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イスマタリアン
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2008/04/30のBlog
[ 20:14 ] [ 裁判・司法 ]

先日(4月28日)、東京地裁で判決のあった渋谷区夫殺害・遺体損壊遺棄事件について、簡単にメモしておく。

この裁判では、三橋歌織被告の責任能力が焦点になっていたが、裁判所は被告人の完全責任能力を認定して、懲役15年の判決を言い渡した。おそらく多くの人は、今回の実刑判決に納得したのだろう。仮にこの裁判で、裁判所が弁護側の主張を認め、「被告人は犯行時、心神喪失状態で責任能力はなかった」と認定して無罪を言い渡していたら、マスコミは大騒ぎになっていただろう。

ところが公判では、弁護側、検察側双方の請求した鑑定人が、ともに、「被告人は犯行時、短期精神病性障害で幻覚が起きており、心神喪失だった可能性がある」という結果を報告していたのである。判決は、三橋被告が殺害直前に短期精神病性障害を発症し、意識障害を起こし、幻聴や幻覚があったと認めつつも、「責任能力に問題を生じる程度ではなかった」と結論づけたのである。

つまり、犯行時の被告人の責任能力について、裁判所は2人の鑑定人とは異なる判断をしたことになる。しかも、この判決の2日前には最高裁が、「専門家である精神科医の意見は、公正さや能力に疑いがあったり、鑑定の前提条件に問題があったりするなどの採用できない事情がない限り、十分に尊重するべきだ」という判断を示したばかりなのに、である。確かに、刑事責任能力を判定するのは裁判官の権限である。しかしながら、その判断の前提となる鑑定医の意見は十分尊重しなければならない。果たして、東京地裁は鑑定意見を尊重したと言えるだろうか。私にはそうは思えない。

その一方で、今回の2人の鑑定人の鑑定結果に疑問を持つ人は少なくないだろう。28日の朝日新聞夕刊によると、「三橋被告は、精神鑑定医が同席した2月12日の被告人質問で、自らの精神障害の症状について初めて説明した」。そして、この精神鑑定が転換点となって、三橋被告は供述内容を大きく変化させていった。「犯行当時、『もうろう状態』で責任能力が問えなかった可能性がある」とする結果が3月10日の法廷で報告されると、三橋被告は供述内容を大きく変えていったというのである。その結果、「公判の初期段階で示されていた事実関係が大きく揺らぎ、検察側にとっては予想外の展開を見せた」というのである。

なぜこうした事態が起きたのか。
同紙の記事から推測すると、どうやら来年から始まる裁判員制度を控えて、裁判所が精神鑑定の方法を大きく変更したことが影響しているようである。
従来の公判鑑定では、裁判所によって委託された鑑定人が数カ月かけて被告人との面接を繰り返し、様々な医学的・心理学的テストを行ったうえで鑑定結果を出すのが一般的であった。ところが、裁判員制度が始まると、審理は短期間に集中して行わなければならない。公判に費やせる時間は「3日間」が想定されているという。そこで、裁判員制度を控えた今回の公判では、従来のように精神鑑定のために公判を数カ月中断するのを避け、公判と並行して鑑定を進め、鑑定結果を「鑑定書」として残さず、口頭での尋問の内容そのものを鑑定結果とする方法が採用されたらしい。

果たして、このような方法で、正確な鑑定ができるのだろうか。迅速性のために正確性が犠牲にされていいものだろうか。実際、この法廷の裁判官らも、2人の鑑定人の鑑定意見に疑問を持っていただろうことは、今回の判決から明らかだ。にもかかわらず、検察側が新たな(つまり3人目の)鑑定人を申請したのを却下している。おそらくそれも、審理を「迅速に」進めるためだったのだろう。

裁判員制度が導入された場合、市民である裁判員の“常識”と専門家である鑑定人の意見が食い違った場合の鑑定意見の扱い方も問題となるが、それ以前に、裁判員制度の導入によって、裁判や鑑定の正確性・公平性・客観性が損なわれる恐れが出てきたことを、今回の裁判は示しているのではないだろうか。

2008/04/29のBlog

 同じ社説に関する批判を長々と続けるのは大人気ないかもしれないが、別に「大人気ある大人」など目指していないので、もう少し批判を続けたい。

 法律の専門家だが精神医学の素人である裁判官と、法律にも精神医学にも素人のAさん(誰でもいいが、ここに私や「あなた」を代入してもよい)とでは、精神鑑定結果に対する理解力はどちらが上だろうか?(もちろん、鑑定結果の中でよくわからない点については鑑定医に直接質問できるものとする)

 一般論として言えば、裁判官もAさんもともに専門外である分野の事項に関する理解力において異なるところはないはずだ。ところが、今日の第2社説の筆者にとっては、そうではないらしい。
 今朝の第2社説が一体何を主張したかったのかはよくわからないが、そのタイトルからして、「裁判員に分かる鑑定を」求めていることだけはわかる。誰に対して求めているのかイマイチよくわからない点もあるが、鑑定をするのは鑑定人であるから、ここは常識的に、鑑定人に対して「裁判員に分かる鑑定を」求めているのだと解釈しておこう。そうすると、単に「わかりやすい鑑定を」求めているのではなく、「裁判員に分かる」鑑定を求めているところを見ると、その真意は、「賢明な裁判官だけのときはあえてそういう注文は必要なかったが、愚かな裁判員が加わる裁判員制度の下では、バカな裁判員にも分かるような鑑定をお願いしますよ」ということだろう。

 話は少し脱線するが、私は学歴や職業のいかんを問わず、人間の判断力の大まかな平等性を信じているので、法律の素人である裁判員が裁判に加わっても、その裁判の判決を下すのに必要な法律知識や態度を教わりさえすれば(後者は若干難しいかもしれないが)、裁判官と同じくらいには公正で妥当な判断を下す能力を持っていると思っている。それゆえ、今巷で流行している、「国民は馬鹿である。それゆえ裁判員制度に反対である」式の議論に私は与(くみ)しない。裁判員制度に手放しで賛成することはできないが、この制度が一般市民に対して有するこうした「教育効果」に対する期待も少しは持っている。(もっとも、別の意味で、最近は不安の方が大きくなってきている。これについては別記事で論じる。)

 話を戻す。
 朝日新聞第2社説の筆者は「裁判員に分かりやすい鑑定を」求めていた。しかし、そもそも鑑定人の役割は「分かりやすい鑑定」を書くことだろうか。仮に、「分かりにくいが正しい鑑定」と「分かりやすいが間違った鑑定」があったとしたら、どちらを採用すべきだろうか。当然、前者だろう。しかし、(裁判官を含め)素人には、そもそも何が「正しい鑑定」なのかを判断すること自体が必ずしも容易ではない。実際に、「分かりにくい(が実は正しい)鑑定」と、「分かりやすい(が実は間違った鑑定)」の2つが法廷に提出された場合、裁判官であれ裁判員であれ、後者を採用してしまう恐れが強いのではないだろうか。

 では、何が「分かりやすい鑑定」で、何が「分かりにくい鑑定」なのだろうか? そもそも、精神鑑定が行われるのは、一般人には理解しがたい事件の裁判が多いだろう。そのようなケースで、一般人にとって「分かりにくい」のは、被告人が犯行時、「心神喪失状態」であったとして、無罪の可能性を示唆されることではないだろうか。逆に言えば、「分かりやすい鑑定」とは、一般人の常識に合った鑑定、ということになる。だとすれば、「分かりやすい鑑定」ばかりが出るようでは、そもそも鑑定など必要ない、ということにはならないだろうか? 


*朝日の社説批判はもう終わりにするが、精神鑑定と刑事責任能力の問題については、さらに考察を続けることにする。

[ 09:21 ] [ メディア ]

 今日の朝日新聞は「刑事責任能力――裁判員にわかる鑑定を」という社説を掲げている。後半部分を引用する(番号と下線は私が付けた)。

===<ここから>===
判決が鑑定結果と異なるのは納得がいかないという人もいるだろうが、(1)鑑定だけに頼れないのも事実だ
 今回の裁判は裁判員制度をにらんで、鑑定の説明の仕方に工夫をこらした。これまでの専門用語による分厚い鑑定書ではなく、法廷での口頭による説明を鑑定の結果とした。また鑑定医ごとに質問するのではなく、2人いっしょに出廷させた。
 最高裁は先週、別の事件で次のような判断を示した。「専門家である精神科医の意見は、公正さや能力に疑いがあるといった事情がない限り、十分に尊重すべきだ」
 これも裁判員制度に向けて、専門家の意見を軽視しないようクギを刺したといえる。(2)そうなると、(3)裁判員に鑑定結果を正確に理解してもらうことがますます必要になってくる
 (4)責任能力があるかどうかを鑑定するのは難しいし、それを素人に説明するのも簡単ではない
 (5)裁判所は今回の説明方法をモデルケースにして、さらにわかりやすい鑑定を心がけてもらいたい
===<ここまで>===

 この支離滅裂の文章が何を言いたいのか理解できる人がいるだろうか?
 下線部(1)「鑑定だけに頼れないのも事実だ」という断定の根拠は一体何なのか? 「鑑定だけに頼れない」なら、直観に頼ればいい、とでもいうのだろうか? 下線部(2)「そうなると」どうだというのだ? 「これまでは専門家の意見を軽視してもよかったから、鑑定結果など正確に理解しなくてもよかったが、これからは専門家の意見を軽視してはいけなくなったので、鑑定結果を正確に理解しなければいけなくなった」とでもいうのだろうか?

 しかし、より本質的な問題は、下線部(3)~(5)である。
(3)「裁判員に鑑定結果を正確に理解してもらう」の主語は一体誰だろうか? 常識的に考えれば「鑑定人」のはずだが、以下の文章を読むと疑問が湧いてくる。

次の下線部(4)を見てみよう。
「責任能力があるかどうかを鑑定するのは難しいし、それを素人に説明するのも簡単ではない。」
 (本筋から逸れるが、「裁判員に・・・理解してもらう」だの、「素人に説明する」といった言い回しからは、この社説の筆者がいかに「裁判員」になる「素人」の市民を見下しているかがよくわかる。)
「責任能力があるかどうかを鑑定する」の主語と「それを素人に説明する」の主語は一体誰なのか? 
 そもそも、「責任能力があるかどうかを鑑定する」とは一体、どういうことだろうか? 責任能力があるか否か(すなわち、刑法39条の心神喪失または心神耗弱に該当しないか否か)は法律判断であって、裁判所の専権事項である、ということは判例で確立している。裁判所がその判断を行うための資料として鑑定人が鑑定するのは、被告人の犯行時(および鑑定時)の精神状態と(犯行時の)精神能力である。鑑定人は、「責任能力があるかどうかを鑑定」したりはしないのである。

ところが、これらの文章の後には、
(5)「裁判所は今回の説明方法をモデルケースにして、さらにわかりやすい鑑定を心がけてもらいたい。」
という驚愕の一文が続いているのである。
 もう一度、主語と述語だけ引用しよう。
 「裁判所は・・・さらにわかりやすい鑑定を心がけてもらいたい」!!!

も、も、も、も、もしかして、この社説の筆者は、裁判所は鑑定結果を基に被告人の責任能力判断という法的判断を下すのであって、「鑑定」をするのは鑑定の専門家(精神鑑定なら通常、精神科医)だ、ということを知らないのだろうか!?!?!?!?
(鑑定は「わかりやす」ければそれでいいのか、といった問題はもはや問わない。)

 私は、「この社説の筆者を精神鑑定せよ」などということは言わない。しかしせめて、「読者にわかる社説を」書いて欲しい。といっても、この筆者には無理だろう。それならせめて、個々の社説の筆者名を明記してほしい。そうすれば読者としても、筆者名を見て、社説を読むか否かを判断できるというものだ。その方が朝日新聞社としても、会社全体の恥にならなくて済むだろう。



 しかし、下線部(5)にはもうひとつの問題点が潜んでいる。「今回の説明方法をモデルケースにして」という部分である。実は、今回の方法はモデルケースどころではないのである。それについては別の記事で指摘したい。

2008/04/26のBlog

放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は今月15日、光市母子殺害事件に関するテレビ報道のあり方を検証した報告書を公表した。
【放送倫理検証委員会の意見】

同委員会は、昨年5月から9月にかけて放送された8放送局、20番組、33本の放送済み録画番組(のべ7時間半)を視聴・検証した結果、それらの放送内容のほとんどが「被害者遺族の発言や心境に同調し、被告や弁護団に反発・批判する内容」であり、「悪いヤツが、悪いことをした。被害者遺族は可哀相だ」という以上のことは何も伝わってこないものであると指摘、「公正性・正確性・公平性の原則」を大きく逸脱し、「民主主義の根幹をなす、公正な裁判の実現に害を与えるだけでなく、視聴者・市民の知る権利を大きく阻害するもの」で、「視聴者に裁判制度に関するゆがんだ認識を与えかねないものだった」と厳しく批判した。

この報告書では、冷静で極めて正しい指摘がなされていると感じた。できれば全文を引用したいくらいだが、A4(40字×40行)で20枚近い報告書なので、そういうわけにもいかない。興味のある向きはできれば直接原文を参照して欲しい。


そもそも、犯罪報道の意義はどこにあるのだろうか。
犯罪事実の概要、被害者(遺族)の無念さ、加害者の「異常さ」、加害者=被告人が「死刑」になるか否か、といったことだけに終始していていいのだろうか。むしろ、なぜこのような犯罪が起こってしまったのか、加害者はどのような人間で、そうした人間がどのように形成され、どのような要因によって犯行に及んだのか、今後そうした犯罪が起こらないようにするにはどのような対策が必要なのか、被害者(遺族)の苦しみを軽減するためにはどのような法的・制度的対策が可能なのか等々、といったことを多角的に検討することこそが報道の使命なのではないだろうか。
一見、異常に見える犯罪も、「動機なき殺人」だの「心の闇」だの「わけのわからぬ犯罪」といった言葉で思考停止に陥ることなく、その原因・背景を深く追究していけば、そこには必ず、人間や社会に関する普遍的な原因や問題が見えてくるものである。そのような犯罪の原因と背景を追究し、今後の刑事政策や社会や教育のあり方等々の問題について問題提起するところにこそ、ジャーナリズムの果たすべき役割があるのである。


ところが、委員会の検証した7時間半に及ぶ放送のなかには、「ひとつとして、被告人の心理や内面の分析・解明を試みた番組はな」く、「このこと自体が異様なことである」と報告書は指摘し、次のように批判している。

<被告人の人間像の描き方は断片的であり、一面的でフラットである。いちいちの供述がどのような文脈で語られたのか、何を意味するのかについても、まったく不明のまま、被告がたんに荒唐無稽で、奇異なことばかり言っているという印象が強調されることになった。>

 さらには、被告人が精神鑑定で述べた言葉も、その片言節句を全体の文脈から切り取って紹介することにより、ことさら被告人の「異常性」だけを強調し、肝心の精神鑑定の結果がどうだったのかということは一切報じていないのである。


 次に、これらの番組の裁判に関する報道のあり方として見た場合、際立った特徴は、
1. 被告・弁護団に対する反発・批判の激しさ
2. 裁判所・検察官の存在の極端な軽視
の2点であったと指摘し、以下のように批判している。

<前者は、「第1,2審で争わなかった事実問題を、差戻控訴審になって持ち出すのはおかしい」「被害者遺族の無念の思いを踏みにじっている」「弁護団は死刑制度反対のために、この裁判を利用している」等々の反発・批判をさかんに浴びせたことを指す。多くの番組がそのことだけに終始した、という印象すらある。
 その裏返しとして、ほとんどの番組は、裁判所がどのような訴訟指揮を行い、検察官が法廷で何を主張・立証したか、第1、2審の判決にもかかわらず死刑という量刑を追い求めた理由は何なのかについて、まったくといってよいほど伝えていない。その分、被告・弁護団が荒唐無稽、奇異なことを言い、次々の鑑定人などの証人尋問を行って、あたかも法廷を勝手に動かしているようなイメージが極度の強調された。これが後者の問題である。
・・・・
 検察官は何を主張・立証しようとしたか、それに対して被告・弁護人はどう反論・反証したか。これらのポイントを整理し、事件と裁判の全体像を明らかにし、伝えることが、番組制作者の仕事だったはずである。しかし、本件放送において、検察官の主張や立証の内容を伝えたものは皆無といってよかった。
 ・・・・
 そのかわりにあったのは、被告・弁護団と被害者遺族を対立的に描く手法だった。法廷での被告の供述や弁護団の記者会見での発言映像のあいだに、被害者遺族の記者会見等における発言映像をはさみ、対比させる構成である。
 こうした手法によって、差戻控訴審が、あたかも被告・弁護団と被害者遺族との攻防であるかのような誤解を視聴者に与えているばかりか、検察官も被害者遺族と同様の主張・立証を行ったかのような印象を濃厚に醸し出している。>

 報告書は、本件放送が被告・弁護団と被害者遺族を対立的に描くことにより、「刑事事件における当事者主義について、視聴者に誤解を与える致命的な欠陥があった」と結論づけている。

 そして、本件放送がこのような扇情的で全く多様性の欠けた一面的な報道になった背景として、「真実はすでに決まっている、と高をくくった傲慢さ、あるいは軽率さ」、「被告や弁護団の主張・立証など、裁判所が認めるはずがない、という先入観」、「いちいちの事実の評価を被害者遺族の見方や言葉に任せてしまい、自分では考えない、判断しない、という怠慢やずるさ」があったと指摘している。

 さらに、そうした態度を生み出した要因として、「他局でやっているから自局でもやる、さらに輪をかけて大袈裟にやる、という「集団的過剰同調番組」ともいうべき傾向がなかっただろうか」と問いかけるのである。

 今回の報道は、まさにそうした「集団的過剰同調」をマスコミ同士が競い合うなかで、それを日本社会全体へと増幅したものであったといえよう。まさしく現在の日本マスコミが集団的過剰同調増幅装置となって、日本社会に集団的過剰同調=集団的ヒステリーを引き起こしている典型的な一事例であったと言えよう。

[ 21:24 ] [ 裁判・司法 ]
このところ、無茶苦茶な判決を立て続けに出していた最高裁第2小法廷だが(「関連記事その1」「その2」)、昨日はまともな判決を出したようだ。

 これまでの裁判では、被告人の精神鑑定を行った精神科医が「心神喪失」(責任無能力=無罪理由)の鑑定結果を出していても、精神医学の素人である裁判官が、精神鑑定を無視して、「心神耗弱」(限定責任能力=減刑理由)や「完全責任能力」を認定する判決が相次いでいたが、専門家の鑑定結果を尊重するように、という、いわば当然の判断を下したのである。以下にアサヒ・コムのニュースを貼り付ける。


=========<引用開始>==========
http://www.asahi.com/national/update/0425/TKY200804250324.html
「心神喪失」で有罪はダメ…「鑑定尊重を」最高裁初判断
2008年04月26日06時20分

 裁判で2度実施された精神鑑定の結果がいずれも刑事責任能力がない「心神喪失」だったのに、二審判決で「心神耗弱」で有罪とされた男性被告(39)の上告審で、最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)は25日、「鑑定結果は信用でき、心神耗弱と認めるのは困難」として、二審判決を破棄し、さらに審理を尽くすため東京高裁に差し戻す判決を言い渡した。

 第二小法廷は判決の中で「専門家である精神科医の意見は、公正さや能力に疑いがあったり、鑑定の前提条件に問題があったりするなどの採用できない事情がない限り、十分に尊重するべきだ」とする初めての判断を示した。

 東京・渋谷のマンションで夫を殺害し、遺体をバラバラにして遺棄したとして殺人の罪などに問われている三橋歌織被告(33)の裁判でも、2人の医師による被告の精神鑑定の結果は、ともに「心神喪失」の意見だった。28日に東京地裁で判決が言い渡される予定で、判断が注目される。

 この日の裁判は、03年に東京都北区で、かつて勤務していた塗装店の経営者を殴って死なせたとして、男性が傷害致死罪に問われ、犯行当時、統合失調症による幻聴などにどの程度支配されていたかが争点となっていた。

 一審・東京地裁判決は、「心神喪失」とした鑑定結果に基づき無罪。しかし、二審は「犯行前後は合理的な行動をとっていた」として、鑑定結果を採用せず、「心神耗弱」で懲役3年としていた。

 この日の判決で第二小法廷は、被告の責任能力の有無を判断するのは、あくまでも裁判所だとする従来の判例を踏襲した上で、一審と二審で実施された精神鑑定の中身を検討。「鑑定人としての資質を十分備えており、結論を導く過程にも誤りはない。いずれも基本的に信用できる」と結論づけた。

=========<引用終わり>=========


 ただし、多くの人がすでに気づいているように、精神障害により心身喪失や心神耗弱の状態で犯罪を犯した人に対する刑や処遇のあり方については、非常に大きな問題が含まれている。

 実は私もこのところ、刑法39条(心神喪失による無罪、心神耗弱による減刑を定めた条文)にまつわる問題や触法精神障害者の問題に関心を持ち、佐藤直樹『刑法39条はもういらない』(青弓社)、呉智英・佐藤幹夫編『刑法39条は削除せよ!是か非か』(洋泉社)、福島章『精神鑑定』(講談社)、芹沢一也『狂気と犯罪』(講談社)、中島直『犯罪と司法精神医学』(批評社)、小田晋他『刑法39条』(新書館)などをぼちぼち読み進めているが、今のところまだ結論は出ていない。いつか、この問題についても、自分なりの考えをまとめたいと思っている。

2008/04/24のBlog
[ 07:43 ] [ メディア ]
warmgunさんに書かれる前に…(笑)


だが時に、社史に刻まれた苦楽や功罪に無頓着で、ついでに職業倫理もお構いなしという馬鹿者が、品位と地位をけ落とす。

これは、野村証券の元社員がインサイダー取引で数千万円の不正利益を得ていた事件に触れた今朝の天声人語の末尾である。

天声人語氏の「品位」については、もうたいていのことには驚かなくなっている私であるが、驚くべきことに(笑)、なんと今朝の天声人語は、この事件を「中国人」という外国人の「馬鹿者」が野村証券という由緒正しき立派な企業の「品位と地位をけ落とした」という内容なのだ! 一体、野村証券はこの事件の「被害者」なのか! 問題を起こした元社員の「国籍」が犯行と関係あるというのか! 仮にこの容疑者が大阪出身の日本人だったら、ことさらに「大阪出身者」などということを強調するのか! 野村証券という巨大企業におべんちゃらを使い、中国人をはじめとする在日外国人に対するいわれなき差別と偏見を助長する天声人語の「品位」を見よ! 

「品位」や「品格」などという言葉をことさら使う人間に「品位」や「品格」があったためしはない、という私の仮説がますます信憑性を帯びてきた。


2008/04/23のBlog

 22日、広島高裁が判決の言い渡しをした光市母子殺害事件の差し戻し控訴審判決について、簡単に検証してみたい。はじめに結論を言っておくと、今回の判決は、被告人の異常性と残虐性を強調し、被告人・弁護団への憎悪と被害者遺族への同情を煽り立てるマスコミの世論誘導=大衆洗脳報道によって思考停止に陥った「世論」にひたすら迎合するだけの、稀に見るひどい判決だった。これは、私が死刑廃止論者だからそのように酷評しているわけではなく、死刑制度の存在を前提に、従来の判例を基準として考えても、あまりにもひどい判決なのである。

 今回の差し戻し控訴審は、一審(山口地裁、00年)と二審(広島高裁、02年)が無期懲役判決だったのを、06年6月、最高裁判決が、「二審判決は、死刑を回避するに足りる、特に酌量すべき事情について審理を尽くさずに一審判決を是認しており、破棄しなければ著しく正義に反する」として高裁に差し戻したものであるため、一審判決を破棄し、死刑判決が出ることはほぼ予想されていた。とはいえ、たとえこれまで最高裁の差し戻し決定の意に反する判決を差し戻し審がすることはほとんどなかった(皆無?)とはいえ、憲法76条3項で「裁判官の独立」が認められている以上、今回の広島高裁に死刑判決以外に選択の余地がなかったわけではなく、広島高裁判決は当然、それ自体、独自の判決として批判的に検討しなければならない。そこで、問題は、最高裁の差し戻し決定と、今回の広島高裁判決の双方にあることになる。

 まず、最高裁の差し戻し決定であるが、これは、従来、死刑選択の基準として最高裁自身が示していたこれまでの判例を大きく転換するものである。従来、死刑選択の基準とされていたのは、「連続ピストル射殺事件」の永山則夫元被告に対して最高裁が83年死刑判決を言い渡した際に示した次のような基準(いわゆる「永山基準」)である。

『 結局、死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。』

 つまり、ここでは、死刑は原則としては許されないが、「死刑制度を存置する現行法制の下では」上記のような極めて例外的な場合にのみ、死刑の選択も許される、という論理が貫かれていた。ところが、今回06年の最高裁決定は、「死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情」が存在しない限り、死刑が適用される、という論理になっており、原則と例外が逆転しているのである。それに伴い、挙証責任も検察側から弁護側に転嫁されているのである。つまり、従来は検察側が「極刑がやむをえないと認められる事情」があることを証明しなければならなかったのが、今度は一転して、「死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情」が存在することを弁護側が証明しない限り死刑にする、という論理になっているのである。私個人は、永山基準自体にも疑問と批判を持つ者であるが、今はそのことは問わない。問題は最高裁である。もちろん、最高裁自身が判例変更することはありうるし、それが悪いとは一概に言えない。ただし、判例変更する際には、それなりに説得力のある説明をしなければならない。そうでなければ、最高裁自身が法の安定性と平等性を破壊していると言わなければならない。私はまだ06年の最高裁判決を詳しく検討していないので断定できないが、おそらく判例変更の理由を明確に述べていないのではないだろうか。しかし、その理由を推測することはできる。今年2月、最高裁第1小法廷が2人を射殺した被告人をめぐる裁判(3人が無期、2人が死刑を選んだ)において、才口千晴裁判官は、「裁判員制度の実施を目前に、死刑と無期懲役との量刑基準を可能な限り明確にする必要がある」との意見を述べている。つまり、裁判員制度の実施を目前に控えた裁判所が世論に迎合し始めていることを示しているのである。

 来年5月からスタートする裁判員制度をめぐっては、マスコミ報道に影響されやすい一般市民が裁判員として裁判に参加すれば、「世間」がそのまま法廷に持ち込まれる、と危惧する向きがあるが、実はそれ以前に(裁判員制度施行以前に)、裁判所が自ら世論に迎合して厳罰判決を下す傾向がここ数年はっきりしてきているのである。そして、今回の最高裁判決と広島高裁判決は、そうした世論迎合司法の実態をこのうえなく明るみに出したものであると評することができよう。

 さて、ここからは、今回の広島高裁差し戻し審判決の問題点を簡単に検証したい。まず、被告人は、差し戻し前控訴審までは殺人と強姦の故意(犯意)を認めていたのに、上告審の途中から弁護人を現在の新しい弁護団に変えるとともに、殺意と強姦目的を否認する新たな主張(以下、「新供述」と呼ぶ)を始めた。差し戻し審はまずこの新供述の信憑性を検討し、それを信用できないと結論づけた。このこと自体の当否については、私には判断できるだけの材料がないので、判断を保留する。(念のために付け加えれば、この事件に関するマスコミ報道をどれほど熱心に見ていた人でも、否、熱心に見ていた人であればあるほど、このことの当否について公平に判断する資格はないだろう。この事件に関するマスコミ報道の極端な偏向ぶりについては、先ごろ放送倫理・番組向上機構が鋭く指摘・批判しているところである。)いずれにせよ、裁判所としては、旧供述と新供述のどちらが真実であるかを判断せざるを得ないわけであるから、新供述の信憑性を否定したということ自体(その当否は別として)を批判するつもりはない。問題はその先である。特に私が問題だと思う部分を、22日朝日新聞夕刊に掲載された判決要旨から引用する。若干長くなるが、重要な部分なので、ご寛恕を請う。

『 元少年は、死刑をまぬがれることを企図して旧供述を翻したうえ、虚偽の弁解を弄しているというほかない。遺族に対する謝罪や反省の弁を述べているものの、それは表面的なものだ。自己の刑事責任を軽減すべく虚偽の供述をしながら、他方では遺族に対する謝罪や反省を口にすること自体、遺族を愚弄するものであり、その神経を逆なでするもので、反省謝罪の態度とほど遠い。
 一審判決と差し戻し前控訴審判決は、犯行時少年であった被告人の可塑性に期待し、その改善更正を願ったものである。ところが、元少年はその期待を裏切り、差し戻し前控訴審判決の言い渡しから上告審での公判期日指定までの3年9カ月間反省を深めることなく年月を送り、その後は虚偽の供述を構築し、それを法廷で述べることに精力を費やしたものである。現時点では、元少年は反省心を欠いているというほかはない。
 ・・・・
 死刑選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情の有無について慎重に審理したが、基本的な事実関係は上告審判決の時点と異なるものはなかった。むしろ被告人が当審公判で虚偽の弁解を弄し、偽りとみざるを得ない反省の弁を口にしたことで、死刑選択を回避するに足りる事情を見いだす術もなくなったというべきである。』

 ここに見られる恐ろしいまでの非論理的問題性はすでにおわかりだろう。
 被告人は殺意を認めていた旧供述から、殺意を否認する新供述へと主張を変えた。被告人が裁判の途中で供述を変えることは別段珍しいことではなく、変更したことに理由があれば、それ自体を非難することはできないはずである。繰り返すが、私には被告人の旧供述と新供述のどちらが真実であるかはわからない。しかし、被告人は、今回の判決の後、自分の供述はこれまでに揺れ動いてきたが、今回の法廷で述べたことが真実である、と述べている。もちろん、この発言の真実性も私にはわからない。(もっとも、厳密に考えれば、被告人本人にしたところで、犯行前から犯行中にかけて、犯意があったのかなかったのか、あったとしてもいつ生じたのか等について、明確に当時の意識を再現ないし意識化しえない事態も十分ありうるだろう。)しかしながら、仮に被告人の新供述が正しいとすれば、被告人が供述を変更するのはあまりにも当然のことである。仮に虚偽であったとしても、被告人が「死刑をまぬがれることを企図」したとしても、それは人間の心情として極めて自然なことではないだろうか。しかし、ここで決定的なことは、どちらの供述が真理であるかを、神ならぬ裁判官が100%の絶対確実性をもって断定しえないという事実である。裁判官が新供述を信用できないと判断したのは、あくまでも、彼らの人間的な、すなわち可謬的な判断にすぎない。その意味で、弁護団が新供述の信憑性を信るという、これまた人間的な判断と、その論理的性格においては異なるところはない。つまり、裁判官の判断と弁護団の判断のどちらか一方が完全に正しい、ということを万人に対して一点の曇もなく証明できる人間は存在しない。もちろん、人間の判断とはすべて可謬的なものだ。だから、裁判官が可謬的な判断をしてはいけないなどと言っているのではない。裁判官とて人間である以上、可謬的な判断をせざるを得ない。問題は、その可謬的な判断をあたかも絶対な真理のごとく前提として、遺族に対する謝罪や反省を「表面的」なものと断じ、そうした謝罪や反省が逆に「遺族を愚弄するものであり、その神経を逆なでするもの」だなどと断定しており、供述を変えたこと、さらには謝罪や反省の言葉を口にしたことさえも、「反省心を欠いている」証拠と見なして、死刑選択の理由としていることである。

 これほど無茶苦茶な判決があるだろうか。無期懲役か死刑(という絶対的刑罰)かという選択は、犯した罪の重さによってではなく、それ以後、いかに反省しているか、否、いかに反省していると裁判所に認定してもらえるかによって決まるというのだ。

 冤罪事件を想起してみよう。仮に無実の人が強姦殺人(被害者2名)の罪で起訴されたとすれば、被告人が無実を訴え続けることは、「反省心に欠ける」として死刑を宣告される恐れが飛躍的に高まることになる。死刑を避けるためには、無実であっても、「罪」を「認め」、「反省」の意を示すことが必要になる!・・・というのが今回の広島高裁判決の恐るべき帰結なのである。


【追記】

 一審と二審(差し戻し前控訴審)は、被告人の犯行が18歳1カ月という少年時に行われたものであり、更正可能性がないとはいいきれないとして無期懲役を言い渡した。それでは、今回の差し戻し控訴審は、被告人の更正可能性についてはどのような判断をしたのだろうか。
 上の記事で引用した判決要旨の一部をもう一度引用させて頂く。

『一審判決と差し戻し前控訴審判決は、犯行時少年であった被告人の可塑性に期待し、その改善更正を願ったものである。ところが、元少年はその期待を裏切り、差し戻し前控訴審判決の言い渡しから上告審での公判期日指定までの3年9カ月間反省を深めることなく年月を送り、その後は虚偽の供述を構築し、それを法廷で述べることに精力を費やしたものである。現時点では、元少年は反省心を欠いているというほかはない。
・・・・
 死刑選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情の有無について慎重に審理したが、基本的な事実関係は上告審判決の時点と異なるものはなかった。むしろ被告人が当審公判で虚偽の弁解を弄し、偽りとみざるを得ない反省の弁を口にしたことで、死刑選択を回避するに足りる事情を見いだす術もなくなったというべきである。』

 ここからわかるように、今判決は、一審と差し戻し前控訴審がその時点で少年の更正可能性を否定しなかったこと自体は批判していない。ところが、それ以後、被告人が供述を変更したことをもって、更正の可能性がなくなった証拠とみなし、「現時点では」反省心を欠いているので、死刑を回避すべき事情がなくなった、と断じているのである。つまり、更正可能性に関する判断自体が、そのときどきの被告人の言動に対する裁判官の評価によって変動することを明確に認めつつ、かつては存在していたかもしれない更正可能性が、「現時点では」存在しなくなったという判断を基に、被告人をこの世から永久に抹殺することを正当化しているのである。しかも、被告人が述べた反省の弁さえも、“虚偽の反省”と断定し、そのことが「遺族を愚弄し、その神経を逆なでするものである」との理屈によって、死刑選択の理由にしているのである。のみならず、一審と差し戻し前控訴審の「期待を裏切」ったことまでもが極刑選択の理由に付加されているようにすら読める。

 被告人の立場から言えば、「真実」を述べれば、「嘘をついているから、反省心に欠けている」と言われ、反省の言葉を述べれば、「虚偽の反省で、遺族を愚弄するものだ」と断定されて、いずれも死刑選択の理由にされているのである。

 差し戻し控訴審判決における死刑選択の理由を整理してみよう。
1. 犯行の事実関係は一審判決時点と同じである。
2. この時点では更正可能性はありえた(ゆえに、無期懲役もありえた)
3. ところが、差し戻し控訴審で述べた新供述は嘘である。
4. このことは被告人に反省心がなくなったことを示している。
5. 被告人が述べた反省の弁も虚偽である。
6. これは遺族を愚弄するもので、反省の態度とはほど遠い。
7. よって、現時点では被告人は反省心を欠いていると言わざるを得ない。
8. よって、被告人に更正の可能性はない。

 繰り返すが、3と5は広島高裁が下した誤謬の可能性のある判断である。そして、そのような可謬的な判断を基に、被告人は「現時点では反省心を欠いている」と結論を下し、そこから、現時点で反省心を欠いている者は、未来永劫更正の可能性がないから、死刑にすべきだ、という論理なのである。
 3,5が可謬的判断である以上、4,6,7が可謬的判断であることは避けられない。しかも、仮に7が真理であると仮定しても、そこから8の結論を導くことが不当であることは言うまでもない。
 以上のように、今回の広島高裁判決は、曖昧な独断を根拠に論理的にも支離滅裂な推論を経て、「死刑」という絶対的な刑罰を下しているのである。


2008/04/22のBlog
今日のニュースから――。

光市母子殺害事件じゃなくてごめんよ(この判決については後日コメントする予定)。

時事通信配信のニュースから引用する。

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「死刑になりたかった」=自衛官、20カ所以上切る-運転手殺害・鹿児島
4月22日21時31分配信 時事通信


 鹿児島県姶良町でタクシー運転手を殺害したとして、陸上自衛隊第一普通科連隊(東京都練馬区)の一等陸士(19)が逮捕された事件で、一士は県警加治木署の調べに対し、「人を殺して死刑になりたかった」と供述していることが22日、分かった。また、運転手は首など20カ所以上を切り付けられていたことも判明。一士は「なかなか死ななかったので複数回、切った」と話しているという。
 調べによると、一士は22日午前2時すぎ、JR鹿児島中央駅からタクシーに乗車し、姶良方面に向かうよう指示。同2時半ごろ、運転手神薗三郎さん(58)の首付近をナイフで切って殺害した疑いが持たれている。 

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全く理不尽なことながら、時折こういう人間が現れるのも現実である。
死刑制度の存在が理不尽な殺人に駆り立てた事件のひとつである。


2008/04/21のBlog
日本では五輪の聖火リレーに関する報道がなされない日はないが、マスコミがチベット問題の深層と真相を報じる気配は全くない。
 それなら自分で調べればいいのだろうが、そんなに時間があるわけではないので、幾人かの信頼できるジャーナリストや学者のサイトを読む中で湧いてきたいくつかの疑問点を書き留めておく。

疑問1.誰がチベット騒乱を扇動しているのか?

 浅井基文氏によれば、「チベット青年会議」が昨年8月、ダライサラで開かれた年次総会で、「北京五輪前に何らかの行動を起こす」方針を決めたことが、今回の騒動の背景にあるようだ。「チベット青年会議」はダライ・ラマの亡命政府とは関係のない組織で、約3万人が参加し、世界40カ国以上に出先機関があり、チベットの完全独立を掲げ、近年活動を活発化させているという。ダライ・ラマも以前はチベット独立を訴えていたが、近年はチベットには中国からの経済支援が必要との認識から、「高度な自治」を目標とし、非暴力路線を掲げているが、チベット青年会議はこうしたダライ・ラマの方針を否定しているわけだ。江川紹子氏も、「ダライ・ラマ本人はいくつかの栄誉と欧米人の支持者を手に入れた。しかし、われわれは何も手にしていない。もし誰かが武器を持って自由のために立ち上がったら、全力で支える」という、「ニューズウィーク日本版」4月2日号に紹介されたチベット青年会議のドルジー副議長の言葉を引用している。

 浅井氏はしかし、チベット青年会議の力だけでは今回のような世界規模での対中国抗議行動を起こすことは不可能で、それを可能にしたのは、ワシントンに本拠を置く「国際チベット・キャンペーン(The International Campaign for Tibet : ICT)」という組織であったと示唆している。また、江川氏の記事によれば、ロンドンに本拠を置くNGO、「自由チベット・キャンペーン(The Free Tibet Campaign : FTC)」もまた対中国抗議行動に大きく関与しているようだ。FTCのサイトには、血だらけのチベット人の遺体などの扇情的な写真が大きく掲載されている。しかし、今回の騒乱のきっかけとなった3月14日のラサでの暴動では、チベット族が漢族の商店を焼き討ちにして店内にいた住民を焼き殺したり、チベット族が通りすがりの漢族をよってたかって殴ったりしているそうだが、果たして「チベット人の人権」を掲げるこれらのNGOはこうした事実を公平に伝えているのだろうか?(おそらくそうではあるまい)

 さらに見逃せないのは、「国境なき記者団」というジャーナリストのNGOである。この団体は、3月18日、各国の関係当局者らに対し、北京五輪の開会式をボイコットするよう呼びかけただけではなく、同月24日、ギリシャの古代オリンピア遺跡で行われた聖火の採火式に乱入し、北京五輪組織委員会の劉淇会長の演説を妨害しようとし、その後も、顔やシャツを血のように赤く塗った姿で中国のチベット政策を大声で批判しながら寝転がるなどして、聖火リレーを妨害した。思えば、これがその後各国で続発することになる聖火リレー妨害の発端であった。この事件が報じられたとき、私は、これはジャーナリストのなすべき行動ではないと思った。ジャーナリストが自らの主義主張を持つのは当然のことであるが、ジャーナリストがチベットの人権問題を訴えたいのであれば、まず自らがチベットに潜入してチベットの現状を報告すべきではないか。仮に潜入が不可能だったとしても、他の取材の方法はいくらでもあるだろう。そうした努力をせずに、自ら騒動を引き起こしてニュースの種になる、などというのはジャーナリストの採るべき行動ではない、と思ったのだ。しかし現在はそれ以上に、「国境なき記者団」とITC、FTCなどチベット問題を訴えるNGOとの間にどのような関係があるのか・ないのか、ということの方が気にかかる。

 そして、これらのNGOの背後に米英の諜報機関の存在を指摘しているのが田中宇氏である。もともと、亡命チベット人組織を米英の諜報機関が支援していたのは事実で、ダライ・ラマも1960年代にはCIAから多額の資金援助を受けていた。そこで、田中氏は「今回の騒乱は、もともと反中国的なチベット人の国際組織作りを手伝ってきた「人権外交」を推進しようとする米英の諜報機関が、組織内の過激派を扇動し、米英マスコミにも大々的報道をさせて拡大した動きと考えられる」と推測している。これはもちろん、現時点では推測の域にとどまっている。しかしながら、今日本のマスコミが急速に傾いているように、「チベット=善:中国=悪」といった単純な善悪二元論に陥ることなく、問題の背景を冷静に見極める努力が必要だろう。


疑問2.五輪開会式ボイコット戦術について

 そもそも、チベット問題を訴えるために北京五輪の開会式ボイコットを訴える、などという戦術はあまりにも胡散臭くいかがわしいではないか。

 まず第一に、人権上、問題のある国はオリンピックを開催する資格がないのか。冗談ではない。過去の五輪開催国を見れば、自国における人種差別・少数民族差別を始めとする様々な人権侵害、他国に対する苛烈な植民地支配、侵略戦争等々、脛に傷を持たない国はほとんどないといって過言ではない。なぜ、中国だけを問題にするのか。もちろん、中国がチベット問題を解決するよう国際社会が懸念や関心を表明するのはいい。しかし、現在、世界のなかでチベットよりもはるかに深刻な人権侵害や人道問題が起きている国は枚挙に暇がない。なぜ、ことさら中国だけを標的にするのか。

 第二に、チベットの人権問題を訴えることはいいとしても、五輪開会式をボイコットするなどという戦術が生産的な効果を持ちうるのか。むしろ、中国政府を頑なにさせ、中国国民のナショナリズムの火に油をそそぐのがオチだろう。

 第三に、五輪開会式のボイコットを主張している人々は一体何を目標としているのか。はっきりいって、この点は呉越同舟、様々な主義主張を持つ人々やグループの寄り集まりとしか言いようがない。例えば江川氏も五輪開会式のボイコットを支持しているが、彼女が主張しているのは、中国政府がダライ・ラマと対話を行い、問題を平和的に解決することのようである。ところが、そもそも今回の騒動を扇動しているグループの一部は、明らかにチベット独立派であって、ダライ・ラマの非暴力・自治権拡大路線を批判しているグループである。また、ダライ・ラマ自身も五輪開会式のボイコットを支持していない。このように、五輪開会式のボイコットという戦術の目的自体が、それを支持する人々の間で、全く一致していないのである。

 第四に、五輪開会式ボイコット派と必ずしも同一というわけではないかもしれないが、聖火リレーを妨害しているグループとなんらかの関係があることは間違いないだろう。しかし、聖火リレーの妨害などという行為自体があまりにも幼稚で、レーニンの言葉を借りれば「左翼小児病」的である・・・だけではない。田中氏によれば、「抗議行動に参加する活動家たちは、あらかじめ衣服や顔に赤いインクをかけてから、聖火リレーに接近し、チベットの旗を振り、叫び出す。警官隊の制止を受けて活動家たちが引き倒され、近くにいるテレビ局のカメラがそれを大写しにする。活動家たちの顔や衣服は血だらけだ・・・と見る人はどきりとするが、実はあらかじめ活動家自身が体にかけておいた赤いインクである。活動家は、テレビを見る人に、中国政府がチベット人を弾圧して血だらけにしているような印象を与えることができる」というのである。このような謀略的な活動をする集団が、果たしてまともな人権擁護団体などと呼べるだろうか。断じて「否」であろう。

(つづく)


【参考にした記事】
江川紹子「チベット問題:最悪のシナリオと唯一の解決法」「五輪開会式ボイコットはあり、だ
浅井基文「チベット問題についての視点
田中宇「北京五輪チベット騒動の深層


2008/04/19のBlog
4.刑罰論(その1)

 それでは、刑罰の目的は何か。この問題をめぐっては、ヨーロッパでは19世紀後半以降、刑法学の内部で古典学派と呼ばれる旧派と近代学派と呼ばれる新派との間で激しい論争が繰り広げられ、ドイツ刑法学の強い影響下で発展した日本の刑法学においても20世紀初頭以来、同様の対立構造が見られたが、ここでは刑法理論を紹介することが目的ではなく、両派の対立も今日では、「あれかこれか」という二者択一ではなく、相対的な重点の置き方の違いになってきているように思われるので、私なりの大まかな理解を示すに留めたい。

 刑罰の目的として一般に指摘されているのは、応報(贖罪)と予防と矯正(改善・教育)の3つである。「応報」とは、法の否定である犯罪行為を犯した者に対して、法の否定である犯罪をさらに否定する刑罰を科すことで法の回復を図ることが正義の要請である、という考え方であり、こうした思想を最も徹底した形で表明したのがカントである。カントによれば、刑罰は、他の目的の手段として加えられるべきではなく、ただ犯罪を犯したという理由だけで科されねばならないという義務論的な性質を持つものであり、このようなカントの立場は絶対主義的応報刑論と呼ばれる。今日、こうした純粋な応報刑論を支持する論者は見当たらない。しかし、責められるべき罪を犯した者には罰が与えられなければならない、という観念は、普通の人々が抱く直感的な道徳感情に合致するものであり、依然として刑罰論の基礎におかれるべきものである。しかしながら、応報観念は人間の復讐感情とも密接に絡み合っているので、両者を混同しないことが死活的に重要な論点となる。不正な被害を受けた被害者やその関係者が復讐心を抱くことは自然で人間的な感情であるが、こうした感情は個人によって大きく異なるばかりでなく、同一個人においても、時と状況次第で大きく揺れ動くものである。従って、こうした不安定な感情に刑罰の根拠を求めることは大きな危険を伴うことになる。しかし、それ以上に、刑罰と復讐を混同することの根本的な誤りは、社会契約説によって示されよう。なお、念のために付言すれば、人々の社会契約によって国家が設立されたという社会契約説は、(あまりにも当然のことながら)国家の歴史的・現実的起源を説明するものではない。実際に全国民の社会契約によって設立された国家など存在しないことは、説明するまでもない常識である。社会契約説とは、そのような起源を説明する理論ではなく、国家権力の正当性を説明する理論なのである。日本も含め、立憲主義の憲法を持つ国家はすべて、こうした社会契約説的発想によってその正当性が吟味されなければならない。

 さて、社会契約説によれば、国家は人民の「生命、自由、財産などの諸権利」を保護するために設立されたものであるから、国家は、社会契約によって信託された人民の諸権利を保障する義務を負う。刑罰権の根拠も、こうした社会契約に基づく国家の「人民の諸権利保護の義務」に由来するものであり、人民の諸権利が犯罪によって侵害されたときには、侵害者(犯罪者)に刑罰を科すことによって、法の回復を図るのが刑罰の目的であるから、刑罰権の行使は、およそ復讐心といった人間の個別的な感情を離れ、一般的・普遍的・公共的な観点からなされるべきものである。それゆえ、死刑の存置が望ましいか否か、という問題は、ある特定の犯罪に対してどのような刑罰がふさわしいかという一般的な問題と同様、被害者遺族の感情や世論といった感情論に基づいて決せられるべきものではないのである。

 次に、刑罰の目的として挙げられる「予防」は、一般予防と特別予防とに区別される。一般予防とは、刑罰による威嚇効果によって、一般人が犯罪行為に走るのを抑制・予防しようとする点に刑罰の目的を求めることであり、特別予防とは犯罪者に対する処罰が、その犯罪者自身が将来同種の罪を犯さないように抑止する効果のことである。一般予防主義は社会の安全を将来にわたって確保しようとする未来志向的で目的論的な刑罰の正当化論であり、過去の行為に対する非目的論的・義務論的な正当化理論である応報刑論とは対立するが、社会の安全確保を国家の義務とする社会契約論は、応報刑論だけでなく、目的刑論に立つ一般予防主義をも包摂しうる。特別予防論は、犯罪者を社会から隔離することに重点を置くならば応報刑・贖罪刑論とも両立しうるが、犯罪者の矯正・改善に重点を置くならば、第3の理論である改善刑(教育刑)論になる。すなわち、教育刑論によれば、刑罰の目的は犯罪人自身を教育・改善することにより、犯罪者を再び社会の有用な一員として復帰させるところにこそある、と主張されるのである。ただし、特別予防や教育刑の問題は、刑事政策の領域においてはもっと議論されるべきではあるが、刑罰論の本来の土俵はあくまでも応報刑論と一般予防論の2つであろう。

 さて、ここまで、やや専門的な議論にも立ち入ってしまったが、ここでの考察の目的は死刑の是非であった。以上のべた応報刑論と一般予防論のいずれの立場に立ったとしても、死刑の是非について一義的な結論が導かれるわけではない。いずれの立場からも、死刑賛成論と反対論の両方の議論が可能である。それでは私は、どのような観点から死刑に反対するのか。これについては、次回論じることにしたい。