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イスマタリアン
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2008/10/13のBlog

昨年7月、脳梗塞のため79歳で亡くなった河合隼雄氏は、ユング心理学を日本に紹介した学者として知られるほか、一般読者向けの多数の著作や講演でも広く知られていた。温厚な人柄とユーモアのある語り口が人気で、河合隼雄氏の著作によって初めてユング心理学や臨床心理学の世界に触れた人も多いだろう(かくいう私もその一人である)。

 さて、その河合氏は、2002年1月に文化庁長官に就任して以来、脳梗塞で倒れて休職する06年11月まで、3期4年9カ月余りの長きにわたって、その職務を務めた。この時期は、2001年4月から06年9月まで続いた小泉政権時代と大幅に重なっている。

 河合氏が文化庁長官に就いて最初にした仕事は、『心のノート』という国定道徳副教材を全国の小中学校に配布することだった。河合氏が中心となって作成したこの副教材の目次には、「かみしめたい 人間として生きるすばらしさ」「自分だけがよければいい・・・そんな人が多くなったと思いませんか?」「この学校が好き」「ここが私のふるさと」「我が国を愛しその発展を願う」などといった言葉が並んでいる。

 河合氏は実は1985年頃から新聞等で、学校における「心の専門家」の必要性を主張していたが、その主張が採り入れられたのか、1995年にはスクールカウンセラーが学校に導入されることになった。97年には中教審に「心の教育」という言葉が登場し、02年の「心のノート」に続く土壌が準備されていた。

 学校に参入するスクールカウンセラーは、河合氏が会長を務めていた「日本臨床心理士資格認定協会」が認定する「臨床心理士」がほぼ独占することになったが、財団法人「日本臨床心理士資格認定協会」の初代会頭は元文部次官で、2代目会頭は自民党文教族の中心にいる「神の国」発言の森元首相である。

 河合氏が脳梗塞で政治の表舞台から退場してまもない06年12月、教育基本法は「改正」され、「我が国と郷土を愛する態度を養うこと」が公式に「教育の目標」とされることとなり、今や国家主義的道徳教育が前面に押し出されるのと交代するかのようにソフトなイメージの「心の教育」が退場していった。「心の教育」は国家主義的教育「改革」を完成させるまでの抵抗感を弱めるための露払いの役割を見事に果たし、今や御役御免となった次第である。

 一方、スクールカウンセラーの「政治的」役割とは何か。それは、1990年代後半から始まった新自由主義的教育「改革」により、学校選択制、習熟度別学習、公立のエリート的中高一貫校などの導入・拡大により、義務教育段階から、親の経済力や教育「熱心度」によって子どもを選別・差別化することによって必然的に学校の中に蓄積されていく怨念や反抗心を抑制し、「できない子にはできない子なりの人生があるんだよ」といって諦めさせ、ガス抜きするための装置だったのである。(以上、小沢牧子「世話人としての教師」『現代思想』2008年4月号を参考にした。)


 東京新聞には記者が各界の識者(?)に政治に関していろいろ質問する「即興政治論」というコーナーがときどき掲載されるが、先日は、内田樹氏に「総選挙で日本は変わりますか?」というテーマで質問していた。

 内田氏は前回の「郵政総選挙」では自民党が「子供っぽい有権者を引きつけられるシンプルなストーリー展開の選挙をやって圧勝した」と指摘し、「政治は複雑なものなのに、単純な方がいいという価値観ができてしまった」と述べていた。本来、複雑なものを単純化してはいけない、という指摘には全く賛成である。ところが内田氏は、記者が、最近の日本の政治や社会には「格差、偽装、不祥事が目立つ」ことの原因を尋ねると、「問題は人間です。特に(政治家や官僚など)公人が劣化している」「本来、どんなへなちょこなシステムだって、現場で運用している人がまっとうなら、ほとんど問題は起こりません。医療崩壊や教育崩壊、消えた年金だってそう。公人の幼児化が問題なんです」と述べている。

 世襲議員が権力の中枢を占めるような現状を見れば、「公人の幼児化」という指摘に一面の真理があるとしても、様々な政治的・社会的諸問題の原因をすべて「公人の幼児化」や人間性に求めるようでは、まさに複雑な問題の単純化の典型であって、これでは、小泉「郵政選挙」に踊らされた人を嗤うことなどできないのではないか。

 このような一見「わかりやすい」議論は、複雑な事態を単純化してみせることで、事態の構造的な把握を妨げ、物事の本質を覆い隠してしまう効果がある。したがって、こうした「わかりやすい」議論というものは、そのほとんどが虚偽ではないかと疑ってみるべきである。こうした「わかりやすい」議論が歓迎され、受け入れられやすいのは当然であろう。誰でも人は何か複雑で理解しがたい現象に遭遇すると、その原因や背景を理解したいと思うものであるが、そうはいっても、自分で様々な文献やメディアに当たって情報を収集し、その実態を分析し解明するような時間も根気も持ち合わせていないので、誰かが「わかりやすい」説明をしてくれれば、それで「わかった」気になることができ、それ以上考えなくても済むので、簡単にそれに飛びついてしまうからだろう。わかりたいけどわかるために努力をするのは嫌だ、という思考を節約しようとする態度が思考停止を招くのである。

 このように、「わかりやすい」議論を簡単に信じ込んでしまうのは、決して「無教養な」人々に限った話ではなく、知的な訓練を受けてきた人であっても、自分の専門外の領域においては同様のことがしばしば起こる。(言うまでもないことだが、私自身も同様の過ちを数限りなく犯してきたし、今後も犯すだろう。)
 加藤周一氏は第2次世界大戦の末期、自分にもいつ召集令状が来るかと恐れながら、東大の医局で医者をしていたが、病院内では科学的で合理的な思考のできる同僚たちが、戦局や政治情勢の話になると、途端に非合理的で狂信的になってしまうのに驚いた、と書いていたが、そういうことはどんな時代でもあることだろう。

 私もつい最近、普段緻密な議論を展開しているあるブロガーが、ある記事の末尾に次のように書いているのを見て、驚愕したばかりである。

<(日本人の条件を「血」に求めるような)血統主義もまた「単一民族論」や「万世一系」の神話と同様、戦後教育の産物なのですが、中にはウケが良いのもあるのですなぁ。>

 「戦後教育とは何(だった)か」というような巨大なテーマは、教育学者が一般読者向けに簡単に説明するとしても、最低でも1冊の書物を必要とするだろうし、多少詳しく説明しようとすれば、何十冊もの書物が必要となるだろう。ところが、政治家や財界人やマスコミ御用評論家の中には、青少年の凶悪犯罪が起きるたびに「戦後教育が悪かった」として、「戦後教育において公共心や道徳心を教えてこなかったことが原因だ」などと、「戦後教育」悪玉論を繰り返している。このような、あまりにも単純な議論は「わかりやすい」だけに、ついつい受け入れてしまう人が多いのかもしれない。

 しかし、世の中の複雑な現象の原因を単一の事象に還元したり、世界を善悪二元論に染め上げるようなこうしたわかりやすい(=ばかばかしい)議論は、物事の本質から目を背けさせ、人々を誤った認識へと誘導するので、極めて有害である。

 他方で、こうした「わかりやすい」議論をする人々は、一体なぜそのようなばかばかしい議論をするのだろうか。これには2つの場合が考えられる。意図的な「嘘」の場合と、無知による単なる「誤謬」の場合である。どちらが性質(たち)が悪いかは、一概には言えない。ブログで発言しているくらいなら、「無知による誤謬」を厳しく咎めだてすることはできないが、新聞やテレビで発言する人にはそれなりの責任が伴うだろう。彼らが「無知による誤謬」を繰り返しているとすると、その責任は重大だといえよう。また、政治家や財界人など政治的・経済的権力を持つ人々が「わかりやすい」虚偽の発言をする場合には、「無知による誤謬」の場合もあるだろうが、一般的には意図的な「嘘」と見るべきだろう。そのような虚偽言説を一般に流布させることによって、自分たちに都合のよい「改革」を行いやすい環境を作ることができるからである。


2008/10/09のBlog

 せっかく朝日新聞とおさらばしたはずなのに、なぜか(?)頻繁に天声人語を読まされてしまう(笑)。今朝の天声人語の書き出しは「おめでたい話題は筆も軽い」である。今さら驚くことでもないが、「おめでたいのはあなたでしょう」とか、「軽いのは筆じゃなくておつむでは?」と言いたくなる人もいるだろう。

だいたい、ノーベル賞(物理学賞と化学賞)に日本人が複数(日本民族では4名、うち日本国籍者は3名)受賞したからといって、どうしてそんなにおおはしゃぎしているのか、私にはさっぱりわからない。もちろん、私自身が物理や化学に関する知識も関心もない人間だから、余計に無関心ということはあると思うが、仮に私が物理や化学の研究者の端くれだったとしても、自分の尊敬する人が受賞すればうれしいのは当然としても、その人の民族性や国籍がどこであるかということなど全く関係ないだろう。日本人にとって大事なことは、今の日本にどれほど教育と研究の環境が整っているかということである。

 はっきりいって、日本の教育と研究をめぐる環境は、今回の受賞に浮かれていられるような状況にはない。今朝の東京新聞「こちら特報部」は、基礎研究を取り巻く日本の「お寒い現状」を報じていた。今手元に新聞がないので引用できないが、国立大学の法人化とともに、研究にも独立採算が要求されるようになったために、すぐに実用化でき、産業界の利益と直結しそうな目先の研究ばかりに予算が重点的に配分されているため、すぐに目に見える成果のでない基礎研究に充てる予算がどんどん削られており、「基礎研究では食べていけない」ために、基礎研究を志す研究者が減少しているというのである。これでは頭脳流出に歯止めはかからないだろう。

 今朝の東京新聞の社説も次のように警鐘を鳴らしている。朝日のように浮かれている場合ではないのである。

<(下村脩氏の)受賞対象の業績は、研究の場を米国に移してからである。
 前日、物理学賞受賞が決まった南部陽一郎氏の業績も米国で成し遂げられた。遡(さかのぼ)れば、同じく物理学賞受賞の江崎玲於奈氏(一九七三年)、医学・生理学賞受賞の利根川進氏(八七年)も米国など海外での研究が評価された結果だ。
 共通するのは、下村氏らが国内にとどまっていたら、国際的に認められたかどうかだ。
 米国に世界中から研究者が集まるのは、独創性のある研究の意義を十分に認め、年齢や地位に関係なく、正当に評価し、それに見合った処遇をすることが背景にあると指摘されている。
 日本人研究者が海外で活躍するのは歓迎だが、その理由が国内では自由に研究できないためであれば、研究体制を根本的に反省しなければならない。>


2008/10/07のBlog

下の記事で「自民党政治はもういいかげん終わらせなければならない」と書いたが、実のところ、私は民主党政権にも全く期待していない。私と同様、自民党政治の終焉を望む人には、(いつになるかわからない)総選挙を前に水を差すようで申し訳ないが、民主党の目指す方向性は自民党と五十歩百歩どころか“九十歩百歩”といった違いしかないと私は思っている。

いろいろな面でそれは言えると思うが、例えば、下の記事で問題にした「公務員の中立性」を取り上げよう。世田谷国公法事件の東京地裁判決は、休日に政党ビラを配布した公務員を、公務員の政治的行為を禁止した国公法と人事院規則違反の罪で有罪と認定したわけだが、一体この裁判官たちは、まさに公務の場面において、霞が関の官僚たちの多くが日常的に自民党議員と癒着している実態をどう思っているのだろうか。それこそまさに憲法15条2項の「公務員の政治的中立性」原則違反ではないか。

先日(10月2日)、東京新聞は「怯える霞が関」という記事の中で、これまで与党と癒着していた霞が関のエリート官僚たちが、今度の総選挙によって政権交代が起きた場合、民主党政権によって報復されるのを恐れている、と報じていた。政治学者の飯尾潤氏によれば、官僚の実感としては、自民党本部や自民党議員の事務所に朝早くから出向いて国会議員相手に政策や法案の「ご説明」をするのが生きがいと感じられるほど、自民党と官僚は癒着している。業界団体と自民党の「族議員」と関係省庁の官僚とが「鉄の三角形」と呼ばれる無数のネットワークを形成していることはもはや常識だから、「公務員の政治的中立性」など“どこ吹く風”である。

 このような憲法違反の実態は、仮に民主党政権ができたところで、改まる可能性は皆無である。東京新聞の上記記事によれば、民主党は岡田克也代表時代の2005年衆院選では、民主党政権への忠誠を誓う者だけを幹部職員に登用する「政治任用」の考えを示しており、現在の小沢代表も、民主党政権になれば、与党議員百人以上を官邸や官庁に送り込んで官僚をコントロールする意向であるらしい。要するに自民党も民主党も憲法無視と党利党略性においては全く同じ穴の狢ということだ。



 今朝の東京新聞によれば、自民党の国会対策委員会(国対)は全省庁に対して、野党からの資料請求があった場合、回答する前に自民党に「相談」するよう指示したことが発覚した。指示は先月12日、自民党の村田吉隆国対副委員長から各省庁の官房長に対して行われたが、例えば農水省大臣官房の省内連絡を読むと、そこには「(野党への資料)提出が(自民党に)認められなかったものについては、担当課が提出可能なものに修正する」と記されている。

 つまり、野党議員が国会質問の準備のために霞ヶ関の官僚に資料の提出を要求すると、官僚がその資料を野党議員に提出する前に、自民党がその資料を野党に提出してよいか否かを事前検閲し、自民党が「提出不可」と判断すれば、「提出可能な資料」に修正のうえ、野党議員に提出させる、という仕組みである。

 こんなことが許されるはずがない。これはまさしく憲法15条2項「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」という公務員の政治的中立性に反することは言うまでもないが、国会審議を自民党の思い通りに進めるために政治的に中立でなければならない官僚を使って情報操作を行おうとするものであって、民主主義の前提を破壊するものである。

 もちろんこれは、まともな議論を行う能力が決定的に欠落し、野党の質問を恐れる議員ばかりで構成される自民党の哀れな末期症状を示すものでもあるが、このような国会と国民を愚弄する自民党政治はもういいかげん終わらせなければならない。


2008/10/06のBlog

 東京新聞には「こちら特報部」という見開き2頁のコーナーがあり、ここには毎回力の入った解説記事が載るので、私はいつも楽しみにしている。

 さて、今日取り上げたいのは、10月1日に掲載された「『単一民族』発言繰り返すタカ派 “シーラカンス”うっかり本音」という記事である。
 中山前国交相辞任の引き金になった“失言”3連発の一つである「単一民族」発言について、「こちら特報部」の記事は、これまでにも自民党のタカ派議員によって類似発言が繰り返されてきた事例(*)を紹介した後、政治評論家や学者による、今回の中山発言についてのコメントを載せている。それによると、政治評論家の森田実氏は、「この2,30年間、先住民族弾圧への反省が起きてきたのに、あまりにも無知で、ゆがんでいる。国際的に見ても非常識。こんな人が文科相だったなんて、日本の常識が疑われる」と批判しており、同じく政治評論家の小林吉弥氏は「6月の先住民族決議で、単一民族ではないと決着がついており、保守陣営でも、もう口にすべきでない問題だというのが了解事項。それでも、まだ単一民族だと言うところが常軌を逸している」と述べている。また、小熊英二慶応大教授も今回の中山発言が「保守論調の中でも時代錯誤の部類」として、「中山氏の世界観は2、30年前で止まってしまっているかのようで、まるでシーラカンスを見たような気持ちだ」と述べている。

 ついでに言うと、この記事が出た2日後にも、「こちら特報部」の横にある「本音のコラム」という小さいコラムで、ノンフィクション作家の吉田司氏も中山発言を「すごくアナクロ(時代錯誤)」と評した後で、「もちろん「単一民族」なわけがない。先住アイヌ民族・北海道ウタリ協会の抗議は当然だし、私も大田昌秀元沖縄県知事と沖縄マイノリティー(少数民族)説→沖縄独立論を語り合っている。日本が多民族構造なのは疑う余地がない」と述べている。

 しかしながら、これらの論者が中山発言を痛烈に批判すればするほど、私にはどこか浮いた感じがしてならない。というのは、中山発言は決して「特異」なものではなく、むしろ平均的な日本人の意識に近いと思うからである。中山発言が「アナクロでゆがんでいる」と批判するならば、むしろ平均的な日本人の意識が「アナクロでゆがんでいる」と批判しなければならない。しかし、私の予想では、こうした日本人の意識は残念ながら、今後数十年経っても容易には変わらないだろう。その理由の一つは、日本語そのもののなかにある。

 今、私は「日本人」と書いた。「日本人」という言葉はよく使われるが、「日本国民」という言葉は日常会話ではめったに使われず、「日本民族」となるとほとんど耳にすることもない。それでは、「日本人」とは「日本国民」のことなのか、それとも「日本民族」のことなのだろうか。私が先ほど「日本人」と書いたのは「日本民族」の意味で使ったのであるが、普段、日本人は「日本人」という言葉を「日本国民」か「日本民族」かを特に区別することなく、漠然と同じ意味だと思って使っているのではないだろうか。だとするならば、それはまさしく中山氏と同じ「単一民族」思想である。「アイヌ人」と言うとき、それは「アイヌ民族」の意味であるが、「アメリカ人」と言うときは「アメリカ国民」を指している。つまり、「何々人」という言葉は民族の意味でも国民の意味でも使われているのである。しかし、大半の日本人が「アメリカ人」という言葉で思い浮かべるのは白人であって黒人ではないだろう。もちろん中には黒人を思い浮かべる人もいるだろうが、中国系、韓国系、日系などのアジア系アメリカ人やヒスパニックを思い浮かべる人はさらに少ないだろう。このように日本人は、多民族国家アメリカについてすら、簡単に多数派民族によってその国民を表象してしまうのであるから、多数派民族の占める比率の高い自国について、「日本人=日本国民=日本民族」という三位一体図式が頭の中に強固に根付いてしまうのも不思議ではない。こうした図式に基づく発想は、「外国語」とか「国語」という日本語にも表れている。日本人は「日本語=国語」という図式を当然のことと見なしているので、日本語以外の言語は「外国の言語」すなわち「外国語」だと思っているのである。しかし、国家の数がたかだか200前後なのに対し、言語の数は数千あると言われているのだから、国家と言語とが対応しないことは少し考えればわかるはずであるにも関わらず、「他の言語=外国語」であるという偏見をぬぐい去ることがなかなかできないのである。つまり、日本人の発想の中には、「言語=民族と国家は対応するはずだ」という根本的に間違った意識が抜きがたく存在しているのである。

 しかし、上記の論者たちの批判のポイントは、なによりもアイヌ民族という先住民族が日本に存在しており、そのことは今年の6月6日に衆参両議院がそれぞれ「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」(*2) を全員一致で採択したことによって公式に承認されていること、さらには、沖縄人(琉球人=「ウチナーンチュー」)も(異論はあるかもしれないが)少数民族と認める余地があること、などから、日本が多民族社会であることは明白であるにも関わらず、その認識が中山氏に欠けている点に集中している。つまり、日本は日本民族という圧倒的多数派民族とアイヌ民族などごく少数の先住ないし少数民族(以下、「少数民族」)から成る“多”民族国家である、ということになる。そうだとすると、中山氏の認識との違いは、ごく少数の少数民族の存在を認識しているか否か、という点にすぎず、日本民族の圧倒的多数派性と内的同質性を自明の前提としているように見える点では、中山氏と大差はないように見える。

 さらに、ここに引用した4人の“識者”は、誰一人として在日コリアンに言及していないが、それは一体どういう訳だろうか。おそらく北海道以外に居住している日本人の大半にとっては、アイヌ民族よりも在日コリアンの方が身近だと思われる(「アイヌ人に会ったことがない」(会っていても気づかない)日本人は多いと思うが、在日コリアンに会ったことがない日本人は少ないだろう)ので、この言及の不在は少なからず気にかかる。また、「日本は単一民族ではない」という場合の「日本」とは日本国家のことだろうか、それとも日本社会のことだろうか。国家の構成員と社会の構成員は必ずしも一致しないという認識は果たしてあるのだろうか?(小熊氏には当然あるだろうが) これらのコメントに在日コリアンへの言及がない理由を私なりに“邪推”してみよう。在日コリアンの中には日本国籍を取得している人も多いが、今なお韓国籍や「朝鮮籍」の人も多い。そうすると、韓国籍や「朝鮮籍」の在日コリアンが存在しているとしても、彼らは「日本国民」ではないから、「日本国が単一民族国家でない」証明にはならない、という意識がどこかで働いている、という可能性はないだろうか? 仮にそんな意識が働いているとしたら、国籍の有無に関係なく、紛れもない日本社会の構成メンバーである在日コリアンに対する排外主義の表れであって、中山発言を根本的に批判することはできないと思う。

 長くなってきたので、そろそろまとめよう。
 日本社会は「単一民族神話はアナクロである」と言える程度の認識にすら全く到達していない。日本に多民族が“併存”しているという事実を単に認識するだけでなく、日本国民の「クレオール化(混血=雑種化)」の事実を積極的に承認しつつ、日本社会をいかにして「多民族共生社会」へと開いていくかという発想が求められているのである。そして、「日本人=日本民族」という“想像の共同体”を、民主主義と主権の担い手としての“公共的共同体”としての「日本人民」へと組み替えていく努力が求められているのである。中山発言を批判する言説に共通して欠けているのは、元来、「民衆・人民(demos)の権力(cratos)」を意味する民主主義(democracy)の担い手は、血統や言語など自然主義的絆によって結びついた集団である「エトノス(ethnieの語源)」ではなく、公共的意思形成への主体的参画者である「デモス」である、という視点である。



(*)過去の「単一民族」類似発言集

1986年9月
☆中曽根康弘首相(肩書は当時。以下同様)「日本の知的水準は高いが、米国には黒人などがいて平均的にみたら非常に低い」(22日)という発言が米国で大問題になると、それに対する弁明として次のように発言した。
「日本は単一民族だから(教育の)手が届きやすい」(24日)
2001年7月2日
☆鈴木宗男衆院議員
「(アイヌ民族は)今はまったく同化された」
☆平沼赳夫経済産業相
「(日本は)レベルの高い単一民族」
2005年10月15日
☆麻生太郎総務相
「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」
2007年2月25日
☆伊吹文明文科相
「大和民族が日本の国を統治してきた」「極めて同質的な国」


2008/10/01のBlog
[ 15:21 ] [ 政治 ]
【失言】言ってはいけないことを、不注意で言ってしまうこと。言いあやまり。過言。
【放言】思うままに言いちらすこと。また、無責任な発言。
【妄言】みだりな言葉。でまかせに言うことば。いつわりのことば。うそ。妄語。
【暴言】礼を失した、乱暴なことば。
―― (以上、広辞苑より)


<麻生内閣>

★麻生太郎(5世)総理大臣
下々のみなさん」(衆議院選挙に初出馬した1979年の演説で登壇して開口一番、支援者に対して)
「東京で美濃部革新都政が誕生したのは女性が美濃部スマイルに投票したのであって、婦人参政権が最大の失敗だった」(1983年)
創氏改名は朝鮮人が名字をくれと言ったのが始まりだ」(2003年、東京大学学園祭にて)
あんな部落出身者を日本の総理にはできないわなぁ」(2003年9月21日、引退前の最後の自民党総務会で野中広務が最後の発言として、麻生による上の発言を非難した)
一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」(2005年)
「7万円と1万円はどちらが高いかアルツハイマーの人でも分かる」(2007年)
「ナチス・ドイツも『1回(政権運営を)やらせろ』と言ってああなったこともある」と民主党を批判(2008年)
安城や岡崎だったからいいけど、名古屋で起きたらこの辺全部洪水よ」(2008年)

★鳩山邦夫(4世)総務大臣
私の友人の友人がアルカイダなんですね」(2007年)
「私が田中角栄先生の私設秘書になったとき、毎月のように、ペンタゴンがやってきて食事をごちそうしてくれた」(2007年)
無罪が確定した鹿児島県の志布志事件について「冤罪と呼ぶべきではない」(2008年)

★中川昭一(2世)財務大臣
強制連行があったのか、なかったのか分からない。中学校教科書に従軍慰安婦問題が記述されたことも疑問だ」(1998年、農相就任直後の発言)
「相手(北朝鮮)はまともな国ではない。気違いだと思っている」(2005年)
「非核三原則は国民との重い約束だ。しかし、最近の北朝鮮の核兵器実験の動向を受けて、この約束を見直すべきかどうか議論を尽くすべきだ」(2006年)
日教組の一部活動家は(教育基本法改正反対の)デモで騒音をまき散らしている。(デモという)下品なやり方では生徒たちに先生と呼ばれる資格はない。免許剥奪だ」(2006年)

★舛添要一厚生労働大臣
中国天安門事件に関し「いや共産主義じゃなくとも、100万人ぐらい殺せる大政治家じゃないとどこの国でもダメだってこと
土井たか子みたいに男に恵まれないような女性に限って、男の浮気を批判するんだ
「小人(しょうじん)のざれ言に付き合っている暇はない」→「バカ市長、アホ市長って言うよりいいじゃないですか。頭からバカ市長と言われるのは嫌でしょう。だから、小人(しょうじん)って言った。その温かみだけは感じて下さいよ。教養の問題、教養」

★石破茂農林水産大臣
国家のために生命を懸けることが出来ないような国家を、果たして国家と呼べるのか?
「唯一の同盟国である米国の表明を信用するのは当然政府としてあるべきことだ」(2007年10月)

★中山成彬前国土交通大臣
(成田空港建設反対闘争について)「ごね得というか、戦後教育が悪かったと思いますが、・・・自分さえよければという風潮の中で、なかなか空港拡張もできなかったのは大変残念だった」(2008年9月25日)
「日本はずいぶん内向きな、単一民族といいますか・・・」(同上)
私は日本の教育のガンは日教組だと思っている。ぶっ壊すために火の玉になる」「何とか(日教組を)解体しなければならない
「(日教組には)政治的に子どもたちをだめにして日本をだめにしようという闘争方針のもとに活動している方々がいる」

★金子一義(2世)国土交通大臣
「出資法金利を下げて(消費者金融における)グレーゾーン金利をなくすと、みなさんヤミ金にはしるのではないか」と高金利を擁護。

★河村建夫(2世)内閣官房長官
「(教育基本法改正については)平成の教育勅語を念頭に議論する」(1999年8月)
「(麻生)首相は吉田茂元総理の薫陶を子どものころから受けており、教育勅語をそらんじることができる我々同じ世代の唯一の国会議員だ。第2次世界大戦を当時の大人たちが大東亜戦争と表現していた。そういうことかなと思う」(2008年9月30日)

★佐藤勉国家公安委員会委員長・内閣府特命担当大臣(沖縄・北方対策)
2008年9月25日、汚染米の不正転売事件について「私も今、選挙運動ということで農家などを訪れる」(これは公職選挙法で禁止されている「事前運動」をしていることを自己暴露したもの)。

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<自民党役員>

☆笹川堯総務会長
米下院が金融安定化法案を否決したことに関し、「下院議長は女性でしょう。やっぱり男性とは一味違うような気がする、リードが。それで破裂した」(2008年9月30日)


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<現閣僚以外の発言>
☆町村信孝前官房長官(元文科相)
(中山成彬前国土交通相の日教組発言について)「TPOはまずかったけど、中身は一つの神髄をついている
「(日教組は)道徳教育粉砕運動を地方ではまだまだやっている。あれは間違いだったと言わないとうそ。それを言わないもんだからますます今モンスターペアレントがはびこっている。こういうことをみんなできちんと直そうということを中山氏は言いたかった」(2008年10月6日)
(米大統領選民主党指名候補争いについて)「オバマ上院議員は黒人だから勝利できない
「私は(UFOは)個人的には絶対いると思っている。そうじゃないと、ナスカのああいうの(地上絵)、説明できないでしょ」


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<過去の閣僚たち・・・なつかしの?発言集>

☆太田誠一・元農林水産大臣
集団レイプする人は、まだ元気があるからいい。正常に近いんじゃないか」(2003年、「スーパーフリー」の集団レイプ事件に関連して)
食の安全対策について問われ「消費者がやかましいから徹底する」(2008年8月)
汚染米問題について「じたばたしていない」

☆久間章生・元防衛大臣
「私はやっぱり、あそこ(沖縄)は拠点として真っ先に占領したと思う」(2006年12月)
「(原爆投下については)今、しょうがないなと思っているところでございまして…」(2007年6月)

☆伊吹文明・文科相(2006.9.26-07.9.26)/自民党幹事長(-08.8.2)/財務相(-08.9.24)
(松岡農水大臣の自殺に関して)「死人に口無し」(2007年5月28日)
「民主党はピストルを持った小学生」(2007年12月29日)
(次期衆院選について) 「勝とうと思うと一種の目くらましをやらないとしょうがない」(2008年7月16日)

☆松岡利勝農水相(2007年3月当時)
(疑惑の光熱水費について)「水道は何とか還元水を付けている」

☆柳沢伯夫厚労相(2007年1月当時)
女性は産む機械

☆小泉純一郎首相(2004年6月当時)
人生いろいろ、会社もいろいろ、社長もいろいろ

☆森喜朗首相(2000年当時)
日本は天皇を中心とした神の国」(2000年5月)
無党派層は寝ていてくれればいい」(同年6月)



2008/09/29のBlog

 2つ下の記事で取り上げた世田谷国公法事件の東京地裁(小池勝雅裁判長)判決について考えてみたい。
 この事件は、2005年の総選挙(いわゆる「郵政総選挙」)の投票日前日に、政党ビラ(「赤旗」号外)を警視庁職員住宅1階の集合郵便受けに投函していた宇治橋真一氏が住居侵入罪で逮捕され、その後、宇治橋氏が国家公務員(当時、厚生労働省課長補佐)であることが判明するや、公務員の政治的行為を禁止した国家公務員法および人事院規則違反の罪で起訴された事件である(住居侵入罪は不起訴処分)。宇治橋氏が政党ビラを配布していたのは休日であり、政党ビラの配布行為が宇治橋氏の職務や職権と一切関係ないことは明らかであり、ビラを配布していた宇治橋氏が公務員であるかどうかなど外見的には全くわからないことである。宇治橋氏が政党ビラを配布したのは、一市民として自分の支持する政党を応援したいためであり、それは「表現の自由」として憲法21条で保障された自由である(はずである)。

 そこで、宇治橋氏の弁護団は、起訴理由とされた国公法102条1項(*1)および人事院規則14-7第6項7号(*2)が憲法21条に違反しているとして、無罪を主張した。弁護団の主張にはその外の論点もあるのだが、ここでは最も核心的な主張であるこの論点だけを取り上げることにしたい。

 公務員の政治的行為(*3)の制限の憲法適合性が争われたケースとしては、郵便局員が勤務時間外に公営の選挙ポスター掲示場に、所属組合の支持する政党の候補者のポスターを貼ったことが刑事事件になった猿払事件の最高裁判例(1974年11月6日)がある。この事件では、最高裁は、行政の中立性とそれに対する国民の信頼維持という「国民全体の利益」の重要性を強調して合憲としたが、この判決には4人の裁判官の反対意見が付されていたうえ、憲法学者らからも強く批判されたものである。今回の東京地裁判決はそのことを認めたうえで、「同判決が合理性を欠くとはいえないこと」などを理由に、「下級審裁判所である当裁判所としては、公平性、法秩序の安定等の観点からも、同判決を尊重することが、その採るべき基本的な立場であるといわなければならない」として、猿払事件最高裁判決を踏襲して、公務員の政治的行為を禁止する国公法および人事院規則を合憲とし、宇治橋氏に対して罰金10万円の有罪判決を下したのである。

 それでは東京地裁は一体どのような理屈によって、公務員たる個人が休日に政党ビラを配布する行為を禁止することが合憲である(「表現の自由」を保障した憲法21条に抵触しない)と解釈したのだろうか。その論理構成を少し詳しく見てみよう。裁判所は猿払事件最高裁判決を踏襲しつつ、「公務員の政治的行為を禁止することは、合理的で必要やむをえない限度にとどまる限り憲法上許容される」が、その限度にとどまるか否かは、(1)禁止の目的、(2)その目的と禁止される行為との関連性、(3)禁止によって得られる利益と失われる利益との均衡、の3点から検討すべきであると言う。

 まず、政治活動の包括的禁止の目的について、判決は次のように言う。
<憲法15条2項は、公務員を「全体の奉仕者」と規定しており、公務が国民全体に対する奉仕として運営されるべきものであることを要請しているが、(……)そのためには、個々の公務員が、政治的に中立の立場を顕示してその職務の遂行に当たることが必要となる。行政の中立的運営とこれに対する国民の信頼の維持はいずれも憲法上の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性の維持は、国民全体の重要な利益である。>

 ここですぐに気づく問題点は、憲法15条2項が要請する「公務の政治的中立性」が「公務員の政治的中立性」にすりかえられてしまっていることである。「全体の奉仕者」である公務員が公務の遂行に当たって政治的中立性を維持しなければならないことは当然のことであるが、そのことは、個々の公務員が勤務時間外においても政治的に中立であらねばならないことを意味するわけでは全くない。あまりにも当然のことだが、公務員も一人一人は個人として憲法の保障する人権を享受しているのであり、その中には思想・良心の自由(19条)、信教の自由(20条)、表現の自由(21条)などが含まれることは言うまでもない。公務員の政治的自由が制約されるのは、公務の場面に個人の信条を持ち込まないということであって、公務とは無関係な場面において、一個人、一市民として自らの思想信条を開陳し、政治的意見表明を行うことは、まさに憲法が「表現の自由」として保障するところであり、民主主義の活性化のためにはむしろ必要なことである。

 ところで、カントは「啓蒙とは何か」という論文の中で、理性の公的使用と私的使用とを区別したうえで、公衆を啓蒙(すなわち自らの理性を使用する勇気を持つこと)するためには、理性の私的使用を制約することは差し支えないが、理性の公的使用は常に自由でなければならないと述べている。ここでカントは理性の公的使用を、「ある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、自らの理性を行使すること」と定義し、理性の私的使用を「ある人が公民としての地位または官職に就いている者として、理性を行使すること」と定義している。この定義は逆ではない。カントが理性の私的使用が制約されうる理由として挙げているのは、それが「公共の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的に実現が妨げられないようにする必要があるから」である、その場合には「もちろん議論することは許されず、服従しなければならない」という。これはまさに、公務の政治的中立性が要請される理由と同じである。それに対して、カントが理性の公的使用の定義で述べる「学者」を決して職業的な学者と捉えてはいけない。カントは公職に就いている人であっても、「自らを全公共体の一員と見なす場合、あるいはむしろ世界の公民的社会の一員と見なす場合、すなわち学者としての資格において文章を発表し、そして本来の意味で公衆に語りかける場合には、議論することが許される」と述べているので、この場合の「学者」とは、自らを公共世界の一員として、公論の形成に積極的に参加する者のことを意味していると解釈すべきだろう。すなわち、公務員であっても、公務を離れ、公論の形成に参加しようとするときには、理性を公的に使用しているのであるから、その自由を制約することは許されない、と解釈できる。ハーバーマスらが提唱する討議民主主義は、カントの「理性の公的使用」論を現代的に再解釈し、民主主義の基礎には討議による公論の形成が不可欠であることを指摘したものだと思われる。(つづく)


(*1)国家公務員法第102条1項
 職員は、政党又は政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法を以てするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除く外、人事院規則で定める政治的行為をしてはならない。

(*2)人事院規則14-7第6項7号
6 法第百二条第一項の規定する政治的行為とは、次に掲げるものをいう。
七 政党その他の政治的団体の機関紙たる新聞その他の刊行物を発行し、編集し、配布し又はこれらの行為を援助すること。

(*3)実際に裁判で争われているのは、公務員たる個人の公務の場面以外での政治的行為(意見表明の自由)なのであるから、「公務員の政治的行為」という呼び名自体が「ミスリーディングである」と、樋口陽一は指摘している(樋口『憲法』創文社、182頁)。



なるべくマイナーな話題を取り上げる、というこのブログの基本方針(総選挙に備えて急遽考えた…笑)には反するが、中山成彬前国交相の発言について、私も簡単に感想を述べてみたい。辞任の引き金になった発言は3種類あるが、ここでは、そのうち自ら「確信犯」であることを公言している「日教組批判」についてのみ取り上げる。

 すでにさんざん報じられていることだが、中山氏は27日、宮崎市での自民党会合などで「何とか日教組は解体しなきゃいかんと思っている」「日本の教育の『がん』である日教組をぶっ壊すために私が頭になる決意を示した」と述べたと言われる。この種の発言は、一見したところネット右翼の落書きと酷似している。中山氏は日教組批判発言以来、「「よく言ってくれた」といった山のようなメールをもらった」と豪語しているが、あながち嘘ではないだろう。ネット上には、中山発言とほとんど見分けがつかないような言説が溢れており、中山的感性を持つ人間がこの国には大勢いることを示している。

 しかし、なぜ日教組なのか、と不思議に思う人も多いだろう。かつては勤務評定反対闘争や学力テスト反対闘争、家永教科書裁判支援運動などに取り組み、政府・文部省と激しく対立していた日教組も、90年代半ば以降は旧社会党の変節に伴い、文部省と協調路線を採るに至っている。かつては8割を超えていた組織率も現在では3割を切っている。また、大分県のように管理職や教育委員会と癒着した御用組合も多いと言われている。したがって、今日では政府・自民党の推進する国家統制教育に抵抗する反対勢力としての意義はほとんど失っているのではないだろうか。

 だが、ネット右翼にとっては、そのような日教組の実態は関係ないのである。彼らが嫌うのは、「お上に楯突く連中」という実態とはかけ離れた虚像だからである。その意味では朝日新聞も全く同じ理由で嫌われている。実態としては、完全に体制擁護の御用新聞と化しているにも拘わらず、ネット右翼は「お上に楯突く新聞」という自らの作り上げた虚像を相手に批判しているのである。したがって、ネット右翼にとっては、「戦後民主主義=戦後教育=護憲派=サヨク=朝日新聞=日教組=北朝鮮=・・・・・=悪」という、実態を全く無視した実に単純な図式だけが頭の中にあるのである。それゆえ、彼らにとって「戦後民主主義」や「戦後教育」というものは、青少年の凶悪犯罪の増加(実際にはむしろ減少しているのだが)であれ、学力の低下であれ、道徳心の衰退であれ、挙げ句の果てには汚染米であれ、ありとあらゆる悪の原因を作る便利なブラックボックスなのである。したがって、いかなる悪事が起ころうとも、常に戦後民主主義や日教組を批判していればよいのである。

 さて、中山前国交相の発言に戻れば、こうしたネット右翼と心情的には同種のものだと考えられるが、彼の場合にはもう少し根が深い。中山氏は自民党の中では文教族と言われるが、それと同時に、従軍慰安婦制度への日本軍の関与を否定し、同問題の教科書からの削除を最大の目的とする「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」という極右集団に属している。中川昭一や安倍晋三のお友達なのである。そして同会が編集した『歴史教科書への疑問』の中では次のように書いている。
「ボーダレスの世界になればなるほど、日本民族としての自覚と素晴らしい祖先を持ったという誇り、そして世界のために貢献したいという高い志を持った青少年を育てなければならないが、そのためには、自虐的史観に貫かれた今の歴史教科書を一日も早く改定することが国家百年の計として必要であると考える」

 つまり、南京虐殺事件や従軍慰安婦問題といった歴史の暗部を否定ないし隠蔽する自慰史観(?)に立った教科書によって子供たちを教育しようというのが中山氏の教育観なのである。


【蛇足】

「また、つまらぬものを斬ってしまった」(by ごね衛門)


2008/09/25のBlog

東京地裁刑事第11部(小池勝雅裁判長)は今月19日、政党機関誌を警察官舎の集合ポストに投函した行為について国家公務員法(政治的行為の禁止)違反の罪に問われた元厚生労働省課長補佐・宇治橋真一被告=今年3月末で定年退職=に対して、罰金10万円の有罪判決を下した。

 私の見た限り、ブログでこの事件を扱っていたのは不破利晴氏『21世紀のリーダー 死活の書』だけである(まだ連載途中のようだが…)。一般紙で最も批判的に扱っていたのは東京新聞だった。

 この事件、及びこの判決については、様々な観点から見ることができる。
 
 法律論的に言えば、この裁判で争われたのが、公務員の政治的行為を広範に禁止した国家公務員法102条1項、同110条1項19号、及び人事院規則14-7が、表現の自由を保障した憲法21条違反に当たらないか否か、ということである。これについては、今から34年前の1974年11月6日に最高裁大法廷が下した「猿払事件」判決がある。ここでは最高裁は、「行政の中立性とそれに対する国民の信頼維持という国民全体の利益」の重要性を強調し、国家公務員法と人事院規則14-7による政治的行為の禁止は憲法21条違反には当たらないという粗雑な判決を下し、憲法学界や法曹界から痛烈な批判を浴びた。実際、この最高裁判決にも4名の裁判官の反対意見が付いていた。
 今回の東京地裁判決は、「下級審裁判所である当裁判所としては、公平性、法秩序の安定性等の観点からも、同判決を尊重することが、その採るべき基本的な立場だ」として、「裁判官の独立の原則」も投げすてて、極端な保身から同判決を無批判に踏襲したものである。
 そこで、憲法論の観点から今回の判決を批判することも可能だが、それは、さしあたって、私の興味を強く惹くものではない。公務員の(勤務時間外における)政治的行為の自由という論点は、それ自体としては、興味深い問題を孕んでいるが、そこだけに目を向けていると、今回の事件の政治的意味がぼやけてしまうだろう。

 この判決とそれが依拠する国公法・人事院規則を読んで、公務員はなんて表現の自由が制約されて不自由なんだろう、などと同情している場合ではない。公務員以外の人が、同じ行為(政治ビラの戸別配布)をすれば、国公法違反の代わりに、住居侵入罪で逮捕・起訴されるだけの話である。つまり、今や、公務員であろうとなかろうと、政府を批判するようなビラを戸別配布しようとすれば、たちまち権力の弾圧が待っているのである。

 とくに2004年以降、こうした言論弾圧の動きが強まっている。公務員でない市民がビラを配布して住居侵入罪で逮捕された事件としては、立川反戦ビラ事件と葛飾ビラ配布事件が有名である。立川反戦ビラ事件では、1審で無罪判決が出たものの、控訴審で逆転有罪となり、今年4月11日に出た最高裁第2小法廷(今井功裁判長)判決で、有罪が確定した。立川反戦ビラ事件1審判決の1週間後に被告が逮捕された葛飾ビラ配布事件も、立川反戦ビラ事件と類似した経過を辿っており、1審無罪、昨年12月11日に出た控訴審判決で逆転有罪となり、現在、最高裁に係争中であるが、立川ビラ反戦事件と同じ法廷のため、有罪判決が出る公算が極めて濃厚である。

 一方、今回と同様、公務員の(休日における)ビラ配布が国公法違反で逮捕された事件としては、社会保険事務所職員である堀越明男氏を被告とする通称、堀越国公法事件がある。この事件では、2006年6月29日に東京地裁が、罰金10万円(執行猶予2年)の有罪判決を下しており、現在、東京高裁で係争中である。

 表現の自由が奪われた社会に、次に訪れるものが何であるかは、歴史が示している。


==========<資料>===========
★【立川反戦ビラ配布事件】(ビラ配布→住居侵入罪)
市民団体「立川自衛隊監視テント村」のメンバー3名が2003年10月、11月、12月、2004年1月、2月、3月と、防衛庁立川宿舎の各室玄関ドアの新聞受けに、自衛隊のイラク派兵に反対するビラを投函した行為について、刑法130条の住居侵入罪により逮捕され、75日間という長期の身柄拘束ののち起訴された。

<東京地裁八王子支部判決:2004年12月16日>無罪:可罰的違法性なし

<東京高裁判決:2005年12月09日>逆転有罪、罰金10万~20万円

<最高裁第2小法廷判決:2008年4月11日>上告棄却、有罪確定
(裁判官:今井功=裁判長、津野修、中川了滋)

「Wikipedia 立川反戦ビラ配布事件」



★【葛飾ビラ配布事件】(ビラ配布→住居侵入罪)
住職・荒川庸生氏は、2004年12月23日、政党のビラ(共産党の区議団だよりなど)を配布するため東京都葛飾区のマンションに立ち入ったとして住居侵入罪で現行逮捕。
(*立川反戦ビラ事件の一審判決から1週間後というタイミングでの逮捕)

<東京地裁判決:2006年8月28日>無罪(求刑:罰金10万円)

<東京高裁判決:2007年12月11日>1審判決を破棄、罰金5万円。

*現在、最高裁第2小法廷(今井功裁判長)で係争中

《葛飾ビラ配布弾圧事件》



★【堀越国公法事件】(ビラ配布→国公法違反)
東京目黒の社会保険事務所に勤務する堀越明男氏が2004年、休日に自宅周辺の民家やマンションのポストに共産党のビラを配布したことにつき、国家公務員法・人事院規則に違反するとして逮捕・起訴された。

<東京地裁判決:2006年6月29日>
社会保険庁職員・堀越明男氏に対し、罰金10万円、執行猶予2年
国家公務員法(政治的行為の禁止)違反

*現在、東京高裁で係争中

《国公法弾圧・堀越事件ホームページ》



★【世田谷国公法事件】(ビラ配布→国公法違反)
2005年9月10日、総選挙最終日に厚労省課長補佐、宇治橋真一氏(60)=3月に定年退職=が、世田谷区内の警察官官舎の郵便受けに「しんぶん赤旗」号外を投函していたところ、住居侵入罪で逮捕。その後、宇治橋氏が国家公務員だと判明すると、国家公務員法違反(政治的行為の禁止)で追起訴(在宅起訴)。住居侵入罪については不起訴処分。

<東京地裁判決:2008年9月19日>
求刑通り罰金10万円。

《世田谷国公法弾圧を許さない会》



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