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イスマタリアン
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2007/09/19のBlog
[鏡 響子さんのBlog]

鏡 響子さん「響子の人生相談 その4」という記事で、「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に回答しておられる。

回答自体は、鏡さんらしく、問題の本質に正面から鋭く切り込む内容となっていて、感銘を受けた。

ところで、この質問には「倫理・法律・宗教・情に訴えるような答えはしないでください」という条件が付けられている。当初私は、この条件は、鏡さん自身がわざと回答を困難にして、安易な回答に逃げ込むのを封じる目的で自ら付けられたのかと思ったが、そうではなかった。これは、誰でも自由に質問したり回答したりできる(らしい)「Hatena::Question」というサイトに出された質問で、すでに大勢の人がそれぞれの回答をしていた。そのサイトを見て、私は少し不快な気分になった。

実は鏡さんの記事については、すでにwarmgunさんもその記事「snapshot s0047」の中で感想を書かれている。その中でwarmgunさんも、「やはりこの質問は不愉快(あるいはまちがった質問)ではないか、と思った」と書かれている。ああ、私と同じ感想だ、と思ったが、その次を読むと、理由は多少異なることがわかった。

warmgunさん曰く、

<ただしこれは、大江健三郎氏が言ったように、”正しい倫理感覚をもったひとは、このような質問を発するはずがない”という立場ではない。

そうではなくて、”人を殺す”という一般化が気に入らない。

人殺しはひとつひとつちがうのであるから、それがなぜ”いけない”かもひとつひとつちがうのである。>

この部分を読んで、ああ、なるほど、確かにその通りだな、と思った。
しかし、私が不愉快になって原因は少し別のところにある(しかし、さらによくよく考えると、やはり同じような理由なのかもしれない)。が、それについては、もう少し後で述べる。その前に、この質問をもう一度見てみると、ゲーム的な問いとしては極めて不完全な問いであることがすぐわかる。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、「人を殺してはいけない」という倫理的判断を前提としているが、まず、そういう判断が果たして成り立っているのか、ということ自体が先決問題である。つまり、「人を殺してはいけないのか」という問いがまずあって、それに対して「いけない」という答えが与えられてはじめて、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが成立するのである。

ところが、「人を殺してはいけないのか」という問いに対して、無条件に、つまりいかなる場合も絶対に「いけない」と答える人は少数派ではないだろうか。なぜなら、現在の日本で(おそらく日本に限らないが)、絶対平和主義者で、かつ死刑廃止論者の人は少数派にとどまると思われるからだ。逆に言えば、多くの人は、「人を殺してはいけない」(以下、これを「A命題」と呼ぶことにする)という判断を条件付きでしか支持していないだろう。だとすれば、条件付きのA命題支持者に、「なぜ人を殺してはいけないのか」という普遍的問いを投げかけるのは混乱を招く元ではないだろうか。条件付きA命題支持者がこの問いに答えるためには、まず、「人を殺してはいけない場合」と「人を殺してもよい場合」とに分け、それぞれがどのような場合であるかを明確に述べたうえで、それぞれの根拠を答える、という手続きを踏む必要があるだろう。しかし、そもそも私はこういう倫理的問いをゲームにしてしまうこと自体に疑問を覚える。

warmgunさんも記事の最後で、

<そもそも”倫理・法律・宗教・情に訴えるような答えはしないでください”というのは、何を意味するのか?
このひとは”純粋論理”のゲームが可能だと思っているのだろうか。>

と述べておられるが、この反語的疑問にも共感する。
私の言葉で言えば、A命題は倫理的命題である。倫理的命題を一切の倫理的命題に依拠することなく正当化しうる、という立場、を支持する哲学者や倫理学者は極めて少ないだろう。20世紀以後の哲学・倫理学においては、事実命題から価値命題(あるいはその逆も)を導出することはできないとする事実と価値の二元論(方法二元論とも言う)が圧倒的通説となっているからである。

前置きが長くなった。
私が言いたかったのは、なぜこの質問によって私が不快感を覚えたか、ということだ。
私はこのような根本的な倫理的問いかけは、論理ゲームのような“遊び”によって答えうるものだとは思わないし、そもそもそういうお遊びで答えるべきことがらではないと思っているからだ。

しかし、この質問者は明らかに“遊び”としてこの質問をし、回答者がどのように答えるかを面白がって見ているにすぎない。もちろん、ほとんどの回答者もそのことは承知の上で、一種のゲームとして回答を試みているようなので、それはそれでいい、とも言える。別段、部外者が目くじらを立てる筋合いではないようにも思われる。

にもかかわらず、やはり私は不快感を拭えない。その原因は何か?
それは、このような問いの形式そのものにある。
質問者は「どうして人を殺したらいけないのでしょうか」と問いかけているが、なぜそういう疑問を抱くに至ったのかという理由は述べていない。それはそうだろう。別にこの質問者はこういう問いに実存的につかまってしまったというわけでは全然なさそうだ。それは、「倫理・法律・宗教・情に訴えるような答えはしないでください」という条件を付けていることからも明らかだ。質問者はあくまでゲームとして回答不能な質問を出して、回答者の回答に難癖をつけて面白がっているだけなのである。求婚者に実現不能な要求をするかぐや姫のようなものである。しかも質問者は回答者からの反問に応答したり、自ら回答を試みるといった一切の責務を負わない絶対安全地帯から高みの見物をしているのである。そういう態度が不快感の原因なのである。

ではなぜ、この質問が回答不能と言えるのか?
それは、根本的な倫理的問いは論理だけで答えることはできないからだ。質問者は普遍的回答を要求している。普遍的回答とは普遍的聴衆を説得しうる回答のことであり、普遍的聴衆には倫理的痴呆も含まれるから、およそいかなる倫理的規範も内面化していない宇宙人のような人間をも説得しうるような議論を見出すことは不可能である。どんな議論に対してもなんらかのいちゃもんをつけることは常に可能であろうからだ。倫理的問いかけが意味を持ちうるのは、通常の会話形式においてのみである。つまり、そこでは質問を投げかけられた側は最初の質問者に対して何らかの反問をなすことができ、最初の質問者もそれに対して応答責務を負うことになる。そのような会話のなかから共通の倫理的地平を見出し、以後の議論においては、その共通の地平を前提として議論を進めることが可能になる。倫理的問いかけが意味を持つのはそのような会話の中においてであろう。倫理的痴呆と倫理的対話が成り立つとは思えない。


2007/09/12のBlog
[ 18:10 ] [ ニュース ]
前代未聞の無責任男、アベシンゾーが突然の辞任表明をした。

参院選で惨敗しても総理の職にしがみつき、内閣改造をして、
APEC首脳会議に出席して外国首脳に無責任な「国際公約」
とやらをし、国会で所信表明演説をしたうえで、それに対する
代表質問を受ける前に辞任表明したのだ。

これほど全国民と外国首脳を愚弄した総理大臣は日本の歴史上
空前絶後だろう。

かくなるうえは衆議院の解散・総選挙で民意を問う以外、日本に
民主主義を再生させる道はない。


2007/09/11のBlog
残念ながら自分できちんとした記事を書いている時間がないので、代わりに、一人でも多くの人に読んで貰いたいお勧めサイトを紹介する。
 これまでにも私は、お勧めのサイトやブログを紹介したことがあり、きっこさんのブログや天木直人氏のブログなどにも何度か言及した。彼らの主張の多くに共感してのことではあるが、ときには全く賛同できない主張もある(*)。今回ご紹介するのは、これまで紹介したそうしたサイト以上に私が信頼を寄せるサイト(というか人)である。

 ひとつは、オウム事件以来有名になったジャーナリスト、江川紹子さんの「江川紹子ジャーナル」である。私は、テレビに頻繁に登場するコメンテーターで好きな人はほとんどいないのだが、江川さんは例外である。彼女の冷静で公正なコメントはいつ聞いても、そのほとんどが「異議なし!」って感じなのである。「江川紹子ジャーナル」の中では、「社会のこといろいろ」というページに時事問題や社会問題に関するエッセイが掲載されている。その中でも、特に私が多くの人に読んで貰いたいのは、一番新しい記事「刑事弁護を考える~光市母子殺害事件をめぐって」である。これを読むと、橋下徹というタレベン(タレント弁護士)がいかに弁護士としての、という以前に人間としての倫理も論理も欠落させたデタラメ人間か、ということがよくわかる(ので、ここでは繰り返さない)。しかし、本質的な問題はこういうタレベンにあるのではない。弁護士であれ、医者であれ、学者であれ、政治家であれ、デタラメな人間はおよそあらゆる職業において存在しているだろう。問題なのは、こういう幼稚なタレベンを使って、社会的ファシズムを扇動しているマスコミである。

 マスメディアの抱える大きな問題としては、「体制=権力を監視し、国民の知る権利に奉仕する」というジャーナリズムの使命を忘却しただけでなく、権力の宣伝広報機関となり下がり、政治的ファッショ化推進のお先棒を担いでいる、という問題があることは、私もこれまでに何度か指摘した。しかし、それと同じくらい大きな問題点は、現在のマスメディアが社会的ファシズムの扇動機関と成り果てている、ということである。北朝鮮関連の報道や、光市母子殺害事件のような犯罪事件においてそれは顕著に現れるが、小さなところでは朝青龍問題にもその徴候は見られた。

 社会的ファシズムの特徴は、「悪魔」化された憎悪の対象がいったん措定されると、善悪二元論的世界観の下、「悪魔」を徹底的に叩くことこそが「正義」であり「善」であると見なされる。そして、問題を冷静かつ客観的に分析したり、問題の背景や深層を総合的・多角的・相対的に検討したりするような意見・発言・報道が徹底的に封じられ、そのような発言をしただけで「悪魔」の味方であると見なされて袋だたきに遭うのでは、という恐怖感さえ感じられるようになる。こういう現象は、歴史的に見ても、「魔女狩り」、「天皇制軍国主義下の言論統制」、「1950年代のマッカーシズム」、「911以後のアメリカを覆った異常な“愛国”ムード」などすべてに共通するものである。そして、そうした社会的ファシズムは現在の日本に色濃く表れており、マスコミがそれを煽り立てているのである。橋下徹タレベンの暴言事件などその一例にすぎないのである。


(*)例えば、8月28日付「きっこの日記」(「きっこのブログ」では8月29日)に掲載された「死刑廃止論を廃止しろ!」という記事は言論弾圧まがいの暴論だが、死刑制度については、いずれ暇ができたら私の意見をこのブログで表明するつもりだ。


<追記>
ついでに言うと、今朝の朝日新聞の第2社会面には「橋下徹弁護士」の問題が大きく取り上げられているが、はっきり言って読むだけ時間の無駄である。これだけ大きく取り上げているにも関わらず、分析はゼロであり、事実の紹介も全く不十分である。江川さんの記事と比較すれば、朝日の記事を書いた記者がいかに無能であるかがよくわかる。大体、「弁護士バトルTVで過熱」などという見出しからして、問題の本質を全く捉えていないこと丸出しなのである。


<追記2>
猫好きな人は「江川紹子ジャーナル」の「フォトアルバム」も必見です。江川さんちの飼い猫たれちゃん&ちびちゃんの可愛い寝姿に癒されること請け合いです。
2007/09/09のBlog

白鳥は哀しからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ (若山牧水)

いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見む このさびしさに君は耐ふるや (同)





僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り注ぎ、風は花々揺つてゐた。

林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
さてその夜には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。

(中原中也――ゆきてかへらぬ――)





おまえのかなしみは
一日も早く
よごしてしまったほうがいい
そして洗濯機で洗ってしまうのさ

ぼくはよく見かける
洗濯物といっしょに
風にはためいている
おまえの白いかなしみを

(寺山修司――さよならの城――)



日々を慰安が吹き荒れて
帰ってゆける場所がない
日々を慰安が吹き抜けて
死んでしまうに早すぎる
もう笑おう もう笑ってしまおう
昨日の夢は冗談だったんだよと

(岡本おさみ――祭りのあと――)




恋も涙も純情も 生きるためには捨てよう
今日も汚れた人ごみに 背中丸めて隠れてる

(桑田佳祐――祭りのあと――)





※写真は上から、三十三間堂、茶わん坂の扇子屋、清水寺、円山公園に立つ坂本龍馬・中岡慎太郎像、祇園の街並み

2007/08/31のBlog
[ 17:48 ] [ 言葉 ]
[鏡 響子さんのBlog]

鏡 響子さんが「免罪符の風景」という興味深い記事を書かれている。
その中で、タバコのCMに目立たぬようにつけられる「吸い過ぎはあなたの健康を損なう恐れがあります」という注意書きや、消費者金融の「ご利用は計画的に」とか、酒類の「お酒は二十歳を過ぎてから」などのキャプションが、すべてこれらの企業の免罪符の役割を果たしているに過ぎないとの指摘がなされている(本題はそのあとにあるのだが、それについては、直接、鏡さんの記事を参照してほしい)。

この記事を読んで、私はすぐに「説明責任」という言葉を連想した。
日頃、政治家がこの言葉を免罪符代わりに濫用する有り様に腹を立てていたからだ。
そこで、以下のようなコメントを鏡さんの記事に書こうとしたら、字数オーバーではじかれてしまったので、TB記事にさせて頂くことにした。

(以下が、当初、「コメント」として書いた内容です)
非常に面白い指摘ですね。

ところで政界免罪符の典型は「説明責任」という言葉でしょう。
どうやらこの言葉は英語のaccountabilityの訳語のつもりで使われているようですが、とんでもない誤解です。私の記憶が間違っていなければ、これは、在日オランダ人ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレン氏が1990年に出版した『日本 権力構造の謎』がベストセラーになったことをきっかけに広まった言葉です。その中に出てくるaccountabilityという言葉を訳者の篠原勝氏が「説明責任」と訳したのですが、英語のaccountabilityはresponsibilityよりも一層強い公的責任を表す言葉です。ところが、これを「説明責任」と訳したために、とにかくデタラメでも何でも説明しさえすればいいのだ、という、とんでもない解釈が生まれました。その結果、例えば政治家の不正な政治資金処理が問題になると、「法律に則って適正に処理している」などと何の説明にもなっていない言葉を記者会見で言えば「説明責任を果たした」などと使われ、それ以上マスコミも追及しないお粗末さです。Accountabilityに言霊があるとすれば、とんだ免罪符にされてしまったと、我が身の不幸を嘆いていることでしょう。


2007/08/30のBlog
[「in・マキノコ!」研究序説]

千葉県の「セクシー女王(本当はお姫さまの方が良い人・・・ほほ)」にして「可愛すぎる病人」であり、「唐突に拗ねる」特技を持つわれらが詩人姫、「in・マキノコ!」のマキちゃんは、子供の頃から本と読書をこよなく愛する活字中毒で、その読書領域は日本文学、世界文学、哲学、エロ小説、漫画、詩、怪奇小説、幻想小説、ルポルタージュ、エッセイ等々あらゆる分野に及んでいる。子供の頃からの早熟ぶりと現在に至るまでの読書量の膨大さにはただただ圧倒されるばかりである。

そのマキちゃんがとりわけ好きなのは次のような本たちだ。それにしても14歳でマルキ・ド・サドにのめりこんだというのだから驚きだ(笑)

●マルキ・ド・サド「悪徳の栄え」他
●サガン「悲しみよ こんにちは」他
●池波正太郎「新しいもの古いもの」「食卓の情景」他多数
●北杜夫「どくとるマンボウ航海記」「夜と霧の隅で」他全て
●桐野夏生「メタボラ」「グロテスク」「アイムソーリー、ママ」「残虐記」
●渋澤龍彦「秘密結社の手帖」他
●高野秀行「怪獣記」「アヘン王国潜入記」「ワセダ三畳青春記」
●田辺聖子「ジョゼと虎と魚たち」「残花亭日暦」
●中島らも「こどもの一生」「とらちゃん的日常」
●夏目漱石「坊っちゃん」他多数
●森茉莉「マリアの空想旅行」他多数
●吉行淳之介「懐かしい人たち」「夕暮れまで」他多数
●色川武大「あちゃらかぱいッ」「うらおもて人生録」「怪しい来客簿」「強靱日記」
●カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」
●トーマス・マン「ヴェニスに死す」
●桂望実「死日記」
●マヌエル・ブイグ「蜘蛛女のキス」
●小林信彦「ぼくたちの好きな戦争」


ほかにも「本たち」ジャンルの中で紹介されているものだけでも、以下のようなものがある。もう、「どんだけ~!?」なのだ(笑)
これらはマキちゃんが最近2年間に読んだ(または再読した)本の一部にすぎない。

ゲッツ板谷「タイ怪人紀行」
宮沢賢治「注文の多い料理店」
キャロル「ふしぎの国のアリス」
オスカー・ワイルド「幸福な王子」新潮文庫
栗田有起「お縫い子テルミー」集英社文庫
内田春菊「私たちは繁殖しているグリーン」角川文庫
金城一紀「映画篇」集英社
アレックス・シアラー「世界でたったひとりの子」竹書房
上原善弘「被差別の食卓」新潮新書
幸田文「みそっかす」岩波文庫
上甲宣之「地獄のババぬき」宝島文庫
クリストファー・バックリー「ニコチン・ウォーズ」創元推理文庫
奥田秀朗「家日和」集英社
西岸良平「鎌倉物語24」双葉社
雁屋哲「美味しんぼ99」小学館
吉田修一「悪人」朝日新聞社
山本英夫「ホムンクルス8」小学館
深沢七郎「言わなきゃよかったのに日記」中公文庫
山本文緒「再婚生活」角川書店
保坂和志「季節の記憶」中央文庫
遠藤周作「孤狸庵読書術」河出文庫
アンデルセン「絵のない絵本」新潮文庫
伊丹十三「ヨーロッパ退屈日記」新潮文庫
辺見庸「もの食う人びと」角川文庫
福井晴敏「6スティン」講談社文庫
上原隆「友がみな、我よりえらく見える日は」幻冬舎文庫
清水久典「死にゆく妻との旅路」新町文庫
マーク・トウェイン「トムソーヤーの冒険」「ハックルベリー・フィンの冒険(上・下)」
アントニー・バージェス「時計仕掛けのオレンジ」
沼正三「家畜人ヤプー」
夢野久作「ドグラ・マグラ」
江戸川乱歩「盲獣」「虫」
ル・クレジオ「春 その他の季節」「アフリカのひと」 
姫野カオルコ「ひと呼んでミツコ」
佐野眞一「東電OL殺人事件」「東電OL症候群(シンドローム)」以上、新潮文庫
石原良純「石原家の人びと」新潮文庫
重松清「送り火」「トワイライト」以上、文春文庫、「リビング」中公文庫、「疾走(上・下)」角川文庫
佐藤秀峰@「新ブラックジャックによろしく1」小学館
見城徹「編集者という病い」太田出版
?「体のふしぎ1」
細川てんてん「イグアナの嫁」「ツレがウツになりまして」以上、幻冬舎
ウラジーミル・ナボコフ「ロリータ」新潮文庫
安達哲@「バカ姉弟(きょうだい)」
半藤一利「漱石先生お久しぶりです」
遠藤周作「弧理庵食道楽」河出文庫
島田雅彦「溺れる市民」河出文庫、「ロココ町」集英社文庫、「僕は模造人間」新潮文庫
浦沢直樹×手塚治虫「PLWTOプルートウ」小学館
「ROCKIN'ON JAPAN」
羽生生純「ワガランナァー」
荻昌弘「男のだいどこ」
山里亮太「天才になりたい」
古川緑波「ロッパの悲食記」
舞城王太郎「阿修羅ガール」「煙か土か食い物」(×)
鴨志田穣「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」
春日武彦(精神科医)「残酷な子供グロテスクな大人」
京極夏彦(妖怪シリーズ最新刊)「邪魅の雫」(×)
石田衣良「アキハバラ@DEEP」文春文庫
石丸元章「アフター・スピード」
種村季弘「食物漫遊記」
島田洋七「佐賀のがばいばあちゃん」徳間文庫
大村彦次郎「文士のいる風景」ちくま文庫
折口信夫
斎藤緑雨「斎藤緑雨」筑摩書房
リリー・フランキー「美女と野球」河出文庫、「東京タワー」扶桑社、「壊れてる人へ」(もしかして「ボロボロになった人へ」幻冬舎文庫のことか?)
群ようこ「きものが欲しい!」
?「ワイルド・サイドを歩け」
岡崎京子@「pinkピンク」「ハッピィ・ハウス」「東京ガールズ・ブラボー」「リバース・エッジ」「ヘルター・スケルター」「untitledアンタイトルド」「ちわわちゃん」
松苗あけみ@「純情クレイジーフルーツ」
業田良家「詩人ケン」
山下和美「不思議な少年」
木原敏江「日なたへ日かげへのロマンス」
茂木健一郎「ひらめき脳」「脳と仮想」
ボリス・ヴィアン「日々の泡」
萩原朔太郎の詩集
高村光太郎の詩集
坂口安吾「堕落論」
ミルン「クマのプーさん」岩波少年文庫
サン・テグジュペリ「星の王子さま」
手島 悠介「ふしぎなかぎばあさん」フォア文庫の会(小1で読書にのめりこむきっかけな本)
「ドリトル先生シリーズ」
「赤毛のアン」
「足長おじさん」
ツルゲーネフ「はつ恋」
リルケ「リルケ詩集」新潮文庫
「岩波の偉人伝」
「美智子皇后と雅子妃」
石井妙子「おそめ」
奥田英朗「イン・ザ・プール」文春文庫
奥泉光「モーダルな事象」文藝春秋
殊能将之「鏡の中は日曜日」講談社文庫
南木けい士「海へ」
天童荒太「あふれた愛」(×)
長嶋有「猛スピードで母は」文春文庫
高橋龍太郎「あなたの心が壊れるとき」
ナンシー関・リリー・フランキー「小さなスナック」文春文庫
花村萬月「ぢん・ぢん・ぢん(上・下)」祥伝社文庫、「鬱」双葉文庫、「皆月」講談社文庫
谷崎潤一郎「痴人の愛」中公文庫
斎藤綾子「愛より速く」新潮文庫
間瀬元朗@「イキガミ」(×)
羽生生純@「恋の門」
すぎむらしんいち@「学校法人☆スター学園」
松尾スズキ「ギリギリデイズ」
ほか多数


※ 出版社名を記した本と記してない本が併存していますが、悪しからず。出版社名を知りたい方はamazonなどのサイトでお調べ下さい。
※ 著者名の後の@マークは以下の作品が漫画であることを示す(尤も、漫画であっても@が抜けているものもあるかもしれない)。
※ 作品名の後の(×)印はマキちゃんの評価が低かったもの。


============================

しかし、ですねえ。「本たち」に集められた記事の魅力は本の紹介ばかりではない。記事自体の魅力がたまんないのである☆

マキノコ・ブログ駆け出し研究者である私が特にお薦めするのは、マキちゃんの思想・信条・人となり・悩み・つらさ・可愛さがよく表れている以下のような記事たちだ。

「普通になりたい」(07/03/03)
死日記(07/01/20)
彼女のイノセント(06/10/28)
マイン。(06/07/13)
文化という奇跡(06/07/05)
嘘とハッタリの無い世界。(06/06/12)
マキという女の身の上。(06/05/27)
マキのひらめき。(06/05/25)
うたかた。
マキノコin哲学(06/05/24)
++歌舞伎町の巻++(05/12/15)
+++making★(05/10/20)

あるテレビの討論番組で、「このままではただのフリーターとして死ぬ。しかし戦争で死ねば名誉と恩給が手に入る。希望は戦争です」と発言した人がいたそうだ。この発言を私は荒木國臣氏のサイト「21世紀へのメッセージ」で知った。

このような「フリーター・ファシズム」とも言うべき事態の背後にあるのが、バブル崩壊以後10数年にわたって続く絶望的な状況の中、ネットカフェ難民、介護難民、飢餓難民、自殺予備軍となって喘ぐ累々たる市場原理主義の犠牲者の群れなのである。

こうした現代日本の直面している絶望的な社会状況について、荒木氏は「希望は戦争――愛国にすがるフリーター・ファッシズムを生み出したのは誰か!?」と題する8月20日付エッセイの中で見事に分析しています。8月30日付の最新エッセイ「廃墟のなかに曙光はさして」はその続編的文章です。皆さんも、是非ご一読されることをお勧めします。


2007/08/28のBlog
[ 17:43 ] [ 政治 ]
今月上旬、私の書いたいくつかの雑文に対して、foresight1974さん(以下、「フォーサイト氏」と記す)からトラックバックを頂いた。なかでも、「選挙情勢分析の意義について考える」と題された8月4日付の記事において、私の意見に対する貴重なご批判を頂戴した。本来ならもっと早く応答すべきであったのだが、いくつかの事情が重なって、お応えするのが遅くなってしまった。

さて、そのなかでフォーサイト氏は私が「民主主義国家の選挙制度の効能をいささか過大評価しているし、有権者のメディア・リテラシーを過小評価しているきらいがあるように思われる」と述べておられる。私はこの意見に対して反論するつもりはない。確かに私は、民主主義において選挙制度の持つ重要性はどんなに強調してもしすぎることはないと思っているし、(日本の)有権者のメディア・リテラシーを高く評価していないからだ。その意味で、フォーサイト氏のご指摘は当たっているかもしれない。しかし、私はフォーサイト氏の議論の中にいくつかの疑問を感じたが、それに触れる前に、フォーサイト氏が批判された私の意見を敷衍しておこう。フォーサイト氏は、前掲記事の冒頭で、次のような拙文を引用されている。

 「マスコミは例によって、選挙予想報道ばかりやっているが、私は選挙結果の予想になど全く関心がない。というより、すべての選挙予想報道は有権者の投票行動に影響を及ぼすものであるから、それ自体、政治の民主過程を歪めるもので、本来許されないと私は思う。」

 これだけではわかりにくいと思うので、ここで私が言いたかったことを幾分詳しく説明しよう。私がここで問題にしたのは、選挙直前のマスコミによる選挙予測が有権者の投票行動に与えるアナウンス効果である。なかでもよく知られているのが、「勝ち馬に乗ろう」とする有権者の心理によって、勝利が予測される候補者や政党がますます勢いづいて圧倒的勝利を得る「バンドワゴン効果」と、不利が予想される候補者や政党に有権者の同情票が集まって逆転勝利する「アンダードッグ効果」である。2005年9月11日の「郵政」総選挙での自民圧勝には少なからず「バンドワゴン効果」が働いただろう。

 日本において選挙予測によるアナウンス効果がとりわけ深刻だと私が思うのは、日本では30年以上前から、無党派層が最大の“政治党派”となっており、(投票に行く)無党派層は投票直前になって投票先を決めることが多い。さらに、無党派層ほどマスコミの影響を受けやすいことが知られており、彼らが投票態度を決める際の手がかりのひとつに、マスコミの選挙予想があることは間違いない。しかも、日本人の行動・態度の中には、「長いものには巻かれろ」とか「寄らば大樹の陰」といった大勢順応主義、現状追随主義とでも言うべき悪しき思考習慣が根強く残っているため、上に述べた「バンドワゴン効果」と「アンダードッグ効果」では前者の発生確率の方がはるかに高く、選挙予測報道は大政党や有力候補者に有利に働くケースが多いだろう。もっともここで重要なことは、選挙予測が「バンドワゴン効果」と「アンダードッグ効果」のどちらをもたらすか、大政党と小政党のどちらに有利に働くか、といった問題ではない。どちらにせよ、選挙予測によって有権者の投票行動が左右されるということが一番の問題なのである。

 言うまでもないことだが、選挙とは本来、有権者が立候補している候補者や政党の政策パッケージを比較検討し、その中で自らが相対的に最も支持できる政策パッケージを提示している候補者・政党に投票すべきものであろう。現職・元職の場合には、議員時代の実績(行動)と公約との一致度を検証することも当然そこには含まれよう。したがって、マスコミが本来すべきことは、選挙に立候補している候補者・政党の政策を詳しく、かつ公平に伝えることであり、現職・元職の場合には、議員時代の実績および公約との一致度を詳しく検証した報道をすべきなのである。ところが、実際の報道はどうか。政党に関する報道はおよそ公平とは言えず、大政党中心になっているし、候補者についても、一部の有名候補者だけを芸能人のように追い掛け回して“政治ショー”を演出し、政策報道よりも選挙予測報道に力を入れているのが実情だろう。これでは有権者が各政党や候補者に関して客観的で公正な知識を得ることは極めて困難である。つまり、少なからぬ有権者が選択の基礎となるべき知識があやふやなまま、ワイドショーのような選挙ニュースで得た中途半端な知識やムードで投票態度を決めているのが現状である。したがって、問題はもちろん選挙予測だけにあるわけではないが、少なくとも公示(告示)後の選挙予測はやめるべきだと私は思う。先の引用部分で「本来許されない」と書いたのは言いすぎだったが、「本来望ましくない」とは言えるだろう。

 さて、ここから先は、フォーサイト氏の所論に対する疑問のうち最も重要な1点だけ取り上げることにする。
 フォーサイト氏は、「選挙制度の最大の弱点は、多様な政治的論点に対し、有権者の意思表示が極端に単純化されてしまう」とか、「選挙制度は民意を忠実に反映するものではありえない」などと述べておられるが、ここには選挙制度による差異は全く考慮されていない。しかしながら、選挙制度によって、有権者の投票行動も変わってくるし、政治の風景は一変するだろう。話をわかりやすくするため、極端な例を挙げて、頭の中で思考実験をしてみよう。国政選挙(衆院選でも参院選でもいい)が全国一区の比例代表制(だけ)で行われるとしよう。各政党は公示と同時に選挙公約(マニフェスト)を発表し、選挙運動は一切行わない。マスコミは政党が公表した選挙公約を投票日まで連日報道するが、その際、政党名は公表せず、「政党1」「政党2」・・・というように番号で報道する。各政党の番号は公示日に抽選で決めるが、どの政党が何番かということは投票終了まで公表してはならない。そして有権者は番号で表示された各政党の選挙公約を比較して投票先を決定し、投票日には番号で投票する。仮にこうした方法で選挙が行われた場合、現行制度下での投票結果とは激変することは容易に予想されるだろう。例えば、社民党や共産党の議席は激増すると思われる。この制度だと、完全に政策中心の選挙になり、すべての政党に公平で、選挙運動にカネもかからないということはおわかり頂けると思う。もちろん、このような制度は非現実的であり、実施するためには様々な問題点も予想される。しかし、ここで私が言いたいことは、選挙制度によって、いかに結果に大きな違いが出るか、ということである。

 上の例は、アメリカの政治哲学者、ジョン・ロールズの『正義論』に出てくる「無知のヴェール」という手続きを参考に私が考えたものだが、各種選挙制度の持つ理念やその功罪、そして日本の選挙制度が比較政治学的に見ていかに特殊で問題の多いものであるかは、例えば加藤秀治郎『日本の選挙』(中公新書)などを読むとよくわかる。選挙制度が民主主義に及ぼす影響を決して軽視してはならないと私は思う。

2007/08/26のBlog
[ 23:59 ] [ マキシ普及委員会 ]

本日は、私が世界で一番好きな詩人をご紹介致します。

…といっても、Doblogユーザーの皆さんには既にお馴染みだとは思いますが、それは、
「in・マキノコ!」ブログの管理人であるmakinokoさん、通称マキちゃんです。
マキちゃんはブログの中では「マキ、巻、蒔、making、まき、マキノコ、美巻姫、マキロン、真紀、お巻き、マッキー」など様々な名前で登場します。

彼女は(ブログを見てもらえばわかるとおり)詩人であると同時に、才能豊かなイラストレーターでもあり、エッセイストであり、哲学者でもあります。

重い病気を抱えてますが、類稀なる読書家で、音楽と映画をこよなく愛し、モンゴイカとオラン・ウータンが好きな料理マスターでもあります。

しかし何といっても素晴らしいのは彼女の書く詩の数々です。嘘だと思ったら、例えば次のような詩を読んでみて下さい。これらはすべて今年になって書かれた詩の一部にすぎません。

性は女だ
うなずくように泣き出してしまうだろうか

呼吸
わたしは何時か真空になる
ころんと身を寄せている
わたしをさらって高く放り投げよ
ベッドに寝転がって
よちよち
世界の中に
心は躍る


ね、どうです? もっと読んでみたくなったでしょ?
「in・マキノコ!」には8月26日午後10時現在、合計868本の記事が掲載されています。
そして「まきし」「本たち」など17のジャンルに451本の記事が分類されています。
言い換えれば、どのジャンルにも分類されない記事が全体の半分近い417あるのです。
「in・マキノコ!」にはカレンダーが表示されていないので、僭越ながら、私が代用カレンダーを作りましたので、下に貼り付けておきます。これは各月の最終記事にリンクを貼ったものですので、ある月の前半の記事を読みたければ、その前月のリンクから、後半の記事を読みたければその月のリンクから辿っていけばよいでしょう。

それでは皆さんも、この素晴らしい詩とイラストの世界をお楽しみ下さい♪


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*1)この記事を公開するに当たっては、一応ご本人の承諾を得ています。

*2)この記事もやがては下のほうの移動してしまうでしょう。けれども大丈夫!
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[ 23:32 ] [ 憲法哲学 ]

さて、何度でも繰り返して言うが、自民党が推し進めようとしている(憲法改正権の限界を超える)憲法改定=新憲法制定は、現行憲法の平和主義をドブに叩き捨て、軍事国家路線を推進する過程において、基本的人権を制約しようとするものであり、法的に見れば、憲法クーデターと言うほかないものである。このような主張は、これまでもごく一部の研究者・弁護士・ジャーナリスト等が指摘してきたことであり、今後も指摘し続けるだろうが、マスコミが決して報道しない事実でもある。したがって、圧倒的多数の国民の目には、自民党が企てている憲法クーデターはあくまでも「憲法改正」という合法性の仮装の下に推進されることになる。合法性の外観を装いつつ立憲主義の破壊が企てられているのである。

 それでは、このような立憲主義の危機、しかも政治権力自体によって立憲主義の破壊が企てられるという異常事態を前にしたとき、主権者である国民はどのように対応すべきだろうか。私はこのとき、主権者として抵抗の権利と責務が生じると考える。憲法上、抵抗権とはどのように位置づけられているのだろうか。憲法学の泰斗である佐藤幸治によれば、抵抗権とは、「政府が権力を濫用し、立憲主義憲法を破壊した場合に、国民が自ら実力をもってこれに抵抗し、立憲主義憲法秩序の回復をはかる権利をいう」と説明される。こうした抵抗権が実定憲法に明記されている例も少数ながら存在するが(*)、多くの憲法には明文規定はないものの、たとえそうではあっても、佐藤によれば、「「自然権」を基礎とする立憲民主主義憲法に内在するところの、実定法上の権利であると解される」と説かれる。それでは日本国憲法の場合はどうか。もちろん「抵抗権」を定めた明文規定は存在しないが、12条や97条を根拠に抵抗権の存在を主張する有力説が存在する(先ほどの佐藤幸治もその一人)。12条が、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と規定しているのは、憲法の保障する自由や人権は立法・行政・司法の各権力によって尊重され保障されなければならないが、そのような国家権力自体がこれを簒奪しようとする暴挙に出たときには、最終的には国民自らの努力によってこれを死守しなければならないとの趣旨を述べたものであろう。その意味で、抵抗権は、国民の権利であると同時に、否むしろそれ以上に、国民の責務と捉えるべきだろう。また97条は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と宣言しているが、「人類の多年にわたる・・・努力の成果」という文言は、単に過去の完了した事実を記しただけでなく、自由を保持するためには、そうした努力は永遠に続けられるべきことを含意したものと読むべきだろう。

法学の世界には「権利の上に眠る者は保護されない」という法諺(ほうげん)がある。これは時効制度の説明としてよく引かれる法諺だが、時効制度に限らず、権利一般について言えることである。19世紀ドイツの法学者であるルドルフ・フォン・イェーリングは『権利のための闘争』の中で、「あらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意があるということを前提としている」とか、「権利=法が闘争の用意をやめた瞬間から、それは自分自身を放棄することになる」と述べているが、憲法12条や97条も本質的にこれと同様の趣旨に基づくものと解釈すべきである。

 さて、ここまでは憲法12条や97条に依拠して抵抗権の基礎付けを行ってきたが、憲法にはもう一つ抵抗権を根拠づける文言がある。それが、前文第一段落で述べられた「国民の信託に基づく国政」という原理である。この原理を歴史上初めて明確に定式化したジョン・ロックは、「市民政府論」の中で次のように述べている。

<立法権がその与えられた信任に違背して行為したと人民が考えた場合には、立法権を排除または変更し得る最高権が依然としてなお人民の手に残されているのである。何故ならある目的を達成するために信託された一切の権力は、その目的によって制限されており、もしその目的が明らかに無視され違反された場合にはいつでも、信任は必然的に剥奪されなければならず、この権力は再びこれを与えたものの手に戻され、その者はこれを新たに自己の安全無事のために最も適当と信ずるものに与えうるわけである。>

 つまり、国民から信託された政治権力を政府が(日本国憲法の場合)戦争放棄と基本的人権の保障という信託目的を逸脱する形で行使するに至ったときは、主権者たる国民は再び政府から権力を奪還しなければならない、というのが信託理論の原理なのである。その意味で「信託に基づく国政」原理は、初めから国民の抵抗権を内在させているのである。