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2008/04/18のBlog
[ 18:30 ]
[ 裁判・司法 ]
もうひとつは、すでに昨日から新聞やテレビやネットで大きな話題となっている名古屋高裁判決――。
あまりにも当然の判決が大きな驚きを引き起こし、原告は「9条が生きていた」と驚き、権力者と御用メディアは判決批判と判決無視を大合唱するこの国の異様さ…!
とりあえずコメント抜きで、アサヒ・コムから引用する。
=====================
「空自イラク派遣は憲法9条に違反」 名古屋高裁判断
2008年04月17日20時44分
自衛隊イラク派遣差し止めなどを求める集団訴訟の控訴審判決のなかで、名古屋高裁(青山邦夫裁判長)は17日、航空自衛隊が首都バグダッドに多国籍軍を空輸していることについて「憲法9条1項に違反する活動を含んでいる」との判断を示した。ただ、結論は原告側の敗訴とした。
各地で提起された同種訴訟で違憲判断が示されたのは初めて。「実質的な勝訴判決」と受け止めた原告側は上告しない方針を表明している。勝訴した被告の国側は上告できないため、今回の高裁判決は確定する見通しだ。
判決はまず、現在のイラク情勢について検討。「イラク国内での戦闘は、実質的には03年3月当初のイラク攻撃の延長で、多国籍軍対武装勢力の国際的な戦闘だ」と指摘した。特にバグダッドについて「まさに国際的な武力紛争の一環として行われている人を殺傷し物を破壊する行為が現に行われている地域」として、イラク復興支援特別措置法の「戦闘地域」に該当すると認定した。
そのうえで、「現代戦において輸送等の補給活動も戦闘行為の重要な要素だ」と述べ、空自の活動のうち「少なくとも多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸するものは、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」と判断。「武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、憲法9条に違反する活動を含んでいる」とした。
さらに判決は、原告側が請求の根拠として主張した「平和的生存権」についても言及。「9条に違反するような国の行為、すなわち戦争の遂行などによって個人の生命、自由が侵害される場合や、戦争への加担・協力を強制される場合には、その違憲行為の差し止め請求や損害賠償請求などの方法により裁判所に救済を求めることができる場合がある」との見解を示し、平和的生存権には具体的権利性があると判示した。
ただ、今回のイラク派遣によって「原告らの平和的生存権が侵害されたとまでは認められない」と述べ、1人1万円の支払いを求めた損害賠償は認めなかった。また、訴えの利益を欠くなどとして、違憲確認や差し止め請求はいずれも不適法な訴えだと指摘。原告側敗訴とした一審・名古屋地裁判決の結論を支持し、原告側の控訴を棄却した。
◇
〈憲法9条1項〉(戦争の放棄) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
**************************
空自イラク活動は継続 首相「どうこうする考えない」
2008年04月17日20時48分
政府は、名古屋高裁の判決はイラクへの自衛隊派遣に影響しないとの立場から、空自による輸送活動を継続する方針だ。福田首相は17日夜、記者団に「判決は国が勝った。(違憲判断は)判決そのものには直接関係ない」と述べた。また、今後の空自の活動についても「裁判のためにどうこうする考えはありません」と明言した。
首相は来年7月に期限が切れるイラク派遣の根拠法の再延長については「その時の情勢がある。法律の趣旨にかなっているかどうか、その時に考える」と述べた。
また、町村官房長官は記者会見で「総合的な判断の結果、バグダッド飛行場は非戦闘地域の要件を満たしていると政府は判断している。高裁の判断は納得できない」と判決への不満を表明。自衛隊の活動への影響は「全くない」と強調した。
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違憲判決、原告ら「9条は生きている」
2008年04月17日20時53分
「9条が生きているということを示した判決だ」――。自衛隊のイラク派遣を違憲とした17日の名古屋高裁判決を受け、4年以上にわたって訴え続けてきた原告たちや弁護団は、思い思いの言葉で喜びを表した。判決を手に、政府に対して派遣の中止や隊員の帰還などを求めていくことも確認した。
「イラクで行われている空輸活動は、憲法9条に違反する活動を含んでいる」
裁判長が述べた瞬間、廷内にはどよめきが広がった。原告団のうち2人が走り出し、この日に備えて用意した数本の旗から「自衛隊イラク派兵は憲法違反」「画期的判決」を選び、裁判所前で掲げた。雨が降る中、待ち受けた数十人から大きな拍手が起き、抱き合う人たちもいた。
裁判所近くで開かれた報告集会には、原告や支援者ら約150人が集まった。原告代表で大学講師の池住義憲さん(63)は「提訴を呼びかけて4年2カ月。憲法9条を、平和憲法を持つ国の国民として誇りを持って語れる日が来た」とあいさつ。弁護団長の内河恵一弁護士は「何とか戦争のない国を、と思ってきただけに感無量だ。取り返しのつかない状況になりつつある今、引き返すことができる時だと思う」と話した。
弁護団事務局長の川口創(はじめ)弁護士は「憲法9条に正面から向き合っており、予想を上回る歴史的で画期的な判決だ」と評価した。自衛隊海外派遣の恒久法議論が出ていることを挙げ、「この時期に違憲判決が出た意味は大きい。戦争をする国造りを止めるためにも、この判決を武器に政府に働きかけたい」と話した。原告・弁護団も国会議員や政府に訴えていくことを確認し合った。
原告側証人として、判決を法廷で聞いた小林武・愛知大教授(憲法学)は取材に対し、「自衛隊のイラク派兵が違憲であること、平和的生存権が具体性を持つ権利であることの2点をきわめて明解に認めた歴史に残る判決だ。期待以上の内容に涙を禁じ得なかった。今まさに進行中の政策が『違憲』と断罪されたことに、政府がどう応えるか注目したい」と語った。
**************************
イラク空自違憲の判断 政府の理屈の矛盾突く
2008年04月18日06時02分
周辺でゲリラ攻撃や自爆テロが頻発しても、航空自衛隊の輸送機が離着陸するバグダッド空港は「非戦闘地域」。戦地への自衛隊派遣と憲法とのつじつま合わせのために政府がひねり出した理屈の矛盾を、名古屋高裁が突いた。空自の活動は来年7月に期限切れを迎えるが、違憲判断で派遣継続のハードルが高まった。
■あいまいな「非戦闘地域」
「政府は総合的な判断の結果、バグダッド飛行場は非戦闘地域の要件を満たしていると判断している。高裁の判断は納得できない」。町村官房長官は17日の記者会見で、あからさまに不満を示した。
高裁判決は「バグダッドは、国際的な武力紛争の一環として行われる、人を殺傷し、物を破壊する行為が現に行われている。イラク特措法にいう『戦闘地域』に該当する」と指摘。空自の活動はイラク復興支援特措法にも憲法9条にも違反するとした。
政府はバグダッド全体が戦闘地域か非戦闘地域かの判断はしていないが、少なくとも「バグダッド空港と輸送機が飛ぶ経路は非戦闘地域」(防衛省幹部)と認定している。
町村氏は会見で、「バグダッド飛行場には商業用の飛行機が多数出入りしている。本当に戦闘地域で、俗な言葉で言うと、危険な飛行場であれば、民間機が飛ぶはずがない」と反論した。
高裁判決は戦闘地域であるバグダッドに多国籍軍の武装兵員を輸送することは「武力行使と一体化する」とも指摘したが、政府は「そもそも非戦闘地域だし、武力行使と一体化するものではない」(町村氏)との立場だ。
ただ、あいまいな「非戦闘地域」という概念は、イラク派遣をめぐるこれまでの国会審議でも、たびたび大きな論争を巻き起こしてきた。
政府はイラクへの自衛隊派遣が憲法9条に違反しない根拠として、「非戦闘地域への派遣」を挙げてきた。だが、非戦闘地域と戦闘地域の区別を聞かれた当時の小泉首相は「どこが戦闘地域で、どこが非戦闘地域か、私に聞かれたってわかるわけない」。さらには「自衛隊が活動しているところは非戦闘地域だ」との答弁まで飛び出した。
政府は「戦闘」を「国または国に準ずる者による組織的、計画的な攻撃」と定義し、自衛隊や米軍などが攻撃を受けて反撃しても、「国家かそれに近い組織」が相手でなければ、その地域は「戦闘地域」にはあたらないとした。「弾が飛び交う状態でも戦闘地域ではない」との論法も成り立ってしまう。
今回の判決は、この矛盾点を指摘した。武装勢力の攻撃や、米軍の度重なる掃討作戦を理由にバグダッドを「戦闘地域」と断定。「バグダッドへの空輸は、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」とした。
特措法策定にかかわった政府関係者は「『非戦闘地域』の概念は(インド洋で給油活動をする)テロ対策特措法にも盛り込まれた。だが、イラクの治安がここまで悪くなるとは予想できず、結果的にこの概念が大論争を招いた」と漏らす。
■特措法延長に障壁
「それは判断ですか。傍論。脇の論ね」
福田首相は17日夜、名古屋高裁の違憲判断への感想を記者団に聞かれ、こう語った。そして、空自の活動について「問題ないんだと思いますよ」と言った。
06年7月に陸上自衛隊をサマワから撤退させた後も、日本政府はイラクでの空自活動を継続してきた。「日米同盟維持と国際貢献の観点から、当面、活動を続ける必要がある」との判断で、イラクでの空自は「日米同盟の象徴」の役割を引き受けてきた。
それだけに政府は、違憲判断にかかわらず、「(空自の活動を)今の時点で見直す考えはない」(増田好平防衛事務次官)との立場だ。
ただ、自衛隊のイラク派遣に反対してきた野党側は勢いづく。民主党の菅直人代表代行は17日の記者会見で「非戦闘地域の判断が、しっかりやれていなかった」と批判。そもそも「非戦闘地域を線引きできるという発想がおかしい」(幹部)との意見が民主党内では大勢だ。
政府・与党は今年1月、インド洋での給油活動を可能にする補給支援特措法を、国会の大幅延長と衆院の3分の2再可決を使ってようやく通したばかり。イラク特措法が来年7月に期限切れとなることから、早くも「(苦労した給油継続の)二の舞いになることだけは避けたい」との声が出る。
そんななか、政府・与党が検討を進めているのが、自衛隊の海外派遣を随時可能にする一般法(恒久法)だ。
自民党は10日、イラク特措法と補給支援特措法、国連平和維持活動(PKO)協力法の3法を統合した形での法整備を目指すプロジェクトチーム(PT)を発足させた。座長の山崎拓・元幹事長は「今国会中に一般法の政府案を提出しないと間に合わない」と意欲を示す。
ただ、公明党が慎重姿勢を崩しておらず、与党間協議のめどすら立っていない。そのうえ、民主党も17日の判決を受け、「まだ一般法の議論をする時期ではない」(幹部)。今回の違憲判断は今後の一般法の議論にも影を落としそうだ。
■緊張の離着陸、700回近い輸送
空自によるイラクでの空輸活動は、小牧基地(愛知県)から派遣された3機のC130輸送機が担っている。クウェートを拠点に、当初はイラク南部のアリとを結んでいたが、06年7月に初めて首都バグダッド、同年9月にはイラク北部アルビルの各飛行場への輸送を開始した。04年3月の活動開始から4年。派遣が5回目となる隊員もいる。
これまでの派遣隊員数は延べ約3千人。クウェートとイラク国内の3空港との間を週4~5日結び、輸送回数は総計694回、運んだ物資の量は約600トンに上る。15次となる派遣隊は3月10日と4月14日に派遣されたばかりだ。
空輸活動では、米軍など多国籍軍の兵士や国連要員、武器・弾薬以外の物資を運ぶとされているが、日本政府・防衛省は詳細を明らかにしていない。差し止め訴訟の原告らによる空輸実績の開示請求でも、開示資料はいずれも日付や内容の部分が「黒塗り」の状態だった。
日本政府は「バグダッドなどの空港は非戦闘地域」としているが、実際は「飛行場の離着陸時に地上から攻撃を受ける危険性が高い」(自衛隊関係者)とされ、隊員の精神的負担は大きい。C130がイラク国内で離着陸する時には、通常時に比べて急角度での上昇や降下をすることで低い高度にいる時間を短くしているという。
バグダッドなどへの飛行では、C130に取り付けられたミサイル警報装置が鳴り、旋回やフレア(おとりの熱源)を出すなどの回避行動をとることもある。昨年12月、現地を視察した田母神俊雄・航空幕僚長もC130でバグダッド空港に着陸する間際、「ミサイル警報装置が鳴り、一瞬緊張した」と話した。
これまでの飛行で、C130が実際にミサイルの追尾を受けたことは確認されていない。しかし、05年には英空軍のC130が、バグダッド空港離陸後に地上からの攻撃を受けて墜落するなどの被害が出ている。
「空輸活動が武力行使になるのか」「インド洋の給油活動なども違憲になってしまうのではないか」。活動を続ける制服組は今回の判決にとまどう。ある自衛隊関係者は「判決に法的な効力がないなら活動にすぐに影響はないが、今後は政治で議論されるのではないか」と、判決の波及を懸念した。「活動を続ける隊員や家族がかわいそうだ」との声も漏れた。
あまりにも当然の判決が大きな驚きを引き起こし、原告は「9条が生きていた」と驚き、権力者と御用メディアは判決批判と判決無視を大合唱するこの国の異様さ…!
とりあえずコメント抜きで、アサヒ・コムから引用する。
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「空自イラク派遣は憲法9条に違反」 名古屋高裁判断
2008年04月17日20時44分
自衛隊イラク派遣差し止めなどを求める集団訴訟の控訴審判決のなかで、名古屋高裁(青山邦夫裁判長)は17日、航空自衛隊が首都バグダッドに多国籍軍を空輸していることについて「憲法9条1項に違反する活動を含んでいる」との判断を示した。ただ、結論は原告側の敗訴とした。
各地で提起された同種訴訟で違憲判断が示されたのは初めて。「実質的な勝訴判決」と受け止めた原告側は上告しない方針を表明している。勝訴した被告の国側は上告できないため、今回の高裁判決は確定する見通しだ。
判決はまず、現在のイラク情勢について検討。「イラク国内での戦闘は、実質的には03年3月当初のイラク攻撃の延長で、多国籍軍対武装勢力の国際的な戦闘だ」と指摘した。特にバグダッドについて「まさに国際的な武力紛争の一環として行われている人を殺傷し物を破壊する行為が現に行われている地域」として、イラク復興支援特別措置法の「戦闘地域」に該当すると認定した。
そのうえで、「現代戦において輸送等の補給活動も戦闘行為の重要な要素だ」と述べ、空自の活動のうち「少なくとも多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸するものは、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」と判断。「武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、憲法9条に違反する活動を含んでいる」とした。
さらに判決は、原告側が請求の根拠として主張した「平和的生存権」についても言及。「9条に違反するような国の行為、すなわち戦争の遂行などによって個人の生命、自由が侵害される場合や、戦争への加担・協力を強制される場合には、その違憲行為の差し止め請求や損害賠償請求などの方法により裁判所に救済を求めることができる場合がある」との見解を示し、平和的生存権には具体的権利性があると判示した。
ただ、今回のイラク派遣によって「原告らの平和的生存権が侵害されたとまでは認められない」と述べ、1人1万円の支払いを求めた損害賠償は認めなかった。また、訴えの利益を欠くなどとして、違憲確認や差し止め請求はいずれも不適法な訴えだと指摘。原告側敗訴とした一審・名古屋地裁判決の結論を支持し、原告側の控訴を棄却した。
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〈憲法9条1項〉(戦争の放棄) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
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空自イラク活動は継続 首相「どうこうする考えない」
2008年04月17日20時48分
政府は、名古屋高裁の判決はイラクへの自衛隊派遣に影響しないとの立場から、空自による輸送活動を継続する方針だ。福田首相は17日夜、記者団に「判決は国が勝った。(違憲判断は)判決そのものには直接関係ない」と述べた。また、今後の空自の活動についても「裁判のためにどうこうする考えはありません」と明言した。
首相は来年7月に期限が切れるイラク派遣の根拠法の再延長については「その時の情勢がある。法律の趣旨にかなっているかどうか、その時に考える」と述べた。
また、町村官房長官は記者会見で「総合的な判断の結果、バグダッド飛行場は非戦闘地域の要件を満たしていると政府は判断している。高裁の判断は納得できない」と判決への不満を表明。自衛隊の活動への影響は「全くない」と強調した。
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違憲判決、原告ら「9条は生きている」
2008年04月17日20時53分
「9条が生きているということを示した判決だ」――。自衛隊のイラク派遣を違憲とした17日の名古屋高裁判決を受け、4年以上にわたって訴え続けてきた原告たちや弁護団は、思い思いの言葉で喜びを表した。判決を手に、政府に対して派遣の中止や隊員の帰還などを求めていくことも確認した。
「イラクで行われている空輸活動は、憲法9条に違反する活動を含んでいる」
裁判長が述べた瞬間、廷内にはどよめきが広がった。原告団のうち2人が走り出し、この日に備えて用意した数本の旗から「自衛隊イラク派兵は憲法違反」「画期的判決」を選び、裁判所前で掲げた。雨が降る中、待ち受けた数十人から大きな拍手が起き、抱き合う人たちもいた。
裁判所近くで開かれた報告集会には、原告や支援者ら約150人が集まった。原告代表で大学講師の池住義憲さん(63)は「提訴を呼びかけて4年2カ月。憲法9条を、平和憲法を持つ国の国民として誇りを持って語れる日が来た」とあいさつ。弁護団長の内河恵一弁護士は「何とか戦争のない国を、と思ってきただけに感無量だ。取り返しのつかない状況になりつつある今、引き返すことができる時だと思う」と話した。
弁護団事務局長の川口創(はじめ)弁護士は「憲法9条に正面から向き合っており、予想を上回る歴史的で画期的な判決だ」と評価した。自衛隊海外派遣の恒久法議論が出ていることを挙げ、「この時期に違憲判決が出た意味は大きい。戦争をする国造りを止めるためにも、この判決を武器に政府に働きかけたい」と話した。原告・弁護団も国会議員や政府に訴えていくことを確認し合った。
原告側証人として、判決を法廷で聞いた小林武・愛知大教授(憲法学)は取材に対し、「自衛隊のイラク派兵が違憲であること、平和的生存権が具体性を持つ権利であることの2点をきわめて明解に認めた歴史に残る判決だ。期待以上の内容に涙を禁じ得なかった。今まさに進行中の政策が『違憲』と断罪されたことに、政府がどう応えるか注目したい」と語った。
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イラク空自違憲の判断 政府の理屈の矛盾突く
2008年04月18日06時02分
周辺でゲリラ攻撃や自爆テロが頻発しても、航空自衛隊の輸送機が離着陸するバグダッド空港は「非戦闘地域」。戦地への自衛隊派遣と憲法とのつじつま合わせのために政府がひねり出した理屈の矛盾を、名古屋高裁が突いた。空自の活動は来年7月に期限切れを迎えるが、違憲判断で派遣継続のハードルが高まった。
■あいまいな「非戦闘地域」
「政府は総合的な判断の結果、バグダッド飛行場は非戦闘地域の要件を満たしていると判断している。高裁の判断は納得できない」。町村官房長官は17日の記者会見で、あからさまに不満を示した。
高裁判決は「バグダッドは、国際的な武力紛争の一環として行われる、人を殺傷し、物を破壊する行為が現に行われている。イラク特措法にいう『戦闘地域』に該当する」と指摘。空自の活動はイラク復興支援特措法にも憲法9条にも違反するとした。
政府はバグダッド全体が戦闘地域か非戦闘地域かの判断はしていないが、少なくとも「バグダッド空港と輸送機が飛ぶ経路は非戦闘地域」(防衛省幹部)と認定している。
町村氏は会見で、「バグダッド飛行場には商業用の飛行機が多数出入りしている。本当に戦闘地域で、俗な言葉で言うと、危険な飛行場であれば、民間機が飛ぶはずがない」と反論した。
高裁判決は戦闘地域であるバグダッドに多国籍軍の武装兵員を輸送することは「武力行使と一体化する」とも指摘したが、政府は「そもそも非戦闘地域だし、武力行使と一体化するものではない」(町村氏)との立場だ。
ただ、あいまいな「非戦闘地域」という概念は、イラク派遣をめぐるこれまでの国会審議でも、たびたび大きな論争を巻き起こしてきた。
政府はイラクへの自衛隊派遣が憲法9条に違反しない根拠として、「非戦闘地域への派遣」を挙げてきた。だが、非戦闘地域と戦闘地域の区別を聞かれた当時の小泉首相は「どこが戦闘地域で、どこが非戦闘地域か、私に聞かれたってわかるわけない」。さらには「自衛隊が活動しているところは非戦闘地域だ」との答弁まで飛び出した。
政府は「戦闘」を「国または国に準ずる者による組織的、計画的な攻撃」と定義し、自衛隊や米軍などが攻撃を受けて反撃しても、「国家かそれに近い組織」が相手でなければ、その地域は「戦闘地域」にはあたらないとした。「弾が飛び交う状態でも戦闘地域ではない」との論法も成り立ってしまう。
今回の判決は、この矛盾点を指摘した。武装勢力の攻撃や、米軍の度重なる掃討作戦を理由にバグダッドを「戦闘地域」と断定。「バグダッドへの空輸は、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」とした。
特措法策定にかかわった政府関係者は「『非戦闘地域』の概念は(インド洋で給油活動をする)テロ対策特措法にも盛り込まれた。だが、イラクの治安がここまで悪くなるとは予想できず、結果的にこの概念が大論争を招いた」と漏らす。
■特措法延長に障壁
「それは判断ですか。傍論。脇の論ね」
福田首相は17日夜、名古屋高裁の違憲判断への感想を記者団に聞かれ、こう語った。そして、空自の活動について「問題ないんだと思いますよ」と言った。
06年7月に陸上自衛隊をサマワから撤退させた後も、日本政府はイラクでの空自活動を継続してきた。「日米同盟維持と国際貢献の観点から、当面、活動を続ける必要がある」との判断で、イラクでの空自は「日米同盟の象徴」の役割を引き受けてきた。
それだけに政府は、違憲判断にかかわらず、「(空自の活動を)今の時点で見直す考えはない」(増田好平防衛事務次官)との立場だ。
ただ、自衛隊のイラク派遣に反対してきた野党側は勢いづく。民主党の菅直人代表代行は17日の記者会見で「非戦闘地域の判断が、しっかりやれていなかった」と批判。そもそも「非戦闘地域を線引きできるという発想がおかしい」(幹部)との意見が民主党内では大勢だ。
政府・与党は今年1月、インド洋での給油活動を可能にする補給支援特措法を、国会の大幅延長と衆院の3分の2再可決を使ってようやく通したばかり。イラク特措法が来年7月に期限切れとなることから、早くも「(苦労した給油継続の)二の舞いになることだけは避けたい」との声が出る。
そんななか、政府・与党が検討を進めているのが、自衛隊の海外派遣を随時可能にする一般法(恒久法)だ。
自民党は10日、イラク特措法と補給支援特措法、国連平和維持活動(PKO)協力法の3法を統合した形での法整備を目指すプロジェクトチーム(PT)を発足させた。座長の山崎拓・元幹事長は「今国会中に一般法の政府案を提出しないと間に合わない」と意欲を示す。
ただ、公明党が慎重姿勢を崩しておらず、与党間協議のめどすら立っていない。そのうえ、民主党も17日の判決を受け、「まだ一般法の議論をする時期ではない」(幹部)。今回の違憲判断は今後の一般法の議論にも影を落としそうだ。
■緊張の離着陸、700回近い輸送
空自によるイラクでの空輸活動は、小牧基地(愛知県)から派遣された3機のC130輸送機が担っている。クウェートを拠点に、当初はイラク南部のアリとを結んでいたが、06年7月に初めて首都バグダッド、同年9月にはイラク北部アルビルの各飛行場への輸送を開始した。04年3月の活動開始から4年。派遣が5回目となる隊員もいる。
これまでの派遣隊員数は延べ約3千人。クウェートとイラク国内の3空港との間を週4~5日結び、輸送回数は総計694回、運んだ物資の量は約600トンに上る。15次となる派遣隊は3月10日と4月14日に派遣されたばかりだ。
空輸活動では、米軍など多国籍軍の兵士や国連要員、武器・弾薬以外の物資を運ぶとされているが、日本政府・防衛省は詳細を明らかにしていない。差し止め訴訟の原告らによる空輸実績の開示請求でも、開示資料はいずれも日付や内容の部分が「黒塗り」の状態だった。
日本政府は「バグダッドなどの空港は非戦闘地域」としているが、実際は「飛行場の離着陸時に地上から攻撃を受ける危険性が高い」(自衛隊関係者)とされ、隊員の精神的負担は大きい。C130がイラク国内で離着陸する時には、通常時に比べて急角度での上昇や降下をすることで低い高度にいる時間を短くしているという。
バグダッドなどへの飛行では、C130に取り付けられたミサイル警報装置が鳴り、旋回やフレア(おとりの熱源)を出すなどの回避行動をとることもある。昨年12月、現地を視察した田母神俊雄・航空幕僚長もC130でバグダッド空港に着陸する間際、「ミサイル警報装置が鳴り、一瞬緊張した」と話した。
これまでの飛行で、C130が実際にミサイルの追尾を受けたことは確認されていない。しかし、05年には英空軍のC130が、バグダッド空港離陸後に地上からの攻撃を受けて墜落するなどの被害が出ている。
「空輸活動が武力行使になるのか」「インド洋の給油活動なども違憲になってしまうのではないか」。活動を続ける制服組は今回の判決にとまどう。ある自衛隊関係者は「判決に法的な効力がないなら活動にすぐに影響はないが、今後は政治で議論されるのではないか」と、判決の波及を懸念した。「活動を続ける隊員や家族がかわいそうだ」との声も漏れた。
[ 18:25 ]
[ 裁判・司法 ]
評価はマイナスとプラス、正反対だが、最近注目(注意)すべき判決が2つあったので、備忘録としてネットのニュースを引用しておきます。
1つ目は、最高裁第3小法廷が4月15日に出した判決をアサヒ・コムより引用します。
========================
「受刑者の面会拒否は適法」 弁護士会敗訴の最高裁判決2008年04月16日00時13分
受刑者への人権侵害を調べるため、弁護士が現場を目撃したとされる別の受刑者に会おうとして広島刑務所(広島市)に拒まれたことに対し、広島弁護士会が国に賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第三小法廷(藤田宙靖=ときやす=裁判長)は15日、弁護士会の請求を退ける判決を言い渡した。
第三小法廷は「刑務所は弁護士会に面会させる義務を負わない」と判断。60万円の支払いを国に命じた二審・広島高裁判決を破棄し、弁護士会の逆転敗訴が確定した。
判決によると広島弁護士会は97年と98年に、服役中の受刑者2人から「職員にボールペンで額を殴られた」などと人権救済の申し立てを受けた。弁護士会は目撃者とされた受刑者から話を聞こうとしたが、刑務所は「人権侵害はなかった」と認めなかった。
一審・広島地裁は03年3月に請求を棄却したが、広島高裁は05年10月、「面会を認めなかった刑務所の判断は裁量権の乱用だ」と判断。弁護士会は、親族以外と面会できるケースを広げる画期的判決だと評価していた。
これに対し、第三小法廷は、監獄法(現刑事収容施設法)の「受刑者が親族以外に面会できるのは特別に必要と判断された場合に限る」という条文について検討。「受刑者の利益と、刑務所の秩序の確保を調整するための条文で、親族以外の弁護士会など第三者の利益との調整は含んでいない」という初めての判断を示した。
5人の裁判官の一致した意見。ただし、弁護士出身の田原睦夫裁判官は「弁護士会の調査活動の意義を理解し、刑務所長には柔軟な対応を望む」との補足意見を述べた。
1つ目は、最高裁第3小法廷が4月15日に出した判決をアサヒ・コムより引用します。
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「受刑者の面会拒否は適法」 弁護士会敗訴の最高裁判決2008年04月16日00時13分
受刑者への人権侵害を調べるため、弁護士が現場を目撃したとされる別の受刑者に会おうとして広島刑務所(広島市)に拒まれたことに対し、広島弁護士会が国に賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第三小法廷(藤田宙靖=ときやす=裁判長)は15日、弁護士会の請求を退ける判決を言い渡した。
第三小法廷は「刑務所は弁護士会に面会させる義務を負わない」と判断。60万円の支払いを国に命じた二審・広島高裁判決を破棄し、弁護士会の逆転敗訴が確定した。
判決によると広島弁護士会は97年と98年に、服役中の受刑者2人から「職員にボールペンで額を殴られた」などと人権救済の申し立てを受けた。弁護士会は目撃者とされた受刑者から話を聞こうとしたが、刑務所は「人権侵害はなかった」と認めなかった。
一審・広島地裁は03年3月に請求を棄却したが、広島高裁は05年10月、「面会を認めなかった刑務所の判断は裁量権の乱用だ」と判断。弁護士会は、親族以外と面会できるケースを広げる画期的判決だと評価していた。
これに対し、第三小法廷は、監獄法(現刑事収容施設法)の「受刑者が親族以外に面会できるのは特別に必要と判断された場合に限る」という条文について検討。「受刑者の利益と、刑務所の秩序の確保を調整するための条文で、親族以外の弁護士会など第三者の利益との調整は含んでいない」という初めての判断を示した。
5人の裁判官の一致した意見。ただし、弁護士出身の田原睦夫裁判官は「弁護士会の調査活動の意義を理解し、刑務所長には柔軟な対応を望む」との補足意見を述べた。
2008/04/15のBlog
[ 17:31 ]
[ 罪と罰 ]
現存在分析学や人間学の言葉によってTを見つめ直すと、そこには、多種の性的倒錯者や多くの犯罪者に共通するいくつかの点が発見される。それだけではなく、精神病者や神経症者の意識や行動とも、さらには、私たちいわゆる正常人や健常人の心理や欲望とも通底する、人間性の本質を突き動かすヴェクトルを見て取ることができる。
Tの生涯を見つめることから、人間の生(エトス)の最も深淵にある業とも本性ともいえるものが、もちろん歪められ汚れた姿においてではあるが、それだけにあざといまでに鮮やかなイメージとして私たちの面前に立ち現れてくる。
Tは、生涯にわたって危険な加害者であり続け、その終幕において極端に凶悪・非道な犯罪を犯した。それにもかかわらず、私たちが大きな関心をこの事件とTの人となりや行動に対して抱いてしまったのは、彼の生涯とその行動もまた、われわれ自身が無意識の中に秘めているなにものかと否応なしに共鳴するところがあるからではないか。
人面獣心というが、その獣心はけっしてTだけのものではない。獣心について学ぶことは、人間について学ぶこと、私たち自身について学ぶことでもある。そしてそれは、必ずしも獣心というべきものではなく、人間の性(さが)とも本質ともいえるものであるように見える。
――福島章『犯罪精神医学入門』(中公新書)より
2008/04/14のBlog
[ 23:05 ]
[ 罪と罰 ]
3-2.加害者論(その2)
不破利晴氏は「俗物による、俗物のための“死刑廃止論”」の中で、世論の多数が犯人の死刑を支持している事件の例として、「世田谷一家殺人事件」、「光市母子殺害事件」、「池田小学校児童殺傷事件」を挙げている。なかでも2001年6月8日、宅間守が引き起こした池田小児童殺傷事件は、児童8人を殺害し、児童13人と教師2人に傷害を負わせるという前代未聞の凶悪事件であり、死刑存置論者にとっては、死刑制度の必要性を訴える最も強力な事例と思われるだろう。逮捕・起訴された宅間守被告は2003年8月28日、大阪地裁で受けた死刑判決がそのまま確定し、翌04年9月14日、判決確定からわずか1年後という早さで死刑が執行された。
この事件では、事件そのものの史上稀に見る非道さはもちろんのことながら、犯人である宅間守が最後まで、被害者とその遺族に対する謝罪の言葉を口にしなかったこともあり、このような悪逆非道な犯罪者に対する刑罰は死刑以外にありえない、と思う人も多いだろう。ところが、様々な報道や裁判資料、精神鑑定結果などを用いて、宅間守の生い立ちから犯行に至るまでの経緯を徹底的に調べ上げ、生物医学的次元から心理社会的次元にわたる多次元診断を行い、哲学的・人間学的考察まで行った精神科医の福島章はその結果を『犯罪精神医学入門』(中公新書)で公表している。それを読むと、宅間守が極めて特異な遺伝的・環境的条件下で育った人間だったことがわかる。
彼は幼少時から父親には暴力を振るわれ、母親にはほとんどかまわれないという家庭環境で育ったために、人に対する基本的信頼感を内面に育てることができないまま成長したと思われる。幼少時には、多動性や衝動性という行動の異常が見られ、小学校では力の強いものから暴力を受ける半面、自分より弱い者にはいじめや暴力を繰り返した。中学では動物虐待をしたり、唾を吐くなどの奇癖も見られた。高校では教師に暴力を振るったり家出をしたりしたのち、退学するが、その後、精神病院で「不安神経症」の診断を受ける。その後は職を転々とし、精神病院への入院と通院を繰り返し、病院屋上から飛び降りたりして、「統合失調症」の診断を2度受けている。強姦事件や傷害事件を起こして逮捕され、服役もしている。その後、4度の結婚、離婚を繰り返し、3度目の元妻に対しては、激しいストーカー行為や脅迫を繰り返し、弁護士を立てない本人訴訟で離婚無効確認訴訟を起こしたりもしている。また、技能員として小学校に勤務していたときには、教師用の茶わんに向精神薬と唾・鼻糞などを混入したお茶を飲ませて傷害事件を引き起こし、逮捕されている。しかし、この事件では簡易精神鑑定で統合失調症と診断されたため、心神喪失として起訴猶予になった。その後、司法書士の学校に通ったり、お見合いパーティーに参加して偽の名刺でナンパを繰り返したりしていた。そして、本件事件を起こす前の数週間は、強いうつ状態で、家に引きこもって、食事もろくにとらず、精神病院に短期入院したり、自殺未遂をしたり、ソーシャルワーカーにSOSの電話をしたりしていた。
なお、ここで話が少し横道に入るが、この池田小事件に限らず、大量殺人事件の犯人の多くは、人生に深く絶望し、強い自殺願望を抱いている場合が多い。自分を追いつめたのは社会のせいだと思い込み、社会に対する怨念・嫉妬・復讐などの感情から他人を死の道連れにしようとするケースが多いのである。そのような犯人が他人を殺害後に自殺するケースもあるが、なかには自殺の代わりに死刑によって自らの死を招こうとする者もいる。宅間守のケースもこれに含まれるが、そのような者にとっては、死刑制度の存在が犯罪を抑止するどころかむしろ大量殺人の引き金のひとつになっているとさえ言えるのである。
以上、あまりにも大雑把な紹介にとどまるが(詳しくは福島・前掲書を参照されたい)、このような多彩で特異な経歴を持つ宅間守という人物について、福島章は次のような精神医学的診断を下している。
まず、幼少期には多動性障害や学習障害、アスペルガー障害が見られ、広汎性発達障害が疑われる。さらに思春期から青年期にかけては、行為障害としてまとめられる反社会的行動・問題行動が観察され、反社会性人格障害や境界性人格障害、妄想性人格障害と診断できる精神状態を示しており、そのうえに不安神経症・統合失調症・気分障害(双極性障害)・向精神薬依存症など多種多様な精神障害の症状が現れている。そして、池田小事件の直前には大うつ病エピソードの症状を示していた。さらに、池田小事件後に行われた2回の精神鑑定では、脳のMRI検査で、中脳部に3×5ミリ大の脳腫瘍が発見され、さらに前頭葉機能の低下が指摘されている。ところが、両鑑定とも、「この腫瘍は精神機能に直接の影響を与えるものではない」と評価し、刑事責任能力の低下を考慮する根拠とは認めず、死刑判決を下した大阪地裁判決も、「(脳の)器質的機能異常が存在したとしても、それ自体は精神疾患とは言いがたい」という理由で責任能力との関係を簡単に無視しており、前頭葉の機能低下については、全く言及すらしていない。
ところが、福島によれば、ここ十数年の間に、脳の画像診断技術が進んだ結果、脳の異常・変異と犯罪、とりわけ殺人との間には重要な関連があることが明らかにされつつあり、アメリカでは脳の異常所見の診断が、被告の心神喪失ないし心神耗弱を主張する科学的根拠として裁判所で認められているという。実際、福島らの研究によれば、殺人を犯した被告人57例の脳のMRI検査や脳のCT検査の結果、その半数以上に微細な器質的異常所見が認められており、そのうち被害者が2人以上の複数殺人事件の犯人では、92%に画像診断や脳波検査で異常所見が発見されたという。健常人の検査で同様の異常が発見される確率は1%以下であるというから、脳の微細な異常所見と殺人行動との間には強い相関関係があることが示されている。それにも関わらず、日本の司法実務において、本件大阪地裁判決のように、「脳の器質的・機能的異常も、それ自体は精神疾患ではない」などという独断によって無視しているのは、「この領域の知識が、鑑定人にも司法関係者にも十分に知られていないという不勉強の結果であり、国際的に見ると恥ずべき事態である」と、福島は断罪している。いずれにせよ、福島は、健常者の中では見ることが稀で、殺人犯、とりわけ大量殺人犯の間で高率に見られる脳の構造や機能の微細な異常所見を「微細脳器質性変異」と名付けており、宅間守の脳が微細脳器質性変異に冒されていたことは間違いないと見ている。
このような、宅間守が生まれつき背負っていた脳の障害や、(ここでは詳しく述べなかったが)生まれ育った家庭環境、多種多様な精神疾患はすべて、彼が自ら意図して選んだものではない。彼にとっては、自らの意志や願いや選択とは関わりなく背負わされた過酷な運命、もしくは「業」としか言いようのないものである。そして彼は、これほど多種多様の不利な条件の「業」を、普通の人より圧倒的に多く、かつ重く背負っていたということができるだろう。もちろん、だからといって、彼の犯罪が避けられないものであったなどということは断じてないし、犯罪を含む彼の行動のほとんどすべてにおいて、彼の自由意志が働く余地はあったと思う。その意味で、彼の責任を完全に否定することはできない、と私は思っている。と同時に、彼の犯行の原因をすべて100%、彼一人の責任に帰することもできないだろう、と私は思う
しかし、ここから先は、刑罰論の領域にも入ってくるので、次回は刑罰論について論じることにする。
不破利晴氏は「俗物による、俗物のための“死刑廃止論”」の中で、世論の多数が犯人の死刑を支持している事件の例として、「世田谷一家殺人事件」、「光市母子殺害事件」、「池田小学校児童殺傷事件」を挙げている。なかでも2001年6月8日、宅間守が引き起こした池田小児童殺傷事件は、児童8人を殺害し、児童13人と教師2人に傷害を負わせるという前代未聞の凶悪事件であり、死刑存置論者にとっては、死刑制度の必要性を訴える最も強力な事例と思われるだろう。逮捕・起訴された宅間守被告は2003年8月28日、大阪地裁で受けた死刑判決がそのまま確定し、翌04年9月14日、判決確定からわずか1年後という早さで死刑が執行された。
この事件では、事件そのものの史上稀に見る非道さはもちろんのことながら、犯人である宅間守が最後まで、被害者とその遺族に対する謝罪の言葉を口にしなかったこともあり、このような悪逆非道な犯罪者に対する刑罰は死刑以外にありえない、と思う人も多いだろう。ところが、様々な報道や裁判資料、精神鑑定結果などを用いて、宅間守の生い立ちから犯行に至るまでの経緯を徹底的に調べ上げ、生物医学的次元から心理社会的次元にわたる多次元診断を行い、哲学的・人間学的考察まで行った精神科医の福島章はその結果を『犯罪精神医学入門』(中公新書)で公表している。それを読むと、宅間守が極めて特異な遺伝的・環境的条件下で育った人間だったことがわかる。
彼は幼少時から父親には暴力を振るわれ、母親にはほとんどかまわれないという家庭環境で育ったために、人に対する基本的信頼感を内面に育てることができないまま成長したと思われる。幼少時には、多動性や衝動性という行動の異常が見られ、小学校では力の強いものから暴力を受ける半面、自分より弱い者にはいじめや暴力を繰り返した。中学では動物虐待をしたり、唾を吐くなどの奇癖も見られた。高校では教師に暴力を振るったり家出をしたりしたのち、退学するが、その後、精神病院で「不安神経症」の診断を受ける。その後は職を転々とし、精神病院への入院と通院を繰り返し、病院屋上から飛び降りたりして、「統合失調症」の診断を2度受けている。強姦事件や傷害事件を起こして逮捕され、服役もしている。その後、4度の結婚、離婚を繰り返し、3度目の元妻に対しては、激しいストーカー行為や脅迫を繰り返し、弁護士を立てない本人訴訟で離婚無効確認訴訟を起こしたりもしている。また、技能員として小学校に勤務していたときには、教師用の茶わんに向精神薬と唾・鼻糞などを混入したお茶を飲ませて傷害事件を引き起こし、逮捕されている。しかし、この事件では簡易精神鑑定で統合失調症と診断されたため、心神喪失として起訴猶予になった。その後、司法書士の学校に通ったり、お見合いパーティーに参加して偽の名刺でナンパを繰り返したりしていた。そして、本件事件を起こす前の数週間は、強いうつ状態で、家に引きこもって、食事もろくにとらず、精神病院に短期入院したり、自殺未遂をしたり、ソーシャルワーカーにSOSの電話をしたりしていた。
なお、ここで話が少し横道に入るが、この池田小事件に限らず、大量殺人事件の犯人の多くは、人生に深く絶望し、強い自殺願望を抱いている場合が多い。自分を追いつめたのは社会のせいだと思い込み、社会に対する怨念・嫉妬・復讐などの感情から他人を死の道連れにしようとするケースが多いのである。そのような犯人が他人を殺害後に自殺するケースもあるが、なかには自殺の代わりに死刑によって自らの死を招こうとする者もいる。宅間守のケースもこれに含まれるが、そのような者にとっては、死刑制度の存在が犯罪を抑止するどころかむしろ大量殺人の引き金のひとつになっているとさえ言えるのである。
以上、あまりにも大雑把な紹介にとどまるが(詳しくは福島・前掲書を参照されたい)、このような多彩で特異な経歴を持つ宅間守という人物について、福島章は次のような精神医学的診断を下している。
まず、幼少期には多動性障害や学習障害、アスペルガー障害が見られ、広汎性発達障害が疑われる。さらに思春期から青年期にかけては、行為障害としてまとめられる反社会的行動・問題行動が観察され、反社会性人格障害や境界性人格障害、妄想性人格障害と診断できる精神状態を示しており、そのうえに不安神経症・統合失調症・気分障害(双極性障害)・向精神薬依存症など多種多様な精神障害の症状が現れている。そして、池田小事件の直前には大うつ病エピソードの症状を示していた。さらに、池田小事件後に行われた2回の精神鑑定では、脳のMRI検査で、中脳部に3×5ミリ大の脳腫瘍が発見され、さらに前頭葉機能の低下が指摘されている。ところが、両鑑定とも、「この腫瘍は精神機能に直接の影響を与えるものではない」と評価し、刑事責任能力の低下を考慮する根拠とは認めず、死刑判決を下した大阪地裁判決も、「(脳の)器質的機能異常が存在したとしても、それ自体は精神疾患とは言いがたい」という理由で責任能力との関係を簡単に無視しており、前頭葉の機能低下については、全く言及すらしていない。
ところが、福島によれば、ここ十数年の間に、脳の画像診断技術が進んだ結果、脳の異常・変異と犯罪、とりわけ殺人との間には重要な関連があることが明らかにされつつあり、アメリカでは脳の異常所見の診断が、被告の心神喪失ないし心神耗弱を主張する科学的根拠として裁判所で認められているという。実際、福島らの研究によれば、殺人を犯した被告人57例の脳のMRI検査や脳のCT検査の結果、その半数以上に微細な器質的異常所見が認められており、そのうち被害者が2人以上の複数殺人事件の犯人では、92%に画像診断や脳波検査で異常所見が発見されたという。健常人の検査で同様の異常が発見される確率は1%以下であるというから、脳の微細な異常所見と殺人行動との間には強い相関関係があることが示されている。それにも関わらず、日本の司法実務において、本件大阪地裁判決のように、「脳の器質的・機能的異常も、それ自体は精神疾患ではない」などという独断によって無視しているのは、「この領域の知識が、鑑定人にも司法関係者にも十分に知られていないという不勉強の結果であり、国際的に見ると恥ずべき事態である」と、福島は断罪している。いずれにせよ、福島は、健常者の中では見ることが稀で、殺人犯、とりわけ大量殺人犯の間で高率に見られる脳の構造や機能の微細な異常所見を「微細脳器質性変異」と名付けており、宅間守の脳が微細脳器質性変異に冒されていたことは間違いないと見ている。
このような、宅間守が生まれつき背負っていた脳の障害や、(ここでは詳しく述べなかったが)生まれ育った家庭環境、多種多様な精神疾患はすべて、彼が自ら意図して選んだものではない。彼にとっては、自らの意志や願いや選択とは関わりなく背負わされた過酷な運命、もしくは「業」としか言いようのないものである。そして彼は、これほど多種多様の不利な条件の「業」を、普通の人より圧倒的に多く、かつ重く背負っていたということができるだろう。もちろん、だからといって、彼の犯罪が避けられないものであったなどということは断じてないし、犯罪を含む彼の行動のほとんどすべてにおいて、彼の自由意志が働く余地はあったと思う。その意味で、彼の責任を完全に否定することはできない、と私は思っている。と同時に、彼の犯行の原因をすべて100%、彼一人の責任に帰することもできないだろう、と私は思う
しかし、ここから先は、刑罰論の領域にも入ってくるので、次回は刑罰論について論じることにする。
2008/04/13のBlog
[ 11:48 ]
[ 罪と罰 ]
3.加害者論(その1)
親鸞「唯円房よ、おまえは私のいうことを信じるのか」
唯円「もちろんでございます」
親鸞「そうか、それじゃ私のこれからいうことに決してそむかないか」
唯円「つつしんでご承知いたしました」
親鸞「じゃ、どうか、人を千人殺してくれ。そうしたらおまえは必ず往生することができる」
唯円「聖人の仰せですが、私のような人間は、千人はおろか一人だって殺すことができるとは思いません」
親鸞「それではどうしてさきに、親鸞のいうことに決してそむかないといったのか」
唯円「・・・・」
親鸞「これでおまえはわかるはずである。人間が心にまかせて善でも悪でもできるならば、往生のために千人殺せと私がいったら、おまえは直ちに千人殺すことができるはずである。しかしおまえが一人すら殺すことができないのは、おまえの中に、殺すべき因縁が備わっていないからである。自分の心がよくて殺さないのではない。また、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるであろう」
***** ***** *****
衝撃的な会話である。
これは『歎異抄』の第13条に出てくる話である(現代語訳は梅原猛全訳注によった)が、ここで親鸞が言わんとしているのは、人間が行う悪事も善行も、すべては前世からの積もり積もった業、ないしは因縁の働きによるものである、ということのようである。しかし私は、親鸞についても、浄土真宗や仏教一般についてもよく知らないし、神も仏も前世も来世も信じていない。だから、私はここで親鸞の思想や歎異抄を解釈しようなどという途方もないことを試みるつもりは毛頭ない。そうではなく、牽強付会を承知の上で、この言葉を全くの我流で世俗的に“曲解”してみたい。(したがって、「それは『歎異抄』の解釈として間違っている」とか、「それは親鸞の思想とは全く異なる」などといった言わずもがなの批判はしないで頂きたい。)
そこで、ここでは「業(ごう)」という言葉も、本来の仏教用語としての意味を離れて、完全に世俗的な、自分勝手な解釈(曲解)を試みてみたい。「業」は「運命」と密接な関係があるが、それだけではなく、「因果関係」とも関係の深い言葉である。しかし、同時に、その因果関係は人間の知力によっては合理的に説明できない特殊な因果関係である。つまり、人間の意志の力を超えた作用を「運命」というが、運命のなかでも、その因果関係が人間の知力を超えたものを「業」と呼ぶことにしよう。
我々は、後で振り返ってみて、自分でもあのときなぜああいう行動をとったのか、合理的な説明のつかない、何か未知の力によって突き動かされていたとしか思えない行動をとることがある。いや、何も特殊な状況を想像するまでもない。ごく日常的な行動や振舞いにおいても、100パーセント自由意志に基づく選択の結果といえるような行動は少ないのではないだろうか。例えば、晩酌に日本酒を飲むか、焼酎を飲むか、ビールを飲むか、ワインを飲むか、ウィスキーを飲むか、といった極めて平凡な行動においても、一見、自由な選択のように見えるが、その人が生まれ育った、あるいは長年住み慣れた国や地域の食文化の影響を抜きにして考えることはできないだろう。
人間が生まれたときに先天的に受け継いだ遺伝的・生物学的な特徴、生まれた国や地域や時代、生まれ育った家庭環境、成長過程における様々な文化的・習俗的・人間的環境等々といったものは、ほとんど人間の意志によって選択できないものであるが、そういった諸々の生物学的・歴史的・地域的・文化習俗的・家庭環境的・成育史的要因がその後の個人の行動・態度・思考等々に大きな影響を及ぼし続けることは否定できないだろう。他方で、人間は自由な意志を持ち、自らの行動を主体的に決定する自由を有しており、それゆえ、自らの行動には責任が伴うのである。つまり、人間の行動とは本人の自由な意志の力と同時に、本人の行動に無意識的な影響を与える生物学的・歴史的・地域的・文化習俗的・家庭環境的等々の要因(以後、簡略化のため「生物学的・環境的諸要因」という)が合成された結果と考えることができるだろう。そして、通常は意識化されることもないが、無意識のうちに人間の行動に影響を及ぼしている、こうした生物学的・環境的諸要因を「業」と呼びかえるならば、人間の行動は、「業」と自由意志の合成された結果であるといえよう。人間の行動が善事も悪事もすべて業の結果と考えるのはナンセンスだが、同様に、すべてが個人の自由意志の結果と考えるのも幻想である。このように考えるなら、人間の行動が、「前世からの積もり積もった因縁」などと考える必要はさらさらないが、生れ落ちたときからの積もり積もった「業」が何がしかの影響を与えていることは否定できないだろう。
先に、「業」とは「人間の知力によっては合理的に説明できない特殊な因果関係」であると述べた。しかし、何か大きな犯罪が起きたときに、犯人の成育史や社会的・家庭的環境を調べたり、精神鑑定や心理学的・精神医学的検査などによって、その犯行に影響を及ぼしたであろう要因をある程度突き止めることは可能であろう。しかし、すべての原因を完全に解明し尽くすことは不可能であり、人間の行動には必ず不可知の領域が残るだろう。それを人間の存在論的不可知性と呼んでもいいだろう。人間の行動の意味を人間が完全に解き明かすことはできない。このことを銘記したうえで、次に、具体的な事件を取り上げることにする。
親鸞「唯円房よ、おまえは私のいうことを信じるのか」
唯円「もちろんでございます」
親鸞「そうか、それじゃ私のこれからいうことに決してそむかないか」
唯円「つつしんでご承知いたしました」
親鸞「じゃ、どうか、人を千人殺してくれ。そうしたらおまえは必ず往生することができる」
唯円「聖人の仰せですが、私のような人間は、千人はおろか一人だって殺すことができるとは思いません」
親鸞「それではどうしてさきに、親鸞のいうことに決してそむかないといったのか」
唯円「・・・・」
親鸞「これでおまえはわかるはずである。人間が心にまかせて善でも悪でもできるならば、往生のために千人殺せと私がいったら、おまえは直ちに千人殺すことができるはずである。しかしおまえが一人すら殺すことができないのは、おまえの中に、殺すべき因縁が備わっていないからである。自分の心がよくて殺さないのではない。また、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるであろう」
***** ***** *****
衝撃的な会話である。
これは『歎異抄』の第13条に出てくる話である(現代語訳は梅原猛全訳注によった)が、ここで親鸞が言わんとしているのは、人間が行う悪事も善行も、すべては前世からの積もり積もった業、ないしは因縁の働きによるものである、ということのようである。しかし私は、親鸞についても、浄土真宗や仏教一般についてもよく知らないし、神も仏も前世も来世も信じていない。だから、私はここで親鸞の思想や歎異抄を解釈しようなどという途方もないことを試みるつもりは毛頭ない。そうではなく、牽強付会を承知の上で、この言葉を全くの我流で世俗的に“曲解”してみたい。(したがって、「それは『歎異抄』の解釈として間違っている」とか、「それは親鸞の思想とは全く異なる」などといった言わずもがなの批判はしないで頂きたい。)
そこで、ここでは「業(ごう)」という言葉も、本来の仏教用語としての意味を離れて、完全に世俗的な、自分勝手な解釈(曲解)を試みてみたい。「業」は「運命」と密接な関係があるが、それだけではなく、「因果関係」とも関係の深い言葉である。しかし、同時に、その因果関係は人間の知力によっては合理的に説明できない特殊な因果関係である。つまり、人間の意志の力を超えた作用を「運命」というが、運命のなかでも、その因果関係が人間の知力を超えたものを「業」と呼ぶことにしよう。
我々は、後で振り返ってみて、自分でもあのときなぜああいう行動をとったのか、合理的な説明のつかない、何か未知の力によって突き動かされていたとしか思えない行動をとることがある。いや、何も特殊な状況を想像するまでもない。ごく日常的な行動や振舞いにおいても、100パーセント自由意志に基づく選択の結果といえるような行動は少ないのではないだろうか。例えば、晩酌に日本酒を飲むか、焼酎を飲むか、ビールを飲むか、ワインを飲むか、ウィスキーを飲むか、といった極めて平凡な行動においても、一見、自由な選択のように見えるが、その人が生まれ育った、あるいは長年住み慣れた国や地域の食文化の影響を抜きにして考えることはできないだろう。
人間が生まれたときに先天的に受け継いだ遺伝的・生物学的な特徴、生まれた国や地域や時代、生まれ育った家庭環境、成長過程における様々な文化的・習俗的・人間的環境等々といったものは、ほとんど人間の意志によって選択できないものであるが、そういった諸々の生物学的・歴史的・地域的・文化習俗的・家庭環境的・成育史的要因がその後の個人の行動・態度・思考等々に大きな影響を及ぼし続けることは否定できないだろう。他方で、人間は自由な意志を持ち、自らの行動を主体的に決定する自由を有しており、それゆえ、自らの行動には責任が伴うのである。つまり、人間の行動とは本人の自由な意志の力と同時に、本人の行動に無意識的な影響を与える生物学的・歴史的・地域的・文化習俗的・家庭環境的等々の要因(以後、簡略化のため「生物学的・環境的諸要因」という)が合成された結果と考えることができるだろう。そして、通常は意識化されることもないが、無意識のうちに人間の行動に影響を及ぼしている、こうした生物学的・環境的諸要因を「業」と呼びかえるならば、人間の行動は、「業」と自由意志の合成された結果であるといえよう。人間の行動が善事も悪事もすべて業の結果と考えるのはナンセンスだが、同様に、すべてが個人の自由意志の結果と考えるのも幻想である。このように考えるなら、人間の行動が、「前世からの積もり積もった因縁」などと考える必要はさらさらないが、生れ落ちたときからの積もり積もった「業」が何がしかの影響を与えていることは否定できないだろう。
先に、「業」とは「人間の知力によっては合理的に説明できない特殊な因果関係」であると述べた。しかし、何か大きな犯罪が起きたときに、犯人の成育史や社会的・家庭的環境を調べたり、精神鑑定や心理学的・精神医学的検査などによって、その犯行に影響を及ぼしたであろう要因をある程度突き止めることは可能であろう。しかし、すべての原因を完全に解明し尽くすことは不可能であり、人間の行動には必ず不可知の領域が残るだろう。それを人間の存在論的不可知性と呼んでもいいだろう。人間の行動の意味を人間が完全に解き明かすことはできない。このことを銘記したうえで、次に、具体的な事件を取り上げることにする。
2008/04/12のBlog
[ 15:32 ]
[ 罪と罰 ]
2.死刑制度の論じ方
死刑制度についての考察を続けることにしたい。実は、先日「死刑について考える(1)」を書いた後、この問題に関連のある本を2冊読んだ。辺見庸『眼の探索』(角川文庫)と福島章『犯罪精神医学入門』(中公新書)である。私にとって特に重要な示唆を与えてくれたのは後者である。
死刑制度の是非について論じるとき、私がなるべく避けたいと思っているのは、感情論に基づく議論である。例えば、「このような犯人は人間ではない。鬼畜だ。こんな奴は絶対に許せないから、死刑にするしかない」とか、「被害者遺族の感情を考えれば、極刑をもって望むほかない」といったような主張である。これらは死刑賛成派(死刑存置論者)の主張であるが、言うまでもなく、死刑廃止論者が感情論に訴えることもしばしばだ。例えば、死刑の実態がいかに残酷な刑罰であるかということを訴えるような議論もそのひとつである。私も現在日本で行われている死刑制度(絞首刑という処刑方法だけでなく、死刑囚の処遇状態も含め)が残酷であると思うが、こうした批判は直ちに死刑制度の廃止へと論理的に直結するわけではない。例えば、現行の絞首刑に代えて、もっと苦痛の少ない死刑方法(例えば、睡眠薬で眠らせてから薬殺するという米国の一部の州で行われている方法など)を採用すべきだとか、死刑囚の処遇状況を改善すべきだという主張とも論理的に両立する。また、何をもって「残酷」と感じるかは人によっても異なるし、死刑賛成派の中には、(果たして現行死刑制度の実態をどれだけ知っているかは別として)絞首刑など生ぬるいからもっと苦痛の大きい処刑方法を採用すべきだと主張する人もいる。また、被害者遺族の感情を想像することも重要なことではあるが、我々は「想像力」の限界についても謙虚でなければならないだろう。犯人の死刑を望む被害者遺族が多いことは事実であるが、「被害者遺族の感情」を根拠に死刑存続を主張する第三者が「被害者遺族」と同じような感情を本当に持てるわけでは決してないだろう。むしろマスコミ報道を見て加害者の死刑を叫ぶ一般の人々は、事件や裁判の報道がなくなれば、すぐに事件や被害者遺族のことなど忘れてしまうものである。また、「被害者遺族」といっても決して一様ではない。少数とはいえ、様々な葛藤を経て、死刑廃止を望むようになる被害者遺族もいる。どんな事件も、加害者も、被害者も、被害者遺族も、決して一般論には解消できない固有性をもっているのであり、第三者の想像力には限界があることを銘記すべきだろう。
我々は感情論に依拠する限り、互いに自ら絶対視する自分の感情をぶつけあうだけに終わり、生産的な議論が展開されることは期待できないだろう。それゆえ、私がこれから行いたいと思っているのは、私が死刑に反対する理由を、できるかぎり論理的に主張することである。私の主張に対する論理的な批判は歓迎する。しかし、感情論のみに基づく批判や、私の趣旨を曲解したコメントにはお答えしない。
さて、一般に、犯罪には加害者と被害者(遺族)がいる。従来、ともすれば死刑廃止論者が加害者側の視点、死刑存続派が被害者(遺族)側の視点を強調する傾向があったが、犯罪に対する刑罰のあり方を総合的に考えようとするならば、両方の視点をともに考える必要があるだろう。次に、まず加害者側の問題から考えることにしたい。
死刑制度についての考察を続けることにしたい。実は、先日「死刑について考える(1)」を書いた後、この問題に関連のある本を2冊読んだ。辺見庸『眼の探索』(角川文庫)と福島章『犯罪精神医学入門』(中公新書)である。私にとって特に重要な示唆を与えてくれたのは後者である。
死刑制度の是非について論じるとき、私がなるべく避けたいと思っているのは、感情論に基づく議論である。例えば、「このような犯人は人間ではない。鬼畜だ。こんな奴は絶対に許せないから、死刑にするしかない」とか、「被害者遺族の感情を考えれば、極刑をもって望むほかない」といったような主張である。これらは死刑賛成派(死刑存置論者)の主張であるが、言うまでもなく、死刑廃止論者が感情論に訴えることもしばしばだ。例えば、死刑の実態がいかに残酷な刑罰であるかということを訴えるような議論もそのひとつである。私も現在日本で行われている死刑制度(絞首刑という処刑方法だけでなく、死刑囚の処遇状態も含め)が残酷であると思うが、こうした批判は直ちに死刑制度の廃止へと論理的に直結するわけではない。例えば、現行の絞首刑に代えて、もっと苦痛の少ない死刑方法(例えば、睡眠薬で眠らせてから薬殺するという米国の一部の州で行われている方法など)を採用すべきだとか、死刑囚の処遇状況を改善すべきだという主張とも論理的に両立する。また、何をもって「残酷」と感じるかは人によっても異なるし、死刑賛成派の中には、(果たして現行死刑制度の実態をどれだけ知っているかは別として)絞首刑など生ぬるいからもっと苦痛の大きい処刑方法を採用すべきだと主張する人もいる。また、被害者遺族の感情を想像することも重要なことではあるが、我々は「想像力」の限界についても謙虚でなければならないだろう。犯人の死刑を望む被害者遺族が多いことは事実であるが、「被害者遺族の感情」を根拠に死刑存続を主張する第三者が「被害者遺族」と同じような感情を本当に持てるわけでは決してないだろう。むしろマスコミ報道を見て加害者の死刑を叫ぶ一般の人々は、事件や裁判の報道がなくなれば、すぐに事件や被害者遺族のことなど忘れてしまうものである。また、「被害者遺族」といっても決して一様ではない。少数とはいえ、様々な葛藤を経て、死刑廃止を望むようになる被害者遺族もいる。どんな事件も、加害者も、被害者も、被害者遺族も、決して一般論には解消できない固有性をもっているのであり、第三者の想像力には限界があることを銘記すべきだろう。
我々は感情論に依拠する限り、互いに自ら絶対視する自分の感情をぶつけあうだけに終わり、生産的な議論が展開されることは期待できないだろう。それゆえ、私がこれから行いたいと思っているのは、私が死刑に反対する理由を、できるかぎり論理的に主張することである。私の主張に対する論理的な批判は歓迎する。しかし、感情論のみに基づく批判や、私の趣旨を曲解したコメントにはお答えしない。
さて、一般に、犯罪には加害者と被害者(遺族)がいる。従来、ともすれば死刑廃止論者が加害者側の視点、死刑存続派が被害者(遺族)側の視点を強調する傾向があったが、犯罪に対する刑罰のあり方を総合的に考えようとするならば、両方の視点をともに考える必要があるだろう。次に、まず加害者側の問題から考えることにしたい。
2008/04/10のBlog
[ 18:24 ]
[ ニュース ]
仕事を早めに切り上げて、「死刑について考える」の続きを書こうと思っていたら、このニュースを知り、一気に脱力した。
======================
4人死刑執行 鳩山法相のもと10人目「今後も粛々」
2008年04月10日13時25分
法務省は10日、同日午前に4人の死刑を執行したと発表した。鳩山法相が昨年8月に就任以来、執行は昨年12月の3人、今年2月の3人に続いて3回目で計10人。法相は午前11時からの記者会見で「これからも、粛々とやらせていただく」と語った。これで確定死刑囚は104人になる。
一時止まっていた執行が93年に3年4カ月ぶりに再開されてから、1人の法相のもとでの10人の執行は長勢前法相と並んで最多。前法相は4カ月に1度だったが、鳩山氏は2カ月に1度の間隔で執行命令を出していることになる。
また、死刑判決の確定から執行までの期間は07年までの10年間でみると平均8年だったが、この日執行された4人のうち3人は確定後4年以内だった。
http://www.asahi.com/national/update/0410/TKY200804100076.html?ref=rss
============================
日本は世界の趨勢に逆らって、大量処刑時代に突入している。
2001年から2005年まで、日本において死刑を執行された者の数は、各年当たりそれぞれ、
2人、2人、1人、2人、1人
だったが、
安倍政権(長勢甚遠法相)になった2006年9月からの1年弱で一挙に10人に増え、
福田政権(鳩山邦夫法相)が成立した2007年9月からわずか半年あまりで10人に達した。
鳩山法相は殺人競争でもしているつもりなのだろうか!
「これからも粛々と」殺人命令を出し続けるそうだ!
※1981以降、今年2月までに死刑を執行された人については、「無限回廊」サイトの中の「死刑被執行者」のページに詳しい資料がある。
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4人死刑執行 鳩山法相のもと10人目「今後も粛々」
2008年04月10日13時25分
法務省は10日、同日午前に4人の死刑を執行したと発表した。鳩山法相が昨年8月に就任以来、執行は昨年12月の3人、今年2月の3人に続いて3回目で計10人。法相は午前11時からの記者会見で「これからも、粛々とやらせていただく」と語った。これで確定死刑囚は104人になる。
一時止まっていた執行が93年に3年4カ月ぶりに再開されてから、1人の法相のもとでの10人の執行は長勢前法相と並んで最多。前法相は4カ月に1度だったが、鳩山氏は2カ月に1度の間隔で執行命令を出していることになる。
また、死刑判決の確定から執行までの期間は07年までの10年間でみると平均8年だったが、この日執行された4人のうち3人は確定後4年以内だった。
http://www.asahi.com/national/update/0410/TKY200804100076.html?ref=rss
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日本は世界の趨勢に逆らって、大量処刑時代に突入している。
2001年から2005年まで、日本において死刑を執行された者の数は、各年当たりそれぞれ、
2人、2人、1人、2人、1人
だったが、
安倍政権(長勢甚遠法相)になった2006年9月からの1年弱で一挙に10人に増え、
福田政権(鳩山邦夫法相)が成立した2007年9月からわずか半年あまりで10人に達した。
鳩山法相は殺人競争でもしているつもりなのだろうか!
「これからも粛々と」殺人命令を出し続けるそうだ!
※1981以降、今年2月までに死刑を執行された人については、「無限回廊」サイトの中の「死刑被執行者」のページに詳しい資料がある。
2008/04/09のBlog
[ 18:20 ]
[ 罪と罰 ]
[不破利晴さんの関連記事]
1.はじめに
先日の「辺見庸氏講演会」にも参加された不破利晴さんが昨夜、「俗物による、俗物のための”死刑廃止論”」と題する極めて優れた論考を発表された。この論考が「極めて優れた」ものであると私が思うのは、誰をも説得しうるような見事な論証がなされているからではない。おそらくそんなことは誰にもできないだろう。そうではなく、死刑制度という賛否両論の激突する、極度の感情的負荷と緊張を孕んだ複雑な問題に対して誠実に向き合い、自らの頭で論理的・倫理的側面から考え抜こうとされているからである。これまで死刑制度について書こう書こうと思いつつ先延ばしにしてきた私だが、不破さんの論考を読んで、いよいよ自分の拙い考えを書く決心をした。自分ではこれまでも死刑についてはそれなりに考えてきたつもりであったが、実際に書くとなると、予想していたよりもはるかに困難であると思えてきた。
まずはじめに、私自身の死刑反対論の主要な論点ではないが、憲法と死刑の関係について一言触れておく。一般に、死刑制度の是非については、憲法解釈論では一義的な答えはでないとされている。というのは、憲法36条は「残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と規定する一方で、31条は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めており、ここから、憲法は「生命を剥奪する刑罰=死刑」の存在を前提としていたと解釈できるからだ。もちろん、そのことから、憲法が死刑制度を「要求」しているとまで解釈することはできないが、死刑の違憲性を憲法の文言だけから導くことも困難なことは否めない。最高裁は、1948年に「一人の生命は全地球よりも重い」としつつも死刑の合憲性を認める有名な判決を出しているが、今後、判例変更の可能性がないとも言えない。要するに、憲法の文言だけからは違憲とも合憲とも言えない(あるいはどちらとも言える)わけだが、それでも憲法の精神に基づいて死刑の違憲性を主張する人々は、13条の「個人の尊厳」を拠り所にするのが一般的である。この点については後で再び言及するが、それとは別に、9条と死刑廃止を関連づけて論じる論者もいる。これは、不破さんが上記論考で書いておられるように、まさに辺見氏が先日の講演会で指摘した論点でもある。
憲法学者の樋口陽一氏は1991年、パリで行われた研究会の席上、日本国憲法第9条は、侵略戦争を否定した1791年フランス憲法以来の戦争違法化の長い歴史の系譜に位置づけられるという「連続性」と同時に、もはや「正しい戦争」はありえないという、歴史的に見ても新しい哲学に立脚する点で過去との「断絶性」を有するという二面性を指摘した後、死刑を廃止した欧州諸国の出席者に対し、死刑廃止は犯罪犠牲者たちの自然な感情に反してまでも「正しい殺人」はないという思想を制度化したものであるのに、国際社会でどうして「正しい殺人」(戦争は必ず殺人を伴う)の必要性に固執するのか、と問いかけている(『憲法と国家』岩波新書、参照)。これは日本社会に対しては、(「正しい殺人」という思想を含意する)「正しい戦争」を否定した9条を持つ日本社会は、なぜ「正しい殺人」という思想に基づく死刑制度の必要性に固執するのか、という問いかけになる。
憲法学者以外でも、去年亡くなった小田実は、平和主義の基本的倫理と論理が「殺してはならない」ではなく「殺されてはならない」であると指摘し、「人間はいかなる理由、大義名分に基づこうと殺されてはならないのです。こう考える私は、当然、戦争否定者であるのと同時に死刑否定、廃止主張者です。人を殺した者を殺すやり方は、戦争と同様に人間のやることではない」と述べています(『戦争か、平和か』大月書店)。
さて、私が死刑に反対する基本的な(だが唯一ではない)理由はヒューマニズムへのコミットメントである。ここでいう「ヒューマニズム」とは、すべての人間には固有かつ不可侵の尊厳が備わっている、という思想である。この思想が正しい、ということを論証(論理的証明)することは私にはできない。あとでまた触れるが、この思想には限界がある、とさえ感じているが、にもかかわらず、この思想を手放すことは私にはできない。人間は、ただ人間であるというそれだけの理由によって、固有の尊厳を持つ。言い換えれば、人間以外のものにはそのような「固有の尊厳」を認めないわけであるから、この思想は極めて人間中心主義的な偏狭さを持っていることになる。他方で、人間である限り、その尊厳は平等に尊重されなければならず、そこにはいかなる差別もあってはならない。なぜそうなのか、ということはもはや論理的には証明できない。つまり、ヒューマニズムとは一種の「賭け」であり、決断であり、帰依である。
ここで辺見氏の講演に触れると、不破さんも書いておられるように、辺見氏はマザー・テレサのような「愛」、とりわけ「不都合なものへの愛」を死刑反対と結びつけようとしており、不破さんはそれに対して好意的評価をしておられるが、この点は私の考えとは全く異なる。愛や憎しみは極めて個人的な感情であって、普遍主義的理念に基づくべき法とは相容れない性格を有している。それどころか、愛や憎悪、あるいは残酷といった感情は、基本的に人間と人間以外のものを区別しない。戦争や災害で何千人、何万人もの死者が出たというニュースを聞いてもほとんど何の感慨も持たない人が、自分の愛するペットが死ねば激しい悲しみと喪失感に襲われる、というのは、ごく普通に見られることである。
この問題については、かつて本多勝一氏が「イルカだけが問題なのではない」という論考において、極めて示唆に富む議論を行っているので、長くなるが引用しておきたい。
《 明らかなことは、残酷の場合と同様に愛さえも種を超えうるということだ。……もし私たちが感性のみを判断の基準とするならば、愛することも殺すことも、人間だからということを前提とすることはできない。人間と動物との境界、人間と宇宙人との境界はたやすく消えてしまうであろう。
結論そのものはきわめて単純であろう。残酷も愛も、たいへん頼りないものを基礎にしている。人類が真に平和を保とうとするのであれば、人類憲法ともいうべきひとつの最高契約を結び、それを論理として守るべきである。すなわち、人類は、人類を殺してはならぬ。知能が高いからでもなければ、「神の子」だからでもない。単に「人類だから」それ故に殺してはならない。そして人類とは、生物学上のホモ=サピエンスであることの以下でも以上でもない。どのような形態の奇形児であれ、ハトやカマキリにも劣る知能指数(?)の子であれ、単に人類であること、それだけの理由によって、絶対に生きる権利がある。そこにはいかなる差別もあってはならない。同時に、人類の中の特定の階層や個人が特別な待遇を受けてはならない。これはタテの両面だから、「人の上に人を作」るような存在を認める社会派、重度身体障害者や植物人間を殺す社会でもあるだろう。 》(本多勝一『麦とロッキード』講談社文庫所収)
ここまではもっぱら他人の意見の紹介であり、私独自のものは何もありません。したがって、ここからが本論なのですが、今日は時間がないので、この辺りで切り上げます。続きはまた明日(?)…。
【追記(2008/04/12)】
つまり、愛とは極めて個人的で個別的なものなのである。我々がある人やあるものを愛するのは、まさにそれがかけがえのない固有性を備えているからであって、人は一般的・普遍的なものを愛することはできない。それゆえ愛は、一般性・普遍性を志向する法の世界にはなじまない。付言すれば、犯罪もまた、愛と同様、極めて個別的で偶有的なものである。すべての犯罪は固有性と一回性を持っている。どんな連続犯罪であれ、それぞれの犯罪が一回性と固有性を有している。しかし、そうした固有性を持つ犯罪が、ひとたび法の世界において裁かれる際には、そうした固有性が考慮されないわけではないが、基本的には固有性の相において眺められるのではなく、一般性の相において、すなわち同種の他の諸事例との比較・相対化によって、眺められるのである。
1.はじめに
先日の「辺見庸氏講演会」にも参加された不破利晴さんが昨夜、「俗物による、俗物のための”死刑廃止論”」と題する極めて優れた論考を発表された。この論考が「極めて優れた」ものであると私が思うのは、誰をも説得しうるような見事な論証がなされているからではない。おそらくそんなことは誰にもできないだろう。そうではなく、死刑制度という賛否両論の激突する、極度の感情的負荷と緊張を孕んだ複雑な問題に対して誠実に向き合い、自らの頭で論理的・倫理的側面から考え抜こうとされているからである。これまで死刑制度について書こう書こうと思いつつ先延ばしにしてきた私だが、不破さんの論考を読んで、いよいよ自分の拙い考えを書く決心をした。自分ではこれまでも死刑についてはそれなりに考えてきたつもりであったが、実際に書くとなると、予想していたよりもはるかに困難であると思えてきた。
まずはじめに、私自身の死刑反対論の主要な論点ではないが、憲法と死刑の関係について一言触れておく。一般に、死刑制度の是非については、憲法解釈論では一義的な答えはでないとされている。というのは、憲法36条は「残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と規定する一方で、31条は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めており、ここから、憲法は「生命を剥奪する刑罰=死刑」の存在を前提としていたと解釈できるからだ。もちろん、そのことから、憲法が死刑制度を「要求」しているとまで解釈することはできないが、死刑の違憲性を憲法の文言だけから導くことも困難なことは否めない。最高裁は、1948年に「一人の生命は全地球よりも重い」としつつも死刑の合憲性を認める有名な判決を出しているが、今後、判例変更の可能性がないとも言えない。要するに、憲法の文言だけからは違憲とも合憲とも言えない(あるいはどちらとも言える)わけだが、それでも憲法の精神に基づいて死刑の違憲性を主張する人々は、13条の「個人の尊厳」を拠り所にするのが一般的である。この点については後で再び言及するが、それとは別に、9条と死刑廃止を関連づけて論じる論者もいる。これは、不破さんが上記論考で書いておられるように、まさに辺見氏が先日の講演会で指摘した論点でもある。
憲法学者の樋口陽一氏は1991年、パリで行われた研究会の席上、日本国憲法第9条は、侵略戦争を否定した1791年フランス憲法以来の戦争違法化の長い歴史の系譜に位置づけられるという「連続性」と同時に、もはや「正しい戦争」はありえないという、歴史的に見ても新しい哲学に立脚する点で過去との「断絶性」を有するという二面性を指摘した後、死刑を廃止した欧州諸国の出席者に対し、死刑廃止は犯罪犠牲者たちの自然な感情に反してまでも「正しい殺人」はないという思想を制度化したものであるのに、国際社会でどうして「正しい殺人」(戦争は必ず殺人を伴う)の必要性に固執するのか、と問いかけている(『憲法と国家』岩波新書、参照)。これは日本社会に対しては、(「正しい殺人」という思想を含意する)「正しい戦争」を否定した9条を持つ日本社会は、なぜ「正しい殺人」という思想に基づく死刑制度の必要性に固執するのか、という問いかけになる。
憲法学者以外でも、去年亡くなった小田実は、平和主義の基本的倫理と論理が「殺してはならない」ではなく「殺されてはならない」であると指摘し、「人間はいかなる理由、大義名分に基づこうと殺されてはならないのです。こう考える私は、当然、戦争否定者であるのと同時に死刑否定、廃止主張者です。人を殺した者を殺すやり方は、戦争と同様に人間のやることではない」と述べています(『戦争か、平和か』大月書店)。
さて、私が死刑に反対する基本的な(だが唯一ではない)理由はヒューマニズムへのコミットメントである。ここでいう「ヒューマニズム」とは、すべての人間には固有かつ不可侵の尊厳が備わっている、という思想である。この思想が正しい、ということを論証(論理的証明)することは私にはできない。あとでまた触れるが、この思想には限界がある、とさえ感じているが、にもかかわらず、この思想を手放すことは私にはできない。人間は、ただ人間であるというそれだけの理由によって、固有の尊厳を持つ。言い換えれば、人間以外のものにはそのような「固有の尊厳」を認めないわけであるから、この思想は極めて人間中心主義的な偏狭さを持っていることになる。他方で、人間である限り、その尊厳は平等に尊重されなければならず、そこにはいかなる差別もあってはならない。なぜそうなのか、ということはもはや論理的には証明できない。つまり、ヒューマニズムとは一種の「賭け」であり、決断であり、帰依である。
ここで辺見氏の講演に触れると、不破さんも書いておられるように、辺見氏はマザー・テレサのような「愛」、とりわけ「不都合なものへの愛」を死刑反対と結びつけようとしており、不破さんはそれに対して好意的評価をしておられるが、この点は私の考えとは全く異なる。愛や憎しみは極めて個人的な感情であって、普遍主義的理念に基づくべき法とは相容れない性格を有している。それどころか、愛や憎悪、あるいは残酷といった感情は、基本的に人間と人間以外のものを区別しない。戦争や災害で何千人、何万人もの死者が出たというニュースを聞いてもほとんど何の感慨も持たない人が、自分の愛するペットが死ねば激しい悲しみと喪失感に襲われる、というのは、ごく普通に見られることである。
この問題については、かつて本多勝一氏が「イルカだけが問題なのではない」という論考において、極めて示唆に富む議論を行っているので、長くなるが引用しておきたい。
《 明らかなことは、残酷の場合と同様に愛さえも種を超えうるということだ。……もし私たちが感性のみを判断の基準とするならば、愛することも殺すことも、人間だからということを前提とすることはできない。人間と動物との境界、人間と宇宙人との境界はたやすく消えてしまうであろう。
結論そのものはきわめて単純であろう。残酷も愛も、たいへん頼りないものを基礎にしている。人類が真に平和を保とうとするのであれば、人類憲法ともいうべきひとつの最高契約を結び、それを論理として守るべきである。すなわち、人類は、人類を殺してはならぬ。知能が高いからでもなければ、「神の子」だからでもない。単に「人類だから」それ故に殺してはならない。そして人類とは、生物学上のホモ=サピエンスであることの以下でも以上でもない。どのような形態の奇形児であれ、ハトやカマキリにも劣る知能指数(?)の子であれ、単に人類であること、それだけの理由によって、絶対に生きる権利がある。そこにはいかなる差別もあってはならない。同時に、人類の中の特定の階層や個人が特別な待遇を受けてはならない。これはタテの両面だから、「人の上に人を作」るような存在を認める社会派、重度身体障害者や植物人間を殺す社会でもあるだろう。 》(本多勝一『麦とロッキード』講談社文庫所収)
ここまではもっぱら他人の意見の紹介であり、私独自のものは何もありません。したがって、ここからが本論なのですが、今日は時間がないので、この辺りで切り上げます。続きはまた明日(?)…。
【追記(2008/04/12)】
つまり、愛とは極めて個人的で個別的なものなのである。我々がある人やあるものを愛するのは、まさにそれがかけがえのない固有性を備えているからであって、人は一般的・普遍的なものを愛することはできない。それゆえ愛は、一般性・普遍性を志向する法の世界にはなじまない。付言すれば、犯罪もまた、愛と同様、極めて個別的で偶有的なものである。すべての犯罪は固有性と一回性を持っている。どんな連続犯罪であれ、それぞれの犯罪が一回性と固有性を有している。しかし、そうした固有性を持つ犯罪が、ひとたび法の世界において裁かれる際には、そうした固有性が考慮されないわけではないが、基本的には固有性の相において眺められるのではなく、一般性の相において、すなわち同種の他の諸事例との比較・相対化によって、眺められるのである。
2008/04/08のBlog
[ 02:02 ]
[ メディア ]
[warmgunさんの関連した記事その1]
[warmgunさんの関連した記事その2]
朝日新聞は昨年4月から1年間、240回以上にわたって夕刊に「新聞と戦争」という連載記事を掲載したが、その連載を終えるにあたり、3月30日の「オピニオン面」に3人の識者――井上ひさし(作家・劇作家)、アンドルー・ゴードン(ハーバード大教授)、李相哲(龍谷大教授)――の意見を載せた。これに関連して、朝日(をはじめとする現代のマスメディア)に対する批判記事を書こうと思い、この記事を切り抜いておいた。
「新聞と戦争」という連載の存在はもちろん知っていたが、私はほとんど読んでいなかった。夕刊の目立たない(読みにくい)場所に毎日少しずつ掲載するという形式だったため、朝日新聞の愛読者でも、この連載を読み通した人はよほどの暇人か奇特な人しかいないのではないだろうか。まるで「読んでくれるな」と言っているかのようだった。仮にこれが、天声人語や社説(例えば「希望社会への提言」のように週1回でも)のような場所にあれば、読者数は100倍以上に増えただろう。
この連載について、李相哲氏は「自分の新聞社の恥ずべき過去を洗い出して徹底検証することは勇気がいることだ。その点で、「新聞と戦争」は意義のある企画であり、興味深く読んだ」と評価している。井上ひさし氏にいたっては、「新聞と戦争について戦後いろいろな記事が書かれたが、今回の連載「新聞と戦争」は出色のできばえだ。過去の自らの活動を、驚くほど厳しく自己点検している。過去と同じわだちにはまりこまないために必要な作業だと思う」とまで絶賛し、「引き続き勇気をふるって、自己点検を続けてほしい」とエールを送っている。
しかし、ちょっと待て、と言いたくなるのは、私だけではあるまい(おそらくwarmgunさんもいる!笑)。「引き続き勇気をふるって、自己点検を続けてほしい」と言いうる相手は、「現在、勇気をふるって、自己点検をしている」者だけであろう。朝日新聞がそれに該当すると言うのか? ちゃんちゃらおかしいではないか!
この解説ページの冒頭、朝日新聞は何て書いているだろうか?
「メディアが戦争を阻止することは可能なのだろうか」ときたもんだ!(爆)
仮に、ほんの少しでも良識や良心というものがあったならば、決してこのようなノーテンキでゴーマンで自己満足のぬるま湯に浸りきった文句は書けなかっただろう。せめて、最低でも次のように書いたはずだ。
「メディアが戦争に加担・協力しないことは、はたして可能なのだろうか」と。
「メディアが戦争を阻止する」???? アホかっ!!!!
この日本において、一体いつ、そんな歴史が一度でもあったというのか!! 日本の歴史が証明していることは、メディアは常に戦争のお先棒を担いできたという明々白々たる事実だけではないか!! 全く、反省のかけらもない、救いがたい連中である。
問うのもあほらしい質問だが、あえてここで質問してみよう。
果たして朝日新聞は、井上ひさし氏が称賛しているように、「過去の自らの活動を、驚くほど厳しく自己点検している」のか、と。
李相哲氏は次のような指摘をしている。
《奉天通信局の武内文彬が「支那側の計画的行動であることが明瞭となった」と打電してきたが、彼は石原莞爾らが満州事変を起こしたということを知っていたと思う。
問題はその時に、朝日がなぜ事実を誤認したかだ。事件は何ひとつ明瞭でなかったが、朝日は中国側の仕業と断定した。事実を掘り下げることをせずに、軍部の主張に同調してしまった。
朝日は、満州事変前から「平和主義」が批判され、不買運動もおきていた。「平和主義」を貫くには負担が大きかった。厳しく言えば、当時の朝日の社益のために社論転換の契機をうかがっていたのではないか。》
これは果たして「過去の出来事」なのだろうか?
朝日は最近、自分たちが米国による2003年のイラク開戦を批判していたと、さも鬼の首を取ったかのように自画自賛しているが、2001年のアフガン戦争を是認していたことを我々は決して忘れてはならない。上の引用文の一部を例えば次のように書き換えれば、これはまさに現在の朝日新聞の問題であることが明らかになる。
『ワシントン支局は「アルカイダの計画的犯行であることが明瞭になった」という米国政府の発表をそのまま打電してきたが、朝日新聞社内には米国政府の発表を疑う者もいたと思う。
問題はその時に、朝日がなぜ事実を誤認したかだ。事件は何ひとつ明瞭でなかったが、朝日はアルカイダの仕業と断定した。事実を掘り下げることをせずに、米国の主張に同調してしまった。
朝日は、9.11以前から「平和主義」が批判され、読売・産経・文春など右翼メディアの批判にさらされていた。「平和主義」を貫くには負担が大きかった。厳しく言えば、昨今の朝日の社益のために社論転換の契機をうかがっていたのではないか。』
また、アンドルー・ゴードン氏は次のように述べている。
《満州事変での日本の新聞と、イラク戦争での米国のメディアには共通点が多い。
大量破壊兵器が存在するとか、フセインとアルカイダが結びついているという証拠は一つもないのに、米国のメディアは、それが事実であるかのように報じた。満州事変で関東軍の謀略に乗せられて中国側を非難した日本の新聞と、基本的に同じだ。国民をだまして、戦争の正当性をつくり、戦争に導いた。
その原因も気味が悪いほど似ている。米国のジャーナリストたちも米国政府の言い分を怪しんではいた。しかし満州事変後の日本の新聞と同様に、ナショナリストらから脅迫的な非難が来るのを恐れ、部数や視聴率への影響を心配して、沈黙した。市民への誤爆など戦術に問題があると思っても、アルカイダ攻撃という、もっと大きな目的を害するのではないかと考えて報道を自主的に規制した。》
これも、ほんの少し文言を変えるだけで、まさに現在の朝日新聞をはじめとするメディアの問題を衝いた文章になる。
『満州事変での日本の新聞と、アフガン戦争での日米のメディアには共通点が多い。
アルカイダが9.11テロを計画・実行したとか、タリバーンとアルカイダが一体であるという証拠は一つもないのに、朝日新聞をはじめとする日本のメディアは米国メディアに追随し、あたかもそれが事実であるかのように報じた。満州事変で関東軍の謀略に乗せられて中国側を非難した日本の新聞と、基本的に同じだ。国民をだまして、戦争の正当性をつくり、戦争に導いた。
その原因も気味が悪いほど似ている。日本のジャーナリストのなかにも米国政府の言い分を怪しんではいる者はいた。しかし満州事変後の日本の新聞と同様に、ナショナリストらから脅迫的な非難が来るのを恐れ、部数や視聴率への影響を心配して、沈黙した。市民への誤爆など戦術に問題があると思っても、アルカイダ攻撃という、もっと大きな目的を害するのではないかと考えて報道を自主的に規制した。』
いかがだろうか。これが朝日をはじめとする今のマスコミの実態である。朝日新聞の「新聞と戦争」という連載は、それ自体はもしかしたら優れた企画だったかもしれないが、「過去の自らの活動を、驚くほど厳しく自己点検している」どころか、逆に、昔の朝日新聞社という「他者の活動を厳しく他者点検する」ことによって、あたかもそれが現在の朝日新聞と無縁であるかのように読者を欺き、そうすることによって、国民を不正な戦争へと駆り立てた過去の自社と全く同じ体質を持ち、本質的に全く同じ行為をしている現在の朝日新聞の犯罪を隠蔽するだけでなく、あたかも「改心した平和主義者」であるかのように装い美化するという、信じられない偽善者を装っているのである。
**********************************************
【追記】
アメリカは「対テロ戦争」の世界規模での推進を呼号し続け、それに追随する日本政府も、日米政治権力の走狗である日米のメディアも、狂ったように「対テロ戦争」の必要性を宣伝し続けている。
しかし、「対テロ戦争」の発端には「9.11」があったことを忘れてはならない。一体、あ
[warmgunさんの関連した記事その2]
朝日新聞は昨年4月から1年間、240回以上にわたって夕刊に「新聞と戦争」という連載記事を掲載したが、その連載を終えるにあたり、3月30日の「オピニオン面」に3人の識者――井上ひさし(作家・劇作家)、アンドルー・ゴードン(ハーバード大教授)、李相哲(龍谷大教授)――の意見を載せた。これに関連して、朝日(をはじめとする現代のマスメディア)に対する批判記事を書こうと思い、この記事を切り抜いておいた。
「新聞と戦争」という連載の存在はもちろん知っていたが、私はほとんど読んでいなかった。夕刊の目立たない(読みにくい)場所に毎日少しずつ掲載するという形式だったため、朝日新聞の愛読者でも、この連載を読み通した人はよほどの暇人か奇特な人しかいないのではないだろうか。まるで「読んでくれるな」と言っているかのようだった。仮にこれが、天声人語や社説(例えば「希望社会への提言」のように週1回でも)のような場所にあれば、読者数は100倍以上に増えただろう。
この連載について、李相哲氏は「自分の新聞社の恥ずべき過去を洗い出して徹底検証することは勇気がいることだ。その点で、「新聞と戦争」は意義のある企画であり、興味深く読んだ」と評価している。井上ひさし氏にいたっては、「新聞と戦争について戦後いろいろな記事が書かれたが、今回の連載「新聞と戦争」は出色のできばえだ。過去の自らの活動を、驚くほど厳しく自己点検している。過去と同じわだちにはまりこまないために必要な作業だと思う」とまで絶賛し、「引き続き勇気をふるって、自己点検を続けてほしい」とエールを送っている。
しかし、ちょっと待て、と言いたくなるのは、私だけではあるまい(おそらくwarmgunさんもいる!笑)。「引き続き勇気をふるって、自己点検を続けてほしい」と言いうる相手は、「現在、勇気をふるって、自己点検をしている」者だけであろう。朝日新聞がそれに該当すると言うのか? ちゃんちゃらおかしいではないか!
この解説ページの冒頭、朝日新聞は何て書いているだろうか?
「メディアが戦争を阻止することは可能なのだろうか」ときたもんだ!(爆)
仮に、ほんの少しでも良識や良心というものがあったならば、決してこのようなノーテンキでゴーマンで自己満足のぬるま湯に浸りきった文句は書けなかっただろう。せめて、最低でも次のように書いたはずだ。
「メディアが戦争に加担・協力しないことは、はたして可能なのだろうか」と。
「メディアが戦争を阻止する」???? アホかっ!!!!
この日本において、一体いつ、そんな歴史が一度でもあったというのか!! 日本の歴史が証明していることは、メディアは常に戦争のお先棒を担いできたという明々白々たる事実だけではないか!! 全く、反省のかけらもない、救いがたい連中である。
問うのもあほらしい質問だが、あえてここで質問してみよう。
果たして朝日新聞は、井上ひさし氏が称賛しているように、「過去の自らの活動を、驚くほど厳しく自己点検している」のか、と。
李相哲氏は次のような指摘をしている。
《奉天通信局の武内文彬が「支那側の計画的行動であることが明瞭となった」と打電してきたが、彼は石原莞爾らが満州事変を起こしたということを知っていたと思う。
問題はその時に、朝日がなぜ事実を誤認したかだ。事件は何ひとつ明瞭でなかったが、朝日は中国側の仕業と断定した。事実を掘り下げることをせずに、軍部の主張に同調してしまった。
朝日は、満州事変前から「平和主義」が批判され、不買運動もおきていた。「平和主義」を貫くには負担が大きかった。厳しく言えば、当時の朝日の社益のために社論転換の契機をうかがっていたのではないか。》
これは果たして「過去の出来事」なのだろうか?
朝日は最近、自分たちが米国による2003年のイラク開戦を批判していたと、さも鬼の首を取ったかのように自画自賛しているが、2001年のアフガン戦争を是認していたことを我々は決して忘れてはならない。上の引用文の一部を例えば次のように書き換えれば、これはまさに現在の朝日新聞の問題であることが明らかになる。
『ワシントン支局は「アルカイダの計画的犯行であることが明瞭になった」という米国政府の発表をそのまま打電してきたが、朝日新聞社内には米国政府の発表を疑う者もいたと思う。
問題はその時に、朝日がなぜ事実を誤認したかだ。事件は何ひとつ明瞭でなかったが、朝日はアルカイダの仕業と断定した。事実を掘り下げることをせずに、米国の主張に同調してしまった。
朝日は、9.11以前から「平和主義」が批判され、読売・産経・文春など右翼メディアの批判にさらされていた。「平和主義」を貫くには負担が大きかった。厳しく言えば、昨今の朝日の社益のために社論転換の契機をうかがっていたのではないか。』
また、アンドルー・ゴードン氏は次のように述べている。
《満州事変での日本の新聞と、イラク戦争での米国のメディアには共通点が多い。
大量破壊兵器が存在するとか、フセインとアルカイダが結びついているという証拠は一つもないのに、米国のメディアは、それが事実であるかのように報じた。満州事変で関東軍の謀略に乗せられて中国側を非難した日本の新聞と、基本的に同じだ。国民をだまして、戦争の正当性をつくり、戦争に導いた。
その原因も気味が悪いほど似ている。米国のジャーナリストたちも米国政府の言い分を怪しんではいた。しかし満州事変後の日本の新聞と同様に、ナショナリストらから脅迫的な非難が来るのを恐れ、部数や視聴率への影響を心配して、沈黙した。市民への誤爆など戦術に問題があると思っても、アルカイダ攻撃という、もっと大きな目的を害するのではないかと考えて報道を自主的に規制した。》
これも、ほんの少し文言を変えるだけで、まさに現在の朝日新聞をはじめとするメディアの問題を衝いた文章になる。
『満州事変での日本の新聞と、アフガン戦争での日米のメディアには共通点が多い。
アルカイダが9.11テロを計画・実行したとか、タリバーンとアルカイダが一体であるという証拠は一つもないのに、朝日新聞をはじめとする日本のメディアは米国メディアに追随し、あたかもそれが事実であるかのように報じた。満州事変で関東軍の謀略に乗せられて中国側を非難した日本の新聞と、基本的に同じだ。国民をだまして、戦争の正当性をつくり、戦争に導いた。
その原因も気味が悪いほど似ている。日本のジャーナリストのなかにも米国政府の言い分を怪しんではいる者はいた。しかし満州事変後の日本の新聞と同様に、ナショナリストらから脅迫的な非難が来るのを恐れ、部数や視聴率への影響を心配して、沈黙した。市民への誤爆など戦術に問題があると思っても、アルカイダ攻撃という、もっと大きな目的を害するのではないかと考えて報道を自主的に規制した。』
いかがだろうか。これが朝日をはじめとする今のマスコミの実態である。朝日新聞の「新聞と戦争」という連載は、それ自体はもしかしたら優れた企画だったかもしれないが、「過去の自らの活動を、驚くほど厳しく自己点検している」どころか、逆に、昔の朝日新聞社という「他者の活動を厳しく他者点検する」ことによって、あたかもそれが現在の朝日新聞と無縁であるかのように読者を欺き、そうすることによって、国民を不正な戦争へと駆り立てた過去の自社と全く同じ体質を持ち、本質的に全く同じ行為をしている現在の朝日新聞の犯罪を隠蔽するだけでなく、あたかも「改心した平和主義者」であるかのように装い美化するという、信じられない偽善者を装っているのである。
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【追記】
アメリカは「対テロ戦争」の世界規模での推進を呼号し続け、それに追随する日本政府も、日米政治権力の走狗である日米のメディアも、狂ったように「対テロ戦争」の必要性を宣伝し続けている。
しかし、「対テロ戦争」の発端には「9.11」があったことを忘れてはならない。一体、あ