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裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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2008/05/05のBlog
[ 15:02 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
太田裕美
★★★★

1. きみはぼくのともだち
2. すぐに君の声を
3. 真夜中のラブレター
4. なないろの仲直り
5. 星屑
6. Do I Do,You Do
7. プラハ
8. 君が言った ほんとの事
9. 遠い明日
10. 夢見る頃にさよならを
11. 道

2006年11月リリース。太田裕美の22年ぷりのオリジナル・アルバム。ファンにはたまらない一枚なのだが、興味のない人にはどうでもいいアルバムに違いない。でも収録曲は太田裕美らしさを前面に出した楽曲が並び、それなりに完成度も高い。
[ 12:01 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
監督:佐々部清/2007
出演:麻生久美子/田中麗奈
★★★

本作で主演女優賞を総なめにした麻生久美子。噂には聞いていたが、本当に素晴らしかった。それに比べて、田中麗奈のイモ役者振りが映画を壊している。脇は名優が固めて、ディテールの完成度を支えている。見る価値あり。
[ 11:59 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
監督:トニー・スコット/2007
出演:デンゼル・ワシントン/ポーラ・パットン
★★★★

久し振りに惹き込まれる映画だった。レンタルビデオ屋でずっと気になってはいたのだが、なんとなく後回しになっていたのが、もったいない感じさえした。これも「バタフライ・イフェクト」などと同様、カオス理論を下敷きにしたものだと思うが、理論を前面に出さずにSFチックに、しかもアクションとサスペンスをミックスしてつくり上げたところが、とてもいいと思う。デンゼル・ワシントンはもちろん、ポーラ・パットンという若い女優の演技も素晴らしかった。お勧め。


2008/05/04のBlog
[ 15:10 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■数ヶ月振りに「桑原憂太郎プログ」を開いたら、石川晋の「町医者モデル」についての感想があった。桑原くんは賛同者であるらしい。しかも、石川晋が立てた「名人」と「町医者」という、どう考えても対立軸になり得ない対立軸にそのまま乗っかって。このあり得ない対立軸を前提にして、我々の職業人としての態度を考えることに私は批判的である。取り敢えず、以下に「ぶらっしゅ・あっぷ指導力」に書いたコメントを再掲しておこうと思う。

個人と集団、通時性と共時性
□美容師は客の頭をセットする。次の日、客が気に入らないとクレームをつけたとき、美容師は笑顔でセットをし直す。もちろん、無料である。これは仕事に結果責任があるからだろう。つまり、美容師は自らの仕事をその場だけではなく、二、三日から、場合によっては一週間後程度までの時間軸を設定して仕事をしている。
□歌手がライヴを行う。会場を満員にして、自らの歌声で大勢の客を酔わせる。もちろん、そのライヴに満足しなかった客もいるだろう。しかし、それに対して、私は満足できなかった、金を返して欲しいなどという客は、よほどのことがない限り想定しづらい。歌手は自らの仕事をその場限りの瞬間軸に設定している。
□美容師も歌手もサービス業である。お金をとってサービスを提供する。しかし、その提供したサービスに伴う責任の在り方が異なる。前者は個人に対して通時的なサービスを提供し、後者は集団に対して共時的なサービスを提供する。そういう構造がある。
□さて、医者を考えてみよう。医者は患者に医療サービスを提供する。相手は個人である。個人を超えるものとしては、せいぜいその保護者や家族である。しかも、結果責任の想定される時間軸は、三日や一週間などということはあり得ない。美容師とは比べものにならないほど長い。医者は、「個人に対して通時的なサービスを提供する」仕事なのである。
□では、教師はどうか。教師は長きにわたって結果責任を問われることは滅多にない。例えば、九九を覚えられなかった子供を学級から出したとして、十年後にその子が九九を知らないことで不利益を被ったとしても、責任を問われるということは滅多にない。しかし、教師という職業は、本来はこういう結果責任を問われてしかるべき職業ではある。自分の学級から、数年後に犯罪者が出たとき、多くの教師は深く落ち込むはずである。その意味では、教師は、「個人に対して通時的なサービスを提供する職業」である。しかし、教師を考える上で、もう一つ大切なことは、教師が「集団に対して共時的なサービスを提供する職業」でもある、という点だろう。学級担任は学級集団に対して、学年主任は学年集団に対して、校長は全校児童・全校生徒に対して、瞬間的な顧客満足を想定しなければならない。つまり、教師という職業には、「美容師的サービス」と「歌手的サービス」との同時達成が求められているのである。石川先生の「町医者モデル」には、このことが想定されていない。
□かつて向山洋一が「医療現場」をモデルとして、「教育現場」を喝破したことがあった。医療技術を持たない医者に自分の躰を委ねられるか。ちょっと考えればわかることだ。なのに教師は思想ばかりを重視し、教育技術を軽視する。同じ人間を相手にしている商売なのに、えらい違いだ。こんな趣旨だったように記憶している。
□この向山の「医者モデル」に大きな説得力を感じた教師は多かったはずである。なるほど教育技術は大切かもしれない。思想ばかりを先行させる教育現場の風潮には不備がある、と。かくいう私も、当時、そう感じた者の一人である。 おそらく、このモデルに説得力があったのは、向山が「医者モデル」を用いて教師という仕事の全体像を提示したのではなく、教師の仕事の一部である教育技術を際立たせるためだけに用いたからである。しかし、この度の石川先生の提言は、教師の仕事の全体像を想定している。そこには少々の、いや、かなりの無理が生じてくる。
□石川先生の言いたいことはよくわかる。ある教師がこれに救われるというのなら、私も決してそれを否定するものではない。しかし、教師の仕事の全体像の「モデル」としては無理がある。それは例えば、大雑把に診断ができ、必要なときには関係機関との連絡を密に取り、ときには専門機関を紹介して委ねるといったことを仕事とする、特別支援コーディネーターのモデルとしてなら機能するだろう。

■私は石川晋の言う町医者も「名人」だと思う。石川晋の言う「町医者」は、野口芳宏とか野中信行とか、あくまで稀な才能の持ち主が体現している姿だ。