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2008/07/18のBlog
[ 18:50 ]
[ メディア ]
【鏡 響子さんの関連したBlog】
朝日新聞絶縁記念(関連記事)として〈「天声人語」とは何だったのか?〉ということを考えてみよう。「何なのか」ではなく「何だったのか」と過去形で表記したのには二重の意味がある。ひとつは昨日書いたように、私は朝日新聞の購読を止め、30年以上に及ぶ朝日新聞とのつきあいを絶つことにしたので、私個人にとって、すでに縁の切れた過去のコラムだから、という意味がある。もうひとつは、「天声人語」の現在の執筆者(2名)の質がかつてなく低下してしまったために、もはやかつての「天声人語」と同じコラムと見なすこと自体が難しくなってしまったからである。したがって、ここで考察対象とする「天声人語」とは、主として前執筆者以前のそれである。
まずはじめに、 鏡 響子さんも「天声人語の思い出」という卓抜な記事の中で指摘しておられるが、「天声人語」というタイトルそのものからして意味不明である。このタイトルに、あたかも「天の声=神の声」を「人間の言葉」に翻訳してお前ら下々の者に伝えてやる、と言わんばかりの傲慢さを感じるのは私だけだろうか。
ところが、朝日新聞の英文版では、このコラムのタイトルは “Vox populi, vox dei” となっているのである。“Vox populi, vox dei” とは、「民の声は神の声」という意味のラテン語の諺である。それがなぜ「民声天声」ではなく「天声人語」なのか? おかしいではないか。そもそも主語と述語を入れ替えては意味がまるっきり違ってしまう(例えば、「犬は哺乳類だ」という命題は正しいが「哺乳類は犬だ」は間違いである)うえに、「人語」と「民声」は同じではない。「民の声」は「人間の声」あるいは「人間の言葉」という意味ではなく、暗に「支配者=権力者の声」と対比されているはずだ。そう考えないと、ラテン語の諺の意味が通らない。「民の声は神の声なのだ」ということによって、「支配者である権力者も被支配者である民衆の声に耳を傾けなければならない」という戒めとしての意味を持つのである。
**** **** ****
さて、突然話は変わりますが、『四国遍歴』『風と遊び風に学ぶ』『歩けば、風の色』といった本の著者の職業は何でしょう?(笑)もうお分かりですよね(笑)。
「はい、新聞記者です」
「素晴らしい。正解です。なぜ分かりましたか?」
「この記事のタイトルが「天声人語とは何だったのか?」なので、筆者はたぶん「天声人語」の筆者だと思いました」
「大正解で~す。名探偵ホームズも真っ青の推理ですね(笑)」
しかし、普通、新聞記者が(たとえ引退後でも)『四国遍歴』『風と遊び風に学ぶ』『歩けば、風の色』などという本ばかり出しますかね? 新聞記者時代は一体どんな仕事をしていたんでしょう? あっ、そうだ。「天声人語」の執筆でしたね。因みに筆者はタツノオトシゴ、じゃなくてタツノカズオ(辰濃和男)氏でした。この方は『文章の書き方』(岩波新書)という実にシンプルなタイトルの本も出していて、日本エッセイスト・クラブの専務理事を務めていた時期もあるそうな。いわばエッセイのプロ中のプロ、というわけですね。
**** **** ****
ここで戦後の歴代「天声人語」執筆者を挙げてみよう(Wikipedia他参照)。
嘉治隆一 1945年9月~1946年4月
荒垣秀雄 1946年5月~1963年4月
入江徳郎 1963年5月~1970年4月
疋田桂一郎 1970年5月~1973年2月
深代惇郎 1973年2月~1975年11月
辰濃和男 1975年11月~1988年
白井健策 1988年~1995年
栗田亘 1995年8月~2001年3月
小池民男 2001年4月~2004年3月
高橋郁男 2004年4月~2007年3月
福島申二・冨永格 2007年4月~
一般に「天声人語」の執筆者には名文家が多いと言われているが、このうち、特に名文家として有名だったのが、荒垣秀雄、入江徳郎、疋田桂一郎、辰濃和男の各氏だろう。しかし、21世紀に入ってからの執筆者である小池民男氏と高橋郁男氏については、とてもじゃないが「名文家」とは言えなし、現在の執筆者に至っては、名文どころか、日本語の使い方すら覚束ない、といった感じである。現在の執筆陣が2名という異例の体制になったのは、おそらく1人だけだと(その能力から見て)あまりにも不安なので、2名にしたのだろうが、悲しいかな、無能に2を掛けても有能になることはない、という算術が朝日新聞社の首脳陣には理解できなかったのだろうか。
それはさておき、荒垣秀雄、入江徳郎、疋田桂一郎、辰濃和男といったかつての執筆者については、誰が「名文家」だと言ったのだろうか? 私の知っているのは、朝日新聞社の後輩記者たちであり、とりわけ「天声人語」の執筆者たちである。つまり、天声人語の執筆者が、自分の先輩を名文家として奉ることによって、「天声人語」の執筆者は「名文家」である、という神話を作り上げたのではないかという疑惑が浮上する。
ま、しかし、何事も疑惑だけで判断してはいけない。実際に彼らはどのような「名文」を書いていたのだろうか。論より証拠、今手元にある辰濃和男氏の『文章の書き方』を開いてみよう。
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わかりやすさは文章の基本です。
私は学生時代、そのことを福沢諭吉の本で学びました。
もう四十年以上も前の話ですが、なにかの用事で大阪行きの東海道線の夜行に乗りました。まだ新幹線がなかったころの話です。たっぷりと時間がありました。
汽車にゆられながら『福翁自伝』を読み、読んでいるうちにそれが明治時代の書であることを忘れました。前の席に座っているおじいさんが、ゴットンゴットンという音にあわせて昔話を語ってくれるのを聞いているような、くつろいだ、快い調子がありました。
「これが文章の力というものか」
と感じ入り、心のたかぶりを覚えながら読みふけったことを記憶しています。
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なるほど。これが文章の力というものか!(爆)
実にわかりやすく、読みやすい。頭を全く使わなくても読めるではないか(笑)。
「わかりやすさ」という「文章の基本」を忠実に守っている。
しかし、「わかりやすさ」以外に何があるだろうか。ひたすら「わかりやすい」。それだけである。それ以外には何もない。
「それはお前がほんの一部分だけ引用したからだ」と言う人があれば、是非、上記の本を一冊読んでみてほしい。人によって感じ方も違うかもしれないが、少なくとも私にとっては、「わかりやすさ」以上のものは何もなかった。
書いてある内容も、毒にも薬にもならない事柄ばかりである。毒や薬(両者は結局同じことなのだが)になるような文章を書けば、反発する読者が多く現れて、売上に影響する、というわけだろう。
多くの人にとって朝という時間帯は、これから始まる一日に対する心の準備で多少なりとも緊張しているものだ。そういう緊張した心を、毒にも薬にもならない文章で、弛緩させる、・・・もとい、解きほぐすのが「天声人語」の役割だったのだろう。
要するに、「天声人語」の文章とは、「致死量の毒薬」や「悪口雑言罵詈讒謗」とは正反対のものであり、“温かいペニス”などという不埒なハンドルネームを持つブロガー(笑)の書くブログや、「独断と偏見に満ちあふれ・・・世の中の”詭弁”を断罪する」ようなブログとは真逆の志向性を持った文章であったことがわかるのである。
2008/07/17のBlog
[ 21:33 ]
[ メディア ]
私は朝日新聞の熱心な読者ではなかったが、(子どもの頃からだから)かなり長年の読者であった。これまで、このブログなどで朝日新聞を批判することが多かったが、それは(新聞の中では)朝日新聞を一番よく読んでいたからであり、批判しつつも購読し続けてきたのは、それでもまだ朝日新聞は相対的にはマシな新聞だと思っていたからだ。
しかし、もはやそうした相対的優位性もなくなった。朝日が毎日や東京と比べて、わずかなりとも優れているとは到底思えなくなった。とりわけ絶望的にクダラナイのが論説委員の文章で、編集委員の中にも見るべき人はもはやいなくなった。過去20年間に朝日新聞の質は着実に低下の一途を辿り、もはや三流新聞にまで成り下がった。
私の周囲でもニュースはネットで見られるから新聞は購読しない、という人が増えている。けれども、私は紙媒体を偏愛しており、朝起きて紙の新聞がないと何となく落ち着かないので、たぶん東京新聞あたりを購読することになるのだろう。しかし朝日新聞については、もうこれ以上一日たりとて購読する意義を見出せないので、今日を限りに朝日新聞の購読は辞めることにした。もう明日の朝からは、「さらに言葉をみがいて、外国人による「日本語文学」を引っ張る活躍を楽しみにしたい」などという意味不明の文章を読まなくて済むのだ!(笑)
さらば、朝日新聞!
[ 19:39 ]
[ 裁判・司法 ]
3.なぜ39条を削除するべきか
さて、それではそもそもなぜ39条のような条文が作られたのだろうか。39条は、「精神の障害によって弁識能力または制御能力の欠けた状態が心神喪失で責任無能力であり、精神の障害によって弁識能力または制御能力が著しく減退した状態が心神耗弱で限定責任能力である」ということを定めた条文であった。言い換えると、刑法上、責任能力とは「精神に障害がなく弁識能力および制御能力のある状態」ということになる。このような責任能力概念の背後にあるのは、責任非難の根拠としての「他行為可能性」概念と、「自由意思を持つ理性的人間」像である。つまり、刑法上、犯罪者の責任を問いうるためには、その行為が非難可能でなければならず、非難可能であるためには、「他の(合法的な)行為をなす可能性」(=他行為可能性)があったにも関わらず、あえて自らの自由な意思によって犯罪構成要件に該当する違法な行為を行った、という条件が存在していることが必要だ、という考え方である。すなわち、人間は本来、自由意思を持ち理性的に行動しうる存在(自由意思・理性的人間像)であり、犯行時には当該犯罪行為を回避し、合法的な他の行為を選択する可能性があったにも関わらず、あえて違法な行為を行った点に、刑事罰という責任を負わせる根拠を求める考え方である。ところが、弁識能力(善悪を識別する能力)と制御能力のうちどちらか一方でも欠けている状態でなされた犯行は、もはや他行為可能性が存在しなかったと言わざるを得ないため、非難可能性がなく、それゆえ責任能力も存在しないとされるのである。通常の、すなわち精神障害のない人間がこうした状態で犯罪を行った場合、そういう状態に陥ったことに本人の責任がない場合には、やはり責任能力が存在しなかったとして無罪になるだろう。
このような、「自由意思・理性的人間像」と「他行為可能性」概念に基づく責任論は、今日の刑法学界において広く通説として認められていると思う。ところが、現象学的刑事法学を提唱し、「刑法39条削除論」を唱える佐藤直樹は、これら2つの大前提がフィクションに基づくものであるとして、刑法理論の抜本的修正を主唱している(佐藤『刑法39条はもういらない』青弓社、参照)。佐藤の論述は極めて説得力に富むものであると私は思うが、素人である私が刑法理論の抜本的修正説にまで加担できるほどの能力も時間も全くないので、私としては、佐藤による根本的批判の詳細に立ち入るのは控え、ここでは39条の問題点に関わる範囲でのみ考察したい。
まず、39条に対する最も素朴な疑問は次のようなものだろう。
正気の(精神障害のない)人間が凶悪犯罪を起こした場合、その犯罪が「わけのわからない」ほど異常で残忍なものであればあるほど、責任も重くなり、罪も重くなるだろう。ところが、狂気の(精神障害の)人間が同じ凶悪犯罪を起こした場合、その犯罪が「わけのわからない」ほど異常で残忍なものであればあるほど、それは「狂気」の証拠とされ、責任非難は不可能となり、無罪となる、というのでは、あまりにも不合理で「狂気の沙汰」ではないかと思われよう。佐藤はこうした矛盾を、「責任非難という、刑法の屋台骨を根底からゆるがすような、最大のアポリアである」と述べているが、このパラドックスを根本的に解決するためには、佐藤の言うように、近代刑法の前提にある<理性/狂気>という二分法を廃棄するしかないだろう(佐藤「三九条はきれいさっぱり削除されるべきだ」呉智英・佐藤幹夫編『刑法三九条は削除せよ!是か非か』洋泉社所収))。ここから先の解釈は必ずしも佐藤直樹の緻密な理論に基づくものではなく、私の勝手な解釈によるものだが、人間には常に理性的な人間と常に狂気の人間という2種類の人間がいるわけではない。ほぼすべての人間には理性的側面と狂気的側面とが混ざり合っており、どちらの側面がより強く出るかは時間的・関係的に変化するものだろう。典型的な精神障害と言われる統合失調症の患者でも心神喪失に陥ることはまれであり、心神耗弱になることもそれほど多くはない。ましてやすべての精神障害者が責任無能力や限定責任能力の状態にあるわけでは決してない。また、精神障害のない者でも、凶悪な犯行を犯す瞬間には正常な精神状態ではなく、理性的判断能力が低下していると考えるのが普通だろう。そこで、佐藤の言うように、「刑法上非難されるのは、理性をもち自由意思であえて犯罪を選択したからだと考えるのではなく、たんに他人の権利を侵害するような、違法なことをやったからだと考える」ならば、「理性/狂気の二分法は不要になる」(佐藤前掲論文)。
また、「他行為可能性」という概念も虚構性に満ちたものである。これは、39条の構成要件のうちの「心理学的要件」――弁識能力と制御能力――、とりわけ制御能力の判定が可能かどうかという問題と深く関わっている。犯罪者が犯行時、制御能力を有していたか否か、すなわち他行為可能性があったか否か、ということを、誰がどのような方法によって証明できるだろうか。そのような証明は絶望的に困難なのではないだろうか。ところが実は、20世紀の初頭、責任の本質を行為の結果に対する犯罪行為者の主観的責任に求める「心理的責任論」から規範的関係という行為者の外部にあるものを責任の要素に含める「規範的責任論」へと責任論の大転換が起こった。これは責任判断を個別具体的なものから、一般的・抽象的なものに変更することを意味していた。それに伴い、「他行為可能性」も、個別具体的に判断しなくとも(できなくとも)平均的・一般的な人間であれば他行為可能性があったか否かという「平均的・一般的他行為可能性」を考察すればよい、ということになった。これは、責任能力判断の心理学的方法を基礎づけていた他行為可能性を完全にフィクション化することを意味している(佐藤前掲書参照)。言い換えれば、もはや実際にはそれぞれの犯罪者の犯行時における他行為可能性など検討しなくていい、と言っているに等しく、責任能力概念の基礎が空洞化していることを意味しているのである。
このように、他行為可能性を具体的に証明することができず、責任能力を完全に証明することができないとすると、どうすればいいのだろうか。佐藤直樹は単純明快な結論を示している。すなわち、精神障害者と健常者を同じ「人間」として扱えばよい、というのである。そのような視点に立ったとき、責任能力を判断することは廃止され、精神障害者も健常者と同じく、裁判で故意・過失の有無を判断されるべきであり、そのための判断材料として精神鑑定を利用すればよい、と主張するのである。私も佐藤のこの結論に賛同する。
2008/07/16のBlog
[ 20:06 ]
[ 裁判・司法 ]
刑法39条とは次のような条文である。
①心神喪失者の行為は、罰しない。
②心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
つまり、心神喪失者は刑法上、責任無能力とされるので、心神喪失者が犯罪を犯しても責任を問えず無罪となり、心神耗弱者は責任能力が低下している(限定責任能力)ので、心神耗弱者の犯罪については、刑を減軽することを定めた条文である。
近年、世間の耳目を集める凶悪事件や異常な犯罪が起こるたびに、裁判での精神鑑定の結果とともに注目を集めるのが、刑法のこの条文である。例えば、先月起きた秋葉原無差別殺傷事件で逮捕された加藤智大の裁判が始まれば、弁護団が精神鑑定を請求し、刑法39条2項による減刑を求める法廷戦術を採るであろうことは、ほぼ確実だろう。冤罪の可能性がなく、死刑制度が存在する現行刑法と刑事裁判の現状では、被告人に死刑判決が下されるであろうことは確実で、それを回避しようとすれば、刑法39条を援用する以外に方法はないからだ。このように、異常で不可解な凶悪事件や重大事件が起こるたびに、弁護団による精神鑑定請求の濫発や刑法39条に基づく無罪ないし減刑の主張の濫用に対して、近年は批判が高まる傾向にあり、刑法39条を削除せよとの主張も散見されるようになってきた。
私もかなり前からこの問題には素人的関心を抱き、何冊かの関連本も読んできたものの、なかなか自分としての結論を出せずにいた。もっと正直に言うと、刑法39条削除論に共感を抱きつつも、本当に削除してしまって問題はないのか自信が持てなかったのである。しかし、最近改めてこの問題を考えてみた結果、刑法39条が存在することによる弊害が明白であるのに比べ、39条を削除して生じる問題はごくわずかである、と考えるにいたり、現時点では「39条は削除すべし」という主張を暫定的な結論としたい。もちろんこれは、何ら確定的・最終的な結論ではないので、もしも「39条は存続すべし」という主張の方により説得力があると判明すれば、いつでも主張を変更する用意はある。
そこで、以下では、39条の存在によって生じている問題点と、削除した場合の功罪について検討したいと思うが、その前に、まず基本的な事実を確認しておこう。
1.心神喪失、心神耗弱の定義
心神喪失と心神耗弱の定義については、リーディング・ケースとなった1931年の大審院(最高裁の前身)判決が参照基準となっている。すなわち、そこでは、心神喪失とは「精神の障害により事物の理非善悪を弁別するの能力なくまたはこの弁識に従て行動する能力なき状態」と定義され、心神耗弱とは「精神の障害未だ上叙の能力を欠如する程度に達せざるもその能力著しく減退せる状態」と定義されている(かなづかいと漢字を改めた)。
つまり、心神喪失とは「精神の障害により」、「事物の是非善悪を弁別するの能力」または「この弁識に従て行動する能力」――すなわち弁識能力(善悪判断能力)または制御能力――が欠けている状態のことである。「精神の状態により」という前者の条件を刑法学では「生物学的要件」と呼び、弁識能力または制御能力という後者の条件を「心理学的要件」と呼んでいる。そして、心神耗弱とは、精神の障害により(生物学的要件)、弁識能力または制御能力が著しく減退した(心理学的要件)状態のことである。
それでは、被告人が犯行時に心神喪失や心神耗弱の状態になかったか否か、言い換えれば、被告人に責任能力があったか否か(完全責任能力か限定責任能力か責任無能力か)という判断は誰が下すのか、と言えば、それは裁判所なのである。最高裁は、「被告人の精神状態が刑法39条にいう心神喪失又は心神耗弱に該当するかどうかは法律判断であって専ら裁判所に委ねられるべき問題である」との趣旨の判決をこれまで何度も下している。つまり、心神喪失や心神耗弱とは法律学的概念であって、精神医学的概念ではないのである。しかしながら、心神喪失や心神耗弱の「生物学的要件」とされる精神の障害の有無に関する判断について、裁判所は素人であるので、専門家である精神科医に鑑定意見を求めることがしばしばある。しかしながら、精神科医や心理学者による精神鑑定はあくまで参考意見であって、裁判所はそれに拘束されることなく、独自に判断できるとされている。
2.起訴前鑑定の問題点
ところで、日本で毎年検挙される一般刑法犯のうち、精神障害(の疑いのある)者に対して行われる精神鑑定のうち9割は「起訴前鑑定」(簡易鑑定)であって、公判中に裁判所の命令によって行われる「公判鑑定」(正式鑑定)はわずか1割にすぎない。起訴前鑑定で検察官が心神喪失と判断すれば、不起訴処分となり、精神保健福祉法の手続の下に置かれ、多くの場合は措置入院(強制入院)となる。検察官は裁判で有罪に持ち込めると判断すれば起訴するので、これは、精神障害の疑いのある者が犯した犯罪のうち、ほぼ9割は毎年不起訴処分になっていることを意味している。他方で、起訴された被告人が有罪判決を受ける確率(有罪率)は99.9%である。これは、日本の刑事訴訟法では、被疑者を起訴するかしないかは検察官の裁量に任せられており(起訴便宜主義)、検察官は自分が起訴した事件が無罪となったり裁判停止になった場合は上司からマイナスと評価され、出世に響くことから、絶対確実に有罪に持ち込めそうな事件以外は起訴したがらないからである。つまり、検察官が起訴するかしないかを判断する根拠は、公判を維持でき、有罪判決を勝ち取れるか否かであって、被疑者のためではなく、ましてや被害者のことなど念頭にはないだろう。これは、極めて重大な問題ではあるが、これについて考えると、本筋の議論から逸れてしまうので、ここでは、精神鑑定の問題点はもっぱら公判鑑定に絞って考えることにしたい。
(続く)
①心神喪失者の行為は、罰しない。
②心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
つまり、心神喪失者は刑法上、責任無能力とされるので、心神喪失者が犯罪を犯しても責任を問えず無罪となり、心神耗弱者は責任能力が低下している(限定責任能力)ので、心神耗弱者の犯罪については、刑を減軽することを定めた条文である。
近年、世間の耳目を集める凶悪事件や異常な犯罪が起こるたびに、裁判での精神鑑定の結果とともに注目を集めるのが、刑法のこの条文である。例えば、先月起きた秋葉原無差別殺傷事件で逮捕された加藤智大の裁判が始まれば、弁護団が精神鑑定を請求し、刑法39条2項による減刑を求める法廷戦術を採るであろうことは、ほぼ確実だろう。冤罪の可能性がなく、死刑制度が存在する現行刑法と刑事裁判の現状では、被告人に死刑判決が下されるであろうことは確実で、それを回避しようとすれば、刑法39条を援用する以外に方法はないからだ。このように、異常で不可解な凶悪事件や重大事件が起こるたびに、弁護団による精神鑑定請求の濫発や刑法39条に基づく無罪ないし減刑の主張の濫用に対して、近年は批判が高まる傾向にあり、刑法39条を削除せよとの主張も散見されるようになってきた。
私もかなり前からこの問題には素人的関心を抱き、何冊かの関連本も読んできたものの、なかなか自分としての結論を出せずにいた。もっと正直に言うと、刑法39条削除論に共感を抱きつつも、本当に削除してしまって問題はないのか自信が持てなかったのである。しかし、最近改めてこの問題を考えてみた結果、刑法39条が存在することによる弊害が明白であるのに比べ、39条を削除して生じる問題はごくわずかである、と考えるにいたり、現時点では「39条は削除すべし」という主張を暫定的な結論としたい。もちろんこれは、何ら確定的・最終的な結論ではないので、もしも「39条は存続すべし」という主張の方により説得力があると判明すれば、いつでも主張を変更する用意はある。
そこで、以下では、39条の存在によって生じている問題点と、削除した場合の功罪について検討したいと思うが、その前に、まず基本的な事実を確認しておこう。
1.心神喪失、心神耗弱の定義
心神喪失と心神耗弱の定義については、リーディング・ケースとなった1931年の大審院(最高裁の前身)判決が参照基準となっている。すなわち、そこでは、心神喪失とは「精神の障害により事物の理非善悪を弁別するの能力なくまたはこの弁識に従て行動する能力なき状態」と定義され、心神耗弱とは「精神の障害未だ上叙の能力を欠如する程度に達せざるもその能力著しく減退せる状態」と定義されている(かなづかいと漢字を改めた)。
つまり、心神喪失とは「精神の障害により」、「事物の是非善悪を弁別するの能力」または「この弁識に従て行動する能力」――すなわち弁識能力(善悪判断能力)または制御能力――が欠けている状態のことである。「精神の状態により」という前者の条件を刑法学では「生物学的要件」と呼び、弁識能力または制御能力という後者の条件を「心理学的要件」と呼んでいる。そして、心神耗弱とは、精神の障害により(生物学的要件)、弁識能力または制御能力が著しく減退した(心理学的要件)状態のことである。
それでは、被告人が犯行時に心神喪失や心神耗弱の状態になかったか否か、言い換えれば、被告人に責任能力があったか否か(完全責任能力か限定責任能力か責任無能力か)という判断は誰が下すのか、と言えば、それは裁判所なのである。最高裁は、「被告人の精神状態が刑法39条にいう心神喪失又は心神耗弱に該当するかどうかは法律判断であって専ら裁判所に委ねられるべき問題である」との趣旨の判決をこれまで何度も下している。つまり、心神喪失や心神耗弱とは法律学的概念であって、精神医学的概念ではないのである。しかしながら、心神喪失や心神耗弱の「生物学的要件」とされる精神の障害の有無に関する判断について、裁判所は素人であるので、専門家である精神科医に鑑定意見を求めることがしばしばある。しかしながら、精神科医や心理学者による精神鑑定はあくまで参考意見であって、裁判所はそれに拘束されることなく、独自に判断できるとされている。
2.起訴前鑑定の問題点
ところで、日本で毎年検挙される一般刑法犯のうち、精神障害(の疑いのある)者に対して行われる精神鑑定のうち9割は「起訴前鑑定」(簡易鑑定)であって、公判中に裁判所の命令によって行われる「公判鑑定」(正式鑑定)はわずか1割にすぎない。起訴前鑑定で検察官が心神喪失と判断すれば、不起訴処分となり、精神保健福祉法の手続の下に置かれ、多くの場合は措置入院(強制入院)となる。検察官は裁判で有罪に持ち込めると判断すれば起訴するので、これは、精神障害の疑いのある者が犯した犯罪のうち、ほぼ9割は毎年不起訴処分になっていることを意味している。他方で、起訴された被告人が有罪判決を受ける確率(有罪率)は99.9%である。これは、日本の刑事訴訟法では、被疑者を起訴するかしないかは検察官の裁量に任せられており(起訴便宜主義)、検察官は自分が起訴した事件が無罪となったり裁判停止になった場合は上司からマイナスと評価され、出世に響くことから、絶対確実に有罪に持ち込めそうな事件以外は起訴したがらないからである。つまり、検察官が起訴するかしないかを判断する根拠は、公判を維持でき、有罪判決を勝ち取れるか否かであって、被疑者のためではなく、ましてや被害者のことなど念頭にはないだろう。これは、極めて重大な問題ではあるが、これについて考えると、本筋の議論から逸れてしまうので、ここでは、精神鑑定の問題点はもっぱら公判鑑定に絞って考えることにしたい。
(続く)
[ 17:22 ]
例えば、地震や台風といった自然現象は偶然だろうか、必然だろうか?
その瞬間、その場に居合わせたことは偶然なのか、必然なのか?
私達はよく、「たまたま」その場に居合わせた、という表現で、偶然性を強調する。
が、その時その場に居合わせたことには目的や理由があったのではないのだろうか?
目的や理由のある行為も偶然だとすれば、人間の行為はすべて偶然だということにならないだろうか?
そもそも、人間は生まれてきたこと自体が偶然ではないのか?
ある行為が偶然か必然かを知る方法は存在するのだろうか?
今日、東名高速で14歳の少年がバスジャックするという事件が起きたそうですが、この事件は偶然でしょうか、必然でしょうか?
2008/07/15のBlog
[ 21:15 ]
[ 言葉 ]
運命とは、偶然と意思的行為の総体に悲劇というベールを被せるための意匠である。
2008/06/27のBlog
[ 19:10 ]
[ 社会 ]
笹川陽平日本財団会長の妄想に端を発し、「たばこと健康を考える議員連盟」なる超党派の国会議員集団が検討している、たばこを一箱千円にするという極端なたばこ大増税案に対し、これまで私が目にした限りでは、不破利晴さんの「「禁煙ファシズム」をぶん殴る」という論考を除き、本格的な反対論がないことに不審と不満を感じていた。
たばこ増税推進論者の論拠は、増税による税収増と国民の健康増進による医療費抑制の2つである。このうち、前者の論拠について、笹川陽平氏は、「たばこの値段を一箱千円にすれば9兆5千億円の税増収が見込め、仮に消費量が3分の1になっても3兆円超の税収増が見込める」と述べている。しかし、この論拠については、経済アナリストの森永卓郎氏が6月26日付朝日新聞「私の視点」欄に寄せた一文「たばこ増税:本当に税収は増えるのか」において、緻密な反論を加えている。森永氏によれば、最近では03年と06年に2度たばこの増税が行われたが、値上げによって消費量が減ったために、たばこの税収は01年度の2兆2493億円から今年度(見込)は2兆2000億円へとかえって減っている。そして、今年4月、製薬会社が喫煙者に行った調査によると、「たばこが千円になったら禁煙する」と答えた人が79%に上った。そこで、仮にたばこを1箱千円にして喫煙者の79%が禁煙すると仮定し、たばこ小売店に入る利益が値上げ前と同じく販売価格の10%として計算すると、税収は2兆2566億円となり、驚くべき事に現状とほとんど変わらないという。しかも、たばこの消費量が5分の1になるのだから、たばこ産業の国内生産額も5分の1となり、たばこ産業の国内生産額1兆円のうちの8割、8千億円が失われることになる。そのうち1割が税金とすると、税収減は800億円に上る。たばこを増税して、逆に税収が減ってしまうことさえありうる、というのである。森永氏はさらに、喫煙率の低下によって医療費が削減できるとの予測についても合理的な疑問を呈している。
森永氏の予測が正しければ、税収増を論拠とする増税案は根拠を失うことになる。しかし、問題の本質は、税収が増えるか減るか、などというところにあるのではない。たばこ増税案の根本的な問題は、それが課税の根本原則であるところの公平性に著しく違反し、贅沢品でもないのに、特定の嗜好を持つ人々だけを狙い打ちにして甚だしい重税を課す、という不平等性こそ最大の問題点なのである。たばこの税負担率は、現在すでに価格の63%が税金という超重税品目になっており、300円のたばこの場合、なんと約190円が税金であり、しかもその内訳は、国税、都道府県税、市町村税、たばこ特別税、消費税という5種類もの税金がかかっているのである。この現状を見ただけでも、すでに課税の公平原則に違反し、憲法14条の平等原則に違反する疑いすらあるのである。それが、仮に一箱千円に値上げされ、値上げ分がすべて税金になった場合、なんと税負担率が89%にまで達するという異常事態となり、もはや憲法14条に違反することは明白と言わざるを得ないだろう。
そもそも、課税の根本原則である公平原則は、租税公平主義とも呼ばれ、税負担は国民それぞれの担税力に即して公平に配分されなければならず、各種の租税関係において国民は平等に取り扱われなければならないことを意味している。この原則は、「担税力に応じた課税」と、租税関係における「公平中立の原則」を要請しており、これらの原則は、憲法14条の平等取扱い原則ないし不平等取扱い禁止原則に由来する(金子宏『租税法(第十版)』弘文堂)。したがって、奢侈品でもない単なる特定の嗜好品に9割近い税金を課すことは、租税公平主義に違反し、憲法の平等原則に違反することは明白である。
しかし、たばこ増税案が憲法違反であるのは、14条の平等原則に違反するからだけではない。さらに深刻な問題は、それが特定の生き方(喫煙者としての生)を否定し、別の特定の生き方(非喫煙者としての生)を押しつけるような法的強制を加えることにより、人間の自由と自己決定権を否定し、日本国憲法の人権条項の中でも中核的な地位を占める13条の幸福追求権を否定していることである。すなわち、たばこ増税案は憲法13条と14条、自由と平等という人権の中核的価値を否定するという重大な違憲性を孕んだ提案なのである。にもかかわらず、これまでのところ、税収が増えるか否かといった枝葉末節の議論ばかりで、このような本質的な論点が正面から議論されてこなかったのは、日本人がいかに自由と平等の重要性を看過しているかの表れだと言ったら言い過ぎだろうか。
たばこの持つ社会的問題点は受動喫煙(間接喫煙)の問題だけである。この問題については、日本でも遅ればせながら、近年ようやく公共の場での禁煙化や分煙化という取り組みが行われている。その点で不十分な点はさらに改善の努力が必要かもしれない。愛煙家の方には気の毒だが、この点は、これまで非喫煙者が耐えさせられてきた受動喫煙の被害に思いを致し、我慢して頂くしかない。したがって、受動喫煙の問題は公共の場での禁煙化ないし分煙化によって基本的に解決可能なものであり、増税によって解決する問題では全くない。しかし、なかには、禁煙を推進することは喫煙者にとってもためになることだ、といった議論がなされることがある。これこそまさに余計なお世話以外の何ものでもない。これは個人の自由や自己決定の意義を全く理解しない人の発言でしかない。どれほどあるかもわからない肺ガンその他のガンにかかるリスクを恐れて(別にたばこを吸わなくてもガンにかかる人も多いが…)好きなたばこを止めるよりも、そういうリスクを承知の上でたばこを吸い続けるのは、他人に迷惑をかけない限り、完全にその人の自由である。
最後に、このような自由や平等の価値の重要性をこれっぽっちも理解しない愚論の見本として、(何日付だったか忘れたが)朝日新聞の「千円たばこ――動機はともあれ大賛成」という社説を掲げておこう。どこがおかしいか、もはやいちいち指摘するまでもないだろう。
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【朝日新聞社説】千円たばこ――動機はともあれ大賛成
「たばこ1箱千円」。あなたが喫煙者だったら、それでもなお吸い続けるだろうか。それとも禁煙に踏ん切りをつける絶好の機会にするだろうか。
たとえば1箱20本入り300円のマイルドセブンを、たばこ税の値上げで千円にする。そんな健康政策を推進する超党派の議員連盟が発足した。
「1箱千円」は、たばこに別れを告げる人を増やすために、大いに歓迎である。
たばこは本人ばかりか、周りで煙を吸わされる人の健康も損なう。寝たばこなどは火災の原因にもなるし、少年の非行の温床にもなっている。
2兆2千億円の税収を稼ぎ出し、葉タバコ農家や販売者の生活を支えているが、社会全体で見れば、負の部分が多い。21世紀の日本は脱たばこ社会をめざすべきだ。
政治家らが脱たばこに向けて本格的に取り組むのは初めてである。一度に千円に引き上げることはむずかしいかもしれないが、粘り強く活動してもらいたい。
日本のたばこは他の先進諸国と比べて安すぎる。代表的な銘柄の場合、英国は1300円近くするし、ドイツやフランスでも日本の倍以上だ。米国は地域で違いがあるが、ニューヨーク市の場合、やはり倍以上も高い。
日本の男性の喫煙率は40.2%と英米よりも突出して高い。女性は12.7%だが、若い世代で喫煙が増えている。赤ちゃんへの影響を考えれば、見過ごせない状況だ。
「千円たばこ」は、こうした現状を大きく変えるきっかけになる。研究者の試算や世論調査では、この水準まで価格が上がれば、8~9割が禁煙を考えるという結果が出ているからだ。
ただ、めざすべきは、あくまでも国民の健康や安全の基盤づくりであることを改めて確認しておきたい。
議連には、税収を増やすために、たばこ税を上げようと考えている議員も少なくない。早くも約9兆円も税収が増えるという皮算用が出ている。
しかし、これは消費量がいまと同じという前提だ。価格を上げれば、当然、買う人は減る。
消費量を減らすのがそもそもの目的だから、税収も大きく減ることを覚悟しておいた方がいい。税収が減ることを嫌って、大幅な引き上げをためらうようなことがあってはならない。
「財政収入の安定的確保」を目的にしているたばこ事業法は、根本から改めなければならない。
議連には、たばこ税に代わる安定的な財源の確保に知恵を絞ってもらいたい。国が巨額の債務残高を抱え、高齢化で医療や介護の費用が増える中で、消費増税などで補う必要がある。
「千円たばこ」は、税制改革を本気で考える契機にもなる。
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2008/06/25のBlog
[ 13:09 ]
[ 本たち ]
nadjaさんが堀辰雄の『風立ちぬ』を紹介しておられる。
私も中学時代に堀辰雄の「風立ちぬ」と「美しい村」を読み、その叙情的で美しい描写に憧れたものだが、所詮、田舎の貧乏中学生にとっては、このようなブルジョア的な恋愛などとは一生無縁であることは、その時点ですでにわかってしまっていた。
私にとっては、サナトリウムなるものが、何か甘美な憧れを催させる場所として強く印象づけられたものの、その後、再び堀辰雄を読むことはなかった。
大人になってから読んだ寺山修司の『さかさま文学史・黒髪篇』の中に、堀辰雄への愛憎を書いた一文があり、非常に共感を覚えたものだ。それ以後、堀辰雄と言うと、「風立ちぬ」よりも寺山修司のこの文章を思い出すほどだ。以下、いささか長くなるが、寺山の文章を引用する。
(なお、念のために付言しますが、この文章を引用するのは、単に寺山の視点が面白いからであり、決して堀辰雄をけなすためではないことを強調しておきます。)
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私は、堀辰雄の『燃ゆる頬』や『麦藁帽子』を真似た短編を書いてみたりもしたが、何しろ、軽井沢の胸を病む少女と詩人との、フランス語まじりの知的な会話と、円形脱毛症に悩む青森弁の中学生とのあいだは、あまりにもひらきが大きく、書いても書いても似たものができる訳はなかった。
そして、そのうちに、かわいさ余ってにくさが百倍。
次第に堀辰雄の小説がきらいになっていったのである。
「私たちがずっと後になってね。今の私たちの生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」
と、堀辰雄は『風立ちぬ』の中で書いている。
だが、と私は思った。
自分のことを「どんなに美しいだろう」と書ける神経がいささか奇異に映ったからである。
おそらく、私ならば「美しい」ということばを使うことなどできないだろう。たとえ、それが過去の「物語」にすぎないとしても、よほどのナルシストでないかぎり、じぶんのロマンスのことなど照れてしまうものである。
だが、堀辰雄は、それをぬけぬけとやってみせた。そうしたキザさ、自己讃美の露出癖は、いわば堀辰雄の文学の特性であった。
だから、はじめて堀辰雄の写真を見たとき、私はおどろいてしまったものだ。
ほんものの堀辰雄は、ジャン・ルイ・バローのような美青年どころか、髪はもじゃもじゃで、眼鏡をかけた、どっちかといえば「いい男」などではない三十すぎの作家にすぎなかったのである。
・・・・
さあ、風が吹いてきた。私たちは、生きなければならない――というヴァレリーの詩を引用するときの堀辰雄の「生」は、「真の生」であって、現実の生とはべつのものであったのである。
死を通りぬけてなお存在し死を超えてかがやく高原の一房の葡萄のような辰雄と綾子(「風立ちぬ」の中では節子)の愛とその記録。
それは、同時代の読者の心を奪わずにおかなかった。
堀辰雄は、綾子との日々を『風立ちぬ』と『美しい村』の二編の中編小説に書き、作家としての情熱のすべてをそこに燃やして、一世を風靡した。
「真の婚約」ということばは堀辰雄の死んだ綾子への永遠の愛を想わせるものだったので、だれもが、
「堀辰雄は一生独身で通すだろう」
と思ったものである。
だが、綾子が死んでわずか二年後に、堀辰雄は九歳年下の加藤多恵子と結婚した。
・・・
それから、五十歳で死ぬまでの十五年間、堀辰雄は『風立ちぬ』を上回る小説を欠くことがなかった。
人々は、それを堀辰雄の健康のせいにしたが、私はやっぱり綾子のせいではなかったかと思っている。
『風立ちぬ』を書かせた綾子は「真の婚約」をうらぎって他の女と結ばれた辰雄に罰として、二度と「美しい」小説を書かせないようにしたのだ――そう考えるのは、まちがいであろうか? 読者の皆さん。
――寺山修司「婚約者・矢野綾子」『さかさま文学史・黒髪篇』より
[ 12:02 ]
[ 本たち ]
さらに、しつこく寺山修司『ポケットに名言を』(角川文庫)からの再引用を続ける。
「仁義なんてものは悪党仲間の安全保障条約さ」
――黒沢明「酔いどれ天使」
鉄砲玉が遠くまで飛ぶのは方向が限られているからさ。
――ディアギレフ
人間は、鏡をもって生まれてくるのではなく、また、われはわれなりというフィヒテ的哲学者として生まれてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映してみる。
――カール・マルクス「資本論」
ある状況についての幻想を捨てたいという願いは、幻想を必要とする状況を捨てたいという願いである。
――カール・マルクス
もし世界の終わりが明日だとしても私は今日林檎の種を蒔くだろう。
――ゲオルグ・ゲオルギウ
地上的な希望はとことんまで打ちのめされねばならぬ。そのときだけひとは真の希望で自分自身を救うことができる。
――カフカ「城」
なぜ、人間は血のつまったただの袋ではないのだろうか?
――フランツ・カフカ
一杯の茶のためには、世界など滅びていい。
――ドストエフスキー「地下生活者の手記」
[ 11:18 ]
[ 本たち ]
引き続き、寺山修司『ポケットに名言を』(角川文庫)からの再引用――。
人間は生きなければならないという責任を負っている。けれども私には責任が失われて、それを失わせてしまった行為の責任が問われる。そしてそこにおいて生と死を見なければならない。
――李珍宇「獄中書簡」
花も嵐も踏み越えて
行くが男の生きる道
泣いてくれるなほろほろ鳥よ
――西條八十「旅の夜風」
貞淑、それは虚栄である。それは形を変えた自尊心である。
――アンドレ・ジイド「ワルテルの日記」
恋における貞節とは欲情の怠惰にすぎない。
――アンドレ・レニエ
勤勉な馬鹿ほどはた迷惑なものはない。
――ホルスト・ガイヤー「人生論」
安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしてるときは生のよろこびを書きつづる。
――太宰治「晩年」
「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」
――「チャップリンの殺人狂時代」
犯罪者は国家の競争相手であり、国家の暴力独占権を脅かす存在である。
――エンツェンスベルガー「政治と犯罪」
政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことが出来ない。
――トーマス・マン「魔の山」
人間は生きなければならないという責任を負っている。けれども私には責任が失われて、それを失わせてしまった行為の責任が問われる。そしてそこにおいて生と死を見なければならない。
――李珍宇「獄中書簡」
花も嵐も踏み越えて
行くが男の生きる道
泣いてくれるなほろほろ鳥よ
――西條八十「旅の夜風」
貞淑、それは虚栄である。それは形を変えた自尊心である。
――アンドレ・ジイド「ワルテルの日記」
恋における貞節とは欲情の怠惰にすぎない。
――アンドレ・レニエ
勤勉な馬鹿ほどはた迷惑なものはない。
――ホルスト・ガイヤー「人生論」
安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしてるときは生のよろこびを書きつづる。
――太宰治「晩年」
「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」
――「チャップリンの殺人狂時代」
犯罪者は国家の競争相手であり、国家の暴力独占権を脅かす存在である。
――エンツェンスベルガー「政治と犯罪」
政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことが出来ない。
――トーマス・マン「魔の山」
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