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裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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2008/05/18のBlog
土井隆義/ちくま新書
2008.03.
★★★★★

『いじめの構造』(森口朗/新潮新書)も良かったが、これはその上を行く。やっとこういう論調がマスコミの教育論を席巻し始めたな、という感じ。少しずつ、現場が感じている現実論に近づいてきているのを感じる。土井隆義といえば、名著『〈非行少年〉の消滅』を読んで以来、注目していた社会学者だったが、その論理が万人が触れやすい新書の形で世に出たことは大きい。教師、中3以上の生徒、その保護者には必読の書。たぶんもやもやしていたことのすべてにが構造的に理解されるだろう。そしてこういう心象を形成してきたのが「新人類世代」以降の我々の世代であるということも。これを読んで「なるほど…」と思ったら、下の書もお勧め。
※『〈非行少年〉の消滅-個性神話と少年犯罪-』
(信山社/2003年12月/3500円)



2008/05/17のBlog
[ 17:31 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■私は中学校の国語教師である。
■このことは、私の妻も、両親も、同僚もサークル仲間も、そして本誌の読者も、誰もが疑問を抱かない私の特徴である。誰もが納得する。そう、堀裕嗣は「中学校の国語教師である」と。
■しかし、堀は「力のある実践家である」となると評価が分かれる。
私のサークル仲間や本誌の読者ならそれほどの疑問を抱かないかもしれない。だが、同僚は、そういえば先日の飲み会で新卒の女の子に日本酒を飲ませてつぶしていたなとか、そういえば前に仕事を忘れた旅行業者さんを怒鳴りつけていたなとか、いつも空き時間に職員室で馬鹿話をしていて、ほとんど仕事をしているのを見たことがないなとか、一応バドミントン部の顧問だが、部活の時間にはいつも自分がバドミントンをして遊んでいて、指導をしているのを見たことがないなとか、そんな私の日常と「力のある実践家」という言葉との間にある齟齬を的確に指摘するはずである。
■堀は太っている。堀は髭を蓄えている。堀は煙草を一日に二箱も吸う。堀はコーヒーを一日に十五杯も飲む。堀は辛口の日本酒が好きである。堀はロッテと中日を贔屓にしている。堀は岩崎宏美と太田裕美と渡辺真知子のファンである。堀はカラオケに行くと、世良公則ばかり歌う。堀はドラムを叩ける。堀は職体野球では一塁手で四番バッターである。堀は片付けが苦手である。堀は数学が苦手である。堀は蜘蛛が嫌いである。堀は……もういいだろう。
■私という人間は、こういった種種の特徴の総合として存在している。いや、私が種々の特徴の総合体として存在しているのではなく、私という曖昧模糊とした存在がいて、その存在が種々の特徴を備えているのである。こう考えてくると、例えば、「堀は中学校の国語教師である」という場合、確かに誰もがそのテーゼに納得はするのだが、そのテーゼには堀のその他の特徴が一切加味されていないということに気がつくはずだ。堀は確かに誰から見ても「中学校の国語教師」なのだが、堀は「中学校の国語教師」としてのみ存在しているわけではない。
■「アブストラクト」(abstract)という英単語がある。かつて、大学入試の長文問題でよく目にしたはずなので、記憶に残っている読者も多いことと思う。「抽象」と訳されることが多い。
■ところが、頻度は低いのだが、この単語が「捨象」と訳されることがあった。「抽象」とは抽出することであり、その意味は簡単に言えば〈拾うこと〉である。「捨象」とは読んで字のごとく〈捨てること〉である。なぜ、こんな正反対の意味が同じ単語の意味として成立するのだろうか。高校時代、受験勉強をしていたときに、このことに素朴な疑問を感じた読者も多いのではないだろうか。
■しかし、いま考えると、この原理は実に簡単である。種々の特徴をもつ堀裕嗣という存在から「中学校の国語教師」という特徴を〈抽象〉する。すると、同時に、堀という人間のもつ太っていることや髭を蓄えていることを初めとして、コーヒーや煙草や酒、だらしなさ、芸能人やスポーツに対する嗜好といった特徴が、すべて〈捨象〉されるのである。つまり、堀という人間を「職業的な特徴」によって〈抽象〉したことによって、「身体的特徴」や「性格的特徴」が〈捨象〉されるわけである。実は、ある「もの・こと」を〈抽象〉的に捉えるということは、そのある「もの・こと」における他の属性を〈捨象〉することを意味する。〈抽象〉と〈捨象〉は表裏一体、実は、同時にしか現象し得ない、同じことなのである。これが「アブストラクト」だったのだ。
■しかし、問題は、一般に、ある「もの・こと」を〈抽象〉として捉えたときに、それと同時に〈捨象〉してしまっているものに、私たちが気づいていないということである。このことが様々な場面でおかしなことを引き起こしている。人間を「独善」に陥らせている。
■例えば、自分の学級において、もっとも「いい子」と思われる子どもを思い浮かべてみるといい。明るくて、素直で、友達にも優しく、人のいやがる仕事でも率先して引き受ける。先生の言うことを一生懸命に聞いて、勉強にも熱心に取り組む。そんな子がどの学級にも一人か二人いるはずだ。そしてその子の担任であるあなたは、その子を「いい子」と捉えている。しかし、その子をよく観察してみると、その子の家庭の生活レベルは高く、貧しい家の子の前で何の悪気もなく昨夜の外食の様子を話し、貧しい家の子を傷つけていることはないか。正義感が強く、他の子のちょっとした言葉遣いに軽蔑の目を向けていることはないか。図工や美術の時間に作業の遅い子を手伝ってしまって、本人の成長を阻害してしまっているなどということはないか。実はその子が学級に与えている悪影響は、無視できないほど大きいのではないか。担任としては、良い影響ばかりが目に入って、散在する悪影響を見落としてしまってはいないか。
■例えば、学級の子ども達の保護者の中で、もっとも「口うるさい保護者」を思い浮かべてみるといい。学級懇談会では、みんなの前で担任の小さな落ち度を指摘する。何かにつけて要求ばかりする。他の保護者からも、どうやら避けられているようだ。期末懇談でその保護者と会わねばならない日は、なんとなく朝から憂鬱である。そしてその保護者の子どもの担任であるあなたは、その保護者を「口うるさい保護者」と捉えている。しかし、よく考えてみると、手紙や懇談で知らされた学級の問題点は、自分では気がつかなかったものである。確かにその保護者はクレームをつけてきたが、その子が家でそんなふうに学級のことを言っているなどとは、まったく想定すらしていなかった。自分を信用してくれ、うまく人間関係を築けている保護者が他に何人もいるのだが、実はその保護者たちは「口うるさい保護者」に先生がいじめられていて可哀想だと思って、自分を気遣ってくれている。つまり、同情がその保護者達の目を曇らせ、必要以上にあなたに対して共感的(同情的)な視線を向けさせている。そんなことはないだろうか。
■例えば、あなたが最も頻繁に使う授業技術を思い浮かべてみるといい。本で読んで学んだ、セミナーで直接に講師から教えを受けて学んだ、その授業技術を導入してから、なんとなく授業が流れるようになった。本誌の読者なら、そんな授業技術を一つや二つはもっているだろう。そしてあなたは、その授業技術を「優れた授業技術」と捉えている。しかし、よく考えてみると、教材との関わりでその授業技術を使うことがふさわしくないという場面はないか。ごんが兵十に撃たれて悲劇的な結末を迎える授業なのに、「さあ、音読します。全員起立!」とやることは、その授業にとって本当に効果的なのか。「よし、じゃあ、その理由を『~から』の形で一文でノートに書きなさい」と指示したとき、理由を二つ考えていて、どっちを書こうか困ってしまっている子どもがいる可能性に配慮しているか。その授業技術を提案している先達本人がもしもあなたの授業を見たら、あなたのことを「授業技術に使われている」と評価してしまうような要素を、あなたの授業はもってはいないか。
■あなたが日常的に「良い教育」として意識的に実践していることが、あなたに他の可能性を〈捨象〉させてはいないだろうか。学級の子どもに「いい子」「明るい子」「素直な子」「元気な子」というラベルを貼っていることによって、かえってその子のネガティヴな部分を〈捨象〉してしまってはいないか。
■自分が世界を「アブストラクト」して認識していることを意識するだけで、いろいろなことが見えてくる。大袈裟に言うなら、「世界」が変わるほどの大転換が起こる。
2008/05/14のBlog
[ 22:26 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■今日、PTAの学年委員会があった。4学級の役員さん12人が集まっての会議である。まあ、学年主任の仕事の一つだ。さて、今日は、7月に行われる学年PTA懇親会の企画を立てた。この中で、少々考えさせられることがあった。
■学年PTA懇親会の企画が出来上がり、文書の配付日程、回収日程等の確認に入ったときのことである。僕は当然のように、そんな文書は自分でつくって配付し、回収も学校でするつもりだった。徴収する参加費も学校側で集計するつもりだった。ところが、である。PTAの役員さん達の話を聞いていると、そういう体制を組む教師はほとんどいないらしいのである。「小学校ってそうなんですか?」と僕が驚いているうちに、ある役員さんが「いえいえ、中学校だって、そんなことをやってくれるのは堀先生の学年だけですよ」というではないか。他の役員さんからは、文書を何度も書き直しさせられて、頭に来たことが何度もある、という声。うなずく役員さん達。しまいには、「学年委員会に先生がいることなんてまずありえなくて、決まったことを事後報告で先生に伝えるものだと思っていた」とさえ言うのである。僕は驚きを隠せなかった。そして正直、「しまった!」と思った。自分が当然のことと思ってやってきた自分のやり方は、実は特殊だったのだ、と……。
■「しまった!」と思ったのは、こういうことである。三つの学年、三つの専門部の中で、文書を教師がつくることを慣例としているのが僕だけだとすれば、それが他の教師達の耳に入り、他の教師達が「なんだ?堀だけいい顔して、不必要なサービスしやがって……」と思っている可能性がある。さすがに僕に直接言う者がいなかっただけで、そう思っている可能性は充分にある。正直に言えば、僕が逆の立場ならそう思うだろう。こりゃ失敗である。大失敗である。3年前に転勤してきたとき、他の部がどうしているのかを調べてから運営するべきだった。調べさえすれば、僕は部によって対応が異なるのはまずいと思ったはずだ。僕はそういう思考回路の持ち主である。僕がみんなに合わせるか、みんなにも「そのくらい教師がやりましょうよ」と投げかけるか、どちらかの対応を取ったはずである。現状では、保護者から見れば、堀学年の役員だけが楽だという話になってしまう。そして事実、そうなっているらしい。これでは学校の一貫性を保てない。これはまずい。
■しかし、正直に言えば、僕は教師なら誰でも、文書くらいはつくってあげるものだと思っていた。今日の午後5時半頃まで、まったくそう思い込んでいた。だから、それを不満に思った同僚がいたとしたら、それは勘弁して欲しい。ただ、僕の考えはこうだ。PTAの役員なんて、お母さん方からすれば、完全なるボランティアである。時間と労力だけをとられて、一文にもならない。仕事を早引けしたり、仕事が終わると同時に駆けつけたり、けっこう大変なはずである。最近は共働きが多い。かつての専業主婦ばかりの時代とはわけが違う。PTA役員さん達の仕事はできるだけ軽くしてあげるべきだ。そもそも誰もやりたくないことを、人のいいお母さん方が仕方なく引き受けている……それがPTA役員の現実の最大公約数であるはずだ(少々、語弊はあるが)。しかも、配付文書をつくることは、我々教師は得意中の得意としているのである。毎日つくっているとまでは言わないまでも、週に2枚くらいはつくっているはずだ。行政文書の様式も、常用漢字の使い方も、我々は頭に入っている。そもそも一度つくってしまえば、昨年の文書をちょこちょこっと手直しするだけではないか。正直に言えば、僕は今回のPTA懇親会案内程度なら、PCに向かう時間はせいぜい5分だと思う。教頭に渡して、授業に行っている間に管理職点検を受け、点検で訂正が入れば直すのに1~2分。あとは印刷に5分、学級棚に入れて、全教員のラックに入れるのに2分といったところか。こんな作業くらいやってあげればいいではないか。何の苦にもならない。だいたい役員さん達にとって、学校名で発行する行政文書の様式など、覚える必要も身につける必要もないものなのだ。日常生活を常用漢字だけを使って送る必要などもあるわけがないではないか。これは公務員のローカルルールに過ぎないのである。つまり、このPTAの文書をつくることは、お母さん方の人生にとっては何の益もないということだ。ただ、時間と労力を浪費するだけなのである。そんなことを喜んでする人がどこにいるのか。我々だって、必要感を感じられない仕事に対して、点検に点検を重ねられたら腹が立つではないか。僕には正直、そんなことを役員さん達にやらせてしまう、教員の想像力の欠如は犯罪的でさえあると思う。例えば子どもになら、わざと苦労をさせて成長させようということもあるだろう。職場の若手に対してそういう意図をもつこともあるだろう。しかしそれは、彼等の将来にとって、その経験が「必要がある」ことだからである。それが彼等の成長につながると教師が、上司が信じているからである。しかし、PTAの役員さん達は、行政文書のつくり方や常用漢字の使い方に習熟する必要などまったくないのである。PTA役員として成長を促されるいわれもない。そもそもPTA役員には、昨年のものを手直しすればいいだけ、という〈仕事の連続性〉もない。多くの場合、去年の役員さんと今年の役員さんはメンツが異なるのである。結局、ものすごく無駄なことをさせているということなのだ。役員さん達が愚痴るのも心情的に理解できる。
■あまり自慢できることではないのかもしれないが、僕のモットーは、最小限の努力で最大限の効果を出すということについて、真剣に考え続けることである。それを考えながら仕事をし続けることである。この基準から言って、こういう仕事は母さん方にやらせればやらせるほど、効率が悪くなる。まずもって間違いない。教師がやりゃいいんだよ、この程度のことは。教師がやれば、みんな気持ちよく仕事ができるんだから。事実、弁当の手配とか、飲み物の手配とか、それもできるだけ安くそれらを調達するにはどうすればいいかなんていう、僕ら教師が不得手としているような事柄については、今日の役員さん達は、僕には考えつかないような様々なアイディアを出しながらてきぱきと決めていった。それぞれの立場で、得意なこととそうでないこととがあるのだから、それぞれが得意なことをやり合った方がいいに決まってるんだよ。その方が効率的に決まってるんだよ。そしてそういうときにこそ、実は創造的なものが生まれたりさえするんだよ。世の中ってそういうもんだ。
■読者の皆さん、特に教師の皆さんで、僕の考え方が間違っているというご指摘があったら、教えて下さい。僕はPTAにおべっか使っているのではない。特別、人がいいわけでもない。本気でこう思っているのです。この方が、効率的で合理的だと思っているのです。僕の考え方はなんかまずいのでしょうか。
[ 22:25 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
岩崎宏美
★★★

1. 恋におちて
2. さらば恋人
3. 時代
4. あなたの心に (ALBUM Ver.)
5. 恋しくて
6. ブルー
7. 夢 (New Vo.&MIX Ver.)
8. 止まった時計 (ALBUM Ver.)
9. 誰もいない海
10. コバルトの季節の中で
11. 君と歩いた青春
12. 見上げてごらん夜の星を

2003年。ファンじゃない人たちがこのアルバムをどう思うのかは、正直、まったくわからない。ファン以外の人が買うほど売れていないアルバムだから、それは仕方ない。でも、古くからのファンにとっては、これほど安らげるアルバムはそうそうない。岩崎宏美の良さが凝縮している、そんな感じのアルバム。ちなみに、「Dear Friends」というリバイバルアルバムはシリーズ化されていて、既にⅢまでリリースされている。
2008/05/13のBlog
一 全国学テ・『蜘蛛の糸』の出題
■全国学テ・中三[国語B]において、芥川龍之介『蜘蛛の糸』全文を題材とした出題がなされた。第一に、題材の内容要約と表現の特質とまとめた批評文を選択肢から選ぶ問題。第二に、第二場面の一部を抽出し、それを接続詞に留意して二つに分け、それぞれの朗読上の工夫について記述した選択肢から、?陀多の心情に従ってふさわしい朗読の仕方を選ぶ問題。第三に、『蜘蛛の糸』に第三場面があることの是非について、八○~一二○字で論述する問題。以上の三題である。正答率はそれぞれ、第一設問が概ね八○%、第二が七○%、第三が七五%である。
■国語科における〈活用力〉について考えるにあたって、本稿では、この『蜘蛛の糸』を題材とした全国学テの第三の設問を用いて検討したい。

二 読み書き関連指導の充実
■この出題は、ある中学生が以前『蜘蛛の糸』を読んだときに、第三場面が省略されていたことを思い出し、第三場面があった方が良いか否かについて会話をしたとして、生徒達に第三の場面の是非を巡る会話のどちらに賛成するか、自分の意見として論述させるという問題である。論述には、次の三つの条件が付されている。 
条件1 書き出しの文に続けて書くこと。
※解答欄には頭括の第一文「私は○○さんの考えに賛成します」が既に記述されている。
条件2 本文中の表現や内容に触れること。
条件3 八十字以上、百二十字いないで書くこと。
※解答用紙に書かれている書き出しの文の字数を含む。
■この設問の正答率が約七五%を占めたということは、何を意味するだろうか。
■まず第一に、おそらくこの設問は、自らの意見に関する理由で紙幅を埋め、その際に少しでも本文中の内容に触れていれば正答としたであろう、ということである。つまり、この設問は次の二つの能力を見ていることになる。
①結論に整合するような理由について、与えられた紙幅を字数指定に従って埋める力
②結論に整合するような理由について、本文中の内容を論拠とする力
■実は、この設問では無答率が約一割強を占めている。つまり、この論述問題に取り組もうとした生徒が九○%しかいなかったということである。この問題に限らず、[国語B]における三問の論述問題のすべてに一割前後の無答率がある。全国の中学生が書くことに対して抵抗をもっていることを表している。この事実は、我が国の国語教育(或いは学校教育)において、「活用力」の育成の前提として、少なくとも一割程度の生徒について「面倒なことにも取り組もうとする意欲・態度」の育成が必須であることを示していると言って良い。具体的には、書くことに対する抵抗感をなくすために、国語科授業(或いは学校教育全体)の中で書く活動を増やしていくことが必要となるだろう。
■また、生徒の九○%が記述したにもかかわらず、正答率が七五%であったということも大きな問題である。おそらく記述したにもかかわらず正答と見なされなかった解答は、本文内容に触れずに記述したことによって条件2を満たさなかったり、字数不足で記述し条件3を満たさなかった層であると考えられる。これが約一五%を占めたということであろう。この事実からは、国語科授業において、本文内容を引用したり本文内容を要約して検討したりという活動がもっともっと要性であるということを示している。条件3を満たさなかった生徒たちにとっても、本文内容の検討に紙幅を費やすことによって、紙幅を満たせる可能性が大きくなるのであり、この層にも同じ問題点が存在していると見て良い。かつての読み書きの関連指導の充実である。具体的には意図や目的に従って、本文内容から情報を取り出すという情報読みが必要となる。

三 「プロット読み」の充実
■第二に、本来、この設問が求めているものは何なのかという問題である。言うまでもなく、『蜘蛛の糸』第三場面は、?陀多の行動の浅ましさに「悲しそうな顔」をするお釈迦様の描写と、「少しもそんなことには頓着」しない「極楽の蓮池の蓮」の描写によって構成されている。『蜘蛛の糸』第三場面の是非には諸説あるが、少なくともこの設問では、本来、お釈迦様の在り方と蓮池の蓮の在り方の双方に触れなければ是非を論じることはできないはずのものである。
■おそらく、『蜘蛛の糸』の小説としての完成度を批評する立場からは、第三場面を不必要とする見解はあり得ない。?陀多が自らの生に「頓着」して結果的に地獄を抜け出せないという物語と、そうした?陀多の浅ましさに「頓着」して「悲しそうな顔」をしてしまうお釈迦様の物語と、どちらにもまったく「頓着」せずに「ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何ともいえない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れております」と描写される蓮池の蓮という三者の関係を提示することにこそ、この第三場面の価値があるはずである。『蜘蛛の糸』を?陀多の物語とすれば第三場面は不要となる。『蜘蛛の糸』を?陀多とお釈迦様の物語としても、第三場面はなくても成立するものとなる。しかし、『蜘蛛の糸』を?陀多とお釈迦様と蓮池の蓮という三者の物語と考えるとき、第三場面は必須のものとなる。このように、あくまで『蜘蛛の糸』全文を相手にしてプロットに鑑みた読みをしない限り、第三場面の是非を論じることはできない。
■国語科授業において「活用力」を育てることを考えるとき、文学的文章・説明的文章を問わず、こうした構造的なプロット読みの充実を図る必要がある。それがなければ、言語表現を評価し批評するという「言語の探究」にはつながっていかない。「活用力」は「探究力」に還元されなくては、生徒達を自己満足に陥らせるだけである。
2008/05/11のBlog
[ 22:32 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
一 文科省の想定学力を把握する
■十月半ば、全国学力・学習状況調査の結果が公表された。「主として知識」を問うたとされる[国語A]が概ね八割、「主として活用」を問うたとされる[国語B]が概ね七割の正答率。まずまずの結果と見て良いのではないか。問題の質が少々簡単すぎるのではないかとの危惧もあるが、現場としては、「文部科学省が国語学力の基準として置いている一線がこのレベルであるという参考資料になる」と、一応はポジティヴに捉えるべきであろう。その上で、問題点を指摘し、今後の改良を図るべきである。

二 国語学力の現状を見据える
■今回の調査結果の問題点を三点挙げたい。
■まず第一に、[国語A][国語B]双方ともに共通して見られる、記述式問題における無解答率の大きさである。記述式問題は[国語A]で一問、[国語B]で三問の計四問が出題されているが、無回答率はこの四問のどれにおいても約一割を占めている(全国公立)。この現実は、我が国の国語科授業が、もう少し広く言えば学校教育が、或いは教育行政までも含めたこの国の教育制度の実態が、「面倒なことには取り組まない」という生徒を一割程度、事実として生み出していることを表している。
■これからの国語科を(或いは教育を)考えるときに、この一割程度の生徒たちにどう対処していくかということが、今後の教育の在り方を考える上での試金石となる。つまりは、一割程度のイレギュラーは仕方がないものとして臨教審以来のエリート教育を進めていくのか、或いはこの一割の存在を国家的な重要課題と位置づけ、「この一割に機能する新学力観的教育」(記述式問題に対する無解答率の高さを考えるとき、そこにはこの一割程度の生徒の「面倒なこと」に対する意欲の醸成が必要となるのであり、それへの対処は低学力生徒に特化した新学力観的発想で行われることになる)を進めていくのか、或いは双方ともに教育機能を発揮できるような選択履修・習熟度別学習等を目に見える形で進めていくのか、という問題に帰着するわけだ。わかりやすく言えば、「落ちこぼれ」と「吹きこぼれ」をそれぞれどうしていくのかという問題である。
■第二に、学校の授業でなければ身につかない学力(例えば[国語A]における「春はあけぼの」の「あけぼの」を埋めさせるといった出題)と、家庭の教育力によって常識として身につく学力(例えば[国語A]における手紙の形式を問う出題)とをどう仕分けしていくかという問題がある。
■札幌市が調査結果を公開しない方針なので、私も立場上、詳しくは言えないのだが、私には、現在担任している生徒たち(三年生・今回の調査対象となっている)に、家庭教育で身につけることのできるタイプの問題について二年次までに教えていないものがあった。しかし、生徒たちのその問題に対する正答率は六割程度を示しており、このことは今回の調査結果が学校教育の成果を示しているとは限らないということを表しているのである。少なくとも、その要素があるということだけは確かであろう。 この調査は、少なくとも国語科において、国語科の授業が、或いは学校教育が、どのように機能しているかということを示しているとは、一概には言えないということである。
■第三に、今回の調査においては、「PISA調査」で言うところの連続型テキストに関する出題のほとんどが選択式を採用している、という問題がある。
■言うまでもなく、現在、全国的に多くの国語科授業は「PISA型読解力」を念頭に置いて行われているわけではない。とすれば、今回の「読むこと」領域の出題とは別の傾向の問題、つまりは従来の国語科授業モデルに即した問題を出題しない限りは、現行の授業の効果は計れないということである。「読解力」の概念を変更しようとする過渡期の調査故に致し方ない部分があると承知の上で、問題点の三つ目としてこのことを指摘しておきたい。

三 国語学力の未来を想定する
■この度の学力調査は、周知のように、全国の小学校六年生・小学校三年生全員を対象としておこなっている。継続的に学力調査を重ね、この国の学力がどうなっているのかというデータを収集し、教育政策をどう施していくべきかの参考にしようとするものである。この志は否定されるべきでない。これまでこうした調査をしていなかったことの方が不思議である。もっと言えば、データもなしに教育政策を施してきたこれまでの行政の姿勢が問われるべきである。更に言えば、全国学力調査が教育の国家統制につながるとしてデータ収集をはばんできた日教組や一部識者の姿勢が問われるべきである。その意味では、この度の学力調査は教育界において歴史的意味をもつ。しかし、この度の調査が七○億円近い予算をかけた価値があるのかと問われれば、それは熟考を要する。
■まず第一に、各設問で問うことのできる学力が、想定されている以上に狭いのではないか、という問題である。
■例えば、[国語B]において、芥川龍之介「蜘蛛の糸」の第三場面の有無について、その適否を八○~一二○字で自分の意見を書くという出題があった。全国の正答率は七割五分。この問題は出題者の意図としては、「書くこと」領域と「読むこと」領域双方の学力をともに「活用すること」を目論んだものであろう。しかし、七割五分という正答率から予測されるのは、「書くこと」領域の指導事項に従って、形式が整っていれば(賛成か反対かの結論を述べているとか、結論と根拠が照合しているとか、主述の乱れがないといった)正答としたであろう、ということである。つまり、この問題はおそらく、「蜘蛛の糸」の第三場面の価値が読めていなくても正答することができる問題なのである。私はこの問題は、「書くこと」と「読むこと」の二領域の活用問題ではなく、あくまでも形式に則って叙述する力を見る、「書くこと」領域のみの問題でしかないと思う。
■私はここで、「蜘蛛の糸」の第三場面を読む力が生徒たちに必要であるとか、「読むこと」領域をもっと重視すべきであるとか、ましてやかつての文学教育を復活させるべきであるとかといった、国語教育に対する個人的な意見を主張したいのではない。そうではなく、この問題が、「蜘蛛の糸」を読むこととはまったく関係なく、ある種の形式に則って叙述する力、つまりは国語科の授業で「構成指導」が施されているか、文法的に正しい文を書く能力がどの程度の子どもたちに身についているか、そうした正しい文を連ねて八○~一二○字程度にまとめられる子どもたちがどの程度いるのか、こうした点しか明らかにしないのだ、ということを指摘したいのである。
■第二に、統計的には不必要な、全員に同じ問題を解かせるということをしたがために、今後、役立つような統計結果が得られていない可能性があるという問題である。
■例えば、ないものねだりであるが、もしも一九七○年代にこの調査を実施していたとしたらどうだったろうか。おそらくは同じ中学三年生でも、形式的な文章を書ける者は現在よりも少なかったかも知れないが、「蜘蛛の糸」の第三場面の価値を読み取り、その価値に言及する生徒が現在よりも多かったであろうことが予想される。それは同時に、今回と同じ基準で採点すれば、その正答率は七○年代当時よりも現在の方が高いということを意味しているはずなのだ。当時の国語科授業においては、言語技術的な作文指導はほとんど行われていなかったからである。しかし反面、おそらく「蜘蛛の糸」を題材とした文学教育は現在よりも多く、或いは一般的にと言ってさえいいほどに行われていたはずである。
■さて、こうした時に、七○年代当時の生徒たちと現在の生徒たちとのどちらがより高い国語学力をもっているかという問題は、「国語学力」をどう定義するかにかかっているのである。そして私がここで強調したいのは、教育界において「国語学力」の定義が、或いはもっと広く「学力」の定義がと言ってもいいのだが、時代の流行によって変化するものであるという事実なのである。この度の全国学力・学習状況調査は、この点に考えが及んでいない。あり得ないことではあるが、例えば、二○三○年代に「国語学力の中核は文学作品の価値を読み取ることだ」という国語学力観が流行したとしよう。そのとき、中学三年生の「文学作品の価値を読み取る力」の変遷を調べようとしても、今回の調査は意味をなさない。こういうことがあり得るのである。
■私は、この度の調査が、全員に同じ問題をやらせるのではなく、様々な学力観に基づいた様々な問題を組み合わせて、統計的に優位になるように地域ごとに分担し、様々な学力観に基づく「国語学力」のデータを収集すべきであったと思う。全員に同じ問題に取り組ませるということは、全員が限られた同じだけの時間で限られた同じ問題だけを解くことを意味する。それだけ問題の質を狭め、一面的な調査にならざるを得ないのである。次回調査においては、「百年後にも使えるデータ」を合い言葉に、もっと真剣に調査問題づくりに取り組むべきである。そうでなければ、国語科教育の未来も、学校教育の未来も、延ては教育行政の未来も、暗いと言わざるを得ない。
[ 22:31 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
井上堯之バンド
★★★★★

1. 組曲「太陽にほえろ!」~プロローグ「サンライズ」/陽だまりの会話/湖の見える風景/逃走と追跡/黄昏の讃歌~エピローグ
2. 「太陽にほえろ!」序曲
3. 愛のテーマ
4. スコッチ刑事のテーマ
5. あの日のコーヒー・ショップで
6. 太陽のレクイエム
7. 華麗なる情熱
8. つかの間の休息

名盤。小学校時代から大好きなアルバム。小学校5~6年の頃は、毎日、布団に入ってからこのアルバムで眠りに就いていた。最近、アマゾンの中古CDで手に入れた。高かった。井上堯之バンドとしては初のアルバムらしい。
[ 17:30 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
監督:デビッド・J・バーク/2007
出演:モーガン・フリーマン/ケビン・スペイシー
★★

深みのない映画……という印象。俳優陣はかなりのものなのだが、監督がだめなのかなぁ…。ちょっとお勧めにはほど遠いという感じ。


[ 17:18 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
監督:クリストファー・ノーラン
2006
出演:ヒュー・ジャックマン/クリスチャン・ベール/スカーレット・ヨハンソン/デビッド・ボウイ
★★★

なんとも微妙な映画だった。志の高さはわかるし、カメラワークも色遣いもすごい。雰囲気的には好きなタイプの映画。でも、結末がなんとも……微妙なのだ。デビッド・ボウイは妙に懐かしかった。
[ 11:38 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
steely dan
★★★★

1. The Last Mall
2. Things I Miss The Most
3. Blues Beach
4. Godwhacker
5. Slang Of Ages
6. Green Book
7. Pixeleen
8. Lunch With Gina
9. Everything Must Go

2003年。20年振りの前作から3年でリリースされた新作に、ファンは驚かされた。21世紀はsteely danをたくさん聴けるのかも知れない。ちょっとライヴ感覚があって、昔のsteely danとは異なるけれど、心地よいアルバム。夜のドライヴなんかには最適だと思う。でも、ガソリンが高いからねえ……(笑)。