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2007/12/10のBlog
[ 23:59 ]
[ 本たち ]
今年もあとわずか…と言っても、今読みかけの本と、年内に読もうと思っている本の中にはかなり期待できる本もあるので、この間から書こうと思っていたものの、「もう少し…」と先延ばしにしていたのがこの記事である。しかし、先延ばしにしていると今年も終わってしまいそうだし、何よりもnadjaさんの、「☆よかったら、今年読んだベスト本、教えてください☆」という呼びかけを読んだので、「ワンワンワン♪」、じゃなくて、「ハイハイハ~イ♪」と言うわけで、私が今年読んだ中でのベスト本をご紹介します。
それは、渡辺清『砕かれた神』(岩波現代文庫)です。
この本から受けた衝撃は大きかった。
この本の元となった日記が書かれたのは今から62年前、すなわち1945年の9月から翌4月までである。これは、高等小学校を卒業したあと海軍に志願入隊し、戦艦武蔵の乗組員としてレイテ沖海戦など激戦の修羅場をくぐり抜けて奇跡的に生き残り、復員してきた著者が、敗戦直後の日本で見聞し考えたことを綴ったものである。
弱冠二十歳(前後)の若者が書いた日記の何が一体私をそれほど感動させたのか? それは一言で言うと、一人の若者の劇的な精神の革命の軌跡が鮮やかに描かれていたからである。しかもその精神の革命は、誰か外部の人間や組織の影響によって外発的にもたらされたものではない。著者が自ら内発的な苦闘の末に獲得したものである。
日本の公式イデオロギーは敗戦を境として、それ以前の「忠君愛国」「鬼畜米英」「聖戦完遂」「撃ちてしやまん」「出てこいミニッツ、マッカーサー」から、「民主主義万歳」「平和国家の建設」「マッカーサーさまさま」へと百八十度転換した。ところが本来ならその転換に伴ってなされなければならないはずの戦争責任の追及と反省、価値観の転換に伴う葛藤、といったものが見事なまでに欠落していたばかりか、戦争を主導した天皇・軍閥・財閥も、軍国主義を煽ったマスコミも、戦争に積極的に協力した在郷軍人会の役員や教師たちも、自ら責任をとろうとする者がほとんどいなかった。そして、「戦争に負けたんだから仕方がない」、「時勢が変わった」の一言で、自らの無責任な豹変ぶりを正当化した。丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ日本型ファシズムが崩壊した後に見られたものも、まさしく「無責任の体系」としか言いようのないものであり、小熊英二が「モラルの焦土」と呼んだ状況が現出していたのである。
戦争中は皇国史観と聖戦イデオロギーを素朴に信じ、天皇を崇拝していた著者は、この状況を目の当たりにして、激怒しつつも、戦争責任の所在を徹底的に考え抜くなかで、やがて天皇を盲信した自分自身の責任をも深く自覚するに至るのである。敗戦後、世の中が「時流」に合わせて事大主義的な豹変を遂げるなか、一人孤独に考え抜いた著者が掴み取ったもの、それは、もはやどんな権威も信用せず、自分の頭で徹底的に考えて「正しい」と判断したもの以外は信じない、という「個の原理」である。一見、あまりにもありふれていて、これまでにも散々言い古されてきた考え方ではあるが、それを真に実行できる人は驚くほど少ない。「個を掴む」というのは、口で言うほど簡単なことでは決してないのである。
最後に、私もnadjaさんとともにお願いします!
☆皆さんも、よかったら、今年読んだベスト本、教えてくださいね☆
★記事にしてTBして下さると、なおのこと嬉しいです♪★
(当初、「TB企画」にしようかとも思ったのですが、ブログ上の友達が少ないのでやめました^^)
* なお、『砕かれた神』の一部を私の引用ブログ「政治・哲学断章」に引用してありますので、よかったら覗いて見て下さい。
【追記】
本文中に書いた通り、ここで言う「今年のベスト本」とは、「私が今年読んだ中でのベスト本」という意味である。しかし、「今年出版された本の中でのベスト本」に絞ればどうなるだろうか、ということを考えてみた。
これまで読んだ中では、鈴木道彦『越境のとき』(集英社新書)がおそらく最有力候補だが、実は今読んでいる途中の、最上敏樹『国際立憲主義の時代』(岩波書店)はそれを越える可能性が高い。11月末に出版されたばかりの本で、やや専門的な10本の論文から成り立っている。9.11以後、国際社会における法の支配が根底的に打ち破られ、力の支配する自然状態へと急速に逆戻りしつつある状況へのアンチテーゼとして、いかにして法の支配を再構築するかという観点から編まれた論文集である。
[ 17:32 ]
[ メディア ]
♪洗脳は続く~よ~ ど~こまーでーも~♪
さぁ、皆さんもご一緒に!(笑)
朝日新聞は2カ月ほど前(?)から毎週月曜日に「希望社会の提言」という特集社説を掲載している。今日は休刊日なので、第7回目の連載社説は昨日掲載された。
私は第1回目の提言を読んで、「こりゃ駄目だ」と思ったので、それ以後の提言は読んでいなかった。しかし、昨日の社説は見出しを見て、洗脳キャンペーンが執拗に続いていることを改めて知った。
見出しにはこうある。
「消費増税なしに安心は買えぬ」
そして社説本文中にはこうある。
「将来を見通せば、増税による負担増は避けられない。」
「社会保障の基盤を固めて希望社会への道筋を描いていく」ための負担増は「やはり消費税を中心にせざるを得ない、と私たちは考える。」
「消費税は国民が広く負担する税金だ。国民みんなが互いの生活を支え合う社会保障の財源に適している。」
社会保障は何のためにあるのか?
それは憲法25条の保障する生存権を制度的に担保するためであり、個人の能力や努力とは無関係の、生まれや不運などによって生じる正義に反する不平等を部分的に是正し、社会的再分配を行うためである。
そして、消費税が社会的再分配に最も逆行する税金であることは、少し説明すれば子供でもすぐにわかることである。
ということは、朝日新聞社が主張していることを一言で要約すれば、こういうことである。
“社会的再分配を行うためには社会的再分配に最も逆行する税を増税せよ!”
あるいは、もっと簡単に言うとこうだ。
“格差を是正するために格差を拡大すべし”
これほど愚劣な主張があるだろうか!?
今日、日本が先進国ではトップクラスの格差社会となり、貧困大国となってしまった原因のひとつに、過去20年ほどの間に、所得税と法人税の最高税率を大幅に引き下げたことによって大金持ちを優遇し、その代わり低所得層にとって過酷な(それどころか子供や働くことができない人にまで租税負担を課す)消費税を導入し税率を引き上げたことにあることは明々白々である(【関連記事】)。現に朝日のこの社説自体が次のように指摘している。
「所得税はこの20年ほど最高税率が何度も引き下げられ、所得が多くなるにつれ負担が重くなる累進の度合いがなだらかになった。課税所得を小さくする控除も拡大・新設された結果、91年度に約27兆円あった所得税収が、06年度はほぼ半分の14.1兆円へ減っている。」
ところが、驚くべきことに、この指摘の直後、朝日社説は次のようなご託宣を述べたのである。
「かつて日本経団連は「消費税を毎年1%ずつ上げる」というシミュレーションを示した。 このように小刻みにして、例えば「2年に1%ずつ」とあらかじめ示せば、事業者が計画的に対応でき、経済への影響も抑えられるのではなかろうか。」
「いずれは消費税が10%台になることを覚悟するしかあるまい。」
朝日新聞はいつから財界の機関紙になったのか!?
消費税がそんなに素晴らしいものなら、いっそのこと所得税や法人税は廃止して、税率何十パーセントになるかわからないが、消費税一本の税方式を提唱してみてはどうなのか!!
そうすればもっと「財界のための希望社会の提言」としてすっきりするではないか!
【追記】
以前、「洗脳マニュアル」という記事に書いた文を再掲する。
・同じことを何度も何度も何度も何度も繰り返せ。
・どれほど荒唐無稽で馬鹿げたことでも、人は何度も聞かされ続けると信じてしまうものだ。
・証拠や根拠は必要ない。「繰り返すこと」、ただそれだけで人を洗脳することができる。
さぁ、皆さんもご一緒に!(笑)
朝日新聞は2カ月ほど前(?)から毎週月曜日に「希望社会の提言」という特集社説を掲載している。今日は休刊日なので、第7回目の連載社説は昨日掲載された。
私は第1回目の提言を読んで、「こりゃ駄目だ」と思ったので、それ以後の提言は読んでいなかった。しかし、昨日の社説は見出しを見て、洗脳キャンペーンが執拗に続いていることを改めて知った。
見出しにはこうある。
「消費増税なしに安心は買えぬ」
そして社説本文中にはこうある。
「将来を見通せば、増税による負担増は避けられない。」
「社会保障の基盤を固めて希望社会への道筋を描いていく」ための負担増は「やはり消費税を中心にせざるを得ない、と私たちは考える。」
「消費税は国民が広く負担する税金だ。国民みんなが互いの生活を支え合う社会保障の財源に適している。」
社会保障は何のためにあるのか?
それは憲法25条の保障する生存権を制度的に担保するためであり、個人の能力や努力とは無関係の、生まれや不運などによって生じる正義に反する不平等を部分的に是正し、社会的再分配を行うためである。
そして、消費税が社会的再分配に最も逆行する税金であることは、少し説明すれば子供でもすぐにわかることである。
ということは、朝日新聞社が主張していることを一言で要約すれば、こういうことである。
“社会的再分配を行うためには社会的再分配に最も逆行する税を増税せよ!”
あるいは、もっと簡単に言うとこうだ。
“格差を是正するために格差を拡大すべし”
これほど愚劣な主張があるだろうか!?
今日、日本が先進国ではトップクラスの格差社会となり、貧困大国となってしまった原因のひとつに、過去20年ほどの間に、所得税と法人税の最高税率を大幅に引き下げたことによって大金持ちを優遇し、その代わり低所得層にとって過酷な(それどころか子供や働くことができない人にまで租税負担を課す)消費税を導入し税率を引き上げたことにあることは明々白々である(【関連記事】)。現に朝日のこの社説自体が次のように指摘している。
「所得税はこの20年ほど最高税率が何度も引き下げられ、所得が多くなるにつれ負担が重くなる累進の度合いがなだらかになった。課税所得を小さくする控除も拡大・新設された結果、91年度に約27兆円あった所得税収が、06年度はほぼ半分の14.1兆円へ減っている。」
ところが、驚くべきことに、この指摘の直後、朝日社説は次のようなご託宣を述べたのである。
「かつて日本経団連は「消費税を毎年1%ずつ上げる」というシミュレーションを示した。 このように小刻みにして、例えば「2年に1%ずつ」とあらかじめ示せば、事業者が計画的に対応でき、経済への影響も抑えられるのではなかろうか。」
「いずれは消費税が10%台になることを覚悟するしかあるまい。」
朝日新聞はいつから財界の機関紙になったのか!?
消費税がそんなに素晴らしいものなら、いっそのこと所得税や法人税は廃止して、税率何十パーセントになるかわからないが、消費税一本の税方式を提唱してみてはどうなのか!!
そうすればもっと「財界のための希望社会の提言」としてすっきりするではないか!
【追記】
以前、「洗脳マニュアル」という記事に書いた文を再掲する。
・同じことを何度も何度も何度も何度も繰り返せ。
・どれほど荒唐無稽で馬鹿げたことでも、人は何度も聞かされ続けると信じてしまうものだ。
・証拠や根拠は必要ない。「繰り返すこと」、ただそれだけで人を洗脳することができる。
[ 12:05 ]
[ メモ ]
昨日の朝日新聞読書欄で気になった本をメモしておきます(あくまで個人的なメモです)。
<必ず買う本>
■ 本田靖春『我、拗ね者として生涯を閉ず(上・下)』講談社文庫
書評をそのまま引用する。
「3年前に71歳で亡くなったノンフィクション作家が、自分の歩みを振り返りつつ書き続けていた最後の連載。読売新聞社会部記者として地をはう取材にこだわり、権威におもねることを最大の屈辱として「由緒正しい貧乏人」を貫いた。感情をたたえながら感傷のない文章が、すがすがしい。」
かつてこの人の『私戦』を読んでどれだけ感動したか・・・。
<ちょっと気になる本>
■ 大西巨人『深淵(上・下)』光文社文庫
「……2度の記憶喪失を経験する主人公が、殺人事件の裁判、2人の女性との「愛縁機縁」を通して、「生の根源的問題」を必死に模索する姿が描かれる。」
■ 小池昌代『感光生活』ちくま文庫
「心のひだにすくいとられた心象風景が命の不思議を照射し、怖いような人間の悪意をえぐる。……」
■ 土田宏『ケネディ――「神話」と実像』中公新書
はっきり言ってケネディものには食傷気味なのだが、書評中、「真の暗殺犯を名指しする」という一言が気になったので、立ち読みしてみよう。ケネディ暗殺事件の真相については、すでにかなりの部分が明らかになっていると思うが、何か新たな発見でもあるのだろうか?
2007/12/07のBlog
[ 12:47 ]
[ メモ ]
対照的なニュースを2つ、ネットから全文引用する。
★死刑執行停止決議を採択 日米などは反対 国連総会委
2007年11月16日11時01分
http://www.asahi.com/international/update/1116/TKY200711160004.html
人権問題を扱う国連総会第3委員会は15日、死刑執行の停止(モラトリアム)を求める決議案を賛成99、反対52、棄権33で初採択した。死刑制度が存続している日本や米国、中国などは反対した。年内に総会本会議で正式に採択される見通しだ。総会決議に法的拘束力はないが、決議案を主導した欧州連合(EU)などは、執行の停止を実質的な死刑全廃への足がかりにする考えだ。
決議案は87カ国が共同提案。死刑制度の継続に「深刻な懸念」を示すとともに、制度存続国に(1)死刑制度廃止を視野に入れた執行の一時停止(2)死刑が適用される対象犯罪の漸進的削減(3)死刑の執行状況や死刑に直面する人の人権状況を事務総長に報告すること――などを要求。廃止国に対しても制度を再導入しないよう求めている。
同様の決議案はイタリアなどの主導で94年にも提出されたが、小差で否決された。99年には反対派の修正要求が通ったため、採決を断念した経緯がある。今回も、「刑事司法制度は国内管轄事項だ」とするシンガポールやエジプトなどが修正案を出して抵抗したが、原案通りで採択された。
EU議長国ポルトガルのサルゲイロ国連大使は採択後、「幅広い支持を得られたことは、死刑制度が人権問題であり、その執行停止が人権状況の改善につながるとの認識が共有できた表れだ」と歓迎した。
一方、日本の神余隆博次席大使は「日本では、国民の大半が最も悪質な犯罪には死刑を宣告すべきだと信じている。死刑制度の廃止に向かうことは難しい。死刑廃止に国際的な合意はない」と反対の理由を説明した。
====================
★死刑、初の氏名公表 法務省、3人執行と発表
2007年12月07日12時09分
http://www.asahi.com/national/update/1207/TKY200712070128.html?ref=rss
法務省は7日、3人の死刑を執行した、と発表した。法相が執行命令書に署名しなくても執行が進む「死刑の自動化」を提案した鳩山法相の下での初めての執行となった。発表にあたり、同省は初めて、対象となった死刑囚の氏名と犯罪事実、執行場所を公表。「情報公開することで死刑制度に対する国民の理解を得られる」との狙いから、実施の事実だけを伝えて氏名などは一切公表しない従来の方針を転換した。
07年中の執行は、長勢法相時代の6人とあわせて計9人で、年間の執行者数としては77年以降で最多となる。刑事事件の厳罰化の流れのなかで、死刑確定者は増え続けており、この日の執行後の生存死刑囚は104人となった。
発表によると、執行の対象になったのは藤間静波死刑囚(47)と府川博樹死刑囚(42)、池本登死刑囚(74)の3人。藤間、府川両死刑囚は東京拘置所で、池本死刑囚は大阪拘置所でそれぞれ執行された。
発表された犯罪事実やそれぞれの確定判決などによると、藤間死刑囚は81~82年、横浜市で盗み仲間の男性(当時20)を刃物で刺殺したほか、神奈川県藤沢市の女性(同16)ら一家3人を刺殺。一緒に逃亡していた元店員の少年(同19)も兵庫県尼崎市で刺殺した。
府川死刑囚は99年、女性との交際費に困って東京都江戸川区の無職女性(同65)に借金を申し込んだが断られ、女性とその母親(同91)を刺殺した。
池本死刑囚は85年、隣人から自分の畑にごみを捨てられるなどの嫌がらせを受けたなどと思い込み、徳島県内の自宅にあった散弾銃で近所に住む3人を射殺し、1人に重傷を負わせた。
★死刑執行停止決議を採択 日米などは反対 国連総会委
2007年11月16日11時01分
http://www.asahi.com/international/update/1116/TKY200711160004.html
人権問題を扱う国連総会第3委員会は15日、死刑執行の停止(モラトリアム)を求める決議案を賛成99、反対52、棄権33で初採択した。死刑制度が存続している日本や米国、中国などは反対した。年内に総会本会議で正式に採択される見通しだ。総会決議に法的拘束力はないが、決議案を主導した欧州連合(EU)などは、執行の停止を実質的な死刑全廃への足がかりにする考えだ。
決議案は87カ国が共同提案。死刑制度の継続に「深刻な懸念」を示すとともに、制度存続国に(1)死刑制度廃止を視野に入れた執行の一時停止(2)死刑が適用される対象犯罪の漸進的削減(3)死刑の執行状況や死刑に直面する人の人権状況を事務総長に報告すること――などを要求。廃止国に対しても制度を再導入しないよう求めている。
同様の決議案はイタリアなどの主導で94年にも提出されたが、小差で否決された。99年には反対派の修正要求が通ったため、採決を断念した経緯がある。今回も、「刑事司法制度は国内管轄事項だ」とするシンガポールやエジプトなどが修正案を出して抵抗したが、原案通りで採択された。
EU議長国ポルトガルのサルゲイロ国連大使は採択後、「幅広い支持を得られたことは、死刑制度が人権問題であり、その執行停止が人権状況の改善につながるとの認識が共有できた表れだ」と歓迎した。
一方、日本の神余隆博次席大使は「日本では、国民の大半が最も悪質な犯罪には死刑を宣告すべきだと信じている。死刑制度の廃止に向かうことは難しい。死刑廃止に国際的な合意はない」と反対の理由を説明した。
====================
★死刑、初の氏名公表 法務省、3人執行と発表
2007年12月07日12時09分
http://www.asahi.com/national/update/1207/TKY200712070128.html?ref=rss
法務省は7日、3人の死刑を執行した、と発表した。法相が執行命令書に署名しなくても執行が進む「死刑の自動化」を提案した鳩山法相の下での初めての執行となった。発表にあたり、同省は初めて、対象となった死刑囚の氏名と犯罪事実、執行場所を公表。「情報公開することで死刑制度に対する国民の理解を得られる」との狙いから、実施の事実だけを伝えて氏名などは一切公表しない従来の方針を転換した。
07年中の執行は、長勢法相時代の6人とあわせて計9人で、年間の執行者数としては77年以降で最多となる。刑事事件の厳罰化の流れのなかで、死刑確定者は増え続けており、この日の執行後の生存死刑囚は104人となった。
発表によると、執行の対象になったのは藤間静波死刑囚(47)と府川博樹死刑囚(42)、池本登死刑囚(74)の3人。藤間、府川両死刑囚は東京拘置所で、池本死刑囚は大阪拘置所でそれぞれ執行された。
発表された犯罪事実やそれぞれの確定判決などによると、藤間死刑囚は81~82年、横浜市で盗み仲間の男性(当時20)を刃物で刺殺したほか、神奈川県藤沢市の女性(同16)ら一家3人を刺殺。一緒に逃亡していた元店員の少年(同19)も兵庫県尼崎市で刺殺した。
府川死刑囚は99年、女性との交際費に困って東京都江戸川区の無職女性(同65)に借金を申し込んだが断られ、女性とその母親(同91)を刺殺した。
池本死刑囚は85年、隣人から自分の畑にごみを捨てられるなどの嫌がらせを受けたなどと思い込み、徳島県内の自宅にあった散弾銃で近所に住む3人を射殺し、1人に重傷を負わせた。
2007/12/05のBlog
[ 18:08 ]
[nadjaさんの関連記事]
[鏡 響子さんの関連記事]
私の好きな20世紀の政治哲学者、アイザイア・バーリン(1909-97)に『ハリネズミと狐』という著作がある。そのなかでバーリンは、「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」という古代ギリシャの詩人の謎めいた詩句を手掛かりに、古今の思想家・作家・芸術家を狐型とハリネズミ型に分類するという作業を行っている(もっとも本書のテーマはトルストイの歴史哲学にあるので、分類自体はそのための予備作業にすぎないのだが…)。
バーリンによれば、ハリネズミ型の人間は、一切の事柄をただ一つの普遍的で体系的・統一的な原理やヴィジョンに関連させて理解し考え感じるような人であり、その思考法は求心的である。それに対して狐型の人間は、極めて多様な経験や対象をあるがままに捉え、しばしば無関係でときには互いに矛盾してさえいる多くの諸目的を追求する人であり、その思考法は遠心的である。哲学的な区分との関連で言えば、一元論者や合理主義者や理想主義者の思考態度が前者と関連があるのとすれば、多元論者や経験主義者、現実主義者の思考態度は後者との関連性が深いだろう。
バーリンによれば、プラトンやダンテ、ヘーゲル、ドストエフスキー、プルーストはハリネズミ型の思想家・作家であり、アリストテレス、モンテーニュ、ゲーテ、プーシキン、ジョイスは狐型の思想家・作家の例として挙げられている。そして、本書の主題であるトルストイその人は、個別のものに対する比類のない感覚を持った狐でありながら、ハリネズミでありたいと熱望した人物と評されている。
何年も昔に読んだこの著作のことを思い出したのは、私が尊敬する二人の読書の達人ブロガーであるnadjaさんと鏡 響子さんとの間で最近繰り広げられた読書論をめぐる興味深いやりとりを読んだせいである。きっかけはnadjaさんが書いた11月21日の記事「徒然に…」であり、それに対して鏡さんが12月2日に「読書家になれない理由」という記事を書いてTBした。すると再びnadjaさんは同日、「ヘッセの読書術」という記事を書いて鏡さんの記事にTBした。その内容をかいつまんで書くとこうである。
まず、nadjaさんが第1の記事において「ショーペンハウエルもヘッセも濫読はいけないと言っているが・・・私はかなり濫読してきたし、本依存症だという自覚もある」と書いたのに対し、鏡さんは、濫読はいけないというのは本当なのか、むしろ「多読濫読できる力こそ、読書人の真髄ではないか」という疑問から「読書家になれない理由」を書いた。そのなかで鏡さんは、本を読む人を、「広大な範囲の書物を渉猟する」タイプと「ある作家や思想家の作品を全部、繰り返し繰り返し読む」タイプの2つに分けたうえ、(鏡さんにとって)読書家というのは前者の多読濫読できるタイプを指すのであって、「後者の指数しか備わっていない」自分は読書家ではない、と結論づけている。
するとそれを読んだnadjaさんは、「え~~、それ、ちがうちがう~~」と叫びつつ(笑)、「ヘッセの読書術」においてヘルマン・ヘッセが述べている主張を援用しつつ、異論を述べている。ヘッセによると、真の読書家とは、「次から次へと好奇心に駆られてあらゆる時代と国々の文学作品の抜粋と断片を多量に飲み込んだ読者」ではなく、「三人か四人の一流の作家の作品を完全に、そしてくりかえし読んだ者」、「少数の本を徹底的に知っている」者のことであり、それゆえ、「カフカを徹底的に読み、愛する、鏡さんのような方が真の読書家である」と結論づけているのである。
つまり、鏡さんは(名指しこそしていないが、nadjaさんのような)多読濫読できる人こそ真の読書家であると主張したのに対し、自ら濫読タイプを自認するnadjaさんはカフカなど少数の本を徹底的に繰り返して読む鏡さんのような人こそ真の読書家であると応じたわけである。
勘のいい読者なら、私が何を言いたいのか、すでにおわかりだろう。読書家のタイプも一つとは限らないのである。鏡さんが真の読書家である、というnadjaさんの結論に私も異存はない。ただし、鏡さんのようなタイプの読書家だけが真の読書家だとは思わない。nadjaさんもまた真の読書家であることに疑問の余地はないと思う。つまり、バーリンの分類を援用すれば、鏡さんがハリネズミ型の読書家なのに対し、nadjaさんは狐型の読書家なのである。タイプが異なるだけで、お二人とも真の読書家であることに変わりはない。ついでに言えば(ついでで申し訳ありません)、私のもう一人の「本の師匠」であるwarmgunさんもまた巨大な狐族の読書家である。
両者は種類の違いであって、その間に「真」と「偽」というような関係がないのはもちろん、優劣関係もない。ただ、個人的な指向性が違うだけである。私はかつてある記事のコメントで、鏡さんを「絶対的価値の探求者」と評したことがある(ご本人も少なくとも全面否定はされなかった)が、そのような指向性からも鏡さんがハリネズミ型の読書家であることは疑いの余地がないと思う。
<注>
「濫読」という言葉を広辞苑で引くと、「何の方針も立てず、手当たり次第に書物などを読むこと」とあるように、この言葉には、それ自体としてマイナス評価が負荷されているように思うが、本文中で述べたのは(そしておそらく鏡さんやnadjaさんの用法も同じだと思うが)、必ずしも相互に内的関連性や一貫性を持たない多方面の本を読む、ということであって、文字通り無差別に本を読む、ということではない。つまり、読書の範囲が極めて多方面に広がっているということを意味するにすぎず、本(あるいは活字)であれば何でも手当たり次第に読むという(養老孟司のような)態度とは無関係である。
* この記事は次の2つの記事にTBさせて頂きました。
nadjaさん「ヘッセの読書術」
鏡 響子さん「読書家になれない理由」
[鏡 響子さんの関連記事]
私の好きな20世紀の政治哲学者、アイザイア・バーリン(1909-97)に『ハリネズミと狐』という著作がある。そのなかでバーリンは、「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」という古代ギリシャの詩人の謎めいた詩句を手掛かりに、古今の思想家・作家・芸術家を狐型とハリネズミ型に分類するという作業を行っている(もっとも本書のテーマはトルストイの歴史哲学にあるので、分類自体はそのための予備作業にすぎないのだが…)。
バーリンによれば、ハリネズミ型の人間は、一切の事柄をただ一つの普遍的で体系的・統一的な原理やヴィジョンに関連させて理解し考え感じるような人であり、その思考法は求心的である。それに対して狐型の人間は、極めて多様な経験や対象をあるがままに捉え、しばしば無関係でときには互いに矛盾してさえいる多くの諸目的を追求する人であり、その思考法は遠心的である。哲学的な区分との関連で言えば、一元論者や合理主義者や理想主義者の思考態度が前者と関連があるのとすれば、多元論者や経験主義者、現実主義者の思考態度は後者との関連性が深いだろう。
バーリンによれば、プラトンやダンテ、ヘーゲル、ドストエフスキー、プルーストはハリネズミ型の思想家・作家であり、アリストテレス、モンテーニュ、ゲーテ、プーシキン、ジョイスは狐型の思想家・作家の例として挙げられている。そして、本書の主題であるトルストイその人は、個別のものに対する比類のない感覚を持った狐でありながら、ハリネズミでありたいと熱望した人物と評されている。
何年も昔に読んだこの著作のことを思い出したのは、私が尊敬する二人の読書の達人ブロガーであるnadjaさんと鏡 響子さんとの間で最近繰り広げられた読書論をめぐる興味深いやりとりを読んだせいである。きっかけはnadjaさんが書いた11月21日の記事「徒然に…」であり、それに対して鏡さんが12月2日に「読書家になれない理由」という記事を書いてTBした。すると再びnadjaさんは同日、「ヘッセの読書術」という記事を書いて鏡さんの記事にTBした。その内容をかいつまんで書くとこうである。
まず、nadjaさんが第1の記事において「ショーペンハウエルもヘッセも濫読はいけないと言っているが・・・私はかなり濫読してきたし、本依存症だという自覚もある」と書いたのに対し、鏡さんは、濫読はいけないというのは本当なのか、むしろ「多読濫読できる力こそ、読書人の真髄ではないか」という疑問から「読書家になれない理由」を書いた。そのなかで鏡さんは、本を読む人を、「広大な範囲の書物を渉猟する」タイプと「ある作家や思想家の作品を全部、繰り返し繰り返し読む」タイプの2つに分けたうえ、(鏡さんにとって)読書家というのは前者の多読濫読できるタイプを指すのであって、「後者の指数しか備わっていない」自分は読書家ではない、と結論づけている。
するとそれを読んだnadjaさんは、「え~~、それ、ちがうちがう~~」と叫びつつ(笑)、「ヘッセの読書術」においてヘルマン・ヘッセが述べている主張を援用しつつ、異論を述べている。ヘッセによると、真の読書家とは、「次から次へと好奇心に駆られてあらゆる時代と国々の文学作品の抜粋と断片を多量に飲み込んだ読者」ではなく、「三人か四人の一流の作家の作品を完全に、そしてくりかえし読んだ者」、「少数の本を徹底的に知っている」者のことであり、それゆえ、「カフカを徹底的に読み、愛する、鏡さんのような方が真の読書家である」と結論づけているのである。
つまり、鏡さんは(名指しこそしていないが、nadjaさんのような)多読濫読できる人こそ真の読書家であると主張したのに対し、自ら濫読タイプを自認するnadjaさんはカフカなど少数の本を徹底的に繰り返して読む鏡さんのような人こそ真の読書家であると応じたわけである。
勘のいい読者なら、私が何を言いたいのか、すでにおわかりだろう。読書家のタイプも一つとは限らないのである。鏡さんが真の読書家である、というnadjaさんの結論に私も異存はない。ただし、鏡さんのようなタイプの読書家だけが真の読書家だとは思わない。nadjaさんもまた真の読書家であることに疑問の余地はないと思う。つまり、バーリンの分類を援用すれば、鏡さんがハリネズミ型の読書家なのに対し、nadjaさんは狐型の読書家なのである。タイプが異なるだけで、お二人とも真の読書家であることに変わりはない。ついでに言えば(ついでで申し訳ありません)、私のもう一人の「本の師匠」であるwarmgunさんもまた巨大な狐族の読書家である。
両者は種類の違いであって、その間に「真」と「偽」というような関係がないのはもちろん、優劣関係もない。ただ、個人的な指向性が違うだけである。私はかつてある記事のコメントで、鏡さんを「絶対的価値の探求者」と評したことがある(ご本人も少なくとも全面否定はされなかった)が、そのような指向性からも鏡さんがハリネズミ型の読書家であることは疑いの余地がないと思う。
<注>
「濫読」という言葉を広辞苑で引くと、「何の方針も立てず、手当たり次第に書物などを読むこと」とあるように、この言葉には、それ自体としてマイナス評価が負荷されているように思うが、本文中で述べたのは(そしておそらく鏡さんやnadjaさんの用法も同じだと思うが)、必ずしも相互に内的関連性や一貫性を持たない多方面の本を読む、ということであって、文字通り無差別に本を読む、ということではない。つまり、読書の範囲が極めて多方面に広がっているということを意味するにすぎず、本(あるいは活字)であれば何でも手当たり次第に読むという(養老孟司のような)態度とは無関係である。
* この記事は次の2つの記事にTBさせて頂きました。
nadjaさん「ヘッセの読書術」
鏡 響子さん「読書家になれない理由」
[ 12:09 ]
[ 本たち ]
昨日、アーサー・ビナードの『左右の安全』(集英社)を買った。
先日、新聞の読書欄で見て、買おうと決めていたのだ。
22歳で来日して以来、日本語で詩やエッセイを書くアメリカ人の著者の文章を
朝日新聞のコラムで初めて読んだときから、私はファンになってしまった。
その人の詩集である。
日本語の面白さをアメリカ人に教わる面白さ――。
例えばその中の「日常」という詩はこんな詩だ。
月は
地球のまわりを回り出して久しく、
その軌道が
すっかり身についている
方向を間違えることなく、
速度、角度、微妙なカーブもみな
こなれたものだ。
たまに、でも、月は道に
迷ってみたいと思う。
ここはどこ?
というスリルを味わいたい。
せめて
三日月の翌晩に
うっかり満月姿で現れるとか、
自転を少し速めてしまうとか…‥
そんな思いが
だんだんと溜まり、
日常に押しつぶされそうになると
日食か
月食が
やってくる。
この道でよかったと。
~アーサー・ビナード「日常」『左右の安全』より~
先日、新聞の読書欄で見て、買おうと決めていたのだ。
22歳で来日して以来、日本語で詩やエッセイを書くアメリカ人の著者の文章を
朝日新聞のコラムで初めて読んだときから、私はファンになってしまった。
その人の詩集である。
日本語の面白さをアメリカ人に教わる面白さ――。
例えばその中の「日常」という詩はこんな詩だ。
月は
地球のまわりを回り出して久しく、
その軌道が
すっかり身についている
方向を間違えることなく、
速度、角度、微妙なカーブもみな
こなれたものだ。
たまに、でも、月は道に
迷ってみたいと思う。
ここはどこ?
というスリルを味わいたい。
せめて
三日月の翌晩に
うっかり満月姿で現れるとか、
自転を少し速めてしまうとか…‥
そんな思いが
だんだんと溜まり、
日常に押しつぶされそうになると
日食か
月食が
やってくる。
この道でよかったと。
~アーサー・ビナード「日常」『左右の安全』より~
[ 06:45 ]
[ 言葉 ]
我々は運命を生きるしかない。
――O.K.
我々は運命と意志、必然と自由の狭間で生きるしかない。
――nomsky
[ 06:38 ]
[ 言葉 ]
木の葉は根よりもわれわれを喜ばせる。
――トルストイ
2007/12/03のBlog
[ 18:02 ]
[ 本たち ]
日本全国すべての駅から、鉄道(JR、私鉄、第三セクターすべて含む)や飛行機を使ってその日のうちに東京駅まで辿り着こうとすると、最も早く出発しなければならない駅はどこ(何県)になるのか。こういう疑問を抱いただけでなく、実際にそれを調べて、鉄道のない沖縄を除く46都道府県のランキングを作ってしまった人がいる。本書の著者、原武史氏である。
著者は自他共に認める鉄道マニアであるが、本業は明治学院大学教授で日本政治思想史というお堅い学問の研究者である。つまり、学者が趣味を生かして書いた余技の本、というわけだが、著者によれば、「鉄道は単なる趣味」ではなく、「私の著作の一部は、鉄道に対するこだわりがなければ、到底生まれなかった」と断言しているので、趣味と仕事を兼ね備えてもいるのだろう。本書の元になったのは、講談社のPR誌『本』に著者が1996年から2003年にかけて連載した鉄道に関するエッセイ「鉄道ひとつばなし」であり、本書には76編のエッセイが収録されている。
そのタイトルの一部を紹介すると・・・
「時間意識から見た東北と九州」
「鉄道とジェンダー」
「成城から小田急に乗って――平塚らいてうと柳田國男」
「荷風と京成」
「占領期の鉄道」
「小田急に戸惑う」
「戦争と鉄道」
「横須賀線は死んだ」
「大井川鉄道井川線に乗る」
「浦和の謎」
「名古屋に朝五時に着く方法」
「仙台→京都殺人ルート」
「駅そばと私」
「痴漢発生の条件」
「富士山の見える区間」
「いまも残る路面電車」
「ソウル地下鉄事情」
・・・・
といった具合だ。
どうです? 読んでみたくなりませんか?
私は鉄道マニア(そのほとんどが男性だという)の心理や趣味は全くわからない人間だが、そのような私が読んでも本書は文句なく面白かった。短いエッセイを集めたものなので、ひとつひとつはごく短時間で読める。通勤電車やトイレ(?)や休憩時間の気分転換などに読むのに適した本である。私は本書が出た4年前に読んだのだが、先日新聞で原武史氏の名前を見て、本書のことを思い出した次第である。
あ、そうそう。冒頭の問題ですが、一位は何県だと思いましたか?
正解は岩手県で、JR山田線大志田駅から東京駅にその日のうちに到着するためには朝の6時56分(2003年2月現在)に出なければなりません。2位が北海道のJR石勝線楓駅(7時02分)、3位が石川県のと鉄道蛸島駅(13時18分)、…以下46位の東京都JR青梅線奥多摩駅(21時11分)までのランキングが一覧表にして掲載されています。
では、これから今年第1発目の忘年会に出かけます(笑)
2007/12/02のBlog
[ 17:40 ]
不破利晴さんのブログにうっかりコメントしたら、warmgunさんから大変な(?)注文をされてしまった。以下はwarmgunさんへの私信なので、他の人は気にしないで下さい。(それにしても我ながら律儀だなぁ…笑)
私が「なるほどなぁ」と思ったのは、以下に抜粋したような箇所です。ただ、独自の感想を述べるほどの感慨を受けたわけではありません。つまり興味がないことには変わりません。
中西新太郎「自己責任時代の〈一途〉を映すケータイ小説」『世界12月号』より抜粋
・ケータイ小説のほとんどは10代後半のガール・ミーツ・ボーイの物語である。
・人物であれトピックであれ、徹底してフラットに扱い、「いまここでの私でなければならない」という固有性を最小限にとどめる「描写」――小説の通念からかけ離れたこうした特徴ゆえに、ケータイ小説は多くの「読み手=共鳴者」を得る。「誰でもなくどこでもない物語」すなわち「誰かのどこかの物語」であるからこそ、読み手である少女たちは自己の生をそこに重ね合わせる。
・作者の体験と地続きで、ブログ日記の延長のようでもあるケータイ小説は、小説作品が持つリアリティとは別の意味で日常の「リアル」をよくつたえている。
・ケータイ文化の普及によって初めて「読む」世界に近づくことのできた少年少女たちが、ケータイ小説の正統な読者である。
・80年代ラブラブの恋愛物語とはっきり異なるのは、ケータイ小説が格差社会の低層部を生き抜く恋愛物語であるという点だ。
・陳腐な定型を踏んでいるかにみえるラブストーリーの背景には、社会科学上は貧困という無粋な用語で把握される大衆的生の困難と階層的分裂とが見え隠れしている。ケータイ小説の流行は、したがって、大衆的生の苦難への大規模な共鳴現象と言えよう。
・ケータイ小説を「読む」とは、この場合、読み手が自身のライフ・ストーリーを追うことと重なっている。誰もが自分にふさわしい(と感じられる)自分用の物語を持っており、ケータイ画面に映る物語は、これにそぐうか否かによって取捨選択される。対象である他者の物語への想像力を如何ほどか強いる感情移入とはちがって、読み手の少女たちは自分自身の物語を追い、その完結を夢見る。
私が「なるほどなぁ」と思ったのは、以下に抜粋したような箇所です。ただ、独自の感想を述べるほどの感慨を受けたわけではありません。つまり興味がないことには変わりません。
中西新太郎「自己責任時代の〈一途〉を映すケータイ小説」『世界12月号』より抜粋
・ケータイ小説のほとんどは10代後半のガール・ミーツ・ボーイの物語である。
・人物であれトピックであれ、徹底してフラットに扱い、「いまここでの私でなければならない」という固有性を最小限にとどめる「描写」――小説の通念からかけ離れたこうした特徴ゆえに、ケータイ小説は多くの「読み手=共鳴者」を得る。「誰でもなくどこでもない物語」すなわち「誰かのどこかの物語」であるからこそ、読み手である少女たちは自己の生をそこに重ね合わせる。
・作者の体験と地続きで、ブログ日記の延長のようでもあるケータイ小説は、小説作品が持つリアリティとは別の意味で日常の「リアル」をよくつたえている。
・ケータイ文化の普及によって初めて「読む」世界に近づくことのできた少年少女たちが、ケータイ小説の正統な読者である。
・80年代ラブラブの恋愛物語とはっきり異なるのは、ケータイ小説が格差社会の低層部を生き抜く恋愛物語であるという点だ。
・陳腐な定型を踏んでいるかにみえるラブストーリーの背景には、社会科学上は貧困という無粋な用語で把握される大衆的生の困難と階層的分裂とが見え隠れしている。ケータイ小説の流行は、したがって、大衆的生の苦難への大規模な共鳴現象と言えよう。
・ケータイ小説を「読む」とは、この場合、読み手が自身のライフ・ストーリーを追うことと重なっている。誰もが自分にふさわしい(と感じられる)自分用の物語を持っており、ケータイ画面に映る物語は、これにそぐうか否かによって取捨選択される。対象である他者の物語への想像力を如何ほどか強いる感情移入とはちがって、読み手の少女たちは自分自身の物語を追い、その完結を夢見る。