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2008/05/12のBlog
[ 22:14 ]
[ どうでもいい話 ]
某月某日
人はときとして、己が何のために生きているのか、何のために生まれてきたのかという深い懐疑に取り憑かれることがある。自分の存在理由(レゾン・デートル=raison d’être)に対する疑いである。そもそも人が生きる意味は何なのか、人間の生に理由はあるのか? このような哲学的・宗教的な問いに取り憑かれると、容易なことでは答えは見つからない。
しかし、このような問いに悩むのは、何も人間だけではない。例えば、ここにも今、そうした懐疑に悩む者がいる。つけ麺の麺である。
ぼくは一体、何のために生まれてきたのか? 普通、ラーメンの麺というものは、スープと一緒になるためにこの世に生を享けるものである。すなわち、ラーメンの麺は、ラーメンのスープと合体することによって互いに愛を交わし一心同体になる、という極めて明確な人生の目的というものを持っているのである。ラーメンの麺とスープは、互いが互いを求め合い、愛し合うことを人生の究極の目的、レゾン・デートルとしているのである。そして、ラーメンを食する人間が、しばしばそこに麻薬のような陶酔を感じるのは、ひとえに麺とスープが合体するときのエクスタシーに原因があるのである。
ああ、それなのになぜ、ぼくはラーメンではなく、つけ麺として生涯を終えなければならないのだろうか。なぜぼくは、あの暖かいラーメンのスープと一緒になることが許されないのだろうか。よりにもよって、なぜあのツンとすましたつけ麺のスープ(つけだれ)なんぞにつからなければならないのか。しかも、あのつけだれの野郎ときたら、熱い情熱もなければ研ぎ澄まされた冷たさもなく、だらしないぬるま湯で、大きな丼じゃなくてちっちゃなお椀にだらーっと溜まっていて、いかにも、「あんまり一遍に沢山入るなよ」と言わんばかりの態度で、入った途端に、すぐに出て行けとばかりに人間の口に吸い込まれてしまうのである。しかもぼくらを食べる人間が、ラーメンを食べるときのように、恍惚とした表情でうっとり食べてくれれば、ぼくらとしても本望なのだが、ラーメン通といわれる人に限って、つけ麺を食べるときには、「あ~あ~、なんでこんな店に入っちまったのかなぁ。全くつけ麺なんて邪道だ、邪道だ」などとぶつくさ文句をつぶやきつつ、いかにも不味そうに飲み込まれるなんて、一体ぼくの人生は何だったんだ! 一体ぼくは何のために生まれてきたのだ! ラーメンになる麺の人生と比べて、あまりにも不公平じゃないか! あまりにも不条理ではないか!!
今日もこうした我が身の不幸を嘆く、つけ麺の麺の怨嗟の声がつけ麺屋には満ちているのである。(つづく)
[ 18:35 ]
[ 社会 ]
後期高齢者医療制度が施行された4月1日以降、この制度の問題点がマスコミで報道されない日はない、といっても過言ではない。ところが、3月31日までマスコミは、この制度の問題点をほとんどと言っていいほど報じなかった。この制度は、小泉政権末期の2006年6月に成立した8つの医療改悪関連法に基づくものであるが、それらの法律が成立してから施行されるまでの1年半の間、マスコミはその問題点をほとんど報じなかったのである。
私がこの制度の問題点に気づいたのは半年ほど前のことである。私のブログをときおり訪問して下さる「居酒屋」さんブログのトップにリンクしてある共産党のアピールによって、この問題を知ったのである。その後、自分でもこの制度について調べようと、何度かネット検索してみたのだが、役に立つ情報といえば、共産党の「赤旗」の記事か、「キャリアブレイン・ニュース」のほぼ2つくらいしかなかった(ちなみに、政党のHPはすべて調べたが、3月以前においてこの問題を大きく取り上げていたのは共産党だけだった)。それらの記事を読むだけでも、この制度のひどさは十二分にわかったが、自分で記事を書くためには、やや情報源が限られていたために、3月末まで書かなかったのである。しかし、これらのニュースを見ていても、多くの医療関係者や高齢者、地方議会の多く(全国の地方議会の約3割)がこの新制度に反対する声明や意見書を採択していたのだが、一般マスコミはそうした動きを黙殺していた。さすがに私も、この問題に全く触れないまま4月1日を迎えてしまうのはまずいと思い、3月31日、沖縄タイムスの社説を引用する形で、この問題を記事にした(関連記事)。
ところが、4月1日に施行された途端、予想されていた通りの問題が噴出し始めるのだが、その時点でようやくマスコミは初めて気づいたかのように、この問題を報じ始めた。4月30日の東京新聞によれば、同月19日に東京新聞が開催した「読者との対話の日」の集いにおいて、「なぜ今頃になって騒ぐのか」と反応の遅さを批判する声が続出したそうだが、それに対して、五十住和樹社会部デスクは「制度の仕組みが複雑で担当記者にも難解な面もある」と答えたそうだ。
ふざけるのもほどほどにしてほしい。赤旗の記事を読むだけでも問題の所在はほぼわかるし、国会では共産党の議員が頻繁にこの問題を取り上げて政府・厚労省の担当者を追究していた。そういうことを全く報道せずに、政府・自民党の御用記事ばかり書いていたのは君たちではないか。共産党の言うことが信用できないのであれば、自分たちで取材すればいいのだし、まさにそれが君たちの仕事ではないのか。「仕組みが複雑」で理解できないのならば、今すぐ記者など辞めた方がいい。
しかし、後期高齢者医療制度の本質については、厚労省の担当者自らがこのうえもなく明瞭に述べている。3月31日まで同省の高齢者医療制度施行準備室室長補佐を務めていた土佐和男氏は、1月18日、石川県金沢市で開催された「後期高齢者医療制度の創設のねらい」と題した講演で次のように語った。
「医療費が際限なく上がっていく痛みを自分の感覚で感じ取っていただくことにした」と。(「キャリアブレイン」2月6日の記事による)
同氏はまた、この制度の解説書である『高齢者の医療の確保に関する法律の解説』(法研)の中で、「年齢別に見ると、一番医療費がかかっているのが後期高齢者」なので、「この部分の医療費を適正化していかなければならない」と強調したうえ、特に終末期医療の問題では、「後期高齢者が亡くなりそうになり、家族が一時間でも、一分でも生かしてほしいと要望して、いろいろな治療がされる。それがかさむと500万円とか1000万円の金額になってしまう」と、延命を願う家族感情が医療費膨張の原因であるとして、それを「抑制する仕組みを検討するのが終末期医療の評価の問題である」と力説しており、高齢者の「延命治療」を制限することが同制度の狙いであることを明言したのである。(「赤旗」3月21日の記事による)
2008/05/11のBlog
[ 22:47 ]
[ 罪と罰 ]
<カントは、『単なる理性の限界内の宗教』の中で、人がしばしば奇妙な倫理的推論を行うと論じている。人は、非常に性悪な人間に出会ったときに、その人間は、ほとんど生まれてからこのかた、先天的に悪いのであって、その悪さは「死ななければ直らない(変わりようがない)」といった印象をもつ。つまり彼の「悪さ」は彼の本性の内に刻み込まれており、彼は、ただその本性に従っているだけだ、という印象をもつのだ。
だが、重大なことは――カントが注目するには――、こうした印象に抗して、われわれは、なお先天的に悪いその人物をまさに「悪い」と見なすということ、つまり、彼が倫理的に誤っていると考える、ということである。それは、彼がその生まれつき悪い性格をもっているということに関して彼に責任がある、とわれわれが推論する、ということである。
しかし、こうした推論は矛盾していないだろうか? 責任を問うことができるのは、選択することができること――他でもありえたと見なしうること――だけだからである。>
(大澤真幸『逆接の民主主義』より引用)
確かにわれわれ「世間」の人々は、常識では考えられないような凶悪な事件を見聞すると、「犯人は狂っている。こういう人間はきっと生まれたときからの異常者であり、それゆえ一生治ることはない」などと簡単に結論を下し、「矯正可能性のない人間を刑務所に閉じ込めておいても無駄だから、極刑に処すべきだ」などというようなことを言ったりする。これはパラドックスであると同時に、パラドックスでない。
近代刑法においては、ある犯罪実行者の責任を問いうるのは、その人間を非難しうるという非難可能性にある場合であると考えられている。そして、非難可能であると言えるためには、その人間が犯行時、他の行為を選択することができたにも関わらず、自らの意思でその犯行を実行したという条件が必要とされる。逆に言えば、他行為可能性がなかった場合は、非難可能性もなくなるがゆえに、犯罪実行者の責任を問うことはできないとされる。例えば、催眠術をかけられた人が、催眠術に従って犯罪を行ったような場合には、他行為可能性がなかったと考えられるから、刑法上の責任を問うことはできない。むしろ、睡眠術をかけて、他人を道具として利用することによって犯罪を発生させたものが、犯罪の実行者としての責任を問われるのである。これが近代刑法の原則である。だとするならば、仮に生まれつきの悪人がいるとして、その悪人が悪事を働くときには、悪事を思いとどまる可能性がなかったと仮定すれば、その行為には他行為可能性がなかったことになり、その悪人を非難することはできなくなるのではないか。あるいは、他行為可能性がゼロではないとしても、通常人と比べて著しく低いと仮定すれば、その分だけ非難可能性は低くなり、それに伴い、責任も低下するのではないか。少なくとも近代刑法の考え方からすれば、そういうことになる。にもかかわらず、先天的な「悪人」ゆえに、なお一層強い刑罰を要求するのは矛盾なのではないか。
しかし、これは矛盾ではない、と解釈する方法がひとつ存在する。それは、先天的な「悪人」を人間ではない、と見なすことである。そうすれば矛盾は一挙に「解決」する。近代刑法思想の背景にあるのは、人間は自由意思を持った理性的存在者である、という理性的人間像である。そして、刑法が対象とするのはもちろん人間だけである。仮に人間にとって極めて危険な害悪しかもたらさないと思われる(保護動物ではない)野生の動物や、宇宙人を殺したとしても、刑罰の対象とはならないであろう。同じように、先天的な「悪人」はもはや人間ではない、と見なしてしまえば、極刑を求めることに何らの矛盾を感じなくても済むであろう。言い換えれば、先天的「悪人」に対して、「先天的悪人」性ゆえに極刑を求めることが矛盾でなくなるのは、彼(女)をもはや人間とは見なさない場合だけなのである。
しかし、果たして「先天的悪人」などいるのだろうか。言うまでもなく、これ自体が大問題である。
[ 22:02 ]
[ 罪と罰 ]
――見知らぬ他人を襲うのは?
無差別殺人。
――無差別殺人をする理由は?
特にない。
――最後に、池田小学校襲撃になったのはなぜか?
そこらの、アホな雑民の子どもを殺すより、家がいい、頭が良いのを殺した方が、自分で満足を得られる。
――なぜ、できる子どもを殺すのが君の満足になるのか?
(答えない)
――もともとC子さんに怨恨の念を抱いていたのではなかったか? 小学校を思いつくのは突飛ではないか?
分かります。いろんな理由があるけど、自分みたいなアホな、ボロボロで腐りきった人間に、恵まれた家の子が、こんなおっさんに殺されるという不条理を教えてやりたかった。
以上は、福島章氏が『犯罪精神医学入門』(中公新書)の中で紹介している、池田小学校児童殺傷事件の宅間守被告に対する法廷での一問一答の一部である。
宅間被告は犯行前の数週間の間に、自殺未遂を繰り返したり、精神科病院に電話をかけて、ケースワーカーに「死にたいが死ねない」と訴えたり、父親に電話をして助けを求めたりした挙句、「車で人でもはねて、過失致死で刑務所に緊急避難しようか」などと考えたことも供述している。そして、池田小学校での犯行を考えたのは、犯行前日の夕方から夜にかけてだったと述べている。
昨日の朝日新聞は「「死刑願望」凶行多発」と題する記事を社会面に載せている。そのリード部分は次のように書いている。
《「死刑になりたい」。こんな動機で、見知らぬ人を襲う容疑者が相次いでいる。茨城県で3月に男が駅周辺で8人を殺傷した事件、鹿児島県で4月に自衛官がタクシー運転手を殺した事件……。犯罪を抑える狙いの死刑制度が、逆に凶行を誘発していることになるが、それはなぜか。識者の見方も割れる。》
無差別殺人犯が逮捕され、警察が、「被疑者は死刑になりたくて犯行を起こしたと言っている」と発表すると、記者はそのまま記事にするのだろう。しかし、言うまでもないが、「死刑になりたい」ということを唯一の理由として凶悪事件を起こす人間はまずいないだろう。過去の無差別殺人事件から言えることは、この種の犯罪を犯す人間はたいてい、人生に深く絶望しており、強い自殺願望を抱いているということだ。と同時に、社会に対して強いルサンチマン(恨み)を抱いており、他人(知人の場合もあれば、無関係な第三者の場合もある)を死出の道連れにしてやろうという理不尽な動機から犯行に至るケースが多いということである。
上に引用した宅間被告の最後の科白は、全く理不尽そのものであり、言うまでもなく、こうした発言に一片の正当性も見出せないが、にもかかわらず、これは無差別殺人犯の動機の所在を語るものとして、注目すべき発言であろう。
死刑制度の存在が、一定の場合に凶悪犯罪を誘発する要因になりうることは事実であるが、だからといって、それだけを理由に死刑廃止を訴えるのも短絡的である。しかしながら、死刑制度の存在が、社会全体の復讐感情を高め、「殺人」に対する感覚を麻痺させる効果がある、ということを指摘する社会学的研究も存在する。
2008/05/07のBlog
[ 20:13 ]
[ どうでもいい話 ]
さて、めでたく全世界汗かき連盟(全汗連=CPF)も発足したことであるので、今日は、「発汗」の定義について考えてみよう。
それにはまず、かのエジソンの金言を参照しよう。エジソン曰く、
「天才とは、99%の発汗(perspiration)と1%のひらめき(inspiration)である」
ここから、「発汗とは天才成分の99%である。ゆえに発汗者はほぼ天才である」と推論する者もいるかもしれない。
しかしこれは誤りである。
汗が天才へと結晶するためには、ひらめきという触媒が必要なのである。
汗だけでは、たとえ何万トンの汗を集めようとも、所詮、ただの汗にすぎないのである。
そこで、天才をG、発汗をP、ひらめきをI、として、上記の金言を数式化すると、
G=0.99P+0.01I
という方程式が得られる。
両辺を100倍すると、
100G=99P+I
となる。
ゆえに、99P=100G-I
よって、P=(100G-I)÷99
なのである。
すなわち、
「発汗とは、『天才の100倍マイナスひらめき』を99で除した商である」
という定義が導かれるのである。
[ 20:08 ]
[ どうでもいい話 ]
(すでにどこかでこの記事を見た3~4人の人はスルーしてね♪)
ぶらぶら連休(俗称「ゴールデンウィーク」)が終わった途端に、この暑さである。
我ら発汗者たちにとっては、下着もワイシャツもベトベトにしてしまう不快極まりない汗との戦いに身も心も疲れ果ててしまう季節の始まりなのである。
そこで我らは呼びかける。
立て、万国の発汗者!
いざ、ともに集い結成しよう、「全世界汗かき連盟」を!
英文名は “The Cosmopolitan Perspiration Federation” 、略してCPFと名づけることにする。日本語の略称は「全汗連」である。規約は以下の通りである。
【全世界汗かき連盟規約】
第1条 入会・退会は個人の完全自由とする。
第2条 活動内容も個人の完全自由とする。
第3条 活動目標も個人の完全自由とする。
以上である。
<私の活動目標>
・発汗者の基本的人権を保障するため、裸足にサンダル、短パン、ランニングシャツといった超軽装での通勤・通学の権利を認めさせる
ぶらぶら連休(俗称「ゴールデンウィーク」)が終わった途端に、この暑さである。
我ら発汗者たちにとっては、下着もワイシャツもベトベトにしてしまう不快極まりない汗との戦いに身も心も疲れ果ててしまう季節の始まりなのである。
そこで我らは呼びかける。
立て、万国の発汗者!
いざ、ともに集い結成しよう、「全世界汗かき連盟」を!
英文名は “The Cosmopolitan Perspiration Federation” 、略してCPFと名づけることにする。日本語の略称は「全汗連」である。規約は以下の通りである。
【全世界汗かき連盟規約】
第1条 入会・退会は個人の完全自由とする。
第2条 活動内容も個人の完全自由とする。
第3条 活動目標も個人の完全自由とする。
以上である。
<私の活動目標>
・発汗者の基本的人権を保障するため、裸足にサンダル、短パン、ランニングシャツといった超軽装での通勤・通学の権利を認めさせる
2008/05/06のBlog
[ 16:55 ]
[ 罪と罰 ]
死刑存置論=死刑賛成派の“論理”は、管見の範囲では、どれもこれも金太郎飴のように似通っていて、極めて単純で、感情論に基づくものがほとんどである。以下にその構図を示すので、もしも「わたしの死刑存置論は、こんな単純で感情的なものではない。もっと論理的な理由がある」と仰る方がいれば、是非ともご教示願いたい。
(1)一面的・一方的な「感情移入」
死刑存置論の第1の特徴は、一面的・一方的な「感情移入」である。すなわち、被害者または被害者遺族もしくはその両者(以下、簡略化のため「被害者(遺族)」と記す)にのみ一方的に感情移入したつもりになり、加害者に感情移入することは(たとえ思考実験としてさえも)決してないどころか、加害者を「鬼畜」や「人でなし」として悪魔化し、自分とは何の共通点もない絶対的な他者とみなす。なぜ加害者が犯行に至ったのか、どうして加害者のような人間が形成されるに至ったのか、というようなことはおよそ考えようともしないどころか、そのような思考をめぐらすこと自体が、被害者の冒涜である、などと非難する人も少なくない。
そして、死刑存置論者は、「自分がもしも被害者(遺族)の立場だったら」と想像することはあるが、「自分がもしも加害者か加害者の家族だったら」と想像することはほとんどない。もっとも、なかには、「自分がもしも加害者の家族だったら、加害者の死刑を求める」などと発言する人もいるが、おそらくそれは、実際に自分がそのような立場になる可能性を真剣に熟慮したうえでの発言というよりは、そのような可能性はありえないと高をくくったうえでの発言である可能性の方が高いだろう。
死刑存置論者の感情移入や想像力は、ほとんどの場合、このように一面的・一方的なものであるにも関わらず、通常彼(女)らは、自分たちがいかに想像力が豊かであるかを誇り、加害者の事情を考慮しようとする(のはつまり、犯罪の原因を突き止め、将来の犯罪抑止に役立てようとするからでもある)人々を、被害者の気持ちがわからない想像力の欠如した人非人であるかの如く非難することさえ稀ではない。
(2)復讐としての刑罰観
死刑存置論の第2の特徴は、刑罰の目的を復讐として捉えていることである。国家の刑罰権力の目的は、法秩序の維持(その一環として、法の否定である犯罪を犯した者に対して、犯罪を否定する刑罰を科すことにより法秩序の回復を図ることが含まれる)、犯罪の予防、犯罪者の矯正などであって、被害者(遺族)の復讐心を満足させることは含まれていない。「復讐心」などという、個人によって、また同じ個人でも時間の経過によって千差万別な感情に刑罰権を依拠させるならば、八つ裂きの刑でも火あぶりの刑でも、およそ「何でもあり」になってしまうだろう。
しかし、刑罰によって、被害者(遺族)の感情を終局的に慰撫することは不可能だろう。日本では、これまで被害者(遺族)に対する救済制度がほとんど顧みられることがなく、無権利状態の中に放置されてきた。そのことが加害者に対する厳罰要求の正当化理由として使われてきたのだが、加害者に厳罰を科したからといって、被害者(遺族)が真に救済されるわけではない。被害者(遺族)に対する救済制度の構築は、加害者への刑罰とは別に、それ自体として追求しなければならない。加害者に対する適正な刑罰は、被害者(遺族)への救済とは別個に考察されなければならないのである。
(3)自由意思論に基づく犯罪観
死刑存置論の第3の特徴は、犯罪原因を加害者個人にのみ求める考え方である。少年犯罪は別として(実は、少年犯罪についても同様の傾向が見られるが、それについてはここでは論じない)、いやしくも成人の犯行である限り、その犯行は、完全に彼(女)個人の自由意思に基づくものであり、したがって、その責任は全面的に彼(女)個人に内属し、完全なる自己責任を追及しうる、という考え方である。言い換えれば、加害者の置かれた生育環境や人間関係、あるいは彼の各種病歴等が犯行に駆り立てた原因かもしれない、などという考え方を受け容れない、という立場である。
刑法学の歴史においては、古典学派と呼ばれる旧派と近代学派と呼ばれる新派との間で長く熾烈な論争が続けられてきた。両派を分かつ論点の一つが、加害者の人間像に関する理解の相違であった。カントに代表される旧派によれば、人間とは自由意思を持つ理性的存在者であるから、彼(女)が自由に為した行為の全責任は彼(女)個人に帰属させることができるとされる。それに対して、ベッカリーア以降の新派によれば、人間の行為は生育環境や社会的環境によって規定されているのであるから、刑事政策的にはそのような環境を改善するとともに、刑罰の目的も応報よりも犯罪者の矯正・教育によって、二度と再び犯罪を犯さないような人間に改善することに求められるようになる。要するに、犯罪の原因を、犯罪者個人の自由意思に求めるか、犯罪者の置かれた社会的環境等の社会的原因に求めるか、という対立がここには見られるのである。
私個人の意見としては、これら両派の対立は二律背反・二者択一的に捉えられるべきではなく、双方ともに一面の真理を有していると思う。つまり、ほとんどすべての犯罪は、犯罪者の自由意思に基づく側面と、犯罪者の置かれた社会的原因に求められる部分を含有していると思う。もちろん、個別の事件において、両者の要因がどの程度の比重を占めているかは、個別の事例に即して厳密に検証されるべきであり、はじめから、社会的原因を考察することそれ自体を排除するような議論は慎むべきであろう。
(4)「世間」の多数派感情への居直り
死刑存置論の「議論」の構造分析としては、以上に尽きていると思う。しかしながら、死刑存置論の「論じ方」は、それ自体として大きな特徴を有している。それは、「世間」の多数派感情への居直りとも言うべき議論の仕方である。それは、およそ普遍的論理や理性的な議論の必要性というものを認めず(というより、そうした論理や議論を排除しつつ)、自らの直感的な感情をモロにぶつけるだけの「議論」である。そのような感情論が支えにしているものは、世間の多数派もまた、自分の直感的感情を支持しているという感覚である。つまり、死刑存置論者の多数者性に居直って、自らの意見とは異なる意見を表明するものを恫喝するような言説なのである。そうした多数者性への居直りは、もはやいかなる暴言でも許される、という傲慢さをも生み出している。最近、そのような言説の典型例を目にしたので、少し批判しておこうかとも思ったが、あまりにも支離滅裂で低レベルの「議論」なので、お相手するのは(とりあえず)やめておく。
【追記】
しかし、どうしてこのような(2ちゃんねる的な)言論が跋扈するのかという社会的背景を考えるならば、日本社会の持つ特徴と大いに関係がありそうである。歴史学者の故・阿部謹也や刑法学者の佐藤直樹、精神医学者の木村敏らがつとに指摘しているように、日本には西洋流の社会や個人が存在せず、その代わりに存在しているのは、「世間」である。そこにおいては、主体性を持った個人は存在せず、大事なことは「場の空気」を読むことである。「場の空気」に合わない者、「場の空気」を乱す者は、厄介者として排除されることになる。したがって、そこにおいては、何よりも「場の空気」をいち早く読み、「場の空気」と一体化することである。そこでは論理もヘチマもないので、「場の空気」と一体化しさえすれば、もはやいかなる暴論でも許される。というよりも、過激な暴論であればあるほど、「場の空気」によって歓迎されるので、「場の力学」、すなわち集団的過剰同調促進機制によって、ますます過激化が進行することになる。
BPOによって批判されたマスコミの報道姿勢も、死刑存置論者の多数派感情への居直りとしか言いようのない放埓な感情論も、すべてこうした「世間」の“論理”である「場の力学」にその原因が求められるだろう。
【再追記(5/7)】
死刑存置論について重要な論点を2つ書き落としていたことを思い出した。
ひとつは、「同害報復(タリオ)としての刑罰観」であり、もうひとつが「死刑の犯罪抑止効果論」である。前者は、「人の命を奪った者は、自分の命で罪を贖うべし」という考え方で、非常に素朴な考えだけに強い訴求力を持っているように見える。後者については、説明するまでもないと思うが、死刑制度があることによって凶悪犯罪がある程度まで抑止されているのであるから、死刑制度がなくなれば凶悪犯罪が増える、という議論である。
これら2つの議論についてもきっちり批判しておかなければならないと思っているが、今はあまり堅い文章を書きたくないので、いずれ気が向いたら、改訂版を書くつもりである。
2008/05/05のBlog
[ 22:18 ]
[ 言葉 ]
しばしば、人は身近な他者を愛する傾向があり、遠くの他者を愛することは難しいかのように言われるが、必ずしもそうではない。他者に近づくということは、他者の、ときに嫌悪感すらもよおしかねない――直接に身体的な――攻撃性や俗悪性を目の当たりにするということである。そうした試練に耐えて、その他者を愛し続けることは、困難なことだ。
逆に言えば、他者を、適当な距離をおいたまま愛そうとすることは、その愛が本物ではないことをこそ含意しているだろう。もし誰かに、「あなたを愛しているわ、でもあまり近くに寄らないでね」と言われたら、あなたは、まず間違いなく、ほんとうは愛されていない。他者を遠ざけておけば、容易に、その他者を神秘化したり、理想化したりすることができるのであり、そうしたことの効果を借りて、他者を(欺瞞的に)愛し続けることは、――繰り返せば――さして難しくはない。
それに対して、身体的な接触が可能なまでに近くにいても、なお他者を愛することができるかどうか、ということが愛の真実性を検出する試練となろう。
――大澤真幸『逆接の民主主義』(角川oneテーマ21)より引用
2008/05/03のBlog
[ 19:20 ]
[ 裁判・司法 ]
「自衛隊や駐留米軍は、憲法9条に違反しており、違憲である」
憲法を勉強した者にとってはあまりにも当然のこうした結論を現役裁判官が判決で下すことがいかに困難であるか、下の記事に書いた。これは、その追記である。
砂川事件一審判決(これまでのところ駐留米軍に関する唯一の違憲判決である)で、安保条約に基づく駐留米軍が憲法9条に違反すると明確に述べた伊達秋雄裁判長は、「墨書した辞表」を懐に判決に臨み、判決後には東京地裁所長に辞表を提出したが、受け取りを拒否されたという。つまり、裁判官を辞める決意をしなければ、あの違憲判決を書けなかったということだ。先日の名古屋高裁で自衛隊のイラク派兵を違憲と述べた青山邦夫裁判長も「依願退官」したうえでの判決だったことは下の記事でも触れた。伊達秋雄氏のその後の経歴については、残念ながら調べられなかったが、その後、「外務省機密漏洩事件」(事件発生は1972年、上告審判決は78年に出されている)の弁護団長を務め、94年に死去されたことがわかっている。
長沼ナイキ事件第一審判決(福島判決)は、先日の名古屋高裁判決が出るまでは、自衛隊に関する唯一の違憲判決だったが、実は長沼事件以前に、自衛隊の合憲性が争われた裁判があった。有名な恵庭事件である。北海道恵庭町で酪農業を営む野崎健之助さん一家は、自衛隊のあまりにも激しい演習に抗議するため、1962年12月、演習用の通信線を切断したところ、通常の器物損壊罪より重い自衛隊法違反で起訴された。63年9月から始まった裁判では、400名の大弁護団が組まれ、67年1月の結審まで40回の公判では自衛隊の憲法適合性が争われ、「裁かれる自衛隊」とまで言われる裁判に発展した。そのため、判決前には、司法関係者やマスコミはもちろん、政府筋においても、違憲判決が出ることは避けられないだろう、と予想されていた。ところが、判決はなぜか、一週間前に突如として書き換えられ、自衛隊の憲法判断に触れることなく、被告を無罪とする判決が言い渡された。「被告人の行為が自衛隊法121条の構成要件に該当しない以上、憲法判断は行う必要がないのみならず、行うべきではない」という“肩透かし”判決だった。判決の瞬間、「勝訴」した被告・弁護団や支援者らはがっくり肩を落とし、「敗北」した検事たちは抱き合って喜んだ、と言われている。この一週間に何があったのか、ということは、戦後憲法史、あるいは戦後判例史におけるミステリーの一つとされている。
1969年に始まった長沼ナイキ基地訴訟は、自衛隊のミサイル基地建設のために農林大臣が保安林指定を解除した処分は違憲・違法であるとして、付近の住民が解除処分の取り消しを求めた行政訴訟であるが、同時に、判決確定までの森林伐採を禁じる仮処分を申請した。福島重雄裁判長は、まずこの仮処分を認め、保安林解除処分の執行停止を命じたところ、法務省出身の平賀健太札幌地裁所長が福島裁判長に、書簡を渡して裁判の内容に介入するという前代未聞の事件が起きた(平賀書簡事件)。憲法で保障された「裁判官の独立」を侵す行為をした平賀所長に処分がなされたのは当然のことであるが、奇怪なことに国会は、被害者である福島裁判長を訴追委員会にかけ、平賀所長は不起訴にする一方で、福島裁判長を訴追猶予にするという不可解な決定を下し、札幌高裁はこれに追い討ちをかけるように、福島裁判長に注意処分を下したのである。福島裁判長はこうした圧力にも屈することなく、本訴においても自衛隊違憲論を明確に打ち出したのであるが、それ以後、最高裁人事総局の“報復人事”によって地方の家裁をたらいまわしにされ、裁判長として判決を書くことは二度となかったという。
平賀書簡事件以後の不可解な過程について、四半世紀前に故・渡辺洋三氏は次のように指摘している。
《このプロセスは、自衛隊違憲という、法律家にとってはごく当りまえな結論を裁判官が出そうとすれば、政府、議会、司法当局と、全国家体制があげて、これに圧力をかけるという日本の不幸な事態を象徴している。解釈改憲によって安保・自衛隊の合憲化をかちとろうとする国家権力の総意と、大学の憲法教育において自衛隊違憲論をまなんできた裁判官の法知識との間の落差は、あまりに大きい。
この落差をうめるために、70年代にはいわゆる「司法反動化」政策が強行されることになった。すでに、自衛隊問題のみんあらず、人権規定の適用についても、右翼ジャーナリズム、財界、自民党等の改憲派は、平和と人権を守る裁判判決をとらえて、偏向判決と規定し、「裁判の危機」を訴えていた。福島裁判官問題が起きる前後の頃から、これら無責任な外野席からのキャンペーンを受ける形で、最高裁司法当局も、憲法擁護の「偏向裁判官」の思想・信条の自由を制度的に統制する基本方針を固めたように思われる。このことは、司法当局もまた、政府の解釈改憲政策を完全に支持する立場にまわったことを意味している。
たまたま、福島裁判官をはじめ、憲法の本来の精神に忠実な判決を書く裁判官には、……青年法律家協会(青法協)の会員が多かったところから、司法当局は、裁判官統制政策の第一歩として青法協に目をつけ、その組織からの脱会を所属会員に要求した。そして、その要求に応じない裁判官には、司法行政当局の掌握する人事権をつうじて「転向」をせまった。これが、「司法反動化」といわれる現象であり、1973年に青法協会員・宮本判事が「再任拒否」という形で裁判官をやめさせられるところまで、事態はエスカレートしたのである。この基本政策は、今日にまで続いている。》(渡辺洋三『現代日本と民主主義』岩波新書より)
2008/05/01のBlog
[ 18:46 ]
[ 裁判・司法 ]
憲法9条をめぐる裁判はこれまで数多く提起されてきたが、裁判所が違憲判決を下したケースは、過去に3度しかない。一番古いのが、1959年3月30日に出された、砂川事件の一審・東京地裁判決で、この法廷(伊達秋雄裁判長、清水春三裁判官、松本一郎裁判官)は、安保条約に基づく駐留米軍を憲法違反と断じた(伊達判決)。
2度目が、1973年9月7日に出された、長沼事件の一審・札幌地裁判決で、この法廷の福島重雄裁判長は、自衛隊を違憲と判断した(福島判決)。
3度目が、つい先日の4月17日、名古屋高裁民事3部(青山邦夫裁判長、坪井宣幸裁判官、上杉英司裁判官)で出された、自衛隊のイラク派兵を違憲と述べた判決である。
【参考:9条関係の主要裁判】
最近、これらの訴訟やそれに関連したニュースに立て続けに接し、感慨深いものがある。それにしても、なぜこれほどまでに違憲判決が少ないのか。自衛隊や駐留米軍の実態が、憲法9条の規定といかにかけ離れているかということは、例えば、前田哲男『自衛隊――変容のゆくえ』(岩波新書、2007)、愛敬浩二『改憲問題』(ちくま新書、2006)、斎藤貴男『ルポ改憲潮流』(岩波新書、2006)、田中伸尚『憲法九条の戦後史』(岩波新書、2005)、浅井基文『集団的自衛権と日本国憲法』(集英社新書、2002)などを瞥見すれば直ちに明らかとなる。そして、現に、自衛隊や駐留米軍の違憲性(9条違反)を問う訴訟はこれまでもたびたび提起されてきたにも関わらず、違憲判決が下されたのは上記の3件だけなのである。それ以外はほとんど、「統治行為」論や「訴えの利益」論によって、憲法判断自体を回避する手法が採られてきたのである。統治行為論とは、先の砂川事件一審判決の跳躍上告審で最高裁が採用した論法がその典型で、防衛政策のような「高度の政治性を有する」統治行為は「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り、司法審査権の範囲外」にある、という論法である。また、「訴えの利益」論とは、長沼事件の控訴審や上告審で採られた論法で、原告らには訴えの利益がないとして訴訟を却下する論法である。
【参考:「憲法関係推薦図書」】
裁判所がこれほどまでに9条に関する憲法判断を回避する理由は何か。それは一言で言えば、日本では三権分立が成立しておらず、最高裁が行政権の強い影響下にあるからだ。最高裁の長官は内閣が指名し(任命は天皇が行う)、その他の裁判官は内閣が任命することになっている。つまり最高裁の人事権は内閣が握っているのである。しかし、多少なりとも憲法を勉強した裁判官であれば、自衛隊や駐留米軍が「合憲」であるという判断を下すことは著しく困難である。かといって、憲法をまともに解釈して違憲判決を出すことは内閣に楯突くことになるので、「統治行為論」など苦し紛れの屁理屈をひねり出して憲法判断それ自体を回避するのである。
ところが、砂川事件では、最高裁が行政権の影響下にあるどころか、アメリカ政府が日本政府の頭越しに直接、最高裁に圧力をかけていたことが、つい最近、国際問題研究者の新原昭治氏が入手した米政府解禁文書によって、明らかになった。それによれば、当時のマッカーサー米駐日大使(GHQのダグラス・マッカーサー司令官の甥)は、上記の伊達判決が出た翌日には藤山外相と会談し、駐留米軍を違憲と断じた伊達判決を「正すことの重要性」を強調し、日本政府が直接、最高裁に上告(跳躍上告)するよう勧告し、藤山はその旨、同日の閣議で提案すると応じている。そして、米国政府の思惑通り、最高裁への跳躍上告が決まるや否や、マッカーサー駐日大使は田中耕太郎最高裁長官と密談し、本事件の審理を最優先するとの確約を取っているのである。この時点ですでに上告棄却の結論が出ていたことは明白である。司法の独立どころか国家の独立さえ顧みない卑屈なまでの対米従属判決であった。
【参考:「プロメテウスの政治経済コラム」】
【参考:不破利晴氏の記事「“介入”される日本の司法」】
【参考:しんぶん赤旗「米軍違憲判決後の米の圧力」】
【参考:毎日新聞「砂川裁判:米大使、最高裁長官と密談」】
【参考:毎日新聞「砂川裁判:「司法の独立」どこへ」】
しかし、最高裁のみならず、下級裁判所レベルでも、9条にまつわる違憲判決がこれまでたったの3件しか出ていないのは、一体なぜか。それは、裁判官の人事権が最高裁事務総局によって握られているため、最高裁の意向に逆らう判決を書いた裁判官は、出世コースから完全に外され、退官までドサ周りさせられることを覚悟しなければならないからである。
実は今日の朝日新聞のオピニオン面(「私の視点」)に、長沼事件で違憲判決を書いた福島重雄元判事が「司法は堂々と憲法判断を」と題する論考を寄せている。先日の名古屋高裁の自衛隊イラク派遣違憲判決を高く評価するとともに、政府がこの判決を重く受け止め、政策内容を点検し、国民の間で議論を深めるように求めたものである。そして、憲法判断を避けるというこれまでの裁判所の姿勢が、自衛隊の実態と憲法をめぐる議論を低調にさせてきた一因であると指摘している。しかし、そのまっとうな議論のほかに私が注目したのは、福島氏の経歴である。同記事によれば、福島氏は長沼判決の後、「東京地裁手形部、福島、福井家裁に勤務し、89年に定年まで6年残して退官」とある。札幌地裁で裁判長を務めた人のその後の経歴としては、あまりにもあからさまな“報復人事”ではないだろうか。しかし、77歳になる現在も弁護士として活躍されているご様子なのは、大きな救いである。
そういえば、先日の自衛隊イラク派遣違憲判決を出した青山邦夫元裁判官は、今年3月末日付けて「依願退官」している。裁判官にとって、9条絡みで違憲判決を出すことがいかに容易ならざることかが推測されるというものだ。
この判決の意義については、裁判を起こした「自衛隊イラク派兵差止訴訟の会」が「声明」を出しているので、是非参照していただきたい。
【自衛隊イラク派兵差止訴訟の会の「声明」】