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2008/04/26のBlog
[ 21:24 ]
[ 裁判・司法 ]
このところ、無茶苦茶な判決を立て続けに出していた最高裁第2小法廷だが(「関連記事その1」「その2」)、昨日はまともな判決を出したようだ。
これまでの裁判では、被告人の精神鑑定を行った精神科医が「心神喪失」(責任無能力=無罪理由)の鑑定結果を出していても、精神医学の素人である裁判官が、精神鑑定を無視して、「心神耗弱」(限定責任能力=減刑理由)や「完全責任能力」を認定する判決が相次いでいたが、専門家の鑑定結果を尊重するように、という、いわば当然の判断を下したのである。以下にアサヒ・コムのニュースを貼り付ける。
=========<引用開始>==========
http://www.asahi.com/national/update/0425/TKY200804250324.html
「心神喪失」で有罪はダメ…「鑑定尊重を」最高裁初判断
2008年04月26日06時20分
裁判で2度実施された精神鑑定の結果がいずれも刑事責任能力がない「心神喪失」だったのに、二審判決で「心神耗弱」で有罪とされた男性被告(39)の上告審で、最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)は25日、「鑑定結果は信用でき、心神耗弱と認めるのは困難」として、二審判決を破棄し、さらに審理を尽くすため東京高裁に差し戻す判決を言い渡した。
第二小法廷は判決の中で「専門家である精神科医の意見は、公正さや能力に疑いがあったり、鑑定の前提条件に問題があったりするなどの採用できない事情がない限り、十分に尊重するべきだ」とする初めての判断を示した。
東京・渋谷のマンションで夫を殺害し、遺体をバラバラにして遺棄したとして殺人の罪などに問われている三橋歌織被告(33)の裁判でも、2人の医師による被告の精神鑑定の結果は、ともに「心神喪失」の意見だった。28日に東京地裁で判決が言い渡される予定で、判断が注目される。
この日の裁判は、03年に東京都北区で、かつて勤務していた塗装店の経営者を殴って死なせたとして、男性が傷害致死罪に問われ、犯行当時、統合失調症による幻聴などにどの程度支配されていたかが争点となっていた。
一審・東京地裁判決は、「心神喪失」とした鑑定結果に基づき無罪。しかし、二審は「犯行前後は合理的な行動をとっていた」として、鑑定結果を採用せず、「心神耗弱」で懲役3年としていた。
この日の判決で第二小法廷は、被告の責任能力の有無を判断するのは、あくまでも裁判所だとする従来の判例を踏襲した上で、一審と二審で実施された精神鑑定の中身を検討。「鑑定人としての資質を十分備えており、結論を導く過程にも誤りはない。いずれも基本的に信用できる」と結論づけた。
=========<引用終わり>=========
ただし、多くの人がすでに気づいているように、精神障害により心身喪失や心神耗弱の状態で犯罪を犯した人に対する刑や処遇のあり方については、非常に大きな問題が含まれている。
実は私もこのところ、刑法39条(心神喪失による無罪、心神耗弱による減刑を定めた条文)にまつわる問題や触法精神障害者の問題に関心を持ち、佐藤直樹『刑法39条はもういらない』(青弓社)、呉智英・佐藤幹夫編『刑法39条は削除せよ!是か非か』(洋泉社)、福島章『精神鑑定』(講談社)、芹沢一也『狂気と犯罪』(講談社)、中島直『犯罪と司法精神医学』(批評社)、小田晋他『刑法39条』(新書館)などをぼちぼち読み進めているが、今のところまだ結論は出ていない。いつか、この問題についても、自分なりの考えをまとめたいと思っている。
これまでの裁判では、被告人の精神鑑定を行った精神科医が「心神喪失」(責任無能力=無罪理由)の鑑定結果を出していても、精神医学の素人である裁判官が、精神鑑定を無視して、「心神耗弱」(限定責任能力=減刑理由)や「完全責任能力」を認定する判決が相次いでいたが、専門家の鑑定結果を尊重するように、という、いわば当然の判断を下したのである。以下にアサヒ・コムのニュースを貼り付ける。
=========<引用開始>==========
http://www.asahi.com/national/update/0425/TKY200804250324.html
「心神喪失」で有罪はダメ…「鑑定尊重を」最高裁初判断
2008年04月26日06時20分
裁判で2度実施された精神鑑定の結果がいずれも刑事責任能力がない「心神喪失」だったのに、二審判決で「心神耗弱」で有罪とされた男性被告(39)の上告審で、最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)は25日、「鑑定結果は信用でき、心神耗弱と認めるのは困難」として、二審判決を破棄し、さらに審理を尽くすため東京高裁に差し戻す判決を言い渡した。
第二小法廷は判決の中で「専門家である精神科医の意見は、公正さや能力に疑いがあったり、鑑定の前提条件に問題があったりするなどの採用できない事情がない限り、十分に尊重するべきだ」とする初めての判断を示した。
東京・渋谷のマンションで夫を殺害し、遺体をバラバラにして遺棄したとして殺人の罪などに問われている三橋歌織被告(33)の裁判でも、2人の医師による被告の精神鑑定の結果は、ともに「心神喪失」の意見だった。28日に東京地裁で判決が言い渡される予定で、判断が注目される。
この日の裁判は、03年に東京都北区で、かつて勤務していた塗装店の経営者を殴って死なせたとして、男性が傷害致死罪に問われ、犯行当時、統合失調症による幻聴などにどの程度支配されていたかが争点となっていた。
一審・東京地裁判決は、「心神喪失」とした鑑定結果に基づき無罪。しかし、二審は「犯行前後は合理的な行動をとっていた」として、鑑定結果を採用せず、「心神耗弱」で懲役3年としていた。
この日の判決で第二小法廷は、被告の責任能力の有無を判断するのは、あくまでも裁判所だとする従来の判例を踏襲した上で、一審と二審で実施された精神鑑定の中身を検討。「鑑定人としての資質を十分備えており、結論を導く過程にも誤りはない。いずれも基本的に信用できる」と結論づけた。
=========<引用終わり>=========
ただし、多くの人がすでに気づいているように、精神障害により心身喪失や心神耗弱の状態で犯罪を犯した人に対する刑や処遇のあり方については、非常に大きな問題が含まれている。
実は私もこのところ、刑法39条(心神喪失による無罪、心神耗弱による減刑を定めた条文)にまつわる問題や触法精神障害者の問題に関心を持ち、佐藤直樹『刑法39条はもういらない』(青弓社)、呉智英・佐藤幹夫編『刑法39条は削除せよ!是か非か』(洋泉社)、福島章『精神鑑定』(講談社)、芹沢一也『狂気と犯罪』(講談社)、中島直『犯罪と司法精神医学』(批評社)、小田晋他『刑法39条』(新書館)などをぼちぼち読み進めているが、今のところまだ結論は出ていない。いつか、この問題についても、自分なりの考えをまとめたいと思っている。
2008/04/24のBlog
[ 07:43 ]
[ メディア ]
warmgunさんに書かれる前に…(笑)
だが時に、社史に刻まれた苦楽や功罪に無頓着で、ついでに職業倫理もお構いなしという馬鹿者が、品位と地位をけ落とす。
これは、野村証券の元社員がインサイダー取引で数千万円の不正利益を得ていた事件に触れた今朝の天声人語の末尾である。
天声人語氏の「品位」については、もうたいていのことには驚かなくなっている私であるが、驚くべきことに(笑)、なんと今朝の天声人語は、この事件を「中国人」という外国人の「馬鹿者」が野村証券という由緒正しき立派な企業の「品位と地位をけ落とした」という内容なのだ! 一体、野村証券はこの事件の「被害者」なのか! 問題を起こした元社員の「国籍」が犯行と関係あるというのか! 仮にこの容疑者が大阪出身の日本人だったら、ことさらに「大阪出身者」などということを強調するのか! 野村証券という巨大企業におべんちゃらを使い、中国人をはじめとする在日外国人に対するいわれなき差別と偏見を助長する天声人語の「品位」を見よ!
「品位」や「品格」などという言葉をことさら使う人間に「品位」や「品格」があったためしはない、という私の仮説がますます信憑性を帯びてきた。
だが時に、社史に刻まれた苦楽や功罪に無頓着で、ついでに職業倫理もお構いなしという馬鹿者が、品位と地位をけ落とす。
これは、野村証券の元社員がインサイダー取引で数千万円の不正利益を得ていた事件に触れた今朝の天声人語の末尾である。
天声人語氏の「品位」については、もうたいていのことには驚かなくなっている私であるが、驚くべきことに(笑)、なんと今朝の天声人語は、この事件を「中国人」という外国人の「馬鹿者」が野村証券という由緒正しき立派な企業の「品位と地位をけ落とした」という内容なのだ! 一体、野村証券はこの事件の「被害者」なのか! 問題を起こした元社員の「国籍」が犯行と関係あるというのか! 仮にこの容疑者が大阪出身の日本人だったら、ことさらに「大阪出身者」などということを強調するのか! 野村証券という巨大企業におべんちゃらを使い、中国人をはじめとする在日外国人に対するいわれなき差別と偏見を助長する天声人語の「品位」を見よ!
「品位」や「品格」などという言葉をことさら使う人間に「品位」や「品格」があったためしはない、という私の仮説がますます信憑性を帯びてきた。
2008/04/23のBlog
[ 23:28 ]
[ 裁判・司法 ]
22日、広島高裁が判決の言い渡しをした光市母子殺害事件の差し戻し控訴審判決について、簡単に検証してみたい。はじめに結論を言っておくと、今回の判決は、被告人の異常性と残虐性を強調し、被告人・弁護団への憎悪と被害者遺族への同情を煽り立てるマスコミの世論誘導=大衆洗脳報道によって思考停止に陥った「世論」にひたすら迎合するだけの、稀に見るひどい判決だった。これは、私が死刑廃止論者だからそのように酷評しているわけではなく、死刑制度の存在を前提に、従来の判例を基準として考えても、あまりにもひどい判決なのである。
今回の差し戻し控訴審は、一審(山口地裁、00年)と二審(広島高裁、02年)が無期懲役判決だったのを、06年6月、最高裁判決が、「二審判決は、死刑を回避するに足りる、特に酌量すべき事情について審理を尽くさずに一審判決を是認しており、破棄しなければ著しく正義に反する」として高裁に差し戻したものであるため、一審判決を破棄し、死刑判決が出ることはほぼ予想されていた。とはいえ、たとえこれまで最高裁の差し戻し決定の意に反する判決を差し戻し審がすることはほとんどなかった(皆無?)とはいえ、憲法76条3項で「裁判官の独立」が認められている以上、今回の広島高裁に死刑判決以外に選択の余地がなかったわけではなく、広島高裁判決は当然、それ自体、独自の判決として批判的に検討しなければならない。そこで、問題は、最高裁の差し戻し決定と、今回の広島高裁判決の双方にあることになる。
まず、最高裁の差し戻し決定であるが、これは、従来、死刑選択の基準として最高裁自身が示していたこれまでの判例を大きく転換するものである。従来、死刑選択の基準とされていたのは、「連続ピストル射殺事件」の永山則夫元被告に対して最高裁が83年死刑判決を言い渡した際に示した次のような基準(いわゆる「永山基準」)である。
『 結局、死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。』
つまり、ここでは、死刑は原則としては許されないが、「死刑制度を存置する現行法制の下では」上記のような極めて例外的な場合にのみ、死刑の選択も許される、という論理が貫かれていた。ところが、今回06年の最高裁決定は、「死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情」が存在しない限り、死刑が適用される、という論理になっており、原則と例外が逆転しているのである。それに伴い、挙証責任も検察側から弁護側に転嫁されているのである。つまり、従来は検察側が「極刑がやむをえないと認められる事情」があることを証明しなければならなかったのが、今度は一転して、「死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情」が存在することを弁護側が証明しない限り死刑にする、という論理になっているのである。私個人は、永山基準自体にも疑問と批判を持つ者であるが、今はそのことは問わない。問題は最高裁である。もちろん、最高裁自身が判例変更することはありうるし、それが悪いとは一概に言えない。ただし、判例変更する際には、それなりに説得力のある説明をしなければならない。そうでなければ、最高裁自身が法の安定性と平等性を破壊していると言わなければならない。私はまだ06年の最高裁判決を詳しく検討していないので断定できないが、おそらく判例変更の理由を明確に述べていないのではないだろうか。しかし、その理由を推測することはできる。今年2月、最高裁第1小法廷が2人を射殺した被告人をめぐる裁判(3人が無期、2人が死刑を選んだ)において、才口千晴裁判官は、「裁判員制度の実施を目前に、死刑と無期懲役との量刑基準を可能な限り明確にする必要がある」との意見を述べている。つまり、裁判員制度の実施を目前に控えた裁判所が世論に迎合し始めていることを示しているのである。
来年5月からスタートする裁判員制度をめぐっては、マスコミ報道に影響されやすい一般市民が裁判員として裁判に参加すれば、「世間」がそのまま法廷に持ち込まれる、と危惧する向きがあるが、実はそれ以前に(裁判員制度施行以前に)、裁判所が自ら世論に迎合して厳罰判決を下す傾向がここ数年はっきりしてきているのである。そして、今回の最高裁判決と広島高裁判決は、そうした世論迎合司法の実態をこのうえなく明るみに出したものであると評することができよう。
さて、ここからは、今回の広島高裁差し戻し審判決の問題点を簡単に検証したい。まず、被告人は、差し戻し前控訴審までは殺人と強姦の故意(犯意)を認めていたのに、上告審の途中から弁護人を現在の新しい弁護団に変えるとともに、殺意と強姦目的を否認する新たな主張(以下、「新供述」と呼ぶ)を始めた。差し戻し審はまずこの新供述の信憑性を検討し、それを信用できないと結論づけた。このこと自体の当否については、私には判断できるだけの材料がないので、判断を保留する。(念のために付け加えれば、この事件に関するマスコミ報道をどれほど熱心に見ていた人でも、否、熱心に見ていた人であればあるほど、このことの当否について公平に判断する資格はないだろう。この事件に関するマスコミ報道の極端な偏向ぶりについては、先ごろ放送倫理・番組向上機構が鋭く指摘・批判しているところである。)いずれにせよ、裁判所としては、旧供述と新供述のどちらが真実であるかを判断せざるを得ないわけであるから、新供述の信憑性を否定したということ自体(その当否は別として)を批判するつもりはない。問題はその先である。特に私が問題だと思う部分を、22日朝日新聞夕刊に掲載された判決要旨から引用する。若干長くなるが、重要な部分なので、ご寛恕を請う。
『 元少年は、死刑をまぬがれることを企図して旧供述を翻したうえ、虚偽の弁解を弄しているというほかない。遺族に対する謝罪や反省の弁を述べているものの、それは表面的なものだ。自己の刑事責任を軽減すべく虚偽の供述をしながら、他方では遺族に対する謝罪や反省を口にすること自体、遺族を愚弄するものであり、その神経を逆なでするもので、反省謝罪の態度とほど遠い。
一審判決と差し戻し前控訴審判決は、犯行時少年であった被告人の可塑性に期待し、その改善更正を願ったものである。ところが、元少年はその期待を裏切り、差し戻し前控訴審判決の言い渡しから上告審での公判期日指定までの3年9カ月間反省を深めることなく年月を送り、その後は虚偽の供述を構築し、それを法廷で述べることに精力を費やしたものである。現時点では、元少年は反省心を欠いているというほかはない。
・・・・
死刑選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情の有無について慎重に審理したが、基本的な事実関係は上告審判決の時点と異なるものはなかった。むしろ被告人が当審公判で虚偽の弁解を弄し、偽りとみざるを得ない反省の弁を口にしたことで、死刑選択を回避するに足りる事情を見いだす術もなくなったというべきである。』
ここに見られる恐ろしいまでの非論理的問題性はすでにおわかりだろう。
被告人は殺意を認めていた旧供述から、殺意を否認する新供述へと主張を変えた。被告人が裁判の途中で供述を変えることは別段珍しいことではなく、変更したことに理由があれば、それ自体を非難することはできないはずである。繰り返すが、私には被告人の旧供述と新供述のどちらが真実であるかはわからない。しかし、被告人は、今回の判決の後、自分の供述はこれまでに揺れ動いてきたが、今回の法廷で述べたことが真実である、と述べている。もちろん、この発言の真実性も私にはわからない。(もっとも、厳密に考えれば、被告人本人にしたところで、犯行前から犯行中にかけて、犯意があったのかなかったのか、あったとしてもいつ生じたのか等について、明確に当時の意識を再現ないし意識化しえない事態も十分ありうるだろう。)しかしながら、仮に被告人の新供述が正しいとすれば、被告人が供述を変更するのはあまりにも当然のことである。仮に虚偽であったとしても、被告人が「死刑をまぬがれることを企図」したとしても、それは人間の心情として極めて自然なことではないだろうか。しかし、ここで決定的なことは、どちらの供述が真理であるかを、神ならぬ裁判官が100%の絶対確実性をもって断定しえないという事実である。裁判官が新供述を信用できないと判断したのは、あくまでも、彼らの人間的な、すなわち可謬的な判断にすぎない。その意味で、弁護団が新供述の信憑性を信るという、これまた人間的な判断と、その論理的性格においては異なるところはない。つまり、裁判官の判断と弁護団の判断のどちらか一方が完全に正しい、ということを万人に対して一点の曇もなく証明できる人間は存在しない。もちろん、人間の判断とはすべて可謬的なものだ。だから、裁判官が可謬的な判断をしてはいけないなどと言っているのではない。裁判官とて人間である以上、可謬的な判断をせざるを得ない。問題は、その可謬的な判断をあたかも絶対な真理のごとく前提として、遺族に対する謝罪や反省を「表面的」なものと断じ、そうした謝罪や反省が逆に「遺族を愚弄するものであり、その神経を逆なでするもの」だなどと断定しており、供述を変えたこと、さらには謝罪や反省の言葉を口にしたことさえも、「反省心を欠いている」証拠と見なして、死刑選択の理由としていることである。
これほど無茶苦茶な判決があるだろうか。無期懲役か死刑(という絶対的刑罰)かという選択は、犯した罪の重さによってではなく、それ以後、いかに反省しているか、否、いかに反省していると裁判所に認定してもらえるかによって決まるというのだ。
冤罪事件を想起してみよう。仮に無実の人が強姦殺人(被害者2名)の罪で起訴されたとすれば、被告人が無実を訴え続けることは、「反省心に欠ける」として死刑を宣告される恐れが飛躍的に高まることになる。死刑を避けるためには、無実であっても、「罪」を「認め」、「反省」の意を示すことが必要になる!・・・というのが今回の広島高裁判決の恐るべき帰結なのである。
【追記】
一審と二審(差し戻し前控訴審)は、被告人の犯行が18歳1カ月という少年時に行われたものであり、更正可能性がないとはいいきれないとして無期懲役を言い渡した。それでは、今回の差し戻し控訴審は、被告人の更正可能性についてはどのような判断をしたのだろうか。
上の記事で引用した判決要旨の一部をもう一度引用させて頂く。
『一審判決と差し戻し前控訴審判決は、犯行時少年であった被告人の可塑性に期待し、その改善更正を願ったものである。ところが、元少年はその期待を裏切り、差し戻し前控訴審判決の言い渡しから上告審での公判期日指定までの3年9カ月間反省を深めることなく年月を送り、その後は虚偽の供述を構築し、それを法廷で述べることに精力を費やしたものである。現時点では、元少年は反省心を欠いているというほかはない。
・・・・
死刑選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情の有無について慎重に審理したが、基本的な事実関係は上告審判決の時点と異なるものはなかった。むしろ被告人が当審公判で虚偽の弁解を弄し、偽りとみざるを得ない反省の弁を口にしたことで、死刑選択を回避するに足りる事情を見いだす術もなくなったというべきである。』
ここからわかるように、今判決は、一審と差し戻し前控訴審がその時点で少年の更正可能性を否定しなかったこと自体は批判していない。ところが、それ以後、被告人が供述を変更したことをもって、更正の可能性がなくなった証拠とみなし、「現時点では」反省心を欠いているので、死刑を回避すべき事情がなくなった、と断じているのである。つまり、更正可能性に関する判断自体が、そのときどきの被告人の言動に対する裁判官の評価によって変動することを明確に認めつつ、かつては存在していたかもしれない更正可能性が、「現時点では」存在しなくなったという判断を基に、被告人をこの世から永久に抹殺することを正当化しているのである。しかも、被告人が述べた反省の弁さえも、“虚偽の反省”と断定し、そのことが「遺族を愚弄し、その神経を逆なでするものである」との理屈によって、死刑選択の理由にしているのである。のみならず、一審と差し戻し前控訴審の「期待を裏切」ったことまでもが極刑選択の理由に付加されているようにすら読める。
被告人の立場から言えば、「真実」を述べれば、「嘘をついているから、反省心に欠けている」と言われ、反省の言葉を述べれば、「虚偽の反省で、遺族を愚弄するものだ」と断定されて、いずれも死刑選択の理由にされているのである。
差し戻し控訴審判決における死刑選択の理由を整理してみよう。
1. 犯行の事実関係は一審判決時点と同じである。
2. この時点では更正可能性はありえた(ゆえに、無期懲役もありえた)
3. ところが、差し戻し控訴審で述べた新供述は嘘である。
4. このことは被告人に反省心がなくなったことを示している。
5. 被告人が述べた反省の弁も虚偽である。
6. これは遺族を愚弄するもので、反省の態度とはほど遠い。
7. よって、現時点では被告人は反省心を欠いていると言わざるを得ない。
8. よって、被告人に更正の可能性はない。
繰り返すが、3と5は広島高裁が下した誤謬の可能性のある判断である。そして、そのような可謬的な判断を基に、被告人は「現時点では反省心を欠いている」と結論を下し、そこから、現時点で反省心を欠いている者は、未来永劫更正の可能性がないから、死刑にすべきだ、という論理なのである。
3,5が可謬的判断である以上、4,6,7が可謬的判断であることは避けられない。しかも、仮に7が真理であると仮定しても、そこから8の結論を導くことが不当であることは言うまでもない。
以上のように、今回の広島高裁判決は、曖昧な独断を根拠に論理的にも支離滅裂な推論を経て、「死刑」という絶対的な刑罰を下しているのである。
2008/04/22のBlog
[ 22:13 ]
[ ニュース ]
今日のニュースから――。
光市母子殺害事件じゃなくてごめんよ(この判決については後日コメントする予定)。
時事通信配信のニュースから引用する。
===================
「死刑になりたかった」=自衛官、20カ所以上切る-運転手殺害・鹿児島
4月22日21時31分配信 時事通信
鹿児島県姶良町でタクシー運転手を殺害したとして、陸上自衛隊第一普通科連隊(東京都練馬区)の一等陸士(19)が逮捕された事件で、一士は県警加治木署の調べに対し、「人を殺して死刑になりたかった」と供述していることが22日、分かった。また、運転手は首など20カ所以上を切り付けられていたことも判明。一士は「なかなか死ななかったので複数回、切った」と話しているという。
調べによると、一士は22日午前2時すぎ、JR鹿児島中央駅からタクシーに乗車し、姶良方面に向かうよう指示。同2時半ごろ、運転手神薗三郎さん(58)の首付近をナイフで切って殺害した疑いが持たれている。
====================
全く理不尽なことながら、時折こういう人間が現れるのも現実である。
死刑制度の存在が理不尽な殺人に駆り立てた事件のひとつである。
光市母子殺害事件じゃなくてごめんよ(この判決については後日コメントする予定)。
時事通信配信のニュースから引用する。
===================
「死刑になりたかった」=自衛官、20カ所以上切る-運転手殺害・鹿児島
4月22日21時31分配信 時事通信
鹿児島県姶良町でタクシー運転手を殺害したとして、陸上自衛隊第一普通科連隊(東京都練馬区)の一等陸士(19)が逮捕された事件で、一士は県警加治木署の調べに対し、「人を殺して死刑になりたかった」と供述していることが22日、分かった。また、運転手は首など20カ所以上を切り付けられていたことも判明。一士は「なかなか死ななかったので複数回、切った」と話しているという。
調べによると、一士は22日午前2時すぎ、JR鹿児島中央駅からタクシーに乗車し、姶良方面に向かうよう指示。同2時半ごろ、運転手神薗三郎さん(58)の首付近をナイフで切って殺害した疑いが持たれている。
====================
全く理不尽なことながら、時折こういう人間が現れるのも現実である。
死刑制度の存在が理不尽な殺人に駆り立てた事件のひとつである。
2008/04/21のBlog
[ 18:34 ]
[ 国際問題 ]
日本では五輪の聖火リレーに関する報道がなされない日はないが、マスコミがチベット問題の深層と真相を報じる気配は全くない。
それなら自分で調べればいいのだろうが、そんなに時間があるわけではないので、幾人かの信頼できるジャーナリストや学者のサイトを読む中で湧いてきたいくつかの疑問点を書き留めておく。
疑問1.誰がチベット騒乱を扇動しているのか?
浅井基文氏によれば、「チベット青年会議」が昨年8月、ダライサラで開かれた年次総会で、「北京五輪前に何らかの行動を起こす」方針を決めたことが、今回の騒動の背景にあるようだ。「チベット青年会議」はダライ・ラマの亡命政府とは関係のない組織で、約3万人が参加し、世界40カ国以上に出先機関があり、チベットの完全独立を掲げ、近年活動を活発化させているという。ダライ・ラマも以前はチベット独立を訴えていたが、近年はチベットには中国からの経済支援が必要との認識から、「高度な自治」を目標とし、非暴力路線を掲げているが、チベット青年会議はこうしたダライ・ラマの方針を否定しているわけだ。江川紹子氏も、「ダライ・ラマ本人はいくつかの栄誉と欧米人の支持者を手に入れた。しかし、われわれは何も手にしていない。もし誰かが武器を持って自由のために立ち上がったら、全力で支える」という、「ニューズウィーク日本版」4月2日号に紹介されたチベット青年会議のドルジー副議長の言葉を引用している。
浅井氏はしかし、チベット青年会議の力だけでは今回のような世界規模での対中国抗議行動を起こすことは不可能で、それを可能にしたのは、ワシントンに本拠を置く「国際チベット・キャンペーン(The International Campaign for Tibet : ICT)」という組織であったと示唆している。また、江川氏の記事によれば、ロンドンに本拠を置くNGO、「自由チベット・キャンペーン(The Free Tibet Campaign : FTC)」もまた対中国抗議行動に大きく関与しているようだ。FTCのサイトには、血だらけのチベット人の遺体などの扇情的な写真が大きく掲載されている。しかし、今回の騒乱のきっかけとなった3月14日のラサでの暴動では、チベット族が漢族の商店を焼き討ちにして店内にいた住民を焼き殺したり、チベット族が通りすがりの漢族をよってたかって殴ったりしているそうだが、果たして「チベット人の人権」を掲げるこれらのNGOはこうした事実を公平に伝えているのだろうか?(おそらくそうではあるまい)
さらに見逃せないのは、「国境なき記者団」というジャーナリストのNGOである。この団体は、3月18日、各国の関係当局者らに対し、北京五輪の開会式をボイコットするよう呼びかけただけではなく、同月24日、ギリシャの古代オリンピア遺跡で行われた聖火の採火式に乱入し、北京五輪組織委員会の劉淇会長の演説を妨害しようとし、その後も、顔やシャツを血のように赤く塗った姿で中国のチベット政策を大声で批判しながら寝転がるなどして、聖火リレーを妨害した。思えば、これがその後各国で続発することになる聖火リレー妨害の発端であった。この事件が報じられたとき、私は、これはジャーナリストのなすべき行動ではないと思った。ジャーナリストが自らの主義主張を持つのは当然のことであるが、ジャーナリストがチベットの人権問題を訴えたいのであれば、まず自らがチベットに潜入してチベットの現状を報告すべきではないか。仮に潜入が不可能だったとしても、他の取材の方法はいくらでもあるだろう。そうした努力をせずに、自ら騒動を引き起こしてニュースの種になる、などというのはジャーナリストの採るべき行動ではない、と思ったのだ。しかし現在はそれ以上に、「国境なき記者団」とITC、FTCなどチベット問題を訴えるNGOとの間にどのような関係があるのか・ないのか、ということの方が気にかかる。
そして、これらのNGOの背後に米英の諜報機関の存在を指摘しているのが田中宇氏である。もともと、亡命チベット人組織を米英の諜報機関が支援していたのは事実で、ダライ・ラマも1960年代にはCIAから多額の資金援助を受けていた。そこで、田中氏は「今回の騒乱は、もともと反中国的なチベット人の国際組織作りを手伝ってきた「人権外交」を推進しようとする米英の諜報機関が、組織内の過激派を扇動し、米英マスコミにも大々的報道をさせて拡大した動きと考えられる」と推測している。これはもちろん、現時点では推測の域にとどまっている。しかしながら、今日本のマスコミが急速に傾いているように、「チベット=善:中国=悪」といった単純な善悪二元論に陥ることなく、問題の背景を冷静に見極める努力が必要だろう。
疑問2.五輪開会式ボイコット戦術について
そもそも、チベット問題を訴えるために北京五輪の開会式ボイコットを訴える、などという戦術はあまりにも胡散臭くいかがわしいではないか。
まず第一に、人権上、問題のある国はオリンピックを開催する資格がないのか。冗談ではない。過去の五輪開催国を見れば、自国における人種差別・少数民族差別を始めとする様々な人権侵害、他国に対する苛烈な植民地支配、侵略戦争等々、脛に傷を持たない国はほとんどないといって過言ではない。なぜ、中国だけを問題にするのか。もちろん、中国がチベット問題を解決するよう国際社会が懸念や関心を表明するのはいい。しかし、現在、世界のなかでチベットよりもはるかに深刻な人権侵害や人道問題が起きている国は枚挙に暇がない。なぜ、ことさら中国だけを標的にするのか。
第二に、チベットの人権問題を訴えることはいいとしても、五輪開会式をボイコットするなどという戦術が生産的な効果を持ちうるのか。むしろ、中国政府を頑なにさせ、中国国民のナショナリズムの火に油をそそぐのがオチだろう。
第三に、五輪開会式のボイコットを主張している人々は一体何を目標としているのか。はっきりいって、この点は呉越同舟、様々な主義主張を持つ人々やグループの寄り集まりとしか言いようがない。例えば江川氏も五輪開会式のボイコットを支持しているが、彼女が主張しているのは、中国政府がダライ・ラマと対話を行い、問題を平和的に解決することのようである。ところが、そもそも今回の騒動を扇動しているグループの一部は、明らかにチベット独立派であって、ダライ・ラマの非暴力・自治権拡大路線を批判しているグループである。また、ダライ・ラマ自身も五輪開会式のボイコットを支持していない。このように、五輪開会式のボイコットという戦術の目的自体が、それを支持する人々の間で、全く一致していないのである。
第四に、五輪開会式ボイコット派と必ずしも同一というわけではないかもしれないが、聖火リレーを妨害しているグループとなんらかの関係があることは間違いないだろう。しかし、聖火リレーの妨害などという行為自体があまりにも幼稚で、レーニンの言葉を借りれば「左翼小児病」的である・・・だけではない。田中氏によれば、「抗議行動に参加する活動家たちは、あらかじめ衣服や顔に赤いインクをかけてから、聖火リレーに接近し、チベットの旗を振り、叫び出す。警官隊の制止を受けて活動家たちが引き倒され、近くにいるテレビ局のカメラがそれを大写しにする。活動家たちの顔や衣服は血だらけだ・・・と見る人はどきりとするが、実はあらかじめ活動家自身が体にかけておいた赤いインクである。活動家は、テレビを見る人に、中国政府がチベット人を弾圧して血だらけにしているような印象を与えることができる」というのである。このような謀略的な活動をする集団が、果たしてまともな人権擁護団体などと呼べるだろうか。断じて「否」であろう。
(つづく)
【参考にした記事】
江川紹子「チベット問題:最悪のシナリオと唯一の解決法」「五輪開会式ボイコットはあり、だ」
浅井基文「チベット問題についての視点」
田中宇「北京五輪チベット騒動の深層」
それなら自分で調べればいいのだろうが、そんなに時間があるわけではないので、幾人かの信頼できるジャーナリストや学者のサイトを読む中で湧いてきたいくつかの疑問点を書き留めておく。
疑問1.誰がチベット騒乱を扇動しているのか?
浅井基文氏によれば、「チベット青年会議」が昨年8月、ダライサラで開かれた年次総会で、「北京五輪前に何らかの行動を起こす」方針を決めたことが、今回の騒動の背景にあるようだ。「チベット青年会議」はダライ・ラマの亡命政府とは関係のない組織で、約3万人が参加し、世界40カ国以上に出先機関があり、チベットの完全独立を掲げ、近年活動を活発化させているという。ダライ・ラマも以前はチベット独立を訴えていたが、近年はチベットには中国からの経済支援が必要との認識から、「高度な自治」を目標とし、非暴力路線を掲げているが、チベット青年会議はこうしたダライ・ラマの方針を否定しているわけだ。江川紹子氏も、「ダライ・ラマ本人はいくつかの栄誉と欧米人の支持者を手に入れた。しかし、われわれは何も手にしていない。もし誰かが武器を持って自由のために立ち上がったら、全力で支える」という、「ニューズウィーク日本版」4月2日号に紹介されたチベット青年会議のドルジー副議長の言葉を引用している。
浅井氏はしかし、チベット青年会議の力だけでは今回のような世界規模での対中国抗議行動を起こすことは不可能で、それを可能にしたのは、ワシントンに本拠を置く「国際チベット・キャンペーン(The International Campaign for Tibet : ICT)」という組織であったと示唆している。また、江川氏の記事によれば、ロンドンに本拠を置くNGO、「自由チベット・キャンペーン(The Free Tibet Campaign : FTC)」もまた対中国抗議行動に大きく関与しているようだ。FTCのサイトには、血だらけのチベット人の遺体などの扇情的な写真が大きく掲載されている。しかし、今回の騒乱のきっかけとなった3月14日のラサでの暴動では、チベット族が漢族の商店を焼き討ちにして店内にいた住民を焼き殺したり、チベット族が通りすがりの漢族をよってたかって殴ったりしているそうだが、果たして「チベット人の人権」を掲げるこれらのNGOはこうした事実を公平に伝えているのだろうか?(おそらくそうではあるまい)
さらに見逃せないのは、「国境なき記者団」というジャーナリストのNGOである。この団体は、3月18日、各国の関係当局者らに対し、北京五輪の開会式をボイコットするよう呼びかけただけではなく、同月24日、ギリシャの古代オリンピア遺跡で行われた聖火の採火式に乱入し、北京五輪組織委員会の劉淇会長の演説を妨害しようとし、その後も、顔やシャツを血のように赤く塗った姿で中国のチベット政策を大声で批判しながら寝転がるなどして、聖火リレーを妨害した。思えば、これがその後各国で続発することになる聖火リレー妨害の発端であった。この事件が報じられたとき、私は、これはジャーナリストのなすべき行動ではないと思った。ジャーナリストが自らの主義主張を持つのは当然のことであるが、ジャーナリストがチベットの人権問題を訴えたいのであれば、まず自らがチベットに潜入してチベットの現状を報告すべきではないか。仮に潜入が不可能だったとしても、他の取材の方法はいくらでもあるだろう。そうした努力をせずに、自ら騒動を引き起こしてニュースの種になる、などというのはジャーナリストの採るべき行動ではない、と思ったのだ。しかし現在はそれ以上に、「国境なき記者団」とITC、FTCなどチベット問題を訴えるNGOとの間にどのような関係があるのか・ないのか、ということの方が気にかかる。
そして、これらのNGOの背後に米英の諜報機関の存在を指摘しているのが田中宇氏である。もともと、亡命チベット人組織を米英の諜報機関が支援していたのは事実で、ダライ・ラマも1960年代にはCIAから多額の資金援助を受けていた。そこで、田中氏は「今回の騒乱は、もともと反中国的なチベット人の国際組織作りを手伝ってきた「人権外交」を推進しようとする米英の諜報機関が、組織内の過激派を扇動し、米英マスコミにも大々的報道をさせて拡大した動きと考えられる」と推測している。これはもちろん、現時点では推測の域にとどまっている。しかしながら、今日本のマスコミが急速に傾いているように、「チベット=善:中国=悪」といった単純な善悪二元論に陥ることなく、問題の背景を冷静に見極める努力が必要だろう。
疑問2.五輪開会式ボイコット戦術について
そもそも、チベット問題を訴えるために北京五輪の開会式ボイコットを訴える、などという戦術はあまりにも胡散臭くいかがわしいではないか。
まず第一に、人権上、問題のある国はオリンピックを開催する資格がないのか。冗談ではない。過去の五輪開催国を見れば、自国における人種差別・少数民族差別を始めとする様々な人権侵害、他国に対する苛烈な植民地支配、侵略戦争等々、脛に傷を持たない国はほとんどないといって過言ではない。なぜ、中国だけを問題にするのか。もちろん、中国がチベット問題を解決するよう国際社会が懸念や関心を表明するのはいい。しかし、現在、世界のなかでチベットよりもはるかに深刻な人権侵害や人道問題が起きている国は枚挙に暇がない。なぜ、ことさら中国だけを標的にするのか。
第二に、チベットの人権問題を訴えることはいいとしても、五輪開会式をボイコットするなどという戦術が生産的な効果を持ちうるのか。むしろ、中国政府を頑なにさせ、中国国民のナショナリズムの火に油をそそぐのがオチだろう。
第三に、五輪開会式のボイコットを主張している人々は一体何を目標としているのか。はっきりいって、この点は呉越同舟、様々な主義主張を持つ人々やグループの寄り集まりとしか言いようがない。例えば江川氏も五輪開会式のボイコットを支持しているが、彼女が主張しているのは、中国政府がダライ・ラマと対話を行い、問題を平和的に解決することのようである。ところが、そもそも今回の騒動を扇動しているグループの一部は、明らかにチベット独立派であって、ダライ・ラマの非暴力・自治権拡大路線を批判しているグループである。また、ダライ・ラマ自身も五輪開会式のボイコットを支持していない。このように、五輪開会式のボイコットという戦術の目的自体が、それを支持する人々の間で、全く一致していないのである。
第四に、五輪開会式ボイコット派と必ずしも同一というわけではないかもしれないが、聖火リレーを妨害しているグループとなんらかの関係があることは間違いないだろう。しかし、聖火リレーの妨害などという行為自体があまりにも幼稚で、レーニンの言葉を借りれば「左翼小児病」的である・・・だけではない。田中氏によれば、「抗議行動に参加する活動家たちは、あらかじめ衣服や顔に赤いインクをかけてから、聖火リレーに接近し、チベットの旗を振り、叫び出す。警官隊の制止を受けて活動家たちが引き倒され、近くにいるテレビ局のカメラがそれを大写しにする。活動家たちの顔や衣服は血だらけだ・・・と見る人はどきりとするが、実はあらかじめ活動家自身が体にかけておいた赤いインクである。活動家は、テレビを見る人に、中国政府がチベット人を弾圧して血だらけにしているような印象を与えることができる」というのである。このような謀略的な活動をする集団が、果たしてまともな人権擁護団体などと呼べるだろうか。断じて「否」であろう。
(つづく)
【参考にした記事】
江川紹子「チベット問題:最悪のシナリオと唯一の解決法」「五輪開会式ボイコットはあり、だ」
浅井基文「チベット問題についての視点」
田中宇「北京五輪チベット騒動の深層」
2008/04/19のBlog
[ 20:12 ]
[ 罪と罰 ]
4.刑罰論(その1)
それでは、刑罰の目的は何か。この問題をめぐっては、ヨーロッパでは19世紀後半以降、刑法学の内部で古典学派と呼ばれる旧派と近代学派と呼ばれる新派との間で激しい論争が繰り広げられ、ドイツ刑法学の強い影響下で発展した日本の刑法学においても20世紀初頭以来、同様の対立構造が見られたが、ここでは刑法理論を紹介することが目的ではなく、両派の対立も今日では、「あれかこれか」という二者択一ではなく、相対的な重点の置き方の違いになってきているように思われるので、私なりの大まかな理解を示すに留めたい。
刑罰の目的として一般に指摘されているのは、応報(贖罪)と予防と矯正(改善・教育)の3つである。「応報」とは、法の否定である犯罪行為を犯した者に対して、法の否定である犯罪をさらに否定する刑罰を科すことで法の回復を図ることが正義の要請である、という考え方であり、こうした思想を最も徹底した形で表明したのがカントである。カントによれば、刑罰は、他の目的の手段として加えられるべきではなく、ただ犯罪を犯したという理由だけで科されねばならないという義務論的な性質を持つものであり、このようなカントの立場は絶対主義的応報刑論と呼ばれる。今日、こうした純粋な応報刑論を支持する論者は見当たらない。しかし、責められるべき罪を犯した者には罰が与えられなければならない、という観念は、普通の人々が抱く直感的な道徳感情に合致するものであり、依然として刑罰論の基礎におかれるべきものである。しかしながら、応報観念は人間の復讐感情とも密接に絡み合っているので、両者を混同しないことが死活的に重要な論点となる。不正な被害を受けた被害者やその関係者が復讐心を抱くことは自然で人間的な感情であるが、こうした感情は個人によって大きく異なるばかりでなく、同一個人においても、時と状況次第で大きく揺れ動くものである。従って、こうした不安定な感情に刑罰の根拠を求めることは大きな危険を伴うことになる。しかし、それ以上に、刑罰と復讐を混同することの根本的な誤りは、社会契約説によって示されよう。なお、念のために付言すれば、人々の社会契約によって国家が設立されたという社会契約説は、(あまりにも当然のことながら)国家の歴史的・現実的起源を説明するものではない。実際に全国民の社会契約によって設立された国家など存在しないことは、説明するまでもない常識である。社会契約説とは、そのような起源を説明する理論ではなく、国家権力の正当性を説明する理論なのである。日本も含め、立憲主義の憲法を持つ国家はすべて、こうした社会契約説的発想によってその正当性が吟味されなければならない。
さて、社会契約説によれば、国家は人民の「生命、自由、財産などの諸権利」を保護するために設立されたものであるから、国家は、社会契約によって信託された人民の諸権利を保障する義務を負う。刑罰権の根拠も、こうした社会契約に基づく国家の「人民の諸権利保護の義務」に由来するものであり、人民の諸権利が犯罪によって侵害されたときには、侵害者(犯罪者)に刑罰を科すことによって、法の回復を図るのが刑罰の目的であるから、刑罰権の行使は、およそ復讐心といった人間の個別的な感情を離れ、一般的・普遍的・公共的な観点からなされるべきものである。それゆえ、死刑の存置が望ましいか否か、という問題は、ある特定の犯罪に対してどのような刑罰がふさわしいかという一般的な問題と同様、被害者遺族の感情や世論といった感情論に基づいて決せられるべきものではないのである。
次に、刑罰の目的として挙げられる「予防」は、一般予防と特別予防とに区別される。一般予防とは、刑罰による威嚇効果によって、一般人が犯罪行為に走るのを抑制・予防しようとする点に刑罰の目的を求めることであり、特別予防とは犯罪者に対する処罰が、その犯罪者自身が将来同種の罪を犯さないように抑止する効果のことである。一般予防主義は社会の安全を将来にわたって確保しようとする未来志向的で目的論的な刑罰の正当化論であり、過去の行為に対する非目的論的・義務論的な正当化理論である応報刑論とは対立するが、社会の安全確保を国家の義務とする社会契約論は、応報刑論だけでなく、目的刑論に立つ一般予防主義をも包摂しうる。特別予防論は、犯罪者を社会から隔離することに重点を置くならば応報刑・贖罪刑論とも両立しうるが、犯罪者の矯正・改善に重点を置くならば、第3の理論である改善刑(教育刑)論になる。すなわち、教育刑論によれば、刑罰の目的は犯罪人自身を教育・改善することにより、犯罪者を再び社会の有用な一員として復帰させるところにこそある、と主張されるのである。ただし、特別予防や教育刑の問題は、刑事政策の領域においてはもっと議論されるべきではあるが、刑罰論の本来の土俵はあくまでも応報刑論と一般予防論の2つであろう。
さて、ここまで、やや専門的な議論にも立ち入ってしまったが、ここでの考察の目的は死刑の是非であった。以上のべた応報刑論と一般予防論のいずれの立場に立ったとしても、死刑の是非について一義的な結論が導かれるわけではない。いずれの立場からも、死刑賛成論と反対論の両方の議論が可能である。それでは私は、どのような観点から死刑に反対するのか。これについては、次回論じることにしたい。
それでは、刑罰の目的は何か。この問題をめぐっては、ヨーロッパでは19世紀後半以降、刑法学の内部で古典学派と呼ばれる旧派と近代学派と呼ばれる新派との間で激しい論争が繰り広げられ、ドイツ刑法学の強い影響下で発展した日本の刑法学においても20世紀初頭以来、同様の対立構造が見られたが、ここでは刑法理論を紹介することが目的ではなく、両派の対立も今日では、「あれかこれか」という二者択一ではなく、相対的な重点の置き方の違いになってきているように思われるので、私なりの大まかな理解を示すに留めたい。
刑罰の目的として一般に指摘されているのは、応報(贖罪)と予防と矯正(改善・教育)の3つである。「応報」とは、法の否定である犯罪行為を犯した者に対して、法の否定である犯罪をさらに否定する刑罰を科すことで法の回復を図ることが正義の要請である、という考え方であり、こうした思想を最も徹底した形で表明したのがカントである。カントによれば、刑罰は、他の目的の手段として加えられるべきではなく、ただ犯罪を犯したという理由だけで科されねばならないという義務論的な性質を持つものであり、このようなカントの立場は絶対主義的応報刑論と呼ばれる。今日、こうした純粋な応報刑論を支持する論者は見当たらない。しかし、責められるべき罪を犯した者には罰が与えられなければならない、という観念は、普通の人々が抱く直感的な道徳感情に合致するものであり、依然として刑罰論の基礎におかれるべきものである。しかしながら、応報観念は人間の復讐感情とも密接に絡み合っているので、両者を混同しないことが死活的に重要な論点となる。不正な被害を受けた被害者やその関係者が復讐心を抱くことは自然で人間的な感情であるが、こうした感情は個人によって大きく異なるばかりでなく、同一個人においても、時と状況次第で大きく揺れ動くものである。従って、こうした不安定な感情に刑罰の根拠を求めることは大きな危険を伴うことになる。しかし、それ以上に、刑罰と復讐を混同することの根本的な誤りは、社会契約説によって示されよう。なお、念のために付言すれば、人々の社会契約によって国家が設立されたという社会契約説は、(あまりにも当然のことながら)国家の歴史的・現実的起源を説明するものではない。実際に全国民の社会契約によって設立された国家など存在しないことは、説明するまでもない常識である。社会契約説とは、そのような起源を説明する理論ではなく、国家権力の正当性を説明する理論なのである。日本も含め、立憲主義の憲法を持つ国家はすべて、こうした社会契約説的発想によってその正当性が吟味されなければならない。
さて、社会契約説によれば、国家は人民の「生命、自由、財産などの諸権利」を保護するために設立されたものであるから、国家は、社会契約によって信託された人民の諸権利を保障する義務を負う。刑罰権の根拠も、こうした社会契約に基づく国家の「人民の諸権利保護の義務」に由来するものであり、人民の諸権利が犯罪によって侵害されたときには、侵害者(犯罪者)に刑罰を科すことによって、法の回復を図るのが刑罰の目的であるから、刑罰権の行使は、およそ復讐心といった人間の個別的な感情を離れ、一般的・普遍的・公共的な観点からなされるべきものである。それゆえ、死刑の存置が望ましいか否か、という問題は、ある特定の犯罪に対してどのような刑罰がふさわしいかという一般的な問題と同様、被害者遺族の感情や世論といった感情論に基づいて決せられるべきものではないのである。
次に、刑罰の目的として挙げられる「予防」は、一般予防と特別予防とに区別される。一般予防とは、刑罰による威嚇効果によって、一般人が犯罪行為に走るのを抑制・予防しようとする点に刑罰の目的を求めることであり、特別予防とは犯罪者に対する処罰が、その犯罪者自身が将来同種の罪を犯さないように抑止する効果のことである。一般予防主義は社会の安全を将来にわたって確保しようとする未来志向的で目的論的な刑罰の正当化論であり、過去の行為に対する非目的論的・義務論的な正当化理論である応報刑論とは対立するが、社会の安全確保を国家の義務とする社会契約論は、応報刑論だけでなく、目的刑論に立つ一般予防主義をも包摂しうる。特別予防論は、犯罪者を社会から隔離することに重点を置くならば応報刑・贖罪刑論とも両立しうるが、犯罪者の矯正・改善に重点を置くならば、第3の理論である改善刑(教育刑)論になる。すなわち、教育刑論によれば、刑罰の目的は犯罪人自身を教育・改善することにより、犯罪者を再び社会の有用な一員として復帰させるところにこそある、と主張されるのである。ただし、特別予防や教育刑の問題は、刑事政策の領域においてはもっと議論されるべきではあるが、刑罰論の本来の土俵はあくまでも応報刑論と一般予防論の2つであろう。
さて、ここまで、やや専門的な議論にも立ち入ってしまったが、ここでの考察の目的は死刑の是非であった。以上のべた応報刑論と一般予防論のいずれの立場に立ったとしても、死刑の是非について一義的な結論が導かれるわけではない。いずれの立場からも、死刑賛成論と反対論の両方の議論が可能である。それでは私は、どのような観点から死刑に反対するのか。これについては、次回論じることにしたい。
2008/04/18のBlog
[ 18:30 ]
[ 裁判・司法 ]
もうひとつは、すでに昨日から新聞やテレビやネットで大きな話題となっている名古屋高裁判決――。
あまりにも当然の判決が大きな驚きを引き起こし、原告は「9条が生きていた」と驚き、権力者と御用メディアは判決批判と判決無視を大合唱するこの国の異様さ…!
とりあえずコメント抜きで、アサヒ・コムから引用する。
=====================
「空自イラク派遣は憲法9条に違反」 名古屋高裁判断
2008年04月17日20時44分
自衛隊イラク派遣差し止めなどを求める集団訴訟の控訴審判決のなかで、名古屋高裁(青山邦夫裁判長)は17日、航空自衛隊が首都バグダッドに多国籍軍を空輸していることについて「憲法9条1項に違反する活動を含んでいる」との判断を示した。ただ、結論は原告側の敗訴とした。
各地で提起された同種訴訟で違憲判断が示されたのは初めて。「実質的な勝訴判決」と受け止めた原告側は上告しない方針を表明している。勝訴した被告の国側は上告できないため、今回の高裁判決は確定する見通しだ。
判決はまず、現在のイラク情勢について検討。「イラク国内での戦闘は、実質的には03年3月当初のイラク攻撃の延長で、多国籍軍対武装勢力の国際的な戦闘だ」と指摘した。特にバグダッドについて「まさに国際的な武力紛争の一環として行われている人を殺傷し物を破壊する行為が現に行われている地域」として、イラク復興支援特別措置法の「戦闘地域」に該当すると認定した。
そのうえで、「現代戦において輸送等の補給活動も戦闘行為の重要な要素だ」と述べ、空自の活動のうち「少なくとも多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸するものは、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」と判断。「武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、憲法9条に違反する活動を含んでいる」とした。
さらに判決は、原告側が請求の根拠として主張した「平和的生存権」についても言及。「9条に違反するような国の行為、すなわち戦争の遂行などによって個人の生命、自由が侵害される場合や、戦争への加担・協力を強制される場合には、その違憲行為の差し止め請求や損害賠償請求などの方法により裁判所に救済を求めることができる場合がある」との見解を示し、平和的生存権には具体的権利性があると判示した。
ただ、今回のイラク派遣によって「原告らの平和的生存権が侵害されたとまでは認められない」と述べ、1人1万円の支払いを求めた損害賠償は認めなかった。また、訴えの利益を欠くなどとして、違憲確認や差し止め請求はいずれも不適法な訴えだと指摘。原告側敗訴とした一審・名古屋地裁判決の結論を支持し、原告側の控訴を棄却した。
◇
〈憲法9条1項〉(戦争の放棄) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
**************************
空自イラク活動は継続 首相「どうこうする考えない」
2008年04月17日20時48分
政府は、名古屋高裁の判決はイラクへの自衛隊派遣に影響しないとの立場から、空自による輸送活動を継続する方針だ。福田首相は17日夜、記者団に「判決は国が勝った。(違憲判断は)判決そのものには直接関係ない」と述べた。また、今後の空自の活動についても「裁判のためにどうこうする考えはありません」と明言した。
首相は来年7月に期限が切れるイラク派遣の根拠法の再延長については「その時の情勢がある。法律の趣旨にかなっているかどうか、その時に考える」と述べた。
また、町村官房長官は記者会見で「総合的な判断の結果、バグダッド飛行場は非戦闘地域の要件を満たしていると政府は判断している。高裁の判断は納得できない」と判決への不満を表明。自衛隊の活動への影響は「全くない」と強調した。
**************************
違憲判決、原告ら「9条は生きている」
2008年04月17日20時53分
「9条が生きているということを示した判決だ」――。自衛隊のイラク派遣を違憲とした17日の名古屋高裁判決を受け、4年以上にわたって訴え続けてきた原告たちや弁護団は、思い思いの言葉で喜びを表した。判決を手に、政府に対して派遣の中止や隊員の帰還などを求めていくことも確認した。
「イラクで行われている空輸活動は、憲法9条に違反する活動を含んでいる」
裁判長が述べた瞬間、廷内にはどよめきが広がった。原告団のうち2人が走り出し、この日に備えて用意した数本の旗から「自衛隊イラク派兵は憲法違反」「画期的判決」を選び、裁判所前で掲げた。雨が降る中、待ち受けた数十人から大きな拍手が起き、抱き合う人たちもいた。
裁判所近くで開かれた報告集会には、原告や支援者ら約150人が集まった。原告代表で大学講師の池住義憲さん(63)は「提訴を呼びかけて4年2カ月。憲法9条を、平和憲法を持つ国の国民として誇りを持って語れる日が来た」とあいさつ。弁護団長の内河恵一弁護士は「何とか戦争のない国を、と思ってきただけに感無量だ。取り返しのつかない状況になりつつある今、引き返すことができる時だと思う」と話した。
弁護団事務局長の川口創(はじめ)弁護士は「憲法9条に正面から向き合っており、予想を上回る歴史的で画期的な判決だ」と評価した。自衛隊海外派遣の恒久法議論が出ていることを挙げ、「この時期に違憲判決が出た意味は大きい。戦争をする国造りを止めるためにも、この判決を武器に政府に働きかけたい」と話した。原告・弁護団も国会議員や政府に訴えていくことを確認し合った。
原告側証人として、判決を法廷で聞いた小林武・愛知大教授(憲法学)は取材に対し、「自衛隊のイラク派兵が違憲であること、平和的生存権が具体性を持つ権利であることの2点をきわめて明解に認めた歴史に残る判決だ。期待以上の内容に涙を禁じ得なかった。今まさに進行中の政策が『違憲』と断罪されたことに、政府がどう応えるか注目したい」と語った。
**************************
イラク空自違憲の判断 政府の理屈の矛盾突く
2008年04月18日06時02分
周辺でゲリラ攻撃や自爆テロが頻発しても、航空自衛隊の輸送機が離着陸するバグダッド空港は「非戦闘地域」。戦地への自衛隊派遣と憲法とのつじつま合わせのために政府がひねり出した理屈の矛盾を、名古屋高裁が突いた。空自の活動は来年7月に期限切れを迎えるが、違憲判断で派遣継続のハードルが高まった。
■あいまいな「非戦闘地域」
「政府は総合的な判断の結果、バグダッド飛行場は非戦闘地域の要件を満たしていると判断している。高裁の判断は納得できない」。町村官房長官は17日の記者会見で、あからさまに不満を示した。
高裁判決は「バグダッドは、国際的な武力紛争の一環として行われる、人を殺傷し、物を破壊する行為が現に行われている。イラク特措法にいう『戦闘地域』に該当する」と指摘。空自の活動はイラク復興支援特措法にも憲法9条にも違反するとした。
政府はバグダッド全体が戦闘地域か非戦闘地域かの判断はしていないが、少なくとも「バグダッド空港と輸送機が飛ぶ経路は非戦闘地域」(防衛省幹部)と認定している。
町村氏は会見で、「バグダッド飛行場には商業用の飛行機が多数出入りしている。本当に戦闘地域で、俗な言葉で言うと、危険な飛行場であれば、民間機が飛ぶはずがない」と反論した。
高裁判決は戦闘地域であるバグダッドに多国籍軍の武装兵員を輸送することは「武力行使と一体化する」とも指摘したが、政府は「そもそも非戦闘地域だし、武力行使と一体化するものではない」(町村氏)との立場だ。
ただ、あいまいな「非戦闘地域」という概念は、イラク派遣をめぐるこれまでの国会審議でも、たびたび大きな論争を巻き起こしてきた。
政府はイラクへの自衛隊派遣が憲法9条に違反しない根拠として、「非戦闘地域への派遣」を挙げてきた。だが、非戦闘地域と戦闘地域の区別を聞かれた当時の小泉首相は「どこが戦闘地域で、どこが非戦闘地域か、私に聞かれたってわかるわけない」。さらには「自衛隊が活動しているところは非戦闘地域だ」との答弁まで飛び出した。
政府は「戦闘」を「国または国に準ずる者による組織的、計画的な攻撃」と定義し、自衛隊や米軍などが攻撃を受けて反撃しても、「国家かそれに近い組織」が相手でなければ、その地域は「戦闘地域」にはあたらないとした。「弾が飛び交う状態でも戦闘地域ではない」との論法も成り立ってしまう。
今回の判決は、この矛盾点を指摘した。武装勢力の攻撃や、米軍の度重なる掃討作戦を理由にバグダッドを「戦闘地域」と断定。「バグダッドへの空輸は、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」とした。
特措法策定にかかわった政府関係者は「『非戦闘地域』の概念は(インド洋で給油活動をする)テロ対策特措法にも盛り込まれた。だが、イラクの治安がここまで悪くなるとは予想できず、結果的にこの概念が大論争を招いた」と漏らす。
■特措法延長に障壁
「それは判断ですか。傍論。脇の論ね」
福田首相は17日夜、名古屋高裁の違憲判断への感想を記者団に聞かれ、こう語った。そして、空自の活動について「問題ないんだと思いますよ」と言った。
06年7月に陸上自衛隊をサマワから撤退させた後も、日本政府はイラクでの空自活動を継続してきた。「日米同盟維持と国際貢献の観点から、当面、活動を続ける必要がある」との判断で、イラクでの空自は「日米同盟の象徴」の役割を引き受けてきた。
それだけに政府は、違憲判断にかかわらず、「(空自の活動を)今の時点で見直す考えはない」(増田好平防衛事務次官)との立場だ。
ただ、自衛隊のイラク派遣に反対してきた野党側は勢いづく。民主党の菅直人代表代行は17日の記者会見で「非戦闘地域の判断が、しっかりやれていなかった」と批判。そもそも「非戦闘地域を線引きできるという発想がおかしい」(幹部)との意見が民主党内では大勢だ。
政府・与党は今年1月、インド洋での給油活動を可能にする補給支援特措法を、国会の大幅延長と衆院の3分の2再可決を使ってようやく通したばかり。イラク特措法が来年7月に期限切れとなることから、早くも「(苦労した給油継続の)二の舞いになることだけは避けたい」との声が出る。
そんななか、政府・与党が検討を進めているのが、自衛隊の海外派遣を随時可能にする一般法(恒久法)だ。
自民党は10日、イラク特措法と補給支援特措法、国連平和維持活動(PKO)協力法の3法を統合した形での法整備を目指すプロジェクトチーム(PT)を発足させた。座長の山崎拓・元幹事長は「今国会中に一般法の政府案を提出しないと間に合わない」と意欲を示す。
ただ、公明党が慎重姿勢を崩しておらず、与党間協議のめどすら立っていない。そのうえ、民主党も17日の判決を受け、「まだ一般法の議論をする時期ではない」(幹部)。今回の違憲判断は今後の一般法の議論にも影を落としそうだ。
■緊張の離着陸、700回近い輸送
空自によるイラクでの空輸活動は、小牧基地(愛知県)から派遣された3機のC130輸送機が担っている。クウェートを拠点に、当初はイラク南部のアリとを結んでいたが、06年7月に初めて首都バグダッド、同年9月にはイラク北部アルビルの各飛行場への輸送を開始した。04年3月の活動開始から4年。派遣が5回目となる隊員もいる。
これまでの派遣隊員数は延べ約3千人。クウェートとイラク国内の3空港との間を週4~5日結び、輸送回数は総計694回、運んだ物資の量は約600トンに上る。15次となる派遣隊は3月10日と4月14日に派遣されたばかりだ。
空輸活動では、米軍など多国籍軍の兵士や国連要員、武器・弾薬以外の物資を運ぶとされているが、日本政府・防衛省は詳細を明らかにしていない。差し止め訴訟の原告らによる空輸実績の開示請求でも、開示資料はいずれも日付や内容の部分が「黒塗り」の状態だった。
日本政府は「バグダッドなどの空港は非戦闘地域」としているが、実際は「飛行場の離着陸時に地上から攻撃を受ける危険性が高い」(自衛隊関係者)とされ、隊員の精神的負担は大きい。C130がイラク国内で離着陸する時には、通常時に比べて急角度での上昇や降下をすることで低い高度にいる時間を短くしているという。
バグダッドなどへの飛行では、C130に取り付けられたミサイル警報装置が鳴り、旋回やフレア(おとりの熱源)を出すなどの回避行動をとることもある。昨年12月、現地を視察した田母神俊雄・航空幕僚長もC130でバグダッド空港に着陸する間際、「ミサイル警報装置が鳴り、一瞬緊張した」と話した。
これまでの飛行で、C130が実際にミサイルの追尾を受けたことは確認されていない。しかし、05年には英空軍のC130が、バグダッド空港離陸後に地上からの攻撃を受けて墜落するなどの被害が出ている。
「空輸活動が武力行使になるのか」「インド洋の給油活動なども違憲になってしまうのではないか」。活動を続ける制服組は今回の判決にとまどう。ある自衛隊関係者は「判決に法的な効力がないなら活動にすぐに影響はないが、今後は政治で議論されるのではないか」と、判決の波及を懸念した。「活動を続ける隊員や家族がかわいそうだ」との声も漏れた。
あまりにも当然の判決が大きな驚きを引き起こし、原告は「9条が生きていた」と驚き、権力者と御用メディアは判決批判と判決無視を大合唱するこの国の異様さ…!
とりあえずコメント抜きで、アサヒ・コムから引用する。
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「空自イラク派遣は憲法9条に違反」 名古屋高裁判断
2008年04月17日20時44分
自衛隊イラク派遣差し止めなどを求める集団訴訟の控訴審判決のなかで、名古屋高裁(青山邦夫裁判長)は17日、航空自衛隊が首都バグダッドに多国籍軍を空輸していることについて「憲法9条1項に違反する活動を含んでいる」との判断を示した。ただ、結論は原告側の敗訴とした。
各地で提起された同種訴訟で違憲判断が示されたのは初めて。「実質的な勝訴判決」と受け止めた原告側は上告しない方針を表明している。勝訴した被告の国側は上告できないため、今回の高裁判決は確定する見通しだ。
判決はまず、現在のイラク情勢について検討。「イラク国内での戦闘は、実質的には03年3月当初のイラク攻撃の延長で、多国籍軍対武装勢力の国際的な戦闘だ」と指摘した。特にバグダッドについて「まさに国際的な武力紛争の一環として行われている人を殺傷し物を破壊する行為が現に行われている地域」として、イラク復興支援特別措置法の「戦闘地域」に該当すると認定した。
そのうえで、「現代戦において輸送等の補給活動も戦闘行為の重要な要素だ」と述べ、空自の活動のうち「少なくとも多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸するものは、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」と判断。「武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、憲法9条に違反する活動を含んでいる」とした。
さらに判決は、原告側が請求の根拠として主張した「平和的生存権」についても言及。「9条に違反するような国の行為、すなわち戦争の遂行などによって個人の生命、自由が侵害される場合や、戦争への加担・協力を強制される場合には、その違憲行為の差し止め請求や損害賠償請求などの方法により裁判所に救済を求めることができる場合がある」との見解を示し、平和的生存権には具体的権利性があると判示した。
ただ、今回のイラク派遣によって「原告らの平和的生存権が侵害されたとまでは認められない」と述べ、1人1万円の支払いを求めた損害賠償は認めなかった。また、訴えの利益を欠くなどとして、違憲確認や差し止め請求はいずれも不適法な訴えだと指摘。原告側敗訴とした一審・名古屋地裁判決の結論を支持し、原告側の控訴を棄却した。
◇
〈憲法9条1項〉(戦争の放棄) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
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空自イラク活動は継続 首相「どうこうする考えない」
2008年04月17日20時48分
政府は、名古屋高裁の判決はイラクへの自衛隊派遣に影響しないとの立場から、空自による輸送活動を継続する方針だ。福田首相は17日夜、記者団に「判決は国が勝った。(違憲判断は)判決そのものには直接関係ない」と述べた。また、今後の空自の活動についても「裁判のためにどうこうする考えはありません」と明言した。
首相は来年7月に期限が切れるイラク派遣の根拠法の再延長については「その時の情勢がある。法律の趣旨にかなっているかどうか、その時に考える」と述べた。
また、町村官房長官は記者会見で「総合的な判断の結果、バグダッド飛行場は非戦闘地域の要件を満たしていると政府は判断している。高裁の判断は納得できない」と判決への不満を表明。自衛隊の活動への影響は「全くない」と強調した。
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違憲判決、原告ら「9条は生きている」
2008年04月17日20時53分
「9条が生きているということを示した判決だ」――。自衛隊のイラク派遣を違憲とした17日の名古屋高裁判決を受け、4年以上にわたって訴え続けてきた原告たちや弁護団は、思い思いの言葉で喜びを表した。判決を手に、政府に対して派遣の中止や隊員の帰還などを求めていくことも確認した。
「イラクで行われている空輸活動は、憲法9条に違反する活動を含んでいる」
裁判長が述べた瞬間、廷内にはどよめきが広がった。原告団のうち2人が走り出し、この日に備えて用意した数本の旗から「自衛隊イラク派兵は憲法違反」「画期的判決」を選び、裁判所前で掲げた。雨が降る中、待ち受けた数十人から大きな拍手が起き、抱き合う人たちもいた。
裁判所近くで開かれた報告集会には、原告や支援者ら約150人が集まった。原告代表で大学講師の池住義憲さん(63)は「提訴を呼びかけて4年2カ月。憲法9条を、平和憲法を持つ国の国民として誇りを持って語れる日が来た」とあいさつ。弁護団長の内河恵一弁護士は「何とか戦争のない国を、と思ってきただけに感無量だ。取り返しのつかない状況になりつつある今、引き返すことができる時だと思う」と話した。
弁護団事務局長の川口創(はじめ)弁護士は「憲法9条に正面から向き合っており、予想を上回る歴史的で画期的な判決だ」と評価した。自衛隊海外派遣の恒久法議論が出ていることを挙げ、「この時期に違憲判決が出た意味は大きい。戦争をする国造りを止めるためにも、この判決を武器に政府に働きかけたい」と話した。原告・弁護団も国会議員や政府に訴えていくことを確認し合った。
原告側証人として、判決を法廷で聞いた小林武・愛知大教授(憲法学)は取材に対し、「自衛隊のイラク派兵が違憲であること、平和的生存権が具体性を持つ権利であることの2点をきわめて明解に認めた歴史に残る判決だ。期待以上の内容に涙を禁じ得なかった。今まさに進行中の政策が『違憲』と断罪されたことに、政府がどう応えるか注目したい」と語った。
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イラク空自違憲の判断 政府の理屈の矛盾突く
2008年04月18日06時02分
周辺でゲリラ攻撃や自爆テロが頻発しても、航空自衛隊の輸送機が離着陸するバグダッド空港は「非戦闘地域」。戦地への自衛隊派遣と憲法とのつじつま合わせのために政府がひねり出した理屈の矛盾を、名古屋高裁が突いた。空自の活動は来年7月に期限切れを迎えるが、違憲判断で派遣継続のハードルが高まった。
■あいまいな「非戦闘地域」
「政府は総合的な判断の結果、バグダッド飛行場は非戦闘地域の要件を満たしていると判断している。高裁の判断は納得できない」。町村官房長官は17日の記者会見で、あからさまに不満を示した。
高裁判決は「バグダッドは、国際的な武力紛争の一環として行われる、人を殺傷し、物を破壊する行為が現に行われている。イラク特措法にいう『戦闘地域』に該当する」と指摘。空自の活動はイラク復興支援特措法にも憲法9条にも違反するとした。
政府はバグダッド全体が戦闘地域か非戦闘地域かの判断はしていないが、少なくとも「バグダッド空港と輸送機が飛ぶ経路は非戦闘地域」(防衛省幹部)と認定している。
町村氏は会見で、「バグダッド飛行場には商業用の飛行機が多数出入りしている。本当に戦闘地域で、俗な言葉で言うと、危険な飛行場であれば、民間機が飛ぶはずがない」と反論した。
高裁判決は戦闘地域であるバグダッドに多国籍軍の武装兵員を輸送することは「武力行使と一体化する」とも指摘したが、政府は「そもそも非戦闘地域だし、武力行使と一体化するものではない」(町村氏)との立場だ。
ただ、あいまいな「非戦闘地域」という概念は、イラク派遣をめぐるこれまでの国会審議でも、たびたび大きな論争を巻き起こしてきた。
政府はイラクへの自衛隊派遣が憲法9条に違反しない根拠として、「非戦闘地域への派遣」を挙げてきた。だが、非戦闘地域と戦闘地域の区別を聞かれた当時の小泉首相は「どこが戦闘地域で、どこが非戦闘地域か、私に聞かれたってわかるわけない」。さらには「自衛隊が活動しているところは非戦闘地域だ」との答弁まで飛び出した。
政府は「戦闘」を「国または国に準ずる者による組織的、計画的な攻撃」と定義し、自衛隊や米軍などが攻撃を受けて反撃しても、「国家かそれに近い組織」が相手でなければ、その地域は「戦闘地域」にはあたらないとした。「弾が飛び交う状態でも戦闘地域ではない」との論法も成り立ってしまう。
今回の判決は、この矛盾点を指摘した。武装勢力の攻撃や、米軍の度重なる掃討作戦を理由にバグダッドを「戦闘地域」と断定。「バグダッドへの空輸は、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」とした。
特措法策定にかかわった政府関係者は「『非戦闘地域』の概念は(インド洋で給油活動をする)テロ対策特措法にも盛り込まれた。だが、イラクの治安がここまで悪くなるとは予想できず、結果的にこの概念が大論争を招いた」と漏らす。
■特措法延長に障壁
「それは判断ですか。傍論。脇の論ね」
福田首相は17日夜、名古屋高裁の違憲判断への感想を記者団に聞かれ、こう語った。そして、空自の活動について「問題ないんだと思いますよ」と言った。
06年7月に陸上自衛隊をサマワから撤退させた後も、日本政府はイラクでの空自活動を継続してきた。「日米同盟維持と国際貢献の観点から、当面、活動を続ける必要がある」との判断で、イラクでの空自は「日米同盟の象徴」の役割を引き受けてきた。
それだけに政府は、違憲判断にかかわらず、「(空自の活動を)今の時点で見直す考えはない」(増田好平防衛事務次官)との立場だ。
ただ、自衛隊のイラク派遣に反対してきた野党側は勢いづく。民主党の菅直人代表代行は17日の記者会見で「非戦闘地域の判断が、しっかりやれていなかった」と批判。そもそも「非戦闘地域を線引きできるという発想がおかしい」(幹部)との意見が民主党内では大勢だ。
政府・与党は今年1月、インド洋での給油活動を可能にする補給支援特措法を、国会の大幅延長と衆院の3分の2再可決を使ってようやく通したばかり。イラク特措法が来年7月に期限切れとなることから、早くも「(苦労した給油継続の)二の舞いになることだけは避けたい」との声が出る。
そんななか、政府・与党が検討を進めているのが、自衛隊の海外派遣を随時可能にする一般法(恒久法)だ。
自民党は10日、イラク特措法と補給支援特措法、国連平和維持活動(PKO)協力法の3法を統合した形での法整備を目指すプロジェクトチーム(PT)を発足させた。座長の山崎拓・元幹事長は「今国会中に一般法の政府案を提出しないと間に合わない」と意欲を示す。
ただ、公明党が慎重姿勢を崩しておらず、与党間協議のめどすら立っていない。そのうえ、民主党も17日の判決を受け、「まだ一般法の議論をする時期ではない」(幹部)。今回の違憲判断は今後の一般法の議論にも影を落としそうだ。
■緊張の離着陸、700回近い輸送
空自によるイラクでの空輸活動は、小牧基地(愛知県)から派遣された3機のC130輸送機が担っている。クウェートを拠点に、当初はイラク南部のアリとを結んでいたが、06年7月に初めて首都バグダッド、同年9月にはイラク北部アルビルの各飛行場への輸送を開始した。04年3月の活動開始から4年。派遣が5回目となる隊員もいる。
これまでの派遣隊員数は延べ約3千人。クウェートとイラク国内の3空港との間を週4~5日結び、輸送回数は総計694回、運んだ物資の量は約600トンに上る。15次となる派遣隊は3月10日と4月14日に派遣されたばかりだ。
空輸活動では、米軍など多国籍軍の兵士や国連要員、武器・弾薬以外の物資を運ぶとされているが、日本政府・防衛省は詳細を明らかにしていない。差し止め訴訟の原告らによる空輸実績の開示請求でも、開示資料はいずれも日付や内容の部分が「黒塗り」の状態だった。
日本政府は「バグダッドなどの空港は非戦闘地域」としているが、実際は「飛行場の離着陸時に地上から攻撃を受ける危険性が高い」(自衛隊関係者)とされ、隊員の精神的負担は大きい。C130がイラク国内で離着陸する時には、通常時に比べて急角度での上昇や降下をすることで低い高度にいる時間を短くしているという。
バグダッドなどへの飛行では、C130に取り付けられたミサイル警報装置が鳴り、旋回やフレア(おとりの熱源)を出すなどの回避行動をとることもある。昨年12月、現地を視察した田母神俊雄・航空幕僚長もC130でバグダッド空港に着陸する間際、「ミサイル警報装置が鳴り、一瞬緊張した」と話した。
これまでの飛行で、C130が実際にミサイルの追尾を受けたことは確認されていない。しかし、05年には英空軍のC130が、バグダッド空港離陸後に地上からの攻撃を受けて墜落するなどの被害が出ている。
「空輸活動が武力行使になるのか」「インド洋の給油活動なども違憲になってしまうのではないか」。活動を続ける制服組は今回の判決にとまどう。ある自衛隊関係者は「判決に法的な効力がないなら活動にすぐに影響はないが、今後は政治で議論されるのではないか」と、判決の波及を懸念した。「活動を続ける隊員や家族がかわいそうだ」との声も漏れた。
[ 18:25 ]
[ 裁判・司法 ]
評価はマイナスとプラス、正反対だが、最近注目(注意)すべき判決が2つあったので、備忘録としてネットのニュースを引用しておきます。
1つ目は、最高裁第3小法廷が4月15日に出した判決をアサヒ・コムより引用します。
========================
「受刑者の面会拒否は適法」 弁護士会敗訴の最高裁判決2008年04月16日00時13分
受刑者への人権侵害を調べるため、弁護士が現場を目撃したとされる別の受刑者に会おうとして広島刑務所(広島市)に拒まれたことに対し、広島弁護士会が国に賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第三小法廷(藤田宙靖=ときやす=裁判長)は15日、弁護士会の請求を退ける判決を言い渡した。
第三小法廷は「刑務所は弁護士会に面会させる義務を負わない」と判断。60万円の支払いを国に命じた二審・広島高裁判決を破棄し、弁護士会の逆転敗訴が確定した。
判決によると広島弁護士会は97年と98年に、服役中の受刑者2人から「職員にボールペンで額を殴られた」などと人権救済の申し立てを受けた。弁護士会は目撃者とされた受刑者から話を聞こうとしたが、刑務所は「人権侵害はなかった」と認めなかった。
一審・広島地裁は03年3月に請求を棄却したが、広島高裁は05年10月、「面会を認めなかった刑務所の判断は裁量権の乱用だ」と判断。弁護士会は、親族以外と面会できるケースを広げる画期的判決だと評価していた。
これに対し、第三小法廷は、監獄法(現刑事収容施設法)の「受刑者が親族以外に面会できるのは特別に必要と判断された場合に限る」という条文について検討。「受刑者の利益と、刑務所の秩序の確保を調整するための条文で、親族以外の弁護士会など第三者の利益との調整は含んでいない」という初めての判断を示した。
5人の裁判官の一致した意見。ただし、弁護士出身の田原睦夫裁判官は「弁護士会の調査活動の意義を理解し、刑務所長には柔軟な対応を望む」との補足意見を述べた。
1つ目は、最高裁第3小法廷が4月15日に出した判決をアサヒ・コムより引用します。
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「受刑者の面会拒否は適法」 弁護士会敗訴の最高裁判決2008年04月16日00時13分
受刑者への人権侵害を調べるため、弁護士が現場を目撃したとされる別の受刑者に会おうとして広島刑務所(広島市)に拒まれたことに対し、広島弁護士会が国に賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第三小法廷(藤田宙靖=ときやす=裁判長)は15日、弁護士会の請求を退ける判決を言い渡した。
第三小法廷は「刑務所は弁護士会に面会させる義務を負わない」と判断。60万円の支払いを国に命じた二審・広島高裁判決を破棄し、弁護士会の逆転敗訴が確定した。
判決によると広島弁護士会は97年と98年に、服役中の受刑者2人から「職員にボールペンで額を殴られた」などと人権救済の申し立てを受けた。弁護士会は目撃者とされた受刑者から話を聞こうとしたが、刑務所は「人権侵害はなかった」と認めなかった。
一審・広島地裁は03年3月に請求を棄却したが、広島高裁は05年10月、「面会を認めなかった刑務所の判断は裁量権の乱用だ」と判断。弁護士会は、親族以外と面会できるケースを広げる画期的判決だと評価していた。
これに対し、第三小法廷は、監獄法(現刑事収容施設法)の「受刑者が親族以外に面会できるのは特別に必要と判断された場合に限る」という条文について検討。「受刑者の利益と、刑務所の秩序の確保を調整するための条文で、親族以外の弁護士会など第三者の利益との調整は含んでいない」という初めての判断を示した。
5人の裁判官の一致した意見。ただし、弁護士出身の田原睦夫裁判官は「弁護士会の調査活動の意義を理解し、刑務所長には柔軟な対応を望む」との補足意見を述べた。
2008/04/15のBlog
[ 17:31 ]
[ 罪と罰 ]
現存在分析学や人間学の言葉によってTを見つめ直すと、そこには、多種の性的倒錯者や多くの犯罪者に共通するいくつかの点が発見される。それだけではなく、精神病者や神経症者の意識や行動とも、さらには、私たちいわゆる正常人や健常人の心理や欲望とも通底する、人間性の本質を突き動かすヴェクトルを見て取ることができる。
Tの生涯を見つめることから、人間の生(エトス)の最も深淵にある業とも本性ともいえるものが、もちろん歪められ汚れた姿においてではあるが、それだけにあざといまでに鮮やかなイメージとして私たちの面前に立ち現れてくる。
Tは、生涯にわたって危険な加害者であり続け、その終幕において極端に凶悪・非道な犯罪を犯した。それにもかかわらず、私たちが大きな関心をこの事件とTの人となりや行動に対して抱いてしまったのは、彼の生涯とその行動もまた、われわれ自身が無意識の中に秘めているなにものかと否応なしに共鳴するところがあるからではないか。
人面獣心というが、その獣心はけっしてTだけのものではない。獣心について学ぶことは、人間について学ぶこと、私たち自身について学ぶことでもある。そしてそれは、必ずしも獣心というべきものではなく、人間の性(さが)とも本質ともいえるものであるように見える。
――福島章『犯罪精神医学入門』(中公新書)より
2008/04/14のBlog
[ 23:05 ]
[ 罪と罰 ]
3-2.加害者論(その2)
不破利晴氏は「俗物による、俗物のための“死刑廃止論”」の中で、世論の多数が犯人の死刑を支持している事件の例として、「世田谷一家殺人事件」、「光市母子殺害事件」、「池田小学校児童殺傷事件」を挙げている。なかでも2001年6月8日、宅間守が引き起こした池田小児童殺傷事件は、児童8人を殺害し、児童13人と教師2人に傷害を負わせるという前代未聞の凶悪事件であり、死刑存置論者にとっては、死刑制度の必要性を訴える最も強力な事例と思われるだろう。逮捕・起訴された宅間守被告は2003年8月28日、大阪地裁で受けた死刑判決がそのまま確定し、翌04年9月14日、判決確定からわずか1年後という早さで死刑が執行された。
この事件では、事件そのものの史上稀に見る非道さはもちろんのことながら、犯人である宅間守が最後まで、被害者とその遺族に対する謝罪の言葉を口にしなかったこともあり、このような悪逆非道な犯罪者に対する刑罰は死刑以外にありえない、と思う人も多いだろう。ところが、様々な報道や裁判資料、精神鑑定結果などを用いて、宅間守の生い立ちから犯行に至るまでの経緯を徹底的に調べ上げ、生物医学的次元から心理社会的次元にわたる多次元診断を行い、哲学的・人間学的考察まで行った精神科医の福島章はその結果を『犯罪精神医学入門』(中公新書)で公表している。それを読むと、宅間守が極めて特異な遺伝的・環境的条件下で育った人間だったことがわかる。
彼は幼少時から父親には暴力を振るわれ、母親にはほとんどかまわれないという家庭環境で育ったために、人に対する基本的信頼感を内面に育てることができないまま成長したと思われる。幼少時には、多動性や衝動性という行動の異常が見られ、小学校では力の強いものから暴力を受ける半面、自分より弱い
不破利晴氏は「俗物による、俗物のための“死刑廃止論”」の中で、世論の多数が犯人の死刑を支持している事件の例として、「世田谷一家殺人事件」、「光市母子殺害事件」、「池田小学校児童殺傷事件」を挙げている。なかでも2001年6月8日、宅間守が引き起こした池田小児童殺傷事件は、児童8人を殺害し、児童13人と教師2人に傷害を負わせるという前代未聞の凶悪事件であり、死刑存置論者にとっては、死刑制度の必要性を訴える最も強力な事例と思われるだろう。逮捕・起訴された宅間守被告は2003年8月28日、大阪地裁で受けた死刑判決がそのまま確定し、翌04年9月14日、判決確定からわずか1年後という早さで死刑が執行された。
この事件では、事件そのものの史上稀に見る非道さはもちろんのことながら、犯人である宅間守が最後まで、被害者とその遺族に対する謝罪の言葉を口にしなかったこともあり、このような悪逆非道な犯罪者に対する刑罰は死刑以外にありえない、と思う人も多いだろう。ところが、様々な報道や裁判資料、精神鑑定結果などを用いて、宅間守の生い立ちから犯行に至るまでの経緯を徹底的に調べ上げ、生物医学的次元から心理社会的次元にわたる多次元診断を行い、哲学的・人間学的考察まで行った精神科医の福島章はその結果を『犯罪精神医学入門』(中公新書)で公表している。それを読むと、宅間守が極めて特異な遺伝的・環境的条件下で育った人間だったことがわかる。
彼は幼少時から父親には暴力を振るわれ、母親にはほとんどかまわれないという家庭環境で育ったために、人に対する基本的信頼感を内面に育てることができないまま成長したと思われる。幼少時には、多動性や衝動性という行動の異常が見られ、小学校では力の強いものから暴力を受ける半面、自分より弱い