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2008/05/07のBlog
[ 22:13 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
■少々遠回りの感は否めないが、教師の役割から議論を始めたい。
■学校バッシング、教師バッシングが喧しい昨今、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分らはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。二○○○年前後には学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩する毎日。それから丸七年が経とうしている現在、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、ますます闊歩の度合いを強めているように見える。その証拠に、二○○○年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、昨今はかの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっている。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第二回学校再生分科会議事録)と定義していることから見ても、私のこの状況認識はある種の妥当性をもっているようだ。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。
■二○○三年四月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰していることを意味している。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見てよいだろう。
■学校バッシング、教師バッシングが喧しい昨今、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分らはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。二○○○年前後には学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩する毎日。それから丸七年が経とうしている現在、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、ますます闊歩の度合いを強めているように見える。その証拠に、二○○○年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、昨今はかの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっている。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第二回学校再生分科会議事録)と定義していることから見ても、私のこの状況認識はある種の妥当性をもっているようだ。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。
■二○○三年四月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰していることを意味している。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見てよいだろう。
■こうした状況の中で、最近、必要に迫られて、教師に必要な能力を分析して図解した「教師力ピラミッド」というモデルを作成した。マスコミや保護者といった学校外の人間も、そして教師自身も、教師に必要とされる能力と実態を知ることが問題解決の出発点になるだろう、と考えたからである。 「教師力ピラミッド」は、教師の日常的な仕事に関して、教師に求められている資質と能力をわかりやすく網羅し、三角形の底辺から頂点に向けて、能力習得の難易度に応じて三段階にランクづけしたものである。
■第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。
■第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。
■ また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編成という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。 更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。
■〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳について考えるとき、教師の置かれている位置と文学の機能とのせめぎ合いが問題となる。私はかつて次のように書いたことがある(「日本文学」第54巻12号/日本文学協会)。
□かの竹内好の言を引くまでもなく、「文学」と「教育」とは背馳する。「文学を志す教師」は皆、いやが上にもこの矛盾に投げ込まれる。そのとき、教師には三つの選択肢が用意されている。第一の選択肢は自らの中で「教育」を捨て「文学」を独立させること。しかしこれは、変人教師と揶揄されながら生きるか、エセ研究者的な教師になるかのどちらかを意味する。第二の選択肢は「文学」を捨て「教育」に流されること。しかし、これはもはや「文学を志す教師」とは言えない。そして第三の選択肢が、「文学」と「教育」との矛盾にこそ「了解不能の《他者》」の価値付けを施し、その公共性を目指して次々に自らに巣くう共同性を倒壊させていく道である。須貝が研究者の道を選んで十数年を経てなお、この第三の道を歩み続けていることは、本誌第五四巻第八号の須貝論文に明らかである。
■〈文学〉は「教師力ピラミッド」で言えば、最上段の三角形「先見性・創造性」の頂点にある。私の言う「第一の選択肢」とは、この頂点と「事務力」の一つに過ぎない「研究力」とだけに特化した生き方をしている教師の在り方を指す。「第二の選択肢」とは、再下段「モラル・生活力」、第二段の必要とされる「指導力」の現実に鑑みた「研究力」しか発揮せず、最上段の頂点たる「文学」を捨て形式的な「エセ文学教育」(例えば「読解指導」「分析批評」「読者論的読み」と呼ばれるような)に特化した教師を言う。いずれも〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳に正対せず、自らの「共同性」(自らが捉える「文学と教育の関係性」を基盤とした世界観)に埋没する教師なのであり、その「共同性」を超えた「公共性」(現段階で自分には見えていない「文学と教育の関係性」の世界観があると想定すること)のベクトルを見据えていない、その志向性さえ抱いていない、そんな教師の在り方である。
■言うまでもなく田中実の主張する「文学教育」は、最上段の三角形の頂点に位置する〈文学〉をさえ超えようとする文学観に支えられている。いまだ見えてない「公共性」を追究する主体をこそ価値付け、そのベクトルを追い求める姿勢にこそ〈文学〉の機能を見る、そうした文学観である。それは文学教育の理論としては機能し得ても、現段階では実践として機能し得ない。せいぜい田中の置かれている大学教育において専門教育に特化した場において少しばかりの機能を示す程度であろう。その意味で、田中の文学観・文学教育観のそのままの具現化を目指す国語教師達を、現実を変える力を持たない姿勢として、或いは田中の文学観に埋没しつつ「第一の選択肢」を選んだ姿勢として捉え、私は「田中実のエピゴーネン」と揶揄したのであった(本誌五五巻八号)。
■しかし、須貝千里の姿勢はこれらとは一線を画す。須貝はいまだ到達し得ない「公共性」のイメージを、論文の冒頭で自らの「夢」として演出して見せた(本誌五四巻八号)。それは例えば、かつて野間宏が『暗い絵』において、冒頭で「ブリューゲルの絵」を描写して時代と世代の心象を開示して見せたのと同一の手法である。もちろんこれが学術論文としてどうかという点には議論もあろう。だが、「公共性」のベクトルを提示し、〈文学〉と〈教育〉の相克に正対する姿勢を堅持する者にとって、問題の本質はそのような些末な論点にはあり得ない。私が須貝を「第三の選択肢」の体現者と評する所以である。
■第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。
■第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。
■ また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編成という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。 更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。
■〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳について考えるとき、教師の置かれている位置と文学の機能とのせめぎ合いが問題となる。私はかつて次のように書いたことがある(「日本文学」第54巻12号/日本文学協会)。
□かの竹内好の言を引くまでもなく、「文学」と「教育」とは背馳する。「文学を志す教師」は皆、いやが上にもこの矛盾に投げ込まれる。そのとき、教師には三つの選択肢が用意されている。第一の選択肢は自らの中で「教育」を捨て「文学」を独立させること。しかしこれは、変人教師と揶揄されながら生きるか、エセ研究者的な教師になるかのどちらかを意味する。第二の選択肢は「文学」を捨て「教育」に流されること。しかし、これはもはや「文学を志す教師」とは言えない。そして第三の選択肢が、「文学」と「教育」との矛盾にこそ「了解不能の《他者》」の価値付けを施し、その公共性を目指して次々に自らに巣くう共同性を倒壊させていく道である。須貝が研究者の道を選んで十数年を経てなお、この第三の道を歩み続けていることは、本誌第五四巻第八号の須貝論文に明らかである。
■〈文学〉は「教師力ピラミッド」で言えば、最上段の三角形「先見性・創造性」の頂点にある。私の言う「第一の選択肢」とは、この頂点と「事務力」の一つに過ぎない「研究力」とだけに特化した生き方をしている教師の在り方を指す。「第二の選択肢」とは、再下段「モラル・生活力」、第二段の必要とされる「指導力」の現実に鑑みた「研究力」しか発揮せず、最上段の頂点たる「文学」を捨て形式的な「エセ文学教育」(例えば「読解指導」「分析批評」「読者論的読み」と呼ばれるような)に特化した教師を言う。いずれも〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳に正対せず、自らの「共同性」(自らが捉える「文学と教育の関係性」を基盤とした世界観)に埋没する教師なのであり、その「共同性」を超えた「公共性」(現段階で自分には見えていない「文学と教育の関係性」の世界観があると想定すること)のベクトルを見据えていない、その志向性さえ抱いていない、そんな教師の在り方である。
■言うまでもなく田中実の主張する「文学教育」は、最上段の三角形の頂点に位置する〈文学〉をさえ超えようとする文学観に支えられている。いまだ見えてない「公共性」を追究する主体をこそ価値付け、そのベクトルを追い求める姿勢にこそ〈文学〉の機能を見る、そうした文学観である。それは文学教育の理論としては機能し得ても、現段階では実践として機能し得ない。せいぜい田中の置かれている大学教育において専門教育に特化した場において少しばかりの機能を示す程度であろう。その意味で、田中の文学観・文学教育観のそのままの具現化を目指す国語教師達を、現実を変える力を持たない姿勢として、或いは田中の文学観に埋没しつつ「第一の選択肢」を選んだ姿勢として捉え、私は「田中実のエピゴーネン」と揶揄したのであった(本誌五五巻八号)。
■しかし、須貝千里の姿勢はこれらとは一線を画す。須貝はいまだ到達し得ない「公共性」のイメージを、論文の冒頭で自らの「夢」として演出して見せた(本誌五四巻八号)。それは例えば、かつて野間宏が『暗い絵』において、冒頭で「ブリューゲルの絵」を描写して時代と世代の心象を開示して見せたのと同一の手法である。もちろんこれが学術論文としてどうかという点には議論もあろう。だが、「公共性」のベクトルを提示し、〈文学〉と〈教育〉の相克に正対する姿勢を堅持する者にとって、問題の本質はそのような些末な論点にはあり得ない。私が須貝を「第三の選択肢」の体現者と評する所以である。
[ 21:31 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
[ 21:29 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
GEORGA SATELLITES
★★★★★
1. Keep Your Hands to Yourself
2. Railroad Steel
3. Battleship Chains
4. Red Light
5. Myth of Love
6. Can't Stand the Pain
7. Golden Light
8. Over and Over
9. Nights of Mystery
10. Every Picture Tells a Story
1986年。連休明け、生徒の前に立つ体力はあるのだが、かなしいかな気力が足りない。要するに休みボケだ。こういう朝は、通勤の車の中でこのアルバムを聴いて、精神を高揚させる。これで戦場に出ることができる。(笑)
★★★★★
1. Keep Your Hands to Yourself
2. Railroad Steel
3. Battleship Chains
4. Red Light
5. Myth of Love
6. Can't Stand the Pain
7. Golden Light
8. Over and Over
9. Nights of Mystery
10. Every Picture Tells a Story
1986年。連休明け、生徒の前に立つ体力はあるのだが、かなしいかな気力が足りない。要するに休みボケだ。こういう朝は、通勤の車の中でこのアルバムを聴いて、精神を高揚させる。これで戦場に出ることができる。(笑)
2008/05/06のBlog
[ 23:31 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
DREAMS COME TRUE
★★★★★
1. SNOW DANCE
2. SNOW DANCE(A CAPELLA VERSION)
3. SNOW DANCE(ACOUSTIC VERSION)
4. dragonfly(Special Radio Mix)
1999年12月リリース。実は、ドリカムはあまり好きではない。でも、この曲だけは特別だ。収録されている3つのバージョンとも、とてもいい。「ハラハラ舞う雪になって、あなたのホホをそっと撫でて」「1900年代最後の夏は行って、思い出だけ食べて秋は過ぎて」 天才的な歌詞だと思う。北海道の夏は短く、秋も短い。初冬の雪がはらはらと舞う季節がすぐにやって来る。北海道の感性が染み入っている感がある。実は、吉田美和は高校の先輩なのだが、この曲を編み出したというだけで、同窓であることに誇りを感じるほどだ。
★★★★★
1. SNOW DANCE
2. SNOW DANCE(A CAPELLA VERSION)
3. SNOW DANCE(ACOUSTIC VERSION)
4. dragonfly(Special Radio Mix)
1999年12月リリース。実は、ドリカムはあまり好きではない。でも、この曲だけは特別だ。収録されている3つのバージョンとも、とてもいい。「ハラハラ舞う雪になって、あなたのホホをそっと撫でて」「1900年代最後の夏は行って、思い出だけ食べて秋は過ぎて」 天才的な歌詞だと思う。北海道の夏は短く、秋も短い。初冬の雪がはらはらと舞う季節がすぐにやって来る。北海道の感性が染み入っている感がある。実は、吉田美和は高校の先輩なのだが、この曲を編み出したというだけで、同窓であることに誇りを感じるほどだ。
[ 19:21 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
□いま知らなければならないのは、現状のどこまでが甘受すべき時代の趨勢であり、どこまでが努力によって防ぎうる退廃なのかということなのである。《『歴史の真実と政治の正義』山崎正和・中公文庫・2007.08・p95》
■「学校が悲鳴を上げている」と書いた。現場人としての叫びのつもりである。山崎正和の言を借りるならば、政治が(或いは行政が)「甘受すべき時代の趨勢」として進めている政策を、現場が「努力によって防ぎうる退廃」だと感じている、ということである。いや、もはや「努力によって防ぎうる退廃」の域を越えたがために、悲鳴を上げていると叫んでいるのかも知れない。「教育が他のものと本質的に違うのは、それが人体実験ということである」と言ったのは藤原正彦だが(「国家の堕落」藤原正彦・「文藝春秋」2007.01)、政治や行政が公務員に強いる政策もまた、教育同様、人体実験の趣が強い。政治や行政の与える理想と、退廃した現実との狭間で、責任感を強く持つ者ほど精神を荒廃させざるを得なくなる。昨日見た「消えた天使」によれば、アメリカで登録された性犯罪者を、監察官一人あたり1000人も抱えているそうである。その再犯性の高さから、責任感を強く抱く監察官ほど心労を重ね、平均18ヶ月で精神を病んで退職していくそうである。本当か嘘かはわからないが、さもありなんとの思いを抱く。
■これと同じ構図が、我が国の教育現場にもある。かつて広田照幸が次のように書いていた。
□一つは、学校教育をめぐる議論の焦点が、システムの周辺部に生起している問題へと、無限大に拡大ないしはシフトしていっているのではないかということである。いうまでもなく学校の活動の大半は、授業の時間によって組み立てられている。しかし、ここ三○年の間に進んできたのは、授業時間以外の場面への配慮(たとえばいじめの予防や対処)、まれに起きる病理のクローズアップ(たとえば学級崩壊)、システムへの参入を拒否する生徒たちへの対処(たとえば校内暴力や不登校)など、学校の機能の拡張を要請するものばかりである。「子供の心を理解する」といったことも、かつてはより効果的な指導をおこなうためのノウハウの一つであったのが、今やそれ自体が教育活動の自己完結的な目的として、教師に求められるようになっている。
□そこにあるのは、ある種の転倒である。学校のフォーマルな時間・空間から逃れようとする生徒をシステムに再統合しようとする活動や、部分的に生起するシステム機能不全や逸脱を予防・解決しようとする活動、すなわち、教科を教えるという学校の中心的な活動からいうとメタレベルの活動が、学校をめぐる議論の中心的トピックに据えられてきているのである。
□「学校に何ができるか/できないか」「学校が何をすべきか/すべきでないか」という、原理的なレベルでの議論を棚上げにしたまま、こうした無限定な領域拡張が進行している結果、現代の学校は、いわばゲリラ的掃討戦の泥沼に引きずり込まれているような状況にあるのではないだろうか。
《『教育には何ができないか 教育神話の解体と再生の試み』広田照幸・春秋社・p84~85》
■学校はあくまで、「手段」である。ある者は「社会づくりのための手段」であるといい、ある者は「国づくりのための手段」であるというだろうが、そういう違いにはここではこだわらない。少なくとも学校が「目的」ではないことは自明である。しかし、「楽しい学校」「学力の向上する学校」「いじめのない学校」などなど、学校の在り方自体が自己目的化して語られることが多くなった。その結果、学級に所属するすべての生徒が「楽しい」と感じる学級をつくれない教師、学級に所属するすべての生徒の学力を向上させられない教師、学級で起こったいじめを解決できない教師は、「指導力不足教員」「不適格教員」と断罪されるようになった。これが「甘受すべき時代の趨勢」なのか、「努力によって防ぎうる退廃」なのか、熟考の上に判断されるべきだろう。
■「学校が悲鳴を上げている」と書いた。現場人としての叫びのつもりである。山崎正和の言を借りるならば、政治が(或いは行政が)「甘受すべき時代の趨勢」として進めている政策を、現場が「努力によって防ぎうる退廃」だと感じている、ということである。いや、もはや「努力によって防ぎうる退廃」の域を越えたがために、悲鳴を上げていると叫んでいるのかも知れない。「教育が他のものと本質的に違うのは、それが人体実験ということである」と言ったのは藤原正彦だが(「国家の堕落」藤原正彦・「文藝春秋」2007.01)、政治や行政が公務員に強いる政策もまた、教育同様、人体実験の趣が強い。政治や行政の与える理想と、退廃した現実との狭間で、責任感を強く持つ者ほど精神を荒廃させざるを得なくなる。昨日見た「消えた天使」によれば、アメリカで登録された性犯罪者を、監察官一人あたり1000人も抱えているそうである。その再犯性の高さから、責任感を強く抱く監察官ほど心労を重ね、平均18ヶ月で精神を病んで退職していくそうである。本当か嘘かはわからないが、さもありなんとの思いを抱く。
■これと同じ構図が、我が国の教育現場にもある。かつて広田照幸が次のように書いていた。
□一つは、学校教育をめぐる議論の焦点が、システムの周辺部に生起している問題へと、無限大に拡大ないしはシフトしていっているのではないかということである。いうまでもなく学校の活動の大半は、授業の時間によって組み立てられている。しかし、ここ三○年の間に進んできたのは、授業時間以外の場面への配慮(たとえばいじめの予防や対処)、まれに起きる病理のクローズアップ(たとえば学級崩壊)、システムへの参入を拒否する生徒たちへの対処(たとえば校内暴力や不登校)など、学校の機能の拡張を要請するものばかりである。「子供の心を理解する」といったことも、かつてはより効果的な指導をおこなうためのノウハウの一つであったのが、今やそれ自体が教育活動の自己完結的な目的として、教師に求められるようになっている。
□そこにあるのは、ある種の転倒である。学校のフォーマルな時間・空間から逃れようとする生徒をシステムに再統合しようとする活動や、部分的に生起するシステム機能不全や逸脱を予防・解決しようとする活動、すなわち、教科を教えるという学校の中心的な活動からいうとメタレベルの活動が、学校をめぐる議論の中心的トピックに据えられてきているのである。
□「学校に何ができるか/できないか」「学校が何をすべきか/すべきでないか」という、原理的なレベルでの議論を棚上げにしたまま、こうした無限定な領域拡張が進行している結果、現代の学校は、いわばゲリラ的掃討戦の泥沼に引きずり込まれているような状況にあるのではないだろうか。
《『教育には何ができないか 教育神話の解体と再生の試み』広田照幸・春秋社・p84~85》
■学校はあくまで、「手段」である。ある者は「社会づくりのための手段」であるといい、ある者は「国づくりのための手段」であるというだろうが、そういう違いにはここではこだわらない。少なくとも学校が「目的」ではないことは自明である。しかし、「楽しい学校」「学力の向上する学校」「いじめのない学校」などなど、学校の在り方自体が自己目的化して語られることが多くなった。その結果、学級に所属するすべての生徒が「楽しい」と感じる学級をつくれない教師、学級に所属するすべての生徒の学力を向上させられない教師、学級で起こったいじめを解決できない教師は、「指導力不足教員」「不適格教員」と断罪されるようになった。これが「甘受すべき時代の趨勢」なのか、「努力によって防ぎうる退廃」なのか、熟考の上に判断されるべきだろう。
[ 15:15 ]
[ 裕弁は銀/日常思索 ]
DAN FOGELBERG
★★★★★
1. Down the Road
2. Mountain Pass
3. Sutter's Mill
4. Wolf Creek [Instrumental]
5. High Country Snows
6. Outlaw
7. Shallow Rivers
8. Go Down Easy
9. Wandering Shepherd
10. Think of What You've Done
11. Higher You Climb
1985年リリース。ダン・フォーゲルバーグの最高傑作。カントリーアルバムである。浪人していた頃、よく通っていたレコード屋の店長の薦めで、何もわからずに買った。はまった。以来、CDでも買い直し、聴き続けている。いまは輸入盤でしか手に入らないようだが、アマゾンで十分に手に入れることができる。冬のドライブには最適。特に北海道の雪道には最高である。聴き入ってしまうので、仕事のBGMには不向き。
★★★★★
1. Down the Road
2. Mountain Pass
3. Sutter's Mill
4. Wolf Creek [Instrumental]
5. High Country Snows
6. Outlaw
7. Shallow Rivers
8. Go Down Easy
9. Wandering Shepherd
10. Think of What You've Done
11. Higher You Climb
1985年リリース。ダン・フォーゲルバーグの最高傑作。カントリーアルバムである。浪人していた頃、よく通っていたレコード屋の店長の薦めで、何もわからずに買った。はまった。以来、CDでも買い直し、聴き続けている。いまは輸入盤でしか手に入らないようだが、アマゾンで十分に手に入れることができる。冬のドライブには最適。特に北海道の雪道には最高である。聴き入ってしまうので、仕事のBGMには不向き。
[ 12:19 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
1.学校が悲鳴を上げている
■学校が悲鳴を上げている。
■いま学校に必要なのは、従来から学校の前提として機能していた「共同性」の回復である。職員室の共同性、学年団の共同性、学級の共同性、そして学校システムを包み込む地域の共同性……。しかし、この度の教育改革は、これらすべての共同性を解体していく方向に進んでいる。
■ いま学校に求められているのは、「共同性」の解体、「市場原理」の導入である。学校選択制の導入、教員人事考課の導入、教員給与格差の導入、免許更新制の導入……。そしてこれらの政策には、その発想の前提として「指導力不足教員」「不適格教員」の排除がある。
■もう一度、言う。学校は悲鳴を上げている。
2. 「不適格教員」は増やされている
■教員免許更新制の目的が「不適格教員の排除」を目的に語られるようになったことは何を意味するか。更新された10年間の免許を前提に、教員が自信をもって教育活動をできるようにという意図で「中教審」が提言した免許更新制。それが教育バッシングと文科省に対する既得権益バッシングの中で、文教政策のイニシアチブが教育専門家委員会としての「中教審」から、教育素人集団としての「教育再生会議」へと移行していくと同時に、教員免許更新制の目的もまた、「不適格教員の排除」へと移行していった。
■「教育再生会議」では、渡辺美樹を中心に、教員全体における「不適格教員」の比率の議論があった(現行の1%という文科省報告に対し、20~30%程度を「不適格教員」が占めるのではないかという議論/第2回学校再生分科会議事録)が、実は、非専門家に見られるこうした議論にこそ、学校システム問題の本質がある。
■私は現在、「指導力不足教員」「不適格教員」の比率を現場的実感から10%程度と見ている。ただ、ここで声を大にして言いたいのは、10年前ならばこの実感は2%程度だったのだということである。10年前なら、「不適格教員」など各学校に一人いるかいないかであったのだ。つまり、この10年間で、「こいつは不適格教員ではないか」と思われる教師が、5倍程度に増えているのである。
■では、その教師たちの能力が落ちたのだろうか。つまり、教員の質が低下したのか。おそらく、そうではない。この10年間で、〈教師であること〉が格段に難しくなってきているのである。〈教師であること〉が難しくなると、相対的に他の教員にフォローしてもらわなければならない教員が増えてくる。逆に言えば、心ならずもフォローしなくてはならない教師たちから見れば、「迷惑な人」が増えるわけである。私は特別優秀な教員ではないが、それでも自分の仕事くらいならそつなくこなす程度の力はもっている。少しくらいなら同僚のフォローもできなくはない。しかしながら、フォローを必要とする教員の数が多くなってくれば話が変わってくる。「力のある教師」が支えきれなくなっていくのだ。いったいこの責任はだれにあるのか。
■できる限り行政批判はしたくないとの思いで仕事をしてきたが、これだけは「行政に責任がある」としか言いようがない。学校の環境整備を一切することなく、学校教育に予算措置を講じることもなく、過剰な要求だけはどんどん積み上げていく。たかだか偏差値50~55程度の一般教員に、過剰な要求を突きつけすぎなのである。マスコミでは忙しさに教師が疲弊していくということが取り上げられるが、実はそこに問題の本質はない。
■「教育再生会議」の提言する第二次報告では、学力向上策として、授業時間数の10%増や土曜日授業の可能性を前提として、①時代に合致したカリキュラム(主権者教育、法教育、消費者教育等)の編成、②読書算的学習の反復、③読書指導の充実、④食育の充実、⑤国語教育の充実、⑥英語教育の充実、⑦IT機器の積極的導入、⑧国による到達目標の明示、⑨客観的な絶対評価と、錚々たる項目が並ぶ(「学力向上策」として提示されているわけではないが、この他に「徳育」の教科化の問題もある)が、学校現場にとってこれらの同時達成はきわめて困難を伴う。
■そもそもこんなものをだれが同時にできるのか。すべての組織がそうであるように、学校の職員室だって2割の人間に8割の仕事が集中しているのである。性急な教育改革を進めようとすると、各学校は性急なシステム整備を進めようとする。性急なシステム整備をできるのは、学校の仕事の8割を担っている2割の教師たちである。しかも、この2割の教師たちはパンク寸前になり、他の8割の教師のフォローをできなくなる。校長・教頭・主幹・主任にも仕事が集中し、他の教師のフォローをする余裕がなくなっていく。刻一刻と学校内の共同性が壊れているのである。
■学校を学校として機能させようとすれば、それほど優秀ではない「普通の教員たち」が「普通に働ける」仕事量にするか、或いは、「普通の教員たち」が「普通に働ける」程度に人員を増やすかしかない。
■「不適格教員」は増えているのではない。「不適格教員」は増やされているのである。
3.職員室の「共同性」を回復すべきである
■実はもう一つ、心配事がある。
■学校教育に市場原理を導入して競争を起こす。競争に敗れた学校は廃校になる怖れから努力をし、教員の質も学校の質も上がっていく。また、競争に勝利した学校は、その待遇の良さを維持しようと更に努力を重ね、よりよい学校づくりへと邁進する。結果、すべての学校がよくなっていく。教育行政の、或いは政治主導の教育改革の目論見は、こうである。しかし、現実的に考えれば、こううまくいくものではない。
■苅谷剛彦によれば、教員養成課程大学への志願者が年々減少していると言う。一九八八年に約十万八千人だった志願者が、一九九八年には六万四千人、二○○七年は四万七千人にまで減少した。十八歳人口の減少を計算に入れても、これは減り過ぎである。十八歳同一年齢人口比に照らしても、一九八八年に五・七%が教員志望であったのに対し、二○○七年は三・六パーセントにまで落ち込んでいると言う(「webちくま」)。これに対して、団塊世代の大量退職時代を迎えて、教員採用の枠は広がっている。実は今後、質の良い新採用が入ってくるという見込みがないばかりか、相対的に見れば、教員の質は下がっていくと見なければならない。
■こうした時代の中、学校教育の制度自体はおそらく維持されていく。アメリカやイギリスを初めとして、かつて市場原理を導入しての教育改革が行われた先進国において、学校制度自体を廃止した国はない。とすれば、学力向上や規範意識の育成が求められる中で、しかも教員の質が低下する中で、学校現場は教育活動を行っていくことになるわけだ。この状況をどう乗り切ればよいのか。果たして乗り切る手立てはあるのか。
■昨今、小学校と中学校とを比べた場合、小学校教育の方がより多くのトラブルを抱えている。その最たるものは学級崩壊であろう。中学校は不登校生徒が増加している以外には、ここ二十年ほどそれほど大きなシステム的な質の低下が見られない。これはおそらく、八○年代の校内暴力を通過した中学校では、職員室の共同性が確保されているからである。つまり、中学校には、学級担任が自分の学級の生徒を指導しているというよりも、学年教師全員で学年のすべての生徒をいっしょに指導しているという意識があるからである。学級担任がしんどそうなときには、学年の生徒指導係や学年主任が当然のこととして動く。生徒指導係がある生徒にきつい指導をした場合には、母性的な雰囲気のある教師がその生徒をフォローする。多くの中学校ではこうした体制ができているのである。おそらく、現在の生徒たちに対する「学力の向上」「規範意識の醸成」を、教員の質の低下の中で行っていくには、このチームワーク指導しかない。それが教育活動をより機能させていくばかりでなく、新規採用者を「育てるシステム」にもなっていく。
■外部評価としての学校評価、内部評価としての学校評価ともに、一般的には、教育内容の項目として「学力の向上」と「規範意識の醸成」が細かい項目となって並ぶはずである。また、教育システム項目としては、「保護者・地域との連携」が重視されるだろう。教育内容的には「公共性」を、教育システム的には「共同性」を、というわけである。しかし、「共同性」の回復は保護者や地域ばかりが対象ではない。職員室の「共同性」こそが最も重要なのである。学校の自己評価では、「各教員の連携はとれているか」「組織は機能しているか」という観点が最重要である。
■学校が悲鳴を上げている。
■いま学校に必要なのは、従来から学校の前提として機能していた「共同性」の回復である。職員室の共同性、学年団の共同性、学級の共同性、そして学校システムを包み込む地域の共同性……。しかし、この度の教育改革は、これらすべての共同性を解体していく方向に進んでいる。
■ いま学校に求められているのは、「共同性」の解体、「市場原理」の導入である。学校選択制の導入、教員人事考課の導入、教員給与格差の導入、免許更新制の導入……。そしてこれらの政策には、その発想の前提として「指導力不足教員」「不適格教員」の排除がある。
■もう一度、言う。学校は悲鳴を上げている。
2. 「不適格教員」は増やされている
■教員免許更新制の目的が「不適格教員の排除」を目的に語られるようになったことは何を意味するか。更新された10年間の免許を前提に、教員が自信をもって教育活動をできるようにという意図で「中教審」が提言した免許更新制。それが教育バッシングと文科省に対する既得権益バッシングの中で、文教政策のイニシアチブが教育専門家委員会としての「中教審」から、教育素人集団としての「教育再生会議」へと移行していくと同時に、教員免許更新制の目的もまた、「不適格教員の排除」へと移行していった。
■「教育再生会議」では、渡辺美樹を中心に、教員全体における「不適格教員」の比率の議論があった(現行の1%という文科省報告に対し、20~30%程度を「不適格教員」が占めるのではないかという議論/第2回学校再生分科会議事録)が、実は、非専門家に見られるこうした議論にこそ、学校システム問題の本質がある。
■私は現在、「指導力不足教員」「不適格教員」の比率を現場的実感から10%程度と見ている。ただ、ここで声を大にして言いたいのは、10年前ならばこの実感は2%程度だったのだということである。10年前なら、「不適格教員」など各学校に一人いるかいないかであったのだ。つまり、この10年間で、「こいつは不適格教員ではないか」と思われる教師が、5倍程度に増えているのである。
■では、その教師たちの能力が落ちたのだろうか。つまり、教員の質が低下したのか。おそらく、そうではない。この10年間で、〈教師であること〉が格段に難しくなってきているのである。〈教師であること〉が難しくなると、相対的に他の教員にフォローしてもらわなければならない教員が増えてくる。逆に言えば、心ならずもフォローしなくてはならない教師たちから見れば、「迷惑な人」が増えるわけである。私は特別優秀な教員ではないが、それでも自分の仕事くらいならそつなくこなす程度の力はもっている。少しくらいなら同僚のフォローもできなくはない。しかしながら、フォローを必要とする教員の数が多くなってくれば話が変わってくる。「力のある教師」が支えきれなくなっていくのだ。いったいこの責任はだれにあるのか。
■できる限り行政批判はしたくないとの思いで仕事をしてきたが、これだけは「行政に責任がある」としか言いようがない。学校の環境整備を一切することなく、学校教育に予算措置を講じることもなく、過剰な要求だけはどんどん積み上げていく。たかだか偏差値50~55程度の一般教員に、過剰な要求を突きつけすぎなのである。マスコミでは忙しさに教師が疲弊していくということが取り上げられるが、実はそこに問題の本質はない。
■「教育再生会議」の提言する第二次報告では、学力向上策として、授業時間数の10%増や土曜日授業の可能性を前提として、①時代に合致したカリキュラム(主権者教育、法教育、消費者教育等)の編成、②読書算的学習の反復、③読書指導の充実、④食育の充実、⑤国語教育の充実、⑥英語教育の充実、⑦IT機器の積極的導入、⑧国による到達目標の明示、⑨客観的な絶対評価と、錚々たる項目が並ぶ(「学力向上策」として提示されているわけではないが、この他に「徳育」の教科化の問題もある)が、学校現場にとってこれらの同時達成はきわめて困難を伴う。
■そもそもこんなものをだれが同時にできるのか。すべての組織がそうであるように、学校の職員室だって2割の人間に8割の仕事が集中しているのである。性急な教育改革を進めようとすると、各学校は性急なシステム整備を進めようとする。性急なシステム整備をできるのは、学校の仕事の8割を担っている2割の教師たちである。しかも、この2割の教師たちはパンク寸前になり、他の8割の教師のフォローをできなくなる。校長・教頭・主幹・主任にも仕事が集中し、他の教師のフォローをする余裕がなくなっていく。刻一刻と学校内の共同性が壊れているのである。
■学校を学校として機能させようとすれば、それほど優秀ではない「普通の教員たち」が「普通に働ける」仕事量にするか、或いは、「普通の教員たち」が「普通に働ける」程度に人員を増やすかしかない。
■「不適格教員」は増えているのではない。「不適格教員」は増やされているのである。
3.職員室の「共同性」を回復すべきである
■実はもう一つ、心配事がある。
■学校教育に市場原理を導入して競争を起こす。競争に敗れた学校は廃校になる怖れから努力をし、教員の質も学校の質も上がっていく。また、競争に勝利した学校は、その待遇の良さを維持しようと更に努力を重ね、よりよい学校づくりへと邁進する。結果、すべての学校がよくなっていく。教育行政の、或いは政治主導の教育改革の目論見は、こうである。しかし、現実的に考えれば、こううまくいくものではない。
■苅谷剛彦によれば、教員養成課程大学への志願者が年々減少していると言う。一九八八年に約十万八千人だった志願者が、一九九八年には六万四千人、二○○七年は四万七千人にまで減少した。十八歳人口の減少を計算に入れても、これは減り過ぎである。十八歳同一年齢人口比に照らしても、一九八八年に五・七%が教員志望であったのに対し、二○○七年は三・六パーセントにまで落ち込んでいると言う(「webちくま」)。これに対して、団塊世代の大量退職時代を迎えて、教員採用の枠は広がっている。実は今後、質の良い新採用が入ってくるという見込みがないばかりか、相対的に見れば、教員の質は下がっていくと見なければならない。
■こうした時代の中、学校教育の制度自体はおそらく維持されていく。アメリカやイギリスを初めとして、かつて市場原理を導入しての教育改革が行われた先進国において、学校制度自体を廃止した国はない。とすれば、学力向上や規範意識の育成が求められる中で、しかも教員の質が低下する中で、学校現場は教育活動を行っていくことになるわけだ。この状況をどう乗り切ればよいのか。果たして乗り切る手立てはあるのか。
■昨今、小学校と中学校とを比べた場合、小学校教育の方がより多くのトラブルを抱えている。その最たるものは学級崩壊であろう。中学校は不登校生徒が増加している以外には、ここ二十年ほどそれほど大きなシステム的な質の低下が見られない。これはおそらく、八○年代の校内暴力を通過した中学校では、職員室の共同性が確保されているからである。つまり、中学校には、学級担任が自分の学級の生徒を指導しているというよりも、学年教師全員で学年のすべての生徒をいっしょに指導しているという意識があるからである。学級担任がしんどそうなときには、学年の生徒指導係や学年主任が当然のこととして動く。生徒指導係がある生徒にきつい指導をした場合には、母性的な雰囲気のある教師がその生徒をフォローする。多くの中学校ではこうした体制ができているのである。おそらく、現在の生徒たちに対する「学力の向上」「規範意識の醸成」を、教員の質の低下の中で行っていくには、このチームワーク指導しかない。それが教育活動をより機能させていくばかりでなく、新規採用者を「育てるシステム」にもなっていく。
■外部評価としての学校評価、内部評価としての学校評価ともに、一般的には、教育内容の項目として「学力の向上」と「規範意識の醸成」が細かい項目となって並ぶはずである。また、教育システム項目としては、「保護者・地域との連携」が重視されるだろう。教育内容的には「公共性」を、教育システム的には「共同性」を、というわけである。しかし、「共同性」の回復は保護者や地域ばかりが対象ではない。職員室の「共同性」こそが最も重要なのである。学校の自己評価では、「各教員の連携はとれているか」「組織は機能しているか」という観点が最重要である。
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