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イスマタリアン
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2007/10/09のBlog
7月29日の参院選で示された民意の意味については、すでに様々な解釈が提示されてきた。
あれから2ヵ月半がすぎ、すでに主要な解釈は出尽くしたと言っていいだろう。

自民党が惨敗したこと自体は、平和・人権・民主主義・福祉の復権を願う私の立場からは歓迎すべきことではあるが、かといって決して楽観しているわけではない(もとより、民主党に大した期待をしているわけでもない。自民党より若干マシ、という程度にすぎない)。言うまでもなく日本の有権者の最大「党派」は特定の支持政党を持たない「無党派」層であり、選挙のたびに異なる政党に投票したり、投票しなかったりしているわけだから、次の選挙でどうなるかは予断を許さない。

私はこのブログでは、安倍前政権の極右的な歴史認識や超タカ派的改憲路線、安倍の人間としての異常なまでの無能さなどを批判してきたが、自民大惨敗の主たる原因はおそらくそういうところにはないだろう。

一般に指摘されているのは、(消えた)年金問題、閣僚の相次ぐ失言問題、「カネと政治」をめぐる相次ぐスキャンダル、の3点セットである。(1年間でどれほどのスキャンダルが続出したかについては、不破利晴さんのブログの「「自民党」研究序説 Part-3」を参照されたい。)

確かに、これらの相次ぐ不祥事が自民惨敗の大きな原因になったことは間違いないだろう。特に浮動層の自民離れには、こうした不祥事が大きな影響を与えていると推測される。

しかしながら、それだけでは、あれほどの自民惨敗は説明できないだろう。なぜなら、昔からの強固な自民支持層であった農村部や日本医師会などまで自民離れを起こしているからだ。そこで、一番考えられる理由としては、やはり小泉政権時代に本格的に進行した市場原理主義的な構造「改革」路線の「成果」が現れてきたことによって、年金制度や医療制度を始めとする社会福祉制度が崩壊寸前になり、格差問題、すなわちワーキング・プアや貧困問題が顕在化し、このままでは生きていけない、少なくとも将来安心して生きていくことは到底できない、という人々が大量に出現したことに根本原因があるように思われる。

私はこれまでこのブログでは、憲法に関係する問題としては、9条(戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否認)、19条(思想・良心の自由)、20条(信教の自由)、21条(表現の自由)に焦点を当てることが多かったが、どうやらそれ以前に25条に規定された生存権がもはや保障されない国になってしまっていた、ということである。

だとするならば、7月の参院選で示された民意は、小泉「改革」路線に「ノー」を突きつけた、ということにほかなるまい。


******

それにしても、一体、小泉「改革」とは何だったのか? 
要するに財界と癒着して、空前の利益を上げる大企業を優遇しつつ、サラリーマンの給与水準は頭打ちのまま、労働市場の「規制緩和」の名の下に不安定・低賃金の非正規雇用を増大させ、貧困世帯を飛躍的に増加させ、医療・教育・福祉といった本来的に競争になじまない分野に競争原理を持ち込み、社会保障政策をずたずたにして、社会的弱者の切捨てを行っただけではないのか? 

このような、大企業と大金持ち以外の大多数の国民にとっては「改悪」としか言いようのない政策を、政治家が「改革」と呼べば、マスコミもこぞって「改革」「改革」と連呼し、その具体的中身を検討することもなく、「改革を止めてはならない」などとしたり顔でお説教を垂れる始末である。

考えてみれば、自由と民主主義に一貫して敵対する政党が「自由民主党」と名乗り、対米屈従外交を「国際貢献」と呼び、国家テロリズムを「対テロ戦争」と呼び、障害者の自立を阻止する法律を「障害者自立支援法」と呼ぶ国である。

「戦争は平和である
 自由は屈従である
 無知は力である」

を3大スローガンとする党が支配するジョージ・オーウェルの「1984年」的世界はすでにこの国において着々と実現しつつあるのではないだろうか!?

2007/10/08のBlog
[ 03:52 ] [ 本たち ]
昨日の朝日新聞の読書欄はかなり充実していた。
そこで、私個人の備忘録として、私が興味を持った本をメモしておく。
(したがって、他の人の役には立たないことをあらかじめお断りしておきます。)

なお、< >内は評者名、その後の☆印は私個人の評価であり、☆3つは是非読みたい本、☆2つはできれば読みたい本、☆1つは読んでみたいかも?と思う本である。


・ J・バトラー『生のあやうさ――哀悼と暴力の政治学』(以文社)<斎藤美奈子>☆☆

・ 宮内勝典『惑星の思考』(岩波書店)<巽孝之>☆☆☆

・ M・A・オザンヌ、フレデリック・ド・ジョード『テオ――もうひとりのゴッホ』(平凡社)<久田恵>☆

・ 朝日新聞取材班『分裂にっぽん――中流層はどこへ』(朝日新聞社)<高橋伸彰>☆☆☆

・ 岩田正美『現代の貧困』(ちくま新書)<山口栄二>☆☆

・ 湯浅誠『貧困襲来』(山吹書店)<同上>☆

・ 宇都宮健児ほか『もうガマンできない!広がる貧困』(明石書店)<同上>☆

・ NHKスペシャル取材班『ワーキンブプア 日本を蝕む病』(ポプラ社)<同上>☆

2007/10/03のBlog
この間から書こう書こうと思いながら、書くタイミングを逃してしまった(というか、書きたいときに書けなかった)ことから、すっかり書く意欲をなくしていたのだが、今日の朝日新聞を読んで再び怒りに火がついた。

テロ特措法問題について、朝日新聞は昨日と今日、「対テロ戦争の現状と日本」という特集を2回に分けて掲載している。

「給油の大義、再三模索」という大見出しを掲げた今日の記事は、「米国などの有志連合がアフガニスタンやその周辺で進める「対テロ戦争」は、01年の米同時多発テロ事件を受けて米国が「自衛権」を発動して踏み切った戦争だ」という一文で始まっている。そして本文中にも、「OEF(不朽の自由作戦=引用者注)は、米国が米同時多発テロ事件の実行グループ、アルカイダなどへの個別的自衛権の発動と位置づけて踏み切った戦争だ」という文章が見られる。

「嘘も百回つけば真実になる」と言ったのはナチスの宣伝相ゲッベルスだっただろうか。
しかし、日本のマスコミは「嘘も百回聞いているうちに真実と信じ込む」習性があるようだ。否、実態はもっとひどい。権力者のつく嘘は1回聞けば真実と信じ込んでしまい、それを国民に向かって何百回も繰り返すのが日本のマスコミである。

一体、この記事を書いた記者(複数)も記事をチェックしたデスクも、米同時多発テロの実行グループがアルカイダであるという証拠を一体、いつどこで見たのだろうか? そんなものを見た人間がいるはずはない。なるほど、オサマ・ビンラディン自身がビデオテープの中でテロへの関与を示唆する発言を行っているが、それはテロ事件から何カ月も経ってからのことであるうえ、関与を裏付ける証拠は彼自身も何も示していないことから、世界中のテロリストや過激派集団の中での威信を高めるための発言と見るのが妥当なところだろう。少なくとも米政府は未だにテロ事件の首謀者を特定する証拠を一度も公表していない。それどころか、アルカイダと911テロとの関連を示す証拠は、グアンタナモ米軍基地に拉致したアフガン人「捕虜」を尋問(拷問?)しても明らかになっていない。

それでいながら、ブッシュ政権は911テロ直後にビンラディンの率いるアルカイダがテロの主犯であると断定し、「テロリストもテロリストも匿う者も区別しない」「われわれの側につくか、テロリストの側につくか」などという恫喝まがいの発言を繰り返し、アフガニスタンへの攻撃をちらつかせ始めたのである。タリバン政権は当然のことながら、ビンラディンの引き渡しを求める米政府に対し、その根拠となる証拠を示すように要求したが、米政府はそれを全面的に拒否したうえで、英国などとともに一方的な攻撃を開始したのである。実は、米政権は911テロが発生する前の2001年夏には、ビンラディン引き渡しを口実にアフガニスタンのタリバン勢力に対する軍事行動を有志連合で進めることを秘かに計画していたとも言われている(*1)。911テロはそのような米政府にとって絶好の口実を与えることになったのである。米国がアフガン侵略から1年半後に始めたイラク侵略の口実とした「大量破壊兵器の隠匿」「核開発計画」「アルカイダとの関連性」といった正当化理由がすべて事実無根のデタラメであったことは、今では米政府自らが認めているが(但し、仮にこれらがすべて事実であったとしても国際法上、武力行使の正当化理由にはなりえず、違法であることに変わりはない)、911についても、米政府の説明がすべて本当だと思っている米国民は2割しかいない状況であり、世論調査によると、米国民の51%は、米議会が911に関して、ブッシュ政権を調査すべきだと考えているという(関連記事)。

アフガン攻撃に話を戻すと、なるほど米政府が国連安保理に通知したアフガン攻撃の公式理由は「個別的及び集団的自衛権の行使」ということだったが(なぜなら、国連憲章が容認している武力行使は国連自体の集団的強制措置を除けば自衛権の発動しかないからだ)、その実態を見れば、「自衛権」とは何の関係もないことは、子供でもわかる自明の理であった。なぜなら、世界最貧国のひとつであるアフガニスタンが世界最強の米国を侵略した事実などどこにもないからだ(仮にアルカイダがテロの主犯であったとしても、このことに変わりはない)。今さら言うのも馬鹿馬鹿しいが、国際法上「自衛権」とは、ある国家が他の国家から不正な武力攻撃を受けたときに、それを排除するために緊急やむを得ない場合に、必要の限度を超えない範囲で反撃する権利、のことである(*2)。そのような自衛権と米英によるアフガン攻撃が何の関係もないことは子供にでもわかる。しかし、仮に、米国の「対テロ戦争」という名のアフガン攻撃が「自衛権」の発動だったと仮定すると、その米国に追随して戦争協力することは「集団的自衛権」の行使ということになり、政府自身の憲法解釈によっても禁じられている憲法違反の活動だったということになる。しかし、現実には米国の侵略攻撃への協力だったのだから、憲法違反の程度はさらに高いものだった。

もちろん、アフガン攻撃を進める米英両国の政府は、それが「自衛権」とは何の関係もないことは百も承知していたが、うっかり者の権力者たちはついつい本音を漏らしている。例えばブッシュ米大統領は2001年11月下旬、「アフガニスタンは始まりにすぎない」と述べて、イラクや北朝鮮への警告を発し、それ以外にも、ソマリア、イエメン、フィリピン、インドネシア等、ポスト・アフガンの侵略対象国リストを次々検討する始末である。マイケル・ボイス英海軍総司令官も空爆開始から2カ月後には、「指導者が交代するまでアフガンへの攻撃は続く」と述べ、それが国家テロ以外の何物でもないことを自己暴露している。

ブッシュ政権はアフガン攻撃から1年後の2002年9月17日、「国家安全保障戦略」(いわゆる「ブッシュ・ドクトリン」)を発表したが、そのなかで「合衆国はテロリストたちに対抗し自衛権を行使するため、先制的に攻撃し、必要なら単独行動することも辞さない」と宣言している。ここで「自衛権」という言葉が使われているが、これが本来の自衛とは何の関係もない先制攻撃宣言であることは明白である。「日米同盟の堅持」(福田首相の所信表明演説の外交方針の冒頭に出てくる言葉)という名の対米追随を至上命題とする自民党改憲派が「集団的自衛権」の名で呼んでいるもの(憲法改悪もしくは解釈改憲によって実現しようとしているもの)の実態は、このような米国の先制侵略攻撃に加担して侵略国家となることなのである。

米英等によるアフガン攻撃から6年経った今日、テロの主犯と名指しされたビンラディンは所在すら不明で、アルカイダとテロを結びつける証拠も発見されず、大量破壊兵器によって地形が変形するほどの猛爆撃により、911テロの犠牲者をはるかに上回るアフガニスタン人が殺され、アフガニスタンの治安は極度に悪化してテロは以前よりもはるかに頻発しており、タリバンは復活し、麻薬は蔓延し、人々の生活は窮乏し、多国籍軍が擁立したカルザイ傀儡政権は同軍の支えなしには一日としてもたず、世界中に新たなテロリストが生み出されている。

さて、日本に話を戻すと、911テロの直後からブッシュ政権が根拠も示さずアルカイダを主犯と決めつけ、「アルカイダを“匿う”タリバン政権もテロリストと同罪である」という無茶苦茶な理屈でアフガン攻撃を開始すると、対米追随至上主義者の小泉は直ちに米国の侵略攻撃への後方支援を決め、それを「根拠」づけるためにテロ特措法をわずか1カ月あまりで成立させ、大急ぎで自衛隊をインド洋にまで海外派兵させたのである。

最近、テロ特措法に基づいて派兵されていた海上自衛隊の給油活動がイラク戦争に転用されていたとの疑惑が取り沙汰されている。憲法違反の軍隊が根拠法の規定さえ無視した活動を行っていたわけだから、大きな問題には違いないが、しかし、テロ特措法の規定を守っていればそれでよろしい、などという問題では断じてない。テロ特措法自体が憲法違反であるだけでなく、米国等のアフガン攻撃自体が武力行使の禁止という最も重要な国連憲章規定の違反なのであり、それに協力することは憲法にも国際法にも違反することなのである。

なお、テロ特措法の正式名称は寿限無じゃないが異様に長い。「平成13年9月11日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」というのがそれである。

笑えるではないか。「国連憲章」だの「国連決議」だのという言葉を使えば、水戸黄門の印籠のごとく国民皆が恐れ入ってしまうとでも思っているのだろう。米国等多国籍軍のアフガン攻撃は「国際連合憲章の目的達成」とはまさに正反対のものであり、具体的に言うと、国連憲章第2条4項(武力による威嚇・武力行使の禁止)及び7項(内政不干渉原則)に真っ向から反するものである。各自国連憲章に当たって確かめられたい(国連憲章)。また、多国籍軍の武力行使を正当化するような国連決議も存在しないが、それについては改めて論じることにする。


(*1)板垣雄三編『「対テロ戦争」とイスラム世界』岩波新書、参照。

(*2)国連憲章は自衛権の行使についても、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」という厳しい制約の下においてのみ容認しているにすぎない。
2007/09/28のBlog
「テロ」だの戦争だの政治だのといった記事ばかり書いてたんじゃ、辛気臭くっていけねえや。(といいつつ、また書くことになるだろうが…)
今日は気分を変えて、別の話題を――。

昨夜は早く寝たら早く目が覚めた。
しばらく布団の中でじっとしていたが、眠れそうにないので起きてきた。
だから…という訳ではないが、今日は(私としては珍しく)下書きなしで即興で書いてみることにする。

昨日は意味ある活動はほとんどできなかったが、好い小説を読んだ。
田辺聖子の「ジョゼと虎と魚たち」(同名の角川文庫所収)だ。
30頁足らずの短編なんだけど、爽やかな読後感が残った。

ジョゼという(ニックネームを自ら名乗る)、ちょっとタカビーな物言いをする車椅子の女性が可愛くて愛しい。(そういえば、関西にはこういうタイプの女の子がたまにいる。)
「管理人」という笑えるニックネームをジョゼにつけられた夫の恒夫もいい味を出している。
二人の話す大阪弁(なにかと嫌われがちな方言ですが…)も、読んでて気持ちがよかった。そういえば、(人からは関東人と見られがちな?)私もルーツは関西人なんだよね。

二人の出会いから結婚に至るプロセスが、簡潔な筆致で、実に自然に、と同時に奇跡のように美しく描かれている。

ありふれた日常生活の中に、奇跡のような出会いが紛れ込んでくることが、誰の生涯にも何度かあるよね!

この小説は、読み手の立場によって色々な受け止め方があるとは思うが、私にとっては、そういう恋愛の奇跡性を思い出させてくれる珠玉の恋愛小説だった。

2007/09/26のBlog
[ 11:36 ] [ 国際問題 ]
今国会の焦点であるテロ特措法問題を考えるためには、そもそもアメリカの始めた「対テロ戦争」とは何であるのかを考えることが不可欠である。それを抜きに、「対テロ戦争」や「国際貢献」、「国連決議」といった表面的な言葉に惑わされて思考停止に陥ってしまっては話にならないからだ。


さて、以下の文章は2年前(2005年)の8月に当時やっていたブログに掲載したものです。今読み返しても、書き足りないと思う点はあるものの、書いた内容に関しては一字一句訂正する必要は感じないし、当時のブログの読者と現在のブログの読者はほとんど重なっていないように思われるので、「テロ戦争とは何か」を考えるための予備的材料として、そのまま再掲載することにしました。


******** ********* ********* 

8月1日付朝日新聞に池内恵・国際日本文化研究センター助教授が「「差異への権利」のジレンマ」と題する論説をオピニオン面に寄稿している。その趣旨を一言で言えば、「差別と貧困がロンドン同時爆破テロの原因だ」という説は大間違いで、イギリスでは差別と貧困を是正するためにマイノリティー集団に「差異への権利」を認める多文化主義政策が採られてきたがゆえに、かえってそれがテロの温床になった、というものである。

見当はずれもいいとこである。「差別と貧困」がテロの原因だという説も間違いだが、多文化主義がその温床だというのは、さらなる見当違いであろう。同日付の朝日新聞には、7月21日のテロ事件の容疑者としてローマで逮捕されたエチオピア系英国人、フセイン・オスマンが、テロの動機は英米主導のイラク戦争であり、宗教上の理由ではないと供述している、という記事が載っている。これは、私が「テロはなぜ起きるのか?」という記事のなかで指摘したことを裏付ける証言であるが、事件の捜査がさらに進めば、テロの背景に英米が進める対イラク政策があることはさらに一層明確になるだろうと思う。

アメリカ政府は9.11の後、「テロリストを匿う国はテロリストと同罪とみなす」と繰り返し言明しつつ、アフガニスタンへの戦争を開始した。私は、「テロリストを匿う国は‥‥」という主張自体を受け入れない者だが、仮にこうした主張を誠実に主張しようとする人ならば、その主張を一貫して適用するよう主張しなければならないだろう。なぜなら、少しでも理性のある人ならば、「私は人殺しを絶対に認めない。ただし私が人殺しをするのは自由だ」などという発言を真面目に受け止めることはできないからだ。

それでは、仮に「テロリストを匿う国は…」発言を真剣に受け止めるとどうなるのか? 「テロリストを匿う国はテロリストと同罪であるから、その国に対する報復攻撃は正当なものだ」というのがブッシュ政権の「論理」(仮にそんなものがあるとすれば)だったはずだ。それならば、「テロリストを匿う国」のなかでも、もっとも多くのテロリストを匿っている国こそ最も危険な国だから、真っ先に攻撃しなければいけないはずである。論理的に考えるならば、アメリカはアメリカ(すなわち自国)を真っ先に攻撃しなければならないことになろう。なぜなら、世界で最も多くのテロリストを匿っている国はアメリカであるからだ。それどころか、アメリカはオサマ・ビンラディンをはじめとする数限りないテロリストを養成し、世界各地のテロリストやテロ(支援)国家を支援し、世界各地で自らテロを行ってきたからだ。

そんなことは信じられないという人は、ウィリアム・ブルムの『アメリカの国家犯罪全書』(作品社)(原題はRogue State: A Guide to the World’s Only Superpower)を読んでみればよい。著者のブルムはアメリカの元外交官で、ベトナム戦争に反対して辞任して以後は、アメリカの国家犯罪と外交政策の暗部を告発する仕事を続けているフリー・ジャーナリストである。本書の第9章には、アメリカが国家の政策として匿い続けている名だたるテロリスト(の一部)の一覧が掲載されている。フロリダ州マイアミには、1959年以来、カストロ政権の転覆のためにはどんなことでもするキューバ人亡命者集団が居住しており、かれらの行うテロ、爆撃、暗殺等々あらゆる行為をCIAは全面的にバックアップしてきたのである。なお、JFKの暗殺にも彼らが関わっていたと見られている。そのほか、米国が匿っている多数のテロリスト、独裁者、虐殺者の氏名が実名で書かれているので、詳しくは同書を参照してほしい。

そもそもビンラディンをはじめとするアルカイーダはアメリカが生み出したも同然である。1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻する半年前から、米政府はイスラム原理主義のグループであるムジャヒディンを援助しており、ソ連の介入を誘発した。ソ連介入後は、米国政府高官ですら「言葉にできない惨劇」と述べた虐殺・拷問を進めたムジャヒディンによって人口の半分が殺されるか肢体不自由になるか難民になった。このようなムジャヒディンを米国政府は「自由の戦士」と呼んで支援したが、彼らはソ連撤退後、筋金入りのテロリストとなって世界各地に散らばっていった。その一部がアルカイーダを結成したとみられている。

「テロに想う(2)」でも指摘したように、911事件の実行犯すら未だ全員の特定ができていないのだが、アメリカ政府にはそもそも911事件を解明する気はないとしか思えない。おそらく、911事件を解明することはアメリカ政府にとって都合が悪いことなのだろう。その証拠に、パキスタンの諜報機関であるISI(統合情報局)のマフムード・アーメド局長が、サイード・シェイクという人物を通じ、911の実行犯で主犯格とされたモハマド・アッタ容疑者(死亡)に対し、10万ドル以上のテロの資金を送金していたことがFBIの調査で明らかになり、同国のムシャラフ大統領はアフガン戦争が起こる直前の10月7日、マフムード局長を解任したにも関わらず、アメリカ政府はパキスタン政府に対し、マフムード局長の引渡しを求めるといった要求を一切行っていないのである。911以後大政翼賛的になっているアメリカのマスメディアもこの事件を一切報道していない。ちなみに、ISIとは、アフガニスタンで虐殺・拷問・ゲリラ活動を行っていたムジャヒディンを支援するためにCIAによって育て上げられた組織である。

また、アメリカ政府にはそもそもビンラディンを捕まえるつもりもない。ビンラディンがスーダンに亡命していた1996年、スーダンの国防大臣がアメリカ政府に「ビンラディンを引き渡すからアメリカの裁判所で裁いてくれ」と要請したのを、アメリカが断ったという経緯もあるが、テロが起きる2ヶ月前の2001年7月には、CIAはドバイ(アラブ首長国連邦)のアメリカン病院に入院中だったオサマ・ビンラディンを面会に訪れているのである。

また、アメリカ政府は、FBIがビンラディンやアルカイーダに対する捜査を進めないよう現場の捜査官に対して圧力をかけていた。FBIのテロ捜査の最高責任者だったジョン・オニールは、2000年10月にイエメンで起きた米軍駆逐艦に対するテロ事件を捜査していたが、2001年7月、米国務省から捜査の中止命令を受けた。この措置に抗議して辞任したオニールは、その2カ月後に世界貿易センタービルでテロに遭って死亡した。

911事件の直前には少なくともイスラエル、ドイツ、イラン、ロシアの諜報機関がアメリカ政府に対し、航空機を使ったテロ事件が起きそうだと警告していたが、アメリカ政府は何の対策も採らなかった。モサド(イスラエルの諜報機関)はテロ容疑者のリストまで渡していたが、その中にはモハマド・アッタなど、911の実行犯とされた容疑者が少なくとも4人含まれていた。また、ハイジャッカーのうち少なくとも2~3人はFBIの監視リストに名前が載っていた。

最近まで30年にわたり米政府のテロ対策責任者を務めたリチャード・クラーク前大統領特別顧問は、ブッシュ政権の高官たちは911事件が起きそうだという警告をすべて無視しており、911事件の翌日からイラク侵攻をやりたがっていた、ということを暴露している。こうした一連の事実から、田中宇氏は、アメリカ政府はテロをわざと防がなかったと考えている。

さて、話が少し逸れてしまったが、アメリカはテロリストを匿ったり、テロリストを育成・支援してきただけではなく、自ら国家テロとも言える都市爆撃を戦後60年間、世界各地で何百何千回と行ってきた。

「空爆は国家テロリズムであり富者のテロリズムである。過去60年間に空爆が焼き尽くし破壊した無辜の人々の数は、反国家テロリストが歴史の開始以来これまでに殺害した人々の数よりも多い。・・・我々は、満員のレストランに爆弾を投げ込んだ人物を米国の大統領に選びはしない。けれども、飛行機から爆弾を落とし、レストランばかりでなくレストランが入っているビルとその周辺を破壊した人物を喜んで大統領に選ぶのだ」と政治学者のダグラス・ラミス氏は語っている。ウィリアム・ブルム氏はこうした状況を皮肉って、「「テロリスト」とは、爆弾は持っているが、空軍は持っていない人である」と述べている。

このあたりで、そろそろテロリズムの定義をはっきりさせておきたい。テロリズムとは、「政府や一般市民あるいはその一部を脅迫したり強制することにより、政治的・社会的な目的を達成するために個人や財産に対して加えられる不法な武力あるいは暴力の行使」と定義できるだろう。実はこれはFBIが採用している定義なのである。こうしたテロの定義に照らすならば、アメリカが過去60年間に世界各地で行ってきた空爆――そのほんの一例を挙げるならば、ベトナム(1961-1973年)、グレナダ(1983年)、ニカラグア(1980年代)、パナマ(1989年)、イラク(1991年)、ソマリア(1993年)、ボスニア(1994-1994年)、スーダン(1998年)、アフガニスタン(1998年)、ユーゴスラビア(1999年)、アフガニスタン(2001年)、イラク(2003年)など――こそテロリズムと呼ぶのが最もふさわしいだろう。しかも、アメリカ政府がこれらの国々を空爆するために用いた理由は嘘と欺瞞に満ちている。記憶に新しいイラク侵攻の際にアメリカが挙げた理由――(1)イラクが大量破壊兵器を隠し持っている、(2)サダム・フセインは核兵器を開発しようとしていた(そのためニジェールからウラニウムを買おうとした)、(3)サダム・フセインはビンラディンやアルカイーダのようなテロ組織を支援している、(4)米国は中東に民主主義を確立することを望んでいる、(5)イラクの人々は米軍を解放軍として歓迎している――がすべて嘘だったことは、今日では明白になっている。

さあ、そろそろ結論を述べるときがやってきた。
そもそもテロの起きる根本原因は何なのか? これが本稿のテーマであった。
アメリカは多くの国を爆撃して大勢の一般市民を殺害し、多くの都市をほとんど廃墟にし、インフラを破壊し、爆撃で殺されなかった人々の生活を破滅に追いやってきた長い歴史を有しており、大部分のテロはこうしたアメリカの対外政策に対する復讐として行われているのである。つまり、アメリカが戦後60年にわたって外国の領土に対して無数の介入を行ってきたことが深い反米感情を生み出しており、このようなアメリカの対外政策こそがテロの起きる根本原因なのである。これが『アメリカの国家犯罪全書』(原書のタイトルは『ならず者国家』)の著者ウィリアム・ブルムが繰り返し強調するところであり、私も完全に同意する。

多くのアメリカ国民は、テロリストはアメリカの自由と民主主義と富を憎んでいるのだという政府の宣伝を受け入れており、上記のような主張はなかなか受け入れたがらないであろう。ところが、米国の対外政策とテロとの因果関係については、アメリカ政府自身が十分に自覚しているのである。1997年の国防省研究は、「歴史的なデータが示すところによると、我が国の国際問題に対する介入と我が国を標的としたテロ攻撃との間には、強い相関関係がある」と述べているのである。

しかし、アメリカがこのような侵略的な対外政策を推進し続ける理由は何なのだろうか? ブルムによれば、アメリカの対外政策には大きく分けて4つの目標があるという。第1に、アメリカ資本が世界中で活動しやすくする環境をつくること、第2に、軍産複合体の利益を増大させること、第3に、資本主義の代替モデルが成功するのを阻止すること、第4に、地球上のできるかぎり広い地域で、アメリカの政治的・経済的・軍事的覇権を確立し、それに対する脅威を阻止すること――である。

世界第2の石油埋蔵量を誇るイラクと、天然ガス・パイプライン建設予定地であったアフガニスタンに対するアメリカの強硬な介入と、核開発を進める北朝鮮に対する無関心の落差を見ると、第1の目標は首肯しえよう。また、911以後、アメリカでは短期間に防衛予算が大規模に増額され、社会支出は大幅カットされ、大企業に対する課税が大きく削減される一方で環境保護法制は切り詰められ、国土安全保障局が設置され、市民に対する監視と治安が一気に強化され、移民に対する人権侵害が一気に拡大し、マスメディアの大政翼賛化が進み、少数意見が圧殺され、「愛国的」でないと見なされた人々に対する脅迫が行われている。こうした状況は第2の目標とも合致する。さらに、キューバ(1959-現在)やベトナム(1945―73)、アフガニスタン(1979-92)、チリ(1964-73)、ニカラグア(1978―90)等に対する介入の歴史は、第3の目標の傍証といえよう。最後に、湾岸戦争後、サウジ、クウェートその他湾岸地域に米軍基地を建設し、ユーゴ空爆後には、コソヴォ・アルバニア・マケドニア・ハンガリー・ボスニア・クロアチアに米軍基地を建設し、アフガン空爆後には、アフガン、パキスタン、ウズベキスタン、タジキスタンに米軍基地を建設したという事実が第4の目標を例証している。

そして、アメリカの「対テロ戦争」は、上記の4つの目標のうち、直接的には第2の目標に奉仕するものであり、間接的には第1と第4の目標にも合致するものである。しかし、そもそもアメリカがテロリストとの「対テロ戦争」ゲームを永続化する理由は何なのであろうか。それは、ソ連崩壊後も冷戦時代に膨れ上がった国家安全保障関係予算を正当化するために、アメリカ国民の恐怖感を煽る「敵」を発見・創造する必要があるからである。そのためアメリカ政府は、麻薬・軍事スパイ・産業スパイ・「大量破壊兵器」の拡散・組織犯罪など、様々な敵を作り上げてきた。しかし、911以後は、米国の権力エリートにとって最も「理想的」な敵、すなわち「テロリスト」を発見した。なぜなら、米国がこれまで同様、覇権主義的(ならず者的)対外政策を続ける限り、テロリストは永遠に生まれ続けるからであり、対テロ戦争を永続化するために重要なテロリストはいくらでも泳がせておくことができるからなのである。


【情報源】
今回の記事を書くに当たり、参考にした主な情報源は下記の通りである。
・ ウィリアム・ブルム『アメリカの国家犯罪全書』(作品社)
・ 田中宇「田中宇の国際ニュース解説」(http://tanakanews.com/)
・ 益岡賢「益岡賢のページ」(http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/)
・ ZNet(http://www.zmag.org/weluser.htm)
・ ZNet日本語版(http://rootless.org/z/)

2007/09/23のBlog
最近の政治情勢、とりわけテロ特措法延長問題と外務省(「米務省」もしくは「対米従属省」とでも改名せんかいっ!)の動きについては書きたいことが山のようにあるが、残念ながら時間がない。

そこで今日(9・22)の朝日新聞文化面に載っていた「歎異抄」現代語訳についての雑感を・・・。

私は親鸞という人物については、倉田百三の『出家とその弟子』と梅原猛(全訳注)『歎異抄』を通じてしか知らない。いうまでもなく『出家とその弟子』は倉田百三という作家の想像力の産物でしかないので、そこに登場する親鸞が果たしてどの程度、歴史上の親鸞を反映しているのか、私には知るすべもない。ただ、このたった2冊を通じてではあるが、親鸞という人物は、無神論者で宗教に関心の薄い私にとっても非常に魅力的な人物に思われるし、現代に至るまでこれほどの人気を博している理由もおぼろげながらわかる。『歎異抄』の中でも、とくに私が刮目するのは第9章と第13章だが、後者についての解釈は人によって大きく分かれるだろうと思う。今、詳述できないが、いつかこの問題については(死刑制度との絡みにおいて)愚考を述べてみたいと思っている。

ところで、今日の朝日新聞によれば、最近、『歎異抄』に関する様々な現代語訳が出ているそうだ。古典であれ、外国文学(より広くは外国語文献一般)であれ、様々な訳本が出るのはいいことだろう。とはいえ、後から出るものが既に出ているものよりも明らかに質が低い場合などは、なんだかなぁ~、という気がしなくもない。

果たして梅原猛訳注本以上にわかりやすい現代語訳はあるのだろうか。朝日新聞に引かれていた訳例を見る限り、疑問に思われた。

2007/09/19のBlog
[鏡 響子さんのBlog]

鏡 響子さん「響子の人生相談 その4」という記事で、「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に回答しておられる。

回答自体は、鏡さんらしく、問題の本質に正面から鋭く切り込む内容となっていて、感銘を受けた。

ところで、この質問には「倫理・法律・宗教・情に訴えるような答えはしないでください」という条件が付けられている。当初私は、この条件は、鏡さん自身がわざと回答を困難にして、安易な回答に逃げ込むのを封じる目的で自ら付けられたのかと思ったが、そうではなかった。これは、誰でも自由に質問したり回答したりできる(らしい)「Hatena::Question」というサイトに出された質問で、すでに大勢の人がそれぞれの回答をしていた。そのサイトを見て、私は少し不快な気分になった。

実は鏡さんの記事については、すでにwarmgunさんもその記事「snapshot s0047」の中で感想を書かれている。その中でwarmgunさんも、「やはりこの質問は不愉快(あるいはまちがった質問)ではないか、と思った」と書かれている。ああ、私と同じ感想だ、と思ったが、その次を読むと、理由は多少異なることがわかった。

warmgunさん曰く、

<ただしこれは、大江健三郎氏が言ったように、”正しい倫理感覚をもったひとは、このような質問を発するはずがない”という立場ではない。

そうではなくて、”人を殺す”という一般化が気に入らない。

人殺しはひとつひとつちがうのであるから、それがなぜ”いけない”かもひとつひとつちがうのである。>

この部分を読んで、ああ、なるほど、確かにその通りだな、と思った。
しかし、私が不愉快になって原因は少し別のところにある(しかし、さらによくよく考えると、やはり同じような理由なのかもしれない)。が、それについては、もう少し後で述べる。その前に、この質問をもう一度見てみると、ゲーム的な問いとしては極めて不完全な問いであることがすぐわかる。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、「人を殺してはいけない」という倫理的判断を前提としているが、まず、そういう判断が果たして成り立っているのか、ということ自体が先決問題である。つまり、「人を殺してはいけないのか」という問いがまずあって、それに対して「いけない」という答えが与えられてはじめて、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが成立するのである。

ところが、「人を殺してはいけないのか」という問いに対して、無条件に、つまりいかなる場合も絶対に「いけない」と答える人は少数派ではないだろうか。なぜなら、現在の日本で(おそらく日本に限らないが)、絶対平和主義者で、かつ死刑廃止論者の人は少数派にとどまると思われるからだ。逆に言えば、多くの人は、「人を殺してはいけない」(以下、これを「A命題」と呼ぶことにする)という判断を条件付きでしか支持していないだろう。だとすれば、条件付きのA命題支持者に、「なぜ人を殺してはいけないのか」という普遍的問いを投げかけるのは混乱を招く元ではないだろうか。条件付きA命題支持者がこの問いに答えるためには、まず、「人を殺してはいけない場合」と「人を殺してもよい場合」とに分け、それぞれがどのような場合であるかを明確に述べたうえで、それぞれの根拠を答える、という手続きを踏む必要があるだろう。しかし、そもそも私はこういう倫理的問いをゲームにしてしまうこと自体に疑問を覚える。

warmgunさんも記事の最後で、

<そもそも”倫理・法律・宗教・情に訴えるような答えはしないでください”というのは、何を意味するのか?
このひとは”純粋論理”のゲームが可能だと思っているのだろうか。>

と述べておられるが、この反語的疑問にも共感する。
私の言葉で言えば、A命題は倫理的命題である。倫理的命題を一切の倫理的命題に依拠することなく正当化しうる、という立場、を支持する哲学者や倫理学者は極めて少ないだろう。20世紀以後の哲学・倫理学においては、事実命題から価値命題(あるいはその逆も)を導出することはできないとする事実と価値の二元論(方法二元論とも言う)が圧倒的通説となっているからである。

前置きが長くなった。
私が言いたかったのは、なぜこの質問によって私が不快感を覚えたか、ということだ。
私はこのような根本的な倫理的問いかけは、論理ゲームのような“遊び”によって答えうるものだとは思わないし、そもそもそういうお遊びで答えるべきことがらではないと思っているからだ。

しかし、この質問者は明らかに“遊び”としてこの質問をし、回答者がどのように答えるかを面白がって見ているにすぎない。もちろん、ほとんどの回答者もそのことは承知の上で、一種のゲームとして回答を試みているようなので、それはそれでいい、とも言える。別段、部外者が目くじらを立てる筋合いではないようにも思われる。

にもかかわらず、やはり私は不快感を拭えない。その原因は何か?
それは、このような問いの形式そのものにある。
質問者は「どうして人を殺したらいけないのでしょうか」と問いかけているが、なぜそういう疑問を抱くに至ったのかという理由は述べていない。それはそうだろう。別にこの質問者はこういう問いに実存的につかまってしまったというわけでは全然なさそうだ。それは、「倫理・法律・宗教・情に訴えるような答えはしないでください」という条件を付けていることからも明らかだ。質問者はあくまでゲームとして回答不能な質問を出して、回答者の回答に難癖をつけて面白がっているだけなのである。求婚者に実現不能な要求をするかぐや姫のようなものである。しかも質問者は回答者からの反問に応答したり、自ら回答を試みるといった一切の責務を負わない絶対安全地帯から高みの見物をしているのである。そういう態度が不快感の原因なのである。

ではなぜ、この質問が回答不能と言えるのか?
それは、根本的な倫理的問いは論理だけで答えることはできないからだ。質問者は普遍的回答を要求している。普遍的回答とは普遍的聴衆を説得しうる回答のことであり、普遍的聴衆には倫理的痴呆も含まれるから、およそいかなる倫理的規範も内面化していない宇宙人のような人間をも説得しうるような議論を見出すことは不可能である。どんな議論に対してもなんらかのいちゃもんをつけることは常に可能であろうからだ。倫理的問いかけが意味を持ちうるのは、通常の会話形式においてのみである。つまり、そこでは質問を投げかけられた側は最初の質問者に対して何らかの反問をなすことができ、最初の質問者もそれに対して応答責務を負うことになる。そのような会話のなかから共通の倫理的地平を見出し、以後の議論においては、その共通の地平を前提として議論を進めることが可能になる。倫理的問いかけが意味を持つのはそのような会話の中においてであろう。倫理的痴呆と倫理的対話が成り立つとは思えない。


2007/09/12のBlog
[ 18:10 ] [ ニュース ]
前代未聞の無責任男、アベシンゾーが突然の辞任表明をした。

参院選で惨敗しても総理の職にしがみつき、内閣改造をして、
APEC首脳会議に出席して外国首脳に無責任な「国際公約」
とやらをし、国会で所信表明演説をしたうえで、それに対する
代表質問を受ける前に辞任表明したのだ。

これほど全国民と外国首脳を愚弄した総理大臣は日本の歴史上
空前絶後だろう。

かくなるうえは衆議院の解散・総選挙で民意を問う以外、日本に
民主主義を再生させる道はない。


2007/09/11のBlog
残念ながら自分できちんとした記事を書いている時間がないので、代わりに、一人でも多くの人に読んで貰いたいお勧めサイトを紹介する。
 これまでにも私は、お勧めのサイトやブログを紹介したことがあり、きっこさんのブログや天木直人氏のブログなどにも何度か言及した。彼らの主張の多くに共感してのことではあるが、ときには全く賛同できない主張もある(*)。今回ご紹介するのは、これまで紹介したそうしたサイト以上に私が信頼を寄せるサイト(というか人)である。

 ひとつは、オウム事件以来有名になったジャーナリスト、江川紹子さんの「江川紹子ジャーナル」である。私は、テレビに頻繁に登場するコメンテーターで好きな人はほとんどいないのだが、江川さんは例外である。彼女の冷静で公正なコメントはいつ聞いても、そのほとんどが「異議なし!」って感じなのである。「江川紹子ジャーナル」の中では、「社会のこといろいろ」というページに時事問題や社会問題に関するエッセイが掲載されている。その中でも、特に私が多くの人に読んで貰いたいのは、一番新しい記事「刑事弁護を考える~光市母子殺害事件をめぐって」である。これを読むと、橋下徹というタレベン(タレント弁護士)がいかに弁護士としての、という以前に人間としての倫理も論理も欠落させたデタラメ人間か、ということがよくわかる(ので、ここでは繰り返さない)。しかし、本質的な問題はこういうタレベンにあるのではない。弁護士であれ、医者であれ、学者であれ、政治家であれ、デタラメな人間はおよそあらゆる職業において存在しているだろう。問題なのは、こういう幼稚なタレベンを使って、社会的ファシズムを扇動しているマスコミである。

 マスメディアの抱える大きな問題としては、「体制=権力を監視し、国民の知る権利に奉仕する」というジャーナリズムの使命を忘却しただけでなく、権力の宣伝広報機関となり下がり、政治的ファッショ化推進のお先棒を担いでいる、という問題があることは、私もこれまでに何度か指摘した。しかし、それと同じくらい大きな問題点は、現在のマスメディアが社会的ファシズムの扇動機関と成り果てている、ということである。北朝鮮関連の報道や、光市母子殺害事件のような犯罪事件においてそれは顕著に現れるが、小さなところでは朝青龍問題にもその徴候は見られた。

 社会的ファシズムの特徴は、「悪魔」化された憎悪の対象がいったん措定されると、善悪二元論的世界観の下、「悪魔」を徹底的に叩くことこそが「正義」であり「善」であると見なされる。そして、問題を冷静かつ客観的に分析したり、問題の背景や深層を総合的・多角的・相対的に検討したりするような意見・発言・報道が徹底的に封じられ、そのような発言をしただけで「悪魔」の味方であると見なされて袋だたきに遭うのでは、という恐怖感さえ感じられるようになる。こういう現象は、歴史的に見ても、「魔女狩り」、「天皇制軍国主義下の言論統制」、「1950年代のマッカーシズム」、「911以後のアメリカを覆った異常な“愛国”ムード」などすべてに共通するものである。そして、そうした社会的ファシズムは現在の日本に色濃く表れており、マスコミがそれを煽り立てているのである。橋下徹タレベンの暴言事件などその一例にすぎないのである。


(*)例えば、8月28日付「きっこの日記」(「きっこのブログ」では8月29日)に掲載された「死刑廃止論を廃止しろ!」という記事は言論弾圧まがいの暴論だが、死刑制度については、いずれ暇ができたら私の意見をこのブログで表明するつもりだ。


<追記>
ついでに言うと、今朝の朝日新聞の第2社会面には「橋下徹弁護士」の問題が大きく取り上げられているが、はっきり言って読むだけ時間の無駄である。これだけ大きく取り上げているにも関わらず、分析はゼロであり、事実の紹介も全く不十分である。江川さんの記事と比較すれば、朝日の記事を書いた記者がいかに無能であるかがよくわかる。大体、「弁護士バトルTVで過熱」などという見出しからして、問題の本質を全く捉えていないこと丸出しなのである。


<追記2>
猫好きな人は「江川紹子ジャーナル」の「フォトアルバム」も必見です。江川さんちの飼い猫たれちゃん&ちびちゃんの可愛い寝姿に癒されること請け合いです。
2007/09/09のBlog

白鳥は哀しからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ (若山牧水)

いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見む このさびしさに君は耐ふるや (同)





僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り注ぎ、風は花々揺つてゐた。

林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
さてその夜には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。

(中原中也――ゆきてかへらぬ――)





おまえのかなしみは
一日も早く
よごしてしまったほうがいい
そして洗濯機で洗ってしまうのさ

ぼくはよく見かける
洗濯物といっしょに
風にはためいている
おまえの白いかなしみを

(寺山修司――さよならの城――)



日々を慰安が吹き荒れて
帰ってゆける場所がない
日々を慰安が吹き抜けて
死んでしまうに早すぎる
もう笑おう もう笑ってしまおう
昨日の夢は冗談だったんだよと

(岡本おさみ――祭りのあと――)




恋も涙も純情も 生きるためには捨てよう
今日も汚れた人ごみに 背中丸めて隠れてる

(桑田佳祐――祭りのあと――)





※写真は上から、三十三間堂、茶わん坂の扇子屋、清水寺、円山公園に立つ坂本龍馬・中岡慎太郎像、祇園の街並み