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裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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2008/05/08のBlog
■三島由紀夫の自決に際して、当時の総理大臣佐藤栄作と防衛庁長官中曽根康弘が「気が狂っているとしか思えない」「常軌を逸した行動というほかない」と、三島を罵倒する発言をしたのは有名な話である。これに対して、多くの文学者が「志を持って自決した死者を、恥ずかしめるわけにはゆかない」(いいだもも・昭和46年11月6日・讀賣新聞)と両者の発言に異を唱えたことも有名な話である。
■かつて文芸批評家磯田光一は、三島の自決と佐藤・中曽根発言との間に「文学の論理」と「政治の論理」との断層を見た(「三島事件と知識人」)。この構図に、「思想の一貫性」と「現実管理の要請」との無限のミゾが浮き彫りにされているからである。前者の志向対象が自己(個人)の完成であるのに対し、後者の志向対象はあくまで集団の秩序であって、両者は決して相容れない性質をもつ。しかし、ここで重要なのは、「自衛隊よ、なぜ立たぬか」という三島由紀夫の「思想の一貫性」が、「教授会よ、何故立たぬか」という全共闘の「思想の一貫性」と等しい位相にあるという点である。大学紛争において、大学知識人がもしも「思想の一貫性」を選択するならば、当然、「現実管理の要請」つまり「秩序」を放棄しなければならない。また、もしも「現実管理の要請」を選択するならば、自分の教えた革新思想を最も急進的に実現しようとしている学生達を裏切らねばならなくなる。このような二項対立を見据えて考えるとき、三島由紀夫に対して自民党政府がとった態度も、全共闘に対して教授会がとった態度も、「現実管理の要請」を通じて集団の秩序を確保したということでしかない。
■政治が組織の上部に位置する限り、そこには「権力」が必要とされる。「権力」とは「公認された暴力」のことであり、それなくしては組織の秩序も保たれない。議会制民主主義とは、この「公認された暴力」の「公認」の部分だけを為政者に臨時に委託することにほかならない。そしてこの構造は、体制側だけでなく、反体制側にも適応できる普遍的な構造なのである。革新勢力もまた、反体制という名の政治組織であって、内部に必ず「権力」の論理をもたずには成立し得ない。しかも、官僚的な統制の行き届いた組織ほど実は政治的には大きな効率をもつのが現実なのである。しかし、官僚制は官僚制であるが故に、まさしく「現実管理の要請」に近接せずにはいられない。そして、組織が「現実管理の要請」に基づいた政治に近づくとき、それを否定すべく発生するのが「文学の論理」(磯田は「ラジカリズム」と呼んでいる)である。しかもそれは、必ずしも大衆の底辺からの批判勢力として発生するとは限らない。「文学の論理」は「政治の論理」を否定するが故に、最終的には死を志向する。それは有効性の彼方にあるものであり、時に政治的有効性を断念した場合にのみ絶望を基盤として急進化する行為である。更にそれは、しばしば悲劇的な敗北を自明の前提として行われる場合がある。だが、そのような絶望的な悲劇が浴びせられるのは、「三島は気が狂っているんだ」という佐藤・中曽根の醜悪な声であり、「諸君、無駄な抵抗は止めてください」という東大学長の白々しい声でしかない。
■磯田はこうした論理を提示した上で、三島由紀夫の自決に「知識人の存在理由を抹殺するための自決」という象徴性を読み取り、三島の中に次の四つの悪意を読み取った。
(1)心情的ラジカリズムで三島を越えようと思ったら死を賭けてみろ。
(2)政治にたずさわるなら、知識人などを廃業して佐藤栄作か宮本顕治になってみろ、そのほうがよほど筋が通っている。
(3)政治の論理を拒否するなら、文学と政治を混同しないで『金閣寺』を書いてみろ。
(4)ただの非政治的生活者をバカにするな。
■言うまでもなく、この〈文学〉と〈政治〉の相克に見られる構図は、そのまま〈文学〉と〈教育〉の相克の構図にも当て嵌まる。全共闘に対した東大教授会のみならず、すべての教育機関は「現実管理の要請」の上に成り立っている。その意味で、学校教育は〈政治〉なのであり、教育研究としての「文学教育」を構想することもまた、「現実管理の要請」から自由ではあり得ないのである。とすれば、三島が政治的知識人に投げかけた悪意は、そのまま教育研究としての「文学教育」を構想しようとする我々にも向けられていると見なければならない。死を賭けろとまでは言わないにしても、磯田が三島の自決から読み取った二つの象徴性、つまり、政治にたずさわるなら、知識人的態度よりも佐藤栄作や宮本顕治のごとき政治家的な態度の方がよほど筋が通っている、政治の論理(現実管理の要請)より文学を優先したいというのなら、〈文学〉と〈教育〉とを混同することなく、〈文学〉の世界のみで生きてみよ、と突きつけられているのである。要するに、〈管理〉に徹するか、〈文学〉に徹するか、どちらかを選択せよというわけだ。しかし、当然のことながら、私たちはどちらを選ぶことも許されない。「文学教育」にとって、〈文学〉と〈教育〉とは車の両輪、コインの裏表であって、切り離すわけにはいかないのである。そのとき、私たちにはいかなる選択肢が用意されているであろうか。
■そこには、三島のごとき「心情的ラジカリズム」を〈文学〉に向けるのでなく、〈文学〉と〈教育〉の本質的背馳、〈文学〉と〈教育〉の〈あいだ〉にこそ向けるという道しか残されてはいない。しかもそれはおそらく、政治的有効性を断念し絶望を基盤に急進化させるのでなく、悲劇的な敗北を自明の前提として行うのでない、理想的にして現実的な道を希求するという、遙かの山に聳える城を希求する道である。佐藤栄作にも宮本顕治にもならずに政治的効率性を求め、非政治的生活者にさえ〈文学〉を機能させると同時に〈教育〉をも成立させることが目標となる。それは、先の「教師力ピラミッド」で言えば、教師に求められる能力のすべてを具え、現実的な〈教育〉を機能させ、それでいて〈文学〉の理想を決して見失うことのない、教師自身が「文学教育」の体現者となる道である。私はこの困難な道を指して「第三の選択肢」と呼んだのである。
[ 21:23 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
THE POLICE
★★★★★

1. Synchronicity I
2. Walking in Your Footsteps
3. O My God
4. Mother
5. Miss Gradenko
6. Synchronicity II
7. Every Breath You Take
8. King of Pain
9. Wrapped Around Your Finger
10. Tea in the Sahara
11. Murder by Numbers

1986年6月リリース。ミーハーと言われればそれまでだが、このアルバムが好きでたまらない。好きと言うより、あまりに格好良くて、知的で、高校時代の憧れの心象をいまもそのまま抱いている、という感じ。このアルバムだけが、ポリスだけが理由ではないが、80年代に青春期を送れて本当に良かったな、と思うことがよくある。同じように感じている同世代はかなり多いはずだ。たぶん80年代ってのは、それ以前とそれ以後との両方をともにもっていた、稀な時代だったのだと思う。自分達よりも上の世代のこだわりも理解できるし、自分達よりも若い世代の感性にも通底している、そんな実感が僕らの世代にはある。いま、僕らの世代がテレビ番組の製作を牛耳っているようで、僕らの世代には耳慣れた80年代のヒットソングが、ずいぶんと番組のBGMに多用されている。それもまた、楽しい。そんな愛すべきヒットソング達の中で、このアルバムは確かに大きな存在感をもっているアルバムであるはずだ。同世代の多くが、大きくうなずいてくれると思う。
2008/05/07のBlog
■少々遠回りの感は否めないが、教師の役割から議論を始めたい。
■学校バッシング、教師バッシングが喧しい昨今、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分らはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。二○○○年前後には学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩する毎日。それから丸七年が経とうしている現在、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、ますます闊歩の度合いを強めているように見える。その証拠に、二○○○年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、昨今はかの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっている。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第二回学校再生分科会議事録)と定義していることから見ても、私のこの状況認識はある種の妥当性をもっているようだ。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。
■二○○三年四月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰していることを意味している。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見てよいだろう。
■こうした状況の中で、最近、必要に迫られて、教師に必要な能力を分析して図解した「教師力ピラミッド」というモデルを作成した。マスコミや保護者といった学校外の人間も、そして教師自身も、教師に必要とされる能力と実態を知ることが問題解決の出発点になるだろう、と考えたからである。 「教師力ピラミッド」は、教師の日常的な仕事に関して、教師に求められている資質と能力をわかりやすく網羅し、三角形の底辺から頂点に向けて、能力習得の難易度に応じて三段階にランクづけしたものである。
■第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。
■第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。
■ また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編成という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。 更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。
■〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳について考えるとき、教師の置かれている位置と文学の機能とのせめぎ合いが問題となる。私はかつて次のように書いたことがある(「日本文学」第54巻12号/日本文学協会)。
□かの竹内好の言を引くまでもなく、「文学」と「教育」とは背馳する。「文学を志す教師」は皆、いやが上にもこの矛盾に投げ込まれる。そのとき、教師には三つの選択肢が用意されている。第一の選択肢は自らの中で「教育」を捨て「文学」を独立させること。しかしこれは、変人教師と揶揄されながら生きるか、エセ研究者的な教師になるかのどちらかを意味する。第二の選択肢は「文学」を捨て「教育」に流されること。しかし、これはもはや「文学を志す教師」とは言えない。そして第三の選択肢が、「文学」と「教育」との矛盾にこそ「了解不能の《他者》」の価値付けを施し、その公共性を目指して次々に自らに巣くう共同性を倒壊させていく道である。須貝が研究者の道を選んで十数年を経てなお、この第三の道を歩み続けていることは、本誌第五四巻第八号の須貝論文に明らかである。
■〈文学〉は「教師力ピラミッド」で言えば、最上段の三角形「先見性・創造性」の頂点にある。私の言う「第一の選択肢」とは、この頂点と「事務力」の一つに過ぎない「研究力」とだけに特化した生き方をしている教師の在り方を指す。「第二の選択肢」とは、再下段「モラル・生活力」、第二段の必要とされる「指導力」の現実に鑑みた「研究力」しか発揮せず、最上段の頂点たる「文学」を捨て形式的な「エセ文学教育」(例えば「読解指導」「分析批評」「読者論的読み」と呼ばれるような)に特化した教師を言う。いずれも〈文学〉と〈教育〉との本質的背馳に正対せず、自らの「共同性」(自らが捉える「文学と教育の関係性」を基盤とした世界観)に埋没する教師なのであり、その「共同性」を超えた「公共性」(現段階で自分には見えていない「文学と教育の関係性」の世界観があると想定すること)のベクトルを見据えていない、その志向性さえ抱いていない、そんな教師の在り方である。
■言うまでもなく田中実の主張する「文学教育」は、最上段の三角形の頂点に位置する〈文学〉をさえ超えようとする文学観に支えられている。いまだ見えてない「公共性」を追究する主体をこそ価値付け、そのベクトルを追い求める姿勢にこそ〈文学〉の機能を見る、そうした文学観である。それは文学教育の理論としては機能し得ても、現段階では実践として機能し得ない。せいぜい田中の置かれている大学教育において専門教育に特化した場において少しばかりの機能を示す程度であろう。その意味で、田中の文学観・文学教育観のそのままの具現化を目指す国語教師達を、現実を変える力を持たない姿勢として、或いは田中の文学観に埋没しつつ「第一の選択肢」を選んだ姿勢として捉え、私は「田中実のエピゴーネン」と揶揄したのであった(本誌五五巻八号)。
■しかし、須貝千里の姿勢はこれらとは一線を画す。須貝はいまだ到達し得ない「公共性」のイメージを、論文の冒頭で自らの「夢」として演出して見せた(本誌五四巻八号)。それは例えば、かつて野間宏が『暗い絵』において、冒頭で「ブリューゲルの絵」を描写して時代と世代の心象を開示して見せたのと同一の手法である。もちろんこれが学術論文としてどうかという点には議論もあろう。だが、「公共性」のベクトルを提示し、〈文学〉と〈教育〉の相克に正対する姿勢を堅持する者にとって、問題の本質はそのような些末な論点にはあり得ない。私が須貝を「第三の選択肢」の体現者と評する所以である。
[ 21:31 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
大塚愛
★★★★

1. 金魚花火
2. ココ夏バケーション
3. 金魚花火 (Instrumental)
4. ココ夏バケーション (Instrumental)

2004年。いい曲。大塚愛の曲はこの曲以外に知らない。