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イスマタリアン
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2008/05/06のBlog

 死刑存置論=死刑賛成派の“論理”は、管見の範囲では、どれもこれも金太郎飴のように似通っていて、極めて単純で、感情論に基づくものがほとんどである。以下にその構図を示すので、もしも「わたしの死刑存置論は、こんな単純で感情的なものではない。もっと論理的な理由がある」と仰る方がいれば、是非ともご教示願いたい。

 (1)一面的・一方的な「感情移入
 死刑存置論の第1の特徴は、一面的・一方的な「感情移入」である。すなわち、被害者または被害者遺族もしくはその両者(以下、簡略化のため「被害者(遺族)」と記す)にのみ一方的に感情移入したつもりになり、加害者に感情移入することは(たとえ思考実験としてさえも)決してないどころか、加害者を「鬼畜」や「人でなし」として悪魔化し、自分とは何の共通点もない絶対的な他者とみなす。なぜ加害者が犯行に至ったのか、どうして加害者のような人間が形成されるに至ったのか、というようなことはおよそ考えようともしないどころか、そのような思考をめぐらすこと自体が、被害者の冒涜である、などと非難する人も少なくない。

 そして、死刑存置論者は、「自分がもしも被害者(遺族)の立場だったら」と想像することはあるが、「自分がもしも加害者か加害者の家族だったら」と想像することはほとんどない。もっとも、なかには、「自分がもしも加害者の家族だったら、加害者の死刑を求める」などと発言する人もいるが、おそらくそれは、実際に自分がそのような立場になる可能性を真剣に熟慮したうえでの発言というよりは、そのような可能性はありえないと高をくくったうえでの発言である可能性の方が高いだろう。

 死刑存置論者の感情移入や想像力は、ほとんどの場合、このように一面的・一方的なものであるにも関わらず、通常彼(女)らは、自分たちがいかに想像力が豊かであるかを誇り、加害者の事情を考慮しようとする(のはつまり、犯罪の原因を突き止め、将来の犯罪抑止に役立てようとするからでもある)人々を、被害者の気持ちがわからない想像力の欠如した人非人であるかの如く非難することさえ稀ではない。

 (2)復讐としての刑罰観
 死刑存置論の第2の特徴は、刑罰の目的を復讐として捉えていることである。国家の刑罰権力の目的は、法秩序の維持(その一環として、法の否定である犯罪を犯した者に対して、犯罪を否定する刑罰を科すことにより法秩序の回復を図ることが含まれる)、犯罪の予防、犯罪者の矯正などであって、被害者(遺族)の復讐心を満足させることは含まれていない。「復讐心」などという、個人によって、また同じ個人でも時間の経過によって千差万別な感情に刑罰権を依拠させるならば、八つ裂きの刑でも火あぶりの刑でも、およそ「何でもあり」になってしまうだろう。

 しかし、刑罰によって、被害者(遺族)の感情を終局的に慰撫することは不可能だろう。日本では、これまで被害者(遺族)に対する救済制度がほとんど顧みられることがなく、無権利状態の中に放置されてきた。そのことが加害者に対する厳罰要求の正当化理由として使われてきたのだが、加害者に厳罰を科したからといって、被害者(遺族)が真に救済されるわけではない。被害者(遺族)に対する救済制度の構築は、加害者への刑罰とは別に、それ自体として追求しなければならない。加害者に対する適正な刑罰は、被害者(遺族)への救済とは別個に考察されなければならないのである。

 (3)自由意思論に基づく犯罪観
 死刑存置論の第3の特徴は、犯罪原因を加害者個人にのみ求める考え方である。少年犯罪は別として(実は、少年犯罪についても同様の傾向が見られるが、それについてはここでは論じない)、いやしくも成人の犯行である限り、その犯行は、完全に彼(女)個人の自由意思に基づくものであり、したがって、その責任は全面的に彼(女)個人に内属し、完全なる自己責任を追及しうる、という考え方である。言い換えれば、加害者の置かれた生育環境や人間関係、あるいは彼の各種病歴等が犯行に駆り立てた原因かもしれない、などという考え方を受け容れない、という立場である。

 刑法学の歴史においては、古典学派と呼ばれる旧派と近代学派と呼ばれる新派との間で長く熾烈な論争が続けられてきた。両派を分かつ論点の一つが、加害者の人間像に関する理解の相違であった。カントに代表される旧派によれば、人間とは自由意思を持つ理性的存在者であるから、彼(女)が自由に為した行為の全責任は彼(女)個人に帰属させることができるとされる。それに対して、ベッカリーア以降の新派によれば、人間の行為は生育環境や社会的環境によって規定されているのであるから、刑事政策的にはそのような環境を改善するとともに、刑罰の目的も応報よりも犯罪者の矯正・教育によって、二度と再び犯罪を犯さないような人間に改善することに求められるようになる。要するに、犯罪の原因を、犯罪者個人の自由意思に求めるか、犯罪者の置かれた社会的環境等の社会的原因に求めるか、という対立がここには見られるのである。

 私個人の意見としては、これら両派の対立は二律背反・二者択一的に捉えられるべきではなく、双方ともに一面の真理を有していると思う。つまり、ほとんどすべての犯罪は、犯罪者の自由意思に基づく側面と、犯罪者の置かれた社会的原因に求められる部分を含有していると思う。もちろん、個別の事件において、両者の要因がどの程度の比重を占めているかは、個別の事例に即して厳密に検証されるべきであり、はじめから、社会的原因を考察することそれ自体を排除するような議論は慎むべきであろう。

 (4)「世間」の多数派感情への居直り
 死刑存置論の「議論」の構造分析としては、以上に尽きていると思う。しかしながら、死刑存置論の「論じ方」は、それ自体として大きな特徴を有している。それは、「世間」の多数派感情への居直りとも言うべき議論の仕方である。それは、およそ普遍的論理や理性的な議論の必要性というものを認めず(というより、そうした論理や議論を排除しつつ)、自らの直感的な感情をモロにぶつけるだけの「議論」である。そのような感情論が支えにしているものは、世間の多数派もまた、自分の直感的感情を支持しているという感覚である。つまり、死刑存置論者の多数者性に居直って、自らの意見とは異なる意見を表明するものを恫喝するような言説なのである。そうした多数者性への居直りは、もはやいかなる暴言でも許される、という傲慢さをも生み出している。最近、そのような言説の典型例を目にしたので、少し批判しておこうかとも思ったが、あまりにも支離滅裂で低レベルの「議論」なので、お相手するのは(とりあえず)やめておく。


【追記】
 しかし、どうしてこのような(2ちゃんねる的な)言論が跋扈するのかという社会的背景を考えるならば、日本社会の持つ特徴と大いに関係がありそうである。歴史学者の故・阿部謹也や刑法学者の佐藤直樹、精神医学者の木村敏らがつとに指摘しているように、日本には西洋流の社会や個人が存在せず、その代わりに存在しているのは、「世間」である。そこにおいては、主体性を持った個人は存在せず、大事なことは「場の空気」を読むことである。「場の空気」に合わない者、「場の空気」を乱す者は、厄介者として排除されることになる。したがって、そこにおいては、何よりも「場の空気」をいち早く読み、「場の空気」と一体化することである。そこでは論理もヘチマもないので、「場の空気」と一体化しさえすれば、もはやいかなる暴論でも許される。というよりも、過激な暴論であればあるほど、「場の空気」によって歓迎されるので、「場の力学」、すなわち集団的過剰同調促進機制によって、ますます過激化が進行することになる。

 BPOによって批判されたマスコミの報道姿勢も、死刑存置論者の多数派感情への居直りとしか言いようのない放埓な感情論も、すべてこうした「世間」の“論理”である「場の力学」にその原因が求められるだろう。


【再追記(5/7)】

 死刑存置論について重要な論点を2つ書き落としていたことを思い出した。
ひとつは、「同害報復(タリオ)としての刑罰観」であり、もうひとつが「死刑の犯罪抑止効果論」である。前者は、「人の命を奪った者は、自分の命で罪を贖うべし」という考え方で、非常に素朴な考えだけに強い訴求力を持っているように見える。後者については、説明するまでもないと思うが、死刑制度があることによって凶悪犯罪がある程度まで抑止されているのであるから、死刑制度がなくなれば凶悪犯罪が増える、という議論である。

 これら2つの議論についてもきっちり批判しておかなければならないと思っているが、今はあまり堅い文章を書きたくないので、いずれ気が向いたら、改訂版を書くつもりである。


2008/05/05のBlog
[ 22:18 ] [ 言葉 ]

 しばしば、人は身近な他者を愛する傾向があり、遠くの他者を愛することは難しいかのように言われるが、必ずしもそうではない。他者に近づくということは、他者の、ときに嫌悪感すらもよおしかねない――直接に身体的な――攻撃性や俗悪性を目の当たりにするということである。そうした試練に耐えて、その他者を愛し続けることは、困難なことだ。

 逆に言えば、他者を、適当な距離をおいたまま愛そうとすることは、その愛が本物ではないことをこそ含意しているだろう。もし誰かに、「あなたを愛しているわ、でもあまり近くに寄らないでね」と言われたら、あなたは、まず間違いなく、ほんとうは愛されていない。他者を遠ざけておけば、容易に、その他者を神秘化したり、理想化したりすることができるのであり、そうしたことの効果を借りて、他者を(欺瞞的に)愛し続けることは、――繰り返せば――さして難しくはない。

 それに対して、身体的な接触が可能なまでに近くにいても、なお他者を愛することができるかどうか、ということが愛の真実性を検出する試練となろう。


――大澤真幸『逆接の民主主義』(角川oneテーマ21)より引用

2008/05/03のBlog

 「自衛隊や駐留米軍は、憲法9条に違反しており、違憲である」

 憲法を勉強した者にとってはあまりにも当然のこうした結論を現役裁判官が判決で下すことがいかに困難であるか、下の記事に書いた。これは、その追記である。

 砂川事件一審判決(これまでのところ駐留米軍に関する唯一の違憲判決である)で、安保条約に基づく駐留米軍が憲法9条に違反すると明確に述べた伊達秋雄裁判長は、「墨書した辞表」を懐に判決に臨み、判決後には東京地裁所長に辞表を提出したが、受け取りを拒否されたという。つまり、裁判官を辞める決意をしなければ、あの違憲判決を書けなかったということだ。先日の名古屋高裁で自衛隊のイラク派兵を違憲と述べた青山邦夫裁判長も「依願退官」したうえでの判決だったことは下の記事でも触れた。伊達秋雄氏のその後の経歴については、残念ながら調べられなかったが、その後、「外務省機密漏洩事件」(事件発生は1972年、上告審判決は78年に出されている)の弁護団長を務め、94年に死去されたことがわかっている。

 長沼ナイキ事件第一審判決(福島判決)は、先日の名古屋高裁判決が出るまでは、自衛隊に関する唯一の違憲判決だったが、実は長沼事件以前に、自衛隊の合憲性が争われた裁判があった。有名な恵庭事件である。北海道恵庭町で酪農業を営む野崎健之助さん一家は、自衛隊のあまりにも激しい演習に抗議するため、1962年12月、演習用の通信線を切断したところ、通常の器物損壊罪より重い自衛隊法違反で起訴された。63年9月から始まった裁判では、400名の大弁護団が組まれ、67年1月の結審まで40回の公判では自衛隊の憲法適合性が争われ、「裁かれる自衛隊」とまで言われる裁判に発展した。そのため、判決前には、司法関係者やマスコミはもちろん、政府筋においても、違憲判決が出ることは避けられないだろう、と予想されていた。ところが、判決はなぜか、一週間前に突如として書き換えられ、自衛隊の憲法判断に触れることなく、被告を無罪とする判決が言い渡された。「被告人の行為が自衛隊法121条の構成要件に該当しない以上、憲法判断は行う必要がないのみならず、行うべきではない」という“肩透かし”判決だった。判決の瞬間、「勝訴」した被告・弁護団や支援者らはがっくり肩を落とし、「敗北」した検事たちは抱き合って喜んだ、と言われている。この一週間に何があったのか、ということは、戦後憲法史、あるいは戦後判例史におけるミステリーの一つとされている。

 1969年に始まった長沼ナイキ基地訴訟は、自衛隊のミサイル基地建設のために農林大臣が保安林指定を解除した処分は違憲・違法であるとして、付近の住民が解除処分の取り消しを求めた行政訴訟であるが、同時に、判決確定までの森林伐採を禁じる仮処分を申請した。福島重雄裁判長は、まずこの仮処分を認め、保安林解除処分の執行停止を命じたところ、法務省出身の平賀健太札幌地裁所長が福島裁判長に、書簡を渡して裁判の内容に介入するという前代未聞の事件が起きた(平賀書簡事件)。憲法で保障された「裁判官の独立」を侵す行為をした平賀所長に処分がなされたのは当然のことであるが、奇怪なことに国会は、被害者である福島裁判長を訴追委員会にかけ、平賀所長は不起訴にする一方で、福島裁判長を訴追猶予にするという不可解な決定を下し、札幌高裁はこれに追い討ちをかけるように、福島裁判長に注意処分を下したのである。福島裁判長はこうした圧力にも屈することなく、本訴においても自衛隊違憲論を明確に打ち出したのであるが、それ以後、最高裁人事総局の“報復人事”によって地方の家裁をたらいまわしにされ、裁判長として判決を書くことは二度となかったという。

 平賀書簡事件以後の不可解な過程について、四半世紀前に故・渡辺洋三氏は次のように指摘している。

《このプロセスは、自衛隊違憲という、法律家にとってはごく当りまえな結論を裁判官が出そうとすれば、政府、議会、司法当局と、全国家体制があげて、これに圧力をかけるという日本の不幸な事態を象徴している。解釈改憲によって安保・自衛隊の合憲化をかちとろうとする国家権力の総意と、大学の憲法教育において自衛隊違憲論をまなんできた裁判官の法知識との間の落差は、あまりに大きい。

 この落差をうめるために、70年代にはいわゆる「司法反動化」政策が強行されることになった。すでに、自衛隊問題のみんあらず、人権規定の適用についても、右翼ジャーナリズム、財界、自民党等の改憲派は、平和と人権を守る裁判判決をとらえて、偏向判決と規定し、「裁判の危機」を訴えていた。福島裁判官問題が起きる前後の頃から、これら無責任な外野席からのキャンペーンを受ける形で、最高裁司法当局も、憲法擁護の「偏向裁判官」の思想・信条の自由を制度的に統制する基本方針を固めたように思われる。このことは、司法当局もまた、政府の解釈改憲政策を完全に支持する立場にまわったことを意味している。

 たまたま、福島裁判官をはじめ、憲法の本来の精神に忠実な判決を書く裁判官には、……青年法律家協会(青法協)の会員が多かったところから、司法当局は、裁判官統制政策の第一歩として青法協に目をつけ、その組織からの脱会を所属会員に要求した。そして、その要求に応じない裁判官には、司法行政当局の掌握する人事権をつうじて「転向」をせまった。これが、「司法反動化」といわれる現象であり、1973年に青法協会員・宮本判事が「再任拒否」という形で裁判官をやめさせられるところまで、事態はエスカレートしたのである。この基本政策は、今日にまで続いている。》(渡辺洋三『現代日本と民主主義』岩波新書より)

2008/05/01のBlog
[ 18:46 ] [ 裁判・司法 ]

 憲法9条をめぐる裁判はこれまで数多く提起されてきたが、裁判所が違憲判決を下したケースは、過去に3度しかない。一番古いのが、1959年3月30日に出された、砂川事件一審・東京地裁判決で、この法廷(伊達秋雄裁判長、清水春三裁判官、松本一郎裁判官)は、安保条約に基づく駐留米軍を憲法違反と断じた(伊達判決)。
 2度目が、1973年9月7日に出された、長沼事件の一審・札幌地裁判決で、この法廷の福島重雄裁判長は、自衛隊を違憲と判断した(福島判決)。
 3度目が、つい先日の4月17日、名古屋高裁民事3部青山邦夫裁判長、坪井宣幸裁判官、上杉英司裁判官)で出された、自衛隊のイラク派兵を違憲と述べた判決である。
【参考:9条関係の主要裁判】

 最近、これらの訴訟やそれに関連したニュースに立て続けに接し、感慨深いものがある。それにしても、なぜこれほどまでに違憲判決が少ないのか。自衛隊や駐留米軍の実態が、憲法9条の規定といかにかけ離れているかということは、例えば、前田哲男『自衛隊――変容のゆくえ』(岩波新書、2007)、愛敬浩二『改憲問題』(ちくま新書、2006)、斎藤貴男『ルポ改憲潮流』(岩波新書、2006)、田中伸尚『憲法九条の戦後史』(岩波新書、2005)、浅井基文『集団的自衛権と日本国憲法』(集英社新書、2002)などを瞥見すれば直ちに明らかとなる。そして、現に、自衛隊や駐留米軍の違憲性(9条違反)を問う訴訟はこれまでもたびたび提起されてきたにも関わらず、違憲判決が下されたのは上記の3件だけなのである。それ以外はほとんど、「統治行為」論や「訴えの利益」論によって、憲法判断自体を回避する手法が採られてきたのである。統治行為論とは、先の砂川事件一審判決の跳躍上告審で最高裁が採用した論法がその典型で、防衛政策のような「高度の政治性を有する」統治行為は「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り、司法審査権の範囲外」にある、という論法である。また、「訴えの利益」論とは、長沼事件の控訴審や上告審で採られた論法で、原告らには訴えの利益がないとして訴訟を却下する論法である。
【参考:「憲法関係推薦図書」

 裁判所がこれほどまでに9条に関する憲法判断を回避する理由は何か。それは一言で言えば、日本では三権分立が成立しておらず、最高裁が行政権の強い影響下にあるからだ。最高裁の長官は内閣が指名し(任命は天皇が行う)、その他の裁判官は内閣が任命することになっている。つまり最高裁の人事権は内閣が握っているのである。しかし、多少なりとも憲法を勉強した裁判官であれば、自衛隊や駐留米軍が「合憲」であるという判断を下すことは著しく困難である。かといって、憲法をまともに解釈して違憲判決を出すことは内閣に楯突くことになるので、「統治行為論」など苦し紛れの屁理屈をひねり出して憲法判断それ自体を回避するのである。

 ところが、砂川事件では、最高裁が行政権の影響下にあるどころか、アメリカ政府が日本政府の頭越しに直接、最高裁に圧力をかけていたことが、つい最近、国際問題研究者の新原昭治氏が入手した米政府解禁文書によって、明らかになった。それによれば、当時のマッカーサー米駐日大使(GHQのダグラス・マッカーサー司令官の甥)は、上記の伊達判決が出た翌日には藤山外相と会談し、駐留米軍を違憲と断じた伊達判決を「正すことの重要性」を強調し、日本政府が直接、最高裁に上告(跳躍上告)するよう勧告し、藤山はその旨、同日の閣議で提案すると応じている。そして、米国政府の思惑通り、最高裁への跳躍上告が決まるや否や、マッカーサー駐日大使は田中耕太郎最高裁長官と密談し、本事件の審理を最優先するとの確約を取っているのである。この時点ですでに上告棄却の結論が出ていたことは明白である。司法の独立どころか国家の独立さえ顧みない卑屈なまでの対米従属判決であった。
【参考:「プロメテウスの政治経済コラム」】
【参考:不破利晴氏の記事「“介入”される日本の司法」】
【参考:しんぶん赤旗「米軍違憲判決後の米の圧力」】
【参考:毎日新聞「砂川裁判:米大使、最高裁長官と密談」】
【参考:毎日新聞「砂川裁判:「司法の独立」どこへ」】

 しかし、最高裁のみならず、下級裁判所レベルでも、9条にまつわる違憲判決がこれまでたったの3件しか出ていないのは、一体なぜか。それは、裁判官の人事権が最高裁事務総局によって握られているため、最高裁の意向に逆らう判決を書いた裁判官は、出世コースから完全に外され、退官までドサ周りさせられることを覚悟しなければならないからである。

 実は今日の朝日新聞のオピニオン面(「私の視点」)に、長沼事件で違憲判決を書いた福島重雄元判事が「司法は堂々と憲法判断を」と題する論考を寄せている。先日の名古屋高裁の自衛隊イラク派遣違憲判決を高く評価するとともに、政府がこの判決を重く受け止め、政策内容を点検し、国民の間で議論を深めるように求めたものである。そして、憲法判断を避けるというこれまでの裁判所の姿勢が、自衛隊の実態と憲法をめぐる議論を低調にさせてきた一因であると指摘している。しかし、そのまっとうな議論のほかに私が注目したのは、福島氏の経歴である。同記事によれば、福島氏は長沼判決の後、「東京地裁手形部、福島、福井家裁に勤務し、89年に定年まで6年残して退官」とある。札幌地裁で裁判長を務めた人のその後の経歴としては、あまりにもあからさまな“報復人事”ではないだろうか。しかし、77歳になる現在も弁護士として活躍されているご様子なのは、大きな救いである。

 そういえば、先日の自衛隊イラク派遣違憲判決を出した青山邦夫元裁判官は、今年3月末日付けて「依願退官」している。裁判官にとって、9条絡みで違憲判決を出すことがいかに容易ならざることかが推測されるというものだ。

 この判決の意義については、裁判を起こした「自衛隊イラク派兵差止訴訟の会」が「声明」を出しているので、是非参照していただきたい。
【自衛隊イラク派兵差止訴訟の会の「声明」】


2008/04/30のBlog
[ 20:14 ] [ 裁判・司法 ]

先日(4月28日)、東京地裁で判決のあった渋谷区夫殺害・遺体損壊遺棄事件について、簡単にメモしておく。

この裁判では、三橋歌織被告の責任能力が焦点になっていたが、裁判所は被告人の完全責任能力を認定して、懲役15年の判決を言い渡した。おそらく多くの人は、今回の実刑判決に納得したのだろう。仮にこの裁判で、裁判所が弁護側の主張を認め、「被告人は犯行時、心神喪失状態で責任能力はなかった」と認定して無罪を言い渡していたら、マスコミは大騒ぎになっていただろう。

ところが公判では、弁護側、検察側双方の請求した鑑定人が、ともに、「被告人は犯行時、短期精神病性障害で幻覚が起きており、心神喪失だった可能性がある」という結果を報告していたのである。判決は、三橋被告が殺害直前に短期精神病性障害を発症し、意識障害を起こし、幻聴や幻覚があったと認めつつも、「責任能力に問題を生じる程度ではなかった」と結論づけたのである。

つまり、犯行時の被告人の責任能力について、裁判所は2人の鑑定人とは異なる判断をしたことになる。しかも、この判決の2日前には最高裁が、「専門家である精神科医の意見は、公正さや能力に疑いがあったり、鑑定の前提条件に問題があったりするなどの採用できない事情がない限り、十分に尊重するべきだ」という判断を示したばかりなのに、である。確かに、刑事責任能力を判定するのは裁判官の権限である。しかしながら、その判断の前提となる鑑定医の意見は十分尊重しなければならない。果たして、東京地裁は鑑定意見を尊重したと言えるだろうか。私にはそうは思えない。

その一方で、今回の2人の鑑定人の鑑定結果に疑問を持つ人は少なくないだろう。28日の朝日新聞夕刊によると、「三橋被告は、精神鑑定医が同席した2月12日の被告人質問で、自らの精神障害の症状について初めて説明した」。そして、この精神鑑定が転換点となって、三橋被告は供述内容を大きく変化させていった。「犯行当時、『もうろう状態』で責任能力が問えなかった可能性がある」とする結果が3月10日の法廷で報告されると、三橋被告は供述内容を大きく変えていったというのである。その結果、「公判の初期段階で示されていた事実関係が大きく揺らぎ、検察側にとっては予想外の展開を見せた」というのである。

なぜこうした事態が起きたのか。
同紙の記事から推測すると、どうやら来年から始まる裁判員制度を控えて、裁判所が精神鑑定の方法を大きく変更したことが影響しているようである。
従来の公判鑑定では、裁判所によって委託された鑑定人が数カ月かけて被告人との面接を繰り返し、様々な医学的・心理学的テストを行ったうえで鑑定結果を出すのが一般的であった。ところが、裁判員制度が始まると、審理は短期間に集中して行わなければならない。公判に費やせる時間は「3日間」が想定されているという。そこで、裁判員制度を控えた今回の公判では、従来のように精神鑑定のために公判を数カ月中断するのを避け、公判と並行して鑑定を進め、鑑定結果を「鑑定書」として残さず、口頭での尋問の内容そのものを鑑定結果とする方法が採用されたらしい。

果たして、このような方法で、正確な鑑定ができるのだろうか。迅速性のために正確性が犠牲にされていいものだろうか。実際、この法廷の裁判官らも、2人の鑑定人の鑑定意見に疑問を持っていただろうことは、今回の判決から明らかだ。にもかかわらず、検察側が新たな(つまり3人目の)鑑定人を申請したのを却下している。おそらくそれも、審理を「迅速に」進めるためだったのだろう。

裁判員制度が導入された場合、市民である裁判員の“常識”と専門家である鑑定人の意見が食い違った場合の鑑定意見の扱い方も問題となるが、それ以前に、裁判員制度の導入によって、裁判や鑑定の正確性・公平性・客観性が損なわれる恐れが出てきたことを、今回の裁判は示しているのではないだろうか。

2008/04/29のBlog

 同じ社説に関する批判を長々と続けるのは大人気ないかもしれないが、別に「大人気ある大人」など目指していないので、もう少し批判を続けたい。

 法律の専門家だが精神医学の素人である裁判官と、法律にも精神医学にも素人のAさん(誰でもいいが、ここに私や「あなた」を代入してもよい)とでは、精神鑑定結果に対する理解力はどちらが上だろうか?(もちろん、鑑定結果の中でよくわからない点については鑑定医に直接質問できるものとする)

 一般論として言えば、裁判官もAさんもともに専門外である分野の事項に関する理解力において異なるところはないはずだ。ところが、今日の第2社説の筆者にとっては、そうではないらしい。
 今朝の第2社説が一体何を主張したかったのかはよくわからないが、そのタイトルからして、「裁判員に分かる鑑定を」求めていることだけはわかる。誰に対して求めているのかイマイチよくわからない点もあるが、鑑定をするのは鑑定人であるから、ここは常識的に、鑑定人に対して「裁判員に分かる鑑定を」求めているのだと解釈しておこう。そうすると、単に「わかりやすい鑑定を」求めているのではなく、「裁判員に分かる」鑑定を求めているところを見ると、その真意は、「賢明な裁判官だけのときはあえてそういう注文は必要なかったが、愚かな裁判員が加わる裁判員制度の下では、バカな裁判員にも分かるような鑑定をお願いしますよ」ということだろう。

 話は少し脱線するが、私は学歴や職業のいかんを問わず、人間の判断力の大まかな平等性を信じているので、法律の素人である裁判員が裁判に加わっても、その裁判の判決を下すのに必要な法律知識や態度を教わりさえすれば(後者は若干難しいかもしれないが)、裁判官と同じくらいには公正で妥当な判断を下す能力を持っていると思っている。それゆえ、今巷で流行している、「国民は馬鹿である。それゆえ裁判員制度に反対である」式の議論に私は与(くみ)しない。裁判員制度に手放しで賛成することはできないが、この制度が一般市民に対して有するこうした「教育効果」に対する期待も少しは持っている。(もっとも、別の意味で、最近は不安の方が大きくなってきている。これについては別記事で論じる。)

 話を戻す。
 朝日新聞第2社説の筆者は「裁判員に分かりやすい鑑定を」求めていた。しかし、そもそも鑑定人の役割は「分かりやすい鑑定」を書くことだろうか。仮に、「分かりにくいが正しい鑑定」と「分かりやすいが間違った鑑定」があったとしたら、どちらを採用すべきだろうか。当然、前者だろう。しかし、(裁判官を含め)素人には、そもそも何が「正しい鑑定」なのかを判断すること自体が必ずしも容易ではない。実際に、「分かりにくい(が実は正しい)鑑定」と、「分かりやすい(が実は間違った鑑定)」の2つが法廷に提出された場合、裁判官であれ裁判員であれ、後者を採用してしまう恐れが強いのではないだろうか。

 では、何が「分かりやすい鑑定」で、何が「分かりにくい鑑定」なのだろうか? そもそも、精神鑑定が行われるのは、一般人には理解しがたい事件の裁判が多いだろう。そのようなケースで、一般人にとって「分かりにくい」のは、被告人が犯行時、「心神喪失状態」であったとして、無罪の可能性を示唆されることではないだろうか。逆に言えば、「分かりやすい鑑定」とは、一般人の常識に合った鑑定、ということになる。だとすれば、「分かりやすい鑑定」ばかりが出るようでは、そもそも鑑定など必要ない、ということにはならないだろうか? 


*朝日の社説批判はもう終わりにするが、精神鑑定と刑事責任能力の問題については、さらに考察を続けることにする。

[ 09:21 ] [ メディア ]

 今日の朝日新聞は「刑事責任能力――裁判員にわかる鑑定を」という社説を掲げている。後半部分を引用する(番号と下線は私が付けた)。

===<ここから>===
判決が鑑定結果と異なるのは納得がいかないという人もいるだろうが、(1)鑑定だけに頼れないのも事実だ
 今回の裁判は裁判員制度をにらんで、鑑定の説明の仕方に工夫をこらした。これまでの専門用語による分厚い鑑定書ではなく、法廷での口頭による説明を鑑定の結果とした。また鑑定医ごとに質問するのではなく、2人いっしょに出廷させた。
 最高裁は先週、別の事件で次のような判断を示した。「専門家である精神科医の意見は、公正さや能力に疑いがあるといった事情がない限り、十分に尊重すべきだ」
 これも裁判員制度に向けて、専門家の意見を軽視しないようクギを刺したといえる。(2)そうなると、(3)裁判員に鑑定結果を正確に理解してもらうことがますます必要になってくる
 (4)責任能力があるかどうかを鑑定するのは難しいし、それを素人に説明するのも簡単ではない
 (5)裁判所は今回の説明方法をモデルケースにして、さらにわかりやすい鑑定を心がけてもらいたい
===<ここまで>===

 この支離滅裂の文章が何を言いたいのか理解できる人がいるだろうか?
 下線部(1)「鑑定だけに頼れないのも事実だ」という断定の根拠は一体何なのか? 「鑑定だけに頼れない」なら、直観に頼ればいい、とでもいうのだろうか? 下線部(2)「そうなると」どうだというのだ? 「これまでは専門家の意見を軽視してもよかったから、鑑定結果など正確に理解しなくてもよかったが、これからは専門家の意見を軽視してはいけなくなったので、鑑定結果を正確に理解しなければいけなくなった」とでもいうのだろうか?

 しかし、より本質的な問題は、下線部(3)~(5)である。
(3)「裁判員に鑑定結果を正確に理解してもらう」の主語は一体誰だろうか? 常識的に考えれば「鑑定人」のはずだが、以下の文章を読むと疑問が湧いてくる。

次の下線部(4)を見てみよう。
「責任能力があるかどうかを鑑定するのは難しいし、それを素人に説明するのも簡単ではない。」
 (本筋から逸れるが、「裁判員に・・・理解してもらう」だの、「素人に説明する」といった言い回しからは、この社説の筆者がいかに「裁判員」になる「素人」の市民を見下しているかがよくわかる。)
「責任能力があるかどうかを鑑定する」の主語と「それを素人に説明する」の主語は一体誰なのか? 
 そもそも、「責任能力があるかどうかを鑑定する」とは一体、どういうことだろうか? 責任能力があるか否か(すなわち、刑法39条の心神喪失または心神耗弱に該当しないか否か)は法律判断であって、裁判所の専権事項である、ということは判例で確立している。裁判所がその判断を行うための資料として鑑定人が鑑定するのは、被告人の犯行時(および鑑定時)の精神状態と(犯行時の)精神能力である。鑑定人は、「責任能力があるかどうかを鑑定」したりはしないのである。

ところが、これらの文章の後には、
(5)「裁判所は今回の説明方法をモデルケースにして、さらにわかりやすい鑑定を心がけてもらいたい。」
という驚愕の一文が続いているのである。
 もう一度、主語と述語だけ引用しよう。
 「裁判所は・・・さらにわかりやすい鑑定を心がけてもらいたい」!!!

も、も、も、も、もしかして、この社説の筆者は、裁判所は鑑定結果を基に被告人の責任能力判断という法的判断を下すのであって、「鑑定」をするのは鑑定の専門家(精神鑑定なら通常、精神科医)だ、ということを知らないのだろうか!?!?!?!?
(鑑定は「わかりやす」ければそれでいいのか、といった問題はもはや問わない。)

 私は、「この社説の筆者を精神鑑定せよ」などということは言わない。しかしせめて、「読者にわかる社説を」書いて欲しい。といっても、この筆者には無理だろう。それならせめて、個々の社説の筆者名を明記してほしい。そうすれば読者としても、筆者名を見て、社説を読むか否かを判断できるというものだ。その方が朝日新聞社としても、会社全体の恥にならなくて済むだろう。



 しかし、下線部(5)にはもうひとつの問題点が潜んでいる。「今回の説明方法をモデルケースにして」という部分である。実は、今回の方法はモデルケースどころではないのである。それについては別の記事で指摘したい。

2008/04/26のBlog

放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は今月15日、光市母子殺害事件に関するテレビ報道のあり方を検証した報告書を公表した。
【放送倫理検証委員会の意見】

同委員会は、昨年5月から9月にかけて放送された8放送局、20番組、33本の放送済み録画番組(のべ7時間半)を視聴・検証した結果、それらの放送内容のほとんどが「被害者遺族の発言や心境に同調し、被告や弁護団に反発・批判する内容」であり、「悪いヤツが、悪いことをした。被害者遺族は可哀相だ」という以上のことは何も伝わってこないものであると指摘、「公正性・正確性・公平性の原則」を大きく逸脱し、「民主主義の根幹をなす、公正な裁判の実現に害を与えるだけでなく、視聴者・市民の知る権利を大きく阻害するもの」で、「視聴者に裁判制度に関するゆがんだ認識を与えかねないものだった」と厳しく批判した。

この報告書では、冷静で極めて正しい指摘がなされていると感じた。できれば全文を引用したいくらいだが、A4(40字×40行)で20枚近い報告書なので、そういうわけにもいかない。興味のある向きはできれば直接原文を参照して欲しい。


そもそも、犯罪報道の意義はどこにあるのだろうか。
犯罪事実の概要、被害者(遺族)の無念さ、加害者の「異常さ」、加害者=被告人が「死刑」になるか否か、といったことだけに終始していていいのだろうか。むしろ、なぜこのような犯罪が起こってしまったのか、加害者はどのような人間で、そうした人間がどのように形成され、どのような要因によって犯行に及んだのか、今後そうした犯罪が起こらないようにするにはどのような対策が必要なのか、被害者(遺族)の苦しみを軽減するためにはどのような法的・制度的対策が可能なのか等々、といったことを多角的に検討することこそが報道の使命なのではないだろうか。
一見、異常に見える犯罪も、「動機なき殺人」だの「心の闇」だの「わけのわからぬ犯罪」といった言葉で思考停止に陥ることなく、その原因・背景を深く追究していけば、そこには必ず、人間や社会に関する普遍的な原因や問題が見えてくるものである。そのような犯罪の原因と背景を追究し、今後の刑事政策や社会や教育のあり方等々の問題について問題提起するところにこそ、ジャーナリズムの果たすべき役割があるのである。


ところが、委員会の検証した7時間半に及ぶ放送のなかには、「ひとつとして、被告人の心理や内面の分析・解明を試みた番組はな」く、「このこと自体が異様なことである」と報告書は指摘し、次のように批判している。

<被告人の人間像の描き方は断片的であり、一面的でフラットである。いちいちの供述がどのような文脈で語られたのか、何を意味するのかについても、まったく不明のまま、被告がたんに荒唐無稽で、奇異なことばかり言っているという印象が強調されることになった。>

 さらには、被告人が精神鑑定で述べた言葉も、その片言節句を全体の文脈から切り取って紹介することにより、ことさら被告人の「異常性」だけを強調し、肝心の精神鑑定の結果がどうだったのかということは一切報じていないのである。


 次に、これらの番組の裁判に関する報道のあり方として見た場合、際立った特徴は、
1. 被告・弁護団に対する反発・批判の激しさ
2. 裁判所・検察官の存在の極端な軽視
の2点であったと指摘し、以下のように批判している。

<前者は、「第1,2審で争わなかった事実問題を、差戻控訴審になって持ち出すのはおかしい」「被害者遺族の無念の思いを踏みにじっている」「弁護団は死刑制度反対のために、この裁判を利用している」等々の反発・批判をさかんに浴びせたことを指す。多くの番組がそのことだけに終始した、という印象すらある。
 その裏返しとして、ほとんどの番組は、裁判所がどのような訴訟指揮を行い、検察官が法廷で何を主張・立証したか、第1、2審の判決にもかかわらず死刑という量刑を追い求めた理由は何なのかについて、まったくといってよいほど伝えていない。その分、被告・弁護団が荒唐無稽、奇異なことを言い、次々の鑑定人などの証人尋問を行って、あたかも法廷を勝手に動かしているようなイメージが極度の強調された。これが後者の問題である。
・・・・
 検察官は何を主張・立証しようとしたか、それに対して被告・弁護人はどう反論・反証したか。これらのポイントを整理し、事件と裁判の全体像を明らかにし、伝えることが、番組制作者の仕事だったはずである。しかし、本件放送において、検察官の主張や立証の内容を伝えたものは皆無といってよかった。
 ・・・・
 そのかわりにあったのは、被告・弁護団と被害者遺族を対立的に描く手法だった。法廷での被告の供述や弁護団の記者会見での発言映像のあいだに、被害者遺族の記者会見等における発言映像をはさみ、対比させる構成である。
 こうした手法によって、差戻控訴審が、あたかも被告・弁護団と被害者遺族との攻防であるかのような誤解を視聴者に与えているばかりか、検察官も被害者遺族と同様の主張・立証を行ったかのような印象を濃厚に醸し出している。>

 報告書は、本件放送が被告・弁護団と被害者遺族を対立的に描くことにより、「刑事事件における当事者主義について、視聴者に誤解を与える致命的な欠陥があった」と結論づけている。

 そして、本件放送がこのような扇情的で全く多様性の欠けた一面的な報道になった背景として、「真実はすでに決まっている、と高をくくった傲慢さ、あるいは軽率さ」、「被告や弁護団の主張・立証など、裁判所が認めるはずがない、という先入観」、「いちいちの事実の評価を被害者遺族の見方や言葉に任せてしまい、自分では考えない、判断しない、という怠慢やずるさ」があったと指摘している。

 さらに、そうした態度を生み出した要因として、「他局でやっているから自局でもやる、さらに輪をかけて大袈裟にやる、という「集団的過剰同調番組」ともいうべき傾向がなかっただろうか」と問いかけるのである。

 今回の報道は、まさにそうした「集団的過剰同調」をマスコミ同士が競い合うなかで、それを日本社会全体へと増幅したものであったといえよう。まさしく現在の日本マスコミが集団的過剰同調増幅装置となって、日本社会に集団的過剰同調=集団的ヒステリーを引き起こしている典型的な一事例であったと言えよう。

[ 21:24 ] [ 裁判・司法 ]
このところ、無茶苦茶な判決を立て続けに出していた最高裁第2小法廷だが(「関連記事その1」「その2」)、昨日はまともな判決を出したようだ。

 これまでの裁判では、被告人の精神鑑定を行った精神科医が「心神喪失」(責任無能力=無罪理由)の鑑定結果を出していても、精神医学の素人である裁判官が、精神鑑定を無視して、「心神耗弱」(限定責任能力=減刑理由)や「完全責任能力」を認定する判決が相次いでいたが、専門家の鑑定結果を尊重するように、という、いわば当然の判断を下したのである。以下にアサヒ・コムのニュースを貼り付ける。


=========<引用開始>==========
http://www.asahi.com/national/update/0425/TKY200804250324.html
「心神喪失」で有罪はダメ…「鑑定尊重を」最高裁初判断
2008年04月26日06時20分

 裁判で2度実施された精神鑑定の結果がいずれも刑事責任能力がない「心神喪失」だったのに、二審判決で「心神耗弱」で有罪とされた男性被告(39)の上告審で、最高裁第二小法廷(古田佑紀裁判長)は25日、「鑑定結果は信用でき、心神耗弱と認めるのは困難」として、二審判決を破棄し、さらに審理を尽くすため東京高裁に差し戻す判決を言い渡した。

 第二小法廷は判決の中で「専門家である精神科医の意見は、公正さや能力に疑いがあったり、鑑定の前提条件に問題があったりするなどの採用できない事情がない限り、十分に尊重するべきだ」とする初めての判断を示した。

 東京・渋谷のマンションで夫を殺害し、遺体をバラバラにして遺棄したとして殺人の罪などに問われている三橋歌織被告(33)の裁判でも、2人の医師による被告の精神鑑定の結果は、ともに「心神喪失」の意見だった。28日に東京地裁で判決が言い渡される予定で、判断が注目される。

 この日の裁判は、03年に東京都北区で、かつて勤務していた塗装店の経営者を殴って死なせたとして、男性が傷害致死罪に問われ、犯行当時、統合失調症による幻聴などにどの程度支配されていたかが争点となっていた。

 一審・東京地裁判決は、「心神喪失」とした鑑定結果に基づき無罪。しかし、二審は「犯行前後は合理的な行動をとっていた」として、鑑定結果を採用せず、「心神耗弱」で懲役3年としていた。

 この日の判決で第二小法廷は、被告の責任能力の有無を判断するのは、あくまでも裁判所だとする従来の判例を踏襲した上で、一審と二審で実施された精神鑑定の中身を検討。「鑑定人としての資質を十分備えており、結論を導く過程にも誤りはない。いずれも基本的に信用できる」と結論づけた。

=========<引用終わり>=========


 ただし、多くの人がすでに気づいているように、精神障害により心身喪失や心神耗弱の状態で犯罪を犯した人に対する刑や処遇のあり方については、非常に大きな問題が含まれている。

 実は私もこのところ、刑法39条(心神喪失による無罪、心神耗弱による減刑を定めた条文)にまつわる問題や触法精神障害者の問題に関心を持ち、佐藤直樹『刑法39条はもういらない』(青弓社)、呉智英・佐藤幹夫編『刑法39条は削除せよ!是か非か』(洋泉社)、福島章『精神鑑定』(講談社)、芹沢一也『狂気と犯罪』(講談社)、中島直『犯罪と司法精神医学』(批評社)、小田晋他『刑法39条』(新書館)などをぼちぼち読み進めているが、今のところまだ結論は出ていない。いつか、この問題についても、自分なりの考えをまとめたいと思っている。

2008/04/24のBlog
[ 07:43 ] [ メディア ]
warmgunさんに書かれる前に…(笑)


だが時に、社史に刻まれた苦楽や功罪に無頓着で、ついでに職業倫理もお構いなしという馬鹿者が、品位と地位をけ落とす。

これは、野村証券の元社員がインサイダー取引で数千万円の不正利益を得ていた事件に触れた今朝の天声人語の末尾である。

天声人語氏の「品位」については、もうたいていのことには驚かなくなっている私であるが、驚くべきことに(笑)、なんと今朝の天声人語は、この事件を「中国人」という外国人の「馬鹿者」が野村証券という由緒正しき立派な企業の「品位と地位をけ落とした」という内容なのだ! 一体、野村証券はこの事件の「被害者」なのか! 問題を起こした元社員の「国籍」が犯行と関係あるというのか! 仮にこの容疑者が大阪出身の日本人だったら、ことさらに「大阪出身者」などということを強調するのか! 野村証券という巨大企業におべんちゃらを使い、中国人をはじめとする在日外国人に対するいわれなき差別と偏見を助長する天声人語の「品位」を見よ! 

「品位」や「品格」などという言葉をことさら使う人間に「品位」や「品格」があったためしはない、という私の仮説がますます信憑性を帯びてきた。