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2008/05/09のBlog
[ 23:15 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■私はここで、「第三の選択肢」の体現の例として、教育出版社の中学校教科書「伝え合う言葉」を挙げたい。この教科書は、その構成に志の高さが感じられるのみならず、おそらくは我が国の教科書史においても「革命的」と言ってよい画期的な教科書である。その「画期的」の中味は私見によれば次の三点である。
■第一に、「必修教材」「選択教材」「言語事項教材」の三部構成とした点である。この教科書は、例えば田中実が「もはや改変と言うより、国語教科書に革命を起こそうとする強い意志の現れ」(「研究紀要Ⅸ」科学的『読み』の授業研究会)と評したように、教科書が用意した教材内容をそのまま教えることにとどまらず、主体的に教材を選択させることによって、教師個々に国語科の教科内容を組み立てることを促している。この一事をとっても、この教科書は「画期的」と呼ばれて良い。しかし、私がこの教科書を「革命的」と呼ぶのは、このような教科書構成に対してではない。教科書の形こそとらないまでも、このような発想自体は古くから国語教育界にあったのであり、私自身、様々な自主教材を必修教材と関連させたり、或いは複数の教材から読み取った内容について批評させたりといった指導は、二十代の頃からおこなっていた。そうした教師は、実践研究に熱心な国語教師の間では決して珍しい存在ではなく、「画期的」ではあるにしても決して「革命的」な発想とは言えない。この教科書構成の新しさは、あくまでこの発想を教科書の形で具体化し、一部の研究熱心な教師の発想を全国教師に浸透させようとしたという点のみにあると言ってよい。
■この教科書の真の価値は、思想的に一貫した教材を採択し、教科書自体が一つの一貫した思想に貫かれている、という点にある。つまり、教科書自体が一種の思想書として機能するようにつくられているのである。これが「画期的」の第二の点である。日文協では「言葉の力」(池田晶子)ばかりが取り上げられている感があるが、「言葉の力」がもっている教材価値は、実はこの教科書の至る処に散りばめられている。
■「言葉の力」の教材価値は、人間が日常的に当然のこととして受け止めている道具言語観を見直し、言霊言語観への転換を求めているところにある。ソシュール以来の言語論的転回を求めていると言っても良い。しかし、この教材に見られる思想は、「言語」を題材としながらも、実は我々が当たり前と思っていることを疑うことによって、もっと深く、もっと広い世界観が得られるのではないかという、日文協国語教育部会が追い求めている「公共性の希求」の構図を提示していることにこそある。もちろん「公共性とは何か」を提示しているという意味ではない。我々が当然と思っている自己の世界観の上には、「メタ自己世界観」があり得るのだということを一つの思想として示唆しているのだという意味である。つまり、自己の狭い世界観を包み込んでいる広い世界観の存在を想定せよ、というメッセージと受け取れる。この「メタ自己世界観」の存在を常に意識するという構図が、即ち「公共性の希求」の構図であることは言うを待たないであろう。
■教育出版中学校教科書「伝え合う言葉」は、一学年版の表紙裏に佐藤雅彦『プチ哲学』から「ケロちゃん危機一髪」が採られており、「見る枠組みを変えると、同じ行為でも逆の意味さえもってしまいます」と、メタ認知の構図を提示している。また、中学校入学後の第一教材「ふしぎ」(金子みすゞ)は「わたしはふしぎでたまらない、/たれにきいてもわらってて、/あたりまえだ、ということが。」と「あたりまえからの転換」を迫る。この他にも、この教科書には同様のテーマが目白押しである。例えば説明的文章であれば、三人の職人の知恵を題材に際限なき世界観の広がりを提示したり(「ものづくりの知恵」小関智弘・一年)、人間からは超能力としか思えないような動物たちの能力を題材にもっと広い知性観への転換を促したり(「ガイアの知性」龍村仁・二年)、細分化された自然科学の学問をかつての博物学のような広い観点から見直し、人文系学問とも協調することで世界の本質に辿り着けるのではないかと投げかけ、専門分化への警鐘とともに広い視野の必要性を強調したり(「『新しい博物学』の時代」池内了・三年)といった教材が採択されている。また、文学的文章では、登場人物を批評しながら物語っていく「牛飼い」自身の自己倒壊を描き、更には「牛飼い」という語り手とその「牛飼い」を語る語り手という語り手に二重構造をもたせた教育出版の定番教材「オツベルと象」(宮沢賢治・一年)をはじめとして、語り手の聞いた客の独白の中に幼少期・成人後という語り手の二重構造をもたせることによって、結果、語り手機能に三重構造をもたせた「少年の日の思い出」(ヘルマン=ヘッセ・高橋健二訳・一年)、登場人物に対する語り手の批評意識を全面に出した逸品「形」(菊池寛・二年)、独白構成を採りながらも離郷に際して自己への批評性を垣間見せる定番教材「故郷」(魯迅・竹内好訳・三年)など、こちらも世界観の二重構造、三重構造を意識して採択された教材群が並んでいる。中には、「ウミガメと少年」(野坂昭如・三年)のような、沖縄戦を題材としながらも戦争の悲惨さを訴えず、自然を対置して人間の抱く戦争観を相対化して見せるという、沖縄戦被災者に対して挑発的とさえ思われる教材さえ見られる。私は正直、この教科書を初めて手にしたとき、「よくもこれだけ思想的に一貫した教材を集めたものだ」と感嘆してしまったほどである。繰り返しになるが、この教科書は三部構成によって教師に意識改革を求めている点が革命的なのではない。文種を問わず、このようなテーマの一貫した教材を採択し、一種の思想書として機能させようとの志をもって編集されたことこそが革命的なのである。
■この教科書が画期的であることの第三は、実は編集の経緯にある。私はこうした革命的な教科書がどのような経緯で成立したかを詳かにしないが、少なくとも想像を絶する苦労があったであろうことだけは想像に難くない。まず、自らの文学観に従って〈公共性の希求〉というテーマを掲げ、中学生にとってその布石となるような教材を採択しようとする構想をもったはずである。そのために、この構想に沿った文学作品を広く探し求めたであろうことも間違いない。そして次には、文学教材のみならず、おそらく説明的文章にも〈公共性の希求〉というテーマを担わせることを構想したはずである。そのために、様々な書き手にテーマを伝えて教材執筆を依頼したはずである。この教科書の説明的文章の書き下ろし教材の多さがその苦労を物語っている。更には、このような革命的な教科書は、一般の教科書関係者からは思想的に偏った教科書に見えるはずであるから、また、三部構成という教科書史上類のない試みであるから、編集部を説得するのも、教育出版社自体を説得するのも並大抵の苦労ではなかったはずである。シェアがすべての教科書業界にあって、この試みは社運を賭ける覚悟がなければ実現し得ない。要するに、編集の経緯を想像すれば、この教科書が世に出ていること自体が奇跡と言って過言でないほどに困難であるはずなのだ。
■しかし、私たちはいま、この教科書を手にしている。この教科書の中心編集者は、また編集部は、〈公共性の希求〉という自らの〈文学〉の理念を具現化するために、様々な困難を乗り越える〈政治力〉を発揮せねばならなかったはずである。それは冒頭の「教師力ピラミッド」に準えて言えば、自らの〈文学〉を具現するための「先見性」や「創造性」はもちろん、「指導力」に象徴されるような人間関係を紡ぐ力、「事務力」に象徴されるような研究的であると同時に現実的でもなくてはならないという膨大な構想力、また、人心を把握するための「モラル」「生活力」への熟知、これらの総合力がなくては実現し得ない。まさに、〈文学〉と〈政治〉の〈あいだ〉、〈文学〉と〈教育〉の〈あいだ〉を体現する者だけが為し得る仕事である。これを私は「第三の選択肢」の一つの象徴的事例として、心からの敬意を表したい。
■日文協国語教育部会には言うまでもないことだが、この教科書づくりに編集委員として中心的な役割を果たしたのは須貝千里である。私の須貝に対する本格的な出会いは、冒頭にも紹介した本誌五四巻第八号である。須貝の「夢」の比喩から語り出す文章の演出に、私は「ああ、この人は〈文学〉と〈教育〉を真につなげようと絶望的な試みに向かっている」との印象を抱いた。そして一年の後、私は自分の使う教科書によって、自らの直観が正しかったということを確信するに至る。私が須貝をして「第三の選択肢」「第三の道」を体現する者として敬意を表する所以である。
■実は、教育出版中学校教科書には、中心的な編集委員として北原保雄が名を連ねている。このたび、北原を委員長とする検討委員会が世田谷区の日本語特区に際して、「日本語」(小学校用、低・中・高学年の三分冊)及び「表現」「哲学」(中学校用)を編集した。しかし、これらは、①道具言語観に基づいたメッセージ性の高い教材、②音朗読の流行と復古主義に基づき、日本語の韻律を体感させるための教材、という二種類だけで構成されている感がある。こうした教材採択の在り方は、「文学教育」から最も遠いところにあると言わざるを得ない。私には「ないよりはましなもの」「やらないよりはましなこと」にしか見えなかった。
■第一に、「必修教材」「選択教材」「言語事項教材」の三部構成とした点である。この教科書は、例えば田中実が「もはや改変と言うより、国語教科書に革命を起こそうとする強い意志の現れ」(「研究紀要Ⅸ」科学的『読み』の授業研究会)と評したように、教科書が用意した教材内容をそのまま教えることにとどまらず、主体的に教材を選択させることによって、教師個々に国語科の教科内容を組み立てることを促している。この一事をとっても、この教科書は「画期的」と呼ばれて良い。しかし、私がこの教科書を「革命的」と呼ぶのは、このような教科書構成に対してではない。教科書の形こそとらないまでも、このような発想自体は古くから国語教育界にあったのであり、私自身、様々な自主教材を必修教材と関連させたり、或いは複数の教材から読み取った内容について批評させたりといった指導は、二十代の頃からおこなっていた。そうした教師は、実践研究に熱心な国語教師の間では決して珍しい存在ではなく、「画期的」ではあるにしても決して「革命的」な発想とは言えない。この教科書構成の新しさは、あくまでこの発想を教科書の形で具体化し、一部の研究熱心な教師の発想を全国教師に浸透させようとしたという点のみにあると言ってよい。
■この教科書の真の価値は、思想的に一貫した教材を採択し、教科書自体が一つの一貫した思想に貫かれている、という点にある。つまり、教科書自体が一種の思想書として機能するようにつくられているのである。これが「画期的」の第二の点である。日文協では「言葉の力」(池田晶子)ばかりが取り上げられている感があるが、「言葉の力」がもっている教材価値は、実はこの教科書の至る処に散りばめられている。
■「言葉の力」の教材価値は、人間が日常的に当然のこととして受け止めている道具言語観を見直し、言霊言語観への転換を求めているところにある。ソシュール以来の言語論的転回を求めていると言っても良い。しかし、この教材に見られる思想は、「言語」を題材としながらも、実は我々が当たり前と思っていることを疑うことによって、もっと深く、もっと広い世界観が得られるのではないかという、日文協国語教育部会が追い求めている「公共性の希求」の構図を提示していることにこそある。もちろん「公共性とは何か」を提示しているという意味ではない。我々が当然と思っている自己の世界観の上には、「メタ自己世界観」があり得るのだということを一つの思想として示唆しているのだという意味である。つまり、自己の狭い世界観を包み込んでいる広い世界観の存在を想定せよ、というメッセージと受け取れる。この「メタ自己世界観」の存在を常に意識するという構図が、即ち「公共性の希求」の構図であることは言うを待たないであろう。
■教育出版中学校教科書「伝え合う言葉」は、一学年版の表紙裏に佐藤雅彦『プチ哲学』から「ケロちゃん危機一髪」が採られており、「見る枠組みを変えると、同じ行為でも逆の意味さえもってしまいます」と、メタ認知の構図を提示している。また、中学校入学後の第一教材「ふしぎ」(金子みすゞ)は「わたしはふしぎでたまらない、/たれにきいてもわらってて、/あたりまえだ、ということが。」と「あたりまえからの転換」を迫る。この他にも、この教科書には同様のテーマが目白押しである。例えば説明的文章であれば、三人の職人の知恵を題材に際限なき世界観の広がりを提示したり(「ものづくりの知恵」小関智弘・一年)、人間からは超能力としか思えないような動物たちの能力を題材にもっと広い知性観への転換を促したり(「ガイアの知性」龍村仁・二年)、細分化された自然科学の学問をかつての博物学のような広い観点から見直し、人文系学問とも協調することで世界の本質に辿り着けるのではないかと投げかけ、専門分化への警鐘とともに広い視野の必要性を強調したり(「『新しい博物学』の時代」池内了・三年)といった教材が採択されている。また、文学的文章では、登場人物を批評しながら物語っていく「牛飼い」自身の自己倒壊を描き、更には「牛飼い」という語り手とその「牛飼い」を語る語り手という語り手に二重構造をもたせた教育出版の定番教材「オツベルと象」(宮沢賢治・一年)をはじめとして、語り手の聞いた客の独白の中に幼少期・成人後という語り手の二重構造をもたせることによって、結果、語り手機能に三重構造をもたせた「少年の日の思い出」(ヘルマン=ヘッセ・高橋健二訳・一年)、登場人物に対する語り手の批評意識を全面に出した逸品「形」(菊池寛・二年)、独白構成を採りながらも離郷に際して自己への批評性を垣間見せる定番教材「故郷」(魯迅・竹内好訳・三年)など、こちらも世界観の二重構造、三重構造を意識して採択された教材群が並んでいる。中には、「ウミガメと少年」(野坂昭如・三年)のような、沖縄戦を題材としながらも戦争の悲惨さを訴えず、自然を対置して人間の抱く戦争観を相対化して見せるという、沖縄戦被災者に対して挑発的とさえ思われる教材さえ見られる。私は正直、この教科書を初めて手にしたとき、「よくもこれだけ思想的に一貫した教材を集めたものだ」と感嘆してしまったほどである。繰り返しになるが、この教科書は三部構成によって教師に意識改革を求めている点が革命的なのではない。文種を問わず、このようなテーマの一貫した教材を採択し、一種の思想書として機能させようとの志をもって編集されたことこそが革命的なのである。
■この教科書が画期的であることの第三は、実は編集の経緯にある。私はこうした革命的な教科書がどのような経緯で成立したかを詳かにしないが、少なくとも想像を絶する苦労があったであろうことだけは想像に難くない。まず、自らの文学観に従って〈公共性の希求〉というテーマを掲げ、中学生にとってその布石となるような教材を採択しようとする構想をもったはずである。そのために、この構想に沿った文学作品を広く探し求めたであろうことも間違いない。そして次には、文学教材のみならず、おそらく説明的文章にも〈公共性の希求〉というテーマを担わせることを構想したはずである。そのために、様々な書き手にテーマを伝えて教材執筆を依頼したはずである。この教科書の説明的文章の書き下ろし教材の多さがその苦労を物語っている。更には、このような革命的な教科書は、一般の教科書関係者からは思想的に偏った教科書に見えるはずであるから、また、三部構成という教科書史上類のない試みであるから、編集部を説得するのも、教育出版社自体を説得するのも並大抵の苦労ではなかったはずである。シェアがすべての教科書業界にあって、この試みは社運を賭ける覚悟がなければ実現し得ない。要するに、編集の経緯を想像すれば、この教科書が世に出ていること自体が奇跡と言って過言でないほどに困難であるはずなのだ。
■しかし、私たちはいま、この教科書を手にしている。この教科書の中心編集者は、また編集部は、〈公共性の希求〉という自らの〈文学〉の理念を具現化するために、様々な困難を乗り越える〈政治力〉を発揮せねばならなかったはずである。それは冒頭の「教師力ピラミッド」に準えて言えば、自らの〈文学〉を具現するための「先見性」や「創造性」はもちろん、「指導力」に象徴されるような人間関係を紡ぐ力、「事務力」に象徴されるような研究的であると同時に現実的でもなくてはならないという膨大な構想力、また、人心を把握するための「モラル」「生活力」への熟知、これらの総合力がなくては実現し得ない。まさに、〈文学〉と〈政治〉の〈あいだ〉、〈文学〉と〈教育〉の〈あいだ〉を体現する者だけが為し得る仕事である。これを私は「第三の選択肢」の一つの象徴的事例として、心からの敬意を表したい。
■日文協国語教育部会には言うまでもないことだが、この教科書づくりに編集委員として中心的な役割を果たしたのは須貝千里である。私の須貝に対する本格的な出会いは、冒頭にも紹介した本誌五四巻第八号である。須貝の「夢」の比喩から語り出す文章の演出に、私は「ああ、この人は〈文学〉と〈教育〉を真につなげようと絶望的な試みに向かっている」との印象を抱いた。そして一年の後、私は自分の使う教科書によって、自らの直観が正しかったということを確信するに至る。私が須貝をして「第三の選択肢」「第三の道」を体現する者として敬意を表する所以である。
■実は、教育出版中学校教科書には、中心的な編集委員として北原保雄が名を連ねている。このたび、北原を委員長とする検討委員会が世田谷区の日本語特区に際して、「日本語」(小学校用、低・中・高学年の三分冊)及び「表現」「哲学」(中学校用)を編集した。しかし、これらは、①道具言語観に基づいたメッセージ性の高い教材、②音朗読の流行と復古主義に基づき、日本語の韻律を体感させるための教材、という二種類だけで構成されている感がある。こうした教材採択の在り方は、「文学教育」から最も遠いところにあると言わざるを得ない。私には「ないよりはましなもの」「やらないよりはましなこと」にしか見えなかった。
2008/05/08のBlog
[ 21:24 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■三島由紀夫の自決に際して、当時の総理大臣佐藤栄作と防衛庁長官中曽根康弘が「気が狂っているとしか思えない」「常軌を逸した行動というほかない」と、三島を罵倒する発言をしたのは有名な話である。これに対して、多くの文学者が「志を持って自決した死者を、恥ずかしめるわけにはゆかない」(いいだもも・昭和46年11月6日・讀賣新聞)と両者の発言に異を唱えたことも有名な話である。
■かつて文芸批評家磯田光一は、三島の自決と佐藤・中曽根発言との間に「文学の論理」と「政治の論理」との断層を見た(「三島事件と知識人」)。この構図に、「思想の一貫性」と「現実管理の要請」との無限のミゾが浮き彫りにされているからである。前者の志向対象が自己(個人)の完成であるのに対し、後者の志向対象はあくまで集団の秩序であって、両者は決して相容れない性質をもつ。しかし、ここで重要なのは、「自衛隊よ、なぜ立たぬか」という三島由紀夫の「思想の一貫性」が、「教授会よ、何故立たぬか」という全共闘の「思想の一貫性」と等しい位相にあるという点である。大学紛争において、大学知識人がもしも「思想の一貫性」を選択するならば、当然、「現実管理の要請」つまり「秩序」を放棄しなければならない。また、もしも「現実管理の要請」を選択するならば、自分の教えた革新思想を最も急進的に実現しようとしている学生達を裏切らねばならなくなる。このような二項対立を見据えて考えるとき、三島由紀夫に対して自民党政府がとった態度も、全共闘に対して教授会がとった態度も、「現実管理の要請」を通じて集団の秩序を確保したということでしかない。
■政治が組織の上部に位置する限り、そこには「権力」が必要とされる。「権力」とは「公認された暴力」のことであり、それなくしては組織の秩序も保たれない。議会制民主主義とは、この「公認された暴力」の「公認」の部分だけを為政者に臨時に委託することにほかならない。そしてこの構造は、体制側だけでなく、反体制側にも適応できる普遍的な構造なのである。革新勢力もまた、反体制という名の政治組織であって、内部に必ず「権力」の論理をもたずには成立し得ない。しかも、官僚的な統制の行き届いた組織ほど実は政治的には大きな効率をもつのが現実なのである。しかし、官僚制は官僚制であるが故に、まさしく「現実管理の要請」に近接せずにはいられない。そして、組織が「現実管理の要請」に基づいた政治に近づくとき、それを否定すべく発生するのが「文学の論理」(磯田は「ラジカリズム」と呼んでいる)である。しかもそれは、必ずしも大衆の底辺からの批判勢力として発生するとは限らない。「文学の論理」は「政治の論理」を否定するが故に、最終的には死を志向する。それは有効性の彼方にあるものであり、時に政治的有効性を断念した場合にのみ絶望を基盤として急進化する行為である。更にそれは、しばしば悲劇的な敗北を自明の前提として行われる場合がある。だが、そのような絶望的な悲劇が浴びせられるのは、「三島は気が狂っているんだ」という佐藤・中曽根の醜悪な声であり、「諸君、無駄な抵抗は止めてください」という東大学長の白々しい声でしかない。
■磯田はこうした論理を提示した上で、三島由紀夫の自決に「知識人の存在理由を抹殺するための自決」という象徴性を読み取り、三島の中に次の四つの悪意を読み取った。
(1)心情的ラジカリズムで三島を越えようと思ったら死を賭けてみろ。
(2)政治にたずさわるなら、知識人などを廃業して佐藤栄作か宮本顕治になってみろ、そのほうがよほど筋が通っている。
(3)政治の論理を拒否するなら、文学と政治を混同しないで『金閣寺』を書いてみろ。
(4)ただの非政治的生活者をバカにするな。
■言うまでもなく、この〈文学〉と〈政治〉の相克に見られる構図は、そのまま〈文学〉と〈教育〉の相克の構図にも当て嵌まる。全共闘に対した東大教授会のみならず、すべての教育機関は「現実管理の要請」の上に成り立っている。その意味で、学校教育は〈政治〉なのであり、教育研究としての「文学教育」を構想することもまた、「現実管理の要請」から自由ではあり得ないのである。とすれば、三島が政治的知識人に投げかけた悪意は、そのまま教育研究としての「文学教育」を構想しようとする我々にも向けられていると見なければならない。死を賭けろとまでは言わないにしても、磯田が三島の自決から読み取った二つの象徴性、つまり、政治にたずさわるなら、知識人的態度よりも佐藤栄作や宮本顕治のごとき政治家的な態度の方がよほど筋が通っている、政治の論理(現実管理の要請)より文学を優先したいというのなら、〈文学〉と〈教育〉とを混同することなく、〈文学〉の世界のみで生きてみよ、と突きつけられているのである。要するに、〈管理〉に徹するか、〈文学〉に徹するか、どちらかを選択せよというわけだ。しかし、当然のことながら、私たちはどちらを選ぶことも許されない。「文学教育」にとって、〈文学〉と〈教育〉とは車の両輪、コインの裏表であって、切り離すわけにはいかないのである。そのとき、私たちにはいかなる選択肢が用意されているであろうか。
■そこには、三島のごとき「心情的ラジカリズム」を〈文学〉に向けるのでなく、〈文学〉と〈教育〉の本質的背馳、〈文学〉と〈教育〉の〈あいだ〉にこそ向けるという道しか残されてはいない。しかもそれはおそらく、政治的有効性を断念し絶望を基盤に急進化させるのでなく、悲劇的な敗北を自明の前提として行うのでない、理想的にして現実的な道を希求するという、遙かの山に聳える城を希求する道である。佐藤栄作にも宮本顕治にもならずに政治的効率性を求め、非政治的生活者にさえ〈文学〉を機能させると同時に〈教育〉をも成立させることが目標となる。それは、先の「教師力ピラミッド」で言えば、教師に求められる能力のすべてを具え、現実的な〈教育〉を機能させ、それでいて〈文学〉の理想を決して見失うことのない、教師自身が「文学教育」の体現者となる道である。私はこの困難な道を指して「第三の選択肢」と呼んだのである。
■かつて文芸批評家磯田光一は、三島の自決と佐藤・中曽根発言との間に「文学の論理」と「政治の論理」との断層を見た(「三島事件と知識人」)。この構図に、「思想の一貫性」と「現実管理の要請」との無限のミゾが浮き彫りにされているからである。前者の志向対象が自己(個人)の完成であるのに対し、後者の志向対象はあくまで集団の秩序であって、両者は決して相容れない性質をもつ。しかし、ここで重要なのは、「自衛隊よ、なぜ立たぬか」という三島由紀夫の「思想の一貫性」が、「教授会よ、何故立たぬか」という全共闘の「思想の一貫性」と等しい位相にあるという点である。大学紛争において、大学知識人がもしも「思想の一貫性」を選択するならば、当然、「現実管理の要請」つまり「秩序」を放棄しなければならない。また、もしも「現実管理の要請」を選択するならば、自分の教えた革新思想を最も急進的に実現しようとしている学生達を裏切らねばならなくなる。このような二項対立を見据えて考えるとき、三島由紀夫に対して自民党政府がとった態度も、全共闘に対して教授会がとった態度も、「現実管理の要請」を通じて集団の秩序を確保したということでしかない。
■政治が組織の上部に位置する限り、そこには「権力」が必要とされる。「権力」とは「公認された暴力」のことであり、それなくしては組織の秩序も保たれない。議会制民主主義とは、この「公認された暴力」の「公認」の部分だけを為政者に臨時に委託することにほかならない。そしてこの構造は、体制側だけでなく、反体制側にも適応できる普遍的な構造なのである。革新勢力もまた、反体制という名の政治組織であって、内部に必ず「権力」の論理をもたずには成立し得ない。しかも、官僚的な統制の行き届いた組織ほど実は政治的には大きな効率をもつのが現実なのである。しかし、官僚制は官僚制であるが故に、まさしく「現実管理の要請」に近接せずにはいられない。そして、組織が「現実管理の要請」に基づいた政治に近づくとき、それを否定すべく発生するのが「文学の論理」(磯田は「ラジカリズム」と呼んでいる)である。しかもそれは、必ずしも大衆の底辺からの批判勢力として発生するとは限らない。「文学の論理」は「政治の論理」を否定するが故に、最終的には死を志向する。それは有効性の彼方にあるものであり、時に政治的有効性を断念した場合にのみ絶望を基盤として急進化する行為である。更にそれは、しばしば悲劇的な敗北を自明の前提として行われる場合がある。だが、そのような絶望的な悲劇が浴びせられるのは、「三島は気が狂っているんだ」という佐藤・中曽根の醜悪な声であり、「諸君、無駄な抵抗は止めてください」という東大学長の白々しい声でしかない。
■磯田はこうした論理を提示した上で、三島由紀夫の自決に「知識人の存在理由を抹殺するための自決」という象徴性を読み取り、三島の中に次の四つの悪意を読み取った。
(1)心情的ラジカリズムで三島を越えようと思ったら死を賭けてみろ。
(2)政治にたずさわるなら、知識人などを廃業して佐藤栄作か宮本顕治になってみろ、そのほうがよほど筋が通っている。
(3)政治の論理を拒否するなら、文学と政治を混同しないで『金閣寺』を書いてみろ。
(4)ただの非政治的生活者をバカにするな。
■言うまでもなく、この〈文学〉と〈政治〉の相克に見られる構図は、そのまま〈文学〉と〈教育〉の相克の構図にも当て嵌まる。全共闘に対した東大教授会のみならず、すべての教育機関は「現実管理の要請」の上に成り立っている。その意味で、学校教育は〈政治〉なのであり、教育研究としての「文学教育」を構想することもまた、「現実管理の要請」から自由ではあり得ないのである。とすれば、三島が政治的知識人に投げかけた悪意は、そのまま教育研究としての「文学教育」を構想しようとする我々にも向けられていると見なければならない。死を賭けろとまでは言わないにしても、磯田が三島の自決から読み取った二つの象徴性、つまり、政治にたずさわるなら、知識人的態度よりも佐藤栄作や宮本顕治のごとき政治家的な態度の方がよほど筋が通っている、政治の論理(現実管理の要請)より文学を優先したいというのなら、〈文学〉と〈教育〉とを混同することなく、〈文学〉の世界のみで生きてみよ、と突きつけられているのである。要するに、〈管理〉に徹するか、〈文学〉に徹するか、どちらかを選択せよというわけだ。しかし、当然のことながら、私たちはどちらを選ぶことも許されない。「文学教育」にとって、〈文学〉と〈教育〉とは車の両輪、コインの裏表であって、切り離すわけにはいかないのである。そのとき、私たちにはいかなる選択肢が用意されているであろうか。
■そこには、三島のごとき「心情的ラジカリズム」を〈文学〉に向けるのでなく、〈文学〉と〈教育〉の本質的背馳、〈文学〉と〈教育〉の〈あいだ〉にこそ向けるという道しか残されてはいない。しかもそれはおそらく、政治的有効性を断念し絶望を基盤に急進化させるのでなく、悲劇的な敗北を自明の前提として行うのでない、理想的にして現実的な道を希求するという、遙かの山に聳える城を希求する道である。佐藤栄作にも宮本顕治にもならずに政治的効率性を求め、非政治的生活者にさえ〈文学〉を機能させると同時に〈教育〉をも成立させることが目標となる。それは、先の「教師力ピラミッド」で言えば、教師に求められる能力のすべてを具え、現実的な〈教育〉を機能させ、それでいて〈文学〉の理想を決して見失うことのない、教師自身が「文学教育」の体現者となる道である。私はこの困難な道を指して「第三の選択肢」と呼んだのである。
[ 21:23 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
THE POLICE
★★★★★
1. Synchronicity I
2. Walking in Your Footsteps
3. O My God
4. Mother
5. Miss Gradenko
6. Synchronicity II
7. Every Breath You Take
8. King of Pain
9. Wrapped Around Your Finger
10. Tea in the Sahara
11. Murder by Numbers
1986年6月リリース。ミーハーと言われればそれまでだが、このアルバムが好きでたまらない。好きと言うより、あまりに格好良くて、知的で、高校時代の憧れの心象をいまもそのまま抱いている、という感じ。このアルバムだけが、ポリスだけが理由ではないが、80年代に青春期を送れて本当に良かったな、と思うことがよくある。同じように感じている同世代はかなり多いはずだ。たぶん80年代ってのは、それ以前とそれ以後との両方をともにもっていた、稀な時代だったのだと思う。自分達よりも上の世代のこだわりも理解できるし、自分達よりも若い世代の感性にも通底している、そんな実感が僕らの世代にはある。いま、僕らの世代がテレビ番組の製作を牛耳っているようで、僕らの世代には耳慣れた80年代のヒットソングが、ずいぶんと番組のBGMに多用されている。それもまた、楽しい。そんな愛すべきヒットソング達の中で、このアルバムは確かに大きな存在感をもっているアルバムであるはずだ。同世代の多くが、大きくうなずいてくれると思う。
★★★★★
1. Synchronicity I
2. Walking in Your Footsteps
3. O My God
4. Mother
5. Miss Gradenko
6. Synchronicity II
7. Every Breath You Take
8. King of Pain
9. Wrapped Around Your Finger
10. Tea in the Sahara
11. Murder by Numbers
1986年6月リリース。ミーハーと言われればそれまでだが、このアルバムが好きでたまらない。好きと言うより、あまりに格好良くて、知的で、高校時代の憧れの心象をいまもそのまま抱いている、という感じ。このアルバムだけが、ポリスだけが理由ではないが、80年代に青春期を送れて本当に良かったな、と思うことがよくある。同じように感じている同世代はかなり多いはずだ。たぶん80年代ってのは、それ以前とそれ以後との両方をともにもっていた、稀な時代だったのだと思う。自分達よりも上の世代のこだわりも理解できるし、自分達よりも若い世代の感性にも通底している、そんな実感が僕らの世代にはある。いま、僕らの世代がテレビ番組の製作を牛耳っているようで、僕らの世代には耳慣れた80年代のヒットソングが、ずいぶんと番組のBGMに多用されている。それもまた、楽しい。そんな愛すべきヒットソング達の中で、このアルバムは確かに大きな存在感をもっているアルバムであるはずだ。同世代の多くが、大きくうなずいてくれると思う。
2008/05/07のBlog
[ 22:13 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■少々遠回りの感は否めないが、教師の役割から議論を始めたい。
■学校バッシング、教師バッシングが喧しい昨今、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分らはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。二○○○年前後には学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩する毎日。それから丸七年が経とうしている現在、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、ますます闊歩の度合いを強めているように見える。その証拠に、二○○○年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、昨今はかの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっている。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第二回学校再生分科会議事録)と定義していることから見ても、私のこの状況認識はある種の妥当性をもっているようだ。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。
■二○○三年四月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰していることを意味している。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見てよいだろう。
■学校バッシング、教師バッシングが喧しい昨今、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分らはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。二○○○年前後には学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩する毎日。それから丸七年が経とうしている現在、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、ますます闊歩の度合いを強めているように見える。その証拠に、二○○○年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、昨今はかの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっている。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第二回学校再生分科会議事録)と定義していることから見ても、私のこの状況認識はある種の妥当性をもっているようだ。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。
■二○○三年四月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰していることを意味している。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見てよいだろう。
■こうした状況の中で、最近、必要に迫られて、教師に必要な能力を分析して図解した「教師力ピラミッド」というモデルを作成した。マスコミや保護者といった学校外の人間も、そして教師自身も、教師に必要とされる能力と実態を知ることが問題解決の出発点になるだろう、と考えたからである。 「教師力ピラミッド」は、教師の日常的な仕事に関して、教師に求められている資質と能力をわかりやすく網羅し、三角形の底辺から頂点に向けて、能力習得の難易度に応じて三段階にランクづけしたものである。
■第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。
■第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。
■ また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編成という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。 更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。
■〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳について考えるとき、教師の置かれている位置と文学の機能とのせめぎ合いが問題となる。私はかつて次のように書いたことがある(「日本文学」第54巻12号/日本文学協会)。
□かの竹内好の言を引くまでもなく、「文学」と「教育」とは背馳する。「文学を志す教師」は皆、いやが上にもこの矛盾に投げ込まれる。そのとき、教師には三つの選択肢が用意されている。第一の選択肢は自らの中で「教育」を捨て「文学」を独立させること。しかしこれは、変人教師と揶揄されながら生きるか、エセ研究者的な教師になるかのどちらかを意味する。第二の選択肢は「文学」を捨て「教育」に流されること。しかし、これはもはや「文学を志す教師」とは言えない。そして第三の選択肢が、「文学」と「教育」との矛盾にこそ「了解不能の《他者》」の価値付けを施し、その公共性を目指して次々に自らに巣くう共同性を倒壊させていく道である。須貝が研究者の道を選んで十数年を経てなお、この第三の道を歩み続けていることは、本誌第五四巻第八号の須貝論文に明らかである。
■〈文学〉は「教師力ピラミッド」で言えば、最上段の三角形「先見性・創造性」の頂点にある。私の言う「第一の選択肢」とは、この頂点と「事務力」の一つに過ぎない「研究力」とだけに特化した生き方をしている教師の在り方を指す。「第二の選択肢」とは、再下段「モラル・生活力」、第二段の必要とされる「指導力」の現実に鑑みた「研究力」しか発揮せず、最上段の頂点たる「文学」を捨て形式的な「エセ文学教育」(例えば「読解指導」「分析批評」「読者論的読み」と呼ばれるような)に特化した教師を言う。いずれも〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳に正対せず、自らの「共同性」(自らが捉える「文学と教育の関係性」を基盤とした世界観)に埋没する教師なのであり、その「共同性」を超えた「公共性」(現段階で自分には見えていない「文学と教育の関係性」の世界観があると想定すること)のベクトルを見据えていない、その志向性さえ抱いていない、そんな教師の在り方である。
■言うまでもなく田中実の主張する「文学教育」は、最上段の三角形の頂点に位置する〈文学〉をさえ超えようとする文学観に支えられている。いまだ見えてない「公共性」を追究する主体をこそ価値付け、そのベクトルを追い求める姿勢にこそ〈文学〉の機能を見る、そうした文学観である。それは文学教育の理論としては機能し得ても、現段階では実践として機能し得ない。せいぜい田中の置かれている大学教育において専門教育に特化した場において少しばかりの機能を示す程度であろう。その意味で、田中の文学観・文学教育観のそのままの具現化を目指す国語教師達を、現実を変える力を持たない姿勢として、或いは田中の文学観に埋没しつつ「第一の選択肢」を選んだ姿勢として捉え、私は「田中実のエピゴーネン」と揶揄したのであった(本誌五五巻八号)。
■しかし、須貝千里の姿勢はこれらとは一線を画す。須貝はいまだ到達し得ない「公共性」のイメージを、論文の冒頭で自らの「夢」として演出して見せた(本誌五四巻八号)。それは例えば、かつて野間宏が『暗い絵』において、冒頭で「ブリューゲルの絵」を描写して時代と世代の心象を開示して見せたのと同一の手法である。もちろんこれが学術論文としてどうかという点には議論もあろう。だが、「公共性」のベクトルを提示し、〈文学〉と〈教育〉の相克に正対する姿勢を堅持する者にとって、問題の本質はそのような些末な論点にはあり得ない。私が須貝を「第三の選択肢」の体現者と評する所以である。
■第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。
■第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。
■ また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編成という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。 更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。
■〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳について考えるとき、教師の置かれている位置と文学の機能とのせめぎ合いが問題となる。私はかつて次のように書いたことがある(「日本文学」第54巻12号/日本文学協会)。
□かの竹内好の言を引くまでもなく、「文学」と「教育」とは背馳する。「文学を志す教師」は皆、いやが上にもこの矛盾に投げ込まれる。そのとき、教師には三つの選択肢が用意されている。第一の選択肢は自らの中で「教育」を捨て「文学」を独立させること。しかしこれは、変人教師と揶揄されながら生きるか、エセ研究者的な教師になるかのどちらかを意味する。第二の選択肢は「文学」を捨て「教育」に流されること。しかし、これはもはや「文学を志す教師」とは言えない。そして第三の選択肢が、「文学」と「教育」との矛盾にこそ「了解不能の《他者》」の価値付けを施し、その公共性を目指して次々に自らに巣くう共同性を倒壊させていく道である。須貝が研究者の道を選んで十数年を経てなお、この第三の道を歩み続けていることは、本誌第五四巻第八号の須貝論文に明らかである。
■〈文学〉は「教師力ピラミッド」で言えば、最上段の三角形「先見性・創造性」の頂点にある。私の言う「第一の選択肢」とは、この頂点と「事務力」の一つに過ぎない「研究力」とだけに特化した生き方をしている教師の在り方を指す。「第二の選択肢」とは、再下段「モラル・生活力」、第二段の必要とされる「指導力」の現実に鑑みた「研究力」しか発揮せず、最上段の頂点たる「文学」を捨て形式的な「エセ文学教育」(例えば「読解指導」「分析批評」「読者論的読み」と呼ばれるような)に特化した教師を言う。いずれも〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳に正対せず、自らの「共同性」(自らが捉える「文学と教育の関係性」を基盤とした世界観)に埋没する教師なのであり、その「共同性」を超えた「公共性」(現段階で自分には見えていない「文学と教育の関係性」の世界観があると想定すること)のベクトルを見据えていない、その志向性さえ抱いていない、そんな教師の在り方である。
■言うまでもなく田中実の主張する「文学教育」は、最上段の三角形の頂点に位置する〈文学〉をさえ超えようとする文学観に支えられている。いまだ見えてない「公共性」を追究する主体をこそ価値付け、そのベクトルを追い求める姿勢にこそ〈文学〉の機能を見る、そうした文学観である。それは文学教育の理論としては機能し得ても、現段階では実践として機能し得ない。せいぜい田中の置かれている大学教育において専門教育に特化した場において少しばかりの機能を示す程度であろう。その意味で、田中の文学観・文学教育観のそのままの具現化を目指す国語教師達を、現実を変える力を持たない姿勢として、或いは田中の文学観に埋没しつつ「第一の選択肢」を選んだ姿勢として捉え、私は「田中実のエピゴーネン」と揶揄したのであった(本誌五五巻八号)。
■しかし、須貝千里の姿勢はこれらとは一線を画す。須貝はいまだ到達し得ない「公共性」のイメージを、論文の冒頭で自らの「夢」として演出して見せた(本誌五四巻八号)。それは例えば、かつて野間宏が『暗い絵』において、冒頭で「ブリューゲルの絵」を描写して時代と世代の心象を開示して見せたのと同一の手法である。もちろんこれが学術論文としてどうかという点には議論もあろう。だが、「公共性」のベクトルを提示し、〈文学〉と〈教育〉の相克に正対する姿勢を堅持する者にとって、問題の本質はそのような些末な論点にはあり得ない。私が須貝を「第三の選択肢」の体現者と評する所以である。
[ 21:31 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
[ 21:29 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
GEORGA SATELLITES
★★★★★
1. Keep Your Hands to Yourself
2. Railroad Steel
3. Battleship Chains
4. Red Light
5. Myth of Love
6. Can't Stand the Pain
7. Golden Light
8. Over and Over
9. Nights of Mystery
10. Every Picture Tells a Story
1986年。連休明け、生徒の前に立つ体力はあるのだが、かなしいかな気力が足りない。要するに休みボケだ。こういう朝は、通勤の車の中でこのアルバムを聴いて、精神を高揚させる。これで戦場に出ることができる。(笑)
★★★★★
1. Keep Your Hands to Yourself
2. Railroad Steel
3. Battleship Chains
4. Red Light
5. Myth of Love
6. Can't Stand the Pain
7. Golden Light
8. Over and Over
9. Nights of Mystery
10. Every Picture Tells a Story
1986年。連休明け、生徒の前に立つ体力はあるのだが、かなしいかな気力が足りない。要するに休みボケだ。こういう朝は、通勤の車の中でこのアルバムを聴いて、精神を高揚させる。これで戦場に出ることができる。(笑)
2008/05/06のBlog
[ 23:31 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
DREAMS COME TRUE
★★★★★
1. SNOW DANCE
2. SNOW DANCE(A CAPELLA VERSION)
3. SNOW DANCE(ACOUSTIC VERSION)
4. dragonfly(Special Radio Mix)
1999年12月リリース。実は、ドリカムはあまり好きではない。でも、この曲だけは特別だ。収録されている3つのバージョンとも、とてもいい。「ハラハラ舞う雪になって、あなたのホホをそっと撫でて」「1900年代最後の夏は行って、思い出だけ食べて秋は過ぎて」 天才的な歌詞だと思う。北海道の夏は短く、秋も短い。初冬の雪がはらはらと舞う季節がすぐにやって来る。北海道の感性が染み入っている感がある。実は、吉田美和は高校の先輩なのだが、この曲を編み出したというだけで、同窓であることに誇りを感じるほどだ。
★★★★★
1. SNOW DANCE
2. SNOW DANCE(A CAPELLA VERSION)
3. SNOW DANCE(ACOUSTIC VERSION)
4. dragonfly(Special Radio Mix)
1999年12月リリース。実は、ドリカムはあまり好きではない。でも、この曲だけは特別だ。収録されている3つのバージョンとも、とてもいい。「ハラハラ舞う雪になって、あなたのホホをそっと撫でて」「1900年代最後の夏は行って、思い出だけ食べて秋は過ぎて」 天才的な歌詞だと思う。北海道の夏は短く、秋も短い。初冬の雪がはらはらと舞う季節がすぐにやって来る。北海道の感性が染み入っている感がある。実は、吉田美和は高校の先輩なのだが、この曲を編み出したというだけで、同窓であることに誇りを感じるほどだ。
[ 19:21 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
□いま知らなければならないのは、現状のどこまでが甘受すべき時代の趨勢であり、どこまでが努力によって防ぎうる退廃なのかということなのである。《『歴史の真実と政治の正義』山崎正和・中公文庫・2007.08・p95》
■「学校が悲鳴を上げている」と書いた。現場人としての叫びのつもりである。山崎正和の言を借りるならば、政治が(或いは行政が)「甘受すべき時代の趨勢」として進めている政策を、現場が「努力によって防ぎうる退廃」だと感じている、ということである。いや、もはや「努力によって防ぎうる退廃」の域を越えたがために、悲鳴を上げていると叫んでいるのかも知れない。「教育が他のものと本質的に違うのは、それが人体実験ということである」と言ったのは藤原正彦だが(「国家の堕落」藤原正彦・「文藝春秋」2007.01)、政治や行政が公務員に強いる政策もまた、教育同様、人体実験の趣が強い。政治や行政の与える理想と、退廃した現実との狭間で、責任感を強く持つ者ほど精神を荒廃させざるを得なくなる。昨日見た「消えた天使」によれば、アメリカで登録された性犯罪者を、監察官一人あたり1000人も抱えているそうである。その再犯性の高さから、責任感を強く抱く監察官ほど心労を重ね、平均18ヶ月で精神を病んで退職していくそうである。本当か嘘かはわからないが、さもありなんとの思いを抱く。
■これと同じ構図が、我が国の教育現場にもある。かつて広田照幸が次のように書いていた。
□一つは、学校教育をめぐる議論の焦点が、システムの周辺部に生起している問題へと、無限大に拡大ないしはシフトしていっているのではないかということである。いうまでもなく学校の活動の大半は、授業の時間によって組み立てられている。しかし、ここ三○年の間に進んできたのは、授業時間以外の場面への配慮(たとえばいじめの予防や対処)、まれに起きる病理のクローズアップ(たとえば学級崩壊)、システムへの参入を拒否する生徒たちへの対処(たとえば校内暴力や不登校)など、学校の機能の拡張を要請するものばかりである。「子供の心を理解する」といったことも、かつてはより効果的な指導をおこなうためのノウハウの一つであったのが、今やそれ自体が教育活動の自己完結的な目的として、教師に求められるようになっている。
□そこにあるのは、ある種の転倒である。学校のフォーマルな時間・空間から逃れようとする生徒をシステムに再統合しようとする活動や、部分的に生起するシステム機能不全や逸脱を予防・解決しようとする活動、すなわち、教科を教えるという学校の中心的な活動からいうとメタレベルの活動が、学校をめぐる議論の中心的トピックに据えられてきているのである。
□「学校に何ができるか/できないか」「学校が何をすべきか/すべきでないか」という、原理的なレベルでの議論を棚上げにしたまま、こうした無限定な領域拡張が進行している結果、現代の学校は、いわばゲリラ的掃討戦の泥沼に引きずり込まれているような状況にあるのではないだろうか。
《『教育には何ができないか 教育神話の解体と再生の試み』広田照幸・春秋社・p84~85》
■学校はあくまで、「手段」である。ある者は「社会づくりのための手段」であるといい、ある者は「国づくりのための手段」であるというだろうが、そういう違いにはここではこだわらない。少なくとも学校が「目的」ではないことは自明である。しかし、「楽しい学校」「学力の向上する学校」「いじめのない学校」などなど、学校の在り方自体が自己目的化して語られることが多くなった。その結果、学級に所属するすべての生徒が「楽しい」と感じる学級をつくれない教師、学級に所属するすべての生徒の学力を向上させられない教師、学級で起こったいじめを解決できない教師は、「指導力不足教員」「不適格教員」と断罪されるようになった。これが「甘受すべき時代の趨勢」なのか、「努力によって防ぎうる退廃」なのか、熟考の上に判断されるべきだろう。
■「学校が悲鳴を上げている」と書いた。現場人としての叫びのつもりである。山崎正和の言を借りるならば、政治が(或いは行政が)「甘受すべき時代の趨勢」として進めている政策を、現場が「努力によって防ぎうる退廃」だと感じている、ということである。いや、もはや「努力によって防ぎうる退廃」の域を越えたがために、悲鳴を上げていると叫んでいるのかも知れない。「教育が他のものと本質的に違うのは、それが人体実験ということである」と言ったのは藤原正彦だが(「国家の堕落」藤原正彦・「文藝春秋」2007.01)、政治や行政が公務員に強いる政策もまた、教育同様、人体実験の趣が強い。政治や行政の与える理想と、退廃した現実との狭間で、責任感を強く持つ者ほど精神を荒廃させざるを得なくなる。昨日見た「消えた天使」によれば、アメリカで登録された性犯罪者を、監察官一人あたり1000人も抱えているそうである。その再犯性の高さから、責任感を強く抱く監察官ほど心労を重ね、平均18ヶ月で精神を病んで退職していくそうである。本当か嘘かはわからないが、さもありなんとの思いを抱く。
■これと同じ構図が、我が国の教育現場にもある。かつて広田照幸が次のように書いていた。
□一つは、学校教育をめぐる議論の焦点が、システムの周辺部に生起している問題へと、無限大に拡大ないしはシフトしていっているのではないかということである。いうまでもなく学校の活動の大半は、授業の時間によって組み立てられている。しかし、ここ三○年の間に進んできたのは、授業時間以外の場面への配慮(たとえばいじめの予防や対処)、まれに起きる病理のクローズアップ(たとえば学級崩壊)、システムへの参入を拒否する生徒たちへの対処(たとえば校内暴力や不登校)など、学校の機能の拡張を要請するものばかりである。「子供の心を理解する」といったことも、かつてはより効果的な指導をおこなうためのノウハウの一つであったのが、今やそれ自体が教育活動の自己完結的な目的として、教師に求められるようになっている。
□そこにあるのは、ある種の転倒である。学校のフォーマルな時間・空間から逃れようとする生徒をシステムに再統合しようとする活動や、部分的に生起するシステム機能不全や逸脱を予防・解決しようとする活動、すなわち、教科を教えるという学校の中心的な活動からいうとメタレベルの活動が、学校をめぐる議論の中心的トピックに据えられてきているのである。
□「学校に何ができるか/できないか」「学校が何をすべきか/すべきでないか」という、原理的なレベルでの議論を棚上げにしたまま、こうした無限定な領域拡張が進行している結果、現代の学校は、いわばゲリラ的掃討戦の泥沼に引きずり込まれているような状況にあるのではないだろうか。
《『教育には何ができないか 教育神話の解体と再生の試み』広田照幸・春秋社・p84~85》
■学校はあくまで、「手段」である。ある者は「社会づくりのための手段」であるといい、ある者は「国づくりのための手段」であるというだろうが、そういう違いにはここではこだわらない。少なくとも学校が「目的」ではないことは自明である。しかし、「楽しい学校」「学力の向上する学校」「いじめのない学校」などなど、学校の在り方自体が自己目的化して語られることが多くなった。その結果、学級に所属するすべての生徒が「楽しい」と感じる学級をつくれない教師、学級に所属するすべての生徒の学力を向上させられない教師、学級で起こったいじめを解決できない教師は、「指導力不足教員」「不適格教員」と断罪されるようになった。これが「甘受すべき時代の趨勢」なのか、「努力によって防ぎうる退廃」なのか、熟考の上に判断されるべきだろう。
[ 15:15 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
DAN FOGELBERG
★★★★★
1. Down the Road
2. Mountain Pass
3. Sutter's Mill
4. Wolf Creek [Instrumental]
5. High Country Snows
6. Outlaw
7. Shallow Rivers
8. Go Down Easy
9. Wandering Shepherd
10. Think of What You've Done
11. Higher You Climb
1985年リリース。ダン・フォーゲルバーグの最高傑作。カントリーアルバムである。浪人していた頃、よく通っていたレコード屋の店長の薦めで、何もわからずに買った。はまった。以来、CDでも買い直し、聴き続けている。いまは輸入盤でしか手に入らないようだが、アマゾンで十分に手に入れることができる。冬のドライブには最適。特に北海道の雪道には最高である。聴き入ってしまうので、仕事のBGMには不向き。
★★★★★
1. Down the Road
2. Mountain Pass
3. Sutter's Mill
4. Wolf Creek [Instrumental]
5. High Country Snows
6. Outlaw
7. Shallow Rivers
8. Go Down Easy
9. Wandering Shepherd
10. Think of What You've Done
11. Higher You Climb
1985年リリース。ダン・フォーゲルバーグの最高傑作。カントリーアルバムである。浪人していた頃、よく通っていたレコード屋の店長の薦めで、何もわからずに買った。はまった。以来、CDでも買い直し、聴き続けている。いまは輸入盤でしか手に入らないようだが、アマゾンで十分に手に入れることができる。冬のドライブには最適。特に北海道の雪道には最高である。聴き入ってしまうので、仕事のBGMには不向き。
[ 12:19 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
1.学校が悲鳴を上げている
■学校が悲鳴を上げている。
■いま学校に必要なのは、従来から学校の前提として機能していた「共同性」の回復である。職員室の共同性、学年団の共同性、学級の共同性、そして学校システムを包み込む地域の共同性……。しかし、この度の教育改革は、これらすべての共同性を解体していく方向に進んでいる。
■ いま学校に求められているのは、「共同性」の解体、「市場原理」の導入である。学校選択制の導入、教員人事考課の導入、教員給与格差の導入、免許更新制の導入……。そしてこれらの政策には、その発想の前提として「指導力不足教員」「不適格教員」の排除がある。
■もう一度、言う。学校は悲鳴を上げている。
2. 「不適格教員」は増やされている
■教員免許更新制の目的が「不適格教員の排除」を目的に語られるようになったことは何を意味するか。更新された10年間の免許を前提に、教員が自信をもって教育活動をできるようにという意図で「中教審」が提言した免許更新制。それが教育バッシングと文科省に対する既得権益バッシングの中で、文教政策のイニシアチブが教育専門家委員会としての「中教審」から、教育素人集団としての「教育再生会議」へと移行していくと同時に、教員免許更新制の目的もまた、「不適格教員の排除」へと移行していった。
■「教育再生会議」では、渡辺美樹を中心に、教員全体における「不適格教員」の比率の議論があった(現行の1%という文科省報告に対し、20~30%程度を「不適格教員」が占めるのではないかという議論/第2回学校再生分科会議事録)が、実は、非専門家に見られるこうした議論にこそ、学校システム問題の本質がある。
■私は現在、「指導力不足教員」「不適格教員」の比率を現場的実感から10%程度と見ている。ただ、ここで声を大にして言いたいのは、10年前ならばこの実感は2%程度だったのだということである。10年前なら、「不適格教員」など各学校に一人いるかいないかであったのだ。つまり、この10年間で、「こいつは不適格教員ではないか」と思われる教師が、5倍程度に増えているのである。
■では、その教師たちの能力が落ちたのだろうか。つまり、教員の質が低下したのか。おそらく、そうではない。この10年間で、〈教師であること〉が格段に難しくなってきているのである。〈教師であること〉が難しくなると、相対的に他の教員にフォローしてもらわなければならない教員が増えてくる。逆に言えば、心ならずもフォローしなくてはならない教師たちから見れば、「迷惑な人」が増えるわけである。私は特別優秀な教員ではないが、それでも自分の仕事くらいならそつなくこなす程度の力はもっている。少しくらいなら同僚のフォローもできなくはない。しかしながら、フォローを必要とする教員の数が多くなってくれば話が変わってくる。「力のある教師」が支えきれなくなっていくのだ。いったいこの責任はだれにあるのか。
■できる限り行政批判はしたくないとの思いで仕事をしてきたが、これだけは「行政に責任がある」としか言いようがない。学校の環境整備を一切することなく、学校教育に予算措置を講じることもなく、過剰な要求だけはどんどん積み上げていく。たかだか偏差値50~55程度の一般教員に、過剰な要求を突きつけすぎなのである。マスコミでは忙しさに教師が疲弊していくということが取り上げられるが、実はそこに問題の本質はない。
■「教育再生会議」の提言する第二次報告では、学力向上策として、授業時間数の10%増や土曜日授業の可能性を前提として、①時代に合致したカリキュラム(主権者教育、法教育、消費者教育等)の編成、②読書算的学習の反復、③読書指導の充実、④食育の充実、⑤国語教育の充実、⑥英語教育の充実、⑦IT機器の積極的導入、⑧国による到達目標の明示、⑨客観的な絶対評価と、錚々たる項目が並ぶ(「学力向上策」として提示されているわけではないが、この他に「徳育」の教科化の問題もある)が、学校現場にとってこれらの同時達成はきわめて困難を伴う。
■そもそもこんなものをだれが同時にできるのか。すべての組織がそうであるように、学校の職員室だって2割の人間に8割の仕事が集中しているのである。性急な教育改革を進めようとすると、各学校は性急なシステム整備を進めようとする。性急なシステム整備をできるのは、学校の仕事の8割を担っている2割の教師たちである。しかも、この2割の教師たちはパンク寸前になり、他の8割の教師のフォローをできなくなる。校長・教頭・主幹・主任にも仕事が集中し、他の教師のフォローをする余裕がなくなっていく。刻一刻と学校内の共同性が壊れているのである。
■学校を学校として機能させようとすれば、それほど優秀ではない「普通の教員たち」が「普通に働ける」仕事量にするか、或いは、「普通の教員たち」が「普通に働ける」程度に人員を増やすかしかない。
■「不適格教員」は増えているのではない。「不適格教員」は増やされているのである。
3.職員室の「共同性」を回復すべきである
■実はもう一つ、心配事がある。
■学校教育に市場原理を導入して競争を起こす。競争に敗れた学校は廃校になる怖れから努力をし、教員の質も学校の質も上がっていく。また、競争に勝利した学校は、その待遇の良さを維持しようと更に努力を重ね、よりよい学校づくりへと邁進する。結果、すべての学校がよくなっていく。教育行政の、或いは政治主導の教育改革の目論見は、こうである。しかし、現実的に考えれば、こううまくいくものではない。
■苅谷剛彦によれば、教員養成課程大学への志願者が年々減少していると言う。一九八八年に約十万八千人だった志願者が、一九九八年には六万四千人、二○○七年は四万七千人にまで減少した。十八歳人口の減少を計算に入れても、これは減り過ぎである。十八歳同一年齢人口比に照らしても、一九八八年に五・七%が教員志望であったのに対し、二○○七年は三・六パーセントにまで落ち込んでいると言う(「webちくま」)。これに対して、団塊世代の大量退職時代を迎えて、教員採用の枠は広がっている。実は今後、質の良い新採用が入ってくるという見込みがないばかりか、相対的に見れば、教員の質は下がっていくと見なければならない。
■こうした時代の中、学校教育の制度自体はおそらく維持されていく。アメリカやイギリスを初めとして、かつて市場原理を導入しての教育改革が行われた先進国において、学校制度自体を廃止した国はない。とすれば、学力向上や規範意識の育成が求められる中で、しかも教員の質が低下する中で、学校現場は教育活動を行っていくことになるわけだ。この状況をどう乗り切ればよいのか。果たして乗り切る手立てはあるのか。
■昨今、小学校と中学校とを比べた場合、小学校教育の方がより多くのトラブルを抱えている。その最たるものは学級崩壊であろう。中学校は不登校生徒が増加している以外には、ここ二十年ほどそれほど大きなシステム的な質の低下が見られない。これはおそらく、八○年代の校内暴力を通過した中学校では、職員室の共同性が確保されているからである。つまり、中学校には、学級担任が自分の学級の生徒を指導しているというよりも、学年教師全員で学年のすべての生徒をいっしょに指導しているという意識があるからである。学級担任がしんどそうなときには、学年の生徒指導係や学年主任が当然のこととして動く。生徒指導係がある生徒にきつい指導をした場合には、母性的な雰囲気のある教師がその生徒をフォローする。多くの中学校ではこうした体制ができているのである。おそらく、現在の生徒たちに対する「学力の向上」「規範意識の醸成」を、教員の質の低下の中で行っていくには、このチームワーク指導しかない。それが教育活動をより機能させていくばかりでなく、新規採用者を「育てるシステム」にもなっていく。
■外部評価としての学校評価、内部評価としての学校評価ともに、一般的には、教育内容の項目として「学力の向上」と「規範意識の醸成」が細かい項目となって並ぶはずである。また、教育システム項目としては、「保護者・地域との連携」が重視されるだろう。教育内容的には「公共性」を、教育システム的には「共同性」を、というわけである。しかし、「共同性」の回復は保護者や地域ばかりが対象ではない。職員室の「共同性」こそが最も重要なのである。学校の自己評価では、「各教員の連携はとれているか」「組織は機能しているか」という観点が最重要である。
■学校が悲鳴を上げている。
■いま学校に必要なのは、従来から学校の前提として機能していた「共同性」の回復である。職員室の共同性、学年団の共同性、学級の共同性、そして学校システムを包み込む地域の共同性……。しかし、この度の教育改革は、これらすべての共同性を解体していく方向に進んでいる。
■ いま学校に求められているのは、「共同性」の解体、「市場原理」の導入である。学校選択制の導入、教員人事考課の導入、教員給与格差の導入、免許更新制の導入……。そしてこれらの政策には、その発想の前提として「指導力不足教員」「不適格教員」の排除がある。
■もう一度、言う。学校は悲鳴を上げている。
2. 「不適格教員」は増やされている
■教員免許更新制の目的が「不適格教員の排除」を目的に語られるようになったことは何を意味するか。更新された10年間の免許を前提に、教員が自信をもって教育活動をできるようにという意図で「中教審」が提言した免許更新制。それが教育バッシングと文科省に対する既得権益バッシングの中で、文教政策のイニシアチブが教育専門家委員会としての「中教審」から、教育素人集団としての「教育再生会議」へと移行していくと同時に、教員免許更新制の目的もまた、「不適格教員の排除」へと移行していった。
■「教育再生会議」では、渡辺美樹を中心に、教員全体における「不適格教員」の比率の議論があった(現行の1%という文科省報告に対し、20~30%程度を「不適格教員」が占めるのではないかという議論/第2回学校再生分科会議事録)が、実は、非専門家に見られるこうした議論にこそ、学校システム問題の本質がある。
■私は現在、「指導力不足教員」「不適格教員」の比率を現場的実感から10%程度と見ている。ただ、ここで声を大にして言いたいのは、10年前ならばこの実感は2%程度だったのだということである。10年前なら、「不適格教員」など各学校に一人いるかいないかであったのだ。つまり、この10年間で、「こいつは不適格教員ではないか」と思われる教師が、5倍程度に増えているのである。
■では、その教師たちの能力が落ちたのだろうか。つまり、教員の質が低下したのか。おそらく、そうではない。この10年間で、〈教師であること〉が格段に難しくなってきているのである。〈教師であること〉が難しくなると、相対的に他の教員にフォローしてもらわなければならない教員が増えてくる。逆に言えば、心ならずもフォローしなくてはならない教師たちから見れば、「迷惑な人」が増えるわけである。私は特別優秀な教員ではないが、それでも自分の仕事くらいならそつなくこなす程度の力はもっている。少しくらいなら同僚のフォローもできなくはない。しかしながら、フォローを必要とする教員の数が多くなってくれば話が変わってくる。「力のある教師」が支えきれなくなっていくのだ。いったいこの責任はだれにあるのか。
■できる限り行政批判はしたくないとの思いで仕事をしてきたが、これだけは「行政に責任がある」としか言いようがない。学校の環境整備を一切することなく、学校教育に予算措置を講じることもなく、過剰な要求だけはどんどん積み上げていく。たかだか偏差値50~55程度の一般教員に、過剰な要求を突きつけすぎなのである。マスコミでは忙しさに教師が疲弊していくということが取り上げられるが、実はそこに問題の本質はない。
■「教育再生会議」の提言する第二次報告では、学力向上策として、授業時間数の10%増や土曜日授業の可能性を前提として、①時代に合致したカリキュラム(主権者教育、法教育、消費者教育等)の編成、②読書算的学習の反復、③読書指導の充実、④食育の充実、⑤国語教育の充実、⑥英語教育の充実、⑦IT機器の積極的導入、⑧国による到達目標の明示、⑨客観的な絶対評価と、錚々たる項目が並ぶ(「学力向上策」として提示されているわけではないが、この他に「徳育」の教科化の問題もある)が、学校現場にとってこれらの同時達成はきわめて困難を伴う。
■そもそもこんなものをだれが同時にできるのか。すべての組織がそうであるように、学校の職員室だって2割の人間に8割の仕事が集中しているのである。性急な教育改革を進めようとすると、各学校は性急なシステム整備を進めようとする。性急なシステム整備をできるのは、学校の仕事の8割を担っている2割の教師たちである。しかも、この2割の教師たちはパンク寸前になり、他の8割の教師のフォローをできなくなる。校長・教頭・主幹・主任にも仕事が集中し、他の教師のフォローをする余裕がなくなっていく。刻一刻と学校内の共同性が壊れているのである。
■学校を学校として機能させようとすれば、それほど優秀ではない「普通の教員たち」が「普通に働ける」仕事量にするか、或いは、「普通の教員たち」が「普通に働ける」程度に人員を増やすかしかない。
■「不適格教員」は増えているのではない。「不適格教員」は増やされているのである。
3.職員室の「共同性」を回復すべきである
■実はもう一つ、心配事がある。
■学校教育に市場原理を導入して競争を起こす。競争に敗れた学校は廃校になる怖れから努力をし、教員の質も学校の質も上がっていく。また、競争に勝利した学校は、その待遇の良さを維持しようと更に努力を重ね、よりよい学校づくりへと邁進する。結果、すべての学校がよくなっていく。教育行政の、或いは政治主導の教育改革の目論見は、こうである。しかし、現実的に考えれば、こううまくいくものではない。
■苅谷剛彦によれば、教員養成課程大学への志願者が年々減少していると言う。一九八八年に約十万八千人だった志願者が、一九九八年には六万四千人、二○○七年は四万七千人にまで減少した。十八歳人口の減少を計算に入れても、これは減り過ぎである。十八歳同一年齢人口比に照らしても、一九八八年に五・七%が教員志望であったのに対し、二○○七年は三・六パーセントにまで落ち込んでいると言う(「webちくま」)。これに対して、団塊世代の大量退職時代を迎えて、教員採用の枠は広がっている。実は今後、質の良い新採用が入ってくるという見込みがないばかりか、相対的に見れば、教員の質は下がっていくと見なければならない。
■こうした時代の中、学校教育の制度自体はおそらく維持されていく。アメリカやイギリスを初めとして、かつて市場原理を導入しての教育改革が行われた先進国において、学校制度自体を廃止した国はない。とすれば、学力向上や規範意識の育成が求められる中で、しかも教員の質が低下する中で、学校現場は教育活動を行っていくことになるわけだ。この状況をどう乗り切ればよいのか。果たして乗り切る手立てはあるのか。
■昨今、小学校と中学校とを比べた場合、小学校教育の方がより多くのトラブルを抱えている。その最たるものは学級崩壊であろう。中学校は不登校生徒が増加している以外には、ここ二十年ほどそれほど大きなシステム的な質の低下が見られない。これはおそらく、八○年代の校内暴力を通過した中学校では、職員室の共同性が確保されているからである。つまり、中学校には、学級担任が自分の学級の生徒を指導しているというよりも、学年教師全員で学年のすべての生徒をいっしょに指導しているという意識があるからである。学級担任がしんどそうなときには、学年の生徒指導係や学年主任が当然のこととして動く。生徒指導係がある生徒にきつい指導をした場合には、母性的な雰囲気のある教師がその生徒をフォローする。多くの中学校ではこうした体制ができているのである。おそらく、現在の生徒たちに対する「学力の向上」「規範意識の醸成」を、教員の質の低下の中で行っていくには、このチームワーク指導しかない。それが教育活動をより機能させていくばかりでなく、新規採用者を「育てるシステム」にもなっていく。
■外部評価としての学校評価、内部評価としての学校評価ともに、一般的には、教育内容の項目として「学力の向上」と「規範意識の醸成」が細かい項目となって並ぶはずである。また、教育システム項目としては、「保護者・地域との連携」が重視されるだろう。教育内容的には「公共性」を、教育システム的には「共同性」を、というわけである。しかし、「共同性」の回復は保護者や地域ばかりが対象ではない。職員室の「共同性」こそが最も重要なのである。学校の自己評価では、「各教員の連携はとれているか」「組織は機能しているか」という観点が最重要である。