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2007/12/19のBlog
[ 22:09 ]
[ ニュース ]
*死刑制度に関するニュースを2つ、アサヒ・コムから全文引用しておきます。
◆国連総会、死刑執行停止求め決議 大差で採択
2007年12月19日11時36分
http://www.asahi.com/international/update/1219/TKY200712190060.html?ref=goo
国連総会は18日、死刑執行の停止を求める決議案を賛成多数で採択した。日本を含む死刑制度の存続国に対し国際世論の多数派が「深刻な懸念」を示した形だ。決議に法的拘束力はないが、存続国には死刑制度の状況を国連に報告するよう求めており、制度の見直しへ向けた国際圧力が高まるのは確実だ。
国連加盟国192カ国のうち、欧州連合(EU)のほか、南米、アフリカ、アジア各地域の87カ国が決議の共同提案国になった。採決は、賛成104、反対54、棄権29。死刑制度を続けている日本、米国、中国、シンガポール、イランなどは反対した。
決議は、人権尊重の意義や、死刑が犯罪を抑止する確証がないこと、誤審の場合は取り返しがつかないことなどを指摘。存続国に対し、執行の現状や死刑囚の権利保護を国連事務総長に報告▽死刑を適用する罪名の段階的な削減▽死刑制度の廃止を視野にした執行停止――などを求めている。
採択後、潘基文(パン・ギムン)国連事務総長は「世界の多様な地域から支持されて心強い。死刑廃止へ向けた潮流の証しだ」と歓迎の声明を出した。
国連総会は71年と77年にも死刑に関する決議を採択した。当時は制度の乱用が問題視され、死刑の対象となる罪名の規制に力点を置き、廃止については「望ましい」との表現にとどまっていた。今回は廃止を視野に入れ、その前段階として存続国に執行の停止を求めたのが特徴だ。
死刑廃止の動きはEUの主導で広がっている。国連総会での死刑廃止要求決議案は90年代に2回提案されて採択に至らなかったが、今回は「予想を超える大差の賛成数」(EU代表)になった。
決議の内容を死刑の即時廃止ではなく、執行停止に緩めたことで中間派が賛成に回った事情もある。だが最大の主因は、廃止・停止に動く国々の急速な広がりだ。
国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」によると、77年当時、死刑を廃止した国は16だったが、現在は90。制度は残っていても執行を長期停止した韓国やロシアなどの停止国を加えると133カ国に達する(今年11月現在)。この10年間だけでも約30カ国が廃止・停止した。
一方、存続国は中国、イラン、サウジアラビア、米国など64カ国。そのうち昨年中に執行した国は25カ国。死刑制度を維持し、実際に執行も続ける国は日本を含め世界の少数派になった。
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◆孤立深める日本 「死刑停止」の国連決議で
2007年12月19日12時28分
http://www.asahi.com/national/update/1219/TKY200712190141.html?ref=goo
国連が18日、死刑の執行停止を求める総会決議を初めて採択した。「世論の高い支持」を理由に死刑制度を存続している日本は、今年は年間で77年以降最多となる9人の死刑を執行するなど、世界の潮流とは逆行。国際的な孤立を深めている。
「世論には死刑制度や死刑執行にかなりの支持がある。国連の決議があっても我が国の死刑制度を拘束するものでは、まったくない」。決議を前にした18日の閣議後の記者会見で、鳩山法相は語気を強めた。「死刑を存続するかしないかは内政の問題だ」という政府の立場を改めて強調するものだ。
凶悪犯罪に対して厳罰を求める声を背景に、このところ日本では死刑執行のペースが上がる傾向にある。鳩山法相は今月7日、3人の死刑を執行した。前任の長勢法相の執行人数も在任10カ月余の間に10人を数えた。鳩山法相の「死刑自動化」発言をきっかけに法務省内に執行のあり方を検討する勉強会ができたり、執行対象者の氏名を公表したりする動きはあるが、執行停止や制度廃止に至る論議は低調だ。
死刑廃止を訴えてきた団体は、国連決議をきっかけに停滞する状況を変化させたい考えだ。再審で無罪となった元死刑囚の免田栄さん(82)は10月に国連本部に赴き、討論会で「拘置所で別れの握手を交わした死刑囚は覚えているだけで56人。冤罪だという人も何人もいた」といったエピソードを通じて死刑廃止の必要性を訴えた。死刑廃止議員連盟も、03年以来凍結されている死刑停止法案を来年の通常国会に提出する考えを示している。
国連総会の決議に法的拘束力がないことについて、神奈川大法科大学院の阿部浩己教授(国際法)は「法的拘束力がないことだけで議論を進めれば、国際社会の営みは限りなく意味がなくなる」と指摘する。
日本は総会に「北朝鮮の人権状況を非難する決議」などを積極的に提案している。阿部教授は「自国に有利な決議は最大限利用し、不利なら『意味がない』では説得力がない。日本は決議に反対することによってどんな社会を実現したいのかを主体的に示すべきだ」と話す。
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【一言コメント】
死刑制度の是非は人権問題であり、人権問題は現代国際法上、単なる内政問題ではなく国際関心事項となっている以上、「死刑を存続するかしないかは内政の問題だ」という法務大臣の発言は、国際法の常識を無視するもので、問題である。
<12月21日追記>
19日の朝日新聞3面に団藤重光氏のインタビュー記事が大きく掲載されていた。この記事を見つけたときの最初の感想は、大変失礼ながら、「まだご存命だったのか!」という驚きだった。御歳94歳だそうだ。最高裁判事を務めたこともある団藤氏は著名な刑法学者で東京大学名誉教授であり、熱心な死刑廃止論者である。
団藤氏は大学教授時代から死刑制度については懐疑的だったそうだが、実際に最高裁判事として死刑判決(被告人の上告棄却)を言い渡して退廷する際に傍聴席にいた被告人の家族から「人殺しー」との叫びを聞いたのが、死刑廃止論者への大きな転機となったというのは有名な話である。
私も昔、団藤氏の『死刑廃止論』(有斐閣)を読んで感銘を受けた者だが、このインタビューを読んで思ったのは、その団藤氏にしても、死刑廃止論の根拠を説得的に伝えることがいかに難しいかということだ。もちろん、「インタビュー」という表現手段による限界もあると思うが、おそらく死刑存置論者がこのインタビューを読んで意見を変えるというようなことはほとんど期待できないだろう。
私自身も未だに私なりの死刑廃止論を書けずにいる。
◆国連総会、死刑執行停止求め決議 大差で採択
2007年12月19日11時36分
http://www.asahi.com/international/update/1219/TKY200712190060.html?ref=goo
国連総会は18日、死刑執行の停止を求める決議案を賛成多数で採択した。日本を含む死刑制度の存続国に対し国際世論の多数派が「深刻な懸念」を示した形だ。決議に法的拘束力はないが、存続国には死刑制度の状況を国連に報告するよう求めており、制度の見直しへ向けた国際圧力が高まるのは確実だ。
国連加盟国192カ国のうち、欧州連合(EU)のほか、南米、アフリカ、アジア各地域の87カ国が決議の共同提案国になった。採決は、賛成104、反対54、棄権29。死刑制度を続けている日本、米国、中国、シンガポール、イランなどは反対した。
決議は、人権尊重の意義や、死刑が犯罪を抑止する確証がないこと、誤審の場合は取り返しがつかないことなどを指摘。存続国に対し、執行の現状や死刑囚の権利保護を国連事務総長に報告▽死刑を適用する罪名の段階的な削減▽死刑制度の廃止を視野にした執行停止――などを求めている。
採択後、潘基文(パン・ギムン)国連事務総長は「世界の多様な地域から支持されて心強い。死刑廃止へ向けた潮流の証しだ」と歓迎の声明を出した。
国連総会は71年と77年にも死刑に関する決議を採択した。当時は制度の乱用が問題視され、死刑の対象となる罪名の規制に力点を置き、廃止については「望ましい」との表現にとどまっていた。今回は廃止を視野に入れ、その前段階として存続国に執行の停止を求めたのが特徴だ。
死刑廃止の動きはEUの主導で広がっている。国連総会での死刑廃止要求決議案は90年代に2回提案されて採択に至らなかったが、今回は「予想を超える大差の賛成数」(EU代表)になった。
決議の内容を死刑の即時廃止ではなく、執行停止に緩めたことで中間派が賛成に回った事情もある。だが最大の主因は、廃止・停止に動く国々の急速な広がりだ。
国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」によると、77年当時、死刑を廃止した国は16だったが、現在は90。制度は残っていても執行を長期停止した韓国やロシアなどの停止国を加えると133カ国に達する(今年11月現在)。この10年間だけでも約30カ国が廃止・停止した。
一方、存続国は中国、イラン、サウジアラビア、米国など64カ国。そのうち昨年中に執行した国は25カ国。死刑制度を維持し、実際に執行も続ける国は日本を含め世界の少数派になった。
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◆孤立深める日本 「死刑停止」の国連決議で
2007年12月19日12時28分
http://www.asahi.com/national/update/1219/TKY200712190141.html?ref=goo
国連が18日、死刑の執行停止を求める総会決議を初めて採択した。「世論の高い支持」を理由に死刑制度を存続している日本は、今年は年間で77年以降最多となる9人の死刑を執行するなど、世界の潮流とは逆行。国際的な孤立を深めている。
「世論には死刑制度や死刑執行にかなりの支持がある。国連の決議があっても我が国の死刑制度を拘束するものでは、まったくない」。決議を前にした18日の閣議後の記者会見で、鳩山法相は語気を強めた。「死刑を存続するかしないかは内政の問題だ」という政府の立場を改めて強調するものだ。
凶悪犯罪に対して厳罰を求める声を背景に、このところ日本では死刑執行のペースが上がる傾向にある。鳩山法相は今月7日、3人の死刑を執行した。前任の長勢法相の執行人数も在任10カ月余の間に10人を数えた。鳩山法相の「死刑自動化」発言をきっかけに法務省内に執行のあり方を検討する勉強会ができたり、執行対象者の氏名を公表したりする動きはあるが、執行停止や制度廃止に至る論議は低調だ。
死刑廃止を訴えてきた団体は、国連決議をきっかけに停滞する状況を変化させたい考えだ。再審で無罪となった元死刑囚の免田栄さん(82)は10月に国連本部に赴き、討論会で「拘置所で別れの握手を交わした死刑囚は覚えているだけで56人。冤罪だという人も何人もいた」といったエピソードを通じて死刑廃止の必要性を訴えた。死刑廃止議員連盟も、03年以来凍結されている死刑停止法案を来年の通常国会に提出する考えを示している。
国連総会の決議に法的拘束力がないことについて、神奈川大法科大学院の阿部浩己教授(国際法)は「法的拘束力がないことだけで議論を進めれば、国際社会の営みは限りなく意味がなくなる」と指摘する。
日本は総会に「北朝鮮の人権状況を非難する決議」などを積極的に提案している。阿部教授は「自国に有利な決議は最大限利用し、不利なら『意味がない』では説得力がない。日本は決議に反対することによってどんな社会を実現したいのかを主体的に示すべきだ」と話す。
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【一言コメント】
死刑制度の是非は人権問題であり、人権問題は現代国際法上、単なる内政問題ではなく国際関心事項となっている以上、「死刑を存続するかしないかは内政の問題だ」という法務大臣の発言は、国際法の常識を無視するもので、問題である。
<12月21日追記>
19日の朝日新聞3面に団藤重光氏のインタビュー記事が大きく掲載されていた。この記事を見つけたときの最初の感想は、大変失礼ながら、「まだご存命だったのか!」という驚きだった。御歳94歳だそうだ。最高裁判事を務めたこともある団藤氏は著名な刑法学者で東京大学名誉教授であり、熱心な死刑廃止論者である。
団藤氏は大学教授時代から死刑制度については懐疑的だったそうだが、実際に最高裁判事として死刑判決(被告人の上告棄却)を言い渡して退廷する際に傍聴席にいた被告人の家族から「人殺しー」との叫びを聞いたのが、死刑廃止論者への大きな転機となったというのは有名な話である。
私も昔、団藤氏の『死刑廃止論』(有斐閣)を読んで感銘を受けた者だが、このインタビューを読んで思ったのは、その団藤氏にしても、死刑廃止論の根拠を説得的に伝えることがいかに難しいかということだ。もちろん、「インタビュー」という表現手段による限界もあると思うが、おそらく死刑存置論者がこのインタビューを読んで意見を変えるというようなことはほとんど期待できないだろう。
私自身も未だに私なりの死刑廃止論を書けずにいる。
[ 22:07 ]
下の本の中に、茂木健一郎氏が06年11月に横浜国立大学で行った講演が収録されている。その中で茂木氏は次のような話を紹介している。
茂木氏が博士課程3年に在籍していた年の1月、先輩の助手から次のようなアドバイスを受けたという。
「茂木君、履歴書に1日でも空白ができるとヤバイから、いまから研究生になる手続きをしておいたほうがいいよ」と。
このアドバイスを聞いたとき、茂木氏はありがたく思うと同時に、社会に対して、すごく重苦しく、いやーな気持ちを抱いたという。つまり、日本の社会では、いったん履歴書に空白ができてしまうと、「まともな人間」とは見なされず、二度と社会の主流に戻れないことを、このとき実感したのである。
現在、人事コンサルタント業を営む城繁幸氏は、大学を卒業して入社した富士通の人事部で最初にやった仕事が、新卒応募者のなかに紛れ込んでくる既卒者の履歴書をチェックして取り除くことだったという。取り除かれた履歴書は、オフィスの隅の箱に入れられたまま、二度と人目に触れることはなかったという。城氏が『若者はなぜ3年で辞めるのか?』(光文社新書)の中でインタビューしている28歳の近藤氏は東大法学部在学中に司法試験を目指して2年留年したものの、結局司法試験に受からなかったために、大学卒業後に就職活動を始めたが、何十社エントリーしても全く呼び出しがかからず、ようやく自分が既卒という時点で門前払いされていることに気づいたという。そのため、進学塾講師のバイトをしながら月収15万円ほどで生活しているという。こういうケースは決してまれではない。というより、ほとんどすべての日本の大企業は既卒者を相手にしないのである。本人の能力などは全く意味を持たないのである。したがって、日本ではいったん主流社会のレールを降りてしまった人間は、よほどのことがない限り、二度と主流社会へは復帰できないのである。
ところが、その後、学会などで頻繁に外国に行くようになった茂木氏は、日本の常識が世界の非常識で、履歴書に1日穴があくと真人間じゃなくなっちゃう、なんてことを考えているのは、日本以外には世界のどこにもないことに気づいたという。それはそうだろう。履歴書に空白がある人間など相手にしない、という社会は、根本的に倒錯した社会に違いない。しかし、日本でも終身雇用制が崩れた今、大学を出れば一生その遺産で食べていけるという時代ではもはやない。組織と個人の関係をもう一度根底から再考しなければならない時代に来ていることは間違いない。
[ 17:29 ]
[ 本たち ]
先日本屋に行ったとき、梅田望夫と茂木健一郎の対談本、『フューチャリスト宣言』(ちくま新書)を偶然見つけ、目次を見たら面白そうだったので、買ってみた。梅田望夫は、その著書『ウェブ進化論』がマスコミでもかなり話題になっていたので、名前はもちろん知っていたが、読んだことはなかった。茂木健一郎の著書は一冊だけ読んだことがあったが、若いときに書いた本だったせいか、正直に言うと、それほど感銘は受けなかった。だから、あまり期待せずに読み始めたのだが、読んでみると、二人ともポジティブ思考の持ち主であるせいか、不思議な明るさと開放感に満ちた本であり、啓発されることも多かった。
例えば、毎日のように見聞するネット犯罪を想起するまでもなく、インターネットに関するマイナス要素を列挙するのは容易である。しかし茂木や梅田は、インターネットにはこういうマイナス面もあるが、こういうプラス面もある、などと評論家や朝日新聞のような言い方はせず、100%ネットの側に賭ける、と言い切る潔さがある。確かに、インターネットの普及によって、今我々の目の前には、10年前には想像もできなかったような無限の可能性が開かれている。かつては一部の専門家しかアクセスできなかったような世界の最先端の知識に、今や誰でも(少しの努力とある程度の語学力さえあれば)自宅や職場から、多くは無料でアクセスできるようになっている。これまでの「知の特権階級」の特権を掘り崩し、知識を民衆の共有財産にするという「知の民主化」のための強大なポテンシャルを秘めたメディアがインターネットなのである。「インターネットは、かつてない自由な可能性を秘めた学びの場でもある」と茂木は語っているが、そのとおりだと思う。
ブログのように誰でも自分の媒体を持ち、自分の意見を世の中に発信できるようになったことも、革命的な変化であるし、ネットがなければ絶対にありえなかったような出会いや情報交換の可能性も生み出している。
もちろん、このようにインターネットの楽天的な側面を語る二人に対しては、「バカではないか」といったネガティブな反応を示す人も多いらしい。しかし、茂木は、「梅田さんが常々言われているように、「未来に明るさを託す」ということは、単なる現状の認識に発することではなく、むしろそのような世界を創り出すという意志に基づく行為である」と語り、「楽天的であるということは一つの意志である」とも述べている。
また、もちろん例外はいくらでもあるが、一般に「リアルで満足度が高い人ほどネットへの関心が低く、リアルで満足度が低い人ほどネットへの関心が高い」という梅田の指摘も面白い。もちろんそこには、エスタブリッシュメント社会の「勝ち組」は仕事に追いまくられてとてつもなく忙しいという理由もあるが、そればかりでなく、ネットの持つ自由や無規律性、無差別性と偶有性といった特質とも大いに関係しているように思われる。その意味で、「ウェブ社会の到来はアンダードッグ(負け犬)たちのチャンス」であり、アンダードッグの義憤や怒りを創造性に結びつけると、非常にいいものができるという茂木の指摘も説得力がある。
久しぶりに明るい本を読んだ。(同時に暗い本も読んでいるが…苦笑)。
「未来は予想するものではなくて創造するものである」という、本書の提示する視点は極めて重要だと思う。
2007/12/11のBlog
[ 17:05 ]
[ 本たち ]
[関連した鏡 響子さんのBlog]
先日書いた「今年のベスト本」という記事に対して、鏡 響子さんもまた「今年のベスト本」という記事を書いてTBして下さった。そのなかで鏡さんは、鈴木道彦『越境の時』(集英社新書)を今年のベスト本に挙げておられた。実は、私にとってもこの本は渡辺清『砕かれた神』と甲乙つけがたいほど貴重な本であった。しかし、断片的には何度か読んだが、通読したのは一度だけで、思想的に極めて深い内容を持つこの本を私は十分理解するに至っていない。じっくり再読したいが、その時間もないので、極めて表面的な理解にとどまるもの、現時点での私の感想を書き記しておくことは一種の義務であると考え、拙い感想を認めることにする。
サルトルやプルーストなどのフランス文学研究者であり『失われた時を求めて』の個人全訳の翻訳者としても名高い著者が、しかし、本書で取り扱っているのは、1958年に起きた小松川事件とその10年後に起きた寸又峡事件という在日朝鮮人が被告となった2つの事件と著者との関わりである。前者は李珍宇(イ・ジヌ)という18歳の少年が2人の女性を殺害した事件であり、後者は金嬉老(キム・ヒロ)が2人の暴力団員を射殺した後、寸又峡の温泉宿に人質を取って篭城し、朝鮮人差別の問題を訴えた事件である。それぞれの事件(*)、及びそれらと著者との関わりの詳細については割愛するが、これら2つの事件の考察を通じて、著者が提起している問題は大きく分けて2つのテーマに分かれると思う。ひとつは、状況(運命)と自由(意思)の問題であり、もうひとつは「越境」というテーマである。前者の問題に付随して、主体性と責任、といったテーマも浮かび上がってくるだろう。以下、それぞれのテーマについて、簡単に考察する。
1.状況(運命)と自由(意思)
人間の行動というものは、あらゆる状況や境遇とは無関係に個人の意思だけで全く自由に選択しうる、ということはありえない。むしろ、個人の意思とは無関係な境遇・環境に投げ込まれた人間が、運命としか言いようのないような状況に引きずられるかのようにしてある行動へと駆り立てられる場合がある。これは犯罪についても同様で、ある犯罪の背景を仔細に調べてゆくと、犯罪者が犯行へと至る過程にはある種の必然性のようなものが立ち現れてくる場合がある。そうなると、複雑な諸状況の複合体へと巻き込まれた人間をある行為へと追いやる必然性と、その状況下の人間が持ちうる意思と行為の自由の可能性や責任、といった問題が問われざるを得ない。そればかりでなく、その大状況を作り出した社会とそれを構成する人間の責任まで問わなければ問題は完結しないだろう。
金嬉老の起こした事件はその背景を仔細に調べるならば、第三者にもその行動の理由(つまりなぜ暴力団を射殺するところにまで追い込まれたかという理由)は理解しやすい。一方、李珍宇の事件は理解するのが困難で、おそらく本人にもよくわからなかったであろうし、これと名指ししうるような明確な原因を特定することは誰にもできないだろう。しかし、どちらの事件も、日本社会における朝鮮人差別(そしてその背景としての植民地支配という歴史)という状況を抜きに語ることは絶対にできない。しかし他方で、差別が彼らを犯行へと駆り立てた、などといった単純素朴な見方で事件を語ることも間違いである。李珍宇自身が朴壽南(パク・スナム)との往復書簡(『罪と死と愛と』)の中で語っている言葉を使えば、「境遇はいかにして私に罪を犯させたか」という視点と「私は境遇においていかにつとめたか」という視点の双方が必要であるが、日本人がこれらの事件を考える際には、そういう境遇を生み出した日本社会に対して我々はどのように関わっており、どのような責任を有しているのか、といった視点を持つことが不可欠となる。
これらの難しい問題を深く掘り下げるだけの能力と時間は今の私にはない。ただ、運命(必然)と自由という問題を考えるときに、私が拠り所とするのは、鏡さんも挙げておられた(そして私は鏡さんの推薦で読むことができたのだが)ヴィクトル・E・フランクルの『夜と霧』である。人間の意思の力を楽観視することはできないが、それでも本書は、どのような過酷な運命に巻き込まれても人間の自由(意思)の可能性がゼロになることはない、ということを教えてくれる。言い換えれば、どのような行為も責任がゼロになるということはない、ということだ。2つの事件に立ち戻って言えば、李珍宇は事件を起こした後ではあるが、行為の全責任を自ら引き受けることによって自己の主体性の奪還を図るという驚異的な努力を行い、日本社会をいささかも追及しないことによって、かえって日本社会を厳しく告発しているのだと鈴木は言う。逆に金嬉老は日本社会の差別を厳しく告発し続けることで、かえって自己の主体性の確立と責任の引き受けに失敗していることを鈴木は示唆している。しかしながら、日本人がこれらの事件を語る際には、単にそのように他人事として「客観的」に語ることは許されない、ということを鈴木は繰り返し強調している。そこから本書の第2のテーマである「越境」という問題が浮かび上がってくるのである。
2.「越境」について
一口に「越境」と言っても、越境すべき境界には様々な種類がある。その最小のものは自己と他者との間に引かれた境界線であるが、本書が主題的に取り扱うのは、日本人と在日朝鮮人、すなわち(集団規模で捉えた場合の)加害者と被害者との間の「越境」である。日本人と在日朝鮮人との間に境界を越えた対話は成り立つのだろうか。成り立たないと諦めてしまえば、その時点で相互理解の可能性は閉ざされることになる。しかし、文学者として、「共感がある限り、相手の実存にまで踏み込むことも可能」であると信じる著者は、最初は共感だけを手がかりに李珍宇の犯罪を理解することに努め、金嬉老の事件では裁判の対策委員会の活動に最初から最後まで関わる中で金嬉老との対話を続けたのである。こうした対話は決してスムーズに進むものではなく、誤解やすれ違いは避けられないが、こうした努力の中にしか相互理解の可能性は生まれないだろう。
それぞれの民族は他民族や他国を非難する前に、まず自民族や自国の偏狭なナショナリズムをこそ批判の対象にすべきである、というのが著者の基本的な立場である。さらに、他民族に対して支配や抑圧・差別を行ってきた加害民族に属する個人は、単に個人として抑圧や差別をしなかったというだけで、すべての責任を免れることはできない。そうした加害民族の作り上げてきた社会構造によって自らがいかに形成され、そうした構造にいかに加担しているかを考えなければならないだろう。また、加害者(集団に属する者)は被害者の告発に真摯に耳を傾けなければならないが、いかなる告発であれそのまま鵜呑みにするような態度も駄目だと著者は言う。なぜなら、「仮に告発の言葉がどんなに正当でも、すべての責任を他者に負わせる形でなされる告発は、必ず頽廃を招かずにはいない」うえ、「告発を受けた側がただ相手の言葉を無条件に認めるだけでは、そうした反省がかえって告発する者をいっそう巧妙に呪縛して、その主体をだめにする危険もはらんでいる」からである。
このような著者の主張は「ナショナリズムを乗り越える可能性」を示唆しているように思われる。そのことに思い至った私は、ようやく、最近読んだwarmgunさん推薦の徐京植『ディアスポラ紀行』(岩波新書)についても感想を書くことができ・・・るだろうか?
(*)これら2つの事件の詳細については、言うまでもなく本書『越境の時』に詳しいが、その他に以下のような書籍がある。
・ 朴壽南編『罪と死と愛と』三一新書
・ 本田靖春『私戦』講談社文庫
前者は私は未読なのだが(鏡さんは読まれている)、獄中の李珍宇と朴壽南との往復書簡をまとめたものであり、後者はジャーナリストの本田靖春が寸又峡事件の詳細な経緯と金嬉老の生い立ちを描いたノンフィクションである。因みにこの本は、私が選ぶノンフィクション部門のオールタイム・ベスト本である。
先日書いた「今年のベスト本」という記事に対して、鏡 響子さんもまた「今年のベスト本」という記事を書いてTBして下さった。そのなかで鏡さんは、鈴木道彦『越境の時』(集英社新書)を今年のベスト本に挙げておられた。実は、私にとってもこの本は渡辺清『砕かれた神』と甲乙つけがたいほど貴重な本であった。しかし、断片的には何度か読んだが、通読したのは一度だけで、思想的に極めて深い内容を持つこの本を私は十分理解するに至っていない。じっくり再読したいが、その時間もないので、極めて表面的な理解にとどまるもの、現時点での私の感想を書き記しておくことは一種の義務であると考え、拙い感想を認めることにする。
サルトルやプルーストなどのフランス文学研究者であり『失われた時を求めて』の個人全訳の翻訳者としても名高い著者が、しかし、本書で取り扱っているのは、1958年に起きた小松川事件とその10年後に起きた寸又峡事件という在日朝鮮人が被告となった2つの事件と著者との関わりである。前者は李珍宇(イ・ジヌ)という18歳の少年が2人の女性を殺害した事件であり、後者は金嬉老(キム・ヒロ)が2人の暴力団員を射殺した後、寸又峡の温泉宿に人質を取って篭城し、朝鮮人差別の問題を訴えた事件である。それぞれの事件(*)、及びそれらと著者との関わりの詳細については割愛するが、これら2つの事件の考察を通じて、著者が提起している問題は大きく分けて2つのテーマに分かれると思う。ひとつは、状況(運命)と自由(意思)の問題であり、もうひとつは「越境」というテーマである。前者の問題に付随して、主体性と責任、といったテーマも浮かび上がってくるだろう。以下、それぞれのテーマについて、簡単に考察する。
1.状況(運命)と自由(意思)
人間の行動というものは、あらゆる状況や境遇とは無関係に個人の意思だけで全く自由に選択しうる、ということはありえない。むしろ、個人の意思とは無関係な境遇・環境に投げ込まれた人間が、運命としか言いようのないような状況に引きずられるかのようにしてある行動へと駆り立てられる場合がある。これは犯罪についても同様で、ある犯罪の背景を仔細に調べてゆくと、犯罪者が犯行へと至る過程にはある種の必然性のようなものが立ち現れてくる場合がある。そうなると、複雑な諸状況の複合体へと巻き込まれた人間をある行為へと追いやる必然性と、その状況下の人間が持ちうる意思と行為の自由の可能性や責任、といった問題が問われざるを得ない。そればかりでなく、その大状況を作り出した社会とそれを構成する人間の責任まで問わなければ問題は完結しないだろう。
金嬉老の起こした事件はその背景を仔細に調べるならば、第三者にもその行動の理由(つまりなぜ暴力団を射殺するところにまで追い込まれたかという理由)は理解しやすい。一方、李珍宇の事件は理解するのが困難で、おそらく本人にもよくわからなかったであろうし、これと名指ししうるような明確な原因を特定することは誰にもできないだろう。しかし、どちらの事件も、日本社会における朝鮮人差別(そしてその背景としての植民地支配という歴史)という状況を抜きに語ることは絶対にできない。しかし他方で、差別が彼らを犯行へと駆り立てた、などといった単純素朴な見方で事件を語ることも間違いである。李珍宇自身が朴壽南(パク・スナム)との往復書簡(『罪と死と愛と』)の中で語っている言葉を使えば、「境遇はいかにして私に罪を犯させたか」という視点と「私は境遇においていかにつとめたか」という視点の双方が必要であるが、日本人がこれらの事件を考える際には、そういう境遇を生み出した日本社会に対して我々はどのように関わっており、どのような責任を有しているのか、といった視点を持つことが不可欠となる。
これらの難しい問題を深く掘り下げるだけの能力と時間は今の私にはない。ただ、運命(必然)と自由という問題を考えるときに、私が拠り所とするのは、鏡さんも挙げておられた(そして私は鏡さんの推薦で読むことができたのだが)ヴィクトル・E・フランクルの『夜と霧』である。人間の意思の力を楽観視することはできないが、それでも本書は、どのような過酷な運命に巻き込まれても人間の自由(意思)の可能性がゼロになることはない、ということを教えてくれる。言い換えれば、どのような行為も責任がゼロになるということはない、ということだ。2つの事件に立ち戻って言えば、李珍宇は事件を起こした後ではあるが、行為の全責任を自ら引き受けることによって自己の主体性の奪還を図るという驚異的な努力を行い、日本社会をいささかも追及しないことによって、かえって日本社会を厳しく告発しているのだと鈴木は言う。逆に金嬉老は日本社会の差別を厳しく告発し続けることで、かえって自己の主体性の確立と責任の引き受けに失敗していることを鈴木は示唆している。しかしながら、日本人がこれらの事件を語る際には、単にそのように他人事として「客観的」に語ることは許されない、ということを鈴木は繰り返し強調している。そこから本書の第2のテーマである「越境」という問題が浮かび上がってくるのである。
2.「越境」について
一口に「越境」と言っても、越境すべき境界には様々な種類がある。その最小のものは自己と他者との間に引かれた境界線であるが、本書が主題的に取り扱うのは、日本人と在日朝鮮人、すなわち(集団規模で捉えた場合の)加害者と被害者との間の「越境」である。日本人と在日朝鮮人との間に境界を越えた対話は成り立つのだろうか。成り立たないと諦めてしまえば、その時点で相互理解の可能性は閉ざされることになる。しかし、文学者として、「共感がある限り、相手の実存にまで踏み込むことも可能」であると信じる著者は、最初は共感だけを手がかりに李珍宇の犯罪を理解することに努め、金嬉老の事件では裁判の対策委員会の活動に最初から最後まで関わる中で金嬉老との対話を続けたのである。こうした対話は決してスムーズに進むものではなく、誤解やすれ違いは避けられないが、こうした努力の中にしか相互理解の可能性は生まれないだろう。
それぞれの民族は他民族や他国を非難する前に、まず自民族や自国の偏狭なナショナリズムをこそ批判の対象にすべきである、というのが著者の基本的な立場である。さらに、他民族に対して支配や抑圧・差別を行ってきた加害民族に属する個人は、単に個人として抑圧や差別をしなかったというだけで、すべての責任を免れることはできない。そうした加害民族の作り上げてきた社会構造によって自らがいかに形成され、そうした構造にいかに加担しているかを考えなければならないだろう。また、加害者(集団に属する者)は被害者の告発に真摯に耳を傾けなければならないが、いかなる告発であれそのまま鵜呑みにするような態度も駄目だと著者は言う。なぜなら、「仮に告発の言葉がどんなに正当でも、すべての責任を他者に負わせる形でなされる告発は、必ず頽廃を招かずにはいない」うえ、「告発を受けた側がただ相手の言葉を無条件に認めるだけでは、そうした反省がかえって告発する者をいっそう巧妙に呪縛して、その主体をだめにする危険もはらんでいる」からである。
このような著者の主張は「ナショナリズムを乗り越える可能性」を示唆しているように思われる。そのことに思い至った私は、ようやく、最近読んだwarmgunさん推薦の徐京植『ディアスポラ紀行』(岩波新書)についても感想を書くことができ・・・るだろうか?
(*)これら2つの事件の詳細については、言うまでもなく本書『越境の時』に詳しいが、その他に以下のような書籍がある。
・ 朴壽南編『罪と死と愛と』三一新書
・ 本田靖春『私戦』講談社文庫
前者は私は未読なのだが(鏡さんは読まれている)、獄中の李珍宇と朴壽南との往復書簡をまとめたものであり、後者はジャーナリストの本田靖春が寸又峡事件の詳細な経緯と金嬉老の生い立ちを描いたノンフィクションである。因みにこの本は、私が選ぶノンフィクション部門のオールタイム・ベスト本である。
[ 15:58 ]
[ 言葉 ]
引用:金時鐘「日本語のおびえ」『「在日」のはざまで』(平凡社)より
金嬉老がその独特な方法で、在日朝鮮人の不条理な生を寸又峡に曝したとき、つくねんと腕をこまねいていたわたしの密室の中の無念のテロリストは、それこそ何十年ぶりかで、もの憂い眼をしばたきかがやかせたものだった。金嬉老に対する負目は、何にもましてその得がたい破壊力を保持した爆薬と、鬱屈した感情を電撃的にぶちこめるライフル銃の威力とを併せ持った彼の猛々しさに凝固した。
金嬉老ならずともそのような極端な行為にかりたてられる衝動は、私自身の内部にも古くからうずいていたものであり、朝鮮人なら誰しもが持っているであろうところの、日本に対する感情そのものとしての共感であった。(……)
私はわだかまったままの叫びが、大音響とともに日本を揺るがして噴き上がるのを見た。何の意思表示も仕返しの方法も持っていない無力の私の不甲斐なさは、権勢をかざし差別をほしいままにしているような輩の、自分の投げつけた爆薬によってふっとぶ影像だけが、いつも私を平静ならしむるのだ。
その限りにおいて、「金嬉老」は私の無念さを具現したテロリストであり、私自身の骨肉的分身であった。しかしこれだけでは「金嬉老」をものしたという実感にはどうしても至らない。それはたかだか、私自身がそこに居ても不思議ではなかった犯罪者の座に彼が居るという、在日朝鮮人の心情的贖罪山羊(スケープゴート)に「金嬉老」を供することで終わりそうだ。(……)
抑圧、差別される側の朝鮮人が、その不当さを証し立てるために自らの共犯性を表だたせるとき、日本国家、社会の支配構造によってもたらされた朝鮮人の苦衷よりも、その結果結実した反社会性だけがきわだつという、極めて負性の論拠を在日朝鮮人自身の主動的論拠に据えている内実こそ、「金嬉老」をささえている同質の因果律であることに思いを致さねば、事件自体が抱えている「民族問題」は総体にくるまれてあることによって、一般的な、あまりにも一般的な民族受難史に拡散してしまうおそれは十分にあるのだ。
2007/12/10のBlog
[ 23:59 ]
[ 本たち ]
今年もあとわずか…と言っても、今読みかけの本と、年内に読もうと思っている本の中にはかなり期待できる本もあるので、この間から書こうと思っていたものの、「もう少し…」と先延ばしにしていたのがこの記事である。しかし、先延ばしにしていると今年も終わってしまいそうだし、何よりもnadjaさんの、「☆よかったら、今年読んだベスト本、教えてください☆」という呼びかけを読んだので、「ワンワンワン♪」、じゃなくて、「ハイハイハ~イ♪」と言うわけで、私が今年読んだ中でのベスト本をご紹介します。
それは、渡辺清『砕かれた神』(岩波現代文庫)です。
この本から受けた衝撃は大きかった。
この本の元となった日記が書かれたのは今から62年前、すなわち1945年の9月から翌4月までである。これは、高等小学校を卒業したあと海軍に志願入隊し、戦艦武蔵の乗組員としてレイテ沖海戦など激戦の修羅場をくぐり抜けて奇跡的に生き残り、復員してきた著者が、敗戦直後の日本で見聞し考えたことを綴ったものである。
弱冠二十歳(前後)の若者が書いた日記の何が一体私をそれほど感動させたのか? それは一言で言うと、一人の若者の劇的な精神の革命の軌跡が鮮やかに描かれていたからである。しかもその精神の革命は、誰か外部の人間や組織の影響によって外発的にもたらされたものではない。著者が自ら内発的な苦闘の末に獲得したものである。
日本の公式イデオロギーは敗戦を境として、それ以前の「忠君愛国」「鬼畜米英」「聖戦完遂」「撃ちてしやまん」「出てこいミニッツ、マッカーサー」から、「民主主義万歳」「平和国家の建設」「マッカーサーさまさま」へと百八十度転換した。ところが本来ならその転換に伴ってなされなければならないはずの戦争責任の追及と反省、価値観の転換に伴う葛藤、といったものが見事なまでに欠落していたばかりか、戦争を主導した天皇・軍閥・財閥も、軍国主義を煽ったマスコミも、戦争に積極的に協力した在郷軍人会の役員や教師たちも、自ら責任をとろうとする者がほとんどいなかった。そして、「戦争に負けたんだから仕方がない」、「時勢が変わった」の一言で、自らの無責任な豹変ぶりを正当化した。丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ日本型ファシズムが崩壊した後に見られたものも、まさしく「無責任の体系」としか言いようのないものであり、小熊英二が「モラルの焦土」と呼んだ状況が現出していたのである。
戦争中は皇国史観と聖戦イデオロギーを素朴に信じ、天皇を崇拝していた著者は、この状況を目の当たりにして、激怒しつつも、戦争責任の所在を徹底的に考え抜くなかで、やがて天皇を盲信した自分自身の責任をも深く自覚するに至るのである。敗戦後、世の中が「時流」に合わせて事大主義的な豹変を遂げるなか、一人孤独に考え抜いた著者が掴み取ったもの、それは、もはやどんな権威も信用せず、自分の頭で徹底的に考えて「正しい」と判断したもの以外は信じない、という「個の原理」である。一見、あまりにもありふれていて、これまでにも散々言い古されてきた考え方ではあるが、それを真に実行できる人は驚くほど少ない。「個を掴む」というのは、口で言うほど簡単なことでは決してないのである。
最後に、私もnadjaさんとともにお願いします!
☆皆さんも、よかったら、今年読んだベスト本、教えてくださいね☆
★記事にしてTBして下さると、なおのこと嬉しいです♪★
(当初、「TB企画」にしようかとも思ったのですが、ブログ上の友達が少ないのでやめました^^)
* なお、『砕かれた神』の一部を私の引用ブログ「政治・哲学断章」に引用してありますので、よかったら覗いて見て下さい。
【追記】
本文中に書いた通り、ここで言う「今年のベスト本」とは、「私が今年読んだ中でのベスト本」という意味である。しかし、「今年出版された本の中でのベスト本」に絞ればどうなるだろうか、ということを考えてみた。
これまで読んだ中では、鈴木道彦『越境のとき』(集英社新書)がおそらく最有力候補だが、実は今読んでいる途中の、最上敏樹『国際立憲主義の時代』(岩波書店)はそれを越える可能性が高い。11月末に出版されたばかりの本で、やや専門的な10本の論文から成り立っている。9.11以後、国際社会における法の支配が根底的に打ち破られ、力の支配する自然状態へと急速に逆戻りしつつある状況へのアンチテーゼとして、いかにして法の支配を再構築するかという観点から編まれた論文集である。
[ 17:32 ]
[ メディア ]
♪洗脳は続く~よ~ ど~こまーでーも~♪
さぁ、皆さんもご一緒に!(笑)
朝日新聞は2カ月ほど前(?)から毎週月曜日に「希望社会の提言」という特集社説を掲載している。今日は休刊日なので、第7回目の連載社説は昨日掲載された。
私は第1回目の提言を読んで、「こりゃ駄目だ」と思ったので、それ以後の提言は読んでいなかった。しかし、昨日の社説は見出しを見て、洗脳キャンペーンが執拗に続いていることを改めて知った。
見出しにはこうある。
「消費増税なしに安心は買えぬ」
そして社説本文中にはこうある。
「将来を見通せば、増税による負担増は避けられない。」
「社会保障の基盤を固めて希望社会への道筋を描いていく」ための負担増は「やはり消費税を中心にせざるを得ない、と私たちは考える。」
「消費税は国民が広く負担する税金だ。国民みんなが互いの生活を支え合う社会保障の財源に適している。」
社会保障は何のためにあるのか?
それは憲法25条の保障する生存権を制度的に担保するためであり、個人の能力や努力とは無関係の、生まれや不運などによって生じる正義に反する不平等を部分的に是正し、社会的再分配を行うためである。
そして、消費税が社会的再分配に最も逆行する税金であることは、少し説明すれば子供でもすぐにわかることである。
ということは、朝日新聞社が主張していることを一言で要約すれば、こういうことである。
“社会的再分配を行うためには社会的再分配に最も逆行する税を増税せよ!”
あるいは、もっと簡単に言うとこうだ。
“格差を是正するために格差を拡大すべし”
これほど愚劣な主張があるだろうか!?
今日、日本が先進国ではトップクラスの格差社会となり、貧困大国となってしまった原因のひとつに、過去20年ほどの間に、所得税と法人税の最高税率を大幅に引き下げたことによって大金持ちを優遇し、その代わり低所得層にとって過酷な(それどころか子供や働くことができない人にまで租税負担を課す)消費税を導入し税率を引き上げたことにあることは明々白々である(【関連記事】)。現に朝日のこの社説自体が次のように指摘している。
「所得税はこの20年ほど最高税率が何度も引き下げられ、所得が多くなるにつれ負担が重くなる累進の度合いがなだらかになった。課税所得を小さくする控除も拡大・新設された結果、91年度に約27兆円あった所得税収が、06年度はほぼ半分の14.1兆円へ減っている。」
ところが、驚くべきことに、この指摘の直後、朝日社説は次のようなご託宣を述べたのである。
「かつて日本経団連は「消費税を毎年1%ずつ上げる」というシミュレーションを示した。 このように小刻みにして、例えば「2年に1%ずつ」とあらかじめ示せば、事業者が計画的に対応でき、経済への影響も抑えられるのではなかろうか。」
「いずれは消費税が10%台になることを覚悟するしかあるまい。」
朝日新聞はいつから財界の機関紙になったのか!?
消費税がそんなに素晴らしいものなら、いっそのこと所得税や法人税は廃止して、税率何十パーセントになるかわからないが、消費税一本の税方式を提唱してみてはどうなのか!!
そうすればもっと「財界のための希望社会の提言」としてすっきりするではないか!
【追記】
以前、「洗脳マニュアル」という記事に書いた文を再掲する。
・同じことを何度も何度も何度も何度も繰り返せ。
・どれほど荒唐無稽で馬鹿げたことでも、人は何度も聞かされ続けると信じてしまうものだ。
・証拠や根拠は必要ない。「繰り返すこと」、ただそれだけで人を洗脳することができる。
さぁ、皆さんもご一緒に!(笑)
朝日新聞は2カ月ほど前(?)から毎週月曜日に「希望社会の提言」という特集社説を掲載している。今日は休刊日なので、第7回目の連載社説は昨日掲載された。
私は第1回目の提言を読んで、「こりゃ駄目だ」と思ったので、それ以後の提言は読んでいなかった。しかし、昨日の社説は見出しを見て、洗脳キャンペーンが執拗に続いていることを改めて知った。
見出しにはこうある。
「消費増税なしに安心は買えぬ」
そして社説本文中にはこうある。
「将来を見通せば、増税による負担増は避けられない。」
「社会保障の基盤を固めて希望社会への道筋を描いていく」ための負担増は「やはり消費税を中心にせざるを得ない、と私たちは考える。」
「消費税は国民が広く負担する税金だ。国民みんなが互いの生活を支え合う社会保障の財源に適している。」
社会保障は何のためにあるのか?
それは憲法25条の保障する生存権を制度的に担保するためであり、個人の能力や努力とは無関係の、生まれや不運などによって生じる正義に反する不平等を部分的に是正し、社会的再分配を行うためである。
そして、消費税が社会的再分配に最も逆行する税金であることは、少し説明すれば子供でもすぐにわかることである。
ということは、朝日新聞社が主張していることを一言で要約すれば、こういうことである。
“社会的再分配を行うためには社会的再分配に最も逆行する税を増税せよ!”
あるいは、もっと簡単に言うとこうだ。
“格差を是正するために格差を拡大すべし”
これほど愚劣な主張があるだろうか!?
今日、日本が先進国ではトップクラスの格差社会となり、貧困大国となってしまった原因のひとつに、過去20年ほどの間に、所得税と法人税の最高税率を大幅に引き下げたことによって大金持ちを優遇し、その代わり低所得層にとって過酷な(それどころか子供や働くことができない人にまで租税負担を課す)消費税を導入し税率を引き上げたことにあることは明々白々である(【関連記事】)。現に朝日のこの社説自体が次のように指摘している。
「所得税はこの20年ほど最高税率が何度も引き下げられ、所得が多くなるにつれ負担が重くなる累進の度合いがなだらかになった。課税所得を小さくする控除も拡大・新設された結果、91年度に約27兆円あった所得税収が、06年度はほぼ半分の14.1兆円へ減っている。」
ところが、驚くべきことに、この指摘の直後、朝日社説は次のようなご託宣を述べたのである。
「かつて日本経団連は「消費税を毎年1%ずつ上げる」というシミュレーションを示した。 このように小刻みにして、例えば「2年に1%ずつ」とあらかじめ示せば、事業者が計画的に対応でき、経済への影響も抑えられるのではなかろうか。」
「いずれは消費税が10%台になることを覚悟するしかあるまい。」
朝日新聞はいつから財界の機関紙になったのか!?
消費税がそんなに素晴らしいものなら、いっそのこと所得税や法人税は廃止して、税率何十パーセントになるかわからないが、消費税一本の税方式を提唱してみてはどうなのか!!
そうすればもっと「財界のための希望社会の提言」としてすっきりするではないか!
【追記】
以前、「洗脳マニュアル」という記事に書いた文を再掲する。
・同じことを何度も何度も何度も何度も繰り返せ。
・どれほど荒唐無稽で馬鹿げたことでも、人は何度も聞かされ続けると信じてしまうものだ。
・証拠や根拠は必要ない。「繰り返すこと」、ただそれだけで人を洗脳することができる。
[ 12:05 ]
[ メモ ]
昨日の朝日新聞読書欄で気になった本をメモしておきます(あくまで個人的なメモです)。
<必ず買う本>
■ 本田靖春『我、拗ね者として生涯を閉ず(上・下)』講談社文庫
書評をそのまま引用する。
「3年前に71歳で亡くなったノンフィクション作家が、自分の歩みを振り返りつつ書き続けていた最後の連載。読売新聞社会部記者として地をはう取材にこだわり、権威におもねることを最大の屈辱として「由緒正しい貧乏人」を貫いた。感情をたたえながら感傷のない文章が、すがすがしい。」
かつてこの人の『私戦』を読んでどれだけ感動したか・・・。
<ちょっと気になる本>
■ 大西巨人『深淵(上・下)』光文社文庫
「……2度の記憶喪失を経験する主人公が、殺人事件の裁判、2人の女性との「愛縁機縁」を通して、「生の根源的問題」を必死に模索する姿が描かれる。」
■ 小池昌代『感光生活』ちくま文庫
「心のひだにすくいとられた心象風景が命の不思議を照射し、怖いような人間の悪意をえぐる。……」
■ 土田宏『ケネディ――「神話」と実像』中公新書
はっきり言ってケネディものには食傷気味なのだが、書評中、「真の暗殺犯を名指しする」という一言が気になったので、立ち読みしてみよう。ケネディ暗殺事件の真相については、すでにかなりの部分が明らかになっていると思うが、何か新たな発見でもあるのだろうか?
2007/12/07のBlog
[ 12:47 ]
[ メモ ]
対照的なニュースを2つ、ネットから全文引用する。
★死刑執行停止決議を採択 日米などは反対 国連総会委
2007年11月16日11時01分
http://www.asahi.com/international/update/1116/TKY200711160004.html
人権問題を扱う国連総会第3委員会は15日、死刑執行の停止(モラトリアム)を求める決議案を賛成99、反対52、棄権33で初採択した。死刑制度が存続している日本や米国、中国などは反対した。年内に総会本会議で正式に採択される見通しだ。総会決議に法的拘束力はないが、決議案を主導した欧州連合(EU)などは、執行の停止を実質的な死刑全廃への足がかりにする考えだ。
決議案は87カ国が共同提案。死刑制度の継続に「深刻な懸念」を示すとともに、制度存続国に(1)死刑制度廃止を視野に入れた執行の一時停止(2)死刑が適用される対象犯罪の漸進的削減(3)死刑の執行状況や死刑に直面する人の人権状況を事務総長に報告すること――などを要求。廃止国に対しても制度を再導入しないよう求めている。
同様の決議案はイタリアなどの主導で94年にも提出されたが、小差で否決された。99年には反対派の修正要求が通ったため、採決を断念した経緯がある。今回も、「刑事司法制度は国内管轄事項だ」とするシンガポールやエジプトなどが修正案を出して抵抗したが、原案通りで採択された。
EU議長国ポルトガルのサルゲイロ国連大使は採択後、「幅広い支持を得られたことは、死刑制度が人権問題であり、その執行停止が人権状況の改善につながるとの認識が共有できた表れだ」と歓迎した。
一方、日本の神余隆博次席大使は「日本では、国民の大半が最も悪質な犯罪には死刑を宣告すべきだと信じている。死刑制度の廃止に向かうことは難しい。死刑廃止に国際的な合意はない」と反対の理由を説明した。
====================
★死刑、初の氏名公表 法務省、3人執行と発表
2007年12月07日12時09分
http://www.asahi.com/national/update/1207/TKY200712070128.html?ref=rss
法務省は7日、3人の死刑を執行した、と発表した。法相が執行命令書に署名しなくても執行が進む「死刑の自動化」を提案した鳩山法相の下での初めての執行となった。発表にあたり、同省は初めて、対象となった死刑囚の氏名と犯罪事実、執行場所を公表。「情報公開することで死刑制度に対する国民の理解を得られる」との狙いから、実施の事実だけを伝えて氏名などは一切公表しない従来の方針を転換した。
07年中の執行は、長勢法相時代の6人とあわせて計9人で、年間の執行者数としては77年以降で最多となる。刑事事件の厳罰化の流れのなかで、死刑確定者は増え続けており、この日の執行後の生存死刑囚は104人となった。
発表によると、執行の対象になったのは藤間静波死刑囚(47)と府川博樹死刑囚(42)、池本登死刑囚(74)の3人。藤間、府川両死刑囚は東京拘置所で、池本死刑囚は大阪拘置所でそれぞれ執行された。
発表された犯罪事実やそれぞれの確定判決などによると、藤間死刑囚は81~82年、横浜市で盗み仲間の男性(当時20)を刃物で刺殺したほか、神奈川県藤沢市の女性(同16)ら一家3人を刺殺。一緒に逃亡していた元店員の少年(同19)も兵庫県尼崎市で刺殺した。
府川死刑囚は99年、女性との交際費に困って東京都江戸川区の無職女性(同65)に借金を申し込んだが断られ、女性とその母親(同91)を刺殺した。
池本死刑囚は85年、隣人から自分の畑にごみを捨てられるなどの嫌がらせを受けたなどと思い込み、徳島県内の自宅にあった散弾銃で近所に住む3人を射殺し、1人に重傷を負わせた。
★死刑執行停止決議を採択 日米などは反対 国連総会委
2007年11月16日11時01分
http://www.asahi.com/international/update/1116/TKY200711160004.html
人権問題を扱う国連総会第3委員会は15日、死刑執行の停止(モラトリアム)を求める決議案を賛成99、反対52、棄権33で初採択した。死刑制度が存続している日本や米国、中国などは反対した。年内に総会本会議で正式に採択される見通しだ。総会決議に法的拘束力はないが、決議案を主導した欧州連合(EU)などは、執行の停止を実質的な死刑全廃への足がかりにする考えだ。
決議案は87カ国が共同提案。死刑制度の継続に「深刻な懸念」を示すとともに、制度存続国に(1)死刑制度廃止を視野に入れた執行の一時停止(2)死刑が適用される対象犯罪の漸進的削減(3)死刑の執行状況や死刑に直面する人の人権状況を事務総長に報告すること――などを要求。廃止国に対しても制度を再導入しないよう求めている。
同様の決議案はイタリアなどの主導で94年にも提出されたが、小差で否決された。99年には反対派の修正要求が通ったため、採決を断念した経緯がある。今回も、「刑事司法制度は国内管轄事項だ」とするシンガポールやエジプトなどが修正案を出して抵抗したが、原案通りで採択された。
EU議長国ポルトガルのサルゲイロ国連大使は採択後、「幅広い支持を得られたことは、死刑制度が人権問題であり、その執行停止が人権状況の改善につながるとの認識が共有できた表れだ」と歓迎した。
一方、日本の神余隆博次席大使は「日本では、国民の大半が最も悪質な犯罪には死刑を宣告すべきだと信じている。死刑制度の廃止に向かうことは難しい。死刑廃止に国際的な合意はない」と反対の理由を説明した。
====================
★死刑、初の氏名公表 法務省、3人執行と発表
2007年12月07日12時09分
http://www.asahi.com/national/update/1207/TKY200712070128.html?ref=rss
法務省は7日、3人の死刑を執行した、と発表した。法相が執行命令書に署名しなくても執行が進む「死刑の自動化」を提案した鳩山法相の下での初めての執行となった。発表にあたり、同省は初めて、対象となった死刑囚の氏名と犯罪事実、執行場所を公表。「情報公開することで死刑制度に対する国民の理解を得られる」との狙いから、実施の事実だけを伝えて氏名などは一切公表しない従来の方針を転換した。
07年中の執行は、長勢法相時代の6人とあわせて計9人で、年間の執行者数としては77年以降で最多となる。刑事事件の厳罰化の流れのなかで、死刑確定者は増え続けており、この日の執行後の生存死刑囚は104人となった。
発表によると、執行の対象になったのは藤間静波死刑囚(47)と府川博樹死刑囚(42)、池本登死刑囚(74)の3人。藤間、府川両死刑囚は東京拘置所で、池本死刑囚は大阪拘置所でそれぞれ執行された。
発表された犯罪事実やそれぞれの確定判決などによると、藤間死刑囚は81~82年、横浜市で盗み仲間の男性(当時20)を刃物で刺殺したほか、神奈川県藤沢市の女性(同16)ら一家3人を刺殺。一緒に逃亡していた元店員の少年(同19)も兵庫県尼崎市で刺殺した。
府川死刑囚は99年、女性との交際費に困って東京都江戸川区の無職女性(同65)に借金を申し込んだが断られ、女性とその母親(同91)を刺殺した。
池本死刑囚は85年、隣人から自分の畑にごみを捨てられるなどの嫌がらせを受けたなどと思い込み、徳島県内の自宅にあった散弾銃で近所に住む3人を射殺し、1人に重傷を負わせた。
2007/12/05のBlog
[ 18:08 ]
[nadjaさんの関連記事]
[鏡 響子さんの関連記事]
私の好きな20世紀の政治哲学者、アイザイア・バーリン(1909-97)に『ハリネズミと狐』という著作がある。そのなかでバーリンは、「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」という古代ギリシャの詩人の謎めいた詩句を手掛かりに、古今の思想家・作家・芸術家を狐型とハリネズミ型に分類するという作業を行っている(もっとも本書のテーマはトルストイの歴史哲学にあるので、分類自体はそのための予備作業にすぎないのだが…)。
バーリンによれば、ハリネズミ型の人間は、一切の事柄をただ一つの普遍的で体系的・統一的な原理やヴィジョンに関連させて理解し考え感じるような人であり、その思考法は求心的である。それに対して狐型の人間は、極めて多様な経験や対象をあるがままに捉え、しばしば無関係でときには互いに矛盾してさえいる多くの諸目的を追求する人であり、その思考法は遠心的である。哲学的な区分との関連で言えば、一元論者や合理主義者や理想主義者の思考態度が前者と関連があるのとすれば、多元論者や経験主義者、現実主義者の思考態度は後者との関連性が深いだろう。
バーリンによれば、プラトンやダンテ、ヘーゲル、ドストエフスキー、プルーストはハリネズミ型の思想家・作家であり、アリストテレス、モンテーニュ、ゲーテ、プーシキン、ジョイスは狐型の思想家・作家の例として挙げられている。そして、本書の主題であるトルストイその人は、個別のものに対する比類のない感覚を持った狐でありながら、ハリネズミでありたいと熱望した人物と評されている。
何年も昔に読んだこの著作のことを思い出したのは、私が尊敬する二人の読書の達人ブロガーであるnadjaさんと鏡 響子さんとの間で最近繰り広げられた読書論をめぐる興味深いやりとりを読んだせいである。きっかけはnadjaさんが書いた11月21日の記事「徒然に…」であり、それに対して鏡さんが12月2日に「読書家になれない理由」という記事を書いてTBした。すると再びnadjaさんは同日、「ヘッセの読書術」という記事を書いて鏡さんの記事にTBした。その内容をかいつまんで書くとこうである。
まず、nadjaさんが第1の記事において「ショーペンハウエルもヘッセも濫読はいけないと言っているが・・・私はかなり濫読してきたし、本依存症だという自覚もある」と書いたのに対し、鏡さんは、濫読はいけないというのは本当なのか、むしろ「多読濫読できる力こそ、読書人の真髄ではないか」という疑問から「読書家になれない理由」を書いた。そのなかで鏡さんは、本を読む人を、「広大な範囲の書物を渉猟する」タイプと「ある作家や思想家の作品を全部、繰り返し繰り返し読む」タイプの2つに分けたうえ、(鏡さんにとって)読書家というのは前者の多読濫読できるタイプを指すのであって、「後者の指数しか備わっていない」自分は読書家ではない、と結論づけている。
するとそれを読んだnadjaさんは、「え~~、それ、ちがうちがう~~」と叫びつつ(笑)、「ヘッセの読書術」においてヘルマン・ヘッセが述べている主張を援用しつつ、異論を述べている。ヘッセによると、真の読書家とは、「次から次へと好奇心に駆られてあらゆる時代と国々の文学作品の抜粋と断片を多量に飲み込んだ読者」ではなく、「三人か四人の一流の作家の作品を完全に、そしてくりかえし読んだ者」、「少数の本を徹底的に知っている」者のことであり、それゆえ、「カフカを徹底的に読み、愛する、鏡さんのような方が真の読書家である」と結論づけているのである。
つまり、鏡さんは(名指しこそしていないが、nadjaさんのような)多読濫読できる人こそ真の読書家であると主張したのに対し、自ら濫読タイプを自認するnadjaさんはカフカなど少数の本を徹底的に繰り返して読む鏡さんのような人こそ真の読書家であると応じたわけである。
勘のいい読者なら、私が何を言いたいのか、すでにおわかりだろう。読書家のタイプも一つとは限らないのである。鏡さんが真の読書家である、というnadjaさんの結論に私も異存はない。ただし、鏡さんのようなタイプの読書家だけが真の読書家だとは思わない。nadjaさんもまた真の読書家であることに疑問の余地はないと思う。つまり、バーリンの分類を援用すれば、鏡さんがハリネズミ型の読書家なのに対し、nadjaさんは狐型の読書家なのである。タイプが異なるだけで、お二人とも真の読書家であることに変わりはない。ついでに言えば(ついでで申し訳ありません)、私のもう一人の「本の師匠」であるwarmgunさんもまた巨大な狐族の読書家である。
両者は種類の違いであって、その間に「真」と「偽」というような関係がないのはもちろん、優劣関係もない。ただ、個人的な指向性が違うだけである。私はかつてある記事のコメントで、鏡さんを「絶対的価値の探求者」と評したことがある(ご本人も少なくとも全面否定はされなかった)が、そのような指向性からも鏡さんがハリネズミ型の読書家であることは疑いの余地がないと思う。
<注>
「濫読」という言葉を広辞苑で引くと、「何の方針も立てず、手当たり次第に書物などを読むこと」とあるように、この言葉には、それ自体としてマイナス評価が負荷されているように思うが、本文中で述べたのは(そしておそらく鏡さんやnadjaさんの用法も同じだと思うが)、必ずしも相互に内的関連性や一貫性を持たない多方面の本を読む、ということであって、文字通り無差別に本を読む、ということではない。つまり、読書の範囲が極めて多方面に広がっているということを意味するにすぎず、本(あるいは活字)であれば何でも手当たり次第に読むという(養老孟司のような)態度とは無関係である。
* この記事は次の2つの記事にTBさせて頂きました。
nadjaさん「ヘッセの読書術」
鏡 響子さん「読書家になれない理由」
[鏡 響子さんの関連記事]
私の好きな20世紀の政治哲学者、アイザイア・バーリン(1909-97)に『ハリネズミと狐』という著作がある。そのなかでバーリンは、「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」という古代ギリシャの詩人の謎めいた詩句を手掛かりに、古今の思想家・作家・芸術家を狐型とハリネズミ型に分類するという作業を行っている(もっとも本書のテーマはトルストイの歴史哲学にあるので、分類自体はそのための予備作業にすぎないのだが…)。
バーリンによれば、ハリネズミ型の人間は、一切の事柄をただ一つの普遍的で体系的・統一的な原理やヴィジョンに関連させて理解し考え感じるような人であり、その思考法は求心的である。それに対して狐型の人間は、極めて多様な経験や対象をあるがままに捉え、しばしば無関係でときには互いに矛盾してさえいる多くの諸目的を追求する人であり、その思考法は遠心的である。哲学的な区分との関連で言えば、一元論者や合理主義者や理想主義者の思考態度が前者と関連があるのとすれば、多元論者や経験主義者、現実主義者の思考態度は後者との関連性が深いだろう。
バーリンによれば、プラトンやダンテ、ヘーゲル、ドストエフスキー、プルーストはハリネズミ型の思想家・作家であり、アリストテレス、モンテーニュ、ゲーテ、プーシキン、ジョイスは狐型の思想家・作家の例として挙げられている。そして、本書の主題であるトルストイその人は、個別のものに対する比類のない感覚を持った狐でありながら、ハリネズミでありたいと熱望した人物と評されている。
何年も昔に読んだこの著作のことを思い出したのは、私が尊敬する二人の読書の達人ブロガーであるnadjaさんと鏡 響子さんとの間で最近繰り広げられた読書論をめぐる興味深いやりとりを読んだせいである。きっかけはnadjaさんが書いた11月21日の記事「徒然に…」であり、それに対して鏡さんが12月2日に「読書家になれない理由」という記事を書いてTBした。すると再びnadjaさんは同日、「ヘッセの読書術」という記事を書いて鏡さんの記事にTBした。その内容をかいつまんで書くとこうである。
まず、nadjaさんが第1の記事において「ショーペンハウエルもヘッセも濫読はいけないと言っているが・・・私はかなり濫読してきたし、本依存症だという自覚もある」と書いたのに対し、鏡さんは、濫読はいけないというのは本当なのか、むしろ「多読濫読できる力こそ、読書人の真髄ではないか」という疑問から「読書家になれない理由」を書いた。そのなかで鏡さんは、本を読む人を、「広大な範囲の書物を渉猟する」タイプと「ある作家や思想家の作品を全部、繰り返し繰り返し読む」タイプの2つに分けたうえ、(鏡さんにとって)読書家というのは前者の多読濫読できるタイプを指すのであって、「後者の指数しか備わっていない」自分は読書家ではない、と結論づけている。
するとそれを読んだnadjaさんは、「え~~、それ、ちがうちがう~~」と叫びつつ(笑)、「ヘッセの読書術」においてヘルマン・ヘッセが述べている主張を援用しつつ、異論を述べている。ヘッセによると、真の読書家とは、「次から次へと好奇心に駆られてあらゆる時代と国々の文学作品の抜粋と断片を多量に飲み込んだ読者」ではなく、「三人か四人の一流の作家の作品を完全に、そしてくりかえし読んだ者」、「少数の本を徹底的に知っている」者のことであり、それゆえ、「カフカを徹底的に読み、愛する、鏡さんのような方が真の読書家である」と結論づけているのである。
つまり、鏡さんは(名指しこそしていないが、nadjaさんのような)多読濫読できる人こそ真の読書家であると主張したのに対し、自ら濫読タイプを自認するnadjaさんはカフカなど少数の本を徹底的に繰り返して読む鏡さんのような人こそ真の読書家であると応じたわけである。
勘のいい読者なら、私が何を言いたいのか、すでにおわかりだろう。読書家のタイプも一つとは限らないのである。鏡さんが真の読書家である、というnadjaさんの結論に私も異存はない。ただし、鏡さんのようなタイプの読書家だけが真の読書家だとは思わない。nadjaさんもまた真の読書家であることに疑問の余地はないと思う。つまり、バーリンの分類を援用すれば、鏡さんがハリネズミ型の読書家なのに対し、nadjaさんは狐型の読書家なのである。タイプが異なるだけで、お二人とも真の読書家であることに変わりはない。ついでに言えば(ついでで申し訳ありません)、私のもう一人の「本の師匠」であるwarmgunさんもまた巨大な狐族の読書家である。
両者は種類の違いであって、その間に「真」と「偽」というような関係がないのはもちろん、優劣関係もない。ただ、個人的な指向性が違うだけである。私はかつてある記事のコメントで、鏡さんを「絶対的価値の探求者」と評したことがある(ご本人も少なくとも全面否定はされなかった)が、そのような指向性からも鏡さんがハリネズミ型の読書家であることは疑いの余地がないと思う。
<注>
「濫読」という言葉を広辞苑で引くと、「何の方針も立てず、手当たり次第に書物などを読むこと」とあるように、この言葉には、それ自体としてマイナス評価が負荷されているように思うが、本文中で述べたのは(そしておそらく鏡さんやnadjaさんの用法も同じだと思うが)、必ずしも相互に内的関連性や一貫性を持たない多方面の本を読む、ということであって、文字通り無差別に本を読む、ということではない。つまり、読書の範囲が極めて多方面に広がっているということを意味するにすぎず、本(あるいは活字)であれば何でも手当たり次第に読むという(養老孟司のような)態度とは無関係である。
* この記事は次の2つの記事にTBさせて頂きました。
nadjaさん「ヘッセの読書術」
鏡 響子さん「読書家になれない理由」