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裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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2008/05/13のBlog
一 全国学テ・『蜘蛛の糸』の出題
■全国学テ・中三[国語B]において、芥川龍之介『蜘蛛の糸』全文を題材とした出題がなされた。第一に、題材の内容要約と表現の特質とまとめた批評文を選択肢から選ぶ問題。第二に、第二場面の一部を抽出し、それを接続詞に留意して二つに分け、それぞれの朗読上の工夫について記述した選択肢から、?陀多の心情に従ってふさわしい朗読の仕方を選ぶ問題。第三に、『蜘蛛の糸』に第三場面があることの是非について、八○~一二○字で論述する問題。以上の三題である。正答率はそれぞれ、第一設問が概ね八○%、第二が七○%、第三が七五%である。
■国語科における〈活用力〉について考えるにあたって、本稿では、この『蜘蛛の糸』を題材とした全国学テの第三の設問を用いて検討したい。

二 読み書き関連指導の充実
■この出題は、ある中学生が以前『蜘蛛の糸』を読んだときに、第三場面が省略されていたことを思い出し、第三場面があった方が良いか否かについて会話をしたとして、生徒達に第三の場面の是非を巡る会話のどちらに賛成するか、自分の意見として論述させるという問題である。論述には、次の三つの条件が付されている。 
条件1 書き出しの文に続けて書くこと。
※解答欄には頭括の第一文「私は○○さんの考えに賛成します」が既に記述されている。
条件2 本文中の表現や内容に触れること。
条件3 八十字以上、百二十字いないで書くこと。
※解答用紙に書かれている書き出しの文の字数を含む。
■この設問の正答率が約七五%を占めたということは、何を意味するだろうか。
■まず第一に、おそらくこの設問は、自らの意見に関する理由で紙幅を埋め、その際に少しでも本文中の内容に触れていれば正答としたであろう、ということである。つまり、この設問は次の二つの能力を見ていることになる。
①結論に整合するような理由について、与えられた紙幅を字数指定に従って埋める力
②結論に整合するような理由について、本文中の内容を論拠とする力
■実は、この設問では無答率が約一割強を占めている。つまり、この論述問題に取り組もうとした生徒が九○%しかいなかったということである。この問題に限らず、[国語B]における三問の論述問題のすべてに一割前後の無答率がある。全国の中学生が書くことに対して抵抗をもっていることを表している。この事実は、我が国の国語教育(或いは学校教育)において、「活用力」の育成の前提として、少なくとも一割程度の生徒について「面倒なことにも取り組もうとする意欲・態度」の育成が必須であることを示していると言って良い。具体的には、書くことに対する抵抗感をなくすために、国語科授業(或いは学校教育全体)の中で書く活動を増やしていくことが必要となるだろう。
■また、生徒の九○%が記述したにもかかわらず、正答率が七五%であったということも大きな問題である。おそらく記述したにもかかわらず正答と見なされなかった解答は、本文内容に触れずに記述したことによって条件2を満たさなかったり、字数不足で記述し条件3を満たさなかった層であると考えられる。これが約一五%を占めたということであろう。この事実からは、国語科授業において、本文内容を引用したり本文内容を要約して検討したりという活動がもっともっと要性であるということを示している。条件3を満たさなかった生徒たちにとっても、本文内容の検討に紙幅を費やすことによって、紙幅を満たせる可能性が大きくなるのであり、この層にも同じ問題点が存在していると見て良い。かつての読み書きの関連指導の充実である。具体的には意図や目的に従って、本文内容から情報を取り出すという情報読みが必要となる。

三 「プロット読み」の充実
■第二に、本来、この設問が求めているものは何なのかという問題である。言うまでもなく、『蜘蛛の糸』第三場面は、?陀多の行動の浅ましさに「悲しそうな顔」をするお釈迦様の描写と、「少しもそんなことには頓着」しない「極楽の蓮池の蓮」の描写によって構成されている。『蜘蛛の糸』第三場面の是非には諸説あるが、少なくともこの設問では、本来、お釈迦様の在り方と蓮池の蓮の在り方の双方に触れなければ是非を論じることはできないはずのものである。
■おそらく、『蜘蛛の糸』の小説としての完成度を批評する立場からは、第三場面を不必要とする見解はあり得ない。?陀多が自らの生に「頓着」して結果的に地獄を抜け出せないという物語と、そうした?陀多の浅ましさに「頓着」して「悲しそうな顔」をしてしまうお釈迦様の物語と、どちらにもまったく「頓着」せずに「ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何ともいえない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れております」と描写される蓮池の蓮という三者の関係を提示することにこそ、この第三場面の価値があるはずである。『蜘蛛の糸』を?陀多の物語とすれば第三場面は不要となる。『蜘蛛の糸』を?陀多とお釈迦様の物語としても、第三場面はなくても成立するものとなる。しかし、『蜘蛛の糸』を?陀多とお釈迦様と蓮池の蓮という三者の物語と考えるとき、第三場面は必須のものとなる。このように、あくまで『蜘蛛の糸』全文を相手にしてプロットに鑑みた読みをしない限り、第三場面の是非を論じることはできない。
■国語科授業において「活用力」を育てることを考えるとき、文学的文章・説明的文章を問わず、こうした構造的なプロット読みの充実を図る必要がある。それがなければ、言語表現を評価し批評するという「言語の探究」にはつながっていかない。「活用力」は「探究力」に還元されなくては、生徒達を自己満足に陥らせるだけである。
2008/05/11のBlog
[ 22:32 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
一 文科省の想定学力を把握する
■十月半ば、全国学力・学習状況調査の結果が公表された。「主として知識」を問うたとされる[国語A]が概ね八割、「主として活用」を問うたとされる[国語B]が概ね七割の正答率。まずまずの結果と見て良いのではないか。問題の質が少々簡単すぎるのではないかとの危惧もあるが、現場としては、「文部科学省が国語学力の基準として置いている一線がこのレベルであるという参考資料になる」と、一応はポジティヴに捉えるべきであろう。その上で、問題点を指摘し、今後の改良を図るべきである。

二 国語学力の現状を見据える
■今回の調査結果の問題点を三点挙げたい。
■まず第一に、[国語A][国語B]双方ともに共通して見られる、記述式問題における無解答率の大きさである。記述式問題は[国語A]で一問、[国語B]で三問の計四問が出題されているが、無回答率はこの四問のどれにおいても約一割を占めている(全国公立)。この現実は、我が国の国語科授業が、もう少し広く言えば学校教育が、或いは教育行政までも含めたこの国の教育制度の実態が、「面倒なことには取り組まない」という生徒を一割程度、事実として生み出していることを表している。
■これからの国語科を(或いは教育を)考えるときに、この一割程度の生徒たちにどう対処していくかということが、今後の教育の在り方を考える上での試金石となる。つまりは、一割程度のイレギュラーは仕方がないものとして臨教審以来のエリート教育を進めていくのか、或いはこの一割の存在を国家的な重要課題と位置づけ、「この一割に機能する新学力観的教育」(記述式問題に対する無解答率の高さを考えるとき、そこにはこの一割程度の生徒の「面倒なこと」に対する意欲の醸成が必要となるのであり、それへの対処は低学力生徒に特化した新学力観的発想で行われることになる)を進めていくのか、或いは双方ともに教育機能を発揮できるような選択履修・習熟度別学習等を目に見える形で進めていくのか、という問題に帰着するわけだ。わかりやすく言えば、「落ちこぼれ」と「吹きこぼれ」をそれぞれどうしていくのかという問題である。
■第二に、学校の授業でなければ身につかない学力(例えば[国語A]における「春はあけぼの」の「あけぼの」を埋めさせるといった出題)と、家庭の教育力によって常識として身につく学力(例えば[国語A]における手紙の形式を問う出題)とをどう仕分けしていくかという問題がある。
■札幌市が調査結果を公開しない方針なので、私も立場上、詳しくは言えないのだが、私には、現在担任している生徒たち(三年生・今回の調査対象となっている)に、家庭教育で身につけることのできるタイプの問題について二年次までに教えていないものがあった。しかし、生徒たちのその問題に対する正答率は六割程度を示しており、このことは今回の調査結果が学校教育の成果を示しているとは限らないということを表しているのである。少なくとも、その要素があるということだけは確かであろう。 この調査は、少なくとも国語科において、国語科の授業が、或いは学校教育が、どのように機能しているかということを示しているとは、一概には言えないということである。
■第三に、今回の調査においては、「PISA調査」で言うところの連続型テキストに関する出題のほとんどが選択式を採用している、という問題がある。
■言うまでもなく、現在、全国的に多くの国語科授業は「PISA型読解力」を念頭に置いて行われているわけではない。とすれば、今回の「読むこと」領域の出題とは別の傾向の問題、つまりは従来の国語科授業モデルに即した問題を出題しない限りは、現行の授業の効果は計れないということである。「読解力」の概念を変更しようとする過渡期の調査故に致し方ない部分があると承知の上で、問題点の三つ目としてこのことを指摘しておきたい。

三 国語学力の未来を想定する
■この度の学力調査は、周知のように、全国の小学校六年生・小学校三年生全員を対象としておこなっている。継続的に学力調査を重ね、この国の学力がどうなっているのかというデータを収集し、教育政策をどう施していくべきかの参考にしようとするものである。この志は否定されるべきでない。これまでこうした調査をしていなかったことの方が不思議である。もっと言えば、データもなしに教育政策を施してきたこれまでの行政の姿勢が問われるべきである。更に言えば、全国学力調査が教育の国家統制につながるとしてデータ収集をはばんできた日教組や一部識者の姿勢が問われるべきである。その意味では、この度の学力調査は教育界において歴史的意味をもつ。しかし、この度の調査が七○億円近い予算をかけた価値があるのかと問われれば、それは熟考を要する。
■まず第一に、各設問で問うことのできる学力が、想定されている以上に狭いのではないか、という問題である。
■例えば、[国語B]において、芥川龍之介「蜘蛛の糸」の第三場面の有無について、その適否を八○~一二○字で自分の意見を書くという出題があった。全国の正答率は七割五分。この問題は出題者の意図としては、「書くこと」領域と「読むこと」領域双方の学力をともに「活用すること」を目論んだものであろう。しかし、七割五分という正答率から予測されるのは、「書くこと」領域の指導事項に従って、形式が整っていれば(賛成か反対かの結論を述べているとか、結論と根拠が照合しているとか、主述の乱れがないといった)正答としたであろう、ということである。つまり、この問題はおそらく、「蜘蛛の糸」の第三場面の価値が読めていなくても正答することができる問題なのである。私はこの問題は、「書くこと」と「読むこと」の二領域の活用問題ではなく、あくまでも形式に則って叙述する力を見る、「書くこと」領域のみの問題でしかないと思う。
■私はここで、「蜘蛛の糸」の第三場面を読む力が生徒たちに必要であるとか、「読むこと」領域をもっと重視すべきであるとか、ましてやかつての文学教育を復活させるべきであるとかといった、国語教育に対する個人的な意見を主張したいのではない。そうではなく、この問題が、「蜘蛛の糸」を読むこととはまったく関係なく、ある種の形式に則って叙述する力、つまりは国語科の授業で「構成指導」が施されているか、文法的に正しい文を書く能力がどの程度の子どもたちに身についているか、そうした正しい文を連ねて八○~一二○字程度にまとめられる子どもたちがどの程度いるのか、こうした点しか明らかにしないのだ、ということを指摘したいのである。
■第二に、統計的には不必要な、全員に同じ問題を解かせるということをしたがために、今後、役立つような統計結果が得られていない可能性があるという問題である。
■例えば、ないものねだりであるが、もしも一九七○年代にこの調査を実施していたとしたらどうだったろうか。おそらくは同じ中学三年生でも、形式的な文章を書ける者は現在よりも少なかったかも知れないが、「蜘蛛の糸」の第三場面の価値を読み取り、その価値に言及する生徒が現在よりも多かったであろうことが予想される。それは同時に、今回と同じ基準で採点すれば、その正答率は七○年代当時よりも現在の方が高いということを意味しているはずなのだ。当時の国語科授業においては、言語技術的な作文指導はほとんど行われていなかったからである。しかし反面、おそらく「蜘蛛の糸」を題材とした文学教育は現在よりも多く、或いは一般的にと言ってさえいいほどに行われていたはずである。
■さて、こうした時に、七○年代当時の生徒たちと現在の生徒たちとのどちらがより高い国語学力をもっているかという問題は、「国語学力」をどう定義するかにかかっているのである。そして私がここで強調したいのは、教育界において「国語学力」の定義が、或いはもっと広く「学力」の定義がと言ってもいいのだが、時代の流行によって変化するものであるという事実なのである。この度の全国学力・学習状況調査は、この点に考えが及んでいない。あり得ないことではあるが、例えば、二○三○年代に「国語学力の中核は文学作品の価値を読み取ることだ」という国語学力観が流行したとしよう。そのとき、中学三年生の「文学作品の価値を読み取る力」の変遷を調べようとしても、今回の調査は意味をなさない。こういうことがあり得るのである。
■私は、この度の調査が、全員に同じ問題をやらせるのではなく、様々な学力観に基づいた様々な問題を組み合わせて、統計的に優位になるように地域ごとに分担し、様々な学力観に基づく「国語学力」のデータを収集すべきであったと思う。全員に同じ問題に取り組ませるということは、全員が限られた同じだけの時間で限られた同じ問題だけを解くことを意味する。それだけ問題の質を狭め、一面的な調査にならざるを得ないのである。次回調査においては、「百年後にも使えるデータ」を合い言葉に、もっと真剣に調査問題づくりに取り組むべきである。そうでなければ、国語科教育の未来も、学校教育の未来も、延ては教育行政の未来も、暗いと言わざるを得ない。
[ 22:31 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
井上堯之バンド
★★★★★

1. 組曲「太陽にほえろ!」~プロローグ「サンライズ」/陽だまりの会話/湖の見える風景/逃走と追跡/黄昏の讃歌~エピローグ
2. 「太陽にほえろ!」序曲
3. 愛のテーマ
4. スコッチ刑事のテーマ
5. あの日のコーヒー・ショップで
6. 太陽のレクイエム
7. 華麗なる情熱
8. つかの間の休息

名盤。小学校時代から大好きなアルバム。小学校5~6年の頃は、毎日、布団に入ってからこのアルバムで眠りに就いていた。最近、アマゾンの中古CDで手に入れた。高かった。井上堯之バンドとしては初のアルバムらしい。
[ 17:30 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
監督:デビッド・J・バーク/2007
出演:モーガン・フリーマン/ケビン・スペイシー
★★

深みのない映画……という印象。俳優陣はかなりのものなのだが、監督がだめなのかなぁ…。ちょっとお勧めにはほど遠いという感じ。