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2007/12/05のBlog
[ 18:08 ]
[nadjaさんの関連記事]
[鏡 響子さんの関連記事]
私の好きな20世紀の政治哲学者、アイザイア・バーリン(1909-97)に『ハリネズミと狐』という著作がある。そのなかでバーリンは、「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」という古代ギリシャの詩人の謎めいた詩句を手掛かりに、古今の思想家・作家・芸術家を狐型とハリネズミ型に分類するという作業を行っている(もっとも本書のテーマはトルストイの歴史哲学にあるので、分類自体はそのための予備作業にすぎないのだが…)。
バーリンによれば、ハリネズミ型の人間は、一切の事柄をただ一つの普遍的で体系的・統一的な原理やヴィジョンに関連させて理解し考え感じるような人であり、その思考法は求心的である。それに対して狐型の人間は、極めて多様な経験や対象をあるがままに捉え、しばしば無関係でときには互いに矛盾してさえいる多くの諸目的を追求する人であり、その思考法は遠心的である。哲学的な区分との関連で言えば、一元論者や合理主義者や理想主義者の思考態度が前者と関連があるのとすれば、多元論者や経験主義者、現実主義者の思考態度は後者との関連性が深いだろう。
バーリンによれば、プラトンやダンテ、ヘーゲル、ドストエフスキー、プルーストはハリネズミ型の思想家・作家であり、アリストテレス、モンテーニュ、ゲーテ、プーシキン、ジョイスは狐型の思想家・作家の例として挙げられている。そして、本書の主題であるトルストイその人は、個別のものに対する比類のない感覚を持った狐でありながら、ハリネズミでありたいと熱望した人物と評されている。
何年も昔に読んだこの著作のことを思い出したのは、私が尊敬する二人の読書の達人ブロガーであるnadjaさんと鏡 響子さんとの間で最近繰り広げられた読書論をめぐる興味深いやりとりを読んだせいである。きっかけはnadjaさんが書いた11月21日の記事「徒然に…」であり、それに対して鏡さんが12月2日に「読書家になれない理由」という記事を書いてTBした。すると再びnadjaさんは同日、「ヘッセの読書術」という記事を書いて鏡さんの記事にTBした。その内容をかいつまんで書くとこうである。
まず、nadjaさんが第1の記事において「ショーペンハウエルもヘッセも濫読はいけないと言っているが・・・私はかなり濫読してきたし、本依存症だという自覚もある」と書いたのに対し、鏡さんは、濫読はいけないというのは本当なのか、むしろ「多読濫読できる力こそ、読書人の真髄ではないか」という疑問から「読書家になれない理由」を書いた。そのなかで鏡さんは、本を読む人を、「広大な範囲の書物を渉猟する」タイプと「ある作家や思想家の作品を全部、繰り返し繰り返し読む」タイプの2つに分けたうえ、(鏡さんにとって)読書家というのは前者の多読濫読できるタイプを指すのであって、「後者の指数しか備わっていない」自分は読書家ではない、と結論づけている。
するとそれを読んだnadjaさんは、「え~~、それ、ちがうちがう~~」と叫びつつ(笑)、「ヘッセの読書術」においてヘルマン・ヘッセが述べている主張を援用しつつ、異論を述べている。ヘッセによると、真の読書家とは、「次から次へと好奇心に駆られてあらゆる時代と国々の文学作品の抜粋と断片を多量に飲み込んだ読者」ではなく、「三人か四人の一流の作家の作品を完全に、そしてくりかえし読んだ者」、「少数の本を徹底的に知っている」者のことであり、それゆえ、「カフカを徹底的に読み、愛する、鏡さんのような方が真の読書家である」と結論づけているのである。
つまり、鏡さんは(名指しこそしていないが、nadjaさんのような)多読濫読できる人こそ真の読書家であると主張したのに対し、自ら濫読タイプを自認するnadjaさんはカフカなど少数の本を徹底的に繰り返して読む鏡さんのような人こそ真の読書家であると応じたわけである。
勘のいい読者なら、私が何を言いたいのか、すでにおわかりだろう。読書家のタイプも一つとは限らないのである。鏡さんが真の読書家である、というnadjaさんの結論に私も異存はない。ただし、鏡さんのようなタイプの読書家だけが真の読書家だとは思わない。nadjaさんもまた真の読書家であることに疑問の余地はないと思う。つまり、バーリンの分類を援用すれば、鏡さんがハリネズミ型の読書家なのに対し、nadjaさんは狐型の読書家なのである。タイプが異なるだけで、お二人とも真の読書家であることに変わりはない。ついでに言えば(ついでで申し訳ありません)、私のもう一人の「本の師匠」であるwarmgunさんもまた巨大な狐族の読書家である。
両者は種類の違いであって、その間に「真」と「偽」というような関係がないのはもちろん、優劣関係もない。ただ、個人的な指向性が違うだけである。私はかつてある記事のコメントで、鏡さんを「絶対的価値の探求者」と評したことがある(ご本人も少なくとも全面否定はされなかった)が、そのような指向性からも鏡さんがハリネズミ型の読書家であることは疑いの余地がないと思う。
<注>
「濫読」という言葉を広辞苑で引くと、「何の方針も立てず、手当たり次第に書物などを読むこと」とあるように、この言葉には、それ自体としてマイナス評価が負荷されているように思うが、本文中で述べたのは(そしておそらく鏡さんやnadjaさんの用法も同じだと思うが)、必ずしも相互に内的関連性や一貫性を持たない多方面の本を読む、ということであって、文字通り無差別に本を読む、ということではない。つまり、読書の範囲が極めて多方面に広がっているということを意味するにすぎず、本(あるいは活字)であれば何でも手当たり次第に読むという(養老孟司のような)態度とは無関係である。
* この記事は次の2つの記事にTBさせて頂きました。
nadjaさん「ヘッセの読書術」
鏡 響子さん「読書家になれない理由」
[鏡 響子さんの関連記事]
私の好きな20世紀の政治哲学者、アイザイア・バーリン(1909-97)に『ハリネズミと狐』という著作がある。そのなかでバーリンは、「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」という古代ギリシャの詩人の謎めいた詩句を手掛かりに、古今の思想家・作家・芸術家を狐型とハリネズミ型に分類するという作業を行っている(もっとも本書のテーマはトルストイの歴史哲学にあるので、分類自体はそのための予備作業にすぎないのだが…)。
バーリンによれば、ハリネズミ型の人間は、一切の事柄をただ一つの普遍的で体系的・統一的な原理やヴィジョンに関連させて理解し考え感じるような人であり、その思考法は求心的である。それに対して狐型の人間は、極めて多様な経験や対象をあるがままに捉え、しばしば無関係でときには互いに矛盾してさえいる多くの諸目的を追求する人であり、その思考法は遠心的である。哲学的な区分との関連で言えば、一元論者や合理主義者や理想主義者の思考態度が前者と関連があるのとすれば、多元論者や経験主義者、現実主義者の思考態度は後者との関連性が深いだろう。
バーリンによれば、プラトンやダンテ、ヘーゲル、ドストエフスキー、プルーストはハリネズミ型の思想家・作家であり、アリストテレス、モンテーニュ、ゲーテ、プーシキン、ジョイスは狐型の思想家・作家の例として挙げられている。そして、本書の主題であるトルストイその人は、個別のものに対する比類のない感覚を持った狐でありながら、ハリネズミでありたいと熱望した人物と評されている。
何年も昔に読んだこの著作のことを思い出したのは、私が尊敬する二人の読書の達人ブロガーであるnadjaさんと鏡 響子さんとの間で最近繰り広げられた読書論をめぐる興味深いやりとりを読んだせいである。きっかけはnadjaさんが書いた11月21日の記事「徒然に…」であり、それに対して鏡さんが12月2日に「読書家になれない理由」という記事を書いてTBした。すると再びnadjaさんは同日、「ヘッセの読書術」という記事を書いて鏡さんの記事にTBした。その内容をかいつまんで書くとこうである。
まず、nadjaさんが第1の記事において「ショーペンハウエルもヘッセも濫読はいけないと言っているが・・・私はかなり濫読してきたし、本依存症だという自覚もある」と書いたのに対し、鏡さんは、濫読はいけないというのは本当なのか、むしろ「多読濫読できる力こそ、読書人の真髄ではないか」という疑問から「読書家になれない理由」を書いた。そのなかで鏡さんは、本を読む人を、「広大な範囲の書物を渉猟する」タイプと「ある作家や思想家の作品を全部、繰り返し繰り返し読む」タイプの2つに分けたうえ、(鏡さんにとって)読書家というのは前者の多読濫読できるタイプを指すのであって、「後者の指数しか備わっていない」自分は読書家ではない、と結論づけている。
するとそれを読んだnadjaさんは、「え~~、それ、ちがうちがう~~」と叫びつつ(笑)、「ヘッセの読書術」においてヘルマン・ヘッセが述べている主張を援用しつつ、異論を述べている。ヘッセによると、真の読書家とは、「次から次へと好奇心に駆られてあらゆる時代と国々の文学作品の抜粋と断片を多量に飲み込んだ読者」ではなく、「三人か四人の一流の作家の作品を完全に、そしてくりかえし読んだ者」、「少数の本を徹底的に知っている」者のことであり、それゆえ、「カフカを徹底的に読み、愛する、鏡さんのような方が真の読書家である」と結論づけているのである。
つまり、鏡さんは(名指しこそしていないが、nadjaさんのような)多読濫読できる人こそ真の読書家であると主張したのに対し、自ら濫読タイプを自認するnadjaさんはカフカなど少数の本を徹底的に繰り返して読む鏡さんのような人こそ真の読書家であると応じたわけである。
勘のいい読者なら、私が何を言いたいのか、すでにおわかりだろう。読書家のタイプも一つとは限らないのである。鏡さんが真の読書家である、というnadjaさんの結論に私も異存はない。ただし、鏡さんのようなタイプの読書家だけが真の読書家だとは思わない。nadjaさんもまた真の読書家であることに疑問の余地はないと思う。つまり、バーリンの分類を援用すれば、鏡さんがハリネズミ型の読書家なのに対し、nadjaさんは狐型の読書家なのである。タイプが異なるだけで、お二人とも真の読書家であることに変わりはない。ついでに言えば(ついでで申し訳ありません)、私のもう一人の「本の師匠」であるwarmgunさんもまた巨大な狐族の読書家である。
両者は種類の違いであって、その間に「真」と「偽」というような関係がないのはもちろん、優劣関係もない。ただ、個人的な指向性が違うだけである。私はかつてある記事のコメントで、鏡さんを「絶対的価値の探求者」と評したことがある(ご本人も少なくとも全面否定はされなかった)が、そのような指向性からも鏡さんがハリネズミ型の読書家であることは疑いの余地がないと思う。
<注>
「濫読」という言葉を広辞苑で引くと、「何の方針も立てず、手当たり次第に書物などを読むこと」とあるように、この言葉には、それ自体としてマイナス評価が負荷されているように思うが、本文中で述べたのは(そしておそらく鏡さんやnadjaさんの用法も同じだと思うが)、必ずしも相互に内的関連性や一貫性を持たない多方面の本を読む、ということであって、文字通り無差別に本を読む、ということではない。つまり、読書の範囲が極めて多方面に広がっているということを意味するにすぎず、本(あるいは活字)であれば何でも手当たり次第に読むという(養老孟司のような)態度とは無関係である。
* この記事は次の2つの記事にTBさせて頂きました。
nadjaさん「ヘッセの読書術」
鏡 響子さん「読書家になれない理由」
[ 12:09 ]
[ 本たち ]
昨日、アーサー・ビナードの『左右の安全』(集英社)を買った。
先日、新聞の読書欄で見て、買おうと決めていたのだ。
22歳で来日して以来、日本語で詩やエッセイを書くアメリカ人の著者の文章を
朝日新聞のコラムで初めて読んだときから、私はファンになってしまった。
その人の詩集である。
日本語の面白さをアメリカ人に教わる面白さ――。
例えばその中の「日常」という詩はこんな詩だ。
月は
地球のまわりを回り出して久しく、
その軌道が
すっかり身についている
方向を間違えることなく、
速度、角度、微妙なカーブもみな
こなれたものだ。
たまに、でも、月は道に
迷ってみたいと思う。
ここはどこ?
というスリルを味わいたい。
せめて
三日月の翌晩に
うっかり満月姿で現れるとか、
自転を少し速めてしまうとか…‥
そんな思いが
だんだんと溜まり、
日常に押しつぶされそうになると
日食か
月食が
やってくる。
この道でよかったと。
~アーサー・ビナード「日常」『左右の安全』より~
先日、新聞の読書欄で見て、買おうと決めていたのだ。
22歳で来日して以来、日本語で詩やエッセイを書くアメリカ人の著者の文章を
朝日新聞のコラムで初めて読んだときから、私はファンになってしまった。
その人の詩集である。
日本語の面白さをアメリカ人に教わる面白さ――。
例えばその中の「日常」という詩はこんな詩だ。
月は
地球のまわりを回り出して久しく、
その軌道が
すっかり身についている
方向を間違えることなく、
速度、角度、微妙なカーブもみな
こなれたものだ。
たまに、でも、月は道に
迷ってみたいと思う。
ここはどこ?
というスリルを味わいたい。
せめて
三日月の翌晩に
うっかり満月姿で現れるとか、
自転を少し速めてしまうとか…‥
そんな思いが
だんだんと溜まり、
日常に押しつぶされそうになると
日食か
月食が
やってくる。
この道でよかったと。
~アーサー・ビナード「日常」『左右の安全』より~
[ 06:45 ]
[ 言葉 ]
我々は運命を生きるしかない。
――O.K.
我々は運命と意志、必然と自由の狭間で生きるしかない。
――nomsky
[ 06:38 ]
[ 言葉 ]
木の葉は根よりもわれわれを喜ばせる。
――トルストイ
2007/12/03のBlog
[ 18:02 ]
[ 本たち ]
日本全国すべての駅から、鉄道(JR、私鉄、第三セクターすべて含む)や飛行機を使ってその日のうちに東京駅まで辿り着こうとすると、最も早く出発しなければならない駅はどこ(何県)になるのか。こういう疑問を抱いただけでなく、実際にそれを調べて、鉄道のない沖縄を除く46都道府県のランキングを作ってしまった人がいる。本書の著者、原武史氏である。
著者は自他共に認める鉄道マニアであるが、本業は明治学院大学教授で日本政治思想史というお堅い学問の研究者である。つまり、学者が趣味を生かして書いた余技の本、というわけだが、著者によれば、「鉄道は単なる趣味」ではなく、「私の著作の一部は、鉄道に対するこだわりがなければ、到底生まれなかった」と断言しているので、趣味と仕事を兼ね備えてもいるのだろう。本書の元になったのは、講談社のPR誌『本』に著者が1996年から2003年にかけて連載した鉄道に関するエッセイ「鉄道ひとつばなし」であり、本書には76編のエッセイが収録されている。
そのタイトルの一部を紹介すると・・・
「時間意識から見た東北と九州」
「鉄道とジェンダー」
「成城から小田急に乗って――平塚らいてうと柳田國男」
「荷風と京成」
「占領期の鉄道」
「小田急に戸惑う」
「戦争と鉄道」
「横須賀線は死んだ」
「大井川鉄道井川線に乗る」
「浦和の謎」
「名古屋に朝五時に着く方法」
「仙台→京都殺人ルート」
「駅そばと私」
「痴漢発生の条件」
「富士山の見える区間」
「いまも残る路面電車」
「ソウル地下鉄事情」
・・・・
といった具合だ。
どうです? 読んでみたくなりませんか?
私は鉄道マニア(そのほとんどが男性だという)の心理や趣味は全くわからない人間だが、そのような私が読んでも本書は文句なく面白かった。短いエッセイを集めたものなので、ひとつひとつはごく短時間で読める。通勤電車やトイレ(?)や休憩時間の気分転換などに読むのに適した本である。私は本書が出た4年前に読んだのだが、先日新聞で原武史氏の名前を見て、本書のことを思い出した次第である。
あ、そうそう。冒頭の問題ですが、一位は何県だと思いましたか?
正解は岩手県で、JR山田線大志田駅から東京駅にその日のうちに到着するためには朝の6時56分(2003年2月現在)に出なければなりません。2位が北海道のJR石勝線楓駅(7時02分)、3位が石川県のと鉄道蛸島駅(13時18分)、…以下46位の東京都JR青梅線奥多摩駅(21時11分)までのランキングが一覧表にして掲載されています。
では、これから今年第1発目の忘年会に出かけます(笑)
2007/12/02のBlog
[ 17:40 ]
不破利晴さんのブログにうっかりコメントしたら、warmgunさんから大変な(?)注文をされてしまった。以下はwarmgunさんへの私信なので、他の人は気にしないで下さい。(それにしても我ながら律儀だなぁ…笑)
私が「なるほどなぁ」と思ったのは、以下に抜粋したような箇所です。ただ、独自の感想を述べるほどの感慨を受けたわけではありません。つまり興味がないことには変わりません。
中西新太郎「自己責任時代の〈一途〉を映すケータイ小説」『世界12月号』より抜粋
・ケータイ小説のほとんどは10代後半のガール・ミーツ・ボーイの物語である。
・人物であれトピックであれ、徹底してフラットに扱い、「いまここでの私でなければならない」という固有性を最小限にとどめる「描写」――小説の通念からかけ離れたこうした特徴ゆえに、ケータイ小説は多くの「読み手=共鳴者」を得る。「誰でもなくどこでもない物語」すなわち「誰かのどこかの物語」であるからこそ、読み手である少女たちは自己の生をそこに重ね合わせる。
・作者の体験と地続きで、ブログ日記の延長のようでもあるケータイ小説は、小説作品が持つリアリティとは別の意味で日常の「リアル」をよくつたえている。
・ケータイ文化の普及によって初めて「読む」世界に近づくことのできた少年少女たちが、ケータイ小説の正統な読者である。
・80年代ラブラブの恋愛物語とはっきり異なるのは、ケータイ小説が格差社会の低層部を生き抜く恋愛物語であるという点だ。
・陳腐な定型を踏んでいるかにみえるラブストーリーの背景には、社会科学上は貧困という無粋な用語で把握される大衆的生の困難と階層的分裂とが見え隠れしている。ケータイ小説の流行は、したがって、大衆的生の苦難への大規模な共鳴現象と言えよう。
・ケータイ小説を「読む」とは、この場合、読み手が自身のライフ・ストーリーを追うことと重なっている。誰もが自分にふさわしい(と感じられる)自分用の物語を持っており、ケータイ画面に映る物語は、これにそぐうか否かによって取捨選択される。対象である他者の物語への想像力を如何ほどか強いる感情移入とはちがって、読み手の少女たちは自分自身の物語を追い、その完結を夢見る。
私が「なるほどなぁ」と思ったのは、以下に抜粋したような箇所です。ただ、独自の感想を述べるほどの感慨を受けたわけではありません。つまり興味がないことには変わりません。
中西新太郎「自己責任時代の〈一途〉を映すケータイ小説」『世界12月号』より抜粋
・ケータイ小説のほとんどは10代後半のガール・ミーツ・ボーイの物語である。
・人物であれトピックであれ、徹底してフラットに扱い、「いまここでの私でなければならない」という固有性を最小限にとどめる「描写」――小説の通念からかけ離れたこうした特徴ゆえに、ケータイ小説は多くの「読み手=共鳴者」を得る。「誰でもなくどこでもない物語」すなわち「誰かのどこかの物語」であるからこそ、読み手である少女たちは自己の生をそこに重ね合わせる。
・作者の体験と地続きで、ブログ日記の延長のようでもあるケータイ小説は、小説作品が持つリアリティとは別の意味で日常の「リアル」をよくつたえている。
・ケータイ文化の普及によって初めて「読む」世界に近づくことのできた少年少女たちが、ケータイ小説の正統な読者である。
・80年代ラブラブの恋愛物語とはっきり異なるのは、ケータイ小説が格差社会の低層部を生き抜く恋愛物語であるという点だ。
・陳腐な定型を踏んでいるかにみえるラブストーリーの背景には、社会科学上は貧困という無粋な用語で把握される大衆的生の困難と階層的分裂とが見え隠れしている。ケータイ小説の流行は、したがって、大衆的生の苦難への大規模な共鳴現象と言えよう。
・ケータイ小説を「読む」とは、この場合、読み手が自身のライフ・ストーリーを追うことと重なっている。誰もが自分にふさわしい(と感じられる)自分用の物語を持っており、ケータイ画面に映る物語は、これにそぐうか否かによって取捨選択される。対象である他者の物語への想像力を如何ほどか強いる感情移入とはちがって、読み手の少女たちは自分自身の物語を追い、その完結を夢見る。
[ 12:36 ]
[ 番外編 ]
私は若貴バカ騒ぎの頃から相撲を見なくなってしまったので、今では相撲に何の興味もない。それゆえ、朝青龍がどーのこーのといった話題も本来なら全く何の興味もないことである。しかし、マスゴミがよってたかってこれほど朝青龍叩きを繰り広げるなら、へそ曲がりの私としてはどうしても一言言いたくなってくる。へそ曲がりの血が騒ぐとでもいうのだろうか(笑)
だいたい、休場届を出していながらモンゴルでサッカーをしたってことが、それほど大騒ぎするほど大問題なのだろうか。「あの選手は野球選手としては最高に上手いが、さぼってサッカーをしたから野球界を追放しよう」、などという馬鹿げた議論が起きるスポーツがほかにあるだろうか。そのこと自体が相撲界の後進性を表している。そんなみみっちいことよりも、相撲界に蔓延する八百長や、今なお続く封建的体質や、日本の青少年にとって全く魅力のない職業であることなどの方がはるかに大問題である。
横綱は心技体が必要? 笑わせちゃいけない。これまでどこにそんな横綱がいたのか? もしかしたら大昔にはいたかもしれないが、私が知る限り、過去30年間、そんな横綱は一人もいなかった。私が大好きだった千代の富士にしても暴力沙汰が絶えなかったし、八百長の噂も常につきまとっていた。現理事長の北の湖にしても人格者とはほど遠い人物だろう。
相撲は日本の国技? 笑わせちゃいけない。過去10年以上、強い力士のほとんどが外国人、または外国出身の力士ではないか。そもそも、入門を希望する日本の青少年がほとんどいないこと自体、相撲が日本の国技などではないことを何より雄弁に物語っているではないか。
デカイだけがとりえであるような力士ばかりの現在の相撲界にあって、朝青龍の強さ・上手さは際立っている。朝青龍が千代の富士以来の名横綱であると認める相撲ファンも多いだろう。これまで長い間、一人横綱でどれだけ相撲界を支えてきたことか。相撲界に対する貢献は計り知れないだろう。だからこそ、これまでたびたび問題行動があっても、相撲界は大目に見てきたのだ。それを、ようやくもう一人横綱ができた途端に、厄介払いしようとでも言うのか。朝青龍がガキ大将のような精神のまま横綱になったのには、指導力ゼロの親方にも責任がある。しかし、朝青龍は悪役ではあっても決して悪人ではない。むしろ“可愛い”といっても過言ではない(笑)。とにかく無類の強さとやんちゃ坊主の心を持った横綱がいた方が相撲ははるかに面白いだろう。ま、私は見ないからどーでもいいんだけどね(笑)
だいたい、休場届を出していながらモンゴルでサッカーをしたってことが、それほど大騒ぎするほど大問題なのだろうか。「あの選手は野球選手としては最高に上手いが、さぼってサッカーをしたから野球界を追放しよう」、などという馬鹿げた議論が起きるスポーツがほかにあるだろうか。そのこと自体が相撲界の後進性を表している。そんなみみっちいことよりも、相撲界に蔓延する八百長や、今なお続く封建的体質や、日本の青少年にとって全く魅力のない職業であることなどの方がはるかに大問題である。
横綱は心技体が必要? 笑わせちゃいけない。これまでどこにそんな横綱がいたのか? もしかしたら大昔にはいたかもしれないが、私が知る限り、過去30年間、そんな横綱は一人もいなかった。私が大好きだった千代の富士にしても暴力沙汰が絶えなかったし、八百長の噂も常につきまとっていた。現理事長の北の湖にしても人格者とはほど遠い人物だろう。
相撲は日本の国技? 笑わせちゃいけない。過去10年以上、強い力士のほとんどが外国人、または外国出身の力士ではないか。そもそも、入門を希望する日本の青少年がほとんどいないこと自体、相撲が日本の国技などではないことを何より雄弁に物語っているではないか。
デカイだけがとりえであるような力士ばかりの現在の相撲界にあって、朝青龍の強さ・上手さは際立っている。朝青龍が千代の富士以来の名横綱であると認める相撲ファンも多いだろう。これまで長い間、一人横綱でどれだけ相撲界を支えてきたことか。相撲界に対する貢献は計り知れないだろう。だからこそ、これまでたびたび問題行動があっても、相撲界は大目に見てきたのだ。それを、ようやくもう一人横綱ができた途端に、厄介払いしようとでも言うのか。朝青龍がガキ大将のような精神のまま横綱になったのには、指導力ゼロの親方にも責任がある。しかし、朝青龍は悪役ではあっても決して悪人ではない。むしろ“可愛い”といっても過言ではない(笑)。とにかく無類の強さとやんちゃ坊主の心を持った横綱がいた方が相撲ははるかに面白いだろう。ま、私は見ないからどーでもいいんだけどね(笑)
2007/11/30のBlog
[ 22:21 ]
[ 政治 ]
・ 国民を洗脳するにはマスコミから!
・ いったんマスコミを洗脳してしまえば、あとはマスコミが勝手に国民を洗脳してくれる。
・ マスコミを洗脳するためには、日本には「記者クラブ」という名の便利なマスコミ洗脳クラブがあるので、これを最大限利用すること。
・ イワン・パブロフは犬にエサを与えるときに毎回ベルを聞かせることで、しまいにはベルを聞かせただけで犬は涎を出すようになった。あの方法を応用すればよい。
・ つまり、しっぽを振る記者にだけおいしいエサ(情報)を与えるようにすれば、エサが欲しい記者は皆しっぽを振るようになる。しっぽを振らない記者はエサがもらえないので、次第に自社の内部で隅に追いやられるだろう。
・ エサにはもちろん麻薬を仕込んでおくことは言うまでもない。いつもエサをもらっている記者は次第にこちら(権力)の言いなりに記事を書くように洗脳される。
・ 「番記者」という名の番犬はとりわけ忠実な犬どもだ。いつもエサが欲しくてこちらの周囲にまとわりついているので、毎回同じエサに味付けだけ少し変えて与えてやれば、奴らは喜んで同じことを繰り返し書くだろう。
・ とにかく政治記者ほどチョロイものはない。奴らを篭絡するのは赤子の手をひねるより簡単である。
[ 19:07 ]
[ 政治 ]
「昭和天皇は平和主義者だった」
「9.11テロの首謀者はオサマ・ビンラディンだ」
「日米同盟(日米安保条約)は日本の平和と繁栄の要である」
「日米友好は日本の外交にとって最も重要だ(=日本はアメリカの言いなりにならなけ
れば生きていけない)」
「日米安保条約がなければ日本は直ちに侵略される」
「平和のための戦争は必要だ」
「対テロ戦争は国際社会が支持している」
「国際貢献のためには自衛隊を海外に派遣しなければならない」
「自衛隊の海外での活動は国際的に評価されている」
「テロとの戦いのためには、自由や人権が制約されても仕方がない」
「北朝鮮に圧力をかけ続ければ拉致問題は解決する」
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
[ 18:38 ]
[ 政治 ]
・同じことを何度も何度も何度も何度も繰り返せ。
・どれほど荒唐無稽で馬鹿げたことでも、人は何度も聞かされ続けると信じてしまうものだ。
・証拠や根拠は必要ない。「繰り返すこと」、ただそれだけで人を洗脳することができる。パブロフの犬と同じである。「嘘も百回言えば真実になる」(ゲッベルス)
(例)
「天皇は神の子孫であり、日本は神の国だ。だからどんなに危なくなっても最後には神風が吹いて日本は救われる」
「ドイツ民族は世界で最も優秀な民族であり、ユダヤ民族は劣等民族である」
「アメリカは自由と民主主義の国だ」
「自民党は自由と民主主義の政党だ」
「社会保障の財源を確保するためには消費税を増税するしかない」
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・