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2008/10/05のBlog
[ 14:09 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
秋の累積国研が終わった。テーマは〈道内実践家 模擬授業12連発!新指導要領キーワード「PISA型読解力」「言語活動例」~「活用力」を高める国語科授業~〉である。この学習会は2002年に立ち上げられ、既に21回目を数える。「模擬授業12連発」という企画も5回目だ。今回は、続けることにも意義があるということを切に実感させてくれる会になった。若手の成長が著しい。こうした研究会を主催する者にとって、これが一番うれしいことである。
「話すこと・聞くこと」領域授業のコーナーで、O先生がプレゼンの授業をおこなった。
調理器具の絵(包丁・フライパン・食器セットなど)の絵を配付し、その絵を見ながら「これがもしも未来の調理器具だったら」ということでアイディアを出し、この絵を提示しながら未来の調理器具の目玉となる要素をプレゼンしようというもの。アイディア交流あり、プレゼン技能の解説あり、その活用法の振り返りありと、なかなかよく練られた授業である。
ただ、O先生が出したモデルが簡単すぎて、参加者から出たアイディアもそれほど画期的なものにならなかったところに少々難点があった。O先生の出したモデルは、包丁を提示して「この包丁は柄にセンサーがついていて、人間がもたないと刃が出ない、これまでの包丁よりも安全性が高まっている」というもの。モデルがこのような簡単なものだと、確かに下位の子どもたちにはアイディアを出しやすい。しかし、上位の子どもたちにはおそらく退屈なモデルとなり、「先生の求めているのはこの程度のアイディアだ」となってしまう可能性がある。それではいけない。
私は授業後のコメントで、「この包丁は人間がもつと『この包丁を危険なことに使いませんか?』と問われ、人間が『はい』と答えると柄についている嘘発見器が汗の量から測定・判断し、刃が出るかでないかが決まる。これで秋葉原のような事件もなくなっていく」という思いつきのモデルを示したが、ああの先生が出したモデルとともに、この程度のひねりのあるアイディアをも同時に提示すると、下位の子どもはO先生モデルを、上位の子どもは堀モデルを参考にしてアイディアを出すようになる。モデルを提示するときには、こうした硬軟二つのモデルを提示するのがいい。
もう一つ、これと対照的だったのが、M先生の選挙推薦スピーチの授業。のび太・ジャイアン・スネ夫の3人が児童会長に立候補した。参加者がこの3人のうち、だれか一人の選挙推薦人となって立ち会い演説会で推薦人としてのスピーチをする、という設定である。のび太・ジャイアン・スネ夫に関する資料(A4判各一枚)も配付され、参加者としてはそこから情報を取り出せば良い。
また、だれの推薦人になるかは封筒が配付されそれを開けて初めてわかるという念の入れよう。グループ分けがなされて交流してみると、そのグループのメンバーはみんな同じ人物の推薦人。交流においても同じ人物の推薦人として、自分と他人とがどういった観点で推薦文をつくったかが比較できる。更には、最後に情報の取り上げ方、発表の仕方の勘所についてシェアリングを行い、言語技術・言語技能的な振り返りで活動中の思考を整理することもできる。感心するほどによく準備された授業である。
しかし、この授業はあまりによく準備されているが故に、学習者側から見ればあまりに自由が利かない。まず、のび太・ジャイアン・スネ夫のうちだれの推薦人になるかを自分で選ぶことができない。第二に、それぞれA4判の資料が用意されているが故に、推薦文に書く内容の最大値があらかじめ決定してしまっている。第三に、グループ交流において他の人物の推薦者の原稿(情報の取り上げ方)を学ぶことができない。第四に、かなり窮屈な言語活動についてシェアリングするものだから、シェアリング自体にもダイナミックな意見が出てこない。総じて言語活動のダイナミズム、授業のダイナミズムを削り取る構成になっていた。
おそらくM先生としては、学習者がわかりやすいように、3人のキャラクターについて情報をもっていなくても困らないように、要するに下位の子どもたちにもちゃんと学習が成立するように、と考えた末の授業構成だったのだと思う。しかし、そうしたことに念を入れすぎて、学習者をがんじがらめにしてしまい、自由度のない、一分の隙も与えない授業を考案してしまったのである。
おそらくM先生はまじめな、いい先生なのである。そして、まじめでいい先生だからこそ、こういうふうに隙のない授業になる。隙のない授業が子どもの学習活動を機能させ、子どもを育てることは確かだが、隙のなさすぎる授業は子どもを縛り付け、子どものモチベーションを下げる。私はこれを「教師の一生懸命病」と呼んでいるのだが、M先生のようにここまで考えられる教師は、この「一生懸命病」に陥らないようなバランス感覚にも配慮し始めるべきだろう。授業だけでなく、学級経営でもそうなのだが、教材にも生徒指導にも〈余白〉がなければ、子どもたちが息切れしてしまう。それはそれで害になるのだ。まったく教育とは難しいものである。
その点、O先生の教材には、自分のアイディアを出して〈教材の余白〉を埋めてもよいという自由度があった。自由度があるからこそ、〈モデル〉の質が大切になったのである。M先生の授業は〈モデル〉が確立し過ぎていてかえって窮屈になってしまった例といえる。
この二つの模擬授業が連続して行われたことで、また、自分がこの二つの模擬授業のコメント者であったことで、こんな原理を考えることができた。感謝したい。
「話すこと・聞くこと」領域授業のコーナーで、O先生がプレゼンの授業をおこなった。
調理器具の絵(包丁・フライパン・食器セットなど)の絵を配付し、その絵を見ながら「これがもしも未来の調理器具だったら」ということでアイディアを出し、この絵を提示しながら未来の調理器具の目玉となる要素をプレゼンしようというもの。アイディア交流あり、プレゼン技能の解説あり、その活用法の振り返りありと、なかなかよく練られた授業である。
ただ、O先生が出したモデルが簡単すぎて、参加者から出たアイディアもそれほど画期的なものにならなかったところに少々難点があった。O先生の出したモデルは、包丁を提示して「この包丁は柄にセンサーがついていて、人間がもたないと刃が出ない、これまでの包丁よりも安全性が高まっている」というもの。モデルがこのような簡単なものだと、確かに下位の子どもたちにはアイディアを出しやすい。しかし、上位の子どもたちにはおそらく退屈なモデルとなり、「先生の求めているのはこの程度のアイディアだ」となってしまう可能性がある。それではいけない。
私は授業後のコメントで、「この包丁は人間がもつと『この包丁を危険なことに使いませんか?』と問われ、人間が『はい』と答えると柄についている嘘発見器が汗の量から測定・判断し、刃が出るかでないかが決まる。これで秋葉原のような事件もなくなっていく」という思いつきのモデルを示したが、ああの先生が出したモデルとともに、この程度のひねりのあるアイディアをも同時に提示すると、下位の子どもはO先生モデルを、上位の子どもは堀モデルを参考にしてアイディアを出すようになる。モデルを提示するときには、こうした硬軟二つのモデルを提示するのがいい。
もう一つ、これと対照的だったのが、M先生の選挙推薦スピーチの授業。のび太・ジャイアン・スネ夫の3人が児童会長に立候補した。参加者がこの3人のうち、だれか一人の選挙推薦人となって立ち会い演説会で推薦人としてのスピーチをする、という設定である。のび太・ジャイアン・スネ夫に関する資料(A4判各一枚)も配付され、参加者としてはそこから情報を取り出せば良い。
また、だれの推薦人になるかは封筒が配付されそれを開けて初めてわかるという念の入れよう。グループ分けがなされて交流してみると、そのグループのメンバーはみんな同じ人物の推薦人。交流においても同じ人物の推薦人として、自分と他人とがどういった観点で推薦文をつくったかが比較できる。更には、最後に情報の取り上げ方、発表の仕方の勘所についてシェアリングを行い、言語技術・言語技能的な振り返りで活動中の思考を整理することもできる。感心するほどによく準備された授業である。
しかし、この授業はあまりによく準備されているが故に、学習者側から見ればあまりに自由が利かない。まず、のび太・ジャイアン・スネ夫のうちだれの推薦人になるかを自分で選ぶことができない。第二に、それぞれA4判の資料が用意されているが故に、推薦文に書く内容の最大値があらかじめ決定してしまっている。第三に、グループ交流において他の人物の推薦者の原稿(情報の取り上げ方)を学ぶことができない。第四に、かなり窮屈な言語活動についてシェアリングするものだから、シェアリング自体にもダイナミックな意見が出てこない。総じて言語活動のダイナミズム、授業のダイナミズムを削り取る構成になっていた。
おそらくM先生としては、学習者がわかりやすいように、3人のキャラクターについて情報をもっていなくても困らないように、要するに下位の子どもたちにもちゃんと学習が成立するように、と考えた末の授業構成だったのだと思う。しかし、そうしたことに念を入れすぎて、学習者をがんじがらめにしてしまい、自由度のない、一分の隙も与えない授業を考案してしまったのである。
おそらくM先生はまじめな、いい先生なのである。そして、まじめでいい先生だからこそ、こういうふうに隙のない授業になる。隙のない授業が子どもの学習活動を機能させ、子どもを育てることは確かだが、隙のなさすぎる授業は子どもを縛り付け、子どものモチベーションを下げる。私はこれを「教師の一生懸命病」と呼んでいるのだが、M先生のようにここまで考えられる教師は、この「一生懸命病」に陥らないようなバランス感覚にも配慮し始めるべきだろう。授業だけでなく、学級経営でもそうなのだが、教材にも生徒指導にも〈余白〉がなければ、子どもたちが息切れしてしまう。それはそれで害になるのだ。まったく教育とは難しいものである。
その点、O先生の教材には、自分のアイディアを出して〈教材の余白〉を埋めてもよいという自由度があった。自由度があるからこそ、〈モデル〉の質が大切になったのである。M先生の授業は〈モデル〉が確立し過ぎていてかえって窮屈になってしまった例といえる。
この二つの模擬授業が連続して行われたことで、また、自分がこの二つの模擬授業のコメント者であったことで、こんな原理を考えることができた。感謝したい。
2008/10/03のBlog
[ 23:21 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
ある若い先生からメールで問い合わせが来た。「家庭訪問」の仕方について教えてほしいというのだ。保護者の方とうまく行かずに困っているという。何かにつけてクレームをつけられてきたのだが、今日は、家庭訪問をする時間、訪問態度、生徒の部屋に入っての生徒とのやりとりについても一つ一つ文句を言われたのだと言う。そして私へのメールとなったわけだ。
おいおい。
それがダメなんだよ。家庭訪問の仕方についてクレームをつけられたから家庭訪問の仕方について学ぼう、そんな学び方をしていたのでは、この先、懇談の持ち方が悪い、発言の取り上げ方が悪い、行事への取り組みが悪い、授業への取り組みが悪い、……どんどんクレームネタが増えていくだけである。だれでもわかることだ。
この10行程度のメールをその保護者と会ったことのない私が読んでさえ、事の本質が家庭訪問の仕方にあるわけではないことがわかる。〈家庭訪問の仕方〉なんて言う些末なことについて保護者が口にするなんてのは、この教師が謝罪をしに行ったのにちゃんと謝罪しなかったということが原因に決まっているではないか。それを保護者が(おそらくは)売り言葉に買い言葉的に言った〈家庭訪問の仕方〉へのクレームだと受け取ってしまうとは……。
人間、生きていれば様々なことに遭遇する。出会いがあり別れがあり、喧嘩もすれば仲直りもし、恋愛もすれば失恋もする。仕事がうまくいくこともあれば、うまくいかずに上司にこっぴどく叱られることもある。ちょっとした発見に喜んだり、趣味として夢中になって取り組んでいたものにふとしたきっかけで急にやる気を失うなんてこともある。「あの人は仕事が出来る」といわれる人は、こんな、一つ一つにつながりのないように思えることどもが、実はつながっていることを知っている人である。例えば、趣味でやっているサッカーのフォーメーションの原理と、職場の人間関係のつくり方に共通点を見出して、チーム力を仕事の原動力に変えていくエネルギーとする。例えば、好きなミュージシャンのライヴに行った折に展開されたアドリブからヒントを得て、学級運営に息のあったアドリブ的な趣が生まれるための要素について研究・開発していく。こういった例である。
私にメールをくれた若者は、簡単に言えば、一つ一つが頭の中で独立していて、それぞれの〈回路〉がつながっていないのである。〈回路〉がつながつていないから、考えていることや言ったことと、やっていることとのつながりが保護者にも生徒にもまったく見えない。だから、厳しいクレームにつながることになる。クレームの本質に〈家庭訪問の仕方〉などということはまったくきと言ってないはすだ。その保護者にしてみれば、あまりにも教師の態度が改まらないないので、そんなことまで口にしてしまうようになってしまったのである。何ヶ月も前から、この教師にはわからない、この教師が自覚していない、細かな難点がいくつもいくつもあったはずである。そして正直に言えば、この若い教師に対してネガティヴな感情をもっているのはその保護者だけではないだろう、私にはそう思える。
一応、昔書いた「失敗しない家庭訪問」という原稿を採録する。私は現在の勤務校に着任して以来、家庭訪問週間を経験していないので、これは前任校・向陵中学校での実践をもとに書いた原稿である。
〈自己キャラクター分析〉に基づいたメリハリある家庭訪問を心がける
1 教師にもそれぞれのキャラがある
私は現在、教職11年目である。この11年間はすべて担任だ。家庭訪問も11年間にわたって、毎年行き続けてきた。現在、私の家庭訪問の実態は、次のようなものだ。
母 どうもいらっしゃいませ。
堀 いやあ、どうも。堀でございます。
母 どうぞ、お入り下さい。
堀 失礼します。
母 どうも息子がお世話になっております。
堀 いえいえこちらこそ。本人は家でなんか言ってます? 新しい学級のこと。
母 ええ、とにかく楽しい、って。なんだかわいわいと……。
堀 おお、そりゃ良かった。なんたって楽しいのが一番だからねぇ。僕の印象は、なんか言ってますか?
母 はあ、なんか面白いけど、変な先生だって……。
堀 ははは……そうでしょう? みんなそういうんですよ。母さんはどうですか? 僕の印象、率直に言って……。
母 ……。
堀 いやあ、正直に言っていいんですよ。
率直に言って、悪かったでしょう? ひげ面だわ、でかいやらで……
終始、軽い調子である。こういった対話の在り方は、多くの若い教師に支持されるはずである。このように、教師と保護者とがざっくばらんに話すことができたら、教育活動もうまく行くことが多いのではないか……。若い教師はそう考えがちである。
しかし一方で、こういった訪問の在り方を失礼だと言う先生方も多い。特に、ベテラン教師の多くはそう考えるに違いない。そしてこうした考え方は、軽い調子の家庭訪問を11年間続けてきた私でさえ、肯定するのである。もしも同僚の新卒教師が、私の真似をしようとしたならば、私はすぐに「やめた方がいい」と助言するだろう。
教師にもそれぞれのキャラクターがある。このような家庭訪問での対話は、私という教師のキャラクター故なのである。つまり、学校でも生徒相手にこのキャラで教育活動を行っているからこそ、家庭訪問でもそれで通しているのだ。いわばこれは「演技」なのである。私は意識的に、こういうキャラを演じているのである。
2 まずは〈自己キャラ〉を分析する
例えば、同僚の女性教師が「こら!」などと大声を張り上げて生徒指導を行っているのを見て、違和感を覚えたことはないだろうか。或いは、どこから見ても強面の男性教師が生徒と和気藹々で談笑しているのを見て違和感を感じたことはないか。優しそうでまじめそうな細面の男性教師が、非行生徒と対面でやりあい、生徒に押し切られたのを見たことはないだろうか。これらはすべて、教師の「自己キャラ」分析ができていないことから生じた違和感なのである。
周知のように、学年の教師集団には、それぞれに役回りがある。
ある者は生活指導教師として、生徒の服装・頭髪・挨拶の仕方などに対して、厳しくチェックすることが役回りである(父性型教師)。ある者は教育相談的な教師として、カウンセリングマインドを旨とした繊細な接し方をする役回りである(母性型教師)。ある若手の教師は生徒たちの兄貴分として友達的な接し方をし、生徒達から教師には見えづらい情報を入手する(友人型教師)。こうした役回りがきちんと意識されており、それぞれが機能的に動き、尚かつチームワークがとれているというのが、理想的な学年集団である。
そして、それぞれの役回りは、学年に所属するそれぞれの教師のキャラクターによって設定されるのである。生徒指導においては、それぞれの教師のキャラクターを最大限に活かした役割分担がなさるべきなのである。また、この三つの役割のどれをも演じられる教師ほど、或いはそれぞれを使い分けられる教師ほど、教師としての実力が高いといえる。
こうした役割分担を意識した上で、私は学年の男性教諭の中では最も若く、生徒達を笑わせることも得意としているので、「友人型教師」の役回りを意識的に演じている。つまり、それが家庭訪問の在り方にも、つながっているわけである。
3 家庭訪問には十箇条がある
本稿のテーマは「失敗しない家庭訪問」である。一般的に家庭訪問が失敗しないためには、次のような十箇条が考えられるだろう。
(1)明確な目的をもって訪問すべし
家庭訪問の目的が、最低でも、家庭環境を把握することにあるのか、子どもの性行を確認することにあるのか、対応の仕方の話し合いにあるのか、このくらいは明確に意識して臨むべきであろう。
(2)細かな情報を用意すべし
一年間の行事の見通し、高校入試の情報、学校の基本姿勢といったことは、訊かれたときにすぐに答えられなくてはならない。わからないことを尋ねられた場合には、即答を避け、明日調べてお電話いたしますと答える。
(3)時間通りに訪問すべし
若い教師にはこれが難しいようである。家庭訪問は保護者がわざわざ時間を割いてくれている。できるだけ時間通りにまわらなくてはならない。また、時間通りにまわれる日程を立てなくてはならない。
(4)できるだけ本人を交えて話すべし
これは家庭訪問の目的によって変わることなので、必ずしも本人がいた方がいいと言えるものではない。しかし、年度初めの家庭訪問であれば、親子の会話の様子から親子関係をはかることもでき、また、教師と生徒との話し方、関わり方を保護者に見せることもできる。
(5)できるだけ褒めるべし
年度当初の家庭訪問から、注意や説諭が中心では保護者も警戒してしまう。短い期間で子どもの良いところを見つけ、それを伝えてあげることを忘れてはいけない。
(6)できるだけ具体的な話をすべし
子どもを「いい子ですね」「積極性がありますね」と抽象的に褒めるだけではいけない。具体的なエピソードを交えながら、保護者の目に浮かぶように描写的に語るべきである。
(7)メモは訪問後に取るべし
話をしている目の前でこと細かくメモを取られるのは、あまりいい気がしない。聞いた話をメモするというスタンスではなく、あくまでも「対話」をするつもりで訪問すべきだ。その場でのメモは大切な数字やデータ、健康に関わることのみとし、必要なメモは辞してからするのが礼儀に適う。
(8)プライバシーを口外するべからず
家庭訪問で何軒もまわっていると、先ほど訪問した家で出た話題と同じ話題が出ることがある。つい気がゆるんで、「○○さんでも同じことがあったそうですよ」などとやりがちである。これは厳禁である。
(9)他人を批判するべからず
保護者が子どもの友達の悪口を言ったり、ある教師を中傷したりする場合がある。いっしょになって非難するのは厳禁である。そういう噂は必ず漏れると心得るべきだ。
(10)接待を受けるべからず
若く独身の男の先生には、保護者もお菓子や飲み物だけでなく、夕食やビールを振る舞おうとする場合がある。これは絶対にいけない。あの先生は○○さんの家で酒を飲んだということが、次の日の朝には学年中が知っている、ということになる。また、ある家で接待を受け、ある家では受けないという差をつけることにもなるからだ。
以上の十箇条を守るならば、少なくとも「失敗しない家庭訪問」にはなるはずだ。
4 〈自己キャラ〉に応じたメリハリを
しかし、「失敗しない家庭訪問」は、あくまで「失敗しない」というだけのことである。「失敗しない」ことは「成功する」ことと同義ではない。そして、この「家庭訪問十箇条」を応用し、「自己キャラ」に応じて保護者と接し、自分を印象づけるとともに有益な情報を引き出してこそ、家庭訪問は「成功した」と言えるのである。
例えば、私は接待について、毎回生徒達に次のように言う。
「先生はコーヒーが好きです。それも濃~いコーヒーが好きです。薄いのはコーヒーだとは思っていません。家庭訪問に行くと、ケーキとか和菓子とか、いろんなものが出されますが、先生はそれらには一切手をつけません。基本的に気遣いはいらないんですが、もしも何かを出してくれるのなら、濃~いコーヒーをお願いしますと、父さん、母さんに言っといてください。お願いします。」
ここ6年ほど、この言い方で通すことにしている。二つの利点がある。
第一に、各家庭によって受ける接待に差が出ない、ということである。日本は贈答文化の国であるため、家庭訪問で先生が来ているのに、何も出さないというのは保護者も気が引けるようである。私はコーヒー好きなので、すべての訪問家庭でコーヒーをいただくことにしている。もちろん、その他には一切手をつけない。
第二に、教師の言ったことがどの程度ニュアンス通りに保護者に伝わるかをはかることができる、ということである。大抵の家では、保護者の方から「先生は濃~いコーヒーがお好きなんですって?」と、笑いながらコーヒーを出してくれる。これはこれでおいしくいただけばよい。しかし、中にはケーキと紅茶が出てきたりする家もある。こうした家では、間違いなく私の話が家庭の会話の中で出ていないのである。それほど罪のない言い方だからこそ、こうした日常的な会話の在り方をもはかることができるのだ。
もう一つ例を挙げよう。
一般に、家庭訪問ではプライバシーにあまり深く踏み込まない方がいいとされている。しかし、いわゆる母子・父子家庭の家庭環境の実態だけは是非ともつかんでおきたい。子どもに直接聞くにはデリケートな問題だからだ。ラポートがしっかりと取れた後ならともかく、年度当初ならばこれは保護者に聞いた方がよいだろう。ある程度、会話がはずんだところで、私は次のようにストレートに切り出すことにしている。
堀 ところで、失礼なんですけれども、○○さんは家庭環境調査によりますと母子家庭なんですけれども、お父さんは死別なんでしょうか、離婚なんでしょうか。
母 はあ、離婚です。
堀 本人はお父さんに会うことはあるんでしょうか。
母 はい、あります。時々ですけど。
堀 どのくらいの頻度ですか。
母 三ヶ月に一度くらいです。
堀 本人はお父さんのことをどのように言ってますか。お母さんの手前もあるでしょうけど……。
母 はい、ほとんどしゃべらないんですよ。
堀 まあ、その家庭家庭でいろいろでしょうけど、それはよくないかも知れませんね。精神的にも微妙な時期ですから……。お母さんが考えているよりも、中学生というのはずっと大人でいろんなことを考えていますから、機会を見て話してみるのもいいと思いますよ。
こういう話はまじめにする。それまでが軽い調子だっただけに、保護者も大切な話なのだという思いで対応してくれる。こういうメリハリも家庭訪問では大切なことである。こういったメリハリをどうつけるのかも、「自己キャラ」を知って、初めて決まるのである。
おいおい。
それがダメなんだよ。家庭訪問の仕方についてクレームをつけられたから家庭訪問の仕方について学ぼう、そんな学び方をしていたのでは、この先、懇談の持ち方が悪い、発言の取り上げ方が悪い、行事への取り組みが悪い、授業への取り組みが悪い、……どんどんクレームネタが増えていくだけである。だれでもわかることだ。
この10行程度のメールをその保護者と会ったことのない私が読んでさえ、事の本質が家庭訪問の仕方にあるわけではないことがわかる。〈家庭訪問の仕方〉なんて言う些末なことについて保護者が口にするなんてのは、この教師が謝罪をしに行ったのにちゃんと謝罪しなかったということが原因に決まっているではないか。それを保護者が(おそらくは)売り言葉に買い言葉的に言った〈家庭訪問の仕方〉へのクレームだと受け取ってしまうとは……。
人間、生きていれば様々なことに遭遇する。出会いがあり別れがあり、喧嘩もすれば仲直りもし、恋愛もすれば失恋もする。仕事がうまくいくこともあれば、うまくいかずに上司にこっぴどく叱られることもある。ちょっとした発見に喜んだり、趣味として夢中になって取り組んでいたものにふとしたきっかけで急にやる気を失うなんてこともある。「あの人は仕事が出来る」といわれる人は、こんな、一つ一つにつながりのないように思えることどもが、実はつながっていることを知っている人である。例えば、趣味でやっているサッカーのフォーメーションの原理と、職場の人間関係のつくり方に共通点を見出して、チーム力を仕事の原動力に変えていくエネルギーとする。例えば、好きなミュージシャンのライヴに行った折に展開されたアドリブからヒントを得て、学級運営に息のあったアドリブ的な趣が生まれるための要素について研究・開発していく。こういった例である。
私にメールをくれた若者は、簡単に言えば、一つ一つが頭の中で独立していて、それぞれの〈回路〉がつながっていないのである。〈回路〉がつながつていないから、考えていることや言ったことと、やっていることとのつながりが保護者にも生徒にもまったく見えない。だから、厳しいクレームにつながることになる。クレームの本質に〈家庭訪問の仕方〉などということはまったくきと言ってないはすだ。その保護者にしてみれば、あまりにも教師の態度が改まらないないので、そんなことまで口にしてしまうようになってしまったのである。何ヶ月も前から、この教師にはわからない、この教師が自覚していない、細かな難点がいくつもいくつもあったはずである。そして正直に言えば、この若い教師に対してネガティヴな感情をもっているのはその保護者だけではないだろう、私にはそう思える。
一応、昔書いた「失敗しない家庭訪問」という原稿を採録する。私は現在の勤務校に着任して以来、家庭訪問週間を経験していないので、これは前任校・向陵中学校での実践をもとに書いた原稿である。
〈自己キャラクター分析〉に基づいたメリハリある家庭訪問を心がける
1 教師にもそれぞれのキャラがある
私は現在、教職11年目である。この11年間はすべて担任だ。家庭訪問も11年間にわたって、毎年行き続けてきた。現在、私の家庭訪問の実態は、次のようなものだ。
母 どうもいらっしゃいませ。
堀 いやあ、どうも。堀でございます。
母 どうぞ、お入り下さい。
堀 失礼します。
母 どうも息子がお世話になっております。
堀 いえいえこちらこそ。本人は家でなんか言ってます? 新しい学級のこと。
母 ええ、とにかく楽しい、って。なんだかわいわいと……。
堀 おお、そりゃ良かった。なんたって楽しいのが一番だからねぇ。僕の印象は、なんか言ってますか?
母 はあ、なんか面白いけど、変な先生だって……。
堀 ははは……そうでしょう? みんなそういうんですよ。母さんはどうですか? 僕の印象、率直に言って……。
母 ……。
堀 いやあ、正直に言っていいんですよ。
率直に言って、悪かったでしょう? ひげ面だわ、でかいやらで……
終始、軽い調子である。こういった対話の在り方は、多くの若い教師に支持されるはずである。このように、教師と保護者とがざっくばらんに話すことができたら、教育活動もうまく行くことが多いのではないか……。若い教師はそう考えがちである。
しかし一方で、こういった訪問の在り方を失礼だと言う先生方も多い。特に、ベテラン教師の多くはそう考えるに違いない。そしてこうした考え方は、軽い調子の家庭訪問を11年間続けてきた私でさえ、肯定するのである。もしも同僚の新卒教師が、私の真似をしようとしたならば、私はすぐに「やめた方がいい」と助言するだろう。
教師にもそれぞれのキャラクターがある。このような家庭訪問での対話は、私という教師のキャラクター故なのである。つまり、学校でも生徒相手にこのキャラで教育活動を行っているからこそ、家庭訪問でもそれで通しているのだ。いわばこれは「演技」なのである。私は意識的に、こういうキャラを演じているのである。
2 まずは〈自己キャラ〉を分析する
例えば、同僚の女性教師が「こら!」などと大声を張り上げて生徒指導を行っているのを見て、違和感を覚えたことはないだろうか。或いは、どこから見ても強面の男性教師が生徒と和気藹々で談笑しているのを見て違和感を感じたことはないか。優しそうでまじめそうな細面の男性教師が、非行生徒と対面でやりあい、生徒に押し切られたのを見たことはないだろうか。これらはすべて、教師の「自己キャラ」分析ができていないことから生じた違和感なのである。
周知のように、学年の教師集団には、それぞれに役回りがある。
ある者は生活指導教師として、生徒の服装・頭髪・挨拶の仕方などに対して、厳しくチェックすることが役回りである(父性型教師)。ある者は教育相談的な教師として、カウンセリングマインドを旨とした繊細な接し方をする役回りである(母性型教師)。ある若手の教師は生徒たちの兄貴分として友達的な接し方をし、生徒達から教師には見えづらい情報を入手する(友人型教師)。こうした役回りがきちんと意識されており、それぞれが機能的に動き、尚かつチームワークがとれているというのが、理想的な学年集団である。
そして、それぞれの役回りは、学年に所属するそれぞれの教師のキャラクターによって設定されるのである。生徒指導においては、それぞれの教師のキャラクターを最大限に活かした役割分担がなさるべきなのである。また、この三つの役割のどれをも演じられる教師ほど、或いはそれぞれを使い分けられる教師ほど、教師としての実力が高いといえる。
こうした役割分担を意識した上で、私は学年の男性教諭の中では最も若く、生徒達を笑わせることも得意としているので、「友人型教師」の役回りを意識的に演じている。つまり、それが家庭訪問の在り方にも、つながっているわけである。
3 家庭訪問には十箇条がある
本稿のテーマは「失敗しない家庭訪問」である。一般的に家庭訪問が失敗しないためには、次のような十箇条が考えられるだろう。
(1)明確な目的をもって訪問すべし
家庭訪問の目的が、最低でも、家庭環境を把握することにあるのか、子どもの性行を確認することにあるのか、対応の仕方の話し合いにあるのか、このくらいは明確に意識して臨むべきであろう。
(2)細かな情報を用意すべし
一年間の行事の見通し、高校入試の情報、学校の基本姿勢といったことは、訊かれたときにすぐに答えられなくてはならない。わからないことを尋ねられた場合には、即答を避け、明日調べてお電話いたしますと答える。
(3)時間通りに訪問すべし
若い教師にはこれが難しいようである。家庭訪問は保護者がわざわざ時間を割いてくれている。できるだけ時間通りにまわらなくてはならない。また、時間通りにまわれる日程を立てなくてはならない。
(4)できるだけ本人を交えて話すべし
これは家庭訪問の目的によって変わることなので、必ずしも本人がいた方がいいと言えるものではない。しかし、年度初めの家庭訪問であれば、親子の会話の様子から親子関係をはかることもでき、また、教師と生徒との話し方、関わり方を保護者に見せることもできる。
(5)できるだけ褒めるべし
年度当初の家庭訪問から、注意や説諭が中心では保護者も警戒してしまう。短い期間で子どもの良いところを見つけ、それを伝えてあげることを忘れてはいけない。
(6)できるだけ具体的な話をすべし
子どもを「いい子ですね」「積極性がありますね」と抽象的に褒めるだけではいけない。具体的なエピソードを交えながら、保護者の目に浮かぶように描写的に語るべきである。
(7)メモは訪問後に取るべし
話をしている目の前でこと細かくメモを取られるのは、あまりいい気がしない。聞いた話をメモするというスタンスではなく、あくまでも「対話」をするつもりで訪問すべきだ。その場でのメモは大切な数字やデータ、健康に関わることのみとし、必要なメモは辞してからするのが礼儀に適う。
(8)プライバシーを口外するべからず
家庭訪問で何軒もまわっていると、先ほど訪問した家で出た話題と同じ話題が出ることがある。つい気がゆるんで、「○○さんでも同じことがあったそうですよ」などとやりがちである。これは厳禁である。
(9)他人を批判するべからず
保護者が子どもの友達の悪口を言ったり、ある教師を中傷したりする場合がある。いっしょになって非難するのは厳禁である。そういう噂は必ず漏れると心得るべきだ。
(10)接待を受けるべからず
若く独身の男の先生には、保護者もお菓子や飲み物だけでなく、夕食やビールを振る舞おうとする場合がある。これは絶対にいけない。あの先生は○○さんの家で酒を飲んだということが、次の日の朝には学年中が知っている、ということになる。また、ある家で接待を受け、ある家では受けないという差をつけることにもなるからだ。
以上の十箇条を守るならば、少なくとも「失敗しない家庭訪問」にはなるはずだ。
4 〈自己キャラ〉に応じたメリハリを
しかし、「失敗しない家庭訪問」は、あくまで「失敗しない」というだけのことである。「失敗しない」ことは「成功する」ことと同義ではない。そして、この「家庭訪問十箇条」を応用し、「自己キャラ」に応じて保護者と接し、自分を印象づけるとともに有益な情報を引き出してこそ、家庭訪問は「成功した」と言えるのである。
例えば、私は接待について、毎回生徒達に次のように言う。
「先生はコーヒーが好きです。それも濃~いコーヒーが好きです。薄いのはコーヒーだとは思っていません。家庭訪問に行くと、ケーキとか和菓子とか、いろんなものが出されますが、先生はそれらには一切手をつけません。基本的に気遣いはいらないんですが、もしも何かを出してくれるのなら、濃~いコーヒーをお願いしますと、父さん、母さんに言っといてください。お願いします。」
ここ6年ほど、この言い方で通すことにしている。二つの利点がある。
第一に、各家庭によって受ける接待に差が出ない、ということである。日本は贈答文化の国であるため、家庭訪問で先生が来ているのに、何も出さないというのは保護者も気が引けるようである。私はコーヒー好きなので、すべての訪問家庭でコーヒーをいただくことにしている。もちろん、その他には一切手をつけない。
第二に、教師の言ったことがどの程度ニュアンス通りに保護者に伝わるかをはかることができる、ということである。大抵の家では、保護者の方から「先生は濃~いコーヒーがお好きなんですって?」と、笑いながらコーヒーを出してくれる。これはこれでおいしくいただけばよい。しかし、中にはケーキと紅茶が出てきたりする家もある。こうした家では、間違いなく私の話が家庭の会話の中で出ていないのである。それほど罪のない言い方だからこそ、こうした日常的な会話の在り方をもはかることができるのだ。
もう一つ例を挙げよう。
一般に、家庭訪問ではプライバシーにあまり深く踏み込まない方がいいとされている。しかし、いわゆる母子・父子家庭の家庭環境の実態だけは是非ともつかんでおきたい。子どもに直接聞くにはデリケートな問題だからだ。ラポートがしっかりと取れた後ならともかく、年度当初ならばこれは保護者に聞いた方がよいだろう。ある程度、会話がはずんだところで、私は次のようにストレートに切り出すことにしている。
堀 ところで、失礼なんですけれども、○○さんは家庭環境調査によりますと母子家庭なんですけれども、お父さんは死別なんでしょうか、離婚なんでしょうか。
母 はあ、離婚です。
堀 本人はお父さんに会うことはあるんでしょうか。
母 はい、あります。時々ですけど。
堀 どのくらいの頻度ですか。
母 三ヶ月に一度くらいです。
堀 本人はお父さんのことをどのように言ってますか。お母さんの手前もあるでしょうけど……。
母 はい、ほとんどしゃべらないんですよ。
堀 まあ、その家庭家庭でいろいろでしょうけど、それはよくないかも知れませんね。精神的にも微妙な時期ですから……。お母さんが考えているよりも、中学生というのはずっと大人でいろんなことを考えていますから、機会を見て話してみるのもいいと思いますよ。
こういう話はまじめにする。それまでが軽い調子だっただけに、保護者も大切な話なのだという思いで対応してくれる。こういうメリハリも家庭訪問では大切なことである。こういったメリハリをどうつけるのかも、「自己キャラ」を知って、初めて決まるのである。
2008/10/02のBlog
[ 20:47 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
体調が優れなくてずーっとバドミントンをしないでいたのだが、なんとも肩がこってしまい、さすがに運動不足が自覚されるようになってしまった。複数の病院に行って「異常なし」とは言われているものの、不整脈が出ていて循環器系の病気の可能性もあると思って激しい運動は控えてきた。しかし今日は、死ぬなら死ねと思って部活に行き、生徒とともに30分ほど汗を流した。ついさっきまでばりばりだったが右肩がほぐれている。なんとも心地いい。
ストレッチをしながら階段をあがると、廊下に「総合的な学習の時間」に関するポスターがある。いわく「地域に学ぶ」。地域の老人といっしょに、生徒たちが笑顔でゴミ拾いをする光景が撮られている。どこの生徒なのか知らないが、このゴミ拾いから、この生徒たちはどんな「地域に学ぶ」を経験したのだろうか。汗だくになりながらもそんなことを忘れて、はたと立ち止まってしまった。
「総合的な学習の時間」の導入とともに大々的に学校教育に取り入れられた〈地域に根ざした〉という名の体験学習。果たして現在、私たちは〈地域〉から何を学び得るのか。〈地域〉などいうものに学ぶべきものなどあるのか。そもそも〈地域〉とは何か。〈地域〉の土地のことか、人のことか、生活のことか、経済のことか、それとも歴史のことか。いや、「総合的な学習の時間」は、或いは学校教育はこれらを無目的にひっくるめて〈地域〉と呼んでいるのである。
しかも、そこにはあらかじめすべての地域にはその地域独自の〈特色〉があるということが前提されている。このこと自体は決して疑われない。本当にこの地域に〈特色〉などあるのかという問いは決して立てられることがない。自分の住んでいる地域の〈特色〉を知ることはその地域に〈誇り〉をもつことにつながる、地域に〈誇り〉をもつことは中間地域への〈誇り〉へとつながり国家への〈誇り〉へとつながる、国家・国民として〈誇り〉をもてば日本国民としての〈誇り〉を失うことなく、他者に対してもその他者の〈誇り〉を尊重する態度につながっていくはずだ、そしてこうした営みは必ずや〈国際理解〉へと発展していくはずだ、理屈としてはそういうことである。80年代以来、日本学を勉強してきたアメリカ人の方が俳句や狂言について詳しい、日本の教育は何をやっているのだ、真の国際理解教育は自国を知り誇りをもつことから始まるべきではないか、そんな批判が喧伝されたのを受けて出てきた短絡的な発想である。
例えば私は盆踊りが大好きで(踊るのが好きなのではなく、踊っている人たち、特に子どもたちを見ているのが好きなのだ)、毎年、町内会の盆踊りには犬を連れて必ず足を運んでビールと焼き鳥でへべれけになるのだが、しかしこのことによって町内会に愛着を感じると言うことはほとんどない。それは隣の町内会でも同じように行われていることであり、隣町でも、また更に隣の町でも同じように行われているはずのものである。子どもの頃、祖母がまだ健在で若かった頃、生まれ故郷のサロマ湖の町で見た盆踊りもまったく同じだった。別に私の住む地域に他と分かちがたいような〈地域の特色〉などない。
そもそも、日本人以上にアメリカ人が日本文化を知っていることが恥だと思うなら、何も大上段に「地域」などという曖昧なことを言い出さないで、俳句と短歌と川柳と狂言と歌舞伎と文楽と……を学校教育のカリキュラムにドンと入れればいいではないか。「話すこと・聞くこと」だの「書くこと」だの「総合」だの「選択」だのとあれほど騒いで、10年そこそこで「はいやーめた」とやるくらいなら、日本文化の形式美と粋な文芸美と世話物の人情味にでも触れた方がずっと生産的だったかもしれない。
もう一つ、私には譲れない思いがある。例えば、避難訓練に現役の消防士さんに来ていただいた折、彼はひと通り消防士として気をつけて欲しいことを生徒たちにはなしたあと、延々5分も「夢をもって生きて欲しい」なんていうことを語り出した。例えば、ある町内会長のご老人は町内会の構造的な位置づけと地域の町内会活動についてはなしたあと、「平和な社会に生まれたきみたちは幸せである」「若い頃はに悩めるということ自体が幸せである」「どんなに親しい人でも借金の保証人にだけはなってはいけない」とあっちに行ったりこっちに行ったりという話を延々と15分も続けた。これらは現役教員としての私には見ていて痛かった。なんとも背中がむずがゆくなってしまった。言ってみれば、これが〈地域〉なのである。
この構造は簡単だ。テレビ番組から聞きかじった現代の子ども象の紋切り型で「生徒像」を想定し、テレビ番組で聞きかじった人間の在り方の紋切り型で「人生像」を想定し、自分が生徒たちの何かを変えられるのではないかと自己欺瞞・自己偽善・自己満足を得んがために、どこにでもいるおじさんがどこにでもある話をどこにでもあるしゃべり方で延々とお説教を展開するのである。これが〈地域の特色〉なのか。生徒たちも途中からうんざりである。
これがテレビでよく見るだれそれが言っているのであれば話は変わってくる。生徒たちは同じ話を聞いても生き生きとするだろう。うんざり顔などだれ一人見せずに、食い入るように話に集中するだろう。結局、現代人には、自分を日常的に取り囲む近景的な人々と、テレビで見ることのできる遠景的な著名人しか必要とされないのである。これは生徒ばかりではない。消防士さんや町内会長さんだって、彼らの話を聞く具体的な○○中学校の生徒に話をしたのではない。テレビで見た「金八先生の教え子たち」や「報道番組で見た現代を象徴する中学生たち」に話しているのであって、やはりそこには〈対・遠景〉があるのである。だから伝わらないし、だから見向きもされないし、だからうんざりされるのだ。そもそも彼らは「伝えよう」という心持ちさえほんとうは持ち得ていないのだ。
もちろん全国をくまなく探せば、千や万の独自の特色をもつ地域はあるだろう。しかし、そういった大文字の〈地域〉にある学校でない限り、実は「地域に学ぶ」という学習は成立し得ないのである。
ストレッチをしながら階段をあがると、廊下に「総合的な学習の時間」に関するポスターがある。いわく「地域に学ぶ」。地域の老人といっしょに、生徒たちが笑顔でゴミ拾いをする光景が撮られている。どこの生徒なのか知らないが、このゴミ拾いから、この生徒たちはどんな「地域に学ぶ」を経験したのだろうか。汗だくになりながらもそんなことを忘れて、はたと立ち止まってしまった。
「総合的な学習の時間」の導入とともに大々的に学校教育に取り入れられた〈地域に根ざした〉という名の体験学習。果たして現在、私たちは〈地域〉から何を学び得るのか。〈地域〉などいうものに学ぶべきものなどあるのか。そもそも〈地域〉とは何か。〈地域〉の土地のことか、人のことか、生活のことか、経済のことか、それとも歴史のことか。いや、「総合的な学習の時間」は、或いは学校教育はこれらを無目的にひっくるめて〈地域〉と呼んでいるのである。
しかも、そこにはあらかじめすべての地域にはその地域独自の〈特色〉があるということが前提されている。このこと自体は決して疑われない。本当にこの地域に〈特色〉などあるのかという問いは決して立てられることがない。自分の住んでいる地域の〈特色〉を知ることはその地域に〈誇り〉をもつことにつながる、地域に〈誇り〉をもつことは中間地域への〈誇り〉へとつながり国家への〈誇り〉へとつながる、国家・国民として〈誇り〉をもてば日本国民としての〈誇り〉を失うことなく、他者に対してもその他者の〈誇り〉を尊重する態度につながっていくはずだ、そしてこうした営みは必ずや〈国際理解〉へと発展していくはずだ、理屈としてはそういうことである。80年代以来、日本学を勉強してきたアメリカ人の方が俳句や狂言について詳しい、日本の教育は何をやっているのだ、真の国際理解教育は自国を知り誇りをもつことから始まるべきではないか、そんな批判が喧伝されたのを受けて出てきた短絡的な発想である。
例えば私は盆踊りが大好きで(踊るのが好きなのではなく、踊っている人たち、特に子どもたちを見ているのが好きなのだ)、毎年、町内会の盆踊りには犬を連れて必ず足を運んでビールと焼き鳥でへべれけになるのだが、しかしこのことによって町内会に愛着を感じると言うことはほとんどない。それは隣の町内会でも同じように行われていることであり、隣町でも、また更に隣の町でも同じように行われているはずのものである。子どもの頃、祖母がまだ健在で若かった頃、生まれ故郷のサロマ湖の町で見た盆踊りもまったく同じだった。別に私の住む地域に他と分かちがたいような〈地域の特色〉などない。
そもそも、日本人以上にアメリカ人が日本文化を知っていることが恥だと思うなら、何も大上段に「地域」などという曖昧なことを言い出さないで、俳句と短歌と川柳と狂言と歌舞伎と文楽と……を学校教育のカリキュラムにドンと入れればいいではないか。「話すこと・聞くこと」だの「書くこと」だの「総合」だの「選択」だのとあれほど騒いで、10年そこそこで「はいやーめた」とやるくらいなら、日本文化の形式美と粋な文芸美と世話物の人情味にでも触れた方がずっと生産的だったかもしれない。
もう一つ、私には譲れない思いがある。例えば、避難訓練に現役の消防士さんに来ていただいた折、彼はひと通り消防士として気をつけて欲しいことを生徒たちにはなしたあと、延々5分も「夢をもって生きて欲しい」なんていうことを語り出した。例えば、ある町内会長のご老人は町内会の構造的な位置づけと地域の町内会活動についてはなしたあと、「平和な社会に生まれたきみたちは幸せである」「若い頃はに悩めるということ自体が幸せである」「どんなに親しい人でも借金の保証人にだけはなってはいけない」とあっちに行ったりこっちに行ったりという話を延々と15分も続けた。これらは現役教員としての私には見ていて痛かった。なんとも背中がむずがゆくなってしまった。言ってみれば、これが〈地域〉なのである。
この構造は簡単だ。テレビ番組から聞きかじった現代の子ども象の紋切り型で「生徒像」を想定し、テレビ番組で聞きかじった人間の在り方の紋切り型で「人生像」を想定し、自分が生徒たちの何かを変えられるのではないかと自己欺瞞・自己偽善・自己満足を得んがために、どこにでもいるおじさんがどこにでもある話をどこにでもあるしゃべり方で延々とお説教を展開するのである。これが〈地域の特色〉なのか。生徒たちも途中からうんざりである。
これがテレビでよく見るだれそれが言っているのであれば話は変わってくる。生徒たちは同じ話を聞いても生き生きとするだろう。うんざり顔などだれ一人見せずに、食い入るように話に集中するだろう。結局、現代人には、自分を日常的に取り囲む近景的な人々と、テレビで見ることのできる遠景的な著名人しか必要とされないのである。これは生徒ばかりではない。消防士さんや町内会長さんだって、彼らの話を聞く具体的な○○中学校の生徒に話をしたのではない。テレビで見た「金八先生の教え子たち」や「報道番組で見た現代を象徴する中学生たち」に話しているのであって、やはりそこには〈対・遠景〉があるのである。だから伝わらないし、だから見向きもされないし、だからうんざりされるのだ。そもそも彼らは「伝えよう」という心持ちさえほんとうは持ち得ていないのだ。
もちろん全国をくまなく探せば、千や万の独自の特色をもつ地域はあるだろう。しかし、そういった大文字の〈地域〉にある学校でない限り、実は「地域に学ぶ」という学習は成立し得ないのである。
2008/10/01のBlog
[ 23:40 ]
[ 裕々自適/書斎日記 ]
代表質問。小沢一郎民主党代表が自らの代表質問、麻生総理の答弁が終わった時点で、15分ほど議会の席を立って休憩に行ったらしい。それに腹を立てたのか、ちょうど代表質問に立っていた細田官房長官が小沢代表の批判をNo原稿で始めたらしい。
いわく、小沢代表がかつて自民党から離脱した折、いっしょについて行き、現在自民党に復党している議員が15名いる。彼らは「もう小沢政治はこりごりだ。自由な自民党が一番いい」と言っている。こういう発言だった。ぼくはこれを、報道ステーションで〈編集された映像〉で見たので、前後の文脈がわからない。この番組はかなり際どい編集をすることで有名である。しかも、風呂上がりにビールを一杯、という見方でもあったので、発言するには少々心許ない情報で発言するのを知った上で書く。少なくとも映像として残っているのだから、この発言があったことだけは確かであるからだ。ぼくがいかに書く批判はそれだけで十分なのだ。
くはこの発言は問題だと思う。ここで細田官房長官が批判しているのは「小沢一郎代表の人となり」であって、「民主党の政策」や「民主党代表としての小沢一郎氏の発言」ではない。これは国会の発言としてふさわしいのだろうか。「ここで中座するのは失礼だろ」と、小沢氏を瞬時に叱責したのであればまだ話はわかる。場の論理に規定された、「生もの」としての発言になるからだ。しかし、細田官房長官の発言はそうではない。90年代前半の、既に15年も前の出来事を話題に挙げ、その意味・意義の批判でもなく、小沢氏の言動に対する批判でもなく、かつて小沢氏の周辺にいた人物による伝聞によって、なんの論証もなく、人間批判をして負のイメージを喚起しようとしたのである。しかも国会で…。国会でである。しつこいようだが、いいですか? 「国会」でですよ。
公の会議の場でも他人にの人となりを批判することが許される…そんなコンセンサスがこの国でいつ得られたのか。
これが認められたら、地方議会も、会社の会議も、町内会の会合も、学校で言えば職員会議も学級会も、すべての議論の場が崩壊してしまうではないか。議論をする上での根本的な規範が崩壊してしまうではないか。
ぼくは別に小沢氏や民主党を支持しているのではない。自分の代表質問が終わった途端に休憩に入る小沢氏は責められて然るべきだし、細田官房長官が腹を立てるのもおかしなことではないだろう。しかし、しかしである。その問題と〈議論の作法〉の問題とは別の問題である。いくら腹を立てても、やっていいこととわるいことがある。公の会議というものは「言いたいこと」を言うのではなく、あくまでも「言うべきこと」をこそ言わねばならない。少なくともぼくは生徒たちにそう指導している。それが〈議論の作法〉である、と。
その昔、学校教育にディベートが盛んに導入され始めた頃、様々な批判があった。批判の仕方はいろいろあるが、要は二つである。①子どもが本当に思っていることではないことを、議論の練習だと言って主張させるのはおかしい、②ディベートで議論の練習をしても口先人間をつくるだけである、という二点である。
ぼくは現在ディベート教育に賛成の立場をとるけれども、ここでディベート教育の良さを主張するつもりはない。しかし、今週に入ってからの国会は、どうもこの二つの批判がまるまんま当て嵌まる議論になっているようだ。〈本当に思っていること〉を〈強い口調で主張すること〉が国会を盛り上げ、国民に政策を訴えることになり、活発で良い議論になる、という馬鹿げた風潮に縛られているのではないか、ということである。つまりは政治家が、〈本当に思っていること〉を言う口先人間に成り下がっているのである。それが相手の人となりを批判しても良いのだという空気を無意識のうちに作り出しているのではないか。言っておくが、今日の細田官房長官の発言は「批判」ではない。「非難」である。「人格に対する非難」である。小学校の学級会でさえ先生が絶対に禁じる、議論の前提の前提を侵しているのだ。公の議論における「禁じ手」を、恥じることなく、堂々と展開したのである
そして、何度も何度も繰り返すが、それが「国会」で行われたのだ。いいのか、これで。
一年前、昨今の子供たちには規範がない、学校教育が毅然とした指導を行えるように、そう教育基本法改訂に力を入れた首相が政権を放り投げた。そして今日、官房長官が小沢一郎という政治家個人の人となりを「国会」で非難した。彼らは自分たちが、国民の、そして子供たちのモデルになっているということを自覚しなければならない。
いわく、小沢代表がかつて自民党から離脱した折、いっしょについて行き、現在自民党に復党している議員が15名いる。彼らは「もう小沢政治はこりごりだ。自由な自民党が一番いい」と言っている。こういう発言だった。ぼくはこれを、報道ステーションで〈編集された映像〉で見たので、前後の文脈がわからない。この番組はかなり際どい編集をすることで有名である。しかも、風呂上がりにビールを一杯、という見方でもあったので、発言するには少々心許ない情報で発言するのを知った上で書く。少なくとも映像として残っているのだから、この発言があったことだけは確かであるからだ。ぼくがいかに書く批判はそれだけで十分なのだ。
くはこの発言は問題だと思う。ここで細田官房長官が批判しているのは「小沢一郎代表の人となり」であって、「民主党の政策」や「民主党代表としての小沢一郎氏の発言」ではない。これは国会の発言としてふさわしいのだろうか。「ここで中座するのは失礼だろ」と、小沢氏を瞬時に叱責したのであればまだ話はわかる。場の論理に規定された、「生もの」としての発言になるからだ。しかし、細田官房長官の発言はそうではない。90年代前半の、既に15年も前の出来事を話題に挙げ、その意味・意義の批判でもなく、小沢氏の言動に対する批判でもなく、かつて小沢氏の周辺にいた人物による伝聞によって、なんの論証もなく、人間批判をして負のイメージを喚起しようとしたのである。しかも国会で…。国会でである。しつこいようだが、いいですか? 「国会」でですよ。
公の会議の場でも他人にの人となりを批判することが許される…そんなコンセンサスがこの国でいつ得られたのか。
これが認められたら、地方議会も、会社の会議も、町内会の会合も、学校で言えば職員会議も学級会も、すべての議論の場が崩壊してしまうではないか。議論をする上での根本的な規範が崩壊してしまうではないか。
ぼくは別に小沢氏や民主党を支持しているのではない。自分の代表質問が終わった途端に休憩に入る小沢氏は責められて然るべきだし、細田官房長官が腹を立てるのもおかしなことではないだろう。しかし、しかしである。その問題と〈議論の作法〉の問題とは別の問題である。いくら腹を立てても、やっていいこととわるいことがある。公の会議というものは「言いたいこと」を言うのではなく、あくまでも「言うべきこと」をこそ言わねばならない。少なくともぼくは生徒たちにそう指導している。それが〈議論の作法〉である、と。
その昔、学校教育にディベートが盛んに導入され始めた頃、様々な批判があった。批判の仕方はいろいろあるが、要は二つである。①子どもが本当に思っていることではないことを、議論の練習だと言って主張させるのはおかしい、②ディベートで議論の練習をしても口先人間をつくるだけである、という二点である。
ぼくは現在ディベート教育に賛成の立場をとるけれども、ここでディベート教育の良さを主張するつもりはない。しかし、今週に入ってからの国会は、どうもこの二つの批判がまるまんま当て嵌まる議論になっているようだ。〈本当に思っていること〉を〈強い口調で主張すること〉が国会を盛り上げ、国民に政策を訴えることになり、活発で良い議論になる、という馬鹿げた風潮に縛られているのではないか、ということである。つまりは政治家が、〈本当に思っていること〉を言う口先人間に成り下がっているのである。それが相手の人となりを批判しても良いのだという空気を無意識のうちに作り出しているのではないか。言っておくが、今日の細田官房長官の発言は「批判」ではない。「非難」である。「人格に対する非難」である。小学校の学級会でさえ先生が絶対に禁じる、議論の前提の前提を侵しているのだ。公の議論における「禁じ手」を、恥じることなく、堂々と展開したのである
そして、何度も何度も繰り返すが、それが「国会」で行われたのだ。いいのか、これで。
一年前、昨今の子供たちには規範がない、学校教育が毅然とした指導を行えるように、そう教育基本法改訂に力を入れた首相が政権を放り投げた。そして今日、官房長官が小沢一郎という政治家個人の人となりを「国会」で非難した。彼らは自分たちが、国民の、そして子供たちのモデルになっているということを自覚しなければならない。