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裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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2008/05/06のBlog
[ 23:31 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
DREAMS COME TRUE
★★★★★

1. SNOW DANCE
2. SNOW DANCE(A CAPELLA VERSION)
3. SNOW DANCE(ACOUSTIC VERSION)
4. dragonfly(Special Radio Mix)

1999年12月リリース。実は、ドリカムはあまり好きではない。でも、この曲だけは特別だ。収録されている3つのバージョンとも、とてもいい。「ハラハラ舞う雪になって、あなたのホホをそっと撫でて」「1900年代最後の夏は行って、思い出だけ食べて秋は過ぎて」 天才的な歌詞だと思う。北海道の夏は短く、秋も短い。初冬の雪がはらはらと舞う季節がすぐにやって来る。北海道の感性が染み入っている感がある。実は、吉田美和は高校の先輩なのだが、この曲を編み出したというだけで、同窓であることに誇りを感じるほどだ。
[ 19:21 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
□いま知らなければならないのは、現状のどこまでが甘受すべき時代の趨勢であり、どこまでが努力によって防ぎうる退廃なのかということなのである。《『歴史の真実と政治の正義』山崎正和・中公文庫・2007.08・p95》
■「学校が悲鳴を上げている」と書いた。現場人としての叫びのつもりである。山崎正和の言を借りるならば、政治が(或いは行政が)「甘受すべき時代の趨勢」として進めている政策を、現場が「努力によって防ぎうる退廃」だと感じている、ということである。いや、もはや「努力によって防ぎうる退廃」の域を越えたがために、悲鳴を上げていると叫んでいるのかも知れない。「教育が他のものと本質的に違うのは、それが人体実験ということである」と言ったのは藤原正彦だが(「国家の堕落」藤原正彦・「文藝春秋」2007.01)、政治や行政が公務員に強いる政策もまた、教育同様、人体実験の趣が強い。政治や行政の与える理想と、退廃した現実との狭間で、責任感を強く持つ者ほど精神を荒廃させざるを得なくなる。昨日見た「消えた天使」によれば、アメリカで登録された性犯罪者を、監察官一人あたり1000人も抱えているそうである。その再犯性の高さから、責任感を強く抱く監察官ほど心労を重ね、平均18ヶ月で精神を病んで退職していくそうである。本当か嘘かはわからないが、さもありなんとの思いを抱く。
■これと同じ構図が、我が国の教育現場にもある。かつて広田照幸が次のように書いていた。
□一つは、学校教育をめぐる議論の焦点が、システムの周辺部に生起している問題へと、無限大に拡大ないしはシフトしていっているのではないかということである。いうまでもなく学校の活動の大半は、授業の時間によって組み立てられている。しかし、ここ三○年の間に進んできたのは、授業時間以外の場面への配慮(たとえばいじめの予防や対処)、まれに起きる病理のクローズアップ(たとえば学級崩壊)、システムへの参入を拒否する生徒たちへの対処(たとえば校内暴力や不登校)など、学校の機能の拡張を要請するものばかりである。「子供の心を理解する」といったことも、かつてはより効果的な指導をおこなうためのノウハウの一つであったのが、今やそれ自体が教育活動の自己完結的な目的として、教師に求められるようになっている。
□そこにあるのは、ある種の転倒である。学校のフォーマルな時間・空間から逃れようとする生徒をシステムに再統合しようとする活動や、部分的に生起するシステム機能不全や逸脱を予防・解決しようとする活動、すなわち、教科を教えるという学校の中心的な活動からいうとメタレベルの活動が、学校をめぐる議論の中心的トピックに据えられてきているのである。
□「学校に何ができるか/できないか」「学校が何をすべきか/すべきでないか」という、原理的なレベルでの議論を棚上げにしたまま、こうした無限定な領域拡張が進行している結果、現代の学校は、いわばゲリラ的掃討戦の泥沼に引きずり込まれているような状況にあるのではないだろうか。
《『教育には何ができないか 教育神話の解体と再生の試み』広田照幸・春秋社・p84~85》
■学校はあくまで、「手段」である。ある者は「社会づくりのための手段」であるといい、ある者は「国づくりのための手段」であるというだろうが、そういう違いにはここではこだわらない。少なくとも学校が「目的」ではないことは自明である。しかし、「楽しい学校」「学力の向上する学校」「いじめのない学校」などなど、学校の在り方自体が自己目的化して語られることが多くなった。その結果、学級に所属するすべての生徒が「楽しい」と感じる学級をつくれない教師、学級に所属するすべての生徒の学力を向上させられない教師、学級で起こったいじめを解決できない教師は、「指導力不足教員」「不適格教員」と断罪されるようになった。これが「甘受すべき時代の趨勢」なのか、「努力によって防ぎうる退廃」なのか、熟考の上に判断されるべきだろう。
[ 15:15 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
DAN FOGELBERG
★★★★★

1. Down the Road
2. Mountain Pass
3. Sutter's Mill
4. Wolf Creek [Instrumental]
5. High Country Snows
6. Outlaw
7. Shallow Rivers
8. Go Down Easy
9. Wandering Shepherd
10. Think of What You've Done
11. Higher You Climb

1985年リリース。ダン・フォーゲルバーグの最高傑作。カントリーアルバムである。浪人していた頃、よく通っていたレコード屋の店長の薦めで、何もわからずに買った。はまった。以来、CDでも買い直し、聴き続けている。いまは輸入盤でしか手に入らないようだが、アマゾンで十分に手に入れることができる。冬のドライブには最適。特に北海道の雪道には最高である。聴き入ってしまうので、仕事のBGMには不向き。


[ 12:19 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
1.学校が悲鳴を上げている
■学校が悲鳴を上げている。
■いま学校に必要なのは、従来から学校の前提として機能していた「共同性」の回復である。職員室の共同性、学年団の共同性、学級の共同性、そして学校システムを包み込む地域の共同性……。しかし、この度の教育改革は、これらすべての共同性を解体していく方向に進んでいる。
■ いま学校に求められているのは、「共同性」の解体、「市場原理」の導入である。学校選択制の導入、教員人事考課の導入、教員給与格差の導入、免許更新制の導入……。そしてこれらの政策には、その発想の前提として「指導力不足教員」「不適格教員」の排除がある。
■もう一度、言う。学校は悲鳴を上げている。

2. 「不適格教員」は増やされている
■教員免許更新制の目的が「不適格教員の排除」を目的に語られるようになったことは何を意味するか。更新された10年間の免許を前提に、教員が自信をもって教育活動をできるようにという意図で「中教審」が提言した免許更新制。それが教育バッシングと文科省に対する既得権益バッシングの中で、文教政策のイニシアチブが教育専門家委員会としての「中教審」から、教育素人集団としての「教育再生会議」へと移行していくと同時に、教員免許更新制の目的もまた、「不適格教員の排除」へと移行していった。
■「教育再生会議」では、渡辺美樹を中心に、教員全体における「不適格教員」の比率の議論があった(現行の1%という文科省報告に対し、20~30%程度を「不適格教員」が占めるのではないかという議論/第2回学校再生分科会議事録)が、実は、非専門家に見られるこうした議論にこそ、学校システム問題の本質がある。
■私は現在、「指導力不足教員」「不適格教員」の比率を現場的実感から10%程度と見ている。ただ、ここで声を大にして言いたいのは、10年前ならばこの実感は2%程度だったのだということである。10年前なら、「不適格教員」など各学校に一人いるかいないかであったのだ。つまり、この10年間で、「こいつは不適格教員ではないか」と思われる教師が、5倍程度に増えているのである。
■では、その教師たちの能力が落ちたのだろうか。つまり、教員の質が低下したのか。おそらく、そうではない。この10年間で、〈教師であること〉が格段に難しくなってきているのである。〈教師であること〉が難しくなると、相対的に他の教員にフォローしてもらわなければならない教員が増えてくる。逆に言えば、心ならずもフォローしなくてはならない教師たちから見れば、「迷惑な人」が増えるわけである。私は特別優秀な教員ではないが、それでも自分の仕事くらいならそつなくこなす程度の力はもっている。少しくらいなら同僚のフォローもできなくはない。しかしながら、フォローを必要とする教員の数が多くなってくれば話が変わってくる。「力のある教師」が支えきれなくなっていくのだ。いったいこの責任はだれにあるのか。
■できる限り行政批判はしたくないとの思いで仕事をしてきたが、これだけは「行政に責任がある」としか言いようがない。学校の環境整備を一切することなく、学校教育に予算措置を講じることもなく、過剰な要求だけはどんどん積み上げていく。たかだか偏差値50~55程度の一般教員に、過剰な要求を突きつけすぎなのである。マスコミでは忙しさに教師が疲弊していくということが取り上げられるが、実はそこに問題の本質はない。
■「教育再生会議」の提言する第二次報告では、学力向上策として、授業時間数の10%増や土曜日授業の可能性を前提として、①時代に合致したカリキュラム(主権者教育、法教育、消費者教育等)の編成、②読書算的学習の反復、③読書指導の充実、④食育の充実、⑤国語教育の充実、⑥英語教育の充実、⑦IT機器の積極的導入、⑧国による到達目標の明示、⑨客観的な絶対評価と、錚々たる項目が並ぶ(「学力向上策」として提示されているわけではないが、この他に「徳育」の教科化の問題もある)が、学校現場にとってこれらの同時達成はきわめて困難を伴う。
■そもそもこんなものをだれが同時にできるのか。すべての組織がそうであるように、学校の職員室だって2割の人間に8割の仕事が集中しているのである。性急な教育改革を進めようとすると、各学校は性急なシステム整備を進めようとする。性急なシステム整備をできるのは、学校の仕事の8割を担っている2割の教師たちである。しかも、この2割の教師たちはパンク寸前になり、他の8割の教師のフォローをできなくなる。校長・教頭・主幹・主任にも仕事が集中し、他の教師のフォローをする余裕がなくなっていく。刻一刻と学校内の共同性が壊れているのである。
■学校を学校として機能させようとすれば、それほど優秀ではない「普通の教員たち」が「普通に働ける」仕事量にするか、或いは、「普通の教員たち」が「普通に働ける」程度に人員を増やすかしかない。
■「不適格教員」は増えているのではない。「不適格教員」は増やされているのである。

3.職員室の「共同性」を回復すべきである
■実はもう一つ、心配事がある。
■学校教育に市場原理を導入して競争を起こす。競争に敗れた学校は廃校になる怖れから努力をし、教員の質も学校の質も上がっていく。また、競争に勝利した学校は、その待遇の良さを維持しようと更に努力を重ね、よりよい学校づくりへと邁進する。結果、すべての学校がよくなっていく。教育行政の、或いは政治主導の教育改革の目論見は、こうである。しかし、現実的に考えれば、こううまくいくものではない。
■苅谷剛彦によれば、教員養成課程大学への志願者が年々減少していると言う。一九八八年に約十万八千人だった志願者が、一九九八年には六万四千人、二○○七年は四万七千人にまで減少した。十八歳人口の減少を計算に入れても、これは減り過ぎである。十八歳同一年齢人口比に照らしても、一九八八年に五・七%が教員志望であったのに対し、二○○七年は三・六パーセントにまで落ち込んでいると言う(「webちくま」)。これに対して、団塊世代の大量退職時代を迎えて、教員採用の枠は広がっている。実は今後、質の良い新採用が入ってくるという見込みがないばかりか、相対的に見れば、教員の質は下がっていくと見なければならない。
■こうした時代の中、学校教育の制度自体はおそらく維持されていく。アメリカやイギリスを初めとして、かつて市場原理を導入しての教育改革が行われた先進国において、学校制度自体を廃止した国はない。とすれば、学力向上や規範意識の育成が求められる中で、しかも教員の質が低下する中で、学校現場は教育活動を行っていくことになるわけだ。この状況をどう乗り切ればよいのか。果たして乗り切る手立てはあるのか。
■昨今、小学校と中学校とを比べた場合、小学校教育の方がより多くのトラブルを抱えている。その最たるものは学級崩壊であろう。中学校は不登校生徒が増加している以外には、ここ二十年ほどそれほど大きなシステム的な質の低下が見られない。これはおそらく、八○年代の校内暴力を通過した中学校では、職員室の共同性が確保されているからである。つまり、中学校には、学級担任が自分の学級の生徒を指導しているというよりも、学年教師全員で学年のすべての生徒をいっしょに指導しているという意識があるからである。学級担任がしんどそうなときには、学年の生徒指導係や学年主任が当然のこととして動く。生徒指導係がある生徒にきつい指導をした場合には、母性的な雰囲気のある教師がその生徒をフォローする。多くの中学校ではこうした体制ができているのである。おそらく、現在の生徒たちに対する「学力の向上」「規範意識の醸成」を、教員の質の低下の中で行っていくには、このチームワーク指導しかない。それが教育活動をより機能させていくばかりでなく、新規採用者を「育てるシステム」にもなっていく。
■外部評価としての学校評価、内部評価としての学校評価ともに、一般的には、教育内容の項目として「学力の向上」と「規範意識の醸成」が細かい項目となって並ぶはずである。また、教育システム項目としては、「保護者・地域との連携」が重視されるだろう。教育内容的には「公共性」を、教育システム的には「共同性」を、というわけである。しかし、「共同性」の回復は保護者や地域ばかりが対象ではない。職員室の「共同性」こそが最も重要なのである。学校の自己評価では、「各教員の連携はとれているか」「組織は機能しているか」という観点が最重要である。