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イスマタリアン
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2008/03/09のBlog
[ 17:50 ] [ 社会 ]

先日、ひろさちや氏の「ウサギとカメ」に関する話を紹介したところ、3人の方からコメントを頂いたが、そのなかのサンシン君からは、府川源一郎・横浜国立大学教授の論文「ウサギとカメの教育文化史」の掲載されたサイトを紹介して頂いた。それによれば、イソップ寓話が初めて日本に紹介されたのは安土桃山時代の1593年のことだったが、「ウサギとカメ」を含むイソップ寓話が紹介されたのは明治時代の初めであり、それ以後、小学校の「修身」「唱歌」「国語読本」などの教科に「ウサギとカメ」の寓話が様々な形で導入され、20世紀初頭にはすでに広く人口に膾炙していたことが窺える。そして、この「ウサギとカメ」の寓話は、「慢心と油断の戒め」および「勤勉と努力の奨励」という教訓を持つものとして、戦前のみならず、戦後においても国語の教科書や児童文学を通じて、親や教師から子ども達に伝えられていったのである。

さて、前回、「ウサギとカメ」という記事の中で、ひろさちや氏が、日本社会におけるこの寓話の解釈が競争至上主義を煽るものとして批判していることを紹介した。しかし、この点については、私はひろ氏の主張に同意しない。カメが途中で寝ているウサギを起こさなかったなどといって非難されるいわれは全くない。これは競走なのだから、競走の途中で寝てしまったウサギに落ち度があったことは言うまでもない。足の速いウサギと足の遅いカメが競走をし、足の速いウサギが慢心から居眠りしてしまったので、足の遅いカメに負けた。ただそれだけの話である。しかし、ただそれだけの話が、これだけ長い年月にわたって、これだけ広範囲に伝えられてきた社会的背景を考えてみたい。

この話のポイントが「慢心の諌め」や「油断大敵」といったこと以上に「勤勉と努力の奨励」にあったことは、府川氏の論文からもわかると思う。明治政府が近代国家を形成していく過程において、欧米列強に「追いつき追い越せ」ということを国家的目標としていたことは歴史の教えるところであり、そのためにも勤勉で従順な国民主体=臣民を形成する必要があり、「ウサギとカメ」の寓話もそのための手段の一つとして用いられたのである。と同時に、これは子どもの立身出世を願う親にとっても、有効な教育ツールの一つと見なされたのであろう。つまり、明治以後昭和末期に至るまでの教育イデオロギーにおいて、「ウサギとカメ」は子どもを従順で勤勉な国民主体=臣民に育て上げるためのツールとして最大限に利用され続けたのである。

「才能ある怠け者」と「平凡な才能の努力家」が競争すれば、最終的には後者が勝つ、というのはおそらく真理であり、私自身も努力の尊さを否定しない。というより、努力を継続するという(私にはない)才能を持つ人を尊敬する。したがって、努力自体に問題がないことは明白だ。では一体何が問題なのかというと、「ウサギとカメ」のカメ・イデオロギーが、日本社会の大きな問題点である受験教育至上主義と集団主義という2つのイデオロギーと結託していることである。人間には様々な能力・才能があるが、個々人がどの能力・才能に秀でているかは人によって異なる。それら個々の能力について、競争を行ったり、順位をつけたりすることは、それ自体悪いことではない。大相撲で、勝ち負けを決めるのはやめましょう、毎場所全力士優勝ということにしましょう、というのでは、大相撲など成り立たないし、同じことは全てのスポーツについて言えるし、もちろん、スポーツ以外の事柄でもいえることだ。だから、問題は競争それ自体にはない。日本の教育において問題なのは、勉強というたったひとつのモノサシによって優劣を測り、その優劣によって、生涯の「成功確率」が決まるかのごとき学歴信仰社会になってしまっていることだ。さらに、受験勉強においては、目標(偏差値上位校に進学すること)も正解も外的に与えられるために、自分の頭で目標を設定したり思考したりする主体性が損なわれることになる。その結果、どういうことが起きるかというと、受験勉強の秀才たちは、自分の頭で是非・善悪を判断する主体性が極度に乏しく、権威に従順な権威主義的タイプが圧倒的に多くなる。そして、そういう非主体的な権威主義者が日本社会のエリートとして我々大衆を支配するようになるのである。

ウサギとカメの喩えを使えば、日本型カメとは、外部から与えられた目標に対し、その正当性をこれっぽっちも疑うことなく、その目標達成だけを目指して努力するタイプである。こういうタイプが受験秀才になっていくことは火を見るより明らかだ。それに対して、ウサギ型人間とは、自分の好きなことには熱中するが、興味が湧かないことには全く見向きもしないタイプである。そして自分の好きなことは自分で見つけるので、人から与えられた課題は、それをやる意味が見出せない限りやろうとしない。こういうタイプが受験競争やその延長である企業社会の競争において落ちこぼれてしまうのもほとんど必然的である。その結果、受験秀才たちの多くは、勉強において興味のない科目もない代わりに興味のある科目もない、という驚くべきロボット人間なのである。このようなカメ・ロボットが企業や官僚社会の奴隷労働に最も適した人材であることは言を俟たないだろう。こうして日本は、カメ・ロボットに支配される陰鬱な社会となってしまったのである。


【追記】
色川武大氏は『うらおもて人生録』の中で次のように述べているが、これは私の考えとほぼ同じなので、引用させて頂く。

《同時代、同年齢で、ほぼ同じ生活環境で、優劣の差にどのくらいの巾があるものなんだろうなァ。
 俺の見たところでは、綜合的な能力差は、それほど無いように思うんだけれどもなァ。
 もっとも、だから優劣がないということでもないんだ。
 ひとつの物差しで眺めた場合には、すくなくとも順位がつくぐらいの差ははっきり出てくるね。
 現在の学校教育では、主として勉強という物差しで優劣をはかるわけだね。(……)これは能力差というよりは、前に記したように、勉強する態度の差で決まるように思えるね。》

《尺度を変えて、喧嘩の強いもの順に順位をつけると、がらりとちがう番付になる。……
 では、世間知を基準にすると、またがらりと番付が変わるだろうね。道徳性を基準にしてもそうだし、団結力、活力、回転力、融和性、耐久力、外交性、基準はいくらでもある。そうして、これ、いずれも能力の範疇(区分)に属することで、劣等生に見えてもすべてにおいて劣等というわけじゃない。・・・
 ところが、普通は、生徒自身も、学校の定める順位を、自分のゆるぎない能力判定だと思いこんでしまうことが多いんだ。》

上の文章の少し後で、色川氏は次のようにも述べている。そこで言う「怠け者」「働き者」とは、私の文章でいう「ウサギ型人間」と「カメ型人間」にほぼ対応していると見ていいだろう。

《怠け者というのは、ツボにはまらないと働かない人のことだと思う。自分が好むことしかやらないんだね。
 働き者は、どんな条件でも、とりあえず働かなくちゃならないし、働こうとしているんだね。》

2008/03/07のBlog
[ 16:49 ] [ 番外編 ]

一、もしもし かめよ かめさんよ
せかいのうちで おまえほど
あゆみの のろい ものはない
どうして そんなに のろいのか

二、なんと おっしゃる うさぎさん
そんなら おまえと かけくらべ
むこうの 小山の ふもとまで
どちらが さきに かけつくか

三、どんなに かめが いそいでも
どうせ ばんまで かかるだろ
ここらで ちょっと 一ねむり
グーグーグーグー グーグーグー

四、これは ねすぎた しくじった
ピョンピョンピョンピョン ピョンピョンピョン
あんまりおそい うさぎさん
さっきのじまんは どうしたの


~「うさぎとかめ」石原和三郎作詞・納所弁次郎作曲より~


誰でも子どもの頃にウサギとカメの寓話を聞いたことがあるだろう。
この話は一般に、才能を過信して努力を怠ってはいけない、とか、才能がなくてもコツコツ努力すれば勝てるのだ、などという教訓話として語られる。

ところが世界には、この話から全く違った教訓を引き出す国もあるらしい。

ひろさちや氏が『無責任のすすめ』の中で書いている話を紹介しよう。

まず、ひろ氏は、自分の娘と息子に問いかける。

ひろ「ウサギさんはどうしたらよかったと思う?」
娘「お父さん、ウサギさんは順番を間違えたのがよくなかったね」
ひろ「どういうこと?」
娘「ウサギさんは、まずゴールに入ってからお昼寝をすればよかった。それなのに、最初にお昼寝をしたのがよくなかった」
ひろ(この子は親に似て頭のよい子だ)
息子「僕はお姉さんと違うな。ウサギさんはカメさんと仲良くすればよかったんだ」
ひろ(それはそうだけど、男の子なのに元気がないな)

次にひろ氏は、イラン人に聞いてみた。

ひろ「ウサギとカメの話があるだろう?」
イラン人「あります」
ひろ「お国では、ウサギはどうすべきだったと子どもに教えているんだ?」
イラン人「どうしようもない」
ひろ「だって、ウサギは競走に負けただろう?」
イラン人「負けました」
ひろ「だから、どうしたら競走に勝てたと教えるんだい?」
イラン人「どうしても勝てないと教えます」
ひろ(待てよ、おかしいな)「お国のウサギとカメはどういう話なの?」
 すると、内容が違うということがわかった。イランでも、ウサギとカメが競走するが、このカメは頭のいいカメで、自分とそっくりの弟を呼んできて、先にゴールに立たせておいてから競走をする。だから、ウサギがどんなに速く走っても、カメの方が先にゴールしていることになるから勝てない、という話である。
ひろ「そんなのずるいじゃないか」
イラン人「いや、頭がいいだけです」
ひろ「だったら競走なんかしないほうがいいじゃないか」
イラン人「それは当たり前です」
 つまり、イランでは競争は醜いものだから、競争なんてしてはいけないという教訓として「ウサギとカメ」の話を使っている。

今度はインド人に聞いてみた。最初に、話の中身が日本と同じであることを確認したあと、次のように問いかけた。

ひろ「インドでは、ウサギはどうすべきだったと子どもたちに教えているの?」
インド人A「ウサギはノープロブレムだ」
ひろ「なんで?」
インド人A「悪いのはカメだから」
ひろ「なんでカメが悪いの?」
インド人A「だってカメは昼寝をしているウサギを追い越していった。どうしてそのとき『もしもしウサギさん、目を覚ましたらどうですか?』と一声かけてやらなかったのか。一声かけてやるのが友情じゃないですか。あのカメにはちっとも友情というものがない」
ひろ(さすがはお釈迦様の国だけど、一応反論しておこう)「あなたの言うこともわかるけど、これはゲームだから相手が寝ていても、起こさなくてもいいんじゃないか?」
インド人A「そうか、ゲームだったらまあいいか」
インド人B「さっきから昼寝だと言っているけど、それはわからないでしょう?」
ひろ「え?」
インド人B「ウサギはひょっとしたら、病気で苦しんでいるのかもしれない。声をかけて起こしてみて、はじめて怠けて居眠りをしているだけか、病気で苦しんでいるのかがわかる。それなのに、自分が勝つことだけに必死になって、わかりもしないのに、居眠りしているだけだと決め込んで黙って通り過ぎるのですか? そんな、日本人みたいなカメが好きなのですか?」


これらのエピソードから、ひろ氏は、ことほどさように日本人は競争至上主義に毒されており、人を気遣う心も友情もなくしてしまうと語るのですが、あなたはどう思いましたか?

2008/03/06のBlog
[ 18:23 ] [ 本たち ]

坂口安吾「堕落論」「白痴」(新潮文庫)
色川武大「うらおもて人生録」(新潮文庫)
ひろさちや「無責任のすすめ」(ソフトバンク新書)

以上は昨日買った本である。買ったばかりなので、いずれもまだほんの少ししか読んでいない。

坂口安吾の「堕落論」は角川文庫から出ている本を今から20数年前に買い、“堕落論”ほか数編を読んだきり放置していたが、先日本棚の奥から取り出してきたところ、いくら拭いても埃臭さが抜けないうえに、紙が茶色く変色してしまって読みにくいので、新潮文庫の「堕落論」を買ってきたのである。両者見比べてみると、角川版には13編、新潮版には17編の作品が収録されているが、共通しているのは4編だけである。

色川武大は初買い・初読みである。
この本を買ったのは、マキノコさんの記事「嘘とハッタリの無い世界。」の影響である。この記事の中で、この本について、「のっけから、色川さんの不器用なだがとても大きい優しさの溢れる語り口に、胸が込み上げてしまう」と書いている。
私も最初の数編を読んだだけだが、まさしく同じような印象を受けた。若い人に向けて書かれた本なのだが、若くない私が読んでも面白いし、なにより色川さんの温かい人柄がじかに伝わってくる。また、本書とは独立に、マキノコさんの書評自体も素晴らしいので、皆さんも是非リンクを辿って読んでみてください。

残りの一冊、「無責任のすすめ」は、タイトルだけ見ると、渡辺淳一の「鈍感力」や、その二番煎じっぽい竹村健一の「いい加減力」などと同類のトンデモ本ではないかと思う人も多いだろう。しかし私は、目次を見て、発作的に買うことに決めた。目次には、例えば次のような項目が見える。

・ 「人生いろいろ」と言う男に自己責任を問われたくない
・ 野党には、責任などないんだ
・ 生活が豊かになっても、生きにくい社会に意味はない
・ 少数の反対意見ほど貴重な示唆はない
・ 内部告発は、奴隷から自由人になることなんだ
・ 専門家は皆、無責任な存在にすぎないんだ
・ 職場は刑務所だから、自己実現なんてできるわけがない
・ 職場という刑務所は脱獄してもいいんだね
・ 国家の都合より、国民の都合を優先すべき
・ 自分の意見、少数意見を言うことはエゴイズムではない

著者はこの本の前書きの中で、本書執筆の意図を次のように述べている。

<私の言いたいことは、「責任を取るべき人間に責任は取らせようよ」ということ。だから、責任を取る必要のない人間は、無責任でいいということになる。
 ところが気をつけていないと、私たち国民が、会社でいえば従業員がいつの間にか責任を取らされてしまう。じゃあ、責任を取るべき人間は? 政治家や経営者は? というと、涼しい顔をして言い訳ばかりしている。それはおかしいよね。
 本当に責任を取るべきやつが責任を取る。それが当たり前の世の中にしたい。何で俺たちが、やつらのために責任を取らなければいけないのか。本書は、そんな怒りの本なのだと認識してほしい。>
<要するに、諸悪の根源は全部、自民党にある。自民党のおかげで、日本が立ち行かなくなっていくことが、目に見えている。それが今という時代だ。>

著者のひろさちやという人は宗教評論家で仏教者であり、やたらたくさん宗教関係の本を出しているということ以外はよく知らない。彼の著書で読んだことがあるのは、「お葬式をどうするか」(PHP新書)の一冊だけである。数年前、葬式の仏教的意味を知りたくて買ったのだが、書かれてあることの多くに納得できた。宗教評論家である著者がなぜこんな本を書いたかについても、前書きの中に書かれている。

<私も七〇歳を過ぎて、あまり失うものもないし、もうそこそこ生きてきたし、仮に今暗殺されても十分だと思うようになった。言いたいことは言わないと、誰かが言わないといけないと思うようになった。そうでなければ、日本は本当に終わってしまう。>

本書のうち3章分ほど斜め読みしてみたが、共感できる部分が6~7割、といったところだろうか。無宗教・無神論者の私にはどうしても受け入れがたい部分もある。

2008/03/03のBlog

痴漢冤罪事件を描いた周防正行監督の「それでもボクはやってない」は1年余り前に公開されたが、確か東京周辺では上映していなかったと思う。そのため見ることができなかったのだが、先日テレビで放送していたので、ようやく見ることができた。

周防監督作品を見るのは、「シコふんじゃった」(1991年)、「Shall We ダンス?」(1996年)に次いで3作目だったが、結論を言えば、3作品の中では最低の出来だった。私のなかでは「シコふんじゃった」がベストで、「Shall We ダンス?」も結構面白かった。しかし、期待していた3作目ははっきりいって見るべきところがなかった。周防監督はこの作品を撮るために2年間も裁判を傍聴したそうだが、作品には驚きも意外性も面白さも新鮮さも何一つなかった。周防監督は、一体この作品で何を訴えたかったのだろうか?

痴漢冤罪事件というのは、非常に奥が深いテーマであり、現実の裁判でも痴漢とされた被告人が冤罪を訴える訴訟が数多く行われている。実際に無罪になったケースもあるが、冤罪のまま有罪判決を受けるケースも数多くあるだろう。また、なかには非常に腹立たしいことではあるが、実際の痴漢犯が裁判で冤罪を訴えているケースもあるかもしれない。言うまでもなく、痴漢は許すことのできない卑劣な犯罪であり、痴漢に遭った被害者が泣き寝入りを強いられるケースも多い中で、被害者が勇気を持って痴漢犯を告発する行為はそれ自体称賛に値する。他方で、無実の人が痴漢と間違えられると、大変なことになってしまう。否認して裁判にもちこんでも、無罪判決を勝ち取れる確率は低いうえ、それまでに大変な時間と労力とお金がかかるだけではない。大抵の場合、起訴された時点で仕事と信用を失ってしまうだろうし、周囲からは「卑劣な痴漢犯」として白い眼で見られるだろう。友人や恋人を失うかもしれない。そのため、実際にはやっていないにも拘わらず、こうした事態を避けるために、示談金を支払って示談にしてしまうケースも多いだろう。そうした弱みにつけ込んで示談金をふんだくる「痴漢被害捏造犯」という悪質な犯罪もあるらしい。

ここには日本の捜査と司法のあり方に関する大きな問題点が山積しているのである。「それでもボクはやってない」でも確かにそうした問題点の一端を描いてはいるものの、問題の取り上げ方が非常に表面的で通り一遍に思われた。「そんなの常識じゃん」というような問題点しか描かれていない。映画において一層重要なのは、被告人やその家族、支援者、被害者、証言者などの心の葛藤を描くことだと思うが、そういうところがほとんど描かれていない。無実の被告人があくまで無罪を訴えて裁判を戦い抜くのは大変な忍耐力と精神力を必要とするはずで、それでも途中で何度も心が揺れるものではないかと想像するが、この映画の主人公にはそういう心の揺れが全くないというのも不自然だ。また、主人公がフリーターという、あまり社会的地位や責任のない立場にあることも、この映画をつまらなくさせている一因だろう。それから、瀬戸朝香演じるあの生意気な若手弁護士の態度は何ですか?(笑) 瀬戸朝香は嫌いな女優ではないが、あの弁護士役は頂けませんねぇ。それから役所広司のお役所的な演技ももういいよ(笑)

2008/02/29のBlog

「あなたは“道徳”、“倫理”、“モラル”という言葉をどう使い分けているだろうか」
とwarmgunさんが問いかけている。

これは難問だ。ただ、日本語と英語の対応関係については、私は「道徳=モラル」、「倫理(学)=エシックス」と使い分けているので、問題は「道徳」と「倫理」の使い分けである。

少し考えたがよくわからない。そこで、手元にあった大庭健『善と悪――倫理学への招待』(岩波新書)を開くと、前書きに次のような文章があった。

<……本書は、
ものごとの善悪を見極める基準となる“道徳原理”は、どのようにありうるのだろう?
という、倫理学の中枢的な問題を扱う。>

この部分だけ見れば、「道徳」も「倫理」もあまり違いはないように思われる。しかし、その少し後を見ると次のような文章がある。

<倫理学は、「人生、どう生きればいいのか?」という、すぐれて一人称の問にかかわる。(……)しかし、・・・「どう生きればいいのか」という問は、「どう生きれば、道徳的に善いのか?」という問ではない。「どう生きればいいのか?」という問は、「よく生きる」ことを求めているのであって、「善い行いをして生きる」ことを促しているのではない。>

この説に従えば、「道徳」は個別的な行為の善悪の基準に関わっているのに対し、「倫理」は一人称的な生の善し悪しに関わる、ということになるだろう。なるほど、そう言われればそんな気もするが、まだ完全に納得したわけではない。

Warmgunさんは、上記の問いを発した記事の中で、また次のようにも書いておられる(番号は私が付した)。


(1)<もちろんぼくたちは、自由に好き勝手にちゃらちゃら生きたいのである。
そもそも“自由に生きる”というイメージは、どんな規範にもしばられず、好き勝手に生きることである。>

(2)<しかも道徳とか倫理とかを言うものに限って、まったく倫理的でないということもしばしば経験されることである。
他者に規範をたれるものに限って、なんの倫理もないのである。>

(3)<だから、そんな嘘はやめようよと、ちゃらちゃら“みんなで”生きてきたら、えらい“世の中”になってしまった。>


(2)については、我々が日常的に経験している事実であるから全く異論はない。私自身も「道徳」とか「倫理」などという言葉をあまり使いたくないというのが本音であるが、にも拘わらず、使わざるを得ないと感じる状況もある。そこで、登場するのが「モラル」という外来語なのである(笑)。「道徳の焦土」と言うのはこっ恥ずかしいが「モラルの焦土」ならそれほど抵抗なく使えるとか、ね(笑)。Warmgunさんが(3)で指摘されていることとも関係していると思うが、近年、「モラルの低下」が著しいと嘆く人は多いし、私自身もそう感じることがある。ただ、それが実証的に証明できるかとなると、私にはよくわからない。もしかしたら、敗戦このかた、いやそれどころか、ひょっとしたら明治このかた、日本人のモラルの程度は大して変わっていないのかもしれない。

日本には道徳の基盤となるような宗教がない、とよく言われる。戦前までは儒教があったが、戦後は儒教的価値観は廃れてきた。あえて言えば、「世間」教のようなものが宗教の代用品だったのかもしれない。Warmgunさんが柄谷行人の『倫理21』を引用しつつ指摘されている通り、この「世間」には自他の区別がない。そこにおいては、「自己」もないので「他者」もない。自他の境界がなく、自分も他人も渾然一体となって融合している気持ち悪い空間なのである(笑)。どうでもいいことだが、私は柄谷行人氏の文章は苦手なのだが、ここでwarmgunさんが引用されている論旨にはほとんど共感できる。


さて、問題は(1)である。確かに、日本では「自由=好き勝手」というイメージが明治このかた連綿として続いていることは間違いない。それに対して、福沢諭吉以来、数知れない“知識人”が、「自由とはそんなものではないんだよ」ということを、これまた延々と説き続けてきた歴史もある。では何なのか、というと、その答えは“知識人”によって様々なので、ここでは述べ(られ)ない。

けれども、「どんな規範にもしばられず、好き勝手に生きる」という理想は、反抗期の少年たちのものであって(注:これはwarmgunさんの記事に対する批判を意図するものでは全くない。念のため)、そういう少年たちは大抵“不良少年”となって様々な“非行”に走ったりするが、そういう生活の中で刹那的な快楽以上の充実感を得られることはほとんどないだろう。逆に、規律まみれの運動部に所属してスポーツに明け暮れている“スポ根”少年の方が充実感を感じていたりするのである(笑)。

「どんな規範にもしばられず、好き勝手に生きる」ことを「自由」と呼ぶか否かは「自由」の定義次第であるが、「どんな規範にもしばられず、好き勝手に生きる」ことによって人が満足できないことは、ほとんど確実だろう。人間は自分の人生に意味を見出すためには、何らかの一貫性のある物語を必要としているからである。しかし同時に、人間は他者の承認を求める存在でもある。だから、自分の物語を他者から承認されたがるのである。しかし愚かな人は承認の“質”を区別できないから、できるだけ大勢の承認を欲する。その結果、「自分」の物語は消失し、「世間」が承認してくれる、どこにでもあるありきたりの、誰のものでもない物語を追い求めることになるのである。

だから、どうした?と言われても困る。
話がまとまらなくなってきたので、このへんで切り上げる。お粗末…(笑)


【好きな言葉】

「クレバーの本質。
聡明な人は少し淋しい。」

makinokoさんのブログ「クレバーの本質」より)

私自身は愚鈍な人間ながら、これは一度読んだら忘れられない記事です。



【嫌いな言葉】

「お袋の味」


実に気持ちの悪い言葉である。
こういう言葉の好きな男は間違いなくマザコンだと思う。
「お袋の味」が好きな男と結婚した女性は大変だろう。


2008/02/27のBlog
[ 18:14 ] [ コメント ]
[preludioさんの関連したBlog]

姫(誰?…笑)もご立腹なさっておられますが、最近、スパムコメントがひどいですねぇ。

私はかなり以前から「Doblogユーザー以外からのコメントを受け取らない」設定にしているので、被害を免れていますが、そうでない人のブログには毎日のように、糞コメントがつけられていますね。

Doblogユーザー以外の方とのコメントのやり取りを楽しんでおられる方は、毎日モグラ叩きを続けるしかないのかもしれませんが、本当に他人事ながら腹は立つし、気の毒です。特に個人的にコメントのやりとりをして頂いている女性ドブロガーのブログに毎日スパムが付いているのを見るのは全く腹立たしい限りです。

Doblogは、基本的にマナーの良い方が多いので、気に入っているのですが、こんなことで、またDoblogを去る人が増えるかと思うと残念です。

なんとかならないものですかねぇ・・・。

[ 17:59 ] [ 裁判・司法 ]
日本の最高裁で無罪が確定していた人物が、最近、アメリカの自治領で同じ事件の殺人容疑で逮捕された。この人物(M氏)は、近くロサンゼルス市警に引き渡されると見られているが、これは一事不再理の原則に違反しているようにも思われる。

「だが、今回の逮捕は日本と米国の法律に違反するわけではない」と26日の朝日新聞社説は言う。「日本の法廷で裁いたのは、日本の刑法が海外で殺人を犯した日本人にも適用されるからだ。一方で、米国には国内で起きた事件について捜査権がある。米国で発生した日本人の犯罪については、日米の双方に捜査権や裁判権があるのだ」と。

つまり、日本人M氏が米国で殺人を犯した容疑をかけられた今回の事件は、日本とアメリカの双方に司法権が存在するという司法権が競合するケースであったため、日本において無罪が確定した事件であっても、アメリカの司法権を発動することは違法ではない、という理屈なのだろう。しかしながら、刑法の適用範囲を決めているのはそれぞれの国の刑法である。そこで、法律の素人としては、ごく素朴な疑問を抱かずにはいられない。

果たして、憲法と刑法ではどちらが上位規範なのか。これは、法律の素人でも答えられる。もちろん憲法である。日本国憲法で言えば、98条が憲法の最高法規性を定めており、憲法に「反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と定めている。

一事不再理(または二重の危険の禁止)の原則(下の「人権メモ」参照)は日米両国の憲法に共通する人権規範であり、通常の法律よりも上位規範なのである。今回の逮捕が日米両国の刑法に照らして何ら違法性がないとしても、刑法よりも上位規範である憲法に違反しているならば、違憲無効とされるべきはずだ。

むろん、私はアメリカの司法制度についてよく知らないので、はっきりしたことは言えないが、仮にアメリカの法制度上問題がないとしても、もしも今後日本政府がアメリカの捜査当局に捜査協力するようなことがあれば、それは日本の司法制度によって「既に無罪とされた行為について……重ねて刑事上の責任を問」おうとする行為に政府が加担することであり、憲法39条に違反することは明白なのではないだろうか。その意味で、町村官房長官が25日の記者会見で、この問題について、「日本(の刑事裁判)で無罪になったからといって、捜査協力できないことはない」と述べたことは問題だと思う。

しかし、あの素晴らしいバカ騒ぎをもう一度、とばかりにアメリカでの捜査の進展を涎をたらさんばかりに見守っている日本のマスコミが、町村発言を問題にするようなことは金輪際あるまい。

[ 13:01 ] [ メモ ]
★日本国憲法

第三十九条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。

[英訳]
Article 39.
No person shall be held criminally liable for an act which was lawful at the time it was committed, or of which he has been acquitted, nor shall he be placed in double jeopardy.


※太字部分は「一事不再理の原則」と呼ばれる原則。学説上、太字部分は「一事不再理の原則」のみを定めたものと解する説、「一事不再理」と「二重処罰の禁止」を定めたものと解する説、アメリカ流の「二重の危険の禁止」を定めたものと解する説がある。



★アメリカ合衆国憲法修正第5条

Amendment V

No person shall be held to answer for a capital, or otherwise infamous crime, unless on a presentment or indictment of a Grand Jury, except in cases arising in the land or naval forces, or in the Militia, when in actual service in time of War or public danger; nor shall any person be subject for the same offence to be twice put in jeopardy of life or limb; nor shall be compelled in any criminal case to be a witness against himself, nor be deprived of life, liberty, or property, without due process of law; nor shall private property be taken for public use, without just compensation.

 何人も、大陪審による告発または起訴がない限り、死刑に値する罪の責任を、あるいはその他重罪の責任を負わされることはない。ただし、陸海軍内で発生した事件、および戦争中あるいは公共の危険に際して、現に軍役に服している国民義勇軍(ミリシア)の間で生じた事件については、この限りではない。
 何人も、同一の犯罪について生命や身体の危険に二度さらされることはない。
 何人も、刑事事件において自己に不利益をもたらす証言を強制されることはない。
 何人も、適正な法の手続なしに生命、自由、または財産を奪われることはない。
 何人も、正当な補償なしに自己の私有財産を公共の用のために徴収されることはない。

※太字部分は、「二重の危険(ダブル・ジェパディー)の禁止」を定めている。
※ここでいう「生命や身体の危険」とは「刑罰一般」を指していると解されている。


★市民的及び政治的権利に関する国際規約(通称、「国際人権B規約」または「自由権規約」)

第14条 7項
 何人も、それぞれの国の法律及び刑事手続きに従って既に確定的に有罪又は無罪の判決を受けた行為について再び裁判され又は処罰されることはない。

No one shall be liable to be tried or punished again for an offence for which he has already been finally convicted or acquitted in accordance with the law and penal procedure of each country.


※同規約には日米ともに批准済み

2008/02/25のBlog
for the sake of sake
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