ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | ユーザ登録 | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
イスマタリアン
Blog
[ 総Blog数:347件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
2007/03/17のBlog
昨夜、Doblog内に驚嘆すべき記事が出現した!!

鏡 響子さん「私と自衛隊とゲバ棒と」である。
鏡さんのブログには、これまでもたびたび驚かされてきたが、これほど驚嘆した記事には(いかなるサイトにおいても)お目にかかったことは一度もない。そこでは、憲法9条に対する最も根源的な問題提起がなされている。

実は、今日は他にいくつか書こうと思っていたテーマがあったのだが、鏡さんの記事を拝読して、それらはすべてどうでもよくなった。現在の日本において、これ以上に重大なテーマは何一つないからである。なにしろ護憲派にとって、今は史上最大の正念場である。7月参院選の最大の焦点は憲法改定問題であり、そこで護憲派が再び敗北すれば、憲法改悪は決定的となるだろう。

戦後常に護憲派が敗北し続けてきた原因が鏡さんによって鋭く指摘されているのである!

鏡さんの問題提起はこうである。

「9条を守ろう」、、、と主張する場合の、日本人の思想的な根拠は何なのか、、、

それに対して、「戦争は無実の人々が大勢殺しあいをする愚かな惨事であるから、戦争には反対だ」とか、「国民の生存を脅かす国家による戦争の脅威は許されない」といった、容易に予想される回答は、鏡さんによれば、「自らの生存権を確保するためのエゴイズム」に基づくものであり、そのような「生存を脅かされることへの恐怖・嫌悪感」による戦争反対では「9条を守り抜くことはできない」という。なぜか? それは、「もし“自分の生存が脅かされることへの恐怖・嫌悪”が、戦争反対の第一義的な理由なら、“生存を脅かされないために自衛の武器”を持つことは、いとも簡単に許されてしまう」からである。

9条受容の態度の根本にあった、「もう死ななくて済む・・・という“生き物としての安堵感”」では「9条を支える思想的な根拠になるには弱すぎた」、と鏡さんは指摘する。

「戦争を放棄し、なおかつ武器を持たずにいる」という9条の思想は、「たとえどんなに自分の生存が暴力で脅かされても、絶対に武器をもったり、やり返してはならない」という非武装抵抗の思想を根底に持つものだが、「9条を守ろう」というとき、「この態度を貫くための、思想的な根拠になりうるもの、果たして現代の日本人はそれをもちえるのであろうか」と鏡さんは問いかけるのである。


それに対する私の回答は単純明快である。

(生存権エゴイズム以外に)9条を支える思想的根拠を、日本人は何一つ持っていないし、持ち得ない。

というものだ(**)。

私の想像では、鏡さんのこの重大な問題提起に対して、正面から答えられる護憲論者はほとんどいないのではないだろうか(*)。「馬鹿にするな!」とお怒りになる方がおられれば、是非とも応答して頂きたい。しかし、予想される最も安易な応答は、鏡さんが前提とされている9条解釈、すなわち、憲法は非武装抵抗思想の系譜を引く絶対平和主義に基づくものだという解釈を拒否することによって、鏡さんの問題提起を回避することだろう。長谷部憲法学がその典型だが、そのような腑抜けの9条解釈に立つ限り、鏡さんの問題提起を回避することはできても、現在の改憲策動に対しては何の歯止めにもならないだろう。

さて、この問題に関する私自身の考えははっきりしているのだが、語るべきことがらが多すぎて何をどこから書けばいいのか整理がつかない状況なので、私の考えを述べるまで、もうしばらく時間を欲しい。

いずれにしても、憲法問題に関心のあるすべての人(実際には、憲法に関心があろうとなかろうと、否応なくすべての日本人の運命に関わる問題なのだが)に鏡さんのこの記事を読んで、考えていただきたい。とりわけ護憲派を自認している人には、是非とも鏡さんのこの問題提起を正面から受け止めていただきたいものである。記事にしないまでも、是非ともこの問題をご自分の頭で考えて頂きたいと願っている。


(*)その例外として、warmgunさんがすでに、この問題提起に対する応答を試みておられる。その真摯な態度には心から敬服する。

(**)「憲法は世界の宝だ」とか「憲法を世界遺産に」などというお気楽で自己満足的な9条擁護論がある。しかしこのような9条ナショナリズムが絶対平和主義を支える思想的根拠にならないこともいずれ指摘したい。

(***)これだけ読むと、いかにも私は改憲論者のように思われるかもしれない。しかし、私は現在の政治状況においては、護憲論者である。ただし、護憲の理由は、おそらく大半の護憲論者と違っているだろう。

【初出:「ソフィスト倶楽部」2007年1月】
過去10年間に読んだ憲法関係の本の中ではおそらく一番面白かった。改憲に賛成の人にも、反対の人にも、どう考えていいのかよくわからない人にも是非とも読んでもらいたい本です。日本の将来に少しでも関心のある人なら、是非とも本書を読まれることを強くお勧めします!!

改憲論議がこれだけ盛況を極めている昨今、専門の憲法学者の発言が乏しいことに、日頃から強い不満を抱いていたのだが、その不満も本書を読んでかなり解消された。奥平康弘や樋口陽一といった憲法学界の巨星が第一線を退いて久しい今、最近の憲法学者は9条問題について発言することに極めて消極的だと勝手に思いこんでいたのだが、本書の著者、愛敬浩二は久々に現れた骨太な憲法学者である、という印象を得た。

本書の中で愛敬は、最近唱えられている有力な改憲論をほぼ網羅的に取り上げ、ひとつひとつ論破していく。第1章では「押しつけ憲法論」の欺瞞を暴き、第2章では「改憲タブー論」を事実に基づいて反証している。とくに興味深かったのは、近年大流行している「解釈改憲最悪論」が、本来、改憲に批判的な人々の心をも捉えており、そのことが最近の改憲論の高まりを後押ししている現状への批判的分析である。解釈改憲最悪論とは、歴代政府が解釈改憲を繰り返した結果、9条の理念と現実政治との乖離が進み、そのことが憲法を軽視する風潮を助長し、立憲主義を空洞化させ、国民の間にモラル・ハザードを生み出しているという観点から、「解釈改憲こそ最悪である」と主張して「護憲的改憲」を唱える立場のことである。実は、私もごく一時期だが、この解釈改憲最悪論というインフルエンザに罹りかけたことがある。しかし、この解釈改憲最悪論が、政治的には立憲主義尊重の効果を持たないばかりか、結果的にはタカ派的改憲論を支援する効果しか生まないことが説得的に論証されている。

著者の真骨頂は、「現実主義」を標榜する改憲派に9条の「理想主義」を対置するのではなく、改憲派の真の狙いをリアルに分析したうえで、現実の国内政治・国際政治において9条が持つ効用を明らかにして、現実主義的護憲論を唱えるところにある。「戸締まり論」や「仮想敵国論」がいかに非現実的であるかを暴き、自民党の有事法制必要論がアメリカの要求に発している現実を暴露する。そして、非戦平和主義は「国家によって」ではなく、「国家に抗して」主張すべきものであるという石田雄の主張を、著者とともに重く受け止めたいと思った。

愛敬はさらに、現代改憲問題の核心が9条であることは間違いがないとしつつも、同時に、現代改憲論には「憲法観の転換」によって、立憲主義の核心を葬り去ろうとする危険な思想が含まれているとの重大な指摘を行っている。立憲主義の真髄とは、国民が権力者に憲法を押しつけることによって、権力の暴走・逸脱を抑止するところにあるが、それは現憲法では99条の「公務員の憲法尊重擁護義務」の規定に具体化されている。ところが、例えば2004年の読売新聞社の改憲私案では、99条を全面的に削除する一方で、国民に対して憲法遵守を求めるという、立憲主義とはまさに逆転した発想に立っており、自民党や民主党の改憲案にも類似の規定が見られるという。つまり、「国家を縛るルール」としての憲法観から「国民支配の道具」としての憲法観へと180度の転換を図っているのである。こうした「改正」が、もはや憲法改正権の限界を大きく逸脱するものであることは言うまでもないだろう。9条問題にとどまらず、憲法の意義と現代改憲論の真の狙いを国民一人一人が理解するうえで、本書は貴重な助けとなるだろう。

【初出:「ソフィスト倶楽部」2006年11月】
[ 00:35 ] [ 改憲問題 ]
憲法学には憲法改正権の限界問題という論点がある。
日本国憲法第96条は憲法改正の手続きについて定めているが、この手続きさえ踏めばいかなる内容の改正でも行えるのか、という問題である。これに対して、いかなる内容の改正もできる、つまり改正権に限界はない、と考えるのが無限界説であり、改正できる内容には限界がある、と答えるのが限界説である。

憲法学を勉強したことのない人にとっては、手続きさえ守ればどんな改正でもできるのは当たり前ではないか、と思われるかもしれない。しかし、今の日本国憲法と大日本帝国憲法(明治憲法)が基本的に同一の憲法であると思う人はいないだろう。ところが、手続き的に言えば、今の憲法は明治憲法の改正手続きに則って制定されたのである。しかし、天皇主権を定めた明治憲法と国民主権原理に立脚する現行憲法では、根本原理が全く異なっている以上、全く別個の憲法であって、明治憲法体制から現行憲法体制への移行は、法的意味の革命であったと評価するのが妥当であり、現にほとんどの憲法学者がそう考えている。つまり、たとえ手続き的には「改正」という外観をとったとしても、その中身・実質が根本的な変容を遂げたとしたら、旧憲法と新憲法とはもはや同一性を有していない以上、それは「憲法改正」ではなく、旧憲法の廃止と新憲法の制定が行われたと見るべきである、ということである。人間でも、例えば小西真奈美の人格がある日突然、安倍晋三の人格に変容してしまったとしたら、それはもはやコニタンとは言えないだろう。というわけで、憲法学界においては、限界説が通説(支配的な学説)となっているのである。しかし、限界説の中でも、何をもって限界となすのかをめぐっては学説の対立が見られるようである。

日本国憲法は前文第1段で、国民主権原理を「人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排する」と述べているので、例えば、国民主権原理を廃止して天皇主権原理を採用するような改正が、改正権の限界を超えたものであり、無効と見なされることに異論はあまりないだろう。また、「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」という11条の規定、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」という12条の規定、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、…過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」という97条の規定を見れば、基本的人権を制約するような改正もまた、改正権の限界を超えたものだと言わざるを得ないだろう。

それでは、戦争放棄を規定する9条の改定はどうだろうか? 私たちは中学か高校の社会の時間に、日本国憲法の三大原理は「国民主権」と「基本的人権の尊重」と「戦争放棄」だと習わなかっただろうか? そうだとしたら、戦争放棄(9条1項)と戦力不保持・交戦権の否認(9条2項)を定める9条を改定するのは、改正権の限界を超えているのではないだろうか? だが残念なことに、この点について、憲法学者の意見は分かれているようである。しかし、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、…この憲法を確定する」という憲法前文第1段の文言を重視するならば(私はこれは極めて重要な文言であると思う)、その決意を具体化した9条を改定し、「政府の行為によって再び戦争の惨禍」を引き起こすことのできる国家に変えること(それこそが自民党の最大の改憲目的である)は、憲法の基本精神=同一性を変えることであり、やはり改正権の限界を超えるのではないかと思う。

【初出:「ソフィスト倶楽部」2006年11月】
東大教授で憲法学者の長谷部恭男氏が一般読者向けに書いた本だが、決して憲法学の平易な入門書ではない。比較不能な価値観が並存・対立する状況において公正な社会生活の枠組みを設定しようとする思想を立憲主義と呼び、日本国憲法の根幹をなす思想のひとつがこの立憲主義であるとの立場から、平和と憲法をめぐる様々な問題を読み解いた書物である。その意味で、本書は著者独自の視点に貫かれており、通常の憲法入門書とはひと味もふた味も趣を異にしている。
 本書の最も重要な洞察は、日本国憲法の立脚する立憲主義と、従来の憲法学における9条の通説的解釈である絶対平和主義との矛盾・緊張関係を明るみに出したことであり、本書において最も不満の残る部分もまた、その9条解釈のつまらなさにある。著者の言うとおり、個人の多様な価値観を尊重する立憲主義は確かに絶対平和主義とは両立し難いだろう。その意味では、武力不保持(それゆえ自衛隊の違憲性)と自衛戦争を含めた交戦権の否認を説く従来の憲法学の通説が、その9条解釈と立憲主義との予定調和という無邪気な信仰に陥っていたことの虚妄を暴いたという点に本書の意義があるといえよう。その反面、小林直樹、奥平康弘、樋口陽一といった、少し前までの憲法学界の大御所たちが憲法9条の絶対平和主義に対して抱いていたような情熱は、長谷部氏には微塵も感じられない。よく言えばクールで現実的なのだが、法社会学的に言えば、今日の日本人の大多数が従来の通説的な9条解釈を完全に現実離れした空理空論と見なしていることが憲法学者の思考にも影響を与えた結果と言えなくもない。長谷部氏によれば、第9条は「準則(rule)」ではなく「原理(principle)」にすぎないから、ある問題に対する答えを一義的に定めるわけではなく、「自衛のための最低限の実力を保持するために、この条文を改正することは必要だとはいえない」ので、9条改正は必要ではない、とされる。しかし、言うまでもなく、これは9条を改定しなくてもよい、という理由にはなっても、9条を改定してはならない、という理由にはならない。そもそも軍事予算規模では世界有数の軍隊である自衛隊が「自衛のための最低限の実力」などであるはずがない。憲法の条文について、これほど融通無碍な解釈が許されるとするならば、9条は「原理」ですらないことになる。これでは丸山眞男がかつて「「現実」主義の陥穽」の中で指摘した「既成事実への屈服」ととられても仕方ないのではないだろうか。もちろん長谷部氏本人は「屈服」などとは感じていないだろう。しかし、その心理的メカニズムも丸山眞男が50年以上前に既に指摘しているところである。先に挙げた論文の中で丸山はこう述べている。「既成事実への屈服が屈服として意識されている間はまだいいのです。その限りで自分の立場と既成事実との間の緊張関係は存続しています。ところが本来気の弱い知識人はやがてこの緊張に耐えきれずに、そのギャップを、自分の側からの歩み寄りによって埋めて行こうとします。そこにお手のものの思想や学問が動員されてくるのです。しかも人間の果しない自己欺瞞の力によって、この実質的な屈服はもはや決して屈服として受け取られず、自分の本来の立場の「発展」と考えられることで、スムーズに昨日の自己と接続されるわけです。」おそらく長谷部氏も自分本来の立場の「発展」と考えていることであろう。

 東大教授で憲法学者の長谷部恭男氏が一般読者向けに書いた本だが、決して憲法学の平易な入門書ではない。比較不能な価値観が並存・対立する状況において公正な社会生活の枠組みを設定しようとする思想を立憲主義と呼び、日本国憲法の根幹をなす思想のひとつがこの立憲主義であるとの立場から、平和と憲法をめぐる様々な問題を読み解いた書物である。その意味で、本書は著者独自の視点に貫かれており、通常の憲法入門書とはひと味もふた味も趣を異にしている。
 本書の最も重要な洞察は、日本国憲法の立脚する立憲主義と、従来の憲法学における9条の通説的解釈である絶対平和主義との矛盾・緊張関係を明るみに出したことであり、本書において最も不満の残る部分もまた、その9条解釈のつまらなさにある。著者の言うとおり、個人の多様な価値観を尊重する立憲主義は確かに絶対平和主義とは両立し難いだろう。その意味では、武力不保持(それゆえ自衛隊の違憲性)と自衛戦争を含めた交戦権の否認を説く従来の憲法学の通説が、その9条解釈と立憲主義との予定調和という無邪気な信仰に陥っていたことの虚妄を暴いたという点に本書の意義があるといえよう。その反面、小林直樹、奥平康弘、樋口陽一といった、少し前までの憲法学界の大御所たちが憲法9条の絶対平和主義に対して抱いていたような情熱は、長谷部氏には微塵も感じられない。よく言えばクールで現実的なのだが、法社会学的に言えば、今日の日本人の大多数が従来の通説的な9条解釈を完全に現実離れした空理空論と見なしていることが憲法学者の思考にも影響を与えた結果と言えなくもない。長谷部氏によれば、第9条は「準則(rule)」ではなく「原理(principle)」にすぎないから、ある問題に対する答えを一義的に定めるわけではなく、「自衛のための最低限の実力を保持するために、この条文を改正することは必要だとはいえない」ので、9条改正は必要ではない、とされる。しかし、言うまでもなく、これは9条を改定しなくてもよい、という理由にはなっても、9条を改定してはならない、という理由にはならない。そもそも軍事予算規模では世界有数の軍隊である自衛隊が「自衛のための最低限の実力」などであるはずがない。憲法の条文について、これほど融通無碍な解釈が許されるとするならば、9条は「原理」ですらないことになる。これでは丸山眞男がかつて「「現実」主義の陥穽」の中で指摘した「既成事実への屈服」ととられても仕方ないのではないだろうか。もちろん長谷部氏本人は「屈服」などとは感じていないだろう。しかし、その心理的メカニズムも丸山眞男が50年以上前に既に指摘しているところである。先に挙げた論文の中で丸山はこう述べている。「既成事実への屈服が屈服として意識されている間はまだいいのです。その限りで自分の立場と既成事実との間の緊張関係は存続しています。ところが本来気の弱い知識人はやがてこの緊張に耐えきれずに、そのギャップを、自分の側からの歩み寄りによって埋めて行こうとします。そこにお手のものの思想や学問が動員されてくるのです。しかも人間の果しない自己欺瞞の力によって、この実質的な屈服はもはや決して屈服として受け取られず、自分の本来の立場の「発展」と考えられることで、スムーズに昨日の自己と接続されるわけです。」おそらく長谷部氏も自分本来の立場の「発展」と考えていることであろう。

【初出:「チョーノのふらふら日記」2005年5月】
[ 00:25 ] [ 9条関係 ]
いよいよ私の9条論を述べるときがきた。まことに気が重いが、これを書き終えないことには、夏休みの宿題が終わらない子供と同じで、思い切り遊ぶことができないのだ。

 「憲法改正に賛成か反対か」という問いが無意味なことは前にも述べた(「樋口陽一先生の思い出」)。しかし、「現憲法のなかで改正した方がいいと思う箇所はあるか」という問いならば、私の答えは「イエス」である。例えば憲法第1条は「主権は日本国民に存する」と改正し、第2条から第8条までは削除すべきであると私は考える。また、すぐ後で述べるように、第9条も終局的には改正すべきだと考えている。しかし、目下論議されているような方向での改憲には断固反対である。その理由をこれから述べる。

 ここでは細かな9条解釈論を展開するつもりはない。私の解釈は、9条1項が戦争の無条件放棄を定め、2項で1項を具体化するために戦力の無条件放棄と交戦権の否認を定めたというもので、憲法学界では多数説ではないかもしれないが、非常に少数説というわけでもなく、よく知られた解釈である。もちろんそれ以外にも様々な解釈があることは知っているが、私はこの解釈が法解釈としては最も合理的なものであると信じている。その理由については、小林直樹、樋口陽一両東大名誉教授の説と同じであって、私独自の考えなどとくにないので、詳しく知りたい方は、小林直樹『憲法第九条』(岩波書店)や樋口陽一『憲法』(創文社)などを参照されたい。そして、そのような9条の平和主義が、非暴力抵抗思想の系譜を引く絶対平和主義に基づくものであるという点については、井上達夫氏の指摘するとおりである。

 さて、憲法9条をこのようなものと捉えたうえで、なお9条理念の実現を真剣に追求すべきであろうか? 私自身は憲法の勉強を始めて以来、9条の理念を内面的に受容しようと何度も努めてみたが、正直に言って、そのたびに困難を覚えたものである。井上氏の言う「絶対平和主義の峻厳な責務」を引き受ける覚悟はあるのか?という問いに対して、何の躊躇もなく「イエス」と答えることができた、といえば嘘になる。しかし、それ以上に問題なのは、9条はそもそも良心的兵役拒否のような個人の倫理的信条とは異なり、国家の基本原則を定めるものである以上、すべての国民に対してその覚悟を迫っている、という点にある。国民が思想信条を同じくする者の結社ではなく、多様な価値観を持った個人の集合体である以上、そのような国民全員が受け入れるには、9条はあまりにも理想主義的であると言わざるを得ないと思う。これは、長谷部恭男氏がいみじくも立憲主義と絶対平和主義の矛盾という言葉で表現したところの事態である。立憲主義が多様な価値観と多様な生き方の共存枠組みであるならば、個々人に峻厳な覚悟と責務を要求する絶対平和主義とはまことに相性が悪いと言わざるを得ないだろう。

 ではどうすべきなのか。9条を改定して軍隊を持てることを明記して「普通の国」になればいいのだろうか。私はこのような改憲論には反対である。解釈改憲の積み重ねによって、およそ憲法9条の理念とはかけ離れた現実を創り出しておいて、9条を「非現実的」だからという理由で改定するのであれば、およそ憲法によって権力の濫用を防止しようとした意味が全くないことになる。近代立憲主義(長谷部氏の言う狭義の立憲主義のさらに前提にある広義の立憲主義)は個人の権利と自由を保障するために、憲法を定めることによって、あらかじめ国家機関の行動を制約することを使命としている。ところが、政府が気にくわない憲法の条項と全く異なる現実を創り出したうえで、その条項が「非現実的」になったという理由で改憲することができるとすれば、立憲主義は根底から覆されてしまうだろう。終局的に9条を改定するにしても、まずは9条の規定を現実のうえで実現することが前提である。具体的には自衛隊を解散し(あるいは暫定的に非武装の国際災害復興支援隊のようなものに改組するのでもよい)、日米安保条約を破棄するのである。こうして9条の非武装平和主義をいったんは実現したうえで、今後の日本の平和・安全保障政策のあり方について国民的な議論を巻き起こせばよいのである。そのうえで、9条を改定して、最低限の自衛戦力を持てるようにすべきだ、という結論になったならば、そのときこそ憲法を改正すればよいのである。ただし、「『論座』の憲法特集に寄せて①」でも書いたように、9条は戦後日本が平和国家として再出発をするという国際公約の側面を持っているので、その精神は放棄すべきではないだろう。そのためにはアジア諸国の信頼を得られるように、戦争責任・戦後責任を真摯に果たさなければならない。また、国連の集団安全保障体制を強化するために日本は力を尽くすべきであるが、そのためには日本が常任理事国入りを目指すのではなく常任理事国制度自体の廃止を提唱すべきである。

 このような意見に対しては「非現実的だ」との批判が聞こえてきそうである。しかし、そもそも個人ができることなど限られている。いかなる人といえども、個人で政治状況を一変させることなどできようはずもない。私にできることといえば、自衛隊や安保は違憲だと言い続け、そのような主張を持つ政治勢力(それがない場合には、次善の策としてそれに最も近い主張を持つ政治勢力)が少しでも議席を増やすような投票行動をとり続けるしかないし、実際、これまでそうしてきた。逆に、国民の多数が決断すれば大抵のことは可能なのであって、はじめから絶対に無理だと決めつけるのは傲慢というものであろう。

 憲法の立憲主義を守る道は、井上氏の説くように9条を削除することではなく、9条の理念をいったんは実現するという道を経由することを措いてほかにないと私は思う。

【初出:「チョーノのふらふら日記」2005年5月】
理念や理想を語ることがダサいと見なされる風潮の中で、憲法9条について自分の意見を述べるのはかなりの気力と労力を要する作業なので、正直言って当分憲法のことは書くまいと思っていた。気が変わったのは、『論座』6月号の憲法特集を読んだからだ。「クール!な憲法の論じ方」と題したその特集のなかで、長谷部恭男、井上達夫、小熊英二の3人がそれぞれの自説を展開していた。はじめにこれら3者の意見に対するコメントを述べた後で、簡単に私見を述べることにしたい。

 まずは長谷部論文「日本の立憲主義よ、どこへ行く?」から――。最近、このブログの中で長谷部氏に対する批判を2,3度述べたが、もしかすると私が長谷部氏の見解を誤解しているのではないか、そうであって欲しい、と思いながら、期待を込めて長谷部論文を読んだのだが、結果は残念ながら全くの期待はずれだった。私の長谷部批判が誤解に基づくものではないと確認できたのが唯一の収穫で、それ以外に得るものは何もなかったので、これ以上コメントはない。

 次に小熊論文「改憲という名の「自分探し」」について。私が「悲しき憲法第9条」のなかで、「9条の理念にコミットすることなく…9条改定に反対している…護憲論者の名前はたちどころに何人も浮かんでくる」と書いたとき、想定していた人物の一人が実は小熊氏であった。しかし、この論文で小熊氏が指摘している改憲論議の背景にある歴史社会学的要因にはほとんど同意できる。しかしこの論文で最も重要だと私が思うのは、9条改憲論が強まっている背景にアメリカの外圧があるとの指摘である。これは井上氏も指摘しているところだが、9条改正論の真の狙いは、集団的自衛権に対する桎梏をなくし、自衛隊を安保体制下での米軍の補完部隊として、米軍が世界中で展開する軍事行動に「協力」できるようにすることである。その意味で、9条改定はまさに安保体制の対米従属構造を強化し、日本の主体性喪失状況に拍車をかえる以外のなにものでもない。憲法の「一国平和主義」を批判して、「国際貢献」できるようにと改憲を唱える自民党政治家の頭の中にある「国際社会」とはアメリカとその同盟国の同義語である。

 さて、3者のなかで最も興味深い議論を展開していたのは、やはり井上達夫氏である。井上氏は知る人ぞ知る、知らぬ人ぞ知らぬ、現代日本における法哲学の第一人者である。井上氏は「削除して自己欺瞞を乗り越えよ」という挑発的なタイトルのその論考のなかで、9条の掲げる絶対平和主義が、「侵略などないはずだ」という幼児的願望思考や平和ボケとは無縁の思想であって、侵略者に対しては非暴力的手段による抵抗を呼びかけ、その強い道義的アピールによって侵略者を非難する国際世論を高揚させようという非暴力抵抗思想に基づくものであるとの指摘を行ったあと、こうした絶対平和主義の課す峻厳な責務を引き受ける覚悟のない護憲論者――自衛隊・安保の現状を事実上追認し、自らのその便益を享受しながら護憲を叫ぶ人々――を「裏口からの現状追認論」、「現実への倫理的タダ乗り」と呼んで批判しているが、これは私が「悲しき憲法第9条」において「シニカル護憲論者」の倫理的態度を問題にしたのとほとんど同型の批判である(ただし批判の論調は井上氏の方がはるかに厳しい)。その意味で、この論文は護憲派に人々にこそ読んでもらいたいものである。護憲派・改憲派双方の欺瞞に対する井上氏の批判には賛成であるが、彼の結論には同意できない。彼は、「9条の思想を9条の欺瞞から救う」ために、また「憲法の本体を救うため」に「9条は固守するのでも改正するのでもなく、端的に削除すべきである」と主張する。面白いアイデアではあるが、ここには抜け落ちている視点がある。それは、前文とセットになった9条の非武装平和主義が、戦後日本が再出発するに当たって掲げた国際公約という側面を持っていたことである。もちろん、国際公約だから変更できないというわけではない。しかし、靖国問題や教科書問題など歴史認識に関わる問題で、日本が未だにアジア諸国から不信の目で見られていることは、日本が戦争責任・戦後責任の問題を解決し終えていないことを意味している。そのような状況のなか、解釈改憲でなし崩し的に9条を空洞化した挙句に、ハイ、9条を削除しました、ではアジア諸国の不信感はいや増すばかりであろう。
 それでは私はどう考えているのか。そのことを次回にお話ししたい。

【初出:「チョーノのふらふら日記」2005年5月】
[ 00:13 ] [ 9条関係 ]
よく知られているように、憲法9条の原型は、いわゆるマッカーサー草案の第2原則に遡り、帝国議会の憲法草案審議過程においては、当時の保守派政治家たちは、天皇制を存続させるための「避雷針」として9条を面従腹背的に受容した。一方で、敗戦ショックの癒えない国民の多くは、「もう戦争は懲り懲りだ」という被害者意識を基調とする厭戦気分から9条を歓迎した。憲法施行直後から始まった冷戦の激化に伴う占領政策の「逆コース」のなかで、憲法的価値を擁護しようとする護憲勢力が誕生することになる。そこでの平和主義は依然として敗戦体験に基づく厭戦=反戦運動であったといえるだろう。
 ところが60年代後半から日本でも盛り上がりを見せ始めたベトナム反戦運動のなかで、日本の平和運動のなかにも、かつて日本の行った侵略戦争の加害性が徐々に自覚されるようになっていく。70年代初頭には朝日新聞のスター記者であった本多勝一氏が同紙紙上で連載した「中国の旅」の影響も大きかっただろう。この連載で、かつて日本軍が中国で行った侵略戦争の実態を初めて知った人も多かったに違いない。80年代には従軍慰安婦問題がマスコミでも大きく取り上げられるようになり、日本の加害性はさらに強く意識されるようになったものの、それと入れ替わるかのように、戦争・敗戦体験は日本人の意識のなかから風化していった。冷戦終焉後の90~91年には湾岸危機・湾岸戦争が起こり、「国際貢献」の大合唱のなかで、憲法の「一国平和主義」が批判されるようになり、従来の護憲派のなかでもこうした批判に同調する者が現われ、護憲論が分裂し始める。このころから護憲勢力を時代に合わない守旧派と見なすような風潮が形成されていく。94年に公職選挙法が改定され、小選挙区制を中心とする小選挙区比例代表並立制が導入されたことは、多様な民意を強制的に捻じ曲げ、2大政党制を無理やり作り出すことになり、結果として政策的に似たり寄ったりの2大政党が形成されるという、この制度を採る国で一般的に見られる現象が、予想通り日本でも展開されることになる。その結果、2大政党である自民党と民主党がともに改憲を掲げ、護憲政党が弱小政党に転落することになる。こうした政治的現実を目の当たりにした国民は、現状無限追随という「法則」にしたがって、護憲から改憲へと雪崩を打つように宗旨替えすることになるのである。これが今の現状である。

【初出:「チョーノのふらふら日記」2005年5月】
2007/03/16のBlog
[ 23:31 ] [ 9条関係 ]
憲法記念日以来、久しぶりに憲法のことを考えた。かつては憲法フリークだった私も、近年ではときたましか憲法のことを考えなくなってしまった。
 「憲法改正に賛成か反対か」という質問が無意味なことは、昨日の朝日新聞のインタビューで樋口陽一氏が指摘されている通りだが、このように論点をあえて拡散することによって改憲賛成派を水増しするという政治的効果はあるだろう。しかし、憲法改正論議の焦点が9条にあることは依然として変わらない。
 憲法学界における通説的な9条解釈は、おそらく今でも、憲法は一切の戦力保持を禁じており、それゆえ自衛隊は違憲である、というものだろうと思う。しかし、多くの憲法学者が9条をそのように解釈しているということは、彼らが9条の理念にコミットしているということを必ずしも意味しない。解釈論としては自衛隊が違憲であると思っていても、立法論としては、自衛隊を合憲にするように憲法改正すべきだと考えることは何ら矛盾しないからである。もっとも、多くの憲法学者は9条について、解釈論は語っても立法論はあまり語りたがらないので、どのような平和思想を持っているのか、よくわからないのである。
 さて、非武装平和主義を掲げる憲法9条と、世界有数の軍隊を持ち、その軍隊を海外にまで派遣し、アメリカとの間で軍事同盟条約を結んでいるという現実との間の気の遠くなるような落差を目の当たりにしたとき、多くの人は何とも言いようのない居心地の悪さを感じるであろう。正直な人ほど、憲法と現実との間のこの矛盾を何とか解消したいと思うのではなかろうか。矛盾を解消する方法は大きく言って2つある。憲法を現実に合わせるか、現実を憲法に合わせるか、である(もちろん両者をともに歩み寄らせるという解決法もあるが、ここでは単純化のため、折衷案は捨象する)。しかし、後者の解決策は、日本の政治的現状を見る限り、実現可能性が限りなくゼロに近いように感じられるだろう。だとすれば、残る解決策は憲法を現実に合うように改正するしかない。このような思考のプロセスを経ることによって、改憲論に与する人も改憲派のなかで少なくない割合を占めるだろう。昔から改憲論の主流を占めていたであろう、9条の制約をなくして堂々と軍拡をするために改憲を唱える右翼的改憲論に対して、このような改憲論は(バカ)正直者の改憲論といえるかもしれない。
 それでは、このような憲法と現実との架橋不可能な矛盾を前にしてなお、護憲を唱える人とはどのような人々なのであろうか。まず考えられるのは、このような矛盾を作り出したのは歴代自民党政権の責任であるから、矛盾を解消するためには現実の方こそを改めるべきだ、という原理原則の人である。しかし、今日、このような原理原則的護憲論を掲げる人は、護憲派のなかでもごく少数派だろうと思う。いや、思っていた。ところが5月3日の朝日新聞に掲載された世論調査を見て驚いた。自衛隊と9条の関係に関する質問に対する回答で、「自衛隊は違憲なので将来は廃止する」と答えた人が7パーセントもいたのだ。思わず「おいおい、本当か?」と言いたくなった。もちろん、「改憲して存在を明記」と答えた58パーセント、「改憲せず解釈で対応」と答えた16パーセント、「改憲して普通の軍隊に」と答えた12パーセントと比べて最も少ないが、それでも原理原則の人がこんなに多いとは意外だった。が、すぐにからくりに気がついた。そもそも選択肢が4つしかなければ、改憲に反対でなおかつ現状にも批判的な人はこう答えるしかないではないか。
 実は現在の護憲派のなかでは、こうした原理原則的護憲派は少数派だろう。多くの護憲論者は、自衛隊を廃止することなどはとうの昔にあきらめているか、もしくは自衛隊の存在を当然の前提にしたうえで、改憲に反対しているにすぎないように見える。つまり、9条の理念にコミットすることなく、言い換えれば9条の理念が決して実現されないとの前提に立って、9条改定に反対している人々が護憲派の大半なのではないだろうか。そのような護憲論者の名前はたちどころに何人も浮かんでくるが、9条の理念にコミットした護憲論者はほんの数名しか浮かんでこない。このような、自衛隊の存在を認めたうえで9条改定に反対するような護憲論をシニカル護憲論と私は呼びたい。シニカル護憲論者が護憲にこだわる理由は、9条が現実に進行する解釈改憲に対する「歯止め」になっている、ということだ。しかし、現実にとめどなく「定向進化」を続ける解釈改憲を見る限り、9条の存在は、一定の「重し」にはなっても「歯止め」にはなっていないのではないか。もちろん、「重し」にすぎないとしてもある方がいいには違いない。私が少し問題だと思うのは、シニカル護憲論者の倫理的態度である。自らがその価値理念にコミットもしない条文を、その価値理念が現実に破られた状態のまま維持するように要求する、という倫理的態度は欺瞞ではないかと思うからだ。こんなことを言っても、「なにを寝言を言っているのだ。倫理的態度などより重要なのは政治的判断なのだ」と言われるのがオチなのかもしれない。彼らも政治的には同盟者なので、あまり批判はしたくないが、私にはどうしても彼らの倫理的態度が理解できないのである。
 護憲派には、実はもうひとつ奇妙な一派がある。それは憲法と現実とは実は矛盾しておらず、それゆえ改憲する必要がない、と説くものだ。間違っていたら指摘して頂きたいのだが、長谷部恭男東大教授の9条護憲論もこの類ではないかと思っている。長谷部教授は『憲法と平和を問いなおす』のなかで、立憲主義と絶対平和主義との矛盾を指摘する。この指摘自体は正しいと私は思う。しかし、この矛盾を解消するために、長谷部教授は9条の平和主義を絶対平和主義ではなく「穏健な平和主義」であると解釈するのである。その解釈を正当化するために持ち出されるのが、「原理」と「準則」の区別である。そして9条は準則ではなく原理にすぎないとの理屈(それ自体の立証は十分に行われていない)から、自衛隊も合憲とみなす解釈を導きだすのである。さらに、改憲反対論を補強するために持ち出される理由が、「いったん引かれた境界線は、たとえその線引き自体に合理的な理由がなくても、その境界線を守ることには合理的な理由がある」(今、手元にその本がないので、引用は正確ではないことをお断わりしておく)という、あまり説得的とは言えない理由なのである。もっとも長谷部憲法学について私はそれほど詳しくないので、あるいは誤解があるかもしれない。ただ、立憲主義と絶対平和主義との矛盾に話を戻すならば、日本国憲法自体がはじめからそうした内在的矛盾を含んでいたのであり、どちらか一方が他方に優越する、といった話ではないと私は考える。そのことは憲法前文からも窺える。第1段には、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることにないやうにすることを決意し、・・・この憲法を確定する」とあり、平和主義の実現が立憲主義の(少なくともひとつの)目的であることを明記している。なお、この前文には、「崇高な理想」という言葉が2度出てくるが、前文の最後は、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」という言葉で締めくくられている。思えば、普通の国民が「崇高な理想」の達成を誓う憲法を持ったことが、憲法にとっての悲劇の始まりだったのだろう。
 先に挙げた世論調査によれば、9条に関する限り、今でも護憲派はかろうじて過半数(51パーセント)を占めているものの、その大半は、9条の理念(非武装平和主義)を決して内在的に受容することのない人々である。ここに憲法9条の悲しさがある。

【初出:「チョーノのふらふら日記」2005年5月】
[ 12:10 ] [ 日本国憲法全文 ]
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

[ 12:09 ] [ 日本国憲法全文 ]
第一章 天皇

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。

第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
2 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

第五条 皇室典範 の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九 外国の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。

第八条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。