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2007/04/17のBlog
何処から来たのか分かりませんが、迷い猫です。年齢は8~10歳と思われます。
とても人なつっこくて、私が帰って来るとミャーァーとないて、2階のベランダから降りて
きて、頭を掻いてと首を傾けて、すりよって来ます。
 娘が来たときも、車の音を覚えてるようですぐにミャーと甘えに来ます。
 うちの猫はコトちゃんと言いますが、たまに玄関から外にでるとミャーがすぐに側に来てコトに頭や体を摺り寄せてます。
 コトは11歳なのでお母さんに甘えてるように見えます。色柄は全く違うのですが。
夫も餌をやったりしてるので家族の一員にしたいと思うのですが、、トイレのしつけが全く出来ないので現状維持といったところです。
 他の野良猫にも結構強いみたいで一目おかれているようです。
2007/04/08のBlog
今日の主日礼拝は、選挙のためいつもの場所(体育館別館)が使用出来なかったので、八代城跡でしました。
 城跡の中央は護国神社となっており、両脇は石垣で、上は土手になっています。今は、桜が満開で家族づれがお花見を楽しんでおられました。
 眼下の堀には、水が満々として、黒鳥、おしどりが、緩やかに泳ぎ、水中にも大きな鯉がゆったりと泳いでいました。
 賛美を気持ちよく捧げ、全てに祝福された礼拝が出来て感謝でした。 ハレルヤ!
 写真は礼拝後、上から写したものです。
2007/03/28のBlog
ある日、加藤清正より家臣に信仰を捨て決してその信仰に戻らないという誓約書に署名する命令が出た。
 突然のことに驚いたキリシタン武士は、問題から逃れるために大部分の人々が命令に従った。
 しかし、麦島城の城代三宅角左衛門の友人であったシモン竹田は署名を断った。三宅は、加藤清正の命令を守ると共に友人の命を救うため、竹田の承諾を得ずに彼の名を誓約書に書き入れた。
 八代には、三宅の配下に他に二人の家老が居た。野尻八右衛門と蟹江与兵衛は町民の問題を担当していたが、武士に対しての清正のやり方が成功したのを見て、町民にも命じたが、町民はみな、信仰が妨げられるなら八代を離れると述べた。 
 驚いた二人の家老は、町の状態を乱さないため、それ以上要求しなかった。
 一方、シモン竹田は、三宅が誓約書に自分の名を書き入れた事を知ると城代に苦情を申し立て、有馬(現在の久留米)に行き,八代の出来事を知らせ指導を仰ぎ、又自分は信仰のため命を捧げる覚悟をしている事を打ち明け八代に戻った。
 シモン竹田、町民のこのような神への真実な信仰の態度、宣教師からの手紙は、誓約書に署名した家臣たちを迷いから覚めさせた。
 ジョアン南五郎左衛門は、最初に転んだ家臣の一人であったが、有馬に出向き、悔い改めて、今後どんな事があっても信仰を捨てないと誓った。
 他の家臣たちも南の模範に従った。彼等は八代の町民の中から選ばれた三人の慈悲役の指導を受けその熱心さによって励まされた。
 しかし、戦いは激しくなって行った。
2007/03/25のBlog
1600年の関が原の戦いで、小西行長は敗れ京都の六条河原で斬首となり、小西の領地は徳川方についた加藤清正のものとなった。八代の城主ディオゴ小西美作は家臣宣教師と共に薩摩に亡命した。
 加藤清正は宇土城を守っていた小西の家来達に生命と信仰の自由を約束したが、城明け渡しとともに行長の弟の小西隼人が殺され、城内の宣教師たちは牢屋に入れられた。しかし、黒田如水とイルマン原マルチノの取次ぎによって宣教師たちは自由を与えられた。
 この態度を見て、小西の家臣何人かが加藤清正に仕えることにした。しかし、1601年が終わらない中に圧迫は厳しくなっていた。キリスト信者の指導者たちは、肥後から追放され、若いキリシタン武士数人だけが、八代に残り信仰のためすべて耐える決心をした。八代では、彼等には町民の貴重な助けがあった。
 若いキリシタン武士の中のジョアン南五郎左衛門(35歳)と妻のマグダレナ南(33歳)と養子のルドビゴ南(7歳)
 シモン竹田五兵衛(35歳)とシモンの母ヨハンナ竹田(55歳)妻のアグネス竹田(30歳)が16003年の殉教者となった。
2007/03/19のBlog
熊本県は昔肥後国と呼ばれ、16世紀の終わりごろには南肥後と北肥後に分かれ、北肥後は(本城は熊本)加藤清正の支配下にあり、南肥後(本城は宇土)はアウグスティノ小西攝津守行長の支配下にあった。
 小西行長は幼少からクリスチャンとして育てられた。小西と加藤は太閤秀吉の軍の小西は水軍を加藤は陸軍を指揮していた。二人は宗教的にも、政治的にも絶えず対立していた。
 小西が肥後に移されたのは1588年、家族も主立った家臣も熱心なクリスチャンであった。
 家臣のジョルジュ結城弥平次は矢部の愛藤寺城の城主となり、ディオゴ小西美は、八代の城代なった。
 数年間は肥後の教会は主な城下町、宇土、矢部、八代だけに限られていた。秀吉の死後は、小西は自由に布教を行う事が出来イエズス会の宣教師たちは領内の全地方で宣教活動を行った。
 ジョアン神父も、後に殉教者となる中浦ジュリアンと伊予シクスト等数人のイルマンの協力を得て宣教活動をなし、二年間で、小西行長の領内だけで数万人が教会に加わった。