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2008/05/04のBlog
[ 15:00 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
[ 11:56 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
2008/05/03のBlog
[ 21:31 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■あらかじめ確認しておきたいことは、ぼくが80年代から「学力向上論者」であり続けているということです。
■世の中が「新学力観」の名のもとに支援と援助に酔っていた90年代前半も、「ゆとり教育」の名のもとに学校週五日制の完全実施や総合的な学習の時間の創設にわきかえっていた90年代後半も、ぼくはまわりの空気に抵抗しながら、「いや、学校は基礎学力を保障する場所以外ではない」と主張し続けてきました。
■ところがです。2000年あたりの学級崩壊論議、学力低下論議から始まった大きなうねりが、今度は世論を「学力向上」一辺倒に染め上げてしまった感があります。これにはぼくのような者さえもが違和感を感じてしまいます。またもや、振り子が大きく振れてしまったのだと言わざるを得ません。
■たとえば、次の文章を読んでみてください。
□それぞれの子供がかけがえのない「存在」なんです。それぞれにかけがえのない生命を持つ子供の、それぞれの人生を生きるための力を身につけるための場所が学校です。立身や出世は学校教育の目的にはなり得ない。強いものも弱いものも、はやいものものろいものも、それぞれに精いっぱいに生きる、その生きるという仕事を助けるのが私は教育だと思うのです。
□あらゆる生命を対等に受けとめる世界をこの子たちは持っているんですから。そういう意味で子供というものは実に素晴らしい知的労働者だということが言えますね。こういう世界は、教師が何かを教えて、子供がそれを記憶していくというようなところからは生まれてこないものです。
■これは前者が林竹二、後者が灰谷健次郎の言ですが、かつてはこういう発言をする人が言論界にたくさんいました。いいえ、それがほとんどだったと言っても過言ではありません。しかしいま、この発言を読むと、おおかたの教育関係者はそのナイーヴこのうえないロマンティシズムとでもいうべきものに、思わず嗤ってしまうのではないでしょうか。しかし、実はこれらの言説に思わず嗤ってしまう、そういう心象がこの国に形成されていること自体が、ぼくには少々危険ではないかと感じられるわけです。
■もちろん、この国の教育言説がすべてこの手のロマンティシズムに覆われるのではいけません。しかし、もしも健全な言説空間というものが「多様性」によって担保されるものだとするならば、一億総じてこうした言説を「現実的でない」と一蹴してしまう風潮に対しては、やはり異常ではないかとの違和感くらいはもつべきでしょう。「ゆとり教育批判」や「学力低下論争」を経て、「学力向上論議」一色になりつつある昨今の教育言説に取り囲まれ、ぼくらの感覚自体も麻痺しつつあるのではないか、ここでぼくが言いたいのはそのことなのです。
■実は、教育現場・学校現場というものは、学力の向上・規範意識の醸成といった教育言説にはだれもが潜在的に賛成するという特徴をもっています。それは、学力の低い子どもたちに苦労している先生方にとって、荒れた生徒たち、だらしない生徒たちに苦労する先生方にとって、自分たちへの応援歌として意識されるからです。時には、教師が現場で子どもたちに威圧的に接するための、要するに子どもたちへの指導を楽にするための理論的根拠とさえ機能してしまいます。その意味で、「学力向上論議」や「規範意識醸成論議」が盛り上がっている時には、当の現場教師たちからはほとんど反論らしい反論は出てこないのです。
■現場からの反論というものは、「新学力観」や「ゆとり教育」といった、経験主義的なもの、個性伸張教育的なものが世の中を席巻したときにこそ出てきます。それは、労働者としての教師が時間と労力を惜しむための抵抗として台頭してくるのです。かつての「プロ教師の会」や陰山英男の主張もそうした傾向をもっていました。最近では、讀賣新聞の「教育ルネサンス」が、現場では自分たちへの応援歌として意識されはじめています。
■「学力向上」や「規範意識」が叫ばれる世の中こそ、実は教育界が一色に染まりやすいのです。いまその匂いがぼくの鼻を突くのです。
■世の中が「新学力観」の名のもとに支援と援助に酔っていた90年代前半も、「ゆとり教育」の名のもとに学校週五日制の完全実施や総合的な学習の時間の創設にわきかえっていた90年代後半も、ぼくはまわりの空気に抵抗しながら、「いや、学校は基礎学力を保障する場所以外ではない」と主張し続けてきました。
■ところがです。2000年あたりの学級崩壊論議、学力低下論議から始まった大きなうねりが、今度は世論を「学力向上」一辺倒に染め上げてしまった感があります。これにはぼくのような者さえもが違和感を感じてしまいます。またもや、振り子が大きく振れてしまったのだと言わざるを得ません。
■たとえば、次の文章を読んでみてください。
□それぞれの子供がかけがえのない「存在」なんです。それぞれにかけがえのない生命を持つ子供の、それぞれの人生を生きるための力を身につけるための場所が学校です。立身や出世は学校教育の目的にはなり得ない。強いものも弱いものも、はやいものものろいものも、それぞれに精いっぱいに生きる、その生きるという仕事を助けるのが私は教育だと思うのです。
□あらゆる生命を対等に受けとめる世界をこの子たちは持っているんですから。そういう意味で子供というものは実に素晴らしい知的労働者だということが言えますね。こういう世界は、教師が何かを教えて、子供がそれを記憶していくというようなところからは生まれてこないものです。
■これは前者が林竹二、後者が灰谷健次郎の言ですが、かつてはこういう発言をする人が言論界にたくさんいました。いいえ、それがほとんどだったと言っても過言ではありません。しかしいま、この発言を読むと、おおかたの教育関係者はそのナイーヴこのうえないロマンティシズムとでもいうべきものに、思わず嗤ってしまうのではないでしょうか。しかし、実はこれらの言説に思わず嗤ってしまう、そういう心象がこの国に形成されていること自体が、ぼくには少々危険ではないかと感じられるわけです。
■もちろん、この国の教育言説がすべてこの手のロマンティシズムに覆われるのではいけません。しかし、もしも健全な言説空間というものが「多様性」によって担保されるものだとするならば、一億総じてこうした言説を「現実的でない」と一蹴してしまう風潮に対しては、やはり異常ではないかとの違和感くらいはもつべきでしょう。「ゆとり教育批判」や「学力低下論争」を経て、「学力向上論議」一色になりつつある昨今の教育言説に取り囲まれ、ぼくらの感覚自体も麻痺しつつあるのではないか、ここでぼくが言いたいのはそのことなのです。
■実は、教育現場・学校現場というものは、学力の向上・規範意識の醸成といった教育言説にはだれもが潜在的に賛成するという特徴をもっています。それは、学力の低い子どもたちに苦労している先生方にとって、荒れた生徒たち、だらしない生徒たちに苦労する先生方にとって、自分たちへの応援歌として意識されるからです。時には、教師が現場で子どもたちに威圧的に接するための、要するに子どもたちへの指導を楽にするための理論的根拠とさえ機能してしまいます。その意味で、「学力向上論議」や「規範意識醸成論議」が盛り上がっている時には、当の現場教師たちからはほとんど反論らしい反論は出てこないのです。
■現場からの反論というものは、「新学力観」や「ゆとり教育」といった、経験主義的なもの、個性伸張教育的なものが世の中を席巻したときにこそ出てきます。それは、労働者としての教師が時間と労力を惜しむための抵抗として台頭してくるのです。かつての「プロ教師の会」や陰山英男の主張もそうした傾向をもっていました。最近では、讀賣新聞の「教育ルネサンス」が、現場では自分たちへの応援歌として意識されはじめています。
■「学力向上」や「規範意識」が叫ばれる世の中こそ、実は教育界が一色に染まりやすいのです。いまその匂いがぼくの鼻を突くのです。
[ 14:58 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]