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裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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2008/05/18のBlog
[ 15:08 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■一昨日、5月の定例の職員会議があった。ここに僕が問題視するタイプの提案がなされた。新任者が、前任者が一人でやっていた事務仕事を全体でやろうと提案したのである。しかも、詳しくは書けないが、その事務仕事をみんなでやることによって、生徒の実態がみんなで共有できるとの理屈をつけてである。私はこれに反対し、この提案をつぶした。この新任者には、学校の実態を把握して全体のためになる提案を、という意識がないと判断したからである。私が反対した理由は以下のようなことだ。
■まず、職員室の構造について。この新任者の提案は、生徒に関するデータを共有し、今後の指導に活かしていこうとする点では、正論である。しかしその正論は非常に狭い、相対的なカテゴリーの中での正論である。つまりこういうことだ。教師Aが自分の専門領域に従って、ある〈世界観〉をもっている。こうすればいい、ああすればいいとの思いをその〈世界観〉を基準にもっている。こうすればもっとこの職場はよくなるのではないか、そうすれば、自分の専門領域であるあるカテゴリーはもっと機能するようになるのではないか、こういう思いである。しかし、教師Aはそうした「あるカテゴリーに基づく〈世界観〉」は、20人の教師が20通りにもっているということに気がついていない。そしてすべての専門領域をもつ教師20人が、すべての専門領域に基づく〈世界観〉に従って正論を展開すると、職員室の仕事量がとてつもない量になってしまう、という構造に気がついていない。職員会議とは、様々なカテゴリーの〈世界観〉に基づいた正論同士の〈バランス調整の場〉なのである。しかも、現時点での生徒の実態、職員の能力の実態、今年度中に実現することを行政に求められている課題、学校長から示された今年度の学校経営の重点、これらに基づいて、いま職員室を崩壊させずに一歩、二歩、現実を進められる方法は何か、それを決めるのが職員会議なのである。従って、職員室の構成員は、自分の専門領域の正論を振りかざして提案してはいけない。正論がどうしても重要だというのなら、その正論が実現するとこういうメリットがありますよという具体的な説明、また、これを実現させる代わりとこういう見通しがありますよ(例えば、こんなによい教育活動ができるようになりますよとか、2年頑張ると3年後にはこんなに負担が軽減されますよとか)という具体的な説明を、そのカテゴリーを専門としない素人にも理解できるような、ある種のパッケージとして提案しなければならない。そのためには、教師Aが専門とするカテゴリーのレベル、つまり、構成員の個々がもっている〈世界観〉よりももう一つ上のレベルで利害調整を考えることができる、そういう能力が必要なのである。つまり、その時々のプライオリティを判断する思考力である。この新任者には残念ながら、まったくその能力が備わっていない。
■例えば、私は同じ職員会議において、第1回校内研修会のプログラムを提案をした。研修会の内容は、合唱コンクール指導に関する勤務校の音楽教師の講演、そして私の学校祭ステージづくりの方法に関する講演である。しかも、昨年度のビデオを見せながら、具体的に解説することをお願いしてある。この提案の前提となっている事柄について、少し説明しよう。
■まず第一に、現在、勤務校は10学級、10人の担任がいる。この中に、実は合唱コンクールの学級指導を不得手としている者が、私の目から見て7人いる。合唱コン指導の見通しが持てず、毎日、漠然と練習し、もっとうまい方法があるのだろうなあ、あの先生のように指導ができたら、うちの学級ももう少し合唱がうまくなるのだろうなあ、と考えている教師たちである。しかし、実態を考えれば、それもそのはずである。勤務校の担任陣10人は、2人が20代半ば。この二人は3年目の担任と2年目の担任である。また、2人が30代半ばではあるが、小学校から転勤してきた教師。つまり、中学校の合唱指導を経験していない担任である。そして、残りの長年中学校で担任として仕事をしてきた人たち6人のうち、半数が合唱指導を得意とし(うち一人は当の音楽教師である)、半数が合唱指導を不得手としている教師である。つまり、中堅・ベテランは得意・不得意が半々なのである。担任陣の構成としては、ごくごく普通のことである。決して、勤務校の担任陣の能力が低くてこうなっているのではない。この点から考えて、合唱コンの指導方法について、みんなで共有することは優先順位の高い項目となる。
■第二に、勤務校の音楽教師が、音楽教師としての実力が高いということは、職員室の全員が認めるところである、ということである。私は20年近い教師生活において多くの音楽教師として接してきた。これまでは大規模校が多かったので、音楽教師は必ず2人~3人いた。それこそ、20人以上の音楽教師を見てきた。現在の勤務校の音楽教師は、私が見てきた音楽教師達の中で、間違いなく3本の指に入るような実力の持ち主である。つまり、この音楽教師の話をみんなで聞くことには価値があるとだれもが認める、そういう人材なのである。これまた、この音楽教師の話を聞くことの優先順位は少しだけ高くなる。
■第三に、勤務校の音楽教師は現在、勤務年数が5年目。二学年の主任である。もしかしたら、現在担当している学年を卒業させたら、転出してしまうかもしれない。つまり、この音楽教師の合唱指導について、みんなでその理念・スキルを共有しようというチャンスは、あと2年間しかないかもしれない。だとしたら、このチャンスを逃すわけにはいかない。指導方法とは、一度話を聞いたくらいでできるようになるものではない。とりあえずそういう意識を共有化して、少しずつ浸透させていく、そのためには2年間という期間は最低限に必要な時間である。この点から考えて、今年度の年度当初に、この音楽教師の話を聞くことの優先順位は、かなり高くなる。
■第四に、今年の3月、合唱が割と上手な学年が卒業してしまい、今年度は3年生が学校全体の合唱モデルとして機能する構図が壊れてしまう年である。2年生はまずまずだが、1年生は現在の2年生と比べてそれほどでもないとの引き継ぎ内容であった。しかも、今年度は開校20周年事業があり、来賓を前に全校合唱をし、来賓を前にしての合唱コンクールになる。とすれば、学校の名誉のためにも、合唱コン指導にはそれなりに力を入れなくてはならない年度、ということになる。これまた、この音楽教師の話を聞くことの優先順位がかなり高くなる。
■第五に、合唱コンクールの時期は、音楽教師がとても忙しくなる。そういうときに、各担任が自分の学級の指導に関して相談事をもっていくということは、なかなかできないものである。気が引けるからだ。しかし、「どうしたらいいでしょう?」という丸投げの相談事は気が引けるかも知れないが、「先生がおっしゃったようにこういうふうにしているのですが、この部分がうまく機能しないのですが、何かやり方が悪いのでしょうか」という具体的な相談事ならば、気の引け具合はかなり減るはずだ。応える方の音楽教師も「それならば」と意気に感じるはずである。そういう雰囲気を職員室につくることにもこの研修会は貢献するはずである。私は絶対にみんなでこの音楽教師の話を聞くべきだと考えている。年度当初の研修会のプライオリティとしては、一番高いと思っているほどだ。
■以上、職員会議の提案というものは、今年度の課題、職員の能力、職員の現状、職員の人事までを考えて、プラオリティが考えられているのである。ついでに言えば、私が学校祭ステージの話をするのにも、同様の構図がある。私は3年間かけて私のステージの評判を高めるためにすべて手を抜かず、私の話を聞いてもいいと職員が思ってくれるような価値づけを施した。また、今年度、学校祭ステージを得意とする教師が、学校事情で人事上すべて1学年に集まってしまい、第2・3学年の教師たちにとって、学校祭ステージは悩みの種の一つになってしまっている。しかも、ほんのちょっとの工夫でステージ発表をおもしろくさせる仕方を私は知っている。つまり、素人でもそれなりにステージをつくる工夫の仕方を私は知っている。だからこそ、この研修を提案しているのである。つまり、そこにある基本思想は、やはりプライオリティなのだ。
■会議という者は不思議なもので、どんな提案がなされているか以上に重要なのが、だれが提案しているか、である。文句を言っても仕方ない。この国の会議にはそういう構造があるのだ。音楽教師の合唱指導も、私の学校祭ステージ発表指導も、少なくとも職員たちが「聞く価値がある」と思ってくれる土壌がある。それは、音楽教師が4年間かけて、私が3年間かけて、苦労してやっとつくってきた土壌なのである。新任者が前任校と比べたときに現任校のまずさが目につく、こうすればもっとよくなるのにと思う、そうした心象はわからないではない。私だってかつてそう思ったことがある。しかし、新任者が感じている現在のまずさにも、それなりに理由があって、職員の能力や生徒の実態や人間関係の実態などのバランスの上に成り立っているまずさなのである。一つのまずさだけを是正しようと頑張っても、その影響で別のまずさが際立ってくる可能性がある。その可能性を見据えて、その可能性のフォローまで考えることのできる人間だけが、新しいシステムを提案する資格をもつのである。全体を視野に入れられない新任者は、やはりまずは黙っているべきなのだ。そしてそのまずさを少しずつ、実態に合わせて考えていくべきなのだ。そうしないと、改革は改革にならない。そういうことだ。
■人は「何ができるか」ではなく、「何をしたか」で評価される。人が人を評価する項目には、意欲も能力も、そして資格も優先順位が低い。いや、優先順位が低いというよりも、それらは実は、どうでもいいことでさえある。実は、この新任者は年度当初、職員会議を二度も忘れていて、大幅に遅刻してきた。そんな行事予定さえ確認していない人間に、学校全体が見えているはずはなく、学校全体のことを考えられるはずもない。厳しく言えば、システム改革の提案などおこがましいのである。まずは「ああ、この人は学校全体のことを考えている。この人のいうことなら、自分にはわからないけれど信用できる。」といった、人間になることである。組織の中で信用を得ることである。しかも、「自分がうまくできなかったときでも、あの人ならフォローしてくれる」という安心感を抱かせることである。つまり、そのシステム改革がうまく機能しない場合には、自分がかぶってうまく機能させるという覚悟もまた必要である。それがない人間には、システム改革はできない。申し訳ないが、勤務校には現在、どうせ全職員に負担をかけるなら、例えば学校会計関係のシステムを整備するとか、学年を越えての生徒指導システムを徹底して整備するとか、道徳の指導案を全時間分作成するとか、生徒会規約を変えてより機能性のある生徒会活動をつくるとか、プライオリティの高い課題がたくさんある。しかし、これらは一遍にはできないのだ。教師というものは、全仕事量のうち6~7割程度は生徒との生の現実に向けなければならない。その余裕を減じてしまうような負担はできるだけ各係が被って、全体の負担を減らしていく、それがあるべき職員室の姿だと私は信じている。数日前に書いたPTAに対する対応の在り方も、結局はプライオリティの問題なのである。
土井隆義/ちくま新書
2008.03.
★★★★★

『いじめの構造』(森口朗/新潮新書)も良かったが、これはその上を行く。やっとこういう論調がマスコミの教育論を席巻し始めたな、という感じ。少しずつ、現場が感じている現実論に近づいてきているのを感じる。土井隆義といえば、名著『〈非行少年〉の消滅』を読んで以来、注目していた社会学者だったが、その論理が万人が触れやすい新書の形で世に出たことは大きい。教師、中3以上の生徒、その保護者には必読の書。たぶんもやもやしていたことのすべてにが構造的に理解されるだろう。そしてこういう心象を形成してきたのが「新人類世代」以降の我々の世代であるということも。これを読んで「なるほど…」と思ったら、下の書もお勧め。
※『〈非行少年〉の消滅-個性神話と少年犯罪-』
(信山社/2003年12月/3500円)



2008/05/17のBlog
[ 17:31 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■私は中学校の国語教師である。
■このことは、私の妻も、両親も、同僚もサークル仲間も、そして本誌の読者も、誰もが疑問を抱かない私の特徴である。誰もが納得する。そう、堀裕嗣は「中学校の国語教師である」と。
■しかし、堀は「力のある実践家である」となると評価が分かれる。
私のサークル仲間や本誌の読者ならそれほどの疑問を抱かないかもしれない。だが、同僚は、そういえば先日の飲み会で新卒の女の子に日本酒を飲ませてつぶしていたなとか、そういえば前に仕事を忘れた旅行業者さんを怒鳴りつけていたなとか、いつも空き時間に職員室で馬鹿話をしていて、ほとんど仕事をしているのを見たことがないなとか、一応バドミントン部の顧問だが、部活の時間にはいつも自分がバドミントンをして遊んでいて、指導をしているのを見たことがないなとか、そんな私の日常と「力のある実践家」という言葉との間にある齟齬を的確に指摘するはずである。
■堀は太っている。堀は髭を蓄えている。堀は煙草を一日に二箱も吸う。堀はコーヒーを一日に十五杯も飲む。堀は辛口の日本酒が好きである。堀はロッテと中日を贔屓にしている。堀は岩崎宏美と太田裕美と渡辺真知子のファンである。堀はカラオケに行くと、世良公則ばかり歌う。堀はドラムを叩ける。堀は職体野球では一塁手で四番バッターである。堀は片付けが苦手である。堀は数学が苦手である。堀は蜘蛛が嫌いである。堀は……もういいだろう。
■私という人間は、こういった種種の特徴の総合として存在している。いや、私が種々の特徴の総合体として存在しているのではなく、私という曖昧模糊とした存在がいて、その存在が種々の特徴を備えているのである。こう考えてくると、例えば、「堀は中学校の国語教師である」という場合、確かに誰もがそのテーゼに納得はするのだが、そのテーゼには堀のその他の特徴が一切加味されていないということに気がつくはずだ。堀は確かに誰から見ても「中学校の国語教師」なのだが、堀は「中学校の国語教師」としてのみ存在しているわけではない。
■「アブストラクト」(abstract)という英単語がある。かつて、大学入試の長文問題でよく目にしたはずなので、記憶に残っている読者も多いことと思う。「抽象」と訳されることが多い。
■ところが、頻度は低いのだが、この単語が「捨象」と訳されることがあった。「抽象」とは抽出することであり、その意味は簡単に言えば〈拾うこと〉である。「捨象」とは読んで字のごとく〈捨てること〉である。なぜ、こんな正反対の意味が同じ単語の意味として成立するのだろうか。高校時代、受験勉強をしていたときに、このことに素朴な疑問を感じた読者も多いのではないだろうか。
■しかし、いま考えると、この原理は実に簡単である。種々の特徴をもつ堀裕嗣という存在から「中学校の国語教師」という特徴を〈抽象〉する。すると、同時に、堀という人間のもつ太っていることや髭を蓄えていることを初めとして、コーヒーや煙草や酒、だらしなさ、芸能人やスポーツに対する嗜好といった特徴が、すべて〈捨象〉されるのである。つまり、堀という人間を「職業的な特徴」によって〈抽象〉したことによって、「身体的特徴」や「性格的特徴」が〈捨象〉されるわけである。実は、ある「もの・こと」を〈抽象〉的に捉えるということは、そのある「もの・こと」における他の属性を〈捨象〉することを意味する。〈抽象〉と〈捨象〉は表裏一体、実は、同時にしか現象し得ない、同じことなのである。これが「アブストラクト」だったのだ。
■しかし、問題は、一般に、ある「もの・こと」を〈抽象〉として捉えたときに、それと同時に〈捨象〉してしまっているものに、私たちが気づいていないということである。このことが様々な場面でおかしなことを引き起こしている。人間を「独善」に陥らせている。
■例えば、自分の学級において、もっとも「いい子」と思われる子どもを思い浮かべてみるといい。明るくて、素直で、友達にも優しく、人のいやがる仕事でも率先して引き受ける。先生の言うことを一生懸命に聞いて、勉強にも熱心に取り組む。そんな子がどの学級にも一人か二人いるはずだ。そしてその子の担任であるあなたは、その子を「いい子」と捉えている。しかし、その子をよく観察してみると、その子の家庭の生活レベルは高く、貧しい家の子の前で何の悪気もなく昨夜の外食の様子を話し、貧しい家の子を傷つけていることはないか。正義感が強く、他の子のちょっとした言葉遣いに軽蔑の目を向けていることはないか。図工や美術の時間に作業の遅い子を手伝ってしまって、本人の成長を阻害してしまっているなどということはないか。実はその子が学級に与えている悪影響は、無視できないほど大きいのではないか。担任としては、良い影響ばかりが目に入って、散在する悪影響を見落としてしまってはいないか。
■例えば、学級の子ども達の保護者の中で、もっとも「口うるさい保護者」を思い浮かべてみるといい。学級懇談会では、みんなの前で担任の小さな落ち度を指摘する。何かにつけて要求ばかりする。他の保護者からも、どうやら避けられているようだ。期末懇談でその保護者と会わねばならない日は、なんとなく朝から憂鬱である。そしてその保護者の子どもの担任であるあなたは、その保護者を「口うるさい保護者」と捉えている。しかし、よく考えてみると、手紙や懇談で知らされた学級の問題点は、自分では気がつかなかったものである。確かにその保護者はクレームをつけてきたが、その子が家でそんなふうに学級のことを言っているなどとは、まったく想定すらしていなかった。自分を信用してくれ、うまく人間関係を築けている保護者が他に何人もいるのだが、実はその保護者たちは「口うるさい保護者」に先生がいじめられていて可哀想だと思って、自分を気遣ってくれている。つまり、同情がその保護者達の目を曇らせ、必要以上にあなたに対して共感的(同情的)な視線を向けさせている。そんなことはないだろうか。
■例えば、あなたが最も頻繁に使う授業技術を思い浮かべてみるといい。本で読んで学んだ、セミナーで直接に講師から教えを受けて学んだ、その授業技術を導入してから、なんとなく授業が流れるようになった。本誌の読者なら、そんな授業技術を一つや二つはもっているだろう。そしてあなたは、その授業技術を「優れた授業技術」と捉えている。しかし、よく考えてみると、教材との関わりでその授業技術を使うことがふさわしくないという場面はないか。ごんが兵十に撃たれて悲劇的な結末を迎える授業なのに、「さあ、音読します。全員起立!」とやることは、その授業にとって本当に効果的なのか。「よし、じゃあ、その理由を『~から』の形で一文でノートに書きなさい」と指示したとき、理由を二つ考えていて、どっちを書こうか困ってしまっている子どもがいる可能性に配慮しているか。その授業技術を提案している先達本人がもしもあなたの授業を見たら、あなたのことを「授業技術に使われている」と評価してしまうような要素を、あなたの授業はもってはいないか。
■あなたが日常的に「良い教育」として意識的に実践していることが、あなたに他の可能性を〈捨象〉させてはいないだろうか。学級の子どもに「いい子」「明るい子」「素直な子」「元気な子」というラベルを貼っていることによって、かえってその子のネガティヴな部分を〈捨象〉してしまってはいないか。
■自分が世界を「アブストラクト」して認識していることを意識するだけで、いろいろなことが見えてくる。大袈裟に言うなら、「世界」が変わるほどの大転換が起こる。
2008/05/14のBlog
[ 22:26 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■今日、PTAの学年委員会があった。4学級の役員さん12人が集まっての会議である。まあ、学年主任の仕事の一つだ。さて、今日は、7月に行われる学年PTA懇親会の企画を立てた。この中で、少々考えさせられることがあった。
■学年PTA懇親会の企画が出来上がり、文書の配付日程、回収日程等の確認に入ったときのことである。僕は当然のように、そんな文書は自分でつくって配付し、回収も学校でするつもりだった。徴収する参加費も学校側で集計するつもりだった。ところが、である。PTAの役員さん達の話を聞いていると、そういう体制を組む教師はほとんどいないらしいのである。「小学校ってそうなんですか?」と僕が驚いているうちに、ある役員さんが「いえいえ、中学校だって、そんなことをやってくれるのは堀先生の学年だけですよ」というではないか。他の役員さんからは、文書を何度も書き直しさせられて、頭に来たことが何度もある、という声。うなずく役員さん達。しまいには、「学年委員会に先生がいることなんてまずありえなくて、決まったことを事後報告で先生に伝えるものだと思っていた」とさえ言うのである。僕は驚きを隠せなかった。そして正直、「しまった!」と思った。自分が当然のことと思ってやってきた自分のやり方は、実は特殊だったのだ、と……。
■「しまった!」と思ったのは、こういうことである。三つの学年、三つの専門部の中で、文書を教師がつくることを慣例としているのが僕だけだとすれば、それが他の教師達の耳に入り、他の教師達が「なんだ?堀だけいい顔して、不必要なサービスしやがって……」と思っている可能性がある。さすがに僕に直接言う者がいなかっただけで、そう思っている可能性は充分にある。正直に言えば、僕が逆の立場ならそう思うだろう。こりゃ失敗である。大失敗である。3年前に転勤してきたとき、他の部がどうしているのかを調べてから運営するべきだった。調べさえすれば、僕は部によって対応が異なるのはまずいと思ったはずだ。僕はそういう思考回路の持ち主である。僕がみんなに合わせるか、みんなにも「そのくらい教師がやりましょうよ」と投げかけるか、どちらかの対応を取ったはずである。現状では、保護者から見れば、堀学年の役員だけが楽だという話になってしまう。そして事実、そうなっているらしい。これでは学校の一貫性を保てない。これはまずい。
■しかし、正直に言えば、僕は教師なら誰でも、文書くらいはつくってあげるものだと思っていた。今日の午後5時半頃まで、まったくそう思い込んでいた。だから、それを不満に思った同僚がいたとしたら、それは勘弁して欲しい。ただ、僕の考えはこうだ。PTAの役員なんて、お母さん方からすれば、完全なるボランティアである。時間と労力だけをとられて、一文にもならない。仕事を早引けしたり、仕事が終わると同時に駆けつけたり、けっこう大変なはずである。最近は共働きが多い。かつての専業主婦ばかりの時代とはわけが違う。PTA役員さん達の仕事はできるだけ軽くしてあげるべきだ。そもそも誰もやりたくないことを、人のいいお母さん方が仕方なく引き受けている……それがPTA役員の現実の最大公約数であるはずだ(少々、語弊はあるが)。しかも、配付文書をつくることは、我々教師は得意中の得意としているのである。毎日つくっているとまでは言わないまでも、週に2枚くらいはつくっているはずだ。行政文書の様式も、常用漢字の使い方も、我々は頭に入っている。そもそも一度つくってしまえば、昨年の文書をちょこちょこっと手直しするだけではないか。正直に言えば、僕は今回のPTA懇親会案内程度なら、PCに向かう時間はせいぜい5分だと思う。教頭に渡して、授業に行っている間に管理職点検を受け、点検で訂正が入れば直すのに1~2分。あとは印刷に5分、学級棚に入れて、全教員のラックに入れるのに2分といったところか。こんな作業くらいやってあげればいいではないか。何の苦にもならない。だいたい役員さん達にとって、学校名で発行する行政文書の様式など、覚える必要も身につける必要もないものなのだ。日常生活を常用漢字だけを使って送る必要などもあるわけがないではないか。これは公務員のローカルルールに過ぎないのである。つまり、このPTAの文書をつくることは、お母さん方の人生にとっては何の益もないということだ。ただ、時間と労力を浪費するだけなのである。そんなことを喜んでする人がどこにいるのか。我々だって、必要感を感じられない仕事に対して、点検に点検を重ねられたら腹が立つではないか。僕には正直、そんなことを役員さん達にやらせてしまう、教員の想像力の欠如は犯罪的でさえあると思う。例えば子どもになら、わざと苦労をさせて成長させようということもあるだろう。職場の若手に対してそういう意図をもつこともあるだろう。しかしそれは、彼等の将来にとって、その経験が「必要がある」ことだからである。それが彼等の成長につながると教師が、上司が信じているからである。しかし、PTAの役員さん達は、行政文書のつくり方や常用漢字の使い方に習熟する必要などまったくないのである。PTA役員として成長を促されるいわれもない。そもそもPTA役員には、昨年のものを手直しすればいいだけ、という〈仕事の連続性〉もない。多くの場合、去年の役員さんと今年の役員さんはメンツが異なるのである。結局、ものすごく無駄なことをさせているということなのだ。役員さん達が愚痴るのも心情的に理解できる。
■あまり自慢できることではないのかもしれないが、僕のモットーは、最小限の努力で最大限の効果を出すということについて、真剣に考え続けることである。それを考えながら仕事をし続けることである。この基準から言って、こういう仕事は母さん方にやらせればやらせるほど、効率が悪くなる。まずもって間違いない。教師がやりゃいいんだよ、この程度のことは。教師がやれば、みんな気持ちよく仕事ができるんだから。事実、弁当の手配とか、飲み物の手配とか、それもできるだけ安くそれらを調達するにはどうすればいいかなんていう、僕ら教師が不得手としているような事柄については、今日の役員さん達は、僕には考えつかないような様々なアイディアを出しながらてきぱきと決めていった。それぞれの立場で、得意なこととそうでないこととがあるのだから、それぞれが得意なことをやり合った方がいいに決まってるんだよ。その方が効率的に決まってるんだよ。そしてそういうときにこそ、実は創造的なものが生まれたりさえするんだよ。世の中ってそういうもんだ。
■読者の皆さん、特に教師の皆さんで、僕の考え方が間違っているというご指摘があったら、教えて下さい。僕はPTAにおべっか使っているのではない。特別、人がいいわけでもない。本気でこう思っているのです。この方が、効率的で合理的だと思っているのです。僕の考え方はなんかまずいのでしょうか。