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裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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2008/06/02のBlog
[ 20:08 ] [ 座裕の銘/書評 ]
植島啓司/集英社新書
2007.10.
★★

宗教人類学者の本。「人は果たして選択が正しかったかどうかをけっして自分で確かめることはできない。」「鎖を引っぱると、一番弱いつなぎ目から切れる。そのことは確実である。しかしどのつなぎ目が弱いかを、鎖が切れる前に知ることは困難である。」「理性は常に一週遅れのランナーなのだ。」「ガラスなど見たところ均質な物質の割れ方は予測不能であるが、興味深いことに、実験の精度を高めていくにつれ、結果の予測不能土は高まっていく一方だ」などなど。興味深い記述がたくさんあった。人生論として情緒的に読んでもいいし、確率論として論理的に読んでもいい。なかなかおもしろかった。ただ、日常生活には役に立たない本だと思う。
[ 19:49 ] [ 座裕の銘/書評 ]
「お客様満足」+「社員満足」の秘密
志澤秀一/学研新書
2008.03.
★★

それほど良い本というわけでもないが、「なるほどな」という箇所は何カ所かあった。一気に読ませる筆力があることは確か。職場の人間関係に悩む人や働き甲斐を感じられないという人には、元気の出る一冊かも知れない。
[ 17:38 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■最近、ある新書を読んでいて、興味深い記述と出会った。言うまでもなく近代社会は商品・資源の交換によって成り立つわけだが、その際、必須の条件として二つの信頼が前提となっているというのである(『不機嫌な職場』高橋克徳他・講談社現代新書・二○○八年一月)。二つの信頼とは、一つが〈能力〉への信頼であり、いま一つが〈意図〉への信頼である。
■つまり、こういうことだ。私たちが和食料理屋に行ってふぐを頼む。なぜ、私たちがふぐに毒のあることを知っていながらそれを料理として食すことができるかと言えば、それは料理人がふぐの毒が害のないように調理してくれる腕をもっているはずだという、料理人に対する〈能力〉への信頼があるからである。また、料理人は私にわざと毒を盛って殺害しようなどとは考えないはずだという、〈意図〉への信頼もあるからである。この二つの信頼を前提としなければ、ふぐ料理などというものは食べることができないだろう。
■こういった事例は、世の中にいくつもある。いや、世の中の経済行為のほとんどすべてがそうだと言って良い。散髪屋で顔を剃られるとき、散髪屋は私たちの顔に刃物をあてる。初めていく散髪屋だというのに、私たちは何の疑問も持たずに顔に刃物をあてさせる。この散髪屋は肌を切らずに顔を剃る〈能力〉をもっているはずだという信頼と、この散髪屋は決して私の首に刃物を突きつける〈意図〉などはもっていないはずだという二つの信頼がなければ、どうして赤の他人にこんなことを許せるだろうか。そもそも私たちは顔を剃られることが心地よくて、眠りについたりさえするのである。まだまだある。コンビニで弁当やジュースを買うにしても、銀行や郵便局にお金を預けるにしても、バスやタクシーで移動するにしても、すべては二つの信頼が前提として機能しているのである。
■さて、ここで私たち教師の置かれている現状について考えてみよう。九○年代の後半から「指導力不足教員」という語がマスコミを賑わすようになった。また、二○○○年前後から「不適格教員」という語がずいぶんとマスコミを闊歩するようになった。この二つはそれぞれ、実は世の中が教師に二つの信頼を与えなくなったことを表してはいないだろうか。指導力の不足している教員がいるという認識は、教師に対する〈能力〉への信頼が揺らいでいるということである。教員に適していない人格の教員がいるという認識は、教師に対する〈意図〉への信頼が揺らいでいるということである。つまり、この二つの用語は、我が子を預けられないような〈能力〉のない教員がいる、我が子に害を及ぼす〈意図〉をもつ教員がいるかもしれないという、学校に対する二つの信頼の崩壊を意味しているのである。
■二十一世紀になって、学校に対する保護者のクレームが一気に増えたとの話をよく聞く。日常会話における教師のちょっとした言葉遣いや、指導の経緯の中で発したちょっとした威圧的な態度が、クレームの対象となる。かつてならば、教師に対する〈意図〉への信頼があって、子どもが愚痴を言ったとしても、「先生に悪気などがあるはずはない」と多くの保護者が我が子をあしらっていたような事例である。その信頼を教師は失っている。
■九○年代あたりから、子どもたちが教師の生活上の指導に従わなくなってきているとの話をよく聞く。授業や学習に関する指導ならば素直に従うのに、事が生活指導となると、教師に自分の生活上の在り方を指導する資格がないとでも言いたげに、全人格でも否定されたかのようにムキになって、指導を受け入れない子どもが一部にいるというのである。その数が年々増えてきているという実感を多くの教師がもっているというのもまた、よく聞く話である。しかし、学習上の助言ならば受け入れるのに、生活上の助言は受け入れないという態度が子どもたちに見られ始めたということは、実は子どもたちが教師の〈能力〉への信頼はもっていても、〈意図〉への信頼は抱いていないということではないのか。
[ 07:19 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
■近代社会が構築されていく過程において、「学校」という〈装置〉も生まれてきた。私たち教師はその意味で、「近代」の申し子である。「近代」は、〈言葉〉によって人と人とを有機的に繋ぎ、その機能性を発揮させることによって生産性を高め、より効率の良い社会をつくろうとしてきた。私たち教師もまた、言葉によって子ども集団を有機的な共同体にしようとし、リーダーを育てることによって共同体の活性化を目論見、効率的に子どもたちを成長させようとしてきた。その意味では、各々の教師の思いがどうであろうと、学校もやはり、生産性が高く、効率性の高い社会を実現しようとしてきたのである。「学校」があくまで、近代社会がつくり出した〈装置〉であるとされる所以である。
■近代社会が武器とした〈言葉〉は、コミュニケーションの過程において〈意味〉を交換することによって成立する。「こうすれば生産性が高くなるよ」「こうすれば効率性が高くなるよ」という、いわば「頭に働きかける」教育を学校は施してきた。しかし、コミュニケーションとはもともと、〈意味〉と〈感情〉とを同時に分かち伝えることであり、〈感情〉の喚起なき教育など、「命令」「訓辞」「講話」といった一方的な〈意味伝達〉と大差がないのである。
■ここで、「いやいや、私は子どもたちと〈感情〉のやりとりをおこなってきた。子どもたちと私との間には確かに心が繋がっている」と反論する読者もおられることと思う。しかし私は正直、それはきわめて怪しいと考えている。私たちは対等な友人として子どもたちの前に立っているのではない。あくまで子どもたちの上位者として、教師として彼らの前に立っている。彼らに対して私たちが訴える〈言葉〉は、いくら彼らにポジティヴな感情を喚起しているように見えても、それは上位者による下位者に対しての〈意味伝達〉に過ぎない。子どもたちには、教師の訴えを聞かない、それに反論するという自由がない。その証拠に、ある子どもが「それには納得できない。それには従えない。」と言ったとしたら、その後に待っているのは教師に叱られるか、「なるほど、君の言うことにも一理ある」などと訳知り顔をされながら、「なぜわかってくれないのか」と説得されるのがオチである。その説得に使われる時間がもったいなくて、「わかりました」と応えてしまう、そんな子どもたちが学校に溢れている。
■齋藤孝によれば、「シンポジウム」の語源であるギリシャ語の「シュンポシオン」の意味は「饗宴」であるらしい(『コミュニケーション力』齋藤孝・岩波新書・二○○四年十月)。ともに食事をすることによって、緊張感を和らげ、〈意味〉と〈感情〉とを分かち合う。それによって、一種の共同性をつくりながら集団を運営していく。日本の昨今の風潮が無駄であると一蹴しようとしている慣習は、太古の昔から、しかも西洋でさえ深く意識され続けてきた、コミュニケーションを成立させるためのテーゼであった。
■しかしこの国の教育現場では、教師と子どもたちとが〈意味〉と〈感情〉とを同時に分かち合う機会であった学校行事が次々に削られ、教師同士による、或いは教師と保護者による酒席も削られる方向にある。そこには、一人一人を独立した個人として認めざるを得ず、〈意味〉が交換できなくなっているという現実認識があるとともに、ほとんどの人が意識していないが、食事をともにし〈感情〉を交換するということに対する軽視があると思われてならない。