ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | ユーザ登録 | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
Blog
[ 総Blog数:448件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
2008/04/29のBlog
[ 11:51 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
監督:ジョエル・シューマッカー/2007
出演:ジム・キャリー/ヴァージニア・マドセン


うーん……わかるんだけど……。先日見た「パーフェクト・ストレンジャー」もそうだったけれど、最近、このパターンが多すぎるんだよね。いまいち。
2008/03/17のBlog
[ 21:05 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
■先日のストライキに参加した教員に対する処分が札幌市教委から発表された。ストに参加した約1900人のうち、公務に支障を来した約200人が戒告、残りの1700人近くは訓告のみである。1万2000人のすべてを一律戒告にした道教委と処分が割れた形となった。同じ財布から給料が支払われている教員なのに、道教委管轄か市教委管轄かによって処分に軽重がある。不公平な処分である。特に道教委に処分された教員たちには我慢ならないだろう。
■しかし、事はそう簡単ではない。市教委と道教委とでは、一見、道教委の方が厳しい処分に見える。しかし、おそらく、現実的に組合に対してより厳しい処分を課したのは札幌市教委である。道教委は全員を戒告にしてしまった。つまり、このカットされた給与は北教組が保障するということだ。とすれば、今回、戒告処分を受けた人たちは、そう簡単には組合をやめられなくなったということである。ところが市教委は多くの教員を文書訓告のみにした。つまり、この人たちは組合をやめても、少なくとも金銭的には負荷がかからないのである。おそらく今回訓告処分を受けた組合員のうち、2~3割は近いうちに組合をやめるだろうと予想される。そうなれば、明らかに札幌市教委の勝利である。市教委もうまいことを考えたもんだ。……と、勝手に想像しているが、私には札幌市教委の意図がこのように見える。うがっているだろうか……。だって、組合幹部には1割カット、公務を放り出したばりばりの組合員には厳しい処分、それに比べて、組合の方針に従っただけの組合員に対するきわめて温情的な措置。どう考えても、そうとしか思えないですもんね。
■こう考えてくると、北教組の先日のスト自体が、実は組合の組織率を維持するための捨て身の策だったのではないか、とさえ思えてくる。ここ数年、じりじりと組織率が低下し続け、それに業を煮やした北教組が意図的に行政に組合員を処分させて、組合員に組合をやめづらくさせたのではないか。あのストは7.5%と賃カツが妥結したにもかかわらず、教員評価のみを対象に行われた。だれもがそれをふしぎに思っていた。全国的に既定路線となっている教員評価だけをネタに、1時間のストを打つ必要があるのか。しかし、これが多くの組合員が処分されることを前提に、組合が組織率低下を止めるためにとった苦肉の策だったということになれば、その正当性はともかくとして、組織としてはありうる戦略であると思う。道教委はそれにまんまと引っかかってしまったわけだ。しかし、市教委はそれを読んだ。違うかなあ……。
2008/03/15のBlog
[ 23:59 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■昨日、無事、卒業式が終わりました。生徒たちの三年間を締めくくるにふさわしい、荘厳な中に温かさのある、良い式でした。特に卒業生合唱・全校合唱とも、卒業式にふさわしい、すばらしいものになったことは、この子たちを受け持ってきた学年主任として誇りを感じることができました。私人としましても、おそらくは、人生に幾度とないであろう日となったと感じております。
■全国的に、卒業式に際しての混乱が報道されております。道内のある都市では式場の窓ガラスが割られ、埼玉の川口では窓ガラスに加えて駐輪場での放火、福岡県のある町では校長・教頭不在のまま、警察が待機しての卒業式が行われました。まるで80年代のようなニュースが飛び交った一日、現在、大きな心配事もなく、普通に卒業式を行えるだけでも希少価値なのかもしれません。しかも、勤務校では、卒業生全員がステージに登壇し、卒業証書を授与されました。これも今日の中学校の教育情勢に鑑みますと稀有(まれ)なことと言わざるを得ません。そんな全国的な情勢のなかで、勤務校の卒業式も行われていたのだと、改めて感じさせられました。
■在校生送辞において、卒業生から学ぶべき点として、「日常的には笑顔で盛り上がる雰囲気でありながらも、行事その他のやるべきことには集中して取り組む切り替えの見事さ」(抄)との言葉があり、外から見た子どものなかにも私の目指したものが伝わっていることに嬉しさを感じました。卒業生答辞においても、「中学校生活を基盤として自分の足で旅立つ」旨の決意があり、頼もしく思われました。私の学級で三年間にわたって指揮者を務めた生徒が全校生徒を前に堂々と指揮をとったことも喜びでした。最終学活の後は、学年集会を開いて、多くの保護者の見守る中、多くの生徒たちが涙と笑顔とともに「フィンランディア」を合唱し、三本締めで散会をさせていただきました。保護者の皆様からも温かいお言葉をいただき、学年所属教師ともども、この三年間の苦労が報われた思いです。ありがとうございました。あとは生徒たちに、中学校生活をよい意味で早く忘れてもらい、新たな場で新たな目的に向かって邁進してもらえればと考えております。
■生徒たちへ。中学校をできるだけ早く忘れなさい。過去を引きずると現在と摩擦が生じます。それは子どもだけでなく、大人でもそういうものなのです。教師でさえ、転勤とともに前の学校を引きずり、現任校と摩擦を生じる人がたくさんいます。「中学校に遊びに行こう」などとも、できるだけ考えない方がよいでしょう。中学時代の担任も先生方も、そして後輩たちも、いままでの先生方や生徒たちではなくなっています。みなさんに新たな高校生活が始まっているように、先生や後輩にも新たな生活が始まっているのです。そしてその新たな生活にとって、みなさんは参加者ではないのです。先生方は新たな教え子にかかりきり、後輩たちは新たな立場と目的をもって毎日を過ごしています。懐かしさにちょっと寄ってみたとしても、どこか他人行儀に見えて、懐かしいはずの人たちにどこか冷たさを感じるだけです。どうしようもなく、そういうものなのです。みなさんが二十歳を超えるまで、私は同窓会には行きません。誘わないでください。立場上、未成年の酒と煙草が見られる場所に、私は居合わせることができません。そういうことですので、誘われても断り続けますが、ご容赦下さい。人には立場によってできることとできないことがあるのです。みなさんが二十歳を超えて、そのときに私がまだ生きていたならば、合唱コンクールや学校祭のビデオでも見ながら、また笑い合う日が来るかも知れません。いずれにしても、詳しくは書けませんが、みなさんのおかげで私はずいぶんと「いい思い」をさせていただきました。ありがとう。
■三年間という、人生の25分の1をかけるに値する、すばらしい子どもたちに出会えたことに感謝しつつ、そして子どもたちの人生の25分の1にかかわった責任を腹に据えつつ、昨日の午後からはゆっくりと風呂に入り、マッサージに行くなどして、心穏やかに休養させていただいております。こんな穏やかな休日も久し振りだな、と感じております。私を評して「ライオンの仮面を被ったハムスター」と見事な分析を施した保護者がいらっしゃいましたが(笑)、まさに言い得て妙、心穏やかに日常を過ごすことはほとんどありません。しかし、教師の強さとはこの日が来ることを知っていること、と言えるかも知れません。私には入学式の日から、いえ、現任校に赴任し、学年主任として生徒たちを三年間率いることが決まったその日から、この日が意識されていました。
■保護者のみなさまの三年間にわたるご理解とご協力に感謝しつつ、生徒たち、そして保護者のみなさまのご健康とご多幸をお祈り申し上げて、御挨拶に代えさせていただきます。
2007/11/30のBlog
[ 23:59 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■高校時代,仲の良かった友人が亡くなったらしい。ひょんなところから耳に入った。急性肺炎だそうだ。高校を卒業したあとの1年間,予備校でもいっしょだった。高校時代から僕は教師になると言い,彼は第一次産業を支える団体職員か,その手の企業で働くかしたいと言っていた。二人ともその職に就いた。順調に描いた通りの人生を歩んでいた。そう。90年代の半ばまでは。
■彼は北大の経済を優秀な成績で卒業した。水産関係の企業に就職した。あのバブルの絶頂期,売り手市場の就職戦線の中で,引く手あまたの北大生が水産関係の企業へ。ほとんど人気のない第一次産業関係の企業へ。十勝の田舎町出身の彼らしい選択だった。バブルがはじけ,身を粉にして働いた彼が体をこわして会社をやめたのが95年か96年だったと思う。地元の田舎町に帰った。ふるさとの町に新しく図書館が建つということで,そこの司書になろうと,資格をとるために勉強を始めた。もともと頭のいいヤツだったから,すぐに資格を得て,彼は地元の町の司書になった。この頃,彼は札幌に来るたびに僕と飲み,僕の家に一泊した。僕の家のすぐ近くの寿司屋で,ビールを飲みながら安い刺身ばかりを注文した。二人とも金がなかったのだ。安月給だが,ゆったりとした時間の中で,楽しく有意義な生活を送っていると彼は言った。たぶん本当にそう思っていたのだと思う。
■最後にあったのは,去年の1月2日。帯広の東急インでの同期会である。450人のうち,確か300名近くが集まったのではなかったか。そのときに同じクラスだった者達で撮った写真がここにある。担任の先生を中心に,男女二十数名が笑っている。彼は僕の隣にいる。確かにいる。でも,なぜだか,彼だけが口元を硬く結んで,表情がどこかこわばって見える。あの日はかつてのクラスメイト達と,確か3時過ぎまで飲んだはずだ。滅茶苦茶に酔ったという記憶しかない。3時にホテルにどう戻ったのかさえ,次の日には覚えていないような状況だった。彼と何時までいっしょだったのかさえ記憶にない。彼との最後の想い出を想い出すことができない。悔やまれてならない。
■去年の1月2日の時点で,450人のうち,4人が亡くなっていた。2人は自殺だったとも聞いた。彼はたぶん5人目なのだろうと思う。僕のクラスは2人目だ。10クラスあったのに,全部で5人,そのうち僕のクラスだけが2人……。なぜだ。僕にとっては,当然のように,またいっしょに飲むことがあるはずのヤツだった。人生とはなんとはかないものであり,なんと残酷なものであるのか。冥福を祈ったりする気にはならない。ただ帰ってきて欲しい。ビールを飲みながら,あのいかり肩で,もう一度,「堀はあの頃の夢の何割まで到達した?」と尋ねて欲しい。