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2008/06/21のBlog
[ 21:27 ]
[ メディア ]
昨日(6月20日)の朝日新聞の社説「社会保障改革―首相の本音が聞きたい」には、タイトルを読んだだけで失笑した人も多いだろう。「首相の本音が聞きたい」って、一体誰に向かっていってるんですか? 「首相の本音を聞く」のはあなた方新聞記者の務めなのではないんですか? そしてそれを国民に伝えるのが新聞社の役割でしょ!? その新聞社の論説委員が国民に向かって「首相の本音を聞きたい」などとほざくのは一体どういう神経をしているのか?
しかし、その社説の中身を読むと、失笑して済ませられる問題ではないことが明らかになる。ここにきて朝日新聞社(つまり論説委員たちの立場)は明確に庶民に敵対する立場を鮮明にした、と言わざるを得ない。社説は言う。「小泉内閣以来の歳出削減で、社会保障に無理が生じてきた。医師や介護の担い手の不足が深刻なので、もっと人も予算も増やそう。そうした提言が政府の内側から相次いでいる。どれも国民が不安を感じている問題だ」と。これだけ読むと、小泉政権下以来の新自由主義路線の下での社会保障予算削減政策によって国民生活が不安にさらされているからその政策を転換しなければいけないと、真っ当な主張をしているのかと誤解する読者もいるだろう。しかしそうではない。朝日新聞はその2日前の社説「財政運営―道路財源で突破口を」の中で、明確にこう主張しているのである。「社会保障は他からの予算を回すだけでなく、さらに削減にも努めるべきだ」と。驚くべき主張である。いや、恐るべき主張である。
もともと「小さな政府」であり、GDPに対する公的社会支出の割合が先進国中、アメリカと並んで最低水準だった日本だが、80年代以降の新自由主義路線下で徐々に進行していた年金・医療など社会保障分野における給付削減・負担増の傾向が小泉「構造改革」路線によって一層露骨になり、非正規雇用の劇的増大・格差の拡大・相対的貧困層と絶対的貧困層の割合がともに先進国中最高水準にまで上昇するなか、高齢者・障害者・病者など社会的弱者の切り捨て政策によって、憲法が保障する生存権さえ脅かされる超不安社会が現出しているが、そういう状況においてなお一層の社会保障費削減を朝日新聞は主張しているのである。
そして朝日社説は上記の引用部分に続き、次のように述べている。
<福田首相も、福祉財源として消費税を増税することについて「決断しなければいけない、大事な時期だ。高齢化社会を考えると、道は狭くなってきている」と述べた。■必要な医療・介護を支えるには増税論議を避けられないと腹をくくったのか。そう思ったら、直後に「そういうつもりで言ったのではない」とも語っている。(……)首相がこんなにあいまいな姿勢では、前に進んでいくと思えない。(……)増税問題は避けて通れない局面にきている。>
つまり、「社会保障費はさらに削減し、消費税を増税せよ!」――これが朝日新聞社の主張なのである。これは財界が長年主張し続け、政府・自民党が財界の要求を受けて、着実に実行してきたことである。しかし自民党の政治家には選挙という“関門”があるため、国民の多数を占める庶民を苦しめるこういう主張はあまり大っぴらには言えないことなのである。それを朝日新聞は自民党に代わって大々的に主張し、国民を洗脳し続けているのである。政府・自民党は、(自らの失政の結果である)財政破綻の危機を煽り、高齢化社会の到来によって増加する医療費の抑制が急務であると喧伝し続けている。しかし、2003年の国民医療費の対GDP比率は、日本は8.0%であり、アメリカ(15.2%)、ドイツ(10.9%)、フランス(10.4%)、カナダ(9.9%)、スウェーデン(9.3%)などよりも低く、OECD諸国中、イギリスの7.9%と並ぶ低水準なのである。厚労省の2015年の予測においても、国際比較において格別高い水準に達するわけでもない。松本淳・高端正幸両氏が言うように、「複雑さをきわめた医療保険制度とその財政状況について、国民が容易に理解できないことを前提に、高齢化の進展→医療費の傍聴と医療保険財政の限界→患者負担割合の引き上げやむなし、という、実際には妥当さを欠く」議論(神野直彦・井手英策編『希望の構想』参照)を政府は国民に洗脳しようと躍起になっている最中、そのお先棒を担いでいるのが朝日新聞(をはじめとするマスメディア)というわけである。
しかし、そもそもなぜ現状のような財政危機に陥ったのかという原因分析が不可欠のはずである。素人でもわかるのは、(米軍に対する「思いやり予算」を含む)膨大な軍事費や無駄な公共事業費をはじめとする膨大な無駄な歳出構造と、90年以降、所得税の最高税率と法人税率の引き下げによって、所得税、法人税がそれぞれ12兆2000億円、8兆6000億円、合わせて20兆8000億円も減少しているのである。これで財政危機にならないはずがないではないか。これほど露骨な金持ち・財界優遇減税によって赤字になった財政を、所得に占める税負担率が所得の低い層ほど重くなるという逆進性を持つ消費税の増税によって賄おうというのだから、これほどあからさまな貧乏人虐待政策はないであろう。今や朝日新聞は明白に金持ち・財界の肩を持ち、貧乏人や社会的弱者をさらなる極貧状態へと叩き落す政策を公然と提唱するに至ったのである。
しかし、その社説の中身を読むと、失笑して済ませられる問題ではないことが明らかになる。ここにきて朝日新聞社(つまり論説委員たちの立場)は明確に庶民に敵対する立場を鮮明にした、と言わざるを得ない。社説は言う。「小泉内閣以来の歳出削減で、社会保障に無理が生じてきた。医師や介護の担い手の不足が深刻なので、もっと人も予算も増やそう。そうした提言が政府の内側から相次いでいる。どれも国民が不安を感じている問題だ」と。これだけ読むと、小泉政権下以来の新自由主義路線の下での社会保障予算削減政策によって国民生活が不安にさらされているからその政策を転換しなければいけないと、真っ当な主張をしているのかと誤解する読者もいるだろう。しかしそうではない。朝日新聞はその2日前の社説「財政運営―道路財源で突破口を」の中で、明確にこう主張しているのである。「社会保障は他からの予算を回すだけでなく、さらに削減にも努めるべきだ」と。驚くべき主張である。いや、恐るべき主張である。
もともと「小さな政府」であり、GDPに対する公的社会支出の割合が先進国中、アメリカと並んで最低水準だった日本だが、80年代以降の新自由主義路線下で徐々に進行していた年金・医療など社会保障分野における給付削減・負担増の傾向が小泉「構造改革」路線によって一層露骨になり、非正規雇用の劇的増大・格差の拡大・相対的貧困層と絶対的貧困層の割合がともに先進国中最高水準にまで上昇するなか、高齢者・障害者・病者など社会的弱者の切り捨て政策によって、憲法が保障する生存権さえ脅かされる超不安社会が現出しているが、そういう状況においてなお一層の社会保障費削減を朝日新聞は主張しているのである。
そして朝日社説は上記の引用部分に続き、次のように述べている。
<福田首相も、福祉財源として消費税を増税することについて「決断しなければいけない、大事な時期だ。高齢化社会を考えると、道は狭くなってきている」と述べた。■必要な医療・介護を支えるには増税論議を避けられないと腹をくくったのか。そう思ったら、直後に「そういうつもりで言ったのではない」とも語っている。(……)首相がこんなにあいまいな姿勢では、前に進んでいくと思えない。(……)増税問題は避けて通れない局面にきている。>
つまり、「社会保障費はさらに削減し、消費税を増税せよ!」――これが朝日新聞社の主張なのである。これは財界が長年主張し続け、政府・自民党が財界の要求を受けて、着実に実行してきたことである。しかし自民党の政治家には選挙という“関門”があるため、国民の多数を占める庶民を苦しめるこういう主張はあまり大っぴらには言えないことなのである。それを朝日新聞は自民党に代わって大々的に主張し、国民を洗脳し続けているのである。政府・自民党は、(自らの失政の結果である)財政破綻の危機を煽り、高齢化社会の到来によって増加する医療費の抑制が急務であると喧伝し続けている。しかし、2003年の国民医療費の対GDP比率は、日本は8.0%であり、アメリカ(15.2%)、ドイツ(10.9%)、フランス(10.4%)、カナダ(9.9%)、スウェーデン(9.3%)などよりも低く、OECD諸国中、イギリスの7.9%と並ぶ低水準なのである。厚労省の2015年の予測においても、国際比較において格別高い水準に達するわけでもない。松本淳・高端正幸両氏が言うように、「複雑さをきわめた医療保険制度とその財政状況について、国民が容易に理解できないことを前提に、高齢化の進展→医療費の傍聴と医療保険財政の限界→患者負担割合の引き上げやむなし、という、実際には妥当さを欠く」議論(神野直彦・井手英策編『希望の構想』参照)を政府は国民に洗脳しようと躍起になっている最中、そのお先棒を担いでいるのが朝日新聞(をはじめとするマスメディア)というわけである。
しかし、そもそもなぜ現状のような財政危機に陥ったのかという原因分析が不可欠のはずである。素人でもわかるのは、(米軍に対する「思いやり予算」を含む)膨大な軍事費や無駄な公共事業費をはじめとする膨大な無駄な歳出構造と、90年以降、所得税の最高税率と法人税率の引き下げによって、所得税、法人税がそれぞれ12兆2000億円、8兆6000億円、合わせて20兆8000億円も減少しているのである。これで財政危機にならないはずがないではないか。これほど露骨な金持ち・財界優遇減税によって赤字になった財政を、所得に占める税負担率が所得の低い層ほど重くなるという逆進性を持つ消費税の増税によって賄おうというのだから、これほどあからさまな貧乏人虐待政策はないであろう。今や朝日新聞は明白に金持ち・財界の肩を持ち、貧乏人や社会的弱者をさらなる極貧状態へと叩き落す政策を公然と提唱するに至ったのである。
[ 13:39 ]
[ 本たち ]
著者の池内了氏は宇宙物理学者・天文学者であり、ドイツ文学者でエッセイストの池内紀氏の弟である。本書は「入門」と名づけられているが、もちろん疑似科学=ニセ(エセ)科学への入門を説いた本ではなく、疑似科学の特徴・見分け方・対処法、疑似科学に引っかかる心理などを解説した本である。著者は疑似科学を三種類に分類する。第1種疑似科学とは各種の占いやスピリチュアル・カウンセリング、オカルト・念力・超能力・UFOなどの「超科学」、カルト集団のような疑似宗教などであり、これらは疑似「科学」というよりもむしろ非科学ないしアンチ科学といった方が適切かもしれない。このなかには各種の占いのように、初めから科学的根拠のないお遊びであると認識したうえで楽しむ分には罪がなさそうに思われるものもあるが、これらの疑似科学を放置しておくことは社会に悪影響を及ぼす恐れがあると著者は憂えている。というのは、自分の頭で考えるのではなく、他人の「ご託宣」を何の疑問も抱かず受け入れてしまう体質になり、社会的事象についても的確な判断ができなくなり、観客民主主義が政治的に利用されてファシズムに行き着く危険性さえあるからだ。
第2種疑似科学とは、科学的知見を悪用・誤用・濫用したものであり、科学的外見を装いながらその実体がないもので、主に商売・ビジネスの分野で多用されている。ファジー、ゲルマニウム、磁気効果、フラボノイド、ポリフェノール、アントシアニン、活性酸素、ドコサヘキサエン酸、エイコサペンタエン酸、アドレナリン、セロトニン、右脳・左脳、マイナスイオン、アルカリイオン、ホメオパシーといった科学用語を並べることによって、あたかもありがたい効能があるかのように見せかける手法である。消費者にとっては、意味がよくわからない難解な用語を聞くだけで、「よくわからないけど、すごいな♪」という気分にさせられるのである。
しかし、これらの用語を利用した商品は、それが本当に重要な役割を果たしているのか疑問なものが多いと著者は言う。例えば、「還元水も酸化が悪いという先入観を逆手にとったものだが、果たしてどれくらい効果があるのか」疑わしく、「クラスター水は何がクラスターしているのか定かでなく、πウォーターは何がπなのかさっぱりわからない。言葉尻だけ科学的にして信用させ、牛乳より高い水が売られているのは本末転倒」としか言いようがないと批判する。結局のところ、こういった第2種疑似科学が流行るのは、きちんとした科学的根拠を確かめることなく、科学的用語という権威だけをありがたがるという心性、さらに言えば、テレビで宣伝していれば、あるいはそういう用語や商品が流行っていれば「効果があるに違いない」と盲信してしまう心理が働いているのだろう。そこに共通しているのは、情報を自ら吟味することなく、「権威」(と世間が見なしているもの)に判断をお任せしてしまい、自らは思考停止に陥るという状態である。
第3種疑似科学とは、地球環境問題、気候変動、生態系、地震予知、遺伝子組み換え作物など、系を構成する要素が複雑に絡み合っているために、要素還元主義的方法が通用せず、明確な判断を直ちには下せない問題であるにも関わらず、要素還元主義的考え方で理解しようとすることからくる誤解・誤認・悪用などを指しており、いわば真正科学と疑似科学の間のグレーゾーンに属するものである。要素に分解しても分からないことをもって「科学的根拠なし」と断定したり、要素がプラスにもマイナスにも働くことをもって「どちらともいえない」と不可知論に持ち込む手口が典型的なものである。例えば、地球温暖化の原因をめぐっては激しい論争がある。人間の活動によって二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスが増加したことが地球温暖化の原因であるという主流説に対し、少数説は、地球が何らかの原因で温暖化したことが、地中や海水中に閉じ込められていた二酸化炭素の放出を促し、二酸化炭素が増加した、と主張している。両派の主張はそれぞれ部分的に正しい面を含んでいるが、地球環境はまさに複雑系であるので、どちらか一方の主張だけが科学的に正しいと断定することはできない。このような場合に、早く結論を得たいという焦りから、一面的な主張のみを取り上げて断定的に強弁することは疑似科学に陥ることになる、と著者は言う。つまり、何でも「地球温暖化」のせいにしてわかったような気分に浸ることも、逆に地球温暖化の原因は不可知であると居直り、地球温暖化防止の努力に水を浴びせかけることも、どちらも疑似科学への入口である、というのである。では、このような要素還元主義が通用しない複雑系の問題に対してはどう対応すればいいのか。そこで池内氏が提唱するのが「予防措置原則」である。例えば、地球が複雑系であるために原因や結果が明確に予測できない場合には、不可知論に陥るのではなく、いずれの論拠が正しいとしても予想される最悪の結果を防ぐように予防的な対応を心がけるべきである、というのである。あまりにも常識的な結論で面白みには欠けるが、少数派の批判精神がともすれば「批判のための批判」に陥ることを避けるためには大事な原則であろう。
全体を通読して言えることは、第3種疑似科学に関する章では自分の蒙を啓かれる記述も多々あったものの、むしろ当たり前のことが書かれているな、という印象を持った。著者は科学者であるので「科学的(な装いをもった)言説」を対象としているが、ここで説かれているようなことは、本来、社会的事象であれ政治的事象であれ、およそすべての言説について当てはまることであるといえよう。そういう意味では、私が大昔に読んだ野崎昭弘の『詭弁論理学』(中公新書)やダレル・ハフ『統計でウソをつく法』(講談社ブルーバックス)などとも共通するモチーフに貫かれている。要するに、我々がメディアから得る情報や言説を解釈する際には、事実をしっかり確認し、その事実がどの程度普遍性を持ちうる事象であるのか、それとも例外的な事象であるのかを推測し、何らかの主張や結論にはその論理的根拠と正当化可能性を検証する、といった作業を、できる限り自分の頭と責任において遂行する、といった当たり前の、しかし現実には必ずしも容易ではない作業を遂行することが必要なのである。その意味で、本書はメディア・リテラシーの向上を説く書物の一冊に数えられよう。
2008/06/17のBlog
[ 21:10 ]
[ 罪と罰 ]
まず、今日の朝日新聞夕刊より引用する(いつものことだが、朝日新聞のオンライン版である「アサヒ・コム」にはこういう重要な情報は掲載されていない)。
《宮崎勤死刑囚の弁護側は再審請求を準備中で、5月30日付でその旨を法務省側に伝えていた。鳩山法相は「再審準備をしているという書面は届いているが、具体的な再審請求があったわけでも、具体的な再審事由が来ているわけでもない」と述べた。》
《刑執行せぬよう手紙送った直後――弁護側「強く抗議」
宮崎死刑囚の弁護人を務めた田鎖麻衣子弁護士は「拘置所で精神科治療を受けている状態にあるという事実を明記して、死刑の執行を行わないよう5月末に鳩山法相に内容証明を送ったところ。こうした事情を熟知したうえで執行されたことに、強く抗議する」との談話を発表した。》
内閣支持率が20%前後と低迷しようが、参院で内閣問責決議が可決されようが、総辞職も解散・総選挙もしない(できない)福田内閣の法務大臣で、「アルカイダの友人の友人」でもある鳩山邦夫はなんと在任9カ月にして13人を死刑に処した。
そして、今日、死刑執行された3人の死刑囚のうち、宮崎勤の死刑執行には(死刑制度の存置という現状に照らしても)明らかに2つの点で大きな問題点がある。
ひとつは、弁護団が再審請求を準備中であるということを明確に認識しながら、死刑の執行を行ったことである。これは、確定死刑囚から、再審請求という権利を恣意的かつ不可逆的に剥奪する暴挙である。
もう一点は、宮崎死刑囚が精神科治療を受けていたことである。これは、たとえ彼が刑訴法上死刑の執行が禁止されている「心神喪失」の状態ではなかったとしても、国際社会において死刑の執行を排除するよう求められている限定精神能力の状態にあったことを示唆しており、この段階での死刑執行は極めて異常な事態と言わざるを得ない。
<参考>
刑事訴訟法第479条
死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によって執行を停止する。
1984年に国連経済社会理事会が採択した「死刑に直面する者の権利の保護の保障に関する決議」(国連経済社会理事会1984/50号)は、第3項で、「死刑は、……精神異常者に対しては執行されない」と定めており、1989年12月15日の国連第44回総会の「死刑に直面している者の権利の保護の保障の履行に関する決議」(44/162号)では、「判決の段階または処刑の段階を問わず、精神または極度の限定された精神能力者に対する死刑を排除すること」が明記されている(辻本義男『死刑論』参照)。
2008/06/14のBlog
[ 18:02 ]
[ メディア ]
最近では、朝日新聞の社説や天声人語を読むときには、「今日は一体どんなバカなことを書いているんだろう」という気持ちで読み始める習慣がついてしまった。こう書くと、いかにも傲慢な感じがして自分でも嫌になるのだが、本当のことだから仕方がない。
さて、朝日は今日もまた、「千円たばこ――動機はともあれ大賛成」という支離滅裂で荒唐無稽な社説を掲げているが、これに対する徹底批判は不破利晴さんに任せることにして(笑)、私としては、今日の天声人語だけは批判せざるを得ない。まず、以下に天声人語の全文を引用する。
============
ギャンブラーでもあった作家の色川武大が「人生レース」について書いている。「八勝七敗なら上々。九勝六敗なら理想。一生が終わってみると、五分五分というところが、多いんじゃないかな」(『うらおもて人生録』毎日新聞社)▼人は、大小の勝ち負けを連ねて生きてゆく。勝ち続けも、負け通しもない。だが、秋葉原で17人を殺傷した容疑者(25)は、高校卒業後を「負けっぱなしの人生」とくくった▼男が携帯サイトに刻々と投げた独白は、彼女がいない焦り、カップルへの敵意、親や職場への不満にあふれていた。負け組を名乗りながら、その実、まともな勝負を避けてきたようにも見える。世をすね、勝手に孤立し、すべてを悲観し、許されぬ形で退場した▼仕事はつらくても、家庭や趣味に楽しく生きる人は多い。男が重ねた転職は無断欠勤が一因だった。ネットに逃げたが、対話は成立しなかった。「誰かに止めてほしかった」という甘えこそが、事件の核心に思えてならない▼派遣工の弱い立場も背景の一つだが、凶行を格差社会のみで語るのはどうか。あまり一般化すると、私的で特異な要素がかすんでしまう。「戦後教育のなれの果て」といった言説もしかり▼もちろん、働く貧困層は見過ごせない。絶望を暴発させないためにも、再挑戦の努力に報いる社会、やり直せる社会でありたい。五分五分なら成功者の部類とする色川は、敗者の中で「堅く勝ち上がっていく」生き方も紹介している。惨劇をせめて世直しにつなげないと、七つもの命が浮かばれない。
===========
色川武大氏の『うらおもて人生録』については、私もこのブログで一度紹介したことがあり、私の好きなエッセイ集でもあるので、色川氏の意図を完全に捻じ曲げたその我田引水、牽強付会の引用には怒りを禁じ得ない。この本は、色川氏が自らも“劣等生”であったという体験を踏まえたうえで、若い人たち(主に優等生でない人たち)に向かって、自分の生き様を語りながら、人生において「勝つ」こと、成功することがいかに難しいか、しかし、考え方と努力次第で、“劣等生”にも「勝つ」チャンスは十分に開かれていることを語った本であり、人生の厳しさを語りつつも“劣等生”を励ますような内容になっているのである。決して天声人語氏が言うように、「敗者の中で『堅く勝ち上がっていく』生き方も紹介している」ようなハウツー本でもなければ、天声人語氏のような「社会的成功者」気取りの人物が、「人は、大小の勝ち負けを連ねて生きてゆく。勝ち続けも、負け通しもない」などと上から人を見下しながらお説教を垂れた本でもない。色川氏は、まさにそういう威張り腐った精神とは正反対の立場から本書を書いているのである。
また、天声人語氏は、「派遣工の弱い立場も背景の一つだが、凶行を格差社会のみで語るのはどうか」と述べているが、凶行を「格差社会のみで語る」人が一体どこにいるのか? 凶行の背景には様々な要因があるが、その一つとして格差社会の問題があることは間違いないだろう。ところが筆者は、「負け組を名乗りながら、その実、まともな勝負を避けてきたようにも見える」だの「仕事はつらくても、家庭や趣味に楽しく生きる人は多い」などと呑気なことを述べているが、いったん非正規雇用の立場に陥った人が、そこから這い出ることがいかに困難であり、将来に対してどれほど不安で絶望的な心理状態にあるかという現代日本の抱える深刻な社会問題を理解しようとすらしていない。朝日新聞社の編集委員という超安定した立場にある者が、不安定な非正規雇用で結婚もできない多くの若者に向かって、「仕事はつらくても、家庭や趣味に楽しく生きよ」などと説教を垂れる無神経な傲慢さ!
そして、最後には、「絶望を暴発させないためにも、再挑戦の努力に報いる社会、やり直せる社会でありたい」と、お決まりの傍観者的感想を述べている。現代日本社会が「再挑戦の努力に報いる社会、やり直せる社会」などとはおよそ正反対の社会であることは明らかである。親の所得や社会的地位の差が子どもの世代に拡大再生産されるような格差社会、高齢者や障害者や病人といった社会的弱者を徹底的に切り捨て、特権階級の特権をさらに手厚く保護する差別社会、いったんドロップアウトした者の再挑戦ややり直しの努力に決して報いない社会をどのようにすれば「再挑戦の努力に報いる社会、やり直せる社会」に作り変えてゆくことができるのか、そのための道筋を示すのがマスメディアに課せられた社会的使命であるはずだ。ところが、そんな社会的使命など頭の片隅にすらなく、「やり直せる社会でありたい」などと、まるで人々の心がけ次第でそういう社会が実現するかのような無責任で他人事的な感想を述べて、何か「気の利いたこと」を言ったような気分に浸る自己満足と傲慢さ、偽善と欺瞞に満ちた駄文の極みである。
2008/06/12のBlog
[ 17:42 ]
[ 独り言 ]
今日の昼休み、私が愛読しているブロガーW氏が、某若手社会学者について、
「きみは、ダイエットしたほうがいい(爆)」と書かれているのを読み、私も昨日
その某学者が秋葉原事件についてテレビでコメントしているのを見て、同じこと
を感じたばかりだったので、ついつい「激しく同感」なんて書き込みをしてしまった
が、よく考えたら、人のことを言ってる場合じゃなかった(爆)。
まさしく、「人のふり見て我がふり直せ」、である。
いや、あそこまでデブではない・・・・・と信じたい。
メタボ脱出へGO!
「きみは、ダイエットしたほうがいい(爆)」と書かれているのを読み、私も昨日
その某学者が秋葉原事件についてテレビでコメントしているのを見て、同じこと
を感じたばかりだったので、ついつい「激しく同感」なんて書き込みをしてしまった
が、よく考えたら、人のことを言ってる場合じゃなかった(爆)。
まさしく、「人のふり見て我がふり直せ」、である。
いや、あそこまでデブではない・・・・・と信じたい。
メタボ脱出へGO!
2008/06/10のBlog
[ 23:15 ]
[ 社会 ]
秋葉原事件について、普通の人ほどこのニュースを読んでいない私が、普通の人にはないような感想を語れるはずがない。ただ、私には、挫折した強烈な自己愛を抱く人間が世の中に対する理不尽な怒りと復讐心と破滅願望から引き起こした事件に見える。
以下、産経新聞から断片的に引用する。
「両親は教育熱心で、そろばん教室や水泳教室に通わせていた」(知人女性の証言)
「中学に入り、家庭内暴力があったようだ」(別の知人の証言)
《親が書いた作文で賞を取り、親が書いた絵で賞を取り、親に無理やり勉強させられたから勉強は完璧》(6月4日のサイトへの書き込み)
中学時代、成績は学年のトップクラス。近所では両親とも教育熱心で知られた。高校は県内最難関の県立青森高に進学。だが、入学後、成績は低迷した。
《大人には評判の良い子だった》(サイトへの書き込み)
《いい人を演じるのには慣れている》(同上)
(高校卒業後)県外の自動車整備士を養成する短大に進学。短大入学は学年で2人だけだった。短大でも整備士資格は取らず、その後は実家や地方を転々とし、仕事も長続きしなかった。
《高校出てから8年、負けっぱなしの人生》(6月4日)。
《他人に仕事と認められない底辺の労働》
《お昼の社員食堂の定食だけで月に1万円です 正社員なら3割引きで食べられるのですけれど》。
《このまま死んでしまえば幸せなのに そう思うことが多々あります》(3月2日)。
《誰でもいいから殺したい気分です》(3月14日)
《300人規模のリストラだそうです やっぱり私は要らない人です》(5月)
《女性は学歴を気にするのですね 三流の短大卒の私にはチャンスはなさそうです》(同上)
《勝ち組はみんな死んでしまえ》(6月4日)。翌日、会社でトラブル。
「親が厳格に育てれば成績は良くなるが、異常にプライドが高くなる。いったんマイナス思考に陥ると、修正がききにくい。もっと自分はすごいはずで、うまくいかないのは周囲が悪いからというゆがんだ心理状態になり、人間はみんな敵に見えてくる」(NPO法人「ストレスカウンセリングセンター」の前川哲治理事長の話)
「優秀とされた人はつまずくと、『すべて他人のせいだ』と社会を恨む。世間にもう一度、自分の存在を知らしめたいと考え、無差別な犯罪で目的を果たすパターンが多い」(作田明・聖学院大客員教授(犯罪心理学)の分析)
――以上、産経新聞連載記事【秋葉原17人殺傷の衝撃】より引用
【(上)犯行予告・中継の中に紛れる容疑者の「孤独」「自暴自棄」】
【(中)挫折と疎外感…世の中すべてが敵】
【(下)「器物破壊化殺人」生む疎外感 対策は「心開かせる社会」】
【12日追記】
秋葉原事件では各紙が特集や連載記事を掲載しているが、私が見た中では、産経新聞の上記連載が最も興味深かった。
昨日の(下)の記事中、私が「なるほど」と思った部分を以下、抜粋する。
====(以下、引用)=========
「器物破壊化殺人」。元検事で旧総理府青少年対策本部参事官も務めた田代則春弁護士の造語だ。何のためらいもなく、モノを壊すかのような感覚で殺害する行為を指す。「平成9年の神戸市須磨区の児童連続殺傷事件のころから、人を人とも思わぬ若者の殺人が目立ち始めた」
器物破壊化殺人に共通するのは(1)ためらいがない(2)人を殺す動機がない(3)罪悪感がない(4)人を殺す意識がなく、モノを破壊する感覚しかない-などだ。
13年の大阪教育大付属池田小事件や今年3月の茨城県土浦市の8人殺傷事件もこれに該当。加藤容疑者も挫折感や「格差社会」への不満から無差別殺人へとエスカレートした疑いが強いが、秋葉原を犯行場所に選び、面識のない人を殺害した動機には直結しない。
《現実では誰にも相手にされませんもの ネットならかろうじて、奇跡的に話してくれる方がいます》。加藤容疑者はサイトで孤独感をあらわにした。《友達が欲しい》とSOSも発し、サイトへの依存ぶりを《私の唯一の居場所》と記した。
《全員一斉送信でメールをくれる そのメンバーの中にまだ入っていることが、少しうれしかった》。犯行の約6時間前の書き込みだ。関西学院大の野田正彰教授(精神病理学)は「社会とのつながりを『うれしい』と書いた。この喜びを広げてやれれば、彼を救えたかもしれない」。
田代氏の分析では、器物破壊化殺人に走るメカニズムはこうだ。最大の原因は社会や周囲からの疎外感。それは、学歴社会での「負け組」意識が孤独な性格と結びついて生じやすい。そこから被害妄想が膨らみ、社会に報復を企てる-。加藤容疑者にも符号しそうだ。
2008/06/08のBlog
[ 16:48 ]
[ 本たち ]
例えば、こんな書き出しの小説はどうだろう。
<かつて、私は子供で、子供というものがおそらくみんなそうであるように、絶望していた。絶望は永遠の状態として、ただそこにあった。そもそものはじめから。
だからいまでも私たちは親しい。
やあ。
それはときどきそう言って、旧友を訪ねるみたいに私に会いにくる。やあ、ただいま。>
これは江國香織『ウエハースの椅子』の書き出しである。
私は、この書き出しは好きである。では、この小説は好きか? と聞かれると、答えるのは難しい。
この本を読んだ当時は好きだった気がするが、本当のところはどうだったのかよくわからない。この小説が好きだったのか、それともこの小説を推薦してくれた人が好きだったのか、考えるとわからなくなるからだ。
ただひとつはっきり言えるのは、私は江國香織さん個人は決して好きなタイプではない。男であれ女であれ、自分が好きな人が自分が嫌いな人を好き(あるいはその逆)であることはよくあることである。
2008/06/07のBlog
[ 12:46 ]
[ マキシ普及委員会 ]
【関連記事「in・マキノコ!」研究序説(1)】
【関連記事「in・マキノコ!」研究序説(2)】
私は詩歌について格別云々できるような人間ではないが、この人の詩は本当にすごいと思う。理屈抜きで感動する。天才詩人ではないかと思う。
その天才詩人、「in・マキノコ!」のマキノコさんが自作の詩だけを集めたブログ「マキシ」を立ち上げたようである。2005年7月から現在までに「in・マキノコ!」に発表した詩、全112編(実際には一つの記事中に複数の詩が収録されているケースもあるので、実数はもっと多くなる)が収録されている。
私はすべての詩を何度も読み返し、とりわけ好きな詩を選んでみた。するとその数、58編、約半数である。これでは多すぎるのでさらに厳選したが、それでも29編が残った。その中からさらに選り抜きの詩を選んだが、それでも18編が残った。そこからさらに、涙を呑んでベスト10を選んでみた。説明も形容も無用である。皆さんが直接味わってみてください。
・ アンコンディショナル・マキ♪
・ 祈り
・ 善くない事態すら人は思い出に変える
・ 心は躍る
・ 世界の中に
・ よちよち
・ ベッドに寝転がって
・ 朧
・ 空は夕暮れ
・ 昨日の夜は台風だった
2008/06/06のBlog
[ 18:17 ]
[ 社会 ]
これから書くことは、多くの人の共感を得られないだろう。だからこそ、あえて書く必要性を感じる。
まずは今日の東京新聞のコラム「筆洗」を全文引用する。
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こういう素直な「大喜び」の写真にお目にかかることは、最近、あまりなかったような気がする。きのうの朝刊▼満面の笑みで、手をつなぎ跳びはねている女の子たち。その理由が「日本人になれたこと」だというのだから、同じ日本人としては、少し面はゆいけれど、まずはひと言、歓迎の言葉を言わせてほしい。おめでとう、そして、ようこそ!▼最高裁が、フィリピン人を母に、日本人を父に持つ八-十四歳の子十人に、日本国籍を認めた。出生後に父親が認知していても、両親が結婚していなければ国籍を認めない、とする国籍法の規定を憲法の「法の下の平等」に反する差別、と断じたうえでのことである▼こういう婚外子の差別は、国籍認定で同じ血統主義をとるフランスやドイツにもないし、まして、日本でも母親が日本人なら認めているのだから、今回の判決はもっともというしかない。二〇〇二年に、まったく同じケースで正反対の判決を下した最高裁も六年かけて、やっと時代に追いついた▼東海地方に住む原告の一人、マサミちゃん(10)は日本生まれの日本育ち、日本人の血が流れ、日本語を話すのに、国籍がないばっかりに「ガイジン、ガイジン」といじめられたこともあったという▼同じような境遇の子は数万人いるともいわれる。この上は法を改め、早くその子たちにも言ってあげたい。ようこそ!
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この文章を読み、特に第2段落に私は激しい違和感を覚えた。原告の少女たちが喜んでいる理由は「日本人になれたこと」だという。そして、筆者は「同じ日本人」として、「少し面はゆい」が、「おめでとう、そして、ようこそ!」という「歓迎の言葉」を述べるというのだ。
原告の少女たちが喜んでいるのは「日本国籍の取得」が認められたからだ。国籍法第2条は「出生の時に父又は母が日本国民であるとき」には日本国籍を取得すると定めており、彼女らの父親は日本人であるので、本来ならば、彼女たちは出生の時点で日本国籍を持っていたはずなのである。ところが、両親の結婚を条件とするという違憲の規定のお陰で、憲法に反して彼女たちは日本国籍を剥奪されていたのである。そうした違憲状態を今回の最高裁判決が正したわけである。
筆者は原告の少女たちと「同じ日本人」だというが、これは「同じ日本国民」という意味に解釈しないと意味が通じない。「日本人になれた」という言葉も同様である。しかし、筆者には日本人と日本国民を区別して捉える視点はないようである。「日本国民イコール日本人」と勝手に前提しているようである。この点は後で論ずるとして、筆者は一体なにが「少し面はゆい」のだろうか。原告の少女らから憲法に反して国籍を剥奪していた国家の国民として「面はゆい」のだろうか? むしろ、正常な神経であれば「恥ずかしい」と表現すべき事態なのではないだろうか。そして、「おめでとう、そして、ようこそ!」などと「歓迎の言葉」を述べる神経もわからない。「おめでとう、そして、ようこそ!」などという「歓迎の言葉」は、なにか入会資格を得ることが名誉であるような結社か共同体のメンバーが新たなメンバーを迎える際に述べるのにふさわしい言葉であるが、生まれながらにしてもっていたはずの国籍を不当に奪われていたのが、遅ればせながらようやく(もともともっていたはずの)国籍を最高裁によって認められた人に対して言うべき言葉では決してないだろう。
それにしても、一体筆者はどういう意味で「日本人」という言葉を使っているのだろうか。原告の少女たちは、「日本国民」になったとしても、民族的な意味で日本人になったわけではない。民族的には彼女たちは日本とフィリピンという2つの文化的ルーツを持つ“ダブル”である。そのことは、昨日の東京新聞社会面の「これ、夢だよね」という奇妙なタイトル(「これ、夢じゃないよね」とすべきではなかったか?)の記事の中で、「会見の終わりには、子どもと母親らがフィリピンのタガログ語で「フィリピン人移民、万歳」と心を一つにするように声を上げた」とあったことからも明らかである。ところが、このコラムの筆者には、多くの(民族的意味での)日本人と同様、民族的意味の「日本人」と日本国民を区別するという観点がない。それは、この筆者も、多くの日本人と同様、日本人と日本国民は同じである(はずだ)、という無意識の偏見を持っているからだ。そのことは、「原告の一人、マサミちゃん(10)は日本生まれの日本育ち、日本人の血が流れ、日本語を話すのに、国籍がないばっかりに「ガイジン、ガイジン」といじめられたこともあったという」という一文にも表れている。「日本生まれ」「日本育ち」「日本人の血」「日本語を話す」というのは文化的・民族的な指標であって、そういう人を筆者は「日本人」だと見なしているのだろう。だから、「日本人」なのに「日本国籍」がないのはおかしい、という発想になるのだ。しかし、そういう発想に立つ限り、日本人以外には日本国籍を与える必要がないし、むしろ与えるべきではない、という排他的な発想と表裏一体である。しかし、元来、国籍と民族性とは別個のものなのである。日本国民の中で、主要民族である「日本人」が占める比率が高いのは事実であるが、朝鮮系、韓国系、中国系など様々な民族的出自を持つ人、あるいは外国人と日本人との“ダブル”、先住民族であるアイヌ人など、日本民族以外の日本国民も大勢いるのである。「日本生まれ」でない国民、日本育ちでない国民、「日本人の血」を一部だけ受け継ぐ国民、「日本人の血」を全く持たない国民もいる。なかにはあまり日本語を話せない日本国民もいるだろう。ところが、「日本人=日本国民」という無意識的な偏見は、こうしたマイノリティーの日本国民を不可視化し、場合によっては「本当の日本人じゃない」として差別したり排除したりするような空気を醸成するだろう。ただ単に、国籍を認めればすべてが解決する、という問題ではないのである。法的差別がなくなった後も、社会的差別が長く続くという事態は珍しくないからである。これはまさに、われわれ普通の市民一人一人の意識の問題なのである。そういう意味で、相対的には「良心的」と見られる新聞社の有名コラムの筆者が、日本社会に根強い偏見を助長するような言説を振りまいているのは嘆かわしいことである。
まずは今日の東京新聞のコラム「筆洗」を全文引用する。
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こういう素直な「大喜び」の写真にお目にかかることは、最近、あまりなかったような気がする。きのうの朝刊▼満面の笑みで、手をつなぎ跳びはねている女の子たち。その理由が「日本人になれたこと」だというのだから、同じ日本人としては、少し面はゆいけれど、まずはひと言、歓迎の言葉を言わせてほしい。おめでとう、そして、ようこそ!▼最高裁が、フィリピン人を母に、日本人を父に持つ八-十四歳の子十人に、日本国籍を認めた。出生後に父親が認知していても、両親が結婚していなければ国籍を認めない、とする国籍法の規定を憲法の「法の下の平等」に反する差別、と断じたうえでのことである▼こういう婚外子の差別は、国籍認定で同じ血統主義をとるフランスやドイツにもないし、まして、日本でも母親が日本人なら認めているのだから、今回の判決はもっともというしかない。二〇〇二年に、まったく同じケースで正反対の判決を下した最高裁も六年かけて、やっと時代に追いついた▼東海地方に住む原告の一人、マサミちゃん(10)は日本生まれの日本育ち、日本人の血が流れ、日本語を話すのに、国籍がないばっかりに「ガイジン、ガイジン」といじめられたこともあったという▼同じような境遇の子は数万人いるともいわれる。この上は法を改め、早くその子たちにも言ってあげたい。ようこそ!
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この文章を読み、特に第2段落に私は激しい違和感を覚えた。原告の少女たちが喜んでいる理由は「日本人になれたこと」だという。そして、筆者は「同じ日本人」として、「少し面はゆい」が、「おめでとう、そして、ようこそ!」という「歓迎の言葉」を述べるというのだ。
原告の少女たちが喜んでいるのは「日本国籍の取得」が認められたからだ。国籍法第2条は「出生の時に父又は母が日本国民であるとき」には日本国籍を取得すると定めており、彼女らの父親は日本人であるので、本来ならば、彼女たちは出生の時点で日本国籍を持っていたはずなのである。ところが、両親の結婚を条件とするという違憲の規定のお陰で、憲法に反して彼女たちは日本国籍を剥奪されていたのである。そうした違憲状態を今回の最高裁判決が正したわけである。
筆者は原告の少女たちと「同じ日本人」だというが、これは「同じ日本国民」という意味に解釈しないと意味が通じない。「日本人になれた」という言葉も同様である。しかし、筆者には日本人と日本国民を区別して捉える視点はないようである。「日本国民イコール日本人」と勝手に前提しているようである。この点は後で論ずるとして、筆者は一体なにが「少し面はゆい」のだろうか。原告の少女らから憲法に反して国籍を剥奪していた国家の国民として「面はゆい」のだろうか? むしろ、正常な神経であれば「恥ずかしい」と表現すべき事態なのではないだろうか。そして、「おめでとう、そして、ようこそ!」などと「歓迎の言葉」を述べる神経もわからない。「おめでとう、そして、ようこそ!」などという「歓迎の言葉」は、なにか入会資格を得ることが名誉であるような結社か共同体のメンバーが新たなメンバーを迎える際に述べるのにふさわしい言葉であるが、生まれながらにしてもっていたはずの国籍を不当に奪われていたのが、遅ればせながらようやく(もともともっていたはずの)国籍を最高裁によって認められた人に対して言うべき言葉では決してないだろう。
それにしても、一体筆者はどういう意味で「日本人」という言葉を使っているのだろうか。原告の少女たちは、「日本国民」になったとしても、民族的な意味で日本人になったわけではない。民族的には彼女たちは日本とフィリピンという2つの文化的ルーツを持つ“ダブル”である。そのことは、昨日の東京新聞社会面の「これ、夢だよね」という奇妙なタイトル(「これ、夢じゃないよね」とすべきではなかったか?)の記事の中で、「会見の終わりには、子どもと母親らがフィリピンのタガログ語で「フィリピン人移民、万歳」と心を一つにするように声を上げた」とあったことからも明らかである。ところが、このコラムの筆者には、多くの(民族的意味での)日本人と同様、民族的意味の「日本人」と日本国民を区別するという観点がない。それは、この筆者も、多くの日本人と同様、日本人と日本国民は同じである(はずだ)、という無意識の偏見を持っているからだ。そのことは、「原告の一人、マサミちゃん(10)は日本生まれの日本育ち、日本人の血が流れ、日本語を話すのに、国籍がないばっかりに「ガイジン、ガイジン」といじめられたこともあったという」という一文にも表れている。「日本生まれ」「日本育ち」「日本人の血」「日本語を話す」というのは文化的・民族的な指標であって、そういう人を筆者は「日本人」だと見なしているのだろう。だから、「日本人」なのに「日本国籍」がないのはおかしい、という発想になるのだ。しかし、そういう発想に立つ限り、日本人以外には日本国籍を与える必要がないし、むしろ与えるべきではない、という排他的な発想と表裏一体である。しかし、元来、国籍と民族性とは別個のものなのである。日本国民の中で、主要民族である「日本人」が占める比率が高いのは事実であるが、朝鮮系、韓国系、中国系など様々な民族的出自を持つ人、あるいは外国人と日本人との“ダブル”、先住民族であるアイヌ人など、日本民族以外の日本国民も大勢いるのである。「日本生まれ」でない国民、日本育ちでない国民、「日本人の血」を一部だけ受け継ぐ国民、「日本人の血」を全く持たない国民もいる。なかにはあまり日本語を話せない日本国民もいるだろう。ところが、「日本人=日本国民」という無意識的な偏見は、こうしたマイノリティーの日本国民を不可視化し、場合によっては「本当の日本人じゃない」として差別したり排除したりするような空気を醸成するだろう。ただ単に、国籍を認めればすべてが解決する、という問題ではないのである。法的差別がなくなった後も、社会的差別が長く続くという事態は珍しくないからである。これはまさに、われわれ普通の市民一人一人の意識の問題なのである。そういう意味で、相対的には「良心的」と見られる新聞社の有名コラムの筆者が、日本社会に根強い偏見を助長するような言説を振りまいているのは嘆かわしいことである。
2008/06/05のBlog
[ 12:17 ]
[ 裁判・司法 ]
今朝の朝日新聞1面トップは、久々に明るいニュースだった。
(備忘録として)アサヒ・コムから記事全文を引用する。
■「国籍法は違憲」婚外子10人に日本国籍 最高裁判決
結婚していない日本人の父とフィリピン人の母から生まれた子ども10人(8~14歳)が、日本国籍の確認を国に求めた訴訟で、最高裁大法廷(裁判長・島田仁郎(にろう)長官)は4日、10人全員に日本国籍を認めた。生まれた後に父から認知されても、両親が結婚していないことを理由に日本国籍を認めない現在の国籍法は、憲法14条の「法の下の平等」に反すると判断した。
結婚しているかによる区別が違憲とされたのは初めて。同じ国籍問題を抱える子どもについて正確な統計はないが、国内だけで数万人という推計があり、海外にも相当数いるとみられる。法務省は国籍法の改正を迫られる。
また、最高裁が法律を違憲と判断した判決は、05年に海外に住む日本人に選挙権を認めない公職選挙法を違憲として以来で、戦後8件目。
国籍法の2条1号によれば、父母が結婚していない「婚外子」でも、生まれる前の段階で父の認知があれば、国籍を取得できる。一方、国籍法3条1項は、生まれた後に認知された場合に父母が結婚しなければ国籍を得られないと定めた。その違いは、出生した時点で子どもの国籍を確定させるのが大原則だという考え方による。
この国籍法を違憲と判断したのは、15人の裁判官のうち12人。うち9人が多数意見で「84年の立法当時は結婚によって日本との結びつきを区別することに理由があったが、その後に国内的、国際的な社会環境の変化があった」と指摘。その例として、家族生活や親子関係の意識の変化や実態の多様化、認知だけで国籍を認める諸外国の法改正を挙げた。
遅くとも、原告たちが国籍取得を法務局に届け出た03~05年には、結婚を要件に国籍を区別するのは不合理な差別になっていたと認定。3条1項のうち結婚の要件だけを無効にして、要件を満たせば国籍を認めると結論づけた。
一方、同じ違憲でも3人の裁判官は理由が異なり、本来は国会が立法で解決するべきだったのに怠った「立法の不作為」を違憲とする立場を採った。3人のうち1人は「現行法の拡張解釈で違憲状態を解消できる」として子どもに国籍を認めたが、他の2人は「違憲状態を是正するには、立法によるべきだ」として、国籍を認めなかった。
このほか、3人の裁判官は「婚外子は両親の結婚と父親の認知により、日本との密接な結びつきをもつ」という法務省の見解を認め、「合憲」とする反対意見を述べた。
結局、子どもに国籍を認めたのは10人の裁判官。5人は国籍を認めなかった。この判決により、原告の10人の子どもたちは、国籍取得を法務局に届け出た03~05年の時点で日本国籍を得たことになる。
一審・東京地裁は違憲と判断したが、二審・東京高裁は憲法判断に踏み込まずに子ども側の逆転敗訴としていた。(岩田清隆)
===========<以上、引用>================
最高裁大法廷の多数意見の結論そのものはごく当然のことのようにも思えるが、最高裁が戦後60余年の間に現行法を違憲と断じた判決がこれで8件目だということを知れば、今回の違憲判決がいかに画期的であるかということがわかるだろう。
しかも、驚くべきことはそれだけではない。今朝の新聞は、朝日、読売、日経、毎日、産経の5大紙がそろって社説でこの判決を取り上げており、すべての社説が今回の判決を評価しているのである。以下に、そのリンクを貼っておく。
ざっと読んだ限りでは、毎日新聞の社説が最も優れているように感じた。
【朝日新聞社説】婚外子の国籍―子どもを救った違憲判断
【読売新聞社説】「国籍法」違憲 時代に合わない法を正した
【毎日新聞社説】国籍法は違憲 価値観の見直し迫る最高裁
【日経新聞社説】速やかに国籍法の手直しを
【産経新聞主張】婚外子国籍訴訟 時代の流れくんだ判決だ
*なお、社説ではないが、東京新聞の社会面の記事のリンクも貼っておく。
婚外子訴訟逆転勝訴 「これ、夢だよね」