った。一昨日で5歳を迎えた。あと何年こいつといられるのか,必ずやって来る別れの日が刻一刻と迫っていることだけは確かだ。なんとかあと10年いっしょにいられないものか。2匹の犬が我が家からいなくなった生活を,僕は想像することさえできない。きっとペットロスで仕事にならなくなるだろう。あと5年か,10年か。そんなことを考えながら,そもそも5年後,10年後に僕や妻が生きている保証だって本当はないのだということに気がついた。人間は40歳くらいでは自分の死を具体的にイメージできない。まだ若い証拠と言えば言えなくもない。
2007/11/18のBlog
[ 20:34 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■昨日は1ヶ月半振りに「研究集団ことのは」の公開研究会。「第5回国語科授業改革セミナーin札幌」と銘打った「ことのは」のコンテンツを紹介する小さなイベントである。予定していた人数よりも少しだけ多い,25名ほどが集まった。終了後,森くん,友利くん,石田さんと4人で小宴。石田さんはわざわざ愛知県からこの会のために来てくれた。いやはや,すごい行動力である。僕は最近,本州で「行きたいなあ」と思う研究会があっても,「面倒だなあ」が先に立ってしまう傾向がある。まあ,「面倒だ」と思うときは「面倒」なのだから仕方ない,と楽観しているけれど。
■さて,この研究会,僕の出番は9:15~10:45でプレゼンテーションについて90分間の講座,そして15:15~16:45でマイクロ・ディベートについての90分講座。二つの講座の間に,午後の講座で原稿用紙を使おうと思い立った。あいにくいつもは鞄に入れているはずの原稿用紙がなかったので,コンビニに行った。会場近くのセブンイレブン。ところが,当然あると思っていた原稿用紙が売っていない。車を飛ばしてローソンにも言ってみたが売っていない。更にサンクス,ファミリーマートとまわってみたが,ない。実はかつて,同じことがあった。午後の講座で使う原稿用紙を用意するのを忘れていて,昼休みにコンビニに買いに走ったのである。おそらく数年前のことである。そのときには,原稿用紙はコンビニで当然のように売られていた。ところが,今回は,4軒まわって1軒も置いていなかった。結局,会場から車で15分ほどかけて,TSUTAYAで購入することができ事なきを得たのだが,時代は原稿用紙を必要としなくなっているのだと改めて実感させられる出来事だった。
■国語教師として,実はけっこうショックを受けている自分を感じている。
2007/11/04のBlog
[ 20:33 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■全国学力・学習状況調査について原稿を1本。書き上げたところで煙草を一服。うーん,うまい。全身から余計な力が抜けていく。今回の原稿にはずいぶんと苦労させられた。苦労したのではない,苦労させられたのである。たかだか3頁の雑誌原稿なのだが,締切を1ヶ月も過ぎてしまった。まあ,調査結果の公開が1ヶ月遅れたのだから,必然的にこの原稿の完成が遅れるのは致し方ない。問題は「さあ書こう」となってからなかなか書けなかったことである。なぜか。その理由は超簡単である。札幌市がこの調査結果について原則非公開との方針を決めたからである。自分はその結果を知っている。しかし,それを書くことは禁じられている。このような状況の中で,調査結果を分析する原稿を書かなければならない。なんという苦痛。このデータは公開して良いのか。これはどうか。いちいち新聞報道や様々なホームページを開いて,「ああ,これは使って良いのだな」という作業が必要になる。なんとも面倒この上ない。もう3ヶ月近くも前に依頼されたものなのだが,この原稿依頼は断れば良かったと悔やんだ。まあ,書き上げてしまったいまとなっては,どうでもいいことだが。昨日は一日中苦しみ,夜が更けてから酒の力を借りて「えいや!」と書き上げ,今朝,早起きをして校正である。校正作業にもデータの公開可能性について調べる作業がつきまとう。ぶつぶつ。まあ,書き上げてしまったいまとなっては,どうでもいいことだが。ぶつぶつ…。いずれにしても,こういう限られたデータで書く原稿というものは,全体像を提示して語ることができないので,難しくなりがちである。発表媒体は若い教師向けの雑誌なのだが,どうせ読み飛ばされるに決まっている。だいたい自分が二十代なら,この原稿は間違いなく読み飛ばす。意味のない原稿だってことだ。まあ,書き上げてしまったいまとなっては,どうでもいいことだが。ぶつぶつ……。
2007/11/03のBlog
[ 23:59 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■10時。朝から原稿を書こうと思ったら,学校にある資料がないと書けないことが発覚。車を飛ばして資料を取りに行く。帰宅して,さて原稿を書こうと思ったら,後頭部に重い痛みがあることが発覚。車を飛ばして指圧に向かう。帰宅して,さあ原稿を書こうと思ったら,なんとしばらく犬と散歩に出ていないことが発覚。二匹の犬を連れて小一時間ほど散歩する。帰宅して,さあ原稿を書こうと思ったら,自分が原稿を書きたくないことが発覚。そこで一太郎を終了してスパイダーソリティアを立ち上げたら,なんと中級で3連勝。運の良さを実感する,ちょっとさわやかな土曜日……。もう夕方である。こうして原稿を書くのをやめてしまった。はっはっは。
■17時。冷凍庫のまぐろとかつおを溶かしておいたのだが,わさびが切れていること気がついた。スーパーに食材を買いに行く。買い物途中に,自分が原稿が書けないのは書斎が寒いからであることに気がついた。そのままホームセンターへ。ハロゲンヒーターを二つ買う。ついでに来るべき冬に向けて長靴も。長靴を見ているうちに,もう年末も近く,このままでは年末年始にDVDも見られないことに気がついた。我が家のテレビが壊れて既に1ヶ月半。テレビ番組が見られないのは良いとして,あの暇な年末年始にDVDを見られないのは致命的である。というわけで,近くの大型家電店へ。おお,あるわあるわ……。結局,アクオスの型古が10万円引きで出ていたので,それを買う。45型。まずまずの大きさである。明後日以降のお届け…というのを,何が何でも明日届けろとねばったところ,「明日の午後,お届けします」とのこと。ねばり勝ち。そりゃそうだ。平日なんて受け取れない。何時になるかわからないもの。はっはっは。
■21時。まぐろとかつおとしめさばで浦霞を少々。買ってきた山わさびが効く。ついでに長芋もすって,まぐろの山かけ。明日から何のDVDを借りてこようかとイメージしながら,ぺろり。酔っぱらって朦朧とした頭で原稿を書き始めると,今日をあと15分残したところで原稿が出来てしまった。浦霞の最後の一杯をすすりこむと,ホリは,フッと,満ちてきたアイディアに滑り入り,一太郎画面に沈んでいきました。ハロゲンヒーターがあったかい。書斎の空気が甘い。酔ってしまえば,書斎はホリのもの。酔ってしまえばだいじょうぶ。はっはっは。
2007/11/01のBlog
[ 13:43 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■11月の声を聞いた。開校記念日。要するに休みである。あいにくの雨。しかもかなり激しい雨。別に外出の予定もないからいいのだが,犬と散歩に行こうという予定は土日まで延期である。結局,ここ2週間くらい聴き続けているポール・サイモンを今日も聴きながら,おだやかな休日を過ごしている。しかも,週の半ばの休日は,一般の人が働いているだけにウキウキものである。あれもしたいこれもしたいと思うのだが,きっと何もしないままに一日を終えるに決まっている。そんなネガティヴな予定調和さえ楽しめる。
■昨夜,ある新聞社の取材を受けた。その新聞社の教育特集の一環として,現役教師として教育再生の方向に関してインタビューを受けたわけである。記者は30代後半のバンカラな雰囲気の漂う男だったが,私が今回の学校祭でつくったビデオを見せると,涙をあふれさせながら「オレもこんなビデオが欲しかった」と繰り返していた。そうなのだ。大人には見ただけでこのビデオの価値が伝わるのだ。そう確信した一瞬だった。
■今回,私が学校祭のステージ発表として生徒たちとともに作った映像は,20分間に及ぶテレビ番組やCMのパクリ映像。そして最後に,マーチ「威風堂々」に載せて150枚余りの生徒達のスナップ写真を展開,最後の1分半は体育館で学年生徒100名が整然と並びカメラに向かって敬礼する。それだけの映像である。しかし,これは,組織に帰属意識をもち,集団に支えられながら自己を形成していくという,無意識裡に日本人の誰もが抱いているメンタリティを喚起する。期せずして記者が言ってくれたように,この映像をつくった私自身が,いまから子ども時代を振り返って自分が欲しかった映像,あったら良かったのにと思う映像,そしてかつて自分を指導してくれた先生方につくって欲しかった映像,私自身がそんなふうに思える映像をつくったのである。これが大人にはわかる。このビデオの価値が大人ならわかる。この映像が体育館のスクリーンに流され,「FIN」の文字が浮かんだとき,保護者席に座る多くの人達がハンカチで目頭をおさえる瞬間を僕は見ていた。保護者にもわかるのだ。この映像の価値が。
■しかし,当の子供達にはそれがまだわからない。おそらく生徒達がこの映像がこの世の中に存在することの価値に気がつくまでに,早い子で5年,遅い子で20年の時を要するに違いない。しかし,そろそろ日本人は気づくべきだ。こういう〈時差〉にこそ,教育というものの本質があるのだということに。教育を受けている当事者には,いま自分がやっていること,いま自分がやらされていることの価値はわからないものなのだ。それは長い時を隔て,ふとある瞬間に過去を振り返ったときに,本人にとっては意識さえすることができないままに大きな効力を発揮し,あくまで抽象的にフラッシュバックされる。そのとき初めて価値が生まれる。それが教育というものの〈構造〉なのである。
■しかし,現在,教育をとりまく言説のほとんどはこの〈教育の構造〉を踏み外している。子どもが納得するように教師は指導すべきだ,うちの子が先生を批判しているのだから先生の教育はうちの子にはあわないという何よりの証拠だ,学校は教育サービスを提供し顧客満足を得るサービス業である,ゆとり教育を反省し授業時数を3割増やして学力向上を目指す,子どもたちの規範意識を育てるために教師が威厳を持って指導できるようなシステムを整備しなければならない,子どもの問題行動には保護者にも一定の責任を負わせるべきだ,どれもこれも「子どものいま」「保護者のいま」「教師のいま」「学力のいま」「学校のいま」しか考えない発想から出てきている議論に過ぎない。この短絡的な発想こそがこの国の教育をダメにしているのである。日本人のリスクマネジメントの欠如とは,簡単に言えばこういうことなのだ。すべてを単線的な因果関係だけで計れると考えるこの短絡。なんとかしなければこの国は滅ぶ。教育とは因果関係による実体を指すのではない。あくまでも方向性を指す,つまり〈ベクトル〉を指す概念なのである。リスクがあろうと,それによるマイナスがあろうと,総合的にポジティヴなベクトルを示していればそれを成功と捉える,「大体そっちの方向を向いているね」という評価しかすることができない,そういった「大体論」でしか語ることのできない,そういう概念なのである。このことに世論もマスコミも,そろそろ気がつくべきだ。
■ともあれ,今回の学祭ビデオの出来はまずまずである。なぜ敬礼なのかという疑問を私に投げかけた人が数名いた。堀は軍国主義者なのか,と。まったくそんなことはない。あまり言いたくないことだが,軍国主義者かとまで言われたら応えねばなるまい。その理由は馬鹿馬鹿しいほど単純である。1987年の年末,「男女七人秋物語」で明石家さんまに別れを告げる際の岩崎宏美の敬礼があまりにも格好良かったからだ(笑)。それ以上でもそれ以下でもない。単なる「80年代の男」の「80年代的な思いつき」に過ぎない。
2007/10/23のBlog
[ 21:41 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■今度は比内地鶏か……と思ったのは,私だけではあるまい。赤福,白い恋人,不二家のケーキ。ミートホープは論外にしても,有名ブランド,それも観光と切り離せない地域ブランドから人々の多くが親近感をもつ日常ブランドまで,ありとあらゆる食品に賞味期限や使用材料の偽装が次々と発覚している。日本人のモラルハザードを指摘する向きもあるようだが,私が知りたいのは,こうした偽装はバブル崩壊後の不景気に伴って止むに止まれぬ打開策として講じられた手立てなのか,それともバブル期以前から行われていたことなのか,という点である。前者なら多少の同上の余地もあるし,日本人のモラルハザードという指摘もあながち誤りではないことになる。また,後者だとすれば,こうした「ばれなきゃいいや」という行動原理が日本人がもともと持っていた資質ということになり,それはモラルハザードなどではなく,日本経済を裏で下支えしていた,必要悪的な行動原理の露呈ということになる。ちょうど接待や談合の裏に,贈答文化や護送船団文化という日本独特の価値観に伴う行動原理によって,日本経済を下支えしていたように……。比内地鶏,赤福,白い恋人,不二家のケーキ,どれに関しても食中毒で営業停止というような話を,私は聞いたことがない。
■ここから予測されることは一つしかない。食中毒等で問題になったことがない食品関係の企業も,多くが同じような偽装をしていて,しかしながら,そのほとんどがこれまで問題になったことがない。そして,それでもこれまでは何事もなくこの国は動いていた。変わったのは,企業の営業方針・営業方法ではなく,国民の意識の方である。ブランドという付加価値にこそ金を払うに値するのに騙していたなんて,賞味期限を超えたものは食べないことにしているのに騙していたなんて,そういう意識である。私が子供の頃,人々は2ヶ月も冷蔵庫に入れっぱなしの納豆を平気で食べていたし,床に落ちた程度のものならちょっとふいて食べてしまうなんていう人はいっぱいいた。私は子供の頃から,床に落ちたものどころか,机の上,テーブルの上に落ちたものにさえ箸をつけなかったが,それを見て「堀はぜいたくだ」とたしなめる大人・友人がたくさんいたことを覚えている。彼等の口調には,明らかに私の態度を責めるトーンが垣間見られた。そういうトーンがいま懐かしくさえ感じられるのはどうしてだろうか。
■もちろん,偽装を許せと言いたいわけではない。しかし,かなり厳しめの絶対的な一線を引いて,それを1ミリでも超えたら袋叩き……そういう〈正しい姿勢〉を貫くことによって,私たちが〈失っているもの〉がないかと考えてみた方が良いのではないだろうか。鳥インフルエンザやBSEと賞味期限の偽装とが同じレベルで論じられてはいないか。校門圧死事件とげんこつや正座は同じレベルの体罰か。酒鬼薔薇事件や佐賀バスジャック事件とどこの学校にもいる非行少年とを同じレベルで論じていいのか。かつて東横イン社長が言っていた「速度規定60キロを70キロで走ったという程度」という非常に日本的な認識は,実はいまだに日本国民のコンセンサスではないのか。ホテルパコの女社長が化粧っけもなく涙を浮かべたことにころりと騙される方が,実は問題なのではないか。あれは非難を長期化させないための演出だとみんなわかっていたのではなかったか。東横インの社長の方が正直で一本気だったのでは……そんな疑問が湧きはしないか。〈正しい姿勢〉が〈正しすぎる姿勢〉に転化してしまい,結果的に悪影響を与えているということがあるのではないか,私にはそう思えてならないのだ。
■若い頃,車をもっていなかった私は家庭訪問を徒歩でまわっていた。5日間の家庭訪問週間の間,毎日,最後の訪問家庭では私に夕食を用意してくれていた。寿司をとってくれる家庭もあった。食べているうちにお父さんが仕事から戻ってきて,いっしょにビールを飲み始める,そんなことも一度や二度ではない。お父さんと話しているうちに,私と高校の同窓であることわかり,一緒に校歌を歌いながら一升瓶を空けたことさえあった。これは教師の行動として,そんなにもいけないことだろうか。そんなに賄賂性があるのだろうか。いまは,家庭訪問で出されたコーヒーにさえ手をつけてはいけないのが教員世界なのである。こんなつまらない事例においても,〈正しすぎる姿勢〉によって〈失っているもの〉があるのではないか。
■一緒に一升瓶を空けた私と同窓の父親。その息子は多少ぐれていた。しかし,その日,父親と担任の同窓故の鉄壁の連帯を見て以来,少しずつ生活態度が改まっていった。私には笑いながら「親父に言いつけるぞ」と言われ続け,父親には「先生の言うことを聞け。オレの後輩に悪いヤツはいない」と言われ続け,どうしようもない八方塞がりを楽しむようになっていった。それでも卒業まで,私は彼に評定1をつけ続けたし,息子も父親も文句を言ったことなど一度もなかった。父親は「息子は誰がどう見たって1だよ」と笑っていた。そんなものである。しかし,ここには〈正しすぎる姿勢〉ではない,「+α」の教育が機能していた。教育とは,この「+α」ではなかったか。それがコーヒーにも手をつけては行けないという〈正しすぎる一線〉を設けることで,小さな接待を受けることもダメ,だれに対しても客観的平等を,いかなる小さな体罰もダメ,怒鳴ることもダメ,いつもニコニコ,カウンセリングマインド……教師の在り方にこの一線が敷かれてしまうと,マクドナルドの店員よろしく,「いらっしゃいませ。こちらでお召し上がりですか?それともお持ち帰りですか?」的教育へと埋没してしまう。この国はいま,そんな教師を必要としているのだろうか。教師とはもっと生身の,〈エロス的存在〉ではなかったか。
■教育の世界になぜ,〈正しすぎる一線〉が設けられたのか。それはいわゆる「指導力不足教員」「不適格教員」のせいである。あの先生はとてもいいのに,うちの先生はダメだ。隣の担任はしっかりしているのに,うちの子の担任はだらしない。うちの子の担任はダメ教師だ。「指導力不足教員」だ。「不適格教員」だ。こういう理屈である。しかし,ダメ教師をダメ教師のままにしているのは,隣の「いい担任」なのである。隣のしっかりした担任がフォローをしないから,その担任はダメなのである。学年主任がフォローしていないのである。校長が学級間格差を知りながら指導力を発揮していないのである。もちろん,ダメ教師に責任がないとは言わない。しかし,まわりの「いい先生」にも同じくらいの責任があるのだ。それを世論がわかっていない。だから〈最低限の一線〉をつくるために,小さな接待もダメ,客観的に平等じゃなきゃダメ,いかなる小さな体罰もダメ,怒鳴ることもダメ,いつもニコニコしてなくちゃダメ,このダメダメ攻撃が「カウンセリング・マインド」などというしょうもない理論をはびこらせる。怒るときに怒らないで教育などあり得ない。叱るときに叱らないで,何のための教師か。そんな当たり前のことが当たり前として認識されない。教師の手足を縛り付ける。しまいには,カウンセリング・マインド万能主義に自分の実力のなさから逃げようとする馬鹿者教師まで現れる始末。悪循環である。
■教育の世界になぜ,〈正しすぎる一線〉が設けられたのか。それは保護者が「結果平等」を求めすぎるからである。しかし,ちょっと考えてみればわかるはずではないのか。だれもが同じ結果を出せるはずがないではないか。できる子もいればできない子もいる。そんなこと,あったりまえ中のあったりまえではないか。できる子にはできる子なりの教育を,できない子にはできない子なりの教育をするのが学校ではないか。ふだんはできる子に多くの機会を与え,できない子には従わせる。ときにはできない子に機会を与えて,できる子には言い含めて支えさせる。縁の下の力持ちをも経験させる。我慢することをも体験させる。しっかりした真面目な子には生活委員を,先頭切って自分から走り出す子には体育委員を,読書好きの女の子に図書委員を,あったりまえではないか。能力がないのに合唱コンクールの識者に立候補した子に,「どうしてもやるってんなら,がんがん指導するから覚悟しろ」と脅す。それでもやるって言うなら,がんがん指導する。それを見てりゃ,みんな「仕方ねえ,やるか」となるかもしれない。そんな賭けみたいなことだって,学校ってところにはあるに決まってるじゃないか。そんな不平等がドラマを生み出すんじゃないか。それを学級会の厳正なる話し合いを通じて決めるべき,いい方向に教師は導けるはず……馬鹿なことを言っちゃいけない。公平な場における厳正なる話し合いによって物事を決める会社がどこにある? 学校にだけそんなものを求めたって無理に決まってるじゃないか。しかし,保護者は,世論は,「結果平等」を求めたがる。だから〈最低限の一線〉をつくるために,小さな接待もダメ,客観的に平等じゃなきゃダメ,いかなる小さな体罰もダメ,怒鳴ることもダメ,いつもニコニコしてなくちゃダメ,このダメダメ攻撃が「カウンセリング・マインド」などというしょうもない理論をはびこらせる。馬鹿を言っちゃあいけない。学級だって,その場の〈状況の論理〉で動くのである。物事はその場の〈空気〉で決まるのである。〈空気〉の流れを読みながら,その場その場,その時その時の判断の連続で学級を運営していくのである。そんな当たり前のことが当たり前として認識されない。教師の手足を縛り付ける。しまいにゃ,「なぜ,うちの子が指揮者になれないのか」とクレームまでつける始末。学級で決まったことについては,保護者も管理職も外野なのだ。
■教師にも,教室にも,〈エロス〉を取り戻せ。それが教育再興の唯一の道である。(ははは……我ながら,今日は滅茶苦茶な論理だ。学祭が近くなってお祭り男が浮かれている証拠だ。いえ~い!今日は校正しないぞ。下書き一発アップ!どーだ!べろんべろんだよ~ん!)
2007/10/21のBlog
[ 22:30 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■ここ5年ほど,私の自宅の周りで不審火が続いている。十数件である。ほとんどがぼや程度なのだが,中には「住まいのクワザワ」の倉庫全焼といった大火事も含まれている。その他にも自動車修理工場のトラックが爆発したり,アパートの2階全焼といったものまであった。住民としては,やはり心おだやかではいられない。今日,床屋に行くと,どうやらあの放火犯が捕まったらしいと床屋のご主人。トラックを爆発させられた自動車修理工場の社長さんがお客さんだということで,その社長さんに警察から連絡があったらしい,というのである。しかも犯人はどうも未成年らしい,それも中高生らしい,という。やれやれ。
■今日,指圧に行くと,両足のふくらはぎと右肩肩胛骨のあたりの張りがひどいと言う。普通の生活をしていたら,こんなふうにはならないと言う。どういう生活をしているのかと尋かれたので,PCに向かう時間はかなり長いのですがと応えると,そんなことではこんなふうにはならないと一蹴される。しばらく考えて,最近になって週に4回程度,バドミントンをするようになったと話したら,「それですね」と納得された。ちゃんと準備体操とストレッチをやっていますか?と尋くので,「面倒なのでやっていない」と応えると叱られた。「お客さん,躰こわれますよ。二十代のときと違うんですから」とのことである。おまけに「いまに腰に来ますよ,腰に…」と脅された。やれやれ。
■それでも,頭もスッキリ,躰もスッキリで,ずいぶんと気分の良い日曜日である。サザエさんの「給料日前の3日間」という一話も,ほのぼのと昭和を想起させる逸品だった。我が家もサザエさん一家よろしく,鍋をつついた。すり身に鶏肉に豚肉となかなか豪華である。野菜もたんまり入っている。鍛高譚をロックでかぶ飲みしながら食べているうちに目が回って,気がついたら犬に顔を舐められながら寝ていた。テーブルを見ると,鍋は見事に片付けられている。おじやはおあずけである。おじやのない鍋の寂しさよ。やれやれ。
2007/10/20のBlog
[ 23:59 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■更新がほぼ一週間滞ってしまった。月から金まで,学校祭と合唱コンクールの準備でごった返していた。間には学力テストもあったりして,まさに怒濤だった。この1週間の忙しさは事前にわかっていたこととは言うものの,また毎年のこととは言うものの,かなりきつい1週間だった。学祭も合唱も目鼻が立ち,学力テストの結果もまずまず。この1週間を,すべてを上昇気流で乗り切ることができた。こういう怒濤の時期に上昇気流に乗れると,もう大丈夫である。残り2ヶ月の2学期も,上昇気流に乗り続けられる。経験則から言って,これはまずもって間違いない。
■クライマックスシリーズを中日ドラゴンズが制した。福留のいないドラゴンズと由伸のいないジャイアンツという,ともに「打の主役」を欠いた対戦は,ドラゴンズの3連勝という予想外の結果で幕を閉じた。実は私は,セは中日,パはロッテというマイナー指向である。北海道ではどちらのファンも珍しい。私がプロ野球を見始めた昭和49年,両リーグの覇者は中日とロッテだった。私が小学校2年生のときである。当時の私は「中日とロッテというのは強い球団なのだなあ」と思った。以来,41歳に至る現在まで,この2球団を応援し続けている。中日の優勝は高校時代(昭和57年)から何度か見てきたけれど,ロッテの優勝は一昨年が本当に久し振りの盛り上がりだった。
■学祭・合唱・学テの怒濤の1週間,テレビを見ることはなかったが,新聞でロッテと中日の動向は気にしていた。ファンとしてはやはり気になるところである。「中日vsロッテ」の日本シリーズを33年振りに見られるか,という期待もあった。しかし,日ハムとロッテが2勝2敗のタイになってから,なんとなく「これは,ロッテが勝ってはいけないのではないか…」と思い始めた。シーズンのリーグ戦を制した日ハムがたった5試合の対戦で負け越したからと言って,2位のロッテが日本シリーズに進出するというのはいかがなものか。もちろんこれを言い始めると,一昨年のロッテの優勝も同じ理屈で否定しなければならなくはなるのだが,やはりどうもしっくり来ない。そう思ってパ・リーグを見ていた私は,今回のセ・リーグもやはり,巨人が出るべきなのでは?と内心思っていた。誤解のないように言っておくが,私は大のアンチ巨人であり,日ハムは昔からパ・リーグで最も嫌いな球団である。北海道に来たときにも「なんでこんな球団が来るんだ」と思っていたクチである。
■思うに,クライマックスシリーズは「日本シリーズ」の質を変えてしまった。両リーグの今年の覇者同士がぶつかり合い,「日本一を競う」という位置づけから,「秋のレクリェーション的な野球イベント」という趣に変えてしまったのである。当然のことながら,短期決戦というのは偶然性に支配される要素が大きくなる。その時々の一瞬の「流れ」に支配される要素も大きくなる。それだけ「遊び」の要素,「お祭り」の要素だけが大きくならざるを得ない。夏の祭典オールスターのような趣になっていく。ひいきのチームがこれに勝つことは確かに嬉しいけれど,これまでの日本シリーズに勝つことほどは嬉しくない。嬉しさに〈微妙なためらい〉が生じるのだ。これなら,しっかりと「お祭り」と位置づけてしまって,両リーグ1チームずつなんていうケチなことは言わないで,両リーグ1位から3位までを3チームずつ出し合って,6チームでリーグ戦を戦った方が面白い。サッカーのように,1カード2戦ずつ,ホーム&アウェイで10試合ずつ闘えばいい。クライマックスシリーズから日本シリーズへと続く4週間近い日程で,消化できる試合数であるはずだ。中日とロッテなどという球団を応援する者としても,この方が,ひいきのチームのいろいろなカードを見られて面白い。自分のひいきチームが優勝すれば当然楽しめるし,早々に優勝候補から脱落したとしても,優勝を争っているチームとどう闘うのか,優勝争いをしているチームにどう絡むのか,最後まで楽しむことができる。相撲で同じ部屋,同じ一門の力士が優勝争いをしているときに,その力士が優勝争いをリードするために優勝を争っている相手を本気で倒しに行くことで助けるということがよくあるが,それと同じことがリーグ戦の後半には同一リーグチームで行われるようになるはずだ。それも大きな見どころになる。
■今日,落合博満の勝利監督インタビューを聞きながら,こんなことを考えた。