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イスマタリアン
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2008/04/10のBlog
[ 18:24 ] [ ニュース ]
仕事を早めに切り上げて、「死刑について考える」の続きを書こうと思っていたら、このニュースを知り、一気に脱力した。


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4人死刑執行 鳩山法相のもと10人目「今後も粛々」
2008年04月10日13時25分

 法務省は10日、同日午前に4人の死刑を執行したと発表した。鳩山法相が昨年8月に就任以来、執行は昨年12月の3人、今年2月の3人に続いて3回目で計10人。法相は午前11時からの記者会見で「これからも、粛々とやらせていただく」と語った。これで確定死刑囚は104人になる。

 一時止まっていた執行が93年に3年4カ月ぶりに再開されてから、1人の法相のもとでの10人の執行は長勢前法相と並んで最多。前法相は4カ月に1度だったが、鳩山氏は2カ月に1度の間隔で執行命令を出していることになる。

 また、死刑判決の確定から執行までの期間は07年までの10年間でみると平均8年だったが、この日執行された4人のうち3人は確定後4年以内だった。

http://www.asahi.com/national/update/0410/TKY200804100076.html?ref=rss
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日本は世界の趨勢に逆らって、大量処刑時代に突入している。

2001年から2005年まで、日本において死刑を執行された者の数は、各年当たりそれぞれ、
2人、2人、1人、2人、1人
だったが、
安倍政権(長勢甚遠法相)になった2006年9月からの1年弱で一挙に10人に増え、
福田政権(鳩山邦夫法相)が成立した2007年9月からわずか半年あまりで10人に達した。
鳩山法相は殺人競争でもしているつもりなのだろうか!
「これからも粛々と」殺人命令を出し続けるそうだ!


※1981以降、今年2月までに死刑を執行された人については、「無限回廊」サイトの中の「死刑被執行者」のページに詳しい資料がある。


2008/04/09のBlog
[不破利晴さんの関連記事]

1.はじめに

 先日の「辺見庸氏講演会」にも参加された不破利晴さんが昨夜、「俗物による、俗物のための”死刑廃止論”」と題する極めて優れた論考を発表された。この論考が「極めて優れた」ものであると私が思うのは、誰をも説得しうるような見事な論証がなされているからではない。おそらくそんなことは誰にもできないだろう。そうではなく、死刑制度という賛否両論の激突する、極度の感情的負荷と緊張を孕んだ複雑な問題に対して誠実に向き合い、自らの頭で論理的・倫理的側面から考え抜こうとされているからである。これまで死刑制度について書こう書こうと思いつつ先延ばしにしてきた私だが、不破さんの論考を読んで、いよいよ自分の拙い考えを書く決心をした。自分ではこれまでも死刑についてはそれなりに考えてきたつもりであったが、実際に書くとなると、予想していたよりもはるかに困難であると思えてきた。

 まずはじめに、私自身の死刑反対論の主要な論点ではないが、憲法と死刑の関係について一言触れておく。一般に、死刑制度の是非については、憲法解釈論では一義的な答えはでないとされている。というのは、憲法36条は「残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と規定する一方で、31条は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めており、ここから、憲法は「生命を剥奪する刑罰=死刑」の存在を前提としていたと解釈できるからだ。もちろん、そのことから、憲法が死刑制度を「要求」しているとまで解釈することはできないが、死刑の違憲性を憲法の文言だけから導くことも困難なことは否めない。最高裁は、1948年に「一人の生命は全地球よりも重い」としつつも死刑の合憲性を認める有名な判決を出しているが、今後、判例変更の可能性がないとも言えない。要するに、憲法の文言だけからは違憲とも合憲とも言えない(あるいはどちらとも言える)わけだが、それでも憲法の精神に基づいて死刑の違憲性を主張する人々は、13条の「個人の尊厳」を拠り所にするのが一般的である。この点については後で再び言及するが、それとは別に、9条と死刑廃止を関連づけて論じる論者もいる。これは、不破さんが上記論考で書いておられるように、まさに辺見氏が先日の講演会で指摘した論点でもある。

 憲法学者の樋口陽一氏は1991年、パリで行われた研究会の席上、日本国憲法第9条は、侵略戦争を否定した1791年フランス憲法以来の戦争違法化の長い歴史の系譜に位置づけられるという「連続性」と同時に、もはや「正しい戦争」はありえないという、歴史的に見ても新しい哲学に立脚する点で過去との「断絶性」を有するという二面性を指摘した後、死刑を廃止した欧州諸国の出席者に対し、死刑廃止は犯罪犠牲者たちの自然な感情に反してまでも「正しい殺人」はないという思想を制度化したものであるのに、国際社会でどうして「正しい殺人」(戦争は必ず殺人を伴う)の必要性に固執するのか、と問いかけている(『憲法と国家』岩波新書、参照)。これは日本社会に対しては、(「正しい殺人」という思想を含意する)「正しい戦争」を否定した9条を持つ日本社会は、なぜ「正しい殺人」という思想に基づく死刑制度の必要性に固執するのか、という問いかけになる。

 憲法学者以外でも、去年亡くなった小田実は、平和主義の基本的倫理と論理が「殺してはならない」ではなく「殺されてはならない」であると指摘し、「人間はいかなる理由、大義名分に基づこうと殺されてはならないのです。こう考える私は、当然、戦争否定者であるのと同時に死刑否定、廃止主張者です。人を殺した者を殺すやり方は、戦争と同様に人間のやることではない」と述べています(『戦争か、平和か』大月書店)。

 さて、私が死刑に反対する基本的な(だが唯一ではない)理由はヒューマニズムへのコミットメントである。ここでいう「ヒューマニズム」とは、すべての人間には固有かつ不可侵の尊厳が備わっている、という思想である。この思想が正しい、ということを論証(論理的証明)することは私にはできない。あとでまた触れるが、この思想には限界がある、とさえ感じているが、にもかかわらず、この思想を手放すことは私にはできない。人間は、ただ人間であるというそれだけの理由によって、固有の尊厳を持つ。言い換えれば、人間以外のものにはそのような「固有の尊厳」を認めないわけであるから、この思想は極めて人間中心主義的な偏狭さを持っていることになる。他方で、人間である限り、その尊厳は平等に尊重されなければならず、そこにはいかなる差別もあってはならない。なぜそうなのか、ということはもはや論理的には証明できない。つまり、ヒューマニズムとは一種の「賭け」であり、決断であり、帰依である。

 ここで辺見氏の講演に触れると、不破さんも書いておられるように、辺見氏はマザー・テレサのような「愛」、とりわけ「不都合なものへの愛」を死刑反対と結びつけようとしており、不破さんはそれに対して好意的評価をしておられるが、この点は私の考えとは全く異なる。愛や憎しみは極めて個人的な感情であって、普遍主義的理念に基づくべき法とは相容れない性格を有している。それどころか、愛や憎悪、あるいは残酷といった感情は、基本的に人間と人間以外のものを区別しない。戦争や災害で何千人、何万人もの死者が出たというニュースを聞いてもほとんど何の感慨も持たない人が、自分の愛するペットが死ねば激しい悲しみと喪失感に襲われる、というのは、ごく普通に見られることである。

 この問題については、かつて本多勝一氏が「イルカだけが問題なのではない」という論考において、極めて示唆に富む議論を行っているので、長くなるが引用しておきたい。

《 明らかなことは、残酷の場合と同様に愛さえも種を超えうるということだ。……もし私たちが感性のみを判断の基準とするならば、愛することも殺すことも、人間だからということを前提とすることはできない。人間と動物との境界、人間と宇宙人との境界はたやすく消えてしまうであろう。
 結論そのものはきわめて単純であろう。残酷も愛も、たいへん頼りないものを基礎にしている。人類が真に平和を保とうとするのであれば、人類憲法ともいうべきひとつの最高契約を結び、それを論理として守るべきである。すなわち、人類は、人類を殺してはならぬ。知能が高いからでもなければ、「神の子」だからでもない。単に「人類だから」それ故に殺してはならない。そして人類とは、生物学上のホモ=サピエンスであることの以下でも以上でもない。どのような形態の奇形児であれ、ハトやカマキリにも劣る知能指数(?)の子であれ、単に人類であること、それだけの理由によって、絶対に生きる権利がある。そこにはいかなる差別もあってはならない。同時に、人類の中の特定の階層や個人が特別な待遇を受けてはならない。これはタテの両面だから、「人の上に人を作」るような存在を認める社会派、重度身体障害者や植物人間を殺す社会でもあるだろう。 》(本多勝一『麦とロッキード』講談社文庫所収)


 ここまではもっぱら他人の意見の紹介であり、私独自のものは何もありません。したがって、ここからが本論なのですが、今日は時間がないので、この辺りで切り上げます。続きはまた明日(?)…。


【追記(2008/04/12)】

 つまり、愛とは極めて個人的で個別的なものなのである。我々がある人やあるものを愛するのは、まさにそれがかけがえのない固有性を備えているからであって、人は一般的・普遍的なものを愛することはできない。それゆえ愛は、一般性・普遍性を志向する法の世界にはなじまない。付言すれば、犯罪もまた、愛と同様、極めて個別的で偶有的なものである。すべての犯罪は固有性と一回性を持っている。どんな連続犯罪であれ、それぞれの犯罪が一回性と固有性を有している。しかし、そうした固有性を持つ犯罪が、ひとたび法の世界において裁かれる際には、そうした固有性が考慮されないわけではないが、基本的には固有性の相において眺められるのではなく、一般性の相において、すなわち同種の他の諸事例との比較・相対化によって、眺められるのである。

2008/04/08のBlog
[ 02:02 ] [ メディア ]
[warmgunさんの関連した記事その1]
[warmgunさんの関連した記事その2]


 朝日新聞は昨年4月から1年間、240回以上にわたって夕刊に「新聞と戦争」という連載記事を掲載したが、その連載を終えるにあたり、3月30日の「オピニオン面」に3人の識者――井上ひさし(作家・劇作家)、アンドルー・ゴードン(ハーバード大教授)、李相哲(龍谷大教授)――の意見を載せた。これに関連して、朝日(をはじめとする現代のマスメディア)に対する批判記事を書こうと思い、この記事を切り抜いておいた。

 「新聞と戦争」という連載の存在はもちろん知っていたが、私はほとんど読んでいなかった。夕刊の目立たない(読みにくい)場所に毎日少しずつ掲載するという形式だったため、朝日新聞の愛読者でも、この連載を読み通した人はよほどの暇人か奇特な人しかいないのではないだろうか。まるで「読んでくれるな」と言っているかのようだった。仮にこれが、天声人語や社説(例えば「希望社会への提言」のように週1回でも)のような場所にあれば、読者数は100倍以上に増えただろう。

 この連載について、李相哲氏は「自分の新聞社の恥ずべき過去を洗い出して徹底検証することは勇気がいることだ。その点で、「新聞と戦争」は意義のある企画であり、興味深く読んだ」と評価している。井上ひさし氏にいたっては、「新聞と戦争について戦後いろいろな記事が書かれたが、今回の連載「新聞と戦争」は出色のできばえだ。過去の自らの活動を、驚くほど厳しく自己点検している。過去と同じわだちにはまりこまないために必要な作業だと思う」とまで絶賛し、「引き続き勇気をふるって、自己点検を続けてほしい」とエールを送っている。

 しかし、ちょっと待て、と言いたくなるのは、私だけではあるまい(おそらくwarmgunさんもいる!笑)。「引き続き勇気をふるって、自己点検を続けてほしい」と言いうる相手は、「現在、勇気をふるって、自己点検をしている」者だけであろう。朝日新聞がそれに該当すると言うのか? ちゃんちゃらおかしいではないか!

 この解説ページの冒頭、朝日新聞は何て書いているだろうか? 

 「メディアが戦争を阻止することは可能なのだろうか」ときたもんだ!(爆)

 仮に、ほんの少しでも良識や良心というものがあったならば、決してこのようなノーテンキでゴーマンで自己満足のぬるま湯に浸りきった文句は書けなかっただろう。せめて、最低でも次のように書いたはずだ。

 「メディアが戦争に加担・協力しないことは、はたして可能なのだろうか」と。

 「メディアが戦争を阻止する」???? アホかっ!!!!
 この日本において、一体いつ、そんな歴史が一度でもあったというのか!! 日本の歴史が証明していることは、メディアは常に戦争のお先棒を担いできたという明々白々たる事実だけではないか!! 全く、反省のかけらもない、救いがたい連中である。 

 問うのもあほらしい質問だが、あえてここで質問してみよう。
果たして朝日新聞は、井上ひさし氏が称賛しているように、「過去の自らの活動を、驚くほど厳しく自己点検している」のか、と。

李相哲氏は次のような指摘をしている。

《奉天通信局の武内文彬が「支那側の計画的行動であることが明瞭となった」と打電してきたが、彼は石原莞爾らが満州事変を起こしたということを知っていたと思う。
 問題はその時に、朝日がなぜ事実を誤認したかだ。事件は何ひとつ明瞭でなかったが、朝日は中国側の仕業と断定した。事実を掘り下げることをせずに、軍部の主張に同調してしまった。
 朝日は、満州事変前から「平和主義」が批判され、不買運動もおきていた。「平和主義」を貫くには負担が大きかった。厳しく言えば、当時の朝日の社益のために社論転換の契機をうかがっていたのではないか。》

 これは果たして「過去の出来事」なのだろうか?
 朝日は最近、自分たちが米国による2003年のイラク開戦を批判していたと、さも鬼の首を取ったかのように自画自賛しているが、2001年のアフガン戦争を是認していたことを我々は決して忘れてはならない。上の引用文の一部を例えば次のように書き換えれば、これはまさに現在の朝日新聞の問題であることが明らかになる。

 『ワシントン支局は「アルカイダの計画的犯行であることが明瞭になった」という米国政府の発表をそのまま打電してきたが、朝日新聞社内には米国政府の発表を疑う者もいたと思う。
 問題はその時に、朝日がなぜ事実を誤認したかだ。事件は何ひとつ明瞭でなかったが、朝日はアルカイダの仕業と断定した。事実を掘り下げることをせずに、米国の主張に同調してしまった。
 朝日は、9.11以前から「平和主義」が批判され、読売・産経・文春など右翼メディアの批判にさらされていた。「平和主義」を貫くには負担が大きかった。厳しく言えば、昨今の朝日の社益のために社論転換の契機をうかがっていたのではないか。


 また、アンドルー・ゴードン氏は次のように述べている。

《満州事変での日本の新聞と、イラク戦争での米国のメディアには共通点が多い。
大量破壊兵器が存在するとか、フセインとアルカイダが結びついているという証拠は一つもないのに、米国のメディアは、それが事実であるかのように報じた。満州事変で関東軍の謀略に乗せられて中国側を非難した日本の新聞と、基本的に同じだ。国民をだまして、戦争の正当性をつくり、戦争に導いた。
 その原因も気味が悪いほど似ている。米国のジャーナリストたちも米国政府の言い分を怪しんではいた。しかし満州事変後の日本の新聞と同様に、ナショナリストらから脅迫的な非難が来るのを恐れ、部数や視聴率への影響を心配して、沈黙した。市民への誤爆など戦術に問題があると思っても、アルカイダ攻撃という、もっと大きな目的を害するのではないかと考えて報道を自主的に規制した。》

 これも、ほんの少し文言を変えるだけで、まさに現在の朝日新聞をはじめとするメディアの問題を衝いた文章になる。

 『満州事変での日本の新聞と、アフガン戦争での日米のメディアには共通点が多い。
アルカイダが9.11テロを計画・実行したとか、タリバーンとアルカイダが一体であるという証拠は一つもないのに、朝日新聞をはじめとする日本のメディアは米国メディアに追随し、あたかもそれが事実であるかのように報じた。満州事変で関東軍の謀略に乗せられて中国側を非難した日本の新聞と、基本的に同じだ。国民をだまして、戦争の正当性をつくり、戦争に導いた。
 その原因も気味が悪いほど似ている。日本のジャーナリストのなかにも米国政府の言い分を怪しんではいる者はいた。しかし満州事変後の日本の新聞と同様に、ナショナリストらから脅迫的な非難が来るのを恐れ、部数や視聴率への影響を心配して、沈黙した。市民への誤爆など戦術に問題があると思っても、アルカイダ攻撃という、もっと大きな目的を害するのではないかと考えて報道を自主的に規制した。


 いかがだろうか。これが朝日をはじめとする今のマスコミの実態である。朝日新聞の「新聞と戦争」という連載は、それ自体はもしかしたら優れた企画だったかもしれないが、「過去の自らの活動を、驚くほど厳しく自己点検している」どころか、逆に、昔の朝日新聞社という「他者の活動を厳しく他者点検する」ことによって、あたかもそれが現在の朝日新聞と無縁であるかのように読者を欺き、そうすることによって、国民を不正な戦争へと駆り立てた過去の自社と全く同じ体質を持ち、本質的に全く同じ行為をしている現在の朝日新聞の犯罪を隠蔽するだけでなく、あたかも「改心した平和主義者」であるかのように装い美化するという、信じられない偽善者を装っているのである。

**********************************************

【追記】
 アメリカは「対テロ戦争」の世界規模での推進を呼号し続け、それに追随する日本政府も、日米政治権力の走狗である日米のメディアも、狂ったように「対テロ戦争」の必要性を宣伝し続けている。
 しかし、「対テロ戦争」の発端には「9.11」があったことを忘れてはならない。一体、あの事件の真相はどうなったのか? 全く、何も明らかになっていないではないか。「テロ根絶」というならば、「対テロ戦争」などという前に、まずテロそのものの真相を解明することが何よりも優先されるべきではないのか。テロの真相を解明しようとする努力を放棄して(むしろ隠蔽しようとしているように見える)、他国の民衆の頭上に爆弾の雨を降り注ぐことが、世界中にさらなるテロを引き起こしているのである。
 マスメディアは、「メディアが戦争を阻止することは可能なのだろうか」などという空理空論を論じる前に、「9.11」という未曾有の大犯罪、大テロ事件の真相解明に直ちに取り組め! そして真相解明を怠るアメリカ政府の対応の原因究明に直ちに取り組め!




2008/04/07のBlog
[ 19:40 ] [ 独り言 ]
最近、ふとした拍子に口をついて出てくるので、口癖のようになっている。

やれやれ…。

その1.
この間、ドブログ・スタッフはコメントとTBに承認制の機能を追加して、珍しくいいことをしたな、と思っていたら、今日は「DoblogMUSIC」とかいう、わけのわからん機能をつけてくれた。おかげでページが表示されるまでに時間がかかるようになってしまったではないか。全く余計なお世話だ。早速、非表示にしておいた。

やれやれ…。


その2.
 五輪代表選考会で優勝しても代表に選ばない日本柔道界…。
「国民的なヒロイン」ならば、完敗しても代表に選ぶんですか??
やる前から決めていたのなら、一体、何のための選考会なのか?

やれやれ…。

2008/04/06のBlog
[warmgunさんの関連したBlog]

昨日、以前このブログでもお知らせした辺見庸氏の講演会に行ってきた。
まず驚いたのは、1100人収容の会場が一杯だったことだ。「死刑」などという地味なテーマの講演会にこんなに人が集まるものなのか。もちろん、死刑制度に関心がなくても、辺見庸氏に興味がある人も参加しているだろう。それにしても、だ。死刑廃止にせよ、辺見庸の主張にせよ、今の日本では明らかに圧倒的少数派のはずである。だから、まず、参加者の多さに驚いたのだ。

第2の驚きは、講演の長さである。一人で講演をする場合、どんなに長くても2時間が限度だろう。しかも辺見氏は病み上がりである。せいぜい1時間半くらいかと思っていた。2時開演で、最初の15分間、海野幹雄氏によるチェロ演奏があり、辺見氏の講演は2時15分頃から始まったので、3時45分頃になってそろそろ終わる頃かと思ったら、「ここで10分間休憩を入れます」と辺見氏が言ったのには驚いた。結局、休憩を挟んで、講演が終わったのは5時45分過ぎだったので、一人で3時間半近くも話していたことになる。講演の長さと同時に、辺見氏の話の上手さにも驚いた。別に饒舌とか、話術が巧みという意味ではなく、むしろ淡々と話していたが、それにしても、これだけ長い講演を、聴衆を飽きさせることなく聞かせられる力量には驚いた。

講演の内容は極めて多岐・多方面に亘っているので、とてもここで紹介することはできない。やはりこの講演会に参加されたwarmgun氏のブログも参照して頂きたい。

講演自体は面白かったのだが、後で考えると、いくつかの疑問や不満も残った。一番の不満は、warmgun氏も指摘しておられるが、質疑応答の時間がなかったことだ。あれだけたっぷり時間があったのだから、せめて20~30分、質疑応答の時間があってもよかったと思う。「死刑」というテーマは非常に論じにくいテーマであり、仮に賛成派と反対派が論争すれば、お互いに感情的になるか、論点がすれ違って、実りある議論は生まれにくいだろうと思う。昨日のような講演会では、おそらく参加者の大半は死刑廃止論者か辺見氏が好きな人たちだろうから、せめてその中でも、異なる意見や疑問に辺見氏がどう応答するか聞きたかったと思う。もうひとつの不満は、結局、辺見氏がなぜ死刑制度に反対なのか、その理由が明確な論理的言語で聞けなかったことだ。辺見氏は死刑が生理的に嫌いなのだと思う。しかし、それは辺見氏の個人的感性の問題であるから、(仮に)死刑賛成派に向かって、「お前たちの生理的感覚はおかしい」などと言っても説得力を持たないだろう。むしろ辺見氏がこの講演会で強調していたことは、死刑反対の理由ではなく、「単独者の倫理」「個の倫理」「主体性の倫理」であって、その対極にある「日常性の呪縛」「諧調の論理」「世間の論理」の批判である。しかし、そのことは必ずしも死刑反対とは直結しない。もうひとつ辺見氏が強調していたことは、「愛」、それも「不都合なものを愛すること」である。マザー・テレサの例を引きつつ、「不都合なものを愛すること」の困難さについて話したが、私は死刑制度の是非を論じる際に「愛」に言及することに非常に違和感を覚えた。「不都合なものを愛すること」は、(少なくとも)普通の人間にとっては、単に困難なだけでなく、原理的に不可能だと思う。

あえて厳しい見方をすれば、辺見氏の死刑反対論は、感性的なレベルに終始していたように思う。それは同じような感性を持つ人の心には深く沁み込むだろうが、そうでない人の心には届かないのではないだろうか。ならば、お前は論理的に説得できるのか、と問われるかもしれないが、もちろんそんな自信はない。ただ、いつか自分なりの死刑反対論を書いてみたいと思っている。


講演会終了後、warmgunさんあーもんどさん不破利晴さん鏡 響子さんと合流し、飯田橋の居酒屋でミニ・オフ会を行った。鏡さんが来られていることは知らなかったので、うれしい驚きだった。あーもんどさんとお会いするのは2度目、その他の方とは3度目だったので、この方々とはある程度、昔からの知り合いのような気がしてきているのだが、何度会っても(といっても3度会っただけだが)、不可思議で神秘的な魅力を湛えているのが鏡さんである。というわけで、オフ会で我々がどんな話をしたかということは全部すっ飛ばして、ここから先は「鏡 響子」論に移る(笑)。ブログだけから鏡さんの人となりを推測することは困難だろう。逆に、普段の鏡さんを知っている人が鏡さんのブログを見ると驚くだろう(実際そうだ、という話を鏡さんご本人から伺ったことがある)。そこで、ブログでしか鏡さんを知らない鏡ファンのために、私が造物主から盗んできた処方箋に基づいて、「鏡 響子の創り方」を説明しよう(笑)。それは以下の通りである。

<材料>
「キューポラのある街の吉永小百合」(喩えが古いね!)
「知的で文学好きの深窓の令嬢」
「過激な思想を抱く孤独なアナキスト」
「未知の生物」(笑)
<創り方>
以上の材料を、〈1:1:x:y〉の比率で合成する。
なお、xとyの数値は企業秘密である。
――神の処方箋より

2008/04/04のBlog

私はこのブログを始める前、「ソフィスト倶楽部」というブログをやっていた。そのブログに、2006年9月、安倍前政権が発足した直後、「安倍政権を取り巻く魑魅魍魎」という記事を書いている(最初に考えたタイトルは「安倍を取り巻く狂った人々」というものだった)。その冒頭部には次のように書いていた。

《とうとう戦後最悪の政権が発足してしまった。来年の参院選までの短命政権になるだろうとの観測がもっぱらなので、小泉政権のように長期にわたって国民を苦しめることはできないかもしれないが、ポテンシャルとしては間違いなく戦後最悪政権だろう。(中略)そこで、安倍晋三を取り巻く人々の仰天発言と行動を備忘録として集めてみた。》

 そして、この記事を書く下調べをしているときに“出会った”のが稲田朋美衆院議員である。稲田は2005年の9.11「郵政」総選挙の際、安倍晋三の要請を受け、郵政民営化法案に反対した自民党議員への「刺客」として福井県第1区から出馬して当選した議員である。
 そして2006年2月には自民党の初当選組の半数を集めて「伝統と創造の会」というグループを立ち上げ、その会長に就任している。このグループは同年8月の自民党総裁選では安倍晋三の応援団役を務め、“安倍親衛隊”とも呼ばれていた。稲田議員は、総裁選予定者討論会の後、「一番感慨深く聴いたのは、安倍官房長官が政策として戦後体制の是正と自主憲法の制定をまっさきに掲げられたことです。誰もできなかったことに安倍官房長官は挑戦しようとされているのです」と述べ、安倍晋三を絶賛している。

稲田議員はまた、同年8月15日の福井新聞に掲載された加藤紘一氏との対談では、「(靖国神社問題は)憲法改正に伴いこれから自衛戦争や国際協力戦争で亡くなった人が出たら、どこで慰霊するのかも含めて議論が必要」と述べており、月刊誌「WiLL」の同年9月号では、「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです」と語っている。さらに、同年8月29日に開かれたシンポジウム「新政権に何を期待するか?」においては、「教育基本法に愛国心を盛り込むべきだ」と強調したかと思えば、次のようなことも語っている。

「真のエリートの条件は2つあって、ひとつは芸術や文学など幅広い教養を身に付けて大局観で物事を判断することができる。もうひとつは、いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があることと言っている。そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない

 さて、このような“香ばしい”発言を繰り返す稲田議員が所属するグループは「伝統と創造の会」だけではない。それ以外にも以下のような団体に所属している。
自由主義史観研究会・日本「南京」学会会員
・ 中国の抗日記念館から不当な写真の撤廃を求める国会議員の会事務局長
・ 日本会議国会議員懇談会事務局次長
・ 正しい日本を創る会会員
・ みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会
・ 神道政治連盟国会議員懇談会


 スバラシイではないか!(笑) 極右団体にはすべて顔を出しているわけである。さらに、Wikipediaによれば、彼女は「南京大虐殺否定派」であり、弁護士としては、靖国神社参拝関連訴訟の国側の弁護を手がけるほか、「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判の原告側弁護人」(大阪地方裁判所で原告の敗訴)や「南京百人斬り競争名誉毀損裁判の原告側弁護人」(最高裁判所で原告の敗訴)を務めているそうだ。

**** ***** ***** 

 さて、前置きが随分長くなった(笑)。今日のテーマは映画「靖国 YASUKUNI」である。
 今朝の朝日新聞は「時時刻刻」という解説記事で、「映画館側はなぜ上映中止を決めたのか」、「どんな人たちが上映中止に追い込もうとしているのか」という問いを立て、「国会議員向けの異例の試写会が開かれ、その後上映中止が相次いだ」という指摘をし、「大きな契機の一つは国会議員への試写会だ」とか、「3月12日の国会議員向け試写会が、転機だったように思う」という証言を引き出しながら、具体的に、試写会を要求した議員の名前を全く出していない。これでは稲田議員らに失礼ではないか(笑)。

 今回の問題の発端を改めて振り返ってみよう(Wikipediaを参照した)。まず、稲田ら「伝統と創造の会」のメンバーと「平和を願い、真の国益を考え靖国参拝を支持する若手国会議員の会」(今津寛会長。以下「平和靖国議連」)に属する一部国会議員が文化庁に事前試写会を要求し、3月12日に国会議員80人が参加した試写会が開かれる。そして稲田らは当該映画の製作費のうち750万円を文化庁が助成したことを問題にした。この試写会をきっかけとして、週刊新潮が「映画は『反日的』」とする記事を公表、この記事を受けて、上映を予定していた映画館に対する街宣右翼による抗議や公開中止を求めるなどの圧力があった。

 今回の問題では、映画館側の過剰自粛(上映中止)や、映画館に脅しをかける右翼団体、街宣右翼=暴力団を取り締まらず野放しにしている公安警察などに問題があることは言うまでもないが、問題の根源に、稲田ら極右議員の行動と、事前試写会という名の事前検閲に応じた文化庁の対応があることは、どれほど強調してもしすぎることはない。メディアは、事前検閲を要求した議員全員の氏名を公表すべきである。

<追記>

さらに今日、こんなニュースも流れた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080404-00000068-mai-soci
<映画「靖国」>文科相「国政調査権で依頼」を疑問視
4月4日14時33分配信 毎日新聞

 ドキュメンタリー映画「靖国」の上映を中止する映画館が相次いだ問題で、渡海紀三朗文部科学相は4日の閣議後会見で「一部の議員が国政調査権として(内容の確認を)依頼したようだ。国政調査権は本来(両議院の)委員会を通じて行使されるのがルールだ」と述べた。この問題では、自民党の稲田朋美衆院議員が映画の封切り2カ月前の2月12日、文化庁に内容の確認を申し入れたことが明らかになっている。

 渡海文科相は「(稲田議員は)『あの映画に政治的メッセージがあるにもかかわらず、(文化庁所管の独立行政法人から)助成金が出ているのでは』という疑義があるから見せてほしいとのことだった。特定の依頼に対し、国の機関が何かをやるのは基本的によくないと思う」と述べた。

 文化庁は申し入れを受けて配給会社に相談し、全国会議員を対象とした異例の試写会(3月12日)を開催することが決まった。

 国政調査権は憲法に基づく国会の権利で、衆参両院のいずれかの議決で発動する。行政機関に記録の提出を要求したり、証人喚問をすることなどができる。【加藤隆寛】

目を開けて天井を見つめている夢を見た




いや、意識はあったから、夢というより
一種の幻覚のようなものだったかもしれない



疲れたから目を閉じよう




そう思ったが、すでに目は閉じていた




天井はなかなか消えなかった




2008/04/03のBlog

 オウム事件に接した時、オウム教団のなかで起きた観念の顛倒や、どういうふうに物事を正当化していったかという言説のあり方は、連合赤軍的な問題の延長線上にあるように思えた。そこで、ある集会でオウムを「革命」という観点から考えてみるという趣旨の発言をしたところ、切通理作氏という若い批評家から批判をくらったことがある。
 ……切通氏の批判はぼくが「革命」ということばを使ってどういう内容を発言したのかということにはふれず、「革命」ということばでオウムについて語ったことにたいする反発を語ったものだった。
 ……そして、オウム事件にたいしては「もし自分の家族にたいしてサリンがまかれたらどう思うか」といった趣旨の発言をしていた。……
 このこと自体はささいな食い違いだったが、ぼくはいくつかのことを思った。まず、自分に焦点の当たったところしか見えないといった傾向が徐々に進んでいるのではないかということだ。……
 ぼくはなるべく「現実」をひろく見ようとしてきた。さまざまな経験の縒りあう場所にしか「客観」は現れないというふうに思いなしてきた。だから、ずっと他者の「内在」的なプロセスがどういうものかというふうに時代を読もうとしてきた。「共感」や「同調」という方法によって他者に接近できるとするのは傲慢であるばかりでなく、原理的に間違いであるということは承知しているつもりなので、ぼくがやっているのはさまざまな経験のあり方の理路を読み(あるいはでっちあげ)、それを縒り合わせることで時代の像をつかもうとする以上・以下のことではない。いや、そういう目標をもっているというほうが正確だ。オウムに入った人間はどういう生きづらさや異和感や正義感をもち、オウムにどういうリアリティを感じ、そこでどういう言説の罠があり、どういう構造で制度的な顛倒が生まれてしまうのかを、オウムに入った人間の側から読みとこうとしてしまう。

――以上、小阪修平『思想としての全共闘世代』より引用

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 さきほど、昼休みに何気なくWikipediaで「小阪修平」を検索して驚いた。昨年の8月10日に急性心不全のため60歳の若さで亡くなっていたのだ。
 私はこれまで小阪修平氏については、あまりよく知らなかった。90年代の前半に、小阪氏が編集・執筆した『わかりたいあなたのための現代思想・入門』という本を読んだだけで、とくにこれといった印象を持っていなかった。ところが最近、氏の『思想としての全共闘世代』(*)(ちくま新書)を読み、その考え方や生き方に共感し、その人柄に惹かれるものを感じていたところだったのである。同書の奥付を見ると、第一刷が2006年8月10日に発行されているので、それからちょうど一年後に亡くなったことになる。
 小阪氏のご冥福を祈る。


(*)本書の感想については、後日改めて記事にするつもりである。
2008/04/02のBlog
[ 17:07 ] [ コメント ]

 先日のメンテにより、ドブログにコメントとトラックバックの承認制の機能が追加されたので、私も使ってみることにしました。

これまで私は、スパム・コメント対策のため、コメントはドブログ・ユーザー以外は受け付けない設定にしていました。
 私のブログは、ドブログ・ユーザー以外の方からコメントを受けることはあまりなかったために、この設定でも自分ではそれほど不便に感じなかったのですが、稀にではあれ、ドブログ・ユーザー以外の方から貴重なコメントを頂戴したこともありましたので、上記の設定では、せっかくコメントをしようとして下さった方が、たまたまドブログ・ユーザーでなかったためにコメントできないという事態も生じます。

 その点、承認制の機能を使うことで、(コメントがすぐに反映されないというデメリットはあるものの)スパム・コメントを排除しつつ、ドブログ・ユーザー以外の方からのコメントも受け付けられるというメリットが得られます。

 このため、コメントを頂いてもブログに反映されるまでにしばらく時間がかかりますが、ご理解のほど、よろしくお願い致します。


 *余計なお世話ですが、スパム・コメントでお悩みの方は、この新機能を一度利用してみてはいかがでしょうか。


2008/03/31のBlog
[ 23:59 ] [ 言葉 ]
読み書きは単なる技術ではない。人間の精神形成に深くかかわる。ひとりで本を読めれば内省が可能になる。それは精神の構造を変える。近代的な人間の登場だ。彼らは権威関係を揺さぶる。一部の者だけが権威を独占するのが難しくなり、経済的発展や政治の民主化が促される。

――エマニュエル・トッド(朝日新聞3月31日オピニオン欄)――