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裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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2008/10/01のBlog
[ 21:00 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
昨年、「いじめ」について、きわめて有益な提案がなされた。森口朗『いじめの構造』(新潮新書・2007年6月)である。この書が「いじめ」を考えるにあたって「スクールカースト」(学級内ステイタス)概念を中心に据えた点を、私は炯眼だと思う。

誤解を怖れずに言えば、世の中のすべてにおいて、人と人との間にはステイタスの差がある。どんな古くからの友人であろうと、どんなに社会的地位が同等であろうと、人と人との間にはステイタスの差がある。それは本人たちが意識しているしてしないにかかわらず、〈暗黙知〉として成立している。これを否定し、人間はみな平等であるとか、私の学級の子どもたちは互いに互いを認め合い尊重し合っているとか言ってみても、それは「スクールカースト」から目を背けているに過ぎない。人間関係においてそんなことはあり得ないのである。

例えば、読者諸氏に問う。あなたの職場に、職員会議において校長以上の発言力をもっている教員はいないか。大きな声でギャーギャー意見を言うタイプのことではない。ふだんの職員会議では黙って様子をうかがっているものの、会議がもめて収拾がつかなくなると決まってその教員が静かに語り出す。「まあ、あの先生がいうのなら仕方ない」と会議がまとまっていく。そんな教師はいないか。その教師は、明らかに「職員室内ステイタス」が高いのである。それも学校長以上に。

例えば、高校時代のクラス会がある。そこに中心的に話題を振りまいて、会話の輪の中心になっている同級生がいないか。明らかにその人を中心に大きな輪ができている。そんな人物はいないか。その人物は、明らかに「学級内ステイタス」が高いのである。かつてのそのクラスのだれよりも。

社会的地位や収入、成績の良し悪しなど、浮き世の価値観との相関がないわけではないが、必ずしもそれが重要ではない。もっともっと重要なのは「コミュニケーション能力」である。周りにいる人間たちを笑わせ、惹きつけ、いい気持ち、楽しい気分にさせることのできる能力、或いは周りに気を遣い、周りの悲しみや苦しみ、つらさを軽くしてあげられる能力、そうした「コミュニケーション能力」を持つ者こそがステイタス上位の人間である。

いま、学校の職員室とクラス会の例を挙げた。この二つの例を挙げたのには実は理由がある。この二つには、ステイタスが際立つ理由があるのだ。それは両者ともに、そこにいる人間のすべてが「平等である」という前提のもとに参集しているのである。

言うまでもなく、職員室はいわゆる「鍋ぶた組織」である。校長・教頭という鍋ぶたの取っ手に位置する二人がいるものの、その他の一般教員が圧倒的な数を占める、それが職員室である。つまり、管理職以上に一般教員の多くに影響力をもつ人間こそが、実は組織上もっている力が強い、それが職員室の構造なのだ。

また、クラス会は学生時代の平等性へと帰る機会である。一般に、社会生活においては上司・部下の関係を個人的な思いによって超えるようなことはあってはならない。それをした人間は社会から疎んじられ、悪くすれば抹殺される。しかし、クラス会は違う。その人間のもつ活力、器用さ、人となりの掛け合わせのみによって、その場の〈空気〉が形成されていく。そしてそれが顕著に表れるのがクラス会なのだ。

さて、以上を勘案してよく考えてみよう。その集団が外面的には「平等である」とされる集団、そしてその「平等性」を表だってこわさないように、ある種の人間関係力学が働きやすい集団、それは何か。言うまでもなくその最たるものは「学級集団」である。そして、この「学級集団」を実質的に動かしているステイタスこそ、森口の言う「スクールカースト」なのだ。こうした順位づけから、構造的に人間は逃れることができない。それが社会である。いや、イヌやサルが順位づけに躍起になっているのを見ると、すべての動物がもつ種の存続のための本能なのかもしれない。
[ 00:00 ] [ 匹夫の裕/仕事術 ]
1日(月) 2組で「児の飴食ひたる事」。4組で「児の飴食ひたる事」の音読テスト1回目。3組で「矛盾」の暗唱テスト。道徳は「プロジェクトX」のビデオ。三億円事件の鑑識課指紋係。放課後は学校祭係会。体調がよくないので、4時に年休をとって帰宅。福田総理の辞任会見に驚く。

2日(火) 朝、体調が悪く、1時間年休。2組が2時間。「児の飴食ひたる事」の音読テストの1回目と2回目。「1組で「児の飴食ひたる事」の音読テスト1回目。4組は音読テスト2回目。3組は「児の飴食ひたる事」の暗唱テスト。

3日(水) 3組で「児の飴食ひたる事」の音読テスト1回目。1組で「児の飴食ひたる事」の音読テストの2回目。2組でプレゼンテーションのテスト。空き時間は教員免許の書類を書いたり、中間テストの範囲を入力したり、夏休み課題の点検をしたり。総合は動物の生態に関する調べ学習。放課後は学校祭の企画づくり。帰りに、学校祭のために、DVDをたくさん借りて来る。

4日(木) 朝から健康診断。午後はリフレッシュ休暇。自宅でDVDを見ながら、学校祭の企画をたてる。夕方からソファで寝てしまう。

5日(金) 体育大会。晴天。生徒たちが楽しそうで何より。怪我もなく、無事終了。綱引きに出て、足腰がおぼつかない。打ち上げはパスして帰宅。

6日(土) 朝から部活。練習試合。ランキング戦。夕方から同人誌の原稿執筆。これを仕上げて、かなり気楽になった。明日はのんべんだらりと過ごせそうだ。何をしようか。

7日(日) BRUSH-UP関係の打ち合わせをML上で。夕方から、篠路神社のお祭りの巡視。帰宅後、ゆっくりと夕食。明日からはいよいよ会議の連続になる。早めに寝る。

8日(月) 4組でプレゼンテーションのテスト。3組で「児の飴食ひたる事」の音読テスト2回目。2組で「ものづくりの知恵」の範読・音読練習。放課後は学年会。そして部活。

9日(火) 朝から不整脈。とうとう心臓に来たか?という感じ。一日年休を取って休む。

10日(水) 昨日休んだのが良かったのか、今日は正常。出勤して、3組・1組でプレゼンのテスト。2組で「ものづくりの知恵」の音読練習。空き時間は新教育課程移行措置の3年間の計画を立てる。午後は生徒会役員選挙。放課後も新教育課程。周年行事の仕事など。帰宅後、やはり体調不良。これは病院に行かないとダメだ。

11日(木) 年休。病院へ。血液検査・心電図。コレステロールが少々高め、善玉コレステロール少々低め、いつものとおり。心電図・血糖値・血圧等異常なし。では、この体調の悪さは何だ。だから病院はいやだ。結局、謎が増えるだけだ。しかも、どの医者もどの医者も言うことは同じ。ビタミンを多く取れ、適度な運動を、酒は適度な量を、煙草はやめたほうがよい、適度な有酸素運動を……。言われなくとも知っとるわい。そんなことができてりゃ、とっくに健康体だ。それにしても、今週はボロボロだ。生徒にも同僚にも申し訳ない。

12日(金) なんとか出勤。空き時間は新学習指導要領への移行期間の教育課程を作成。授業は1・4組で「ものづくりの知恵」の音読練習。午後は総合。来週の円山動物園研修の計画づくり。放課後は学年会。18時に学校を出るが、車を運転中に体の異常を感じる。帰宅後すぐに、夜間救急センターへ。21時過ぎに帰宅。明日、脳外科へ行けとのこと。明治図書からゲラが届く。こんな体調では、文字を読む気はしない。

13日(土) 朝から脳外科へ。生まれて初めてのMRI。やはり、特に異常はないとのこと。そのまま、指圧へ。かなり強めに肩と首をほぐしてもらう。夕方から「研究集団ことのは」の9月例会。太布・小木・山下の模擬授業。10/4の累積国研のプレである。なかなかおもしろい授業が並んで満足。

14日(日) ベスト電器に行って、インターネット環境を整えるためのグッズを購入。とりあえず、新しいPCでインターネットとメールができる環境が整った。それ以外は何をすることもなく休む。

15日(月) 昼に起きて指圧へ。帰りにベスト電器でホームページビルダー12を購入。体調は自分では回復傾向に思えるが、まだまだ安心はできない。今週は金曜日に総合の校外学習があるので、なんとかもたせたい。早めに寝る。

16日(火) 授業は3時間。2年生の3学級でマイクロ・ディベート。論題は「札幌市は小中学校の給食を廃止し、弁当持参にすべきである」。考えやすい論題であるためか、反応はまずまず。ある程度成果が出るまでには、経験上、あと数ヶ月かかる。放課後は20周年事業特別委員会。体調回復せず。なんとなく頭が重い。胸も苦しい。特に、今日も帰りの車中がひどかった。煙草ほとんど吸わず。喫煙習慣が身について以来、こんなことは初めてである。このままやめられたら一番いいのだが(笑)。

17日(水) 授業は3時間。1・2・3組で「ものづくりの知恵」の白鷹さんの節の読解。指示語・図示・筆者の情緒表現の分析と、試験前なのでオーソドックスな内容。午後は総合校外学習の準備。昼休みから各係会、日程の確認、しおりの解説と、旅行的行事並みの運営。空き時間は総合校外学習の「教師必携」づくり。放課後は校務部会。今日も体調がおもわしくなく、同僚に部活をお願いして、勤務時間終了とともに退勤。土日が待ち遠しい。でも、金曜日の校外学習もなんとなく楽しみ。複雑な心境である。藤原くんから「ぶらっしゅあっぷ指導力」が届く。

18日(木) 授業は3時間。1組でワーク、3・4組で「ものづくりの知恵」の白鷹さんの節の読解。6校時は明日の総合の校外学習のための学年集会。放課後は学年会。

19日(金) 総合の校外学習。円山動物園・札幌ウインター・スポーツ・ミュージアム。学校に戻ってくると、生徒も教師もくたくた。放課後は運営委員会。終了後、すぐに帰宅。

20日(土) 昼に起き出して、テレビを少し見て、ご飯を食べ、BOOK OFFに行き夕方にはまた寝る。疲れていたのだろと思う。BOOK OFFで「ディープ・ブルー」のDVDを買う。2000円で手に入ってうれしかった。23時過ぎに起きて原稿執筆。いまのところ、体調も悪くない。とりあえず、よかった。

21日(日) 『読書活用力能力の育成』(明治図書)という新刊本のゲラ校正。体調が戻ってきて、やっとこういう仕事にも目が向いてきた。ただし、あとは何もやる気が起きず、テレビドラマを見たり、HPをいじったり。

22日(月) 3・4組で試験前自習。5校時の学活は学級委員の選出。5分で決まったので、学級組織づくり。班長や係長はもちろん、仕事分担、ポスター作成の色画用紙の色まで1時間で決まった。なんとすばらしい子どもたち(笑)。空き時間は中間テスト作成。問題用紙を作り、解答用紙を作り、印刷まで完了。放課後は職員会議に出ずに年休。病院へ。帰宅後、ゲラをもう一度確認する。更に原稿執筆。今日は「現実的な現実」に対峙する日に決めた。

23日(火) 11時に起きる。シャワーを浴びて車でアリオへ。いま担任している生徒二人のダンスのコンテストを見る。あいている時間は指圧を受けたり、丸善で本を買ったり。帰宅後、スーパーへ食材の買い出し。なんともゆったりと時間の流れた一日。こういう休みはいい。それにしても高等部が重い。もう2週間も続いている。「授業づくりネットワーク」の講師依頼。来年の正月も冬の遠出があるようだ。今回は函館とのこと。オレなんか呼んでも集客に影響はないはずなのだが…。今日のところは態度を保留しておく。函館まで行くとなると、企画云々よりも、いっしょに行くヤツがいるのか否かという問題が大きい。体調も悪いし、一人で運転していく気はしない。オレも年をとったもんだ。機動力がなくなってきた(笑)。

24日(水) 昨日のダンスコンテストで、担任する生徒が3位になったとのこと。午前中、授業は3時間。すべて試験前自習。午後の学活は班ポスター製作。放課後は中間テストの模範解答作成。勤務時間終了と同時に退勤。なんとお気楽な一日。明日から中間テストである。

25日(木) 中間テスト1日目。社会,国語,技術・家庭の3教科。その後、石狩湾に行って学校祭のビデオ撮影。今年もまた始まった…という感じ。石狩の「雅」でラーメンを食べて学校に戻る。採点。

26日(金) 中間テスト2日目。数学・理科・英語、そして総合が1時間。先日の円山動物園の発表物づくりの1時間目。午前授業で生徒を帰し、採点を終わらせて年休。楽しい週末。向陵中学校時代、PTAの広報誌の「好きなものは?」というアンケートに「金曜の夜、土曜の朝」と書いて、子どもにも保護者にも「本音で生きてるねえ」と絶賛されたことがある。ある保護者いわく、「変人ばやりだからねえ」と。その「変人ばやり」をつくってくれた当人が政界から引退するそうだ。でも、ぼくはこれからも変人で居続けることにしよう。

27日(土) 合間にHPの更新をはさみながら、新書を2冊読む。テレビも見ず、DVDを見ることもなく、大橋純子や松原みき、石川ひとみを聴きながら、ベッドに横になったりソファに寝転がったりしながら頁を繰る。なんといい一日。まったく退屈しない。退職したら、毎日がこんな生活になるのかなあ。待ち遠しいなあ。

28日(日) スーパーに買い物に行く。とうとう売り場からスイカが消えてしまった。ぼくは夜9時にスイカを二切れほど食べて寝るのをこの数ヶ月の日課にしていたので、ショックだった。梨や柿や葡萄じゃどうもしっくりこない。早く冬みかんの季節にならないかなあ。

29日(月) 今日は4クラスで中間テストの返却。午後は総合で動物園学習のまとめ。学校祭のためのビデオ撮影。放課後は部活。17時過ぎに退勤。帰宅後は鮭のちゃんちゃん焼き。野菜もたっぷり。鍛高譚のお湯割り。美味。更に1時間近く風呂にはいる。なんか最近、体調が悪くなって、逆に頭が冴えてきた感じ。思考が楽しい毎日。ぼくにとってはいい傾向だ。明日で9月も終わり。一歩一歩、またあの雪国が近づいてきます。冬眠したい。ぼくを知っている人ならわかると思いますが、ぼくには冬眠がとても似合うのです。

30日(火) 朝から2時間連続で2年生の授業。今日はマイクロディベートの資料集めをPC室で。昼から年休をとって病院。3時過ぎに帰宅。HPを開くと7時間ほどの間に数百のアクセス。なんだこりゃ、故障か。Amazonから届いた郁恵ちゃんを聴き続ける。
2008/09/30のBlog
[ 22:54 ] [ 裕弁は銀/日常思索 ]
最近、昔のアイドルのベスト盤ばかり聴いていたら、自分が小学校高学年の頃に大好きだった榊原郁恵のベスト盤をもっていないことに気がついた。就職してある程度お金が自由になっても郁恵ちゃんのCDだけは買わなかった自分に改めて気がついた。まあまともな感覚だと言えば言えなくもない。

そしてご想像の通り、そう思うと聴きたくて聴きたくてたまらなくなった。ためしにAmazonで検索しちゃったら、もう欲しくて欲しくてたまらなくなった。ああ、こんなんものまで買ったら、オレ際限がなくなっちゃう……。そう思いながら、エイ!とワンクリックを押してしまった。そうしていま、「榊原郁恵シングルコレクション」が目の前にあるというわけだ。

おそらくは100センチ近いバストが、水着姿で「明星」にも「平凡」にも毎号のようにさらされていたのに、小学生のぼくにさえエロティシズムの欠片も感じさせなかった郁恵ちゃん。ああ、ぼくはあなたが大好きでした。小学校3年生から岩崎宏美お姉様ひと筋だったぼくなのに、ほんの一年間ほど、ぼくはあなたに魅せられました。当時のぼくのお小遣いは月に1000円。レコードのシングル盤は600円。この年はインベーダーゲームも大流行。結局、ぼくはこの一年間、榊原郁恵のシングルを買ったがために岩崎宏美お姉様のシングルを買わないという愚行に出てしまったのです。おかげで当時のぼくは「二十才前」と「あざやかな場面」と「シンデレラ・ハネムーン」と「さよならの挽歌」を持っていなかったのです。裏話をすれば、榊原郁恵のレコードを買うことが愚行だと気づかせてくれたのは、岩崎宏美お姉様の名曲「春おぼろ」でした。それほど、当時のぼくには郁恵ちゃんが輝いて見えたのです。

わくわくしながらAmazonの箱を開けると、出てきた出てきた、郁恵ちゃんが笑顔でドアップ。いや~ださい! もう完全にそのへんにいる女の子です。芸能人オーラの欠片もない。

CDってたいてい、片側には日本語で「榊原郁恵シングルコレクション」、もう一方には英語で「IKUE SAKAKIBARA SINGLE COLLECTION」って書いてあるものだが、郁恵ちゃんのベスト盤は両方とも「榊原郁恵シングルコレクション」。いや~ださい! しかも「シングル」と「コレクション」の間に「・」(=ナカグロ)さえない。

歌詞カードを開くと真ん中あたりにかつてのシングル盤のジャケットが並んでいる。もうほとんどすべてが真正面アップに満開の笑顔。ほとんど子どもみたいな笑顔。こんな健康的で、満面の笑顔しか表情をもたない女の子なんて、いまは中学生にさえいない。それが二十歳を超えたあたりから、ジャケット写真がちょっとうつむき加減になっていたりする。これがまた似合わない。その似合わなさがまた最高。大人っぽい雰囲気を出そうとして明らかに失敗している中学生みたい。22歳を超えると肩の出たドレスがジャケット写真に現れ始める。ところがところが、これが肩幅が広くて肉付きがいいもんだから、ちっとも色っぽくない。その色っぽくなさがまた最高。

歌詞カードに目を落とすと、意外や意外。呉田軽穂とか南こうせつとか上田知華とか杉真理とか錚々たるメンバーが並んでいる。おいおい、ユーミンかよ。そう思ってその曲を聴き出すと、結構いい曲。でもでも、これまたなんとも歌が下手で下手で……(笑)。その「大場久美子以上石野真子未満」の歌声に乾杯! 高田みづえにも清水由貴子にも水をあけられた歌唱力に乾杯!

デビュー曲は「私の先生」。

先生 私 憶えてますか 手編みのセーター 着てますか
ところで先生 17才は 大人でしょうか 子供でしょうか
〈作詞:橋本淳〉

いやあ、森昌子の「せんせい」を意識してのデビューだったんでしょうか。そもそも歌詞に「ところで」はないでしょう、「ところで」は……(笑)。セカンドシングルは「バス通学」、サードは「わがまま金曜日」、どれもこれもださいアイドルの代表曲みたいなタイトルでした。

でもねえ、ぼくはいまでも愛してますよ。「アル・パシーノ+アラン・ドロン<(より)あなた」という4枚目のシングル。ぼくに不等号を教えてくれたのは郁恵ちゃん、あなたです。このシングル、小学校5年生のぼくは買いました。次の「いとしのロビンフッドさま」も「めざめのカーニバル」も「夏のお嬢さん」も「Do It Bang Bang」も買いました。あなたは踊れないのに一生懸命踊っていましたね。「いとしのロビンフッドさま」の内股とか、「めざめのカーニバル」の右手のパクパクとか。かわいいらしい仕草でたまりませんでした。「アイスクリーム、ユースクリーム」って聴いて、みーんな「ユースクリーム」って何だ?って思いました。「スクリーム」が「叫ぶ」という単語だって教えてくれたのも、郁恵ちゃん、あなたです。そうそう。このベスト盤には、あの「ナッキーはつむじ風」の主題歌「あなたと夢とポップ・ロック」もおさめられています。30年振りの再会に乾杯!

オリジナルアルバムもライヴアルバムも買いました。小学校6年生の誕生日は、郁恵ちゃんのアルバム2枚でした。ラジオのDJも毎週聴いてました。ぼくにとっては、ほんとうにほんとうに最高のアイドルでした。

郁恵ちゃんは「ホリプロタレントスカウトキャラバン」の第1回の優勝者でしたね。ぼくは思いました。「ホリプロ」ってなんだ? オレのためのアイドルか。運命的なものを感じました。ああ、郁恵ちゃん。

最近のクイズバラエティの出演なんかを見ると、ずいぶんと垢抜けてかわいいおばさまになりましたね。いま考えると、下手な歌と下手な踊りでアイドルしてた頃から、ずいぶんとスマートになられて、バラエティに出るようになっても、結婚して渡辺徹に浮気されて記者会見したときにも、あなたには「人柄の良さ」ばかりが目立って、まったく「陰の部分」が見えませんでした。郁恵ちゃんというアイドルに出会えて本当に良かった、心から思います。

郁恵ちゃん、あなたは美しくも可憐でもなかったけれど、まさしくキュートでした。
嗚呼、郁恵ちゃん。
最高!
[ 18:57 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
昨日今日と二日連続でわいせつ教師逮捕のニュースが流れた。「またか…」という思いを禁じ得ない。最近はこういうニュースにも少々慣れてしまったところがあって、ぼく自身も世論も感覚的に麻痺してきているようだ。さすがに去年の秋のように現役教頭となるとショックが大きいが(しかもあの事件の現場は札幌だった)、普通の、と言ってはなんだが、最近は一般的なわいせつ事件では驚かなくなってしまっている。そんなぼくでも、今回は二日連続の報道ということで少々驚いてしまった次第である。

今回は二件とも、教え子に対するわいせつ行為だ。一件は埼玉県の小学校教師(56)の小1女児へのわいせつ行為、もう一件は東京都の高校教師(52)の高3女子生徒へのわいせつ行為である。高校教師の方は論文指導と称してホテルに連れ込んだというのだからあきれる。

ぼくが今回このわいせつ事件について語ろうと思ったのは、実は二日連続で教師が逮捕されたことだけが理由なのではない。去年の現役教頭もそうだったが、今回の二人も年齢が五十代なのである。「五十路にもなってなんなのだ」というのは簡単だが、ちょっと考えてみようと思った。

ぼくは現在42だが、四十路を迎えて声を大にして言いたいことは、若い頃に漠然と感じていた「年齢を重ねるとともにアイデンティティが獲得され、次第に小さなことで頭を抱えたりくよくよしたりすることが少なくなっていくのだろう」という〈大人のイメージ〉はすべて嘘っ八だった、ということである。ぼくは15のときも25のときも35のときも、小さなことに頭を抱え、ほんの些細なことにもくよくよし続けてきた。そして42の現在も同様に頭を抱えくよくよしているのだ。

いま目の前にいるぼくの教え子たちも、もしかしたら大人になれば悩むことからも孤独感からも解放されるのではと幻想を抱いているかもしれない。しかし、ぼくらは彼らより少しだけ先の人生を歩む者として、「それは幻想だ。中年になったってその苦しみからは解放されないよ」と〈ほんとうのこと〉を語ってあげなければならないのではないか。むしろきみたちも経験してきた小学校時代とか、それ以前の幼少時時代のほうが悩みのない幸せな時間だったのだと。〈大人幻想〉は文字通り〈幻想〉だよと。15のときに「25になれば…」、25のときに「35になれば…」、35のときに「45になれば…」なんて未来に精神の安定を期待するのは、〈人生のからくり〉に過ぎないと。

そしておそらく、50になっても60になっても70になっても、この〈かにくり〉はまさしく〈からくり〉として機能し続けるのだろう。保護者を見ているとわかってくることがある。十代で子供を産んだ若い母親も、適齢期に子供を産んだ一般的な母親も、高齢出産でやっと子供を与ったという還暦に近い母親も、みんな子育てで同じように悩んでいた。いや、年齢が高くなればなるほど、悩みは深いようにさえ思えたほどである。それが現実だ。

おそらく今回の二人の教師も悩み戸惑いながら教員人生を歩んできたのだろう。56歳といえば全共闘に乗り遅れた世代である。52歳といえば足下から湧き上がってくる新人類世代におののいた世代である。いずれも世代的アイデンティティをもちにくかった世代と言われる。本当か嘘かはぼくにはわからない。しかしそういう実感を語る人間たちと同じ世代ではあるということだ。彼らはどこか時代に乗り遅れた、中途半端な世代なのかもしれない。

こういう決めつけに何の意味もないことをぼくも知っている。けれども五十代前半に心の病による休職者や自殺者が多い現実なんかを見ていると、彼らのメンタリティには、ただただバブルを謳歌した楽観的なぼくらの世代にはわからない、〈原罪〉のごとき感覚が巣くっているように見えるのだ。

そこに現れたネット社会、高度情報化社会である。ビデオもDVDもインターネットも、ある観点から見れば「人々がもともと持っていなかった欲望を、人々にもともと持っていたかのように錯覚させ、その錯覚的・幻想的欲望をどんどん拡大増殖させる」メディアである。去年のわいせつ教頭も含めて、模糊とした〈原罪〉意識を持ち、孤独で、世代アイデンティティが拡散しているおじさんたちは、 この構図にまんまと引っかけられてしまったのだろう。こんな構図に引っかけられて、この世界には存在しない〈幻想〉と自分の具体的な〈現実〉との狭間に生きるようになってしまったのである。「おじさんを愛してやまない女子高生」や「おじさんの躰をさわって性に目覚める少女」なんていう馬鹿げた幻想は、エロビデオとエロサイトの中にしかない。

昔から少女幻想は川端康成や谷崎潤一郎が描いてきたし、老いと性欲の問題は伊藤整や中村真一郎が描いてきた。しかし、彼らの行為にはそういった〈耽美的な性〉の欠片もない。「論文指導とラブホテル」にしても「小1女児に対する性的幻想」にしても、想像力というにはあまりにも表層的なレベルで構築されたインターネットや映像メディアによる負の産物である。比喩的に言えば、かつての「にっかつロマンポルノ」にあったロマンが欠落しているとでもいおうか(笑)。

この二人がそうだとは言わないが、ネットをはじめとする今日のメディア社会は、そうと自覚しないままになんとなく他人に流されながら生きてきた、免疫のない善良なおじさんたちを、次々に「性的欲求を増幅させ続けるエロじじい」や「小さな差違に敏感になったルサンチマンじじい」へと変容させていく。

いずれにしてもいい年にもなって馬鹿げた罪を犯してしまったのだから、法的には自分で責任を取り、法を超えたところに現れる家族や世間やなんやかやの取りようのない責任に怯えながら生きていくしかない。同情はしないが切なさは残る、そんな事件である。