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裕弁は銀・沈黙は金~堀裕嗣.com
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2008/10/12のBlog
[ 19:43 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
横浜の野中先生が「時代に合わなくなっている教員養成のシステム」と題して、教員養成課程の大学教育を批判している。教員養成大学がいまだに昔ながらの教養主義的なカリキュラムを組んでいて、担任学・教師学・実践学など、総じて現場に直接役立つような教育を施していない。だから、新卒教員はクラスにいる2,3人のやんちゃ坊主たちにいいようにクラスをかき回され、学級崩壊か崩壊寸前まで行くなんてことになってしまう。もっと初任者にきちんとした問題意識を持たせ、現状を知らせ、それに対する対処法を持たせなくてはならない。こういう論理である。

その例として、私も親交のある池田修(京都橘大学)や赤坂真二(上越教育大学)が開講しているような「学級担任学」「勇気づけ学級経営論」を挙げ、こういった実学的な講座こそ大切である、という。こういう現場の現実に立脚した講座が多くなれば、新卒教員に少なくとも「甘っちょろい思い」だけは払拭されていく。こう結論づける。

私はこれを読んで、野中先生ともあろうお人がなんという短絡的な発想に埋没しているのかといぶかしく思う。私も別に「学級担任論」や「勇気づけ学級経営論」の開講に反対しないが、こうした実学的講座を教員養成系大学のカリキュラムの〈主流〉にしていくことには断固反対である。

新卒教員がいまひとつ現場で働ききれないのは、私も確かだろうとは思う。しかし、それを大学教育を実学化すればよいと考えるのは短絡である。現在の教養主義的大学教育にしっかりと向き合えない学生にとっては、実学的な大学教育にはもっと正対できないものになるだろうと予想するからである。

確かに大学教育が実学的な講座を開設すれば学生たちは喜ぶに違いない。しかし、なぜ喜ぶかが問題である。それは現場に出てからこの素養があれば〈楽になるだろう〉と学生たちには想像されるからである。だが、頭で実学を学ぶことと、現場で、その渦中にいる者として現状に対して行くこととの間には、天と地ほどの違いがある。実学だけを学んだ学生が現場に出て、その教養の欠片もない実学頭で、習ったこと以上の事態に遭遇したとき、その学生はいったいどうなるのか。結局はこれまでの教養主義的大学教育と現場的現実との間のギャップと同じことが起こるのではないか。いや、基礎教養が現在よりも少なくなるので、現在以上に打開策を講じる基礎教養が少なくなってしまっているのではないか。

実学を悪いとは言わない。

しかし、実学はあくまで、学問の中では〈恥ずかしいこと〉〈隅っこ〉〈二流〉〈亜流〉という位置づけを施しておくべきものであって、それを〈主流〉にするのは間違いである。実学的なことを講義で学んでも頭で理解するだけ、エピソード的に学んでも感動するだけ、体験実習的に学んでも結局は他人のふんどしで相撲をとる中途半端なものになるだけ、どれもこれも学生たちを〈勘違い〉に陥れるだけである。

私は最近の教員養成系大学から現場に対応できない教員が輩出されるようになったのは、大学教育が「時代」に迎合し、怯え、実学的志向を高めすぎたためだと考えている。大学は「卒論」の他に「教養論」として2年の終わりにも200枚程度の論文を課すとか、ダンスでも歌でもスポーツでも文学でもなんでもいいから、つまりはその学生自身のに生の日常生活に直結した課題について、1年間でみっちりと体験し分析する、というような体験学習を取り入れればいいと思う。

例えば、1月のダンスイベントに向けて基礎体力づくり、練習の積み重ね、ダンスイベントの企画・運営、チケットの売買、ちらしの配布、イベント当日の運営、打ち上げの飲み会、反省会、分析、反省レポート執筆というような流れで、半年から1年間、自分の生活の中心をそれにしてしまうような生活を送らせるのである。それを2年次に設定する。これが無理なら、教養課程修了のために「教養論文」を必須とするでもいい。

かつて、卒業論文というものはそういうものだった。現在、卒論は日常生活を変えることなく書ける程度のものになっている。それがいけない。大学はいい年をした若者が4年もの長きにわたって過ごす場所である。4年間で2度、自分の生活のほとんどをかけなければ成り立たないようなものに取り組むくらいの心意気が欲しい。

実は、学校現場に限らず、「現場」とは、自分の生活の中心をそれにしなければ成り立たない、そういう場所である。何かトラブルが起こったときに、全人的にそのトラブルを解決しようと取り組むからこそ、現場は混乱することなく成立するのだ。そしてその全人的な取り組みがあるからこそ、トラブル解決の道筋を定め、トラブルか老い血のアイディアを思い浮かべ、トラブル解決の行動を起こせるのである。こうしてトラブルの多くは解決していくのだ。最近の若者にはその姿勢が欠けているのである。

そんな若者たちに教育の〈主流〉として実学を施すことは、当の学生たちにとっても、彼らを受け入れる現場にとっても、結果的にプラスにはならない。

大学教育の実学志向は自殺行為である。

実学とはあくまでも〈当事者性〉によって支えられている。既に教員となっている〈当事者〉が日常の研修カリキュラムに位置づけるとか、学級崩壊を起こしてしまった現場の〈当事者〉が再教育の過程で受けるカリキュラムとして位置づけるとか、そうした〈当事者〉の研修方法として位置づけられるべきものだろう。
2008/10/11のBlog
「研究集団ことのは」の新企画「中学校・学級経営セミナー」が終わった。先週の累積国研に続いての学習会開催となったが、それほどの負担もなく、それほどの打ち合わせもなく、まずまずの会ができたてように思う。登壇布陣は堀・石川・森・田中・山下。まあ、「ことのは」としては最高の布陣である。第2回目をやろうと盛り上がる程度には成功した、というのも嬉しいことだった。

当然のことながら、学級経営の手法に〈正解〉などない。5人の登壇者から見ても、提案趣旨は事前にMLで把握していても、その前提となっている〈思想〉についてはお互いに把握し切れているわけではない。それだけに、同じ話題・話材を提供していても、ところどころに登壇者同士の違いが見える。おそらく、この学習会を最も楽しんでいたのは参会者ではなく、登壇していた我々自身だった。参会者にはまことに失礼ながら、私はそういう躍動感のある学習会が好きである。誤解を怖れずに言えば、この手の学習会は自分のためにやっているという意識が強い。だから、参加者が少なくても実施するし、赤字でも実施する。別に金を儲ける気はないし、自分が他人の考え方に触れることに金を惜しむという感覚もない。

昨日、おもしろかったのは、合唱コンクールでは〈優勝すること〉が大切か、それともその学級なりの〈精一杯の合唱をすること〉が大切か、つまり、〈結果〉か〈過程〉かという見解が分かれたことである。合唱コンクールを〈勝負事〉と捉えるか、あくまで学級経営に資する〈生徒会行事〉と捉えるかということでもある。ぼくはこの論争はナンセンスだと思うし、両方を視野に入れる必要があるに決まっているとも思うが、これは学校行事に取り組む姿勢としておもしろい論争であるとは思う。前者は合唱コンクールを合唱コンクールという閉じられたものとして考えているし、後者は合唱コンクールを1年間の成長機会のワン・オブ・ゼムと考えているということだ。もちろん誰もが両方の要素があるとは口では言うだろうが、すへべての担任がどちらかにより重きを置いて運営していることは確かだろう。ぼくも7:3くらいで〈勝負事〉としての位置づけを施しているように思う。

この見解の相違には、実は裏にもう一つの見解の相違をもっている。それは学級担任が合唱指導を得意とし、その指導によって勝負が決まることに対する是非である。合唱コンクールという行事は、学級担任が合唱の〈技術指導〉を行うことができるか否かということで、できあがる合唱の質が明らかに異なるという特徴をもっている。もちろんすべての行事がそうだと言ってしまえばその通りなのだが、他を圧倒してその傾向が強いのが合唱コンクールなのである。合唱指導を得意としている教師から見れば、「オレはそれなりに合唱指導の仕方を勉強してきた。とやかく言われる筋合いはない。」と思うだろうし、不得意としている教師から見れば、「意欲」「協力性」「頑張り」といった目に見えない、合唱でなくても獲得させ得るイメージ語に傾倒するのも理解できなくはない。

更に言えば、合唱コンクールという行事に音楽科がどうかかわることが理想とされているのか、という見解の相違にもつながっている。合唱指導を得意としている教師は、音楽科を最初からそれほど当てにしていない。ところが不得意としている教師は、学級のまとまりとか合唱コンクールに取り組むモチベーションの形成などは自分の仕事だが、合唱の技術指導は音楽科の仕事だと考えている場合が多い。いや、考えているというよりは、自分ができないだけに当てにせざるを得ないといった方が正しいかもしれない。

こう考えてくると、学級担任の研修の要素として、つまりは学級担任をやるからには勉強しなければならない要素として、〈合唱の技術指導の仕方〉がはいると考えられるか否かという問題に帰結する。当然のことながら、合唱指導を得意とする担任は〈勝負〉にこだわって優越感を得たいと思うようになるし、合唱指導を不得意とする担任は〈学級づくり〉をメインと主張し、自分の担任としての価値を維持しようと思うようになる。そうすれば互いに、自分は合唱指導ができて生徒たちに〈いい思い〉をさせることのできる担任だという思いと、自分は合唱指導はできないけれど合唱を通じて学級のまとまりを向上させることはできた、しかも合唱指導の仕方について今後もわざわざ勉強する必要はないという思いとで、自らを納得させることができる。この論争にはそういう構造がある。

結局、自分自身を守ることでしかない。それが合唱コンクールという行事の一つの側面であるように思う。
2008/10/07のBlog
[ 07:05 ] [ 裕々自適/書斎日記 ]
つい先ほど、ある塾(予備校かもしれないし、教員採用試験用の予備校かもしれない)が「教師力養成」と銘打って現場教師を鍛えようとしているプロモーションビデオを見た。これがすごい。「学ぶ空間づくり」と言って、ものすごい元気な声で「みなさんおはようございま~す!」と教室に入ってくる。教師が元気いっぱいにやる気を見せ、本気度を示す、そういう意図らしい。授業における説明も指示も、鬱陶しいくらいに一生懸命語り口調。これを毎時間やられたらうざったくてしようがない。しかし、当の塾の方は、どうもそういう感覚はお持ちじゃないらしい。プロモがそうなのだから、まず間違いない。これが良いと思いこんでいるのだ。

ぼくは、教師というものは、そんなに一生懸命にやる気をもってやっている姿を見せるよりも、仕事を楽しんでいる姿を見せる方がずーっと子どもたちに良い影響を与える、そういう職業だと思う。この塾がやっていることもぼくが主張していることもいわば「感化主義」には違いないが、この塾のやる気満々を見せようという方針は、子どもの心、人間の心を方程式で解くような、あくまで頭で考えた「感化主義」だ。

例えば、合唱コンクールの練習に取り組もうとか、学校祭でよりよい企画を立てようとか、体育大会頑張ろうとかいった、行事への取り組みなら鬱陶しいほどのやる気を教師が見せることにも効果はある。その機会主義的な発想が功を奏すからである。しかし、日常的に教師がやる気オーラを発散しているのでは、それに付き合わされる方がつらい。その空気に付き合わされるだけで疲れてしまう。どうせ「学ぶ空間づくり」として教師のつくる雰囲気が大切だと主張するならば、もっと静かな、威厳のある雰囲気づくりにでも取り組んだ方がいい。

この「教師力養成講座」に長期間ついて行けるのは、教員の何割くらいだろうか。きっとこの塾はついて来られない教員を「根性がない」とか「根気がない」とか「現在の教師の問題点がわかっていない」とか言って切り捨てるだろうが、そんなものではない。自分のやり方のみに固執して、それを基準にすべてを判断するほど害悪となることはない。このプロモーションビデオにはその匂いがプンプンしていた。

最近、この年になってやっとわかってきたことがある。それは、物事は「ほどほど」がよい、ということだ。何事も「ほどほど」にしておくからこそ、八方まるくおさまる。それが世の中というものである。
2008/10/06のBlog
昨年に引き続き学校祭のためにビデオをつくっている。

今年はステージ発表としてではなく、展示作品の一つとしてビデオを制作している。今日もさまざまな撮影をおこなった。いわゆる「ネタばれ」になるのでどんな撮影をしたかはここには書かない。

ただ、今回のビデオの構成は、三つに分かれている。一つは最近の映画のパクリ。これは生徒用につくっているもの。もう一つは学年協議会や一学年教師団のプロモーション・ビデオ。これは生徒が知らないような昔のドラマのパクリで、保護者世代に喜んでもらおうとつくっているもの。更にもう一つは、この半年間の生徒たちの活躍で構成されたもの。これは勤務校の生徒・保護者にしかわからないタイプのもの。行事や日常の学校生活の写真・ビデオのみで構成されているからだ。

こんな単純な仕分けを意識してつくっているわげだが、ここからある発見があった。最近の映画のパクリと昔のドラマのパクリとは、おそらく私の勤務校の生徒や教員をしらない者が見ても、何をやっているか意味がわかる。私の勤務校の生徒・保護者でなくても楽しめるだろうというものになっている。知っている映画や知っているドラマがもとになっているからだ。それはつまり、これまで生きてきて培われたデータベースが共有化されているからである。

もちろん、生徒たちが見ているような最近の映画をデータベースとして持っている者と持っていない者、昔のドラマをデータベースとして持っている者といない者という、世代的なデータベースの違いはある。しかし、それでも、データベースを共有していさえすれば、その意味がわかり、その馬鹿馬鹿しさを楽しむこともできるはずだ、ということになる。

昨年は最初から最後まで、だれでも知っているようなものばかりで構成した。「サザエさん」「ゲゲゲの鬼太郎」「ちびまる子ちゃん」といった具合である。老若男女、これらを知らないということはない。だから受けた。

しかし、今年は違う。生徒たちに話し合いをさせたところ、題材が「映画」になった。しかも、生徒たちに取り上げたい映画を訊いたところ、少なくともぼにはよくわからない映画が並んだ。取り上げることになった映画は6本程度あるのだが、ぼくは1本も見ていなかった。保護者はどうだろうかと考えたとき、中学生を子どもにもっているのだからぼくよりは見ているかもしれないし、見ていなくてもぼくよりは知っているのかもしれないが、まあ五十歩百歩だろうと思われた。そこで、保護者のデータベースに働きかけるようなものも入れようということになった。それが昔のドラマ…というわけである。

さて、昨日も書いたように、一昨日、累積国研の第21回の学習会が開かれたわけだが、ぼくはここで6本の模擬授業についてコメントする立場として参加した。このとき意識したことは、ぼくがコメントとして分析を披露する参加者が国語の授業についてどの程度のデータベースをもっているかということだった。

そこで行われた授業はぼくも参加者も同じように見ている。つまり、そこで起こった現象についてはぼくと参加者との間で共有化されているわけだ。ぼくに与えられた役割は、その共有化された現象に対して〈価値〉づけて〈意義〉づけて、できれば〈代案〉を出すということである。それを〈短い時間〉で〈わかりやすい言葉〉で伝えなければならない。とすれば、これまでの国語科授業の歴史の成果、授業を分析するための多様な観点、授業者にさえ意識していなかったその授業の意図、参加者が瞬間瞬間に感じた戸惑いや違和感の所以…といったものを、参加者のデータベースと結びつけて語らなければならないということである。これはけっこうホネが折れる。

例えば、S先生に宮澤賢治の『注文の多い料理店』の授業があったのだが、このときぼくは、二人の紳士の心情の変化を読み取る上で勘所と思われるような〈視点論〉的分析、〈語り論〉的分析を伝える必要に迫られた。しかし、ここで〈視点論〉〈語り論〉という用語を用いてしまえば、「わかる人にしかわからない」解説になりかねない。難しい用語に拒否反応を示す参加者もいるかもしれない。だからできれば使わない方がよい。しかし逆に言えば、そういう理論に飢えている人もいるかもしれない。従って上っ面の分析で事足れりとするわけにもいかない。なんせ、参加者は3000円も払って、泊や伊達や旭川から来てくれているのだ。

結局、ここでは〈視点論〉という用語を使わずに、また、〈語り論〉も理論的なことを語らずに、小学校教師でもすんなりと受け入れられるであろう「語り手は…」という語を用いて、平易に、しかし〈視点論〉的な読みの理論を解説していくことにした。この判断はまずまずだったようで、参加者の多くがぼくの言っていることを理解してくれたようで、大きくうなずいてくれていた。

さて、もう一つ。ここでぼくがこういう判断をすることができたのも、ぼくの中にある客層判断のデータベースによるのだということである。ぼくはこういう研究会で難しい話をし過ぎて引かれてしまったり、簡単にしすぎて重ね質問を受けたり不満げな顔をされたりといった経験を数多くしてきた。授業を受けている参加者の表情から、或いは授業社の発問に参加者が答える発言内容から、その日の参加者の質やレベルを判断できるようになってきている。一昨日の参加者はかなりレベルの高い参加者が多かった。

なにをするにしても、豊富なデータベースが基礎となる。そして仕事をするということは、その仕事の対象となる人たちのデータベースを的確に把握し、そのデータベースに働きかけることなのだ。