Blog
2008/03/26のBlog
[ 20:26 ]
[ 裁判・司法 ]
下記記事で言及した「袴田事件」の死刑囚・袴田巌氏が無実であると断定するだけの根拠は現時点では私にはないが、冤罪である可能性は極めて高いと思う。
私個人は死刑制度に反対の立場だが、この問題に関する限り、死刑制度の是非の問題に立ち入るまでもなく、良識のある死刑賛成論者とも共通の立場に立てると思う。というのは、「疑わしきは被告人の利益に」、もしくは「疑わしきは罰せず」というのが近代刑法の大原則であることは、死刑制度の是非以前の常識である。たとえ死刑制度を支持している人でも、無実の人を死刑にしていいとは思っていないはずである。いや、たとえ無実であると証明されなくても、検察が有罪を立証できない限り(*)無罪になる、というのが先の大原則の意味するところである。
また、いったん有罪判決が確定した事件であっても、確定判決における事実認定について合理的な疑いが生じるような新たな証拠が発見された場合には、再審請求を認容すべきことが、1975年5月20日の最高裁第一小法廷の決定(いわゆる「白鳥決定」)、および76年10月12日最高裁第一小法廷決定によって明らかにされている。
ところが、袴田事件においては、死刑確定判決が極めて疑わしい「証拠」に基づいていることが、再審請求にあたって弁護側の提出した新証拠によって明らかにされているにも拘わらず、24日の最高裁決定は不当にも再審請求特別抗告を棄却したのである。これでは、憲法32条の定める「裁判を受ける権利」、同31条の定める「罪刑法定主義」、同37条の定める「公平な裁判を受ける権利」を最高裁が否定したに等しい。
このような最高裁の不当な決定に断固抗議する!
【袴田事件の概要と経過】
1966年6月30日に静岡県清水市(当時)で「こがね味噌」製造会社の専務宅が全焼し、焼け跡から一家4人の惨殺死体が発見されたが、警察は同年8月18日、同社従業員で元プロボクサーの袴田巌氏を殺人・放火の容疑で逮捕した。袴田氏は一貫して容疑を否認していたが、平均12時間、最長17時間にも及ぶ長時間の取り調べが連日行われ、極度の睡眠不足の中、逮捕から20日目の9月6日、犯行を「自白」する。取り調べは起訴後も35日間、逮捕から実に57日間にわたって行われ、この間作成された自白調書45通が法廷に提出されたが、一審の静岡地裁はこのうち44通が違法な取り調べに基づく者と認定し、任意性を否定した。残りの1通が採用されたが、その中で袴田氏は「犯行時」はパジャマを着ていたと述べていた。
ところが、一審の審理が続いていた67年8月31日、検察は突然、味噌タンクから「血染めの衣類5点」(ズボン、ブリーフ、アンダーシャツ、半そでシャツ、ズボン下)が発見されたと発表し、犯行時の着衣を「パジャマ」から一転、「ズボン」に変更した。しかし、袴田氏にはそのズボンは小さすぎて穿けなかったほか、衣類に付着していた血液型にも不審な点が多々あったため、弁護側は検察のでっち上げだと主張している。
静岡地裁は1968年9月、死刑判決を下すが、この判決を下した3人の裁判官の一人であった熊本典道氏は、袴田氏の無罪を確信し、後に救出運動に深く関わることになる。
二審の東京高裁は1976年5月、控訴を棄却、最高裁も1980年11月、上告を棄却して死刑が確定した。しかし、81年4月、弁護団は静岡地裁に再審を請求し、日弁連も袴田事件委員会を設置した。1994年8月、静岡地裁が再審請求を棄却すると、日弁連弁護団は東京高裁に即時抗告する。2004年8月、東京高裁が再審請求即時抗告を棄却するも、翌9月、日弁連弁護団は最高裁に特別抗告した。そして、今月24日、最高裁は再審請求特別抗告を棄却したのである。
**** **** ****
事件の概要とその後の大まかな経過については、「事件史探求」の袴田事件のページが簡潔にまとめている。
また、「袴田巌さんを救う会」「袴田事件とは?」のページにはさらに詳しい状況が説明されている。
【その他の参考サイト】
袴田巌さんの再審を求める会のHP
袴田巌氏の再審請求事件の最高裁決定に対する日弁連会長の談話
「裁判官の良心」~熊本典道氏のブログ
<註>
(*)ただし、ここで若干細かな論点に立ち入るならば、現行刑事訴訟法によれば、裁判官が有罪判決を下しうるのは、被告人が有罪であることについて「一抹の疑いもない」場合だけでなく、「合理的な疑いを超える」だけの心証が得られればいい、とされている。これは、死刑判決の場合もその他の有罪判決の場合も同じである。ということは、被告人が有罪であることについて、「合理的な疑いを超える」だけの証拠はそろっているが、「いかなる疑いの余地もない」とは言えないようなケースについては、裁判官は有罪判決を下さなければならない、ということだ。「合理的な疑いを超える」とはどの程度であるかについての客観的な基準はないが、ある学者は「個人的な印象」として、「約95%ないし96%の確実性」と述べている。もう少し慎重な人なら「98%ないし99%」と答えるかもしれない。いずれにしても、1~2%の疑いならば、「合理的な疑いを超える」として、有罪判決が下ることになる。死刑判決についても同様である。ということは、死刑制度の下では、有罪であることが「合理的な疑いを超えて」確実な場合、その罪状が、過去の判例等に照らして死刑を選択せざるをえないようなケースについては、たとえ1~2%程度の疑いが残ったとしても、死刑判決を下さなければならないということを意味している。これは、万一冤罪であった場合には、無実の人を死刑にしてしまうという取り返しの付かない過ちを冒す可能性が死刑制度に付着していることを意味している。団藤重光氏が明確に死刑廃止論に転換したのは、最高裁判事時代にこのようなケースに遭遇したことが契機となっている(参照、団藤『死刑廃止論』有斐閣)。
[ 12:50 ]
[ 裁判・司法 ]
最高裁が「憲法の番人」ではなく「政府の番犬」にすぎないことは重々承知していることではあるが、それにしてもこのところの最高裁(特に第二小法廷)の判断は異常だ。
本当はブログをやってる場合ではないのだが、あまりにもおかしなニュースが続いたので、メモしておく。
先週土曜日の22日、朝日新聞に「政治ビラ配布 有罪確定へ」という記事が載った。これは、04年1月と2月、東京都立川市の防衛庁(現防衛省)宿舎で自衛隊のイラク派遣に反対するビラを配った市民団体のメンバー3人が住居侵入罪に問われた事件で、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)が上告審判決を4月11日に言い渡すことを決定した、というニュースである。最高裁が結論を見直す際に必要な弁論を開かないまま結審することが明らかになったため、3人の上告が棄却され、罰金20万~10万円の有罪とした二審・東京高裁判決が確定する見通しになったという。一審の東京地裁八王子支部は、政治ビラの配布は憲法が保障する政治的表現活動の一つであって、民主主義の根幹をなすため、商業ビラより優越的な地位が認められる一方、住居侵入罪の要件は満たしているが刑事罰を科すほどの違法性はないとして、無罪判決を言い渡していた。これに対し、二審の東京高裁は住民の被害が「極めて軽微」と判断した一審判決は誤りだとして有罪判決を下していた。
最高裁が上告を棄却して東京高裁判決を確定させるならば、民主主義の根幹である政治的言論の自由を保障した憲法21条はほとんど空文と化すことになるだろう。
さて、今朝の朝日新聞とアサヒコムには、最高裁(またもや第二小法廷(*)である!)が袴田事件の再審請求・特別抗告を棄却した、というニュースが載っていたので、以下に貼り付ける。
http://www.asahi.com/national/update/0325/TKY200803250266.html?ref=any
=====<引用開始>===============
「袴田事件」再審認めず 最高裁が特別抗告棄却
2008年03月26日03時06分
静岡県で66年に一家4人が殺害された事件で、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は、27年余り前に強盗殺人や放火などの罪で死刑判決が確定した後に、再審を開くよう求めていた元プロボクサー袴田巌死刑囚(72)の特別抗告を棄却する決定をした。24日付。確定判決が根拠とした客観的な証拠だけでなく、弁護側が新たに出した証拠を考慮したとしても、袴田死刑囚が犯人だと認定。静岡地裁、東京高裁と同様に再審開始を認めなかった。
この事件では、起訴から1年後の一審公判中に、みそ工場のタンクから血のついたズボンなど袴田死刑囚と犯行を結びつける「5点の衣類」が発見され、45通の自白調書のうち44通が違法な取り調べによるものと確定判決で認定されるなど、捜査・公判が特異な経過をたどった。日本弁護士連合会も支援に乗り出して「冤罪」を主張してきたが、再審の扉は開かれなかった。
再審請求に対し、第二小法廷はまず、確定した判決がどのような証拠に基づいて判断しているかを検討した。
その結果、袴田死刑囚の実家からはタンクからみつかったズボンと同じ布地の「端切れ」が押収された▽袴田死刑囚が、タンクで見つかったズボンを公判ではけなかったのは、ズボンが乾燥し、収縮したため▽5点の衣類だけでなく、袴田死刑囚が発生後に着ていたパジャマにも血液が付いていたのに合理的な説明ができない▽犯行時のアリバイがない――など、確定判決は自白以外の証拠だけで、袴田死刑囚が犯人だと認定していると指摘した。
弁護側は再審請求にあたり、5点の衣類については捜査機関が捏造(ねつぞう)したものだと主張したが、第二小法廷は、事件直後に見つからなかったことに触れながら「タンクの底に隠れていたとしても矛盾はない」と指摘した。
さらに弁護側の「自白は重要な点で真実に反しており、信用できない」という主張についても「確定判決は自白をもとに犯罪事実を認定しておらず、主張の前提が誤っている」と退けた。
こうしたことから、弁護側が「新証拠」として用意した、衣類や自白調書の内容に関する鑑定書などは、再審開始の要件である「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」には当たらず、確定判決に合理的な疑いは生じないと結論づけた。
=====<引用終わり>===============
(*)最高裁第二小法廷を構成しているのは、以下の5裁判官である。
今井功(裁判長)、津野修、中川了滋、古田佑紀、島田仁郎
2008/03/23のBlog
[ 15:06 ]
[ 独り言 ]
私ごとき者が「忙しい」だの「疲れた」だのと言えば、私よりはるかに多忙な人々からお叱りを受けそうだが、私にとってはやはり年度末はそれなりに忙しい。
忙しさも中くらいなりおらが春
そのため、ブログに書きたいテーマは色々あるものの、なかなかブログを書く時間と気力が湧いてこない。せっかくコメントを頂いてもお返事が遅くなることがありますが、どうか大目に見ていただければ幸いです。
書きたかったテーマの中には、時機を逸してしまったために、二度と書かないものもあれば、今後時間ができたら書きたいと思っているものもある。
最近、個人的な生活の中で大変な苦痛と怒りを感じている事柄があるが、ここで書くべきことではない。そこで、今日は毒にも薬にもならない「近況報告?」ということで、昨日買った本を挙げてみる。
アゴタ・クリストフ『悪童日記』ハヤカワepi文庫
早川書房編集部編『ダニエル・キイスの世界』ハヤカワepi文庫
V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』春秋社
このうち『それでも…』はもう読み終わった。あっと驚くような内容はなかったが、それでもやはり、考えさせられる言葉が散在していた。
・買おうか買うまいか迷ったが買わなかった本
柄谷行人『倫理21』
E.H.エリクソン『幼児期と社会』みすず書房
多和田葉子『旅をする裸の眼』講談社文庫
池澤夏樹『やがてヒトに与えられた時が満ちて』角川文庫
神林長平『言壺』中公文庫
・探したけれども見つからなかった本
丸山健二『争いの樹の下で』『虹よ、冒涜の虹よ』『ぶっぽうそうの夜』『千日の瑠璃』等々(丸山健二の本は結局一冊も見つからなかった)
森有正『生きることと考えること』『いかに生きるか』
要するに、昨日本屋で買ったり探したりした本の大半が、ブログで知り合った人たちの影響によるものである。
さて、最初に挙げた3冊を持ってレジに行くと、そこでとんでもなく腹の立つ出来事があったのだが、書くと余計に疲れるだけなので、やめておこう(苦笑)。
2008/03/16のBlog
[ 13:09 ]
[ メディア ]
朝日新聞、とりわけ天声人語に対する批判はwarmgunさんにお任せしたいと思っていたのだが、今日の天声人語の愚劣さには、とうとうwarmgunさんも批判する意欲さえ喪失してしまわれたようなので(*)、やむなく私が「アホらしながらお相手つかまつる」ことにした。
今日の話題はブラジルから日本に「帰化」した歴代のサッカー選手である。吉村大志郎、呂比須(ロペス)、三都主(サントス)、闘莉王(トゥーリオ)といった系譜をたどり、J1川崎のジュニーニョが日本国籍取得を希望していることを指摘した後、次のような驚くべき差別的言辞を弄しているのである。
《心おきなく応援するため、私たちも胸の中で小さな審査をしている。ラモスは日本人を妻にし、三都主は日本の高校を卒業、闘莉王は日系3世でもあり、みな日本語を話すと。どこかに「日」の字を見つけ、納得している自分がいる》(強調は引用者)
解説するのもバカらしいが、この文章の筆者は、日本国籍を取得した人々に対し、この人は一体どこまで「本当の日本人」らしくなったのか、と「胸の中で審査している」というのである。これほどあからさまな差別意識を丸出しにしながらも、筆者はおそらくそれが差別だという自覚すらないのだろう。さもなければ恥ずかしさの余り臍をかんで死んでしまうに違いない。通知表に、この生徒はどれだけ「愛国心」を持っているのかと「成績」をつけて何の疑問も恥辱も感じない教師と同じである。
歴代のサッカー日本代表を応援してきたサッカー・ファンで、「ラモスは日本人と結婚したから…」だの「三都主は日本の高校を卒業したから…」、「闘莉王は日系3世だから…」云々といった理由で彼らを応援するような人種差別主義者がどこにいるのだ。仮にいたとしたら、そんな奴はサッカー・ファンでもなんでもない。
天声人語氏はさらにこの文章のすぐ後にも、「あらゆる分野で「僕らの代表」が行き来し、血と技と魂が溶け合い、力になる」と書いている。「血」への非合理主義的な狂信が差別主義思想の根源にあることは歴史が十二分に証明しているところであり、現代国家の国籍と血縁とが(少なくとも理念的には)無関係であることは常識以前のことである。にもかかわらず、このような差別意識を平然と丸出しにして恥じない無神経こそ、今の朝日の編集委員・論説委員の水準を示しているのであろう。
(*)この記事を書き終えてアップする前にwarmgunさんのブログを確認したところ、若干の批判を追記されていた。
今日の話題はブラジルから日本に「帰化」した歴代のサッカー選手である。吉村大志郎、呂比須(ロペス)、三都主(サントス)、闘莉王(トゥーリオ)といった系譜をたどり、J1川崎のジュニーニョが日本国籍取得を希望していることを指摘した後、次のような驚くべき差別的言辞を弄しているのである。
《心おきなく応援するため、私たちも胸の中で小さな審査をしている。ラモスは日本人を妻にし、三都主は日本の高校を卒業、闘莉王は日系3世でもあり、みな日本語を話すと。どこかに「日」の字を見つけ、納得している自分がいる》(強調は引用者)
解説するのもバカらしいが、この文章の筆者は、日本国籍を取得した人々に対し、この人は一体どこまで「本当の日本人」らしくなったのか、と「胸の中で審査している」というのである。これほどあからさまな差別意識を丸出しにしながらも、筆者はおそらくそれが差別だという自覚すらないのだろう。さもなければ恥ずかしさの余り臍をかんで死んでしまうに違いない。通知表に、この生徒はどれだけ「愛国心」を持っているのかと「成績」をつけて何の疑問も恥辱も感じない教師と同じである。
歴代のサッカー日本代表を応援してきたサッカー・ファンで、「ラモスは日本人と結婚したから…」だの「三都主は日本の高校を卒業したから…」、「闘莉王は日系3世だから…」云々といった理由で彼らを応援するような人種差別主義者がどこにいるのだ。仮にいたとしたら、そんな奴はサッカー・ファンでもなんでもない。
天声人語氏はさらにこの文章のすぐ後にも、「あらゆる分野で「僕らの代表」が行き来し、血と技と魂が溶け合い、力になる」と書いている。「血」への非合理主義的な狂信が差別主義思想の根源にあることは歴史が十二分に証明しているところであり、現代国家の国籍と血縁とが(少なくとも理念的には)無関係であることは常識以前のことである。にもかかわらず、このような差別意識を平然と丸出しにして恥じない無神経こそ、今の朝日の編集委員・論説委員の水準を示しているのであろう。
(*)この記事を書き終えてアップする前にwarmgunさんのブログを確認したところ、若干の批判を追記されていた。
2008/03/15のBlog
[ 16:51 ]
[ 変な木研究会 ]
2008/03/14のBlog
[ 17:22 ]
[ 本たち ]
最初に申しあげます。私は不良少年の出で、どこから見ても劣等生であります。したがって俗にいう劣等生諸君に親愛の情を抱いており、劣等生にしゃべりかけているときが一番気楽に、率直に、物事をしゃべれるような気がするのであります。
俺はうんと小さいときから、なぜか自分は一人前の人間じゃないんだ、と思いこんでしまったところがあって、本心でそう思いこむというのはあんまり楽しいことじゃないんだけれどね、とにかくそう思っちゃった。そうすると、なにかにつけて自分というものがはずかしい。皆がごく自然にやっている当たり前のことを、俺はためらってしまう。
俺はもともと一人前じゃないと思ってるのに、会社の中では、演技でなくて、本気で、一人前の顔つきをしなければならない。これが疲れる。・・・仮の自分で、できれば通したいんだが、それがそうはいかない。相手も仮の姿とは受けとらないし、なによりも自分が、本気で、本気の自分の顔というものをあらわさなければならない。そこが、しらける。
2008/03/09のBlog
[ 17:50 ]
[ 社会 ]
先日、ひろさちや氏の「ウサギとカメ」に関する話を紹介したところ、3人の方からコメントを頂いたが、そのなかのサンシン君からは、府川源一郎・横浜国立大学教授の論文「ウサギとカメの教育文化史」の掲載されたサイトを紹介して頂いた。それによれば、イソップ寓話が初めて日本に紹介されたのは安土桃山時代の1593年のことだったが、「ウサギとカメ」を含むイソップ寓話が紹介されたのは明治時代の初めであり、それ以後、小学校の「修身」「唱歌」「国語読本」などの教科に「ウサギとカメ」の寓話が様々な形で導入され、20世紀初頭にはすでに広く人口に膾炙していたことが窺える。そして、この「ウサギとカメ」の寓話は、「慢心と油断の戒め」および「勤勉と努力の奨励」という教訓を持つものとして、戦前のみならず、戦後においても国語の教科書や児童文学を通じて、親や教師から子ども達に伝えられていったのである。
さて、前回、「ウサギとカメ」という記事の中で、ひろさちや氏が、日本社会におけるこの寓話の解釈が競争至上主義を煽るものとして批判していることを紹介した。しかし、この点については、私はひろ氏の主張に同意しない。カメが途中で寝ているウサギを起こさなかったなどといって非難されるいわれは全くない。これは競走なのだから、競走の途中で寝てしまったウサギに落ち度があったことは言うまでもない。足の速いウサギと足の遅いカメが競走をし、足の速いウサギが慢心から居眠りしてしまったので、足の遅いカメに負けた。ただそれだけの話である。しかし、ただそれだけの話が、これだけ長い年月にわたって、これだけ広範囲に伝えられてきた社会的背景を考えてみたい。
この話のポイントが「慢心の諌め」や「油断大敵」といったこと以上に「勤勉と努力の奨励」にあったことは、府川氏の論文からもわかると思う。明治政府が近代国家を形成していく過程において、欧米列強に「追いつき追い越せ」ということを国家的目標としていたことは歴史の教えるところであり、そのためにも勤勉で従順な国民主体=臣民を形成する必要があり、「ウサギとカメ」の寓話もそのための手段の一つとして用いられたのである。と同時に、これは子どもの立身出世を願う親にとっても、有効な教育ツールの一つと見なされたのであろう。つまり、明治以後昭和末期に至るまでの教育イデオロギーにおいて、「ウサギとカメ」は子どもを従順で勤勉な国民主体=臣民に育て上げるためのツールとして最大限に利用され続けたのである。
「才能ある怠け者」と「平凡な才能の努力家」が競争すれば、最終的には後者が勝つ、というのはおそらく真理であり、私自身も努力の尊さを否定しない。というより、努力を継続するという(私にはない)才能を持つ人を尊敬する。したがって、努力自体に問題がないことは明白だ。では一体何が問題なのかというと、「ウサギとカメ」のカメ・イデオロギーが、日本社会の大きな問題点である受験教育至上主義と集団主義という2つのイデオロギーと結託していることである。人間には様々な能力・才能があるが、個々人がどの能力・才能に秀でているかは人によって異なる。それら個々の能力について、競争を行ったり、順位をつけたりすることは、それ自体悪いことではない。大相撲で、勝ち負けを決めるのはやめましょう、毎場所全力士優勝ということにしましょう、というのでは、大相撲など成り立たないし、同じことは全てのスポーツについて言えるし、もちろん、スポーツ以外の事柄でもいえることだ。だから、問題は競争それ自体にはない。日本の教育において問題なのは、勉強というたったひとつのモノサシによって優劣を測り、その優劣によって、生涯の「成功確率」が決まるかのごとき学歴信仰社会になってしまっていることだ。さらに、受験勉強においては、目標(偏差値上位校に進学すること)も正解も外的に与えられるために、自分の頭で目標を設定したり思考したりする主体性が損なわれることになる。その結果、どういうことが起きるかというと、受験勉強の秀才たちは、自分の頭で是非・善悪を判断する主体性が極度に乏しく、権威に従順な権威主義的タイプが圧倒的に多くなる。そして、そういう非主体的な権威主義者が日本社会のエリートとして我々大衆を支配するようになるのである。
ウサギとカメの喩えを使えば、日本型カメとは、外部から与えられた目標に対し、その正当性をこれっぽっちも疑うことなく、その目標達成だけを目指して努力するタイプである。こういうタイプが受験秀才になっていくことは火を見るより明らかだ。それに対して、ウサギ型人間とは、自分の好きなことには熱中するが、興味が湧かないことには全く見向きもしないタイプである。そして自分の好きなことは自分で見つけるので、人から与えられた課題は、それをやる意味が見出せない限りやろうとしない。こういうタイプが受験競争やその延長である企業社会の競争において落ちこぼれてしまうのもほとんど必然的である。その結果、受験秀才たちの多くは、勉強において興味のない科目もない代わりに興味のある科目もない、という驚くべきロボット人間なのである。このようなカメ・ロボットが企業や官僚社会の奴隷労働に最も適した人材であることは言を俟たないだろう。こうして日本は、カメ・ロボットに支配される陰鬱な社会となってしまったのである。
【追記】
色川武大氏は『うらおもて人生録』の中で次のように述べているが、これは私の考えとほぼ同じなので、引用させて頂く。
《同時代、同年齢で、ほぼ同じ生活環境で、優劣の差にどのくらいの巾があるものなんだろうなァ。
俺の見たところでは、綜合的な能力差は、それほど無いように思うんだけれどもなァ。
もっとも、だから優劣がないということでもないんだ。
ひとつの物差しで眺めた場合には、すくなくとも順位がつくぐらいの差ははっきり出てくるね。
現在の学校教育では、主として勉強という物差しで優劣をはかるわけだね。(……)これは能力差というよりは、前に記したように、勉強する態度の差で決まるように思えるね。》
《尺度を変えて、喧嘩の強いもの順に順位をつけると、がらりとちがう番付になる。……
では、世間知を基準にすると、またがらりと番付が変わるだろうね。道徳性を基準にしてもそうだし、団結力、活力、回転力、融和性、耐久力、外交性、基準はいくらでもある。そうして、これ、いずれも能力の範疇(区分)に属することで、劣等生に見えてもすべてにおいて劣等というわけじゃない。・・・
ところが、普通は、生徒自身も、学校の定める順位を、自分のゆるぎない能力判定だと思いこんでしまうことが多いんだ。》
上の文章の少し後で、色川氏は次のようにも述べている。そこで言う「怠け者」「働き者」とは、私の文章でいう「ウサギ型人間」と「カメ型人間」にほぼ対応していると見ていいだろう。
《怠け者というのは、ツボにはまらないと働かない人のことだと思う。自分が好むことしかやらないんだね。
働き者は、どんな条件でも、とりあえず働かなくちゃならないし、働こうとしているんだね。》
2008/03/07のBlog
[ 16:49 ]
[ 番外編 ]
一、もしもし かめよ かめさんよ
せかいのうちで おまえほど
あゆみの のろい ものはない
どうして そんなに のろいのか
二、なんと おっしゃる うさぎさん
そんなら おまえと かけくらべ
むこうの 小山の ふもとまで
どちらが さきに かけつくか
三、どんなに かめが いそいでも
どうせ ばんまで かかるだろ
ここらで ちょっと 一ねむり
グーグーグーグー グーグーグー
四、これは ねすぎた しくじった
ピョンピョンピョンピョン ピョンピョンピョン
あんまりおそい うさぎさん
さっきのじまんは どうしたの
~「うさぎとかめ」石原和三郎作詞・納所弁次郎作曲より~
誰でも子どもの頃にウサギとカメの寓話を聞いたことがあるだろう。
この話は一般に、才能を過信して努力を怠ってはいけない、とか、才能がなくてもコツコツ努力すれば勝てるのだ、などという教訓話として語られる。
ところが世界には、この話から全く違った教訓を引き出す国もあるらしい。
ひろさちや氏が『無責任のすすめ』の中で書いている話を紹介しよう。
まず、ひろ氏は、自分の娘と息子に問いかける。
ひろ「ウサギさんはどうしたらよかったと思う?」
娘「お父さん、ウサギさんは順番を間違えたのがよくなかったね」
ひろ「どういうこと?」
娘「ウサギさんは、まずゴールに入ってからお昼寝をすればよかった。それなのに、最初にお昼寝をしたのがよくなかった」
ひろ(この子は親に似て頭のよい子だ)
息子「僕はお姉さんと違うな。ウサギさんはカメさんと仲良くすればよかったんだ」
ひろ(それはそうだけど、男の子なのに元気がないな)
次にひろ氏は、イラン人に聞いてみた。
ひろ「ウサギとカメの話があるだろう?」
イラン人「あります」
ひろ「お国では、ウサギはどうすべきだったと子どもに教えているんだ?」
イラン人「どうしようもない」
ひろ「だって、ウサギは競走に負けただろう?」
イラン人「負けました」
ひろ「だから、どうしたら競走に勝てたと教えるんだい?」
イラン人「どうしても勝てないと教えます」
ひろ(待てよ、おかしいな)「お国のウサギとカメはどういう話なの?」
すると、内容が違うということがわかった。イランでも、ウサギとカメが競走するが、このカメは頭のいいカメで、自分とそっくりの弟を呼んできて、先にゴールに立たせておいてから競走をする。だから、ウサギがどんなに速く走っても、カメの方が先にゴールしていることになるから勝てない、という話である。
ひろ「そんなのずるいじゃないか」
イラン人「いや、頭がいいだけです」
ひろ「だったら競走なんかしないほうがいいじゃないか」
イラン人「それは当たり前です」
つまり、イランでは競争は醜いものだから、競争なんてしてはいけないという教訓として「ウサギとカメ」の話を使っている。
今度はインド人に聞いてみた。最初に、話の中身が日本と同じであることを確認したあと、次のように問いかけた。
ひろ「インドでは、ウサギはどうすべきだったと子どもたちに教えているの?」
インド人A「ウサギはノープロブレムだ」
ひろ「なんで?」
インド人A「悪いのはカメだから」
ひろ「なんでカメが悪いの?」
インド人A「だってカメは昼寝をしているウサギを追い越していった。どうしてそのとき『もしもしウサギさん、目を覚ましたらどうですか?』と一声かけてやらなかったのか。一声かけてやるのが友情じゃないですか。あのカメにはちっとも友情というものがない」
ひろ(さすがはお釈迦様の国だけど、一応反論しておこう)「あなたの言うこともわかるけど、これはゲームだから相手が寝ていても、起こさなくてもいいんじゃないか?」
インド人A「そうか、ゲームだったらまあいいか」
インド人B「さっきから昼寝だと言っているけど、それはわからないでしょう?」
ひろ「え?」
インド人B「ウサギはひょっとしたら、病気で苦しんでいるのかもしれない。声をかけて起こしてみて、はじめて怠けて居眠りをしているだけか、病気で苦しんでいるのかがわかる。それなのに、自分が勝つことだけに必死になって、わかりもしないのに、居眠りしているだけだと決め込んで黙って通り過ぎるのですか? そんな、日本人みたいなカメが好きなのですか?」
これらのエピソードから、ひろ氏は、ことほどさように日本人は競争至上主義に毒されており、人を気遣う心も友情もなくしてしまうと語るのですが、あなたはどう思いましたか?
2008/03/06のBlog
[ 18:23 ]
[ 本たち ]
坂口安吾「堕落論」「白痴」(新潮文庫)
色川武大「うらおもて人生録」(新潮文庫)
ひろさちや「無責任のすすめ」(ソフトバンク新書)
以上は昨日買った本である。買ったばかりなので、いずれもまだほんの少ししか読んでいない。
坂口安吾の「堕落論」は角川文庫から出ている本を今から20数年前に買い、“堕落論”ほか数編を読んだきり放置していたが、先日本棚の奥から取り出してきたところ、いくら拭いても埃臭さが抜けないうえに、紙が茶色く変色してしまって読みにくいので、新潮文庫の「堕落論」を買ってきたのである。両者見比べてみると、角川版には13編、新潮版には17編の作品が収録されているが、共通しているのは4編だけである。
色川武大は初買い・初読みである。
この本を買ったのは、マキノコさんの記事「嘘とハッタリの無い世界。」の影響である。この記事の中で、この本について、「のっけから、色川さんの不器用なだがとても大きい優しさの溢れる語り口に、胸が込み上げてしまう」と書いている。
私も最初の数編を読んだだけだが、まさしく同じような印象を受けた。若い人に向けて書かれた本なのだが、若くない私が読んでも面白いし、なにより色川さんの温かい人柄がじかに伝わってくる。また、本書とは独立に、マキノコさんの書評自体も素晴らしいので、皆さんも是非リンクを辿って読んでみてください。
残りの一冊、「無責任のすすめ」は、タイトルだけ見ると、渡辺淳一の「鈍感力」や、その二番煎じっぽい竹村健一の「いい加減力」などと同類のトンデモ本ではないかと思う人も多いだろう。しかし私は、目次を見て、発作的に買うことに決めた。目次には、例えば次のような項目が見える。
・ 「人生いろいろ」と言う男に自己責任を問われたくない
・ 野党には、責任などないんだ
・ 生活が豊かになっても、生きにくい社会に意味はない
・ 少数の反対意見ほど貴重な示唆はない
・ 内部告発は、奴隷から自由人になることなんだ
・ 専門家は皆、無責任な存在にすぎないんだ
・ 職場は刑務所だから、自己実現なんてできるわけがない
・ 職場という刑務所は脱獄してもいいんだね
・ 国家の都合より、国民の都合を優先すべき
・ 自分の意見、少数意見を言うことはエゴイズムではない
著者はこの本の前書きの中で、本書執筆の意図を次のように述べている。
<私の言いたいことは、「責任を取るべき人間に責任は取らせようよ」ということ。だから、責任を取る必要のない人間は、無責任でいいということになる。
ところが気をつけていないと、私たち国民が、会社でいえば従業員がいつの間にか責任を取らされてしまう。じゃあ、責任を取るべき人間は? 政治家や経営者は? というと、涼しい顔をして言い訳ばかりしている。それはおかしいよね。
本当に責任を取るべきやつが責任を取る。それが当たり前の世の中にしたい。何で俺たちが、やつらのために責任を取らなければいけないのか。本書は、そんな怒りの本なのだと認識してほしい。>
<要するに、諸悪の根源は全部、自民党にある。自民党のおかげで、日本が立ち行かなくなっていくことが、目に見えている。それが今という時代だ。>
著者のひろさちやという人は宗教評論家で仏教者であり、やたらたくさん宗教関係の本を出しているということ以外はよく知らない。彼の著書で読んだことがあるのは、「お葬式をどうするか」(PHP新書)の一冊だけである。数年前、葬式の仏教的意味を知りたくて買ったのだが、書かれてあることの多くに納得できた。宗教評論家である著者がなぜこんな本を書いたかについても、前書きの中に書かれている。
<私も七〇歳を過ぎて、あまり失うものもないし、もうそこそこ生きてきたし、仮に今暗殺されても十分だと思うようになった。言いたいことは言わないと、誰かが言わないといけないと思うようになった。そうでなければ、日本は本当に終わってしまう。>
本書のうち3章分ほど斜め読みしてみたが、共感できる部分が6~7割、といったところだろうか。無宗教・無神論者の私にはどうしても受け入れがたい部分もある。
2008/03/03のBlog
[ 19:41 ]
[ 番外編 ]
痴漢冤罪事件を描いた周防正行監督の「それでもボクはやってない」は1年余り前に公開されたが、確か東京周辺では上映していなかったと思う。そのため見ることができなかったのだが、先日テレビで放送していたので、ようやく見ることができた。
周防監督作品を見るのは、「シコふんじゃった」(1991年)、「Shall We ダンス?」(1996年)に次いで3作目だったが、結論を言えば、3作品の中では最低の出来だった。私のなかでは「シコふんじゃった」がベストで、「Shall We ダンス?」も結構面白かった。しかし、期待していた3作目ははっきりいって見るべきところがなかった。周防監督はこの作品を撮るために2年間も裁判を傍聴したそうだが、作品には驚きも意外性も面白さも新鮮さも何一つなかった。周防監督は、一体この作品で何を訴えたかったのだろうか?
痴漢冤罪事件というのは、非常に奥が深いテーマであり、現実の裁判でも痴漢とされた被告人が冤罪を訴える訴訟が数多く行われている。実際に無罪になったケースもあるが、冤罪のまま有罪判決を受けるケースも数多くあるだろう。また、なかには非常に腹立たしいことではあるが、実際の痴漢犯が裁判で冤罪を訴えているケースもあるかもしれない。言うまでもなく、痴漢は許すことのできない卑劣な犯罪であり、痴漢に遭った被害者が泣き寝入りを強いられるケースも多い中で、被害者が勇気を持って痴漢犯を告発する行為はそれ自体称賛に値する。他方で、無実の人が痴漢と間違えられると、大変なことになってしまう。否認して裁判にもちこんでも、無罪判決を勝ち取れる確率は低いうえ、それまでに大変な時間と労力とお金がかかるだけではない。大抵の場合、起訴された時点で仕事と信用を失ってしまうだろうし、周囲からは「卑劣な痴漢犯」として白い眼で見られるだろう。友人や恋人を失うかもしれない。そのため、実際にはやっていないにも拘わらず、こうした事態を避けるために、示談金を支払って示談にしてしまうケースも多いだろう。そうした弱みにつけ込んで示談金をふんだくる「痴漢被害捏造犯」という悪質な犯罪もあるらしい。
ここには日本の捜査と司法のあり方に関する大きな問題点が山積しているのである。「それでもボクはやってない」でも確かにそうした問題点の一端を描いてはいるものの、問題の取り上げ方が非常に表面的で通り一遍に思われた。「そんなの常識じゃん」というような問題点しか描かれていない。映画において一層重要なのは、被告人やその家族、支援者、被害者、証言者などの心の葛藤を描くことだと思うが、そういうところがほとんど描かれていない。無実の被告人があくまで無罪を訴えて裁判を戦い抜くのは大変な忍耐力と精神力を必要とするはずで、それでも途中で何度も心が揺れるものではないかと想像するが、この映画の主人公にはそういう心の揺れが全くないというのも不自然だ。また、主人公がフリーターという、あまり社会的地位や責任のない立場にあることも、この映画をつまらなくさせている一因だろう。それから、瀬戸朝香演じるあの生意気な若手弁護士の態度は何ですか?(笑) 瀬戸朝香は嫌いな女優ではないが、あの弁護士役は頂けませんねぇ。それから役所広司のお役所的な演技ももういいよ(笑)