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2008/07/15のBlog
[ 21:15 ]
[ 言葉 ]
運命とは、偶然と意思的行為の総体に悲劇というベールを被せるための意匠である。
2008/06/27のBlog
[ 19:10 ]
[ 社会 ]
笹川陽平日本財団会長の妄想に端を発し、「たばこと健康を考える議員連盟」なる超党派の国会議員集団が検討している、たばこを一箱千円にするという極端なたばこ大増税案に対し、これまで私が目にした限りでは、不破利晴さんの「「禁煙ファシズム」をぶん殴る」という論考を除き、本格的な反対論がないことに不審と不満を感じていた。
たばこ増税推進論者の論拠は、増税による税収増と国民の健康増進による医療費抑制の2つである。このうち、前者の論拠について、笹川陽平氏は、「たばこの値段を一箱千円にすれば9兆5千億円の税増収が見込め、仮に消費量が3分の1になっても3兆円超の税収増が見込める」と述べている。しかし、この論拠については、経済アナリストの森永卓郎氏が6月26日付朝日新聞「私の視点」欄に寄せた一文「たばこ増税:本当に税収は増えるのか」において、緻密な反論を加えている。森永氏によれば、最近では03年と06年に2度たばこの増税が行われたが、値上げによって消費量が減ったために、たばこの税収は01年度の2兆2493億円から今年度(見込)は2兆2000億円へとかえって減っている。そして、今年4月、製薬会社が喫煙者に行った調査によると、「たばこが千円になったら禁煙する」と答えた人が79%に上った。そこで、仮にたばこを1箱千円にして喫煙者の79%が禁煙すると仮定し、たばこ小売店に入る利益が値上げ前と同じく販売価格の10%として計算すると、税収は2兆2566億円となり、驚くべき事に現状とほとんど変わらないという。しかも、たばこの消費量が5分の1になるのだから、たばこ産業の国内生産額も5分の1となり、たばこ産業の国内生産額1兆円のうちの8割、8千億円が失われることになる。そのうち1割が税金とすると、税収減は800億円に上る。たばこを増税して、逆に税収が減ってしまうことさえありうる、というのである。森永氏はさらに、喫煙率の低下によって医療費が削減できるとの予測についても合理的な疑問を呈している。
森永氏の予測が正しければ、税収増を論拠とする増税案は根拠を失うことになる。しかし、問題の本質は、税収が増えるか減るか、などというところにあるのではない。たばこ増税案の根本的な問題は、それが課税の根本原則であるところの公平性に著しく違反し、贅沢品でもないのに、特定の嗜好を持つ人々だけを狙い打ちにして甚だしい重税を課す、という不平等性こそ最大の問題点なのである。たばこの税負担率は、現在すでに価格の63%が税金という超重税品目になっており、300円のたばこの場合、なんと約190円が税金であり、しかもその内訳は、国税、都道府県税、市町村税、たばこ特別税、消費税という5種類もの税金がかかっているのである。この現状を見ただけでも、すでに課税の公平原則に違反し、憲法14条の平等原則に違反する疑いすらあるのである。それが、仮に一箱千円に値上げされ、値上げ分がすべて税金になった場合、なんと税負担率が89%にまで達するという異常事態となり、もはや憲法14条に違反することは明白と言わざるを得ないだろう。
そもそも、課税の根本原則である公平原則は、租税公平主義とも呼ばれ、税負担は国民それぞれの担税力に即して公平に配分されなければならず、各種の租税関係において国民は平等に取り扱われなければならないことを意味している。この原則は、「担税力に応じた課税」と、租税関係における「公平中立の原則」を要請しており、これらの原則は、憲法14条の平等取扱い原則ないし不平等取扱い禁止原則に由来する(金子宏『租税法(第十版)』弘文堂)。したがって、奢侈品でもない単なる特定の嗜好品に9割近い税金を課すことは、租税公平主義に違反し、憲法の平等原則に違反することは明白である。
しかし、たばこ増税案が憲法違反であるのは、14条の平等原則に違反するからだけではない。さらに深刻な問題は、それが特定の生き方(喫煙者としての生)を否定し、別の特定の生き方(非喫煙者としての生)を押しつけるような法的強制を加えることにより、人間の自由と自己決定権を否定し、日本国憲法の人権条項の中でも中核的な地位を占める13条の幸福追求権を否定していることである。すなわち、たばこ増税案は憲法13条と14条、自由と平等という人権の中核的価値を否定するという重大な違憲性を孕んだ提案なのである。にもかかわらず、これまでのところ、税収が増えるか否かといった枝葉末節の議論ばかりで、このような本質的な論点が正面から議論されてこなかったのは、日本人がいかに自由と平等の重要性を看過しているかの表れだと言ったら言い過ぎだろうか。
たばこの持つ社会的問題点は受動喫煙(間接喫煙)の問題だけである。この問題については、日本でも遅ればせながら、近年ようやく公共の場での禁煙化や分煙化という取り組みが行われている。その点で不十分な点はさらに改善の努力が必要かもしれない。愛煙家の方には気の毒だが、この点は、これまで非喫煙者が耐えさせられてきた受動喫煙の被害に思いを致し、我慢して頂くしかない。したがって、受動喫煙の問題は公共の場での禁煙化ないし分煙化によって基本的に解決可能なものであり、増税によって解決する問題では全くない。しかし、なかには、禁煙を推進することは喫煙者にとってもためになることだ、といった議論がなされることがある。これこそまさに余計なお世話以外の何ものでもない。これは個人の自由や自己決定の意義を全く理解しない人の発言でしかない。どれほどあるかもわからない肺ガンその他のガンにかかるリスクを恐れて(別にたばこを吸わなくてもガンにかかる人も多いが…)好きなたばこを止めるよりも、そういうリスクを承知の上でたばこを吸い続けるのは、他人に迷惑をかけない限り、完全にその人の自由である。
最後に、このような自由や平等の価値の重要性をこれっぽっちも理解しない愚論の見本として、(何日付だったか忘れたが)朝日新聞の「千円たばこ――動機はともあれ大賛成」という社説を掲げておこう。どこがおかしいか、もはやいちいち指摘するまでもないだろう。
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【朝日新聞社説】千円たばこ――動機はともあれ大賛成
「たばこ1箱千円」。あなたが喫煙者だったら、それでもなお吸い続けるだろうか。それとも禁煙に踏ん切りをつける絶好の機会にするだろうか。
たとえば1箱20本入り300円のマイルドセブンを、たばこ税の値上げで千円にする。そんな健康政策を推進する超党派の議員連盟が発足した。
「1箱千円」は、たばこに別れを告げる人を増やすために、大いに歓迎である。
たばこは本人ばかりか、周りで煙を吸わされる人の健康も損なう。寝たばこなどは火災の原因にもなるし、少年の非行の温床にもなっている。
2兆2千億円の税収を稼ぎ出し、葉タバコ農家や販売者の生活を支えているが、社会全体で見れば、負の部分が多い。21世紀の日本は脱たばこ社会をめざすべきだ。
政治家らが脱たばこに向けて本格的に取り組むのは初めてである。一度に千円に引き上げることはむずかしいかもしれないが、粘り強く活動してもらいたい。
日本のたばこは他の先進諸国と比べて安すぎる。代表的な銘柄の場合、英国は1300円近くするし、ドイツやフランスでも日本の倍以上だ。米国は地域で違いがあるが、ニューヨーク市の場合、やはり倍以上も高い。
日本の男性の喫煙率は40.2%と英米よりも突出して高い。女性は12.7%だが、若い世代で喫煙が増えている。赤ちゃんへの影響を考えれば、見過ごせない状況だ。
「千円たばこ」は、こうした現状を大きく変えるきっかけになる。研究者の試算や世論調査では、この水準まで価格が上がれば、8~9割が禁煙を考えるという結果が出ているからだ。
ただ、めざすべきは、あくまでも国民の健康や安全の基盤づくりであることを改めて確認しておきたい。
議連には、税収を増やすために、たばこ税を上げようと考えている議員も少なくない。早くも約9兆円も税収が増えるという皮算用が出ている。
しかし、これは消費量がいまと同じという前提だ。価格を上げれば、当然、買う人は減る。
消費量を減らすのがそもそもの目的だから、税収も大きく減ることを覚悟しておいた方がいい。税収が減ることを嫌って、大幅な引き上げをためらうようなことがあってはならない。
「財政収入の安定的確保」を目的にしているたばこ事業法は、根本から改めなければならない。
議連には、たばこ税に代わる安定的な財源の確保に知恵を絞ってもらいたい。国が巨額の債務残高を抱え、高齢化で医療や介護の費用が増える中で、消費増税などで補う必要がある。
「千円たばこ」は、税制改革を本気で考える契機にもなる。
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2008/06/25のBlog
[ 13:09 ]
[ 本たち ]
nadjaさんが堀辰雄の『風立ちぬ』を紹介しておられる。
私も中学時代に堀辰雄の「風立ちぬ」と「美しい村」を読み、その叙情的で美しい描写に憧れたものだが、所詮、田舎の貧乏中学生にとっては、このようなブルジョア的な恋愛などとは一生無縁であることは、その時点ですでにわかってしまっていた。
私にとっては、サナトリウムなるものが、何か甘美な憧れを催させる場所として強く印象づけられたものの、その後、再び堀辰雄を読むことはなかった。
大人になってから読んだ寺山修司の『さかさま文学史・黒髪篇』の中に、堀辰雄への愛憎を書いた一文があり、非常に共感を覚えたものだ。それ以後、堀辰雄と言うと、「風立ちぬ」よりも寺山修司のこの文章を思い出すほどだ。以下、いささか長くなるが、寺山の文章を引用する。
(なお、念のために付言しますが、この文章を引用するのは、単に寺山の視点が面白いからであり、決して堀辰雄をけなすためではないことを強調しておきます。)
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私は、堀辰雄の『燃ゆる頬』や『麦藁帽子』を真似た短編を書いてみたりもしたが、何しろ、軽井沢の胸を病む少女と詩人との、フランス語まじりの知的な会話と、円形脱毛症に悩む青森弁の中学生とのあいだは、あまりにもひらきが大きく、書いても書いても似たものができる訳はなかった。
そして、そのうちに、かわいさ余ってにくさが百倍。
次第に堀辰雄の小説がきらいになっていったのである。
「私たちがずっと後になってね。今の私たちの生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」
と、堀辰雄は『風立ちぬ』の中で書いている。
だが、と私は思った。
自分のことを「どんなに美しいだろう」と書ける神経がいささか奇異に映ったからである。
おそらく、私ならば「美しい」ということばを使うことなどできないだろう。たとえ、それが過去の「物語」にすぎないとしても、よほどのナルシストでないかぎり、じぶんのロマンスのことなど照れてしまうものである。
だが、堀辰雄は、それをぬけぬけとやってみせた。そうしたキザさ、自己讃美の露出癖は、いわば堀辰雄の文学の特性であった。
だから、はじめて堀辰雄の写真を見たとき、私はおどろいてしまったものだ。
ほんものの堀辰雄は、ジャン・ルイ・バローのような美青年どころか、髪はもじゃもじゃで、眼鏡をかけた、どっちかといえば「いい男」などではない三十すぎの作家にすぎなかったのである。
・・・・
さあ、風が吹いてきた。私たちは、生きなければならない――というヴァレリーの詩を引用するときの堀辰雄の「生」は、「真の生」であって、現実の生とはべつのものであったのである。
死を通りぬけてなお存在し死を超えてかがやく高原の一房の葡萄のような辰雄と綾子(「風立ちぬ」の中では節子)の愛とその記録。
それは、同時代の読者の心を奪わずにおかなかった。
堀辰雄は、綾子との日々を『風立ちぬ』と『美しい村』の二編の中編小説に書き、作家としての情熱のすべてをそこに燃やして、一世を風靡した。
「真の婚約」ということばは堀辰雄の死んだ綾子への永遠の愛を想わせるものだったので、だれもが、
「堀辰雄は一生独身で通すだろう」
と思ったものである。
だが、綾子が死んでわずか二年後に、堀辰雄は九歳年下の加藤多恵子と結婚した。
・・・
それから、五十歳で死ぬまでの十五年間、堀辰雄は『風立ちぬ』を上回る小説を欠くことがなかった。
人々は、それを堀辰雄の健康のせいにしたが、私はやっぱり綾子のせいではなかったかと思っている。
『風立ちぬ』を書かせた綾子は「真の婚約」をうらぎって他の女と結ばれた辰雄に罰として、二度と「美しい」小説を書かせないようにしたのだ――そう考えるのは、まちがいであろうか? 読者の皆さん。
――寺山修司「婚約者・矢野綾子」『さかさま文学史・黒髪篇』より
[ 12:02 ]
[ 本たち ]
さらに、しつこく寺山修司『ポケットに名言を』(角川文庫)からの再引用を続ける。
「仁義なんてものは悪党仲間の安全保障条約さ」
――黒沢明「酔いどれ天使」
鉄砲玉が遠くまで飛ぶのは方向が限られているからさ。
――ディアギレフ
人間は、鏡をもって生まれてくるのではなく、また、われはわれなりというフィヒテ的哲学者として生まれてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映してみる。
――カール・マルクス「資本論」
ある状況についての幻想を捨てたいという願いは、幻想を必要とする状況を捨てたいという願いである。
――カール・マルクス
もし世界の終わりが明日だとしても私は今日林檎の種を蒔くだろう。
――ゲオルグ・ゲオルギウ
地上的な希望はとことんまで打ちのめされねばならぬ。そのときだけひとは真の希望で自分自身を救うことができる。
――カフカ「城」
なぜ、人間は血のつまったただの袋ではないのだろうか?
――フランツ・カフカ
一杯の茶のためには、世界など滅びていい。
――ドストエフスキー「地下生活者の手記」
[ 11:18 ]
[ 本たち ]
引き続き、寺山修司『ポケットに名言を』(角川文庫)からの再引用――。
人間は生きなければならないという責任を負っている。けれども私には責任が失われて、それを失わせてしまった行為の責任が問われる。そしてそこにおいて生と死を見なければならない。
――李珍宇「獄中書簡」
花も嵐も踏み越えて
行くが男の生きる道
泣いてくれるなほろほろ鳥よ
――西條八十「旅の夜風」
貞淑、それは虚栄である。それは形を変えた自尊心である。
――アンドレ・ジイド「ワルテルの日記」
恋における貞節とは欲情の怠惰にすぎない。
――アンドレ・レニエ
勤勉な馬鹿ほどはた迷惑なものはない。
――ホルスト・ガイヤー「人生論」
安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしてるときは生のよろこびを書きつづる。
――太宰治「晩年」
「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」
――「チャップリンの殺人狂時代」
犯罪者は国家の競争相手であり、国家の暴力独占権を脅かす存在である。
――エンツェンスベルガー「政治と犯罪」
政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことが出来ない。
――トーマス・マン「魔の山」
人間は生きなければならないという責任を負っている。けれども私には責任が失われて、それを失わせてしまった行為の責任が問われる。そしてそこにおいて生と死を見なければならない。
――李珍宇「獄中書簡」
花も嵐も踏み越えて
行くが男の生きる道
泣いてくれるなほろほろ鳥よ
――西條八十「旅の夜風」
貞淑、それは虚栄である。それは形を変えた自尊心である。
――アンドレ・ジイド「ワルテルの日記」
恋における貞節とは欲情の怠惰にすぎない。
――アンドレ・レニエ
勤勉な馬鹿ほどはた迷惑なものはない。
――ホルスト・ガイヤー「人生論」
安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしてるときは生のよろこびを書きつづる。
――太宰治「晩年」
「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」
――「チャップリンの殺人狂時代」
犯罪者は国家の競争相手であり、国家の暴力独占権を脅かす存在である。
――エンツェンスベルガー「政治と犯罪」
政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことが出来ない。
――トーマス・マン「魔の山」
[ 10:51 ]
[ 本たち ]
世に名言集の類は数多あるが、私にとっては、寺山修司『ポケットに名言を』(角川文庫)に優るものはない。ここには古今東西の文学・哲学書・映画・歌謡曲・俚諺など、ジャンルを問わず、名言・至言が集められている。
本書に収録された名言の中から、特に印象的なものを再引用させて頂く。
選ぶすべを知る男の祖国は、それは茫漠とした雲の赴くところだ。
――アンドレ・マルロー
或る模範に人生をあてはめようとする人たち、この生ける屍みたいな人間たちの言葉を一体どうしろと言うんだ? 人生に何らの究極目的が与えられていないということ、それが今や行動の条件となったのだ。
――アンドレ・マルロー
夜、夢を見る者は、夜明けに目を覚ますとすべてが空しいということに気がつく。ところが、白昼夢を追う者は危険な人間である。何故なら彼らは、目を開けたまま自分の夢を演じ、これを実現することがあるから。
――アンドレ・マルロー「書簡集」
そこで私は現実だと思っていたことが実は夢で、夢の方が実は現実なのだ――といったような夢を見たのだ。
――アントン・チェーホフ
われわれは苦しむ以上に恐れるのである。
――アラン「幸福論」
解かれることを望まない秘密だってあるさ。
――エドガー・アラン・ポー「盗まれた手紙」
英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ。
――ベルトルト・ブレヒト「ガリレイの生涯」
2008/06/21のBlog
[ 21:27 ]
[ メディア ]
昨日(6月20日)の朝日新聞の社説「社会保障改革―首相の本音が聞きたい」には、タイトルを読んだだけで失笑した人も多いだろう。「首相の本音が聞きたい」って、一体誰に向かっていってるんですか? 「首相の本音を聞く」のはあなた方新聞記者の務めなのではないんですか? そしてそれを国民に伝えるのが新聞社の役割でしょ!? その新聞社の論説委員が国民に向かって「首相の本音を聞きたい」などとほざくのは一体どういう神経をしているのか?
しかし、その社説の中身を読むと、失笑して済ませられる問題ではないことが明らかになる。ここにきて朝日新聞社(つまり論説委員たちの立場)は明確に庶民に敵対する立場を鮮明にした、と言わざるを得ない。社説は言う。「小泉内閣以来の歳出削減で、社会保障に無理が生じてきた。医師や介護の担い手の不足が深刻なので、もっと人も予算も増やそう。そうした提言が政府の内側から相次いでいる。どれも国民が不安を感じている問題だ」と。これだけ読むと、小泉政権下以来の新自由主義路線の下での社会保障予算削減政策によって国民生活が不安にさらされているからその政策を転換しなければいけないと、真っ当な主張をしているのかと誤解する読者もいるだろう。しかしそうではない。朝日新聞はその2日前の社説「財政運営―道路財源で突破口を」の中で、明確にこう主張しているのである。「社会保障は他からの予算を回すだけでなく、さらに削減にも努めるべきだ」と。驚くべき主張である。いや、恐るべき主張である。
もともと「小さな政府」であり、GDPに対する公的社会支出の割合が先進国中、アメリカと並んで最低水準だった日本だが、80年代以降の新自由主義路線下で徐々に進行していた年金・医療など社会保障分野における給付削減・負担増の傾向が小泉「構造改革」路線によって一層露骨になり、非正規雇用の劇的増大・格差の拡大・相対的貧困層と絶対的貧困層の割合がともに先進国中最高水準にまで上昇するなか、高齢者・障害者・病者など社会的弱者の切り捨て政策によって、憲法が保障する生存権さえ脅かされる超不安社会が現出しているが、そういう状況においてなお一層の社会保障費削減を朝日新聞は主張しているのである。
そして朝日社説は上記の引用部分に続き、次のように述べている。
<福田首相も、福祉財源として消費税を増税することについて「決断しなければいけない、大事な時期だ。高齢化社会を考えると、道は狭くなってきている」と述べた。■必要な医療・介護を支えるには増税論議を避けられないと腹をくくったのか。そう思ったら、直後に「そういうつもりで言ったのではない」とも語っている。(……)首相がこんなにあいまいな姿勢では、前に進んでいくと思えない。(……)増税問題は避けて通れない局面にきている。>
つまり、「社会保障費はさらに削減し、消費税を増税せよ!」――これが朝日新聞社の主張なのである。これは財界が長年主張し続け、政府・自民党が財界の要求を受けて、着実に実行してきたことである。しかし自民党の政治家には選挙という“関門”があるため、国民の多数を占める庶民を苦しめるこういう主張はあまり大っぴらには言えないことなのである。それを朝日新聞は自民党に代わって大々的に主張し、国民を洗脳し続けているのである。政府・自民党は、(自らの失政の結果である)財政破綻の危機を煽り、高齢化社会の到来によって増加する医療費の抑制が急務であると喧伝し続けている。しかし、2003年の国民医療費の対GDP比率は、日本は8.0%であり、アメリカ(15.2%)、ドイツ(10.9%)、フランス(10.4%)、カナダ(9.9%)、スウェーデン(9.3%)などよりも低く、OECD諸国中、イギリスの7.9%と並ぶ低水準なのである。厚労省の2015年の予測においても、国際比較において格別高い水準に達するわけでもない。松本淳・高端正幸両氏が言うように、「複雑さをきわめた医療保険制度とその財政状況について、国民が容易に理解できないことを前提に、高齢化の進展→医療費の傍聴と医療保険財政の限界→患者負担割合の引き上げやむなし、という、実際には妥当さを欠く」議論(神野直彦・井手英策編『希望の構想』参照)を政府は国民に洗脳しようと躍起になっている最中、そのお先棒を担いでいるのが朝日新聞(をはじめとするマスメディア)というわけである。
しかし、そもそもなぜ現状のような財政危機に陥ったのかという原因分析が不可欠のはずである。素人でもわかるのは、(米軍に対する「思いやり予算」を含む)膨大な軍事費や無駄な公共事業費をはじめとする膨大な無駄な歳出構造と、90年以降、所得税の最高税率と法人税率の引き下げによって、所得税、法人税がそれぞれ12兆2000億円、8兆6000億円、合わせて20兆8000億円も減少しているのである。これで財政危機にならないはずがないではないか。これほど露骨な金持ち・財界優遇減税によって赤字になった財政を、所得に占める税負担率が所得の低い層ほど重くなるという逆進性を持つ消費税の増税によって賄おうというのだから、これほどあからさまな貧乏人虐待政策はないであろう。今や朝日新聞は明白に金持ち・財界の肩を持ち、貧乏人や社会的弱者をさらなる極貧状態へと叩き落す政策を公然と提唱するに至ったのである。
しかし、その社説の中身を読むと、失笑して済ませられる問題ではないことが明らかになる。ここにきて朝日新聞社(つまり論説委員たちの立場)は明確に庶民に敵対する立場を鮮明にした、と言わざるを得ない。社説は言う。「小泉内閣以来の歳出削減で、社会保障に無理が生じてきた。医師や介護の担い手の不足が深刻なので、もっと人も予算も増やそう。そうした提言が政府の内側から相次いでいる。どれも国民が不安を感じている問題だ」と。これだけ読むと、小泉政権下以来の新自由主義路線の下での社会保障予算削減政策によって国民生活が不安にさらされているからその政策を転換しなければいけないと、真っ当な主張をしているのかと誤解する読者もいるだろう。しかしそうではない。朝日新聞はその2日前の社説「財政運営―道路財源で突破口を」の中で、明確にこう主張しているのである。「社会保障は他からの予算を回すだけでなく、さらに削減にも努めるべきだ」と。驚くべき主張である。いや、恐るべき主張である。
もともと「小さな政府」であり、GDPに対する公的社会支出の割合が先進国中、アメリカと並んで最低水準だった日本だが、80年代以降の新自由主義路線下で徐々に進行していた年金・医療など社会保障分野における給付削減・負担増の傾向が小泉「構造改革」路線によって一層露骨になり、非正規雇用の劇的増大・格差の拡大・相対的貧困層と絶対的貧困層の割合がともに先進国中最高水準にまで上昇するなか、高齢者・障害者・病者など社会的弱者の切り捨て政策によって、憲法が保障する生存権さえ脅かされる超不安社会が現出しているが、そういう状況においてなお一層の社会保障費削減を朝日新聞は主張しているのである。
そして朝日社説は上記の引用部分に続き、次のように述べている。
<福田首相も、福祉財源として消費税を増税することについて「決断しなければいけない、大事な時期だ。高齢化社会を考えると、道は狭くなってきている」と述べた。■必要な医療・介護を支えるには増税論議を避けられないと腹をくくったのか。そう思ったら、直後に「そういうつもりで言ったのではない」とも語っている。(……)首相がこんなにあいまいな姿勢では、前に進んでいくと思えない。(……)増税問題は避けて通れない局面にきている。>
つまり、「社会保障費はさらに削減し、消費税を増税せよ!」――これが朝日新聞社の主張なのである。これは財界が長年主張し続け、政府・自民党が財界の要求を受けて、着実に実行してきたことである。しかし自民党の政治家には選挙という“関門”があるため、国民の多数を占める庶民を苦しめるこういう主張はあまり大っぴらには言えないことなのである。それを朝日新聞は自民党に代わって大々的に主張し、国民を洗脳し続けているのである。政府・自民党は、(自らの失政の結果である)財政破綻の危機を煽り、高齢化社会の到来によって増加する医療費の抑制が急務であると喧伝し続けている。しかし、2003年の国民医療費の対GDP比率は、日本は8.0%であり、アメリカ(15.2%)、ドイツ(10.9%)、フランス(10.4%)、カナダ(9.9%)、スウェーデン(9.3%)などよりも低く、OECD諸国中、イギリスの7.9%と並ぶ低水準なのである。厚労省の2015年の予測においても、国際比較において格別高い水準に達するわけでもない。松本淳・高端正幸両氏が言うように、「複雑さをきわめた医療保険制度とその財政状況について、国民が容易に理解できないことを前提に、高齢化の進展→医療費の傍聴と医療保険財政の限界→患者負担割合の引き上げやむなし、という、実際には妥当さを欠く」議論(神野直彦・井手英策編『希望の構想』参照)を政府は国民に洗脳しようと躍起になっている最中、そのお先棒を担いでいるのが朝日新聞(をはじめとするマスメディア)というわけである。
しかし、そもそもなぜ現状のような財政危機に陥ったのかという原因分析が不可欠のはずである。素人でもわかるのは、(米軍に対する「思いやり予算」を含む)膨大な軍事費や無駄な公共事業費をはじめとする膨大な無駄な歳出構造と、90年以降、所得税の最高税率と法人税率の引き下げによって、所得税、法人税がそれぞれ12兆2000億円、8兆6000億円、合わせて20兆8000億円も減少しているのである。これで財政危機にならないはずがないではないか。これほど露骨な金持ち・財界優遇減税によって赤字になった財政を、所得に占める税負担率が所得の低い層ほど重くなるという逆進性を持つ消費税の増税によって賄おうというのだから、これほどあからさまな貧乏人虐待政策はないであろう。今や朝日新聞は明白に金持ち・財界の肩を持ち、貧乏人や社会的弱者をさらなる極貧状態へと叩き落す政策を公然と提唱するに至ったのである。
[ 13:39 ]
[ 本たち ]
著者の池内了氏は宇宙物理学者・天文学者であり、ドイツ文学者でエッセイストの池内紀氏の弟である。本書は「入門」と名づけられているが、もちろん疑似科学=ニセ(エセ)科学への入門を説いた本ではなく、疑似科学の特徴・見分け方・対処法、疑似科学に引っかかる心理などを解説した本である。著者は疑似科学を三種類に分類する。第1種疑似科学とは各種の占いやスピリチュアル・カウンセリング、オカルト・念力・超能力・UFOなどの「超科学」、カルト集団のような疑似宗教などであり、これらは疑似「科学」というよりもむしろ非科学ないしアンチ科学といった方が適切かもしれない。このなかには各種の占いのように、初めから科学的根拠のないお遊びであると認識したうえで楽しむ分には罪がなさそうに思われるものもあるが、これらの疑似科学を放置しておくことは社会に悪影響を及ぼす恐れがあると著者は憂えている。というのは、自分の頭で考えるのではなく、他人の「ご託宣」を何の疑問も抱かず受け入れてしまう体質になり、社会的事象についても的確な判断ができなくなり、観客民主主義が政治的に利用されてファシズムに行き着く危険性さえあるからだ。
第2種疑似科学とは、科学的知見を悪用・誤用・濫用したものであり、科学的外見を装いながらその実体がないもので、主に商売・ビジネスの分野で多用されている。ファジー、ゲルマニウム、磁気効果、フラボノイド、ポリフェノール、アントシアニン、活性酸素、ドコサヘキサエン酸、エイコサペンタエン酸、アドレナリン、セロトニン、右脳・左脳、マイナスイオン、アルカリイオン、ホメオパシーといった科学用語を並べることによって、あたかもありがたい効能があるかのように見せかける手法である。消費者にとっては、意味がよくわからない難解な用語を聞くだけで、「よくわからないけど、すごいな♪」という気分にさせられるのである。
しかし、これらの用語を利用した商品は、それが本当に重要な役割を果たしているのか疑問なものが多いと著者は言う。例えば、「還元水も酸化が悪いという先入観を逆手にとったものだが、果たしてどれくらい効果があるのか」疑わしく、「クラスター水は何がクラスターしているのか定かでなく、πウォーターは何がπなのかさっぱりわからない。言葉尻だけ科学的にして信用させ、牛乳より高い水が売られているのは本末転倒」としか言いようがないと批判する。結局のところ、こういった第2種疑似科学が流行るのは、きちんとした科学的根拠を確かめることなく、科学的用語という権威だけをありがたがるという心性、さらに言えば、テレビで宣伝していれば、あるいはそういう用語や商品が流行っていれば「効果があるに違いない」と盲信してしまう心理が働いているのだろう。そこに共通しているのは、情報を自ら吟味することなく、「権威」(と世間が見なしているもの)に判断をお任せしてしまい、自らは思考停止に陥るという状態である。
第3種疑似科学とは、地球環境問題、気候変動、生態系、地震予知、遺伝子組み換え作物など、系を構成する要素が複雑に絡み合っているために、要素還元主義的方法が通用せず、明確な判断を直ちには下せない問題であるにも関わらず、要素還元主義的考え方で理解しようとすることからくる誤解・誤認・悪用などを指しており、いわば真正科学と疑似科学の間のグレーゾーンに属するものである。要素に分解しても分からないことをもって「科学的根拠なし」と断定したり、要素がプラスにもマイナスにも働くことをもって「どちらともいえない」と不可知論に持ち込む手口が典型的なものである。例えば、地球温暖化の原因をめぐっては激しい論争がある。人間の活動によって二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスが増加したことが地球温暖化の原因であるという主流説に対し、少数説は、地球が何らかの原因で温暖化したことが、地中や海水中に閉じ込められていた二酸化炭素の放出を促し、二酸化炭素が増加した、と主張している。両派の主張はそれぞれ部分的に正しい面を含んでいるが、地球環境はまさに複雑系であるので、どちらか一方の主張だけが科学的に正しいと断定することはできない。このような場合に、早く結論を得たいという焦りから、一面的な主張のみを取り上げて断定的に強弁することは疑似科学に陥ることになる、と著者は言う。つまり、何でも「地球温暖化」のせいにしてわかったような気分に浸ることも、逆に地球温暖化の原因は不可知であると居直り、地球温暖化防止の努力に水を浴びせかけることも、どちらも疑似科学への入口である、というのである。では、このような要素還元主義が通用しない複雑系の問題に対してはどう対応すればいいのか。そこで池内氏が提唱するのが「予防措置原則」である。例えば、地球が複雑系であるために原因や結果が明確に予測できない場合には、不可知論に陥るのではなく、いずれの論拠が正しいとしても予想される最悪の結果を防ぐように予防的な対応を心がけるべきである、というのである。あまりにも常識的な結論で面白みには欠けるが、少数派の批判精神がともすれば「批判のための批判」に陥ることを避けるためには大事な原則であろう。
全体を通読して言えることは、第3種疑似科学に関する章では自分の蒙を啓かれる記述も多々あったものの、むしろ当たり前のことが書かれているな、という印象を持った。著者は科学者であるので「科学的(な装いをもった)言説」を対象としているが、ここで説かれているようなことは、本来、社会的事象であれ政治的事象であれ、およそすべての言説について当てはまることであるといえよう。そういう意味では、私が大昔に読んだ野崎昭弘の『詭弁論理学』(中公新書)やダレル・ハフ『統計でウソをつく法』(講談社ブルーバックス)などとも共通するモチーフに貫かれている。要するに、我々がメディアから得る情報や言説を解釈する際には、事実をしっかり確認し、その事実がどの程度普遍性を持ちうる事象であるのか、それとも例外的な事象であるのかを推測し、何らかの主張や結論にはその論理的根拠と正当化可能性を検証する、といった作業を、できる限り自分の頭と責任において遂行する、といった当たり前の、しかし現実には必ずしも容易ではない作業を遂行することが必要なのである。その意味で、本書はメディア・リテラシーの向上を説く書物の一冊に数えられよう。
2008/06/17のBlog
[ 21:10 ]
[ 罪と罰 ]
まず、今日の朝日新聞夕刊より引用する(いつものことだが、朝日新聞のオンライン版である「アサヒ・コム」にはこういう重要な情報は掲載されていない)。
《宮崎勤死刑囚の弁護側は再審請求を準備中で、5月30日付でその旨を法務省側に伝えていた。鳩山法相は「再審準備をしているという書面は届いているが、具体的な再審請求があったわけでも、具体的な再審事由が来ているわけでもない」と述べた。》
《刑執行せぬよう手紙送った直後――弁護側「強く抗議」
宮崎死刑囚の弁護人を務めた田鎖麻衣子弁護士は「拘置所で精神科治療を受けている状態にあるという事実を明記して、死刑の執行を行わないよう5月末に鳩山法相に内容証明を送ったところ。こうした事情を熟知したうえで執行されたことに、強く抗議する」との談話を発表した。》
内閣支持率が20%前後と低迷しようが、参院で内閣問責決議が可決されようが、総辞職も解散・総選挙もしない(できない)福田内閣の法務大臣で、「アルカイダの友人の友人」でもある鳩山邦夫はなんと在任9カ月にして13人を死刑に処した。
そして、今日、死刑執行された3人の死刑囚のうち、宮崎勤の死刑執行には(死刑制度の存置という現状に照らしても)明らかに2つの点で大きな問題点がある。
ひとつは、弁護団が再審請求を準備中であるということを明確に認識しながら、死刑の執行を行ったことである。これは、確定死刑囚から、再審請求という権利を恣意的かつ不可逆的に剥奪する暴挙である。
もう一点は、宮崎死刑囚が精神科治療を受けていたことである。これは、たとえ彼が刑訴法上死刑の執行が禁止されている「心神喪失」の状態ではなかったとしても、国際社会において死刑の執行を排除するよう求められている限定精神能力の状態にあったことを示唆しており、この段階での死刑執行は極めて異常な事態と言わざるを得ない。
<参考>
刑事訴訟法第479条
死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によって執行を停止する。
1984年に国連経済社会理事会が採択した「死刑に直面する者の権利の保護の保障に関する決議」(国連経済社会理事会1984/50号)は、第3項で、「死刑は、……精神異常者に対しては執行されない」と定めており、1989年12月15日の国連第44回総会の「死刑に直面している者の権利の保護の保障の履行に関する決議」(44/162号)では、「判決の段階または処刑の段階を問わず、精神または極度の限定された精神能力者に対する死刑を排除すること」が明記されている(辻本義男『死刑論』参照)。
2008/06/14のBlog
[ 18:02 ]
[ メディア ]
最近では、朝日新聞の社説や天声人語を読むときには、「今日は一体どんなバカなことを書いているんだろう」という気持ちで読み始める習慣がついてしまった。こう書くと、いかにも傲慢な感じがして自分でも嫌になるのだが、本当のことだから仕方がない。
さて、朝日は今日もまた、「千円たばこ――動機はともあれ大賛成」という支離滅裂で荒唐無稽な社説を掲げているが、これに対する徹底批判は不破利晴さんに任せることにして(笑)、私としては、今日の天声人語だけは批判せざるを得ない。まず、以下に天声人語の全文を引用する。
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ギャンブラーでもあった作家の色川武大が「人生レース」について書いている。「八勝七敗なら上々。九勝六敗なら理想。一生が終わってみると、五分五分というところが、多いんじゃないかな」(『うらおもて人生録』毎日新聞社)▼人は、大小の勝ち負けを連ねて生きてゆく。勝ち続けも、負け通しもない。だが、秋葉原で17人を殺傷した容疑者(25)は、高校卒業後を「負けっぱなしの人生」とくくった▼男が携帯サイトに刻々と投げた独白は、彼女がいない焦り、カップルへの敵意、親や職場への不満にあふれていた。負け組を名乗りながら、その実、まともな勝負を避けてきたようにも見える。世をすね、勝手に孤立し、すべてを悲観し、許されぬ形で退場した▼仕事はつらくても、家庭や趣味に楽しく生きる人は多い。男が重ねた転職は無断欠勤が一因だった。ネットに逃げたが、対話は成立しなかった。「誰かに止めてほしかった」という甘えこそが、事件の核心に思えてならない▼派遣工の弱い立場も背景の一つだが、凶行を格差社会のみで語るのはどうか。あまり一般化すると、私的で特異な要素がかすんでしまう。「戦後教育のなれの果て」といった言説もしかり▼もちろん、働く貧困層は見過ごせない。絶望を暴発させないためにも、再挑戦の努力に報いる社会、やり直せる社会でありたい。五分五分なら成功者の部類とする色川は、敗者の中で「堅く勝ち上がっていく」生き方も紹介している。惨劇をせめて世直しにつなげないと、七つもの命が浮かばれない。
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色川武大氏の『うらおもて人生録』については、私もこのブログで一度紹介したことがあり、私の好きなエッセイ集でもあるので、色川氏の意図を完全に捻じ曲げたその我田引水、牽強付会の引用には怒りを禁じ得ない。この本は、色川氏が自らも“劣等生”であったという体験を踏まえたうえで、若い人たち(主に優等生でない人たち)に向かって、自分の生き様を語りながら、人生において「勝つ」こと、成功することがいかに難しいか、しかし、考え方と努力次第で、“劣等生”にも「勝つ」チャンスは十分に開かれていることを語った本であり、人生の厳しさを語りつつも“劣等生”を励ますような内容になっているのである。決して天声人語氏が言うように、「敗者の中で『堅く勝ち上がっていく』生き方も紹介している」ようなハウツー本でもなければ、天声人語氏のような「社会的成功者」気取りの人物が、「人は、大小の勝ち負けを連ねて生きてゆく。勝ち続けも、負け通しもない」などと上から人を見下しながらお説教を垂れた本でもない。色川氏は、まさにそういう威張り腐った精神とは正反対の立場から本書を書いているのである。
また、天声人語氏は、「派遣工の弱い立場も背景の一つだが、凶行を格差社会のみで語るのはどうか」と述べているが、凶行を「格差社会のみで語る」人が一体どこにいるのか? 凶行の背景には様々な要因があるが、その一つとして格差社会の問題があることは間違いないだろう。ところが筆者は、「負け組を名乗りながら、その実、まともな勝負を避けてきたようにも見える」だの「仕事はつらくても、家庭や趣味に楽しく生きる人は多い」などと呑気なことを述べているが、いったん非正規雇用の立場に陥った人が、そこから這い出ることがいかに困難であり、将来に対してどれほど不安で絶望的な心理状態にあるかという現代日本の抱える深刻な社会問題を理解しようとすらしていない。朝日新聞社の編集委員という超安定した立場にある者が、不安定な非正規雇用で結婚もできない多くの若者に向かって、「仕事はつらくても、家庭や趣味に楽しく生きよ」などと説教を垂れる無神経な傲慢さ!
そして、最後には、「絶望を暴発させないためにも、再挑戦の努力に報いる社会、やり直せる社会でありたい」と、お決まりの傍観者的感想を述べている。現代日本社会が「再挑戦の努力に報いる社会、やり直せる社会」などとはおよそ正反対の社会であることは明らかである。親の所得や社会的地位の差が子どもの世代に拡大再生産されるような格差社会、高齢者や障害者や病人といった社会的弱者を徹底的に切り捨て、特権階級の特権をさらに手厚く保護する差別社会、いったんドロップアウトした者の再挑戦ややり直しの努力に決して報いない社会をどのようにすれば「再挑戦の努力に報いる社会、やり直せる社会」に作り変えてゆくことができるのか、そのための道筋を示すのがマスメディアに課せられた社会的使命であるはずだ。ところが、そんな社会的使命など頭の片隅にすらなく、「やり直せる社会でありたい」などと、まるで人々の心がけ次第でそういう社会が実現するかのような無責任で他人事的な感想を述べて、何か「気の利いたこと」を言ったような気分に浸る自己満足と傲慢さ、偽善と欺瞞に満ちた駄文の極みである。