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イスマタリアン
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2008/05/21のBlog
hangover

突然ですが、
hangover

ここで問題です。
hangover

何もしていないのに、
hangover

こんなに疲れているのは
hangaround

一体なぜ?
2008/05/19のBlog
multitude
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[ 16:34 ] [ 社会 ]

 光市母子殺害事件差し戻し控訴審判決から一月近くが経った。あの日、死刑判決に快哉を叫んだり、本村洋さんの記者会見に「無条件で感動した」り、「いつの間にか、洋さんと一つになっている」(天声人語)と感じた人々にうち、どのくらいの人々が今日、あの事件について考え、被害者遺族の気持ちを慮っただろうか。もちろん、あの日以後も次々と大事件や大災害のニュースがひっきりなしに報じられているので、いつまでも光市事件のことばかり考えていられるわけがない、というのが偽らざる心境であろう。

 もちろん、それが悪いと言いたいのではない。人間とはそういうものだ。しかし、「被害者遺族の立場になれば死刑判決以外にありえない」と叫び、「被害者遺族の気持ち」を強調する人々が、本当に被害者遺族と同じ立場や気持ちになることなど到底できない、というのも事実である。だから、想像することが無意味だなどと言いたいわけではない。他者の気持ちや立場を想像することは大事なことだ。しかし私がいつも不思議に思うのは、被害者や被害者遺族(以下、「被害者(遺族)」と記す)への同情心と「他者の痛み」への想像力の豊かさを誇る人々が、決して想像しようとしないのが、加害者の犯行動機がどのように形成されたのか、ということだ。いや、自ら想像しようとしないだけではない。たまに、そのような想像力を働かせようとする人物がいると、「言葉にならないほどの卑劣な侮辱行為に及んだ凶悪犯に対して、よりによって、擁護するような発言をするなんて、あまりにも鈍感すぎる。あまりにも、人の痛みを分からなすぎる」などと批判し、そのような犯罪原因を追究しようとする発言すらも封殺しようとするのである。言うまでもないが、加害者が犯行へと至った原因を探求することと、加害者を「擁護する」こととは全く別物なのだが、そういうことすら、こうした発言をする人には理解できないのであろう。

 思うに、被害者(遺族)への同情心から加害者の死刑を訴える人々が決して加害者側の事情を想像しようとしないのは、彼らの「想像力」が極めて表面的なレベルにとどまっているからである。それは、現在の自分を被害者(遺族)の状況に置き換えてみるという想像の仕方であり、言い換えれば、現在の自分の頭を他者の体に移して考える、という方法である。被害者や被害者遺族になる可能性は誰にでもありうることだから、このような方法を採る限り、被害者(遺族)の立場を想像することは容易である。しかし、現在の自分が凶悪な犯罪を犯すような動機を抱いていない以上、現在の自分の頭を加害者の体に“移植”するような想像力を働かせることは、土台無理な注文だと言うことになる。したがって、このような次元の「想像力」に留まる限り、凶悪犯罪の加害者は想像不可能な「怪物」ということにならざるを得ず、自分や自分の周囲の一般市民とは1ミクロンの共通点もない「絶対的な他者」ということになるだろう。自分が心の温かい人間で「人の痛みを分かる」人間であるということを誇り、死刑廃止論者を「神経が鈍感で想像力の乏しい「人の痛みが分からない人たち」」と罵倒し続けているある有名ブロガーは、「とても血の通った人間とは思えない残虐な行為をした」加害者は、その時点で「もう人でなし」だから、「人じゃないものを「更生」させる意味なんかないし、人じゃないのに「人権」なんかあるワケないじゃん」と述べているが、これは、そうした表面的な想像力の貧しさを露呈した発言である。つまり、自分が容易に想像可能な対象にだけは「感情移入」するが、そもそも想像することが困難な他者は、「人じゃない」として、排除し抹殺しようとするのである。

 しかし、そもそもこのような表面的な想像力は、本来、「想像力」の名に値しないものである。本来の想像力とは、他者の状況だけでなく、他者の視点をも内在的に理解しようとする精神の働きを意味しているのである。私が現在の日本で最も尊敬し信頼している知識人の一人である浅井基文氏は、最近のコラムで「平和へのねがいと障害児・者の権利――人間の尊厳のために――」という論説(講演原稿を起こしたもの)を公表している。これは、内容的には、私が以前このブログで紹介したことのある同氏の論説「他者感覚が真の平和の土台です」の続編に当たるとも言えるものである(関連記事)。そして、「平和へのねがいと障害児・者の権利」の中では、表面的な想像力とは区別された本来の想像力を「他者感覚」という言葉で呼び、その内容を次のように説明している。

<この他者感覚というものは、「他者を他者としてそっくり理解し、認識しようとする意識の働き」ということです。これを具体的に言うと「自分があの人の立場にあったら、自分はどのように思い、行動するだろう」という考え方では、他者感覚を備えたことにはなりません。なぜならば、その時は自分の頭を他者の体に持っていくわけですから、他人の形をとった自分であるわけです。ですから、それでは全然他者にはなっていないわけです。そうではなくて、「自分があの人であったならば、あの人としての自分はどのように思い、行動するのだろう」と考えるようになるとき、はじめて他者感覚を備えたことになる。だから、あの人になりきるというわけです。だから、あの人の感情、思考方法、思想、あの人をあの人たらしめるに至った家庭環境、対人関係、歴史、文化等々をできるだけ理解する中で、あの人になりきることによって他者感覚を我がものにすることができるということです。>

そして浅井氏は、このような他者感覚を身につけることが、自分自身をも他者感覚で見ることを可能にし、自己を客観視するための条件でもあると指摘し、そうすることによって自分自身を個として確立することができるようになると述べている。そして、「他者感覚」と「個の意識」を身につけることが、「人間の尊厳」という思想をわがものとするうえで不可欠であると主張している。

 しかしながら、日本においては、人間の尊厳という思想を自分のものにするにはかなり苦労が必要だ、とも浅井氏は指摘している。なぜなら、日本人は何かと言えば群れたがり、群れて自分たちの行動基準を考える(つまり、大澤真幸氏の言葉を使えば、「世間」が「第三者の審級」になっているということである)ので、逆に言うと、群から外れた存在、例えば障害者などはともすると排除や差別の対象となりやすい社会であると指摘する。つまり、「個」が確立していない社会(=「世間」)においては、「みんな同じ」であることが何よりも大事であり、異質な他者の存在は受け入れられないので、排除する以外になく、排除された他者はもはや「同じ人間」とは見なされないのである。

 しかし、人間の尊厳という思想を獲得することがどれほど困難であろうと、その重要性について、浅井氏は講演の最後を次の言葉で締めくくっている。

<私は、人間の尊厳という普遍的な価値を根底に置くことにより、あらゆる問題が正しいか間違っているか、善であるのか悪であるのかということを判断することが出来るという確信があります。それくらいに、人間の尊厳ということを皆さんの生活においても、根底に置くような方になって頂きたいと思います。>


2008/05/16のBlog
[関連したBlog]

 数日前に読み終えた大澤真幸氏の『不可能性の時代』(岩波新書)については、感想を書くつもりはなかった。ところが、巷では、なにやらちょっとした大澤真幸ブームのようであり、全く意外なことながら、特にこの『不可能性の時代』がよく売れているようなので、私も一言だけコメントしておくことにする。

 というより、この駄文を書こうと思ったのは、もっぱら不破利晴さんの昨夜のブログに対する共鳴的応答である。不破さんは大澤氏の『文明の内なる衝突』を読んだ感想を次のように述べている。

《大澤氏の言説は社会学の理論上の実験でしかないような気がして、さらに悪く言えば言葉の辻褄合わせをしているようで、どうも”9.11”の本質(それがあればという仮定の上においてだが)を捉えているとは言い難いように思われた。”》

 しかし、謙虚な不破さんは、こうした感想を抱いた原因が、大澤氏の著作というよりはむしろ自分にあるのではないかと疑い、次のような自己省察を述べている。

《もっとも、この読書体験で得てしまった私に関する”自己発見”も、ここで言っておかねばなるまい。
 思想や社会学、もしかしたら哲学なども含まれるかもしれないが、これらの思索的な分野に、私は決定的に弱いかもしれないということだ!(爆)
 今回の大澤真幸感は、こんな私の思索の脆弱性が引き起こした可能性も当然捨てきれない。》

 私は『文明の内なる衝突』は読んでいないが、『不可能性の時代』を読んだ感想は、上の不破さんの感想とかなり似ている。
 大澤氏は一流の社会学者であるだけでなく、哲学や現代思想に対する造詣も深いのに対し、私自身はまさに哲学や現代思想を苦手としており、社会学の中でも(大澤氏を含む)現代日本の社会学者がお好きな「オタク」「アニメ」「ゲーム」「サブカル」「若者風俗」といった分野が大の苦手である(全く興味を持てない)。
 それゆえ、大澤氏の著作を十分に評価できないのは私自身の側の問題が大きいことも承知している。
 しかし、不破さんほど謙虚でない私は、大澤氏の著作にも欠点はあると思っている。

 さて、前置きが長くなったが、『不可能性の時代』を読んで感じた数多くの違和感――もちろん共感を感じる部分も多々あったが、それは今日の主題ではない――のうち、一点だけ指摘したい。

 大澤は第1章で、日本の戦後思想の変遷を辿る出発点として、敗戦という体験の意味を日本人がどう捉えたかを考察している。それは一言で言えば、日本社会は敗戦後、短期間に激変する一方で「戦前とまったく変わっていないように見えた」という映画監督・小林正樹の抱いた感想によって代表されるようなものであった。その原因は何か? 柳田國男と折口信夫という2人の民俗学者は、天皇制とそれが意味づけていた戦死者という超越的なまなざし(このように、価値や規範の普遍性を保証してくれるように思われる超越的な他者を大澤は「第三者の審級」と呼ぶ)が、敗戦によって意味を失い、日本社会に精神的混乱が生じることを恐れ、それぞれ正反対の方向で、新たな「第三者の審級」を再建ないし再発見しようと努力したのであるが、結果的にそのような心配は杞憂に終わったのである。なぜなら、「天皇によって義認された死者」が占拠していた座に、速やかに「アメリカ」が就くことによって、「第三者の審級」の速やかな、ほとんど間髪を入れない交替があったからである、と大澤は主張するのである。

 しかし、私が昨年読んだ渡辺清の『砕かれた神』や再読した小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』などから判断すれば、実際には戦前・戦中から戦後にかけて、「第三者の審級」の交替は起こらなかったと私は思う。なぜなら、日本においては、戦前・戦中も戦後も(そして現在も)「第三者の審級」とは「世間」そのものであるからだ。つまり、敗戦前後で、「第三者の審級」が信奉する価値は180度変わったが、「第三者の審級」自体に変化はなかったのである。

 仮に戦前から戦中にかけて、日本人の大多数が心底、天皇の神性=超越性を信じていたとすれば、戦後、天皇の「人間宣言」をはじめとする一連の無責任な言動があれほどあっさりと受け入れられ、「天皇はもともと平和主義者だったのに、軍部に操られたロボットにすぎなかったから、天皇も気の毒だ」などといった言説があれほど広範に広まるはずはあり得なかったであろう。それこそ、精神の分裂か革命でも経ない限り受け入れがたい変化であったに違いない。それにも関わらず、ほとんどの日本人が精神分裂に陥ることなく、ましてや精神の革命を経ることもなく、ほとんど正反対のイデオロギーを平然として受け入れたのは、まさしくそれが「時勢の変化」、すなわち「世間」の変化であったからである。世間が変わればそれに合わせて自分も変わるだけのことである。別に難しいことではない。それが、戦前から(おそらく明治時代から)今日まで続く日本人の集団的心性であり、日本社会が「世間」を(大澤氏の言うところの)「第三者の審級」と見なしている何よりの証拠である。もっとも、戦中、天皇絶対主義イデオロギーを心底信じていた少数の日本人は戦後の天皇と日本社会の激変ぶりを目の当たりにして、混乱したり、激怒したり、少なくとも割り切れない思いを抱き続けた人もいる。それは概ね、敗戦時二十歳前後以下の世代であろう。この世代の人々は物心ついた時から戦争状態であり、学校などで強化された皇国イデオロギーを内面化しやすい世代であった。渡辺清自身もその一人(敗戦時二十歳)であり、それゆえ、彼は激しい内面的動揺を経て精神的革命を遂行するのである。(ちなみに渡辺清と同世代であった三島由紀夫も、昭和天皇に対しては複雑な感情を持ち続けていたようだ。)

 ところで、大澤によれば、戦後の日本は敗戦時から1970年頃までが「理想の時代」、それ以後1995年頃までが「虚構の時代」であり、それ以後が「不可能性の時代」と名付けられている。そして、「不可能性の時代」とは、「第三者の審級」が空虚化し、撤退した社会であると特徴づけられるのだが、このような「第三者の審級」の後退は、西洋では20世紀を通じて徐々に進行していったものであるとも説明されており、変化の現れ方や緩急に違いはあるとしても、基本的に日本社会と西洋社会をパラレルなものとして説明している。それゆえ、西洋思想の話と日本社会の話とが何の説明もないまま当然のごとく接続されるのであるが、私としては、この「接続」のされ方に大きな違和感を抱く。もちろん、西洋と日本で共通の現象も見られるだろうが、「個人」と「社会」の存在する西洋と、それらの代わりに「世間」が鎮座している日本とでは、基本的な違いがあると思うからである。


【記事とは無関係な追記】
 今日、いつものように会社でwarmgunさんのブログを眺めていたら、なにやらいつもと違う雰囲気がしたのだが、最初はその理由がわからなかった。しばらく眺めているうちに、ようやくその理由がわかった。warmgunさんのブログに驚くべき変化が起きていたのだ(笑)。
 warmgunさんのブログのタイトルは、ご存じのように、「snapshot s××××」となっていて、「××××」の部分は通し番号の数字が振ってあった。ところがなんと、今日の記事はすべて「snapshot」の後に日本語のタイトルが付いているのである! これはニュースである(笑)



2008/05/14のBlog

 後期高齢者医療制度の開始前、茨城県医師会は、都道府県レベルの医師会としては初めて同制度の廃止を求める声明を発表し、「みなさん、こんな高齢者いじめの制度が許せますか!」と題するポスターを作成し、反対の署名活動を展開しているらしい。

 9日のキャリアブレイン・ニュースは、その茨城県医師会の原中勝征会長へのインタビューを掲載している。

 「憲法25条(生存権)により、国は国民の最低限度の生活を保障する義務がありますから、生活が苦しいお年寄りを保護する責任があるはずです。それなのに、戦後の荒廃から今日の日本をつくったご老人の年金から税金を取って、介護保険料を取って、さらに後期高齢者保険料を取る。これは、国の老人に対する基本的な姿勢が間違っているとしか言いようがありません。」
 原中氏はこのように語り、後期高齢者医療制度を廃止し、逆に75歳以上の老人医療費を無料にすることを訴えている。その主張は、財源問題も含めて極めて説得的なので、下記のサイトで、是非全文をお読みいただきたい。

【キャリアブレイン:「高齢者いじめの制度は許せない」】


2008/05/12のBlog

某月某日

人はときとして、己が何のために生きているのか、何のために生まれてきたのかという深い懐疑に取り憑かれることがある。自分の存在理由(レゾン・デートル=raison d’être)に対する疑いである。そもそも人が生きる意味は何なのか、人間の生に理由はあるのか? このような哲学的・宗教的な問いに取り憑かれると、容易なことでは答えは見つからない。

 しかし、このような問いに悩むのは、何も人間だけではない。例えば、ここにも今、そうした懐疑に悩む者がいる。つけ麺の麺である。


 ぼくは一体、何のために生まれてきたのか? 普通、ラーメンの麺というものは、スープと一緒になるためにこの世に生を享けるものである。すなわち、ラーメンの麺は、ラーメンのスープと合体することによって互いに愛を交わし一心同体になる、という極めて明確な人生の目的というものを持っているのである。ラーメンの麺とスープは、互いが互いを求め合い、愛し合うことを人生の究極の目的、レゾン・デートルとしているのである。そして、ラーメンを食する人間が、しばしばそこに麻薬のような陶酔を感じるのは、ひとえに麺とスープが合体するときのエクスタシーに原因があるのである。

 ああ、それなのになぜ、ぼくはラーメンではなく、つけ麺として生涯を終えなければならないのだろうか。なぜぼくは、あの暖かいラーメンのスープと一緒になることが許されないのだろうか。よりにもよって、なぜあのツンとすましたつけ麺のスープ(つけだれ)なんぞにつからなければならないのか。しかも、あのつけだれの野郎ときたら、熱い情熱もなければ研ぎ澄まされた冷たさもなく、だらしないぬるま湯で、大きな丼じゃなくてちっちゃなお椀にだらーっと溜まっていて、いかにも、「あんまり一遍に沢山入るなよ」と言わんばかりの態度で、入った途端に、すぐに出て行けとばかりに人間の口に吸い込まれてしまうのである。しかもぼくらを食べる人間が、ラーメンを食べるときのように、恍惚とした表情でうっとり食べてくれれば、ぼくらとしても本望なのだが、ラーメン通といわれる人に限って、つけ麺を食べるときには、「あ~あ~、なんでこんな店に入っちまったのかなぁ。全くつけ麺なんて邪道だ、邪道だ」などとぶつくさ文句をつぶやきつつ、いかにも不味そうに飲み込まれるなんて、一体ぼくの人生は何だったんだ! 一体ぼくは何のために生まれてきたのだ! ラーメンになる麺の人生と比べて、あまりにも不公平じゃないか! あまりにも不条理ではないか!!

 今日もこうした我が身の不幸を嘆く、つけ麺の麺の怨嗟の声がつけ麺屋には満ちているのである。(つづく)


 後期高齢者医療制度が施行された4月1日以降、この制度の問題点がマスコミで報道されない日はない、といっても過言ではない。ところが、3月31日までマスコミは、この制度の問題点をほとんどと言っていいほど報じなかった。この制度は、小泉政権末期の2006年6月に成立した8つの医療改悪関連法に基づくものであるが、それらの法律が成立してから施行されるまでの1年半の間、マスコミはその問題点をほとんど報じなかったのである。

 私がこの制度の問題点に気づいたのは半年ほど前のことである。私のブログをときおり訪問して下さる「居酒屋」さんブログのトップにリンクしてある共産党のアピールによって、この問題を知ったのである。その後、自分でもこの制度について調べようと、何度かネット検索してみたのだが、役に立つ情報といえば、共産党の「赤旗」の記事か、「キャリアブレイン・ニュース」のほぼ2つくらいしかなかった(ちなみに、政党のHPはすべて調べたが、3月以前においてこの問題を大きく取り上げていたのは共産党だけだった)。それらの記事を読むだけでも、この制度のひどさは十二分にわかったが、自分で記事を書くためには、やや情報源が限られていたために、3月末まで書かなかったのである。しかし、これらのニュースを見ていても、多くの医療関係者や高齢者、地方議会の多く(全国の地方議会の約3割)がこの新制度に反対する声明や意見書を採択していたのだが、一般マスコミはそうした動きを黙殺していた。さすがに私も、この問題に全く触れないまま4月1日を迎えてしまうのはまずいと思い、3月31日、沖縄タイムスの社説を引用する形で、この問題を記事にした(関連記事)。

 ところが、4月1日に施行された途端、予想されていた通りの問題が噴出し始めるのだが、その時点でようやくマスコミは初めて気づいたかのように、この問題を報じ始めた。4月30日の東京新聞によれば、同月19日に東京新聞が開催した「読者との対話の日」の集いにおいて、「なぜ今頃になって騒ぐのか」と反応の遅さを批判する声が続出したそうだが、それに対して、五十住和樹社会部デスクは「制度の仕組みが複雑で担当記者にも難解な面もある」と答えたそうだ。

 ふざけるのもほどほどにしてほしい。赤旗の記事を読むだけでも問題の所在はほぼわかるし、国会では共産党の議員が頻繁にこの問題を取り上げて政府・厚労省の担当者を追究していた。そういうことを全く報道せずに、政府・自民党の御用記事ばかり書いていたのは君たちではないか。共産党の言うことが信用できないのであれば、自分たちで取材すればいいのだし、まさにそれが君たちの仕事ではないのか。「仕組みが複雑」で理解できないのならば、今すぐ記者など辞めた方がいい。


 しかし、後期高齢者医療制度の本質については、厚労省の担当者自らがこのうえもなく明瞭に述べている。3月31日まで同省の高齢者医療制度施行準備室室長補佐を務めていた土佐和男氏は、1月18日、石川県金沢市で開催された「後期高齢者医療制度の創設のねらい」と題した講演で次のように語った。
医療費が際限なく上がっていく痛みを自分の感覚で感じ取っていただくことにした」と。(「キャリアブレイン」2月6日の記事による)

 同氏はまた、この制度の解説書である『高齢者の医療の確保に関する法律の解説』(法研)の中で、「年齢別に見ると、一番医療費がかかっているのが後期高齢者」なので、「この部分の医療費を適正化していかなければならない」と強調したうえ、特に終末期医療の問題では、「後期高齢者が亡くなりそうになり、家族が一時間でも、一分でも生かしてほしいと要望して、いろいろな治療がされる。それがかさむと500万円とか1000万円の金額になってしまう」と、延命を願う家族感情が医療費膨張の原因であるとして、それを「抑制する仕組みを検討するのが終末期医療の評価の問題である」と力説しており、高齢者の「延命治療」を制限することが同制度の狙いであることを明言したのである。(「赤旗」3月21日の記事による)

2008/05/11のBlog

<カントは、『単なる理性の限界内の宗教』の中で、人がしばしば奇妙な倫理的推論を行うと論じている。人は、非常に性悪な人間に出会ったときに、その人間は、ほとんど生まれてからこのかた、先天的に悪いのであって、その悪さは「死ななければ直らない(変わりようがない)」といった印象をもつ。つまり彼の「悪さ」は彼の本性の内に刻み込まれており、彼は、ただその本性に従っているだけだ、という印象をもつのだ。
 だが、重大なことは――カントが注目するには――、こうした印象に抗して、われわれは、なお先天的に悪いその人物をまさに「悪い」と見なすということ、つまり、彼が倫理的に誤っていると考える、ということである。それは、彼がその生まれつき悪い性格をもっているということに関して彼に責任がある、とわれわれが推論する、ということである。
 しかし、こうした推論は矛盾していないだろうか? 責任を問うことができるのは、選択することができること――他でもありえたと見なしうること――だけだからである。>
(大澤真幸『逆接の民主主義』より引用)


 確かにわれわれ「世間」の人々は、常識では考えられないような凶悪な事件を見聞すると、「犯人は狂っている。こういう人間はきっと生まれたときからの異常者であり、それゆえ一生治ることはない」などと簡単に結論を下し、「矯正可能性のない人間を刑務所に閉じ込めておいても無駄だから、極刑に処すべきだ」などというようなことを言ったりする。これはパラドックスであると同時に、パラドックスでない。

 近代刑法においては、ある犯罪実行者の責任を問いうるのは、その人間を非難しうるという非難可能性にある場合であると考えられている。そして、非難可能であると言えるためには、その人間が犯行時、他の行為を選択することができたにも関わらず、自らの意思でその犯行を実行したという条件が必要とされる。逆に言えば、他行為可能性がなかった場合は、非難可能性もなくなるがゆえに、犯罪実行者の責任を問うことはできないとされる。例えば、催眠術をかけられた人が、催眠術に従って犯罪を行ったような場合には、他行為可能性がなかったと考えられるから、刑法上の責任を問うことはできない。むしろ、睡眠術をかけて、他人を道具として利用することによって犯罪を発生させたものが、犯罪の実行者としての責任を問われるのである。これが近代刑法の原則である。だとするならば、仮に生まれつきの悪人がいるとして、その悪人が悪事を働くときには、悪事を思いとどまる可能性がなかったと仮定すれば、その行為には他行為可能性がなかったことになり、その悪人を非難することはできなくなるのではないか。あるいは、他行為可能性がゼロではないとしても、通常人と比べて著しく低いと仮定すれば、その分だけ非難可能性は低くなり、それに伴い、責任も低下するのではないか。少なくとも近代刑法の考え方からすれば、そういうことになる。にもかかわらず、先天的な「悪人」ゆえに、なお一層強い刑罰を要求するのは矛盾なのではないか。

 しかし、これは矛盾ではない、と解釈する方法がひとつ存在する。それは、先天的な「悪人」を人間ではない、と見なすことである。そうすれば矛盾は一挙に「解決」する。近代刑法思想の背景にあるのは、人間は自由意思を持った理性的存在者である、という理性的人間像である。そして、刑法が対象とするのはもちろん人間だけである。仮に人間にとって極めて危険な害悪しかもたらさないと思われる(保護動物ではない)野生の動物や、宇宙人を殺したとしても、刑罰の対象とはならないであろう。同じように、先天的な「悪人」はもはや人間ではない、と見なしてしまえば、極刑を求めることに何らの矛盾を感じなくても済むであろう。言い換えれば、先天的「悪人」に対して、「先天的悪人」性ゆえに極刑を求めることが矛盾でなくなるのは、彼(女)をもはや人間とは見なさない場合だけなのである。


 しかし、果たして「先天的悪人」などいるのだろうか。言うまでもなく、これ自体が大問題である。


[ 22:02 ] [ 罪と罰 ]

――見知らぬ他人を襲うのは?

無差別殺人。

――無差別殺人をする理由は?

特にない。

――最後に、池田小学校襲撃になったのはなぜか?

そこらの、アホな雑民の子どもを殺すより、家がいい、頭が良いのを殺した方が、自分で満足を得られる。

――なぜ、できる子どもを殺すのが君の満足になるのか?

(答えない)

――もともとC子さんに怨恨の念を抱いていたのではなかったか? 小学校を思いつくのは突飛ではないか?

分かります。いろんな理由があるけど、自分みたいなアホな、ボロボロで腐りきった人間に、恵まれた家の子が、こんなおっさんに殺されるという不条理を教えてやりたかった


 以上は、福島章氏が『犯罪精神医学入門』(中公新書)の中で紹介している、池田小学校児童殺傷事件の宅間守被告に対する法廷での一問一答の一部である。
 宅間被告は犯行前の数週間の間に、自殺未遂を繰り返したり、精神科病院に電話をかけて、ケースワーカーに「死にたいが死ねない」と訴えたり、父親に電話をして助けを求めたりした挙句、「車で人でもはねて、過失致死で刑務所に緊急避難しようか」などと考えたことも供述している。そして、池田小学校での犯行を考えたのは、犯行前日の夕方から夜にかけてだったと述べている。

 昨日の朝日新聞は「「死刑願望」凶行多発」と題する記事を社会面に載せている。そのリード部分は次のように書いている。

《「死刑になりたい」。こんな動機で、見知らぬ人を襲う容疑者が相次いでいる。茨城県で3月に男が駅周辺で8人を殺傷した事件、鹿児島県で4月に自衛官がタクシー運転手を殺した事件……。犯罪を抑える狙いの死刑制度が、逆に凶行を誘発していることになるが、それはなぜか。識者の見方も割れる。》

 無差別殺人犯が逮捕され、警察が、「被疑者は死刑になりたくて犯行を起こしたと言っている」と発表すると、記者はそのまま記事にするのだろう。しかし、言うまでもないが、「死刑になりたい」ということを唯一の理由として凶悪事件を起こす人間はまずいないだろう。過去の無差別殺人事件から言えることは、この種の犯罪を犯す人間はたいてい、人生に深く絶望しており、強い自殺願望を抱いているということだ。と同時に、社会に対して強いルサンチマン(恨み)を抱いており、他人(知人の場合もあれば、無関係な第三者の場合もある)を死出の道連れにしてやろうという理不尽な動機から犯行に至るケースが多いということである。

 上に引用した宅間被告の最後の科白は、全く理不尽そのものであり、言うまでもなく、こうした発言に一片の正当性も見出せないが、にもかかわらず、これは無差別殺人犯の動機の所在を語るものとして、注目すべき発言であろう。

 死刑制度の存在が、一定の場合に凶悪犯罪を誘発する要因になりうることは事実であるが、だからといって、それだけを理由に死刑廃止を訴えるのも短絡的である。しかしながら、死刑制度の存在が、社会全体の復讐感情を高め、「殺人」に対する感覚を麻痺させる効果がある、ということを指摘する社会学的研究も存在する。