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イスマタリアン
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2007/11/24のBlog
[ 00:47 ] [ 変な木研究会 ]
恋は真夏のHistory
I’ve been crying X’mas in summer
砂に書いた言葉 My baby, I called you, Oh no!!



心変わりはMisery
She’s been crying Please be my lover
夕陽浮かぶ海へ ひとりきりで駆けてた


思い出が波に揺れる 今宵はSilent Night
泣き濡れた日々よいずこ みめ麗し君よ


Let it be この夏はもうこれきりね
夢見るよな 甘いBrown eyes お別れで濡れてた

We can be 心から そう愛されて
振り返れば雲の上で 神さまが微笑むこの街

~桑田佳祐☆Merry X’mas In Summer~
2007/11/23のBlog
小田実は言う。
「小さな人間」が、自分たちの小さな力を信じて反対する、抗議する、あるいはやり直しさせる、是正する、あるいは変更する、変革する。それが民主主義だ、と。

「小さな人間」は、どうせ巻き込まれるのだけれど、巻き込まれながら巻き返すことが、私たちの根本にある倫理・論理ではないか、と。



――小田実「世直し大観」(『世界』12月号)より

1回目の投票でソクラテスの無罪に賛成した人々のうち約80人が
2回目の投票ではソクラテスの死刑に賛成した。
彼らは投票に際して深く考えることなく、感情に任せてあっという間に意見を変えた。

これは民主主義の一つの大きな問題だ、と小田実は言った。


ソクラテスは間違っている、
と小田実は言った。

彼の主張は専門家による独裁を正当化するものだ、
彼の言い分を聞いていたら民主主義は破壊される、と。


2007/11/22のBlog
[ 18:12 ] [ テロ特措法関連 ]
9月24日と26日、私はテロリズムおよび「テロとの戦い」に関する様々な発言の断片を引用して、「テロとは何か」というタイトルの記事としてアップした。

今日新たに西谷修氏の言葉を追加したうえ、タイトルを「「テロとの戦い」とは何か?」に改めて、最新記事としてアップする。


=======================
テロ特措法延長問題の是非を考えるためには、そもそもアメリカの始めたテロ戦争とは何だったのかを振り返る必要があるだろう。
しかし今日は時間がないので言葉の断片を引用するにとどめる。


A) テロリズムとは、政府や一般市民あるいはその一部を脅迫したり強制したりすることにより、政治的あるいは社会的な目的を達成するために個人や財産に対して加えられる……集団や個人による不法な武力あるいは暴力の行使である。
 ――米連邦捜査局(FBI)によるテロリズムの定義


B) ブッシュ大統領は、「ビンラディンが生きていようが死んでいようが捕まえる」と言ったが、チェイニー副大統領は「皿の上に載った彼の首がほしい」とまで言っている。これでは狂信者で、そのメンタリティーはさながらエイリアンのようだ。
 ――2001年9月18日付英紙ガーディアン


C) (2001年10月7日に始まった米英軍によるアフガニスタン空爆について、同国の)指導者を変えるまで爆撃が続くのだと、アフガニスタンの人々が自ら認識するまで爆撃は続けられるだろう。
 ――マイケル・ボイス英国防参謀長
※ A)の定義と比較せよ。


D) 空爆は、国家テロリズムであり富者のテロリズムである。過去60年間に空爆が焼く尽くし破壊した無辜の人々の数は、反国家テロリストが歴史の開始以来これまでに殺害した人々の数よりも多い。……われわれは、満員のレストランに爆弾を投げ込んだ人物を米国の大統領に選びはしない。けれども、飛行機から爆弾を落とし、レストランばかりでなくレストランが入っているビルとその周辺を破壊した人物を喜んで大統領に選ぶのだ。
 ――ダグラス・ラミス


E) 「テロリスト」とは爆弾は持っているが、空軍は持っていない人である。
 ――ウィリアム・ブルム


F) 歴史的なデータが示すところによると、米国の国際問題に対する介入と米国を標的としたテロ攻撃とのあいだには、強い相関がある
 ――1997年米国防省研究より
※ 典型的なマッチポンプやね。テロを誘発することでテロ戦争を永続化できる!

【以上、9月24日記す】


G) いまや戦争犯罪人とはわれわれのことである。
 ――英国人ジャーナリスト、ロバート・フィスク、2001年12月1日、マザリシャリフ(アフガニスタン)での北部同盟及び米英軍による捕虜虐殺を伝える英紙インディペンデントの記事より

H) 「テロリズム」はもはやテロリズムを意味しない。これは定義される概念ではなく、政治的な考案品なのだ。「テロリスト」とは、その言葉を使う側に向けて暴力を行使する者のことである。イスラエルが認めるテロリストとはイスラエルに敵対する者だけのこと、米国が認めるテロリストとは米国やその同盟国に敵対する者だけのことだ。・・・記者は、この語をすべてのテロリズム行為に適用しない限り――実際はそうならないのだが――、戦争に加わることになるのだ。
 ――ロバート・フィスク


I ) 米英軍の爆撃は(2001年)十二月半ばまで(…ラマダーン月の間も)切れ目なく継続され、攻撃対象のタリバーンやアルカーイダだけでなく、一般人とその生活を巻き添えにする殺人と破壊を結果して、「報復」の名が恥じ入るほどの巨大な悲劇を生んだ。大量殺傷・恐怖兵器のクラスター爆弾や気化爆弾デージー・カッターも使用された。地形が変化するくらいの集中爆撃が人道援助の食料投下とセットにして行われるという奇妙な戦争だった。・・・こうしてアメリカの「対テロ戦争」遂行は、アフガン内戦の継続であるとともに、それをフルに利用し操作するものとなったのだ。
 ――板垣雄三


J ) 「対テロ戦争」は、アフガニスタンにおける米軍のプレゼンスを最大限強調し、それを継続することにより、湾岸と並んで中央アジアの石油をはじめとする天然資源に対するアメリカの分配権利権を主張してゆく行動にほかならない。「テロリズム」は、これを掲げてアメリカの下につくか、そうでないか、言い換えればアメリカ主導の資源管理体制に従うか、その外にはじき出されるかを迫るための符号として、現在のところ有効に機能している。
 ――黒木秀允


K) 世界各地の様々な民族問題・人権問題のなかで発生する何らかの政治的暴力に対し、政府がこれを「テロリズム」と標識付けさえすれば、あらゆる手段を講じて弾圧することが可能になった…。ロシアは、今後欧米の目をまったく気にすることなくチェチェンの独立運動を弾圧できるようになった。中国もウイグル人の活動家を即決裁判で好きなだけ処刑することが可能になり、チベットでの抑圧の自由度も高まるであろう。アフガニスタンでタリバーン政権の崩壊が決定的になった十二月初め以来、イスラエルのシャロン首相がパレスチナ自治政府を「テロ支援団体」と認定し、これに対して大々的な武力攻撃を開始したのは、最もわかりやすい例である。…より大きなテロリズム認定力をもつ国家群が、相互にかばい合いながら内部の矛盾を圧殺する方向に動き始めたといえる。
 ――黒木秀允


L) まず「テロリズム」という言葉を使うことを止め、あらゆる政治的暴力を批判し、共通の法規範を確認し合う努力をすること。迂遠ながら、われわれに残された道はこれしかない。
 ――黒木秀允

【以上、9月26日追記分】


M) 「報復戦争」を禁止する国連憲章の規定はないも同然になり、一国の政府を「国際社会」に従順なものにすげかえる軍事介入も正当化され、その際に起こる「文明国」以外の犠牲者はものの数にも入れられず、戦争遂行のための「自由」の制限はあたりまえとなり、批判は封殺され、「テロ防止」のための称してあらゆるたぐいの検閲や統制が導入され合法化されて、諜報機関や警察の権限は大幅に拡大される。
 それにこの「戦争」には出口が設定されておらず、つまりこれによって設定された体制は、それ自体で常態化するようにセットされており、「戦時下」という非常事態は恒常化されることになる。「対テロ戦争」とは実は、「敵」を明示せずに市民社会を不断の臨戦態勢あるいは非常事態に置くための、空前の発明なのである。世界の主要国がこの「戦争」に「貢献」を競ったのは、それらの国家もまたそのよういな態勢をそれぞれの国内に敷くことを意図していたからだ。
――西谷修「これは「戦争」ではない」(藤原帰一編『テロ後』岩波新書)


N) 結局この「戦争」は、「戦時」と「平時」との区別を完全になくし、「国内」と「国外」を不断の潜在的「戦場」とする恒常的な臨戦態勢を設定する。・・・
 その体制が何を守ろうとするのか、何の「安全を保障」しようとするのかは明らかだろう。それは、個々人の生活や自由ではなく、ただただ「市場」という名の資本の支障のない流通だけである。・・・
 それは・・・西洋文明がみずからの暴力性から身を守るために作り上げ、その文明の犠牲者にも身を守る手立てとなってきた「自由」や「人権」といった諸価値を有名無実にし、西洋文明のおそらくは最良の発明品のひとつでもあるだろう「裁き=正義」の装置をも排除しようとしている
――西谷修「これは「戦争」ではない」(藤原前掲書)

【以上、11月22日追記分】
2007/11/18のBlog
[ 13:00 ] [ 独り言 ]

京都の風邪はしつこい。
京都から帰って6日になるというのに、京都で引いた風邪が一向に治らない。
昨日今日と家に閉じ篭っているが、何をする気力も湧かないので、せめてブログでも書くとしよう。

人はなぜ「道ならぬ恋」に心惹かれるのだろうか? 
これは今日の朝日新聞読書欄で取り上げられているねじめ正一著『荒地の恋』の書評(評者:重松清)を読んで浮かんだ疑問である。
そういえば、夏目漱石も三角関係を繰り返し小説で描いた。

私には上の疑問に答えることはできないが、ひとつ言えることは、恋(そしてセックス)が人を忘我の境地に引き込むのは、そのとき人は自我境界の崩壊を経験するからである。
自我境界が一時的に崩壊して、他者である恋人との一体感を経験することが恋(とセックス)の悦楽の本質であろう。
しかし、自我境界はいつまでも崩壊したままではありえない。したがって恋は永遠には続かない(セックスにも飽きがくる:笑)。

さて、昨日の朝日新聞be on Saturdayは「イエスの方舟のその後~現在」を扱っている。千石剛賢(せんごく・たけよし)氏の率いるキリスト教信仰集団「イエスの方舟」は、会員の多くが若い女性で、共同生活をしていたことから、79年末から2年余りにわたり、週刊誌等のメディアによっていかがわしい邪教集団としてバッシングを浴びたらしい。私は当時、「イエスの方舟」という言葉は聞いたことがあったが、どういう集団なのかは全く知らなかったが、後に「驚きももの木20世紀」というテレビ番組によって、「事件」の概要を知ることとなった。

今日のwarmgunさんのブログも「イエスの方舟」について取り上げておられるが、そこでは「イエスの方舟」を「カルト」として扱っておられる。私は昔、カルトについて少しばかり調べたことがあるものの、カルトの定義は一定しておらず難しいということがわかっただけである。「イエスの方舟」も、定義次第ではカルトに含まれうるだろうが、私の考えでは「イエスの方舟」はカルトではないと思う。というのは、私の考えでは、教団が信者獲得の際に説く教えに嘘があるかどうか、つまり、教団の公式の教義・目的と教祖の真の目的との間に矛盾があるかどうか、ということを、カルトかそうでないかを区別する目安とするのが便利ではないかと思うからだ。

とはいえ、ここでは「イエスの方舟」がカルトかそうでないかは重要な問題ではない。私が朝日の記事の中で注目したのは、「東京で最初に生活も共にする会員となった」人が語った内容だ。彼女は高校生の頃から通った集会で「他人のない生活」という未知の体験に胸を打たれたことが入信のきっかけだったという。

また、高卒後に就職した銀行を辞めて「方舟」の共同生活に加わった別の会員は次のように語っている。

「家でも勤め先でも、見かけは平穏に取りつくろっていながら、えもいわれぬ疎外感に苛まれたりしましたが、『方舟』にはそんな不安がみじんもなかった。赤の他人の娘である私が分け隔てなく、おっちゃんの実の子のように大切に思われ、心配してもらえた。まさにここがユートピアなのか、と強烈に目を見開かせてくれました」

このような発言や「他人のない生活」という言葉から見て取れるのは、自我境界の崩壊した共同体への陶酔感ではなかろうか。これは、カルトか否かを問わず、宗教団体にのめりこむ人々に共通した心理的態度なのではないかと思う。一般的に自我境界の発達が未熟な若者ほどこうした宗教団体にのめりこむ可能性が高いと言えるだろう。

しかし、この世に「他人のない世界」というものは存在しない。「他人のない生活」という「ユートピア」を求めて共同体を作れば、その外部はすべて「他人」となり、共同体と外部との間には見えない強固な壁が築かれるだろう。自分以外は皆他人であるが、自我自体も他人なくしては形成されえず、赤の他人同士が支えあい、連帯することでしか社会は成り立たないものだ、という醒めた認識を持っていれば、宗教団体にのめりこむ可能性は低くなるだろう。

しかし、何が幸福であるかを定義することは困難だ。人によって人生の意味づけや幸福観が異なる以上、とりあえず「本人が幸福だと思っている」状態を「幸福」だと呼ぶしかないかもしれない。幸福の自己決定である。

しかし、この「自己決定」が曲者である。問題はカルトに限らない。むしろ現代人が、自分で決定したと思っていることのほとんどは、巧妙に外部(あるいはシステムや体制)から操作された結果でないと誰が言えるだろうか?



*風邪で頭が朦朧としているので(まあ、いつもと変わりないとも言えるが:笑)、やっぱりまとまりのない文章になってしまった。

2007/11/14のBlog

今日の天木直人氏のブログは面白い(といっても、あくまで私にとって面白いだけで、他の多くの方にとってはおそらく何の関心も惹かないだろうから、あくまでこれは私個人の備忘録である)。

「佐藤優という休職外務省員を私はどう評価するか」というのがテーマである。

佐藤優という起訴休職外務事務官はこのところ作家・評論家としてマスコミで大活躍である。マスコミの持ち上げ方はちょっと異常じゃないかと思うくらい尋常じゃない(トートロジーです^^)。一時の亀田ファミリーを彷彿とさせるではないか(笑)。曰く、「異能の外交官」、曰く「外務省のラスプーチン」など、異名も凝っている。果たしてそんなに凄いのか? 『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』という、こっちまで恥ずかしくなるようなタイトルの本がバカ売れして以来、著作も次々と出版しているようだ。果たして読む価値はあるのか? 

それを知りたければ自分で読んでみればいい、というのは一応正論ではあるが、ほかにも読むべき本・読みたい本が山積している状況でつまらない本でも読んだ日にはヘソを噛んで死んでしまうかもしれない。だから、あらかじめ読む価値ないと誰かが証明してくれれば、読むかどうかで悩む必要もなくなるというものだ。

そう思っていた矢先のこの記事である。天木氏は書いている。
「思うに彼(佐藤優氏=引用者注)はその根底において国家主義者であり、強権主義者である。インテリジェンスの重要性を殊更に強調し、戦略、策略によって国益を実現する外交を主張する。」
(引用者蛇足:えーっと、言うまでもないと思うけど、この場合の「インテリジェンス」って「知性」じゃないからね。わかってると思うけど、「諜報活動」のことね…)

さらに天木氏は、『インパクション』誌160号に掲載されたキム・ガンサンという人の論文を紹介している。その中で、キム・ガンサン氏は、佐藤氏が左右両派から重用される「論壇の寵児」となっているのは、右派メディアと左派メディアによって言論を使い分ける佐藤氏の狡猾さによるものだと指摘しているらしい。

なるほどね。
そういえば、誰でも書けるフリー百科事典Wikipediaには、「護憲派にして、「国体」を重視し皇統の維持を強く訴える尊皇家であり、キリスト教徒でもある」と紹介されている。

アハハハ! 護憲派で「国体」重視! 尊皇家でキリスト教徒だってさ!
護憲の「憲」って明治憲法じゃないよね?
一体、この人、何時代の人?

2007/11/08のBlog
時間がなくなってきたので、手短に書く。

warmgunさんが書いている。
<“他者”とはだれか?
“他者”を見誤るなら、そもそも、“他者との関係”はない。>

nadjaさんは書いている。
<ひとりひとりが自分自身に忠誠心を持つこと
そこからはじめたらいい>と。

浅井基文氏(*)が書いている。
他者感覚が真の平和の土台です>と。

これらの発言はそれぞれ独立になされたものだが、私は相互に関連性があると思う。
浅井氏の言う「他者感覚」とは、「他者を他者としてあるがままに受け容れ、他者を他者として理解すること」であり、それは「群れ」を作って「内」か「外」か、つまり「味方」か「敵」かといった見方しかできないような(日本人に特徴的な)態度とは正反対のものである。つまり、浅井氏の言う他者感覚は、デヴィッド・リースマンが『孤独な群衆』の中で現代人の支配的なパーソナリティーとして指摘した「他人指向型」、すなわち、周囲の人々の意見や行動に同調しようとする態度とは正反対のものなのである。

浅井氏はまた、他者感覚は「個の意識」と媒介されることによってはじめて「人間の尊厳」という普遍概念を獲得することができると主張する。

一方、臨床心理士の矢幡洋氏は、「他人への同調指向」が強く、「自分で物事を決められない」という特徴を持つ依存性性格こそ、日本人と日本社会の心理を解くカギであると指摘しており、依存性性格者は「現実の楽観的な面にだけ注目」し、不安を引き起こすような事実を見落とすという「選択的不注意」と呼ばれる操作を無意識のうちに行う傾向があるという(『自分で決められない人たち』中公新書ラクレ)。

一方に、他者指向性、依存性性格、選択的不注意といった特徴を持つ人々がいる。
他方に、自分自身への忠誠心、他者感覚、個の意識、人間の尊厳、といった概念がある。

これらのテーマについては、いずれ時間ができたら、じっくりと考察してみたい。


(*)浅井基文氏・・・1963年から外務省で、中国課長、地域政策課長などを歴任し、中国、イギリスなどでの海外勤務の後、1990年、50歳を目前に外務省を退職し、日大、明治学院大の教授を歴任した後、2005年より広島市立大学広島平和研究所長を務める。私が推薦図書に挙げた『集団的自衛権と日本国憲法』(集英社新書)の他にも著書多数。国際政治、国際法、日本国憲法に精通し、真の平和主義の立場から発言を続ける数少ない知識人の一人。私のお気に入りのサイトの中でも、浅井氏のサイトは私が最も信頼を寄せるサイトである。


*なお、私事ですが、これから当分の間、空いた時間は読書と勉強に集中したいので、しばらくブログの更新はお休みします。

[ 17:03 ] [ 本たち ]
小浜逸郎(こはまいつお)という評論家がいる。

誰が書いたかわからないフリー百科事典Wikipediaでは、次のように紹介されている。

<1947年生まれ。横浜国立大学工学部建築学科卒業。国士舘大学客員教授。
大学卒業後、学習塾を経営するかたわら、同人誌『ておりあ』を主宰、評論活動を続ける。1981年、処女評論集『太宰治の場所』を出版。1985年に出版された『学校の現象学のために』では、校内暴力等の所謂学校問題に従来の教育論にない斬新な切り口で迫った。以後家族論、学校論、ジェンダー論などを世に問う。・・・(中略)・・・
保守、革新といった旧来のイデオロギーとは一線を画した、生活人の実感を尊重した議論で支持を得る一方で、小市民主義といった批判を浴びることもある。>


「小市民主義」かどうかわからないが、確かにこの人を「保守」か「革新」かといったイデオロギーで分類することにはあまり意味がないように思われる。
 大量の著作と共著を出版しているが、そのなかで私が読んだのは『なぜ人を殺してはいけないのか』と『人はなぜ働かなくてはならないのか』の2冊だけである。どちらも洋泉社新書から出ている。前者には「新しい倫理学のために」、後者には「新しい生の哲学のために」という副題がついている。どちらも10個のテーマを選び出し、それぞれのテーマに対する著者なりの思索をめぐらしたものである。参考までに、両書の目次だけ書き出してみよう。

『なぜ人を殺してはいけないのか』(洋泉社、2000)

第一問 人は何のために生きるのか
第二問 自殺は許されない行為か
第三問 「私」とは何か、「自分」とは何か
第四問 人を愛するとはどういうことか
第五問 不倫は許されない行為か
第六問 売春(買春)は悪か
第七問 他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか
第八問 なぜ人を殺してはいけないのか
第九問 死刑は廃止すべきか
第十問 戦争責任をどう負うべきか


『人はなぜ働かなくてはならないのか』(洋泉社、2002)

第一問 思想や倫理は何のためにあるのか
第二問 人間にとって生死とは何か
第三問 「本当の自分」なんてあるのか
第四問 人はなぜ働かなくてはならないのか
第五問 なぜ学校に通う必要があるのか
第六問 なぜ人は恋をするのか
第七問 なぜ人は結婚するのか
第八問 なぜ「普通」に生きることはつらいのか
第九問 国家はなぜ必要か
第十問 戦争は悪か


 このように、多くの人が生きていくなかで一度はぶつかり考えたことのあるような人生の根本的な問いが選ばれている。こういう問いに出来合いの答えを求めても仕方がない。結局は一人一人が自分で考えて自分なりの(暫定的な)答えを探すほかないだろう。そういう意味で、小浜氏の出した回答は決して普遍的に正しい答えではありえない。しかし、自分で考えるためのヒントや手掛かりは与えてくれるだろう。私が読んだのはかなり前だが、なかなか面白かった。7割程度は賛成できるが、あとの3割程度は賛成できない内容だった。ただ、賛成できない部分の方が、自分にとっては考える訓練になる。

 「非常に好き」というほどではないが、気になる評論家ではある。この人の著作で気になっているもののひとつに、佐藤幹夫氏との共著『中年男に恋はできるか』(洋泉社、2000)というのがある。まずタイトルが気になる(笑)。何か中年男に恋ができにくい理由があるのだろうか? 

先日訪れた本屋でこの人の新著が平積みになっているのを発見した。タイトルを見て驚いた。『人はなぜ死ななければならないのか』(洋泉社、2007)とある。人が死ななければならないという事実に、「なぜ」という疑問詞を付けて考えたことがこれまでなかったからだ。とにかく物事を根本から考えてみようという姿勢が面白い。


warmgunさんのお書きになる記事は、非常に考えさせられることが多く、記事に触発されつつも簡単にコメントできないことがしばしばある。昨日の「snapshot s1149」もそんな記事のひとつだった。ところが、なんとこの記事に対して「ウジ虫コメント」がつけられていた。私が「ウジ虫コメント」と呼ぶのは、いわゆる「荒らし」の一種であるが、身元を明かさずに(つまり自分のブログ等を示さずに)悪口雑言・嫌がらせの類をコメント欄に落書きするもののことである。

Doblogではこういう類のコメントが付けられることはそれほど頻繁にはないが、それでもときおり目にすることがある。私自身、過去に何度かつけられたことがあるし、知人のブログがそういう被害に遭っているのを目撃したこともある。こういう場合、どのように対処するのがいいのだろうか。一番まずいのは、まともに「お相手」して反論することではないかと思う。もちろん、それで終わればいいが、反論すると相手を調子づかせてしまい、コメント欄が「姿を隠した卑劣漢」との果てしない応酬に陥る危険性があるし、現にそういうブログを目撃したこともある。基本は「相手にしない」ことだと思うが、どのように「相手にしない」かが難しい。手っ取り早いのは単純に削除することだが、この方法の欠点は、相手がこちらを「動揺させてやった」と勘違いして、卑劣漢を喜ばせてしまう恐れがなきにしもあらず、ということである。私自身は、「コメント・TBについて」という記事をアップしたうえで削除したことがある。また、今後の対策として、一番簡単なのは、「コメントの受信設定」でログイン中の「Doblogユーザー以外のコメントを受け取らない」設定にすることだが、こうしてしまうと、Doblogユーザー以外の人は一切コメントができなくなってしまうし、Doblogユーザーであっても、ログインしないでコメントすることができなくなってしまうという欠点がある。

さて、「ウジ虫コメント」を付けられたwarmgunさんの対応(レスポンス)は実に見事なものであった。しかし、誰もがwarmgunさんのように冷静かつ的確に対応できるわけではないと思う。私だったら、まずウジ虫コメントを見た瞬間に頭に来るだろう。次に、どのように対応すべきかいくつかの案を検討するだろうが、そうしながらも、こういう愚劣な人間のために全く無駄な時間と精神的エネルギーを浪費しているという事態に腹を立てるだろう。warmgunさんの対応は実に見事なものではあったが、やはりそこには、卑劣漢の暇つぶしにまともな人間が一対一で対応させられるということの不条理さを感じる。


今後も被害に遭う可能性のあるのは、warmgunさんや私だけには限らないだろう。今後、このようなウジ虫コメントが来たときには、できることなら一切何も考えず、機械的に対応できればそれに越したことはないのではないだろうか。少なくとも私はそうしたい。

そこで、今回のwarmgunさんのレスも参考にしながら、「ウジ虫コメント対応レス・フォーム(案)」を考えてみた。この記事を読まれた方で、もしも、この表現はこうした方がいい、といった改良案がある方は是非ご教示下さい。

また、ご自身が被害に遭われた方で、この「対応レス・フォーム」をお使いになりたい方はどうぞご自由にお使い下さい。


=============================
★「ウジ虫コメント対応レス・フォーム(案)」★

(1)身元を明かさず罵詈雑言を書き殴るだけの卑劣コメントには返答の必要はなく、無視します。(遠吠えしたければ、他人のブログでなくご自分のブログでどうぞ!)

(2)身元を明かさない落書き同様のコメントには返答しません。(遠吠えしたければ、他人のブログでなくご自分のブログでどうぞ!)


*「ウジ虫コメント」と一口に言っても悪意レベルの高いものもあればそうでもないものもあるので、一応、(1)は前者用、(2)は後者用である。( )内を加えるかどうかは思案中(その場で判断する?)