ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | ユーザ登録 | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
イスマタリアン
Blog
[ 総Blog数:347件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
前のページ   |   次のページ
2008/09/06のBlog

★共和国とは、自由プラス理性、法治国家プラス正義、寛容プラス意志だ。
デモクラシーとは、言うなれば、啓蒙の光を消してしまった後の共和国の残り物にすぎない。


★共和主義者は人間を本質的に理性的な動物として捉えるが、デモクラットは人間を本質的に生産的な動物とみなす。


★共和制においては、政治が経済に対して優位を保ち、デモクラシーにおいては、経済が政治を支配している。


★共和主義的ネーションのうえには人類がある。
デモクラティックな社会の上には神がいる。


★共和制のもとでは、国家はあらゆる宗教的影響力から自由である。
デモクラシーでは、教会が国家の影響力から自由なのである。


★共和制を支配しているのは普遍性の概念である。
それに対して、デモクラシーはローカル性によって貫かれている。
前者では、代議士というものは、国民全体の代表者であるが、後者にあっては、自分が選ばれた選挙区の代表である。


★共和制の国家は、理性を至高の参照枠にしているので一体化を目指し、その本性からして中央集権的である。
多文化性においてその本領を発揮するデモクラシーは、その本来的な性質からいって連邦的であり、中央集権的な体制への懐疑から地方分権を好む。


★デモクラシーは、私的なものと公的なものを混同し、個人の優れた資質と市民として果たすべき義務を峻別しない。それゆえデモクラシーにおいては、慈悲が正義と取り違えられることがよくある。
共和国は、私的なものと公的なものをはっきりと区別するので、公人をその私生活によって判断しようとはしない。共和国が大切にするのは市民精神であって、思いやりや道徳ではない。


★共和国は子供が嫌いで、デモクラシーは大人に敬意を払わない。


★共和制においては、社会は学校に似ていなければならない。それは自分の頭で考え判断することのできる市民を養成するところだ。
 デモクラシーにおいては、学校が社会に似ていなければならない。そこでの最も重要な任務は、労働市場に見合った生産者を養成することなのだ。


★共和制の学校は、人間を彼の置かれた環境から解放しようとし、デモクラシーの学校は、その環境によりよいかたちで送り込もうとする。


★共和国の学校は知性豊かな失業者を生み出し、デモクラシーの学校は競争力のある馬鹿者を育成する。


★共和国は学校が好きだ。デモクラシーは学校を恐れる。しかし、両者がいちばん愛しまた恐れるもの、それは依然として学校における哲学教育である。
 ある国が共和国なのかデモクラシーなのかを区別するもっとも確かな方法は、哲学が高等学校で、すなわち大学入学以前に教えられているかどうかを調べることである。


★聖なる長方形
共和国・・・・学校の黒板
デモクラシー・・・テレビ


★デモクラットが単に「人の権利=人権」のみを語るのに対し、共和主義者は「人と市民の権利」について語る。


★(好きな言葉)
共和主義者:「極端な考え方にわたしは心を動かされる」
デモクラット:「度を超したものには何の価値もない」


★共和派は少数派になると血気さかんになるが、少数派のデモクラットは意気消沈してしまう。


★共和派は経済が好きではないし、経済の方も共和派が好きではない。
経済を理想とするデモクラットは、早晩、理想を軽視することに行き着く。


★共和主義者は書き言葉、文章に強く、デモクラットは話がうまい。


★共和主義者は、男にせよ女にせよ、距離を取る。冷ややかな人間なのだ。そして、そういう自分の性質をうまく利用できる男・女なのである。彼らは他人を裏切らない。しかしエゴイストだ。
★他方、デモクラットは心が温かく、つきあいやすい。彼は誰にでも等しく楽しい時を提供する。要するに、身近に感じられる人間なのだ。しかし、同時に、その親しみやすさはその場限りのことで、あっというまに消え去ってしまう。


★同調を旨とするデモクラシーがデマゴギーに陥りやすいように、融通のきかない共和国には権力主義の影が忍び寄っている。


★(共和主義者の愚痴)
原則をかたくなに維持しようとする姿勢が硬直した態度と見なされ、首尾一貫した方針を貫こうとする意志が力による強制への嗜好と混同される。あくまでも論理的な思考を追求しようとする姿勢は、単純化傾向として揶揄されもする。


★(反撃)
わたしが横柄ですって? わたしはあなたがお愛想家だと思っています。
わたしが独善的ですって? あなたほど折衷主義的な人はいませんよ。
あなたが臨機応変ですって? それは優柔不断を隠すためでしょう。
あなたが現実主義者ですって? というよりご都合主義でしょう。
わたしが闘士でセクト的ですって? あなたはへっぴり腰の無原則人間でしょ。


――レジス・ドゥブレ「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」『思想としての〈共和国〉』(みすず書房)より


2008/09/05のBlog

 1997年に成立した臓器移植法によれば、「脳死」を人の死(というより自分の死)と見なすか否かを“自己決定”できることになっている。しかし現在、臓器移植法の見直しが行われており、そこでは、法律によって脳死を一律に人の死とし、脳死の拒否権は認めないという方向が検討されている。
 仮に、「脳死」を一般的に人の死として法律で認定するようになったとき、一体、どのような未来が待ちうけているのだろうか。西谷修『不死のワンダーランド』(講談社学術文庫)の中の文章を引用する。


==============<以下、引用>==============

医療技術によって臓器の移植が可能になったが、心臓、肝臓といった特定の臓器の移植は、提供者の死を前提としなければ行えない。つまり一人が死ななければ他の一人の延命はできないのだが、それに加えて、提供される臓器はできるだけ「新鮮な」ものでなければならない。そのために「新しい」と言うか、死にきっていない「死体」が必要となる。「脳死」の論議はその要請に応えるために生じてきた。つまり従来の基準で死んだとみなされた段階では、臓器を生きたものとして活用するには遅すぎるのだ。だから「脳の死」をもって「人間の死」と認定する必要が出てくる。医療が規範的にそれを〈死〉と認定すれば、以後その身体は「死体」である。すでに死んだ人体から臓器をとってもその行為は殺人にはならないし、他の人間を死から救うために、しかるべき「権利者」の同意のもとに行われるならば、臓器摘出は死体毀損にはならず、人道と公共の福利にかなう適法な行為となる。「脳死」をもって人間の死とするという「死の再定義」の試みは、このような要請のもとに生まれてきた。

 (中略)

 もちろんこのことはたとえば、心臓に難病をもつ子供や若者に、もはや助かる見込のない人の心臓を移植する、といっただれもがとりあえずその功徳を承認するケースによって、「人道(人間)主義的」正当性を与えられる。そしてこの「人道的功徳」のために「脳死」は社会的に承認されなければならない、と主張される。だが、「脳死」の約定を急ぐべきだと主張する人々が、その「効能」をさらに一般化して、脳の機能停止を人間の「死」として承認することの「人類福利に対するはかり知れない効能」を説きだすとき、なにが「脳死」認定への要請を促しているのか、それを一般的に承認することがどういう意味をもつのかが、見まごうかたなくあらわになる。彼らによれば、脳死による死亡認定の帰結は医療の実践に大きな可能性をもたらす。「脳死」は、必要な人のために臓器の採取を可能にするだけでなく、一般的な臓器の提供者を作り出し、さらに「脳死体」は臓器の「理想的な貯蔵庫」となって臓器移植の可能性そのものを広げ、かつ人工製造のむずかしい「血液やホルモンの(生きた!)工場」となり、あるいはまた解剖や手術実習のためのまたとない「医学教材」として活用しうるという。ということは「脳死」の一般的意義とは、「人格」の消滅を認定することによって人体の資材としての活用に道を開くということである。

 「脳死」はそう認定された人体の「人格性」を解除する。「脳死体」はしたがってもはやだれでもなく、人格をもたない以上「人間」ではない。そしてこのだれでもない無名の身体を「公共の資材」として活用することが、「脳死」の公認のもたらす最大の効用なのだ。それが臓器移植という限定された問題よりはるかに広範で重要な「効用」だと謳われている。

――西谷修『不死のワンダーランド』(講談社学術文庫)より

====================

【脳死・臓器移植に関する参考図書】
立花隆『脳死』中公文庫
立花隆『脳死再論』中公文庫
立花隆『脳死臨調批判』中公文庫
小松美彦『死は共鳴する――脳死・臓器移植の深みへ』勁草書房
小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』PHP新書
小松美彦『自己決定権は幻想である』洋泉社y新書
池田清彦『脳死臓器移植は正しいか』角川ソフィア文庫
中島みち『脳死と臓器移植法』文春新書
中島みち『見えない死――脳死と臓器移植』文藝春秋
梅原猛『「脳死」と臓器移植』朝日文庫
梅原猛『脳死は本当に人の死か』PHP研究所
加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』PHP新書
柳田邦男『犠牲(サクリファイス)――わが息子・脳死の11日』文春文庫
近藤誠ほか『私は臓器を提供しない』洋泉社y新書
森岡正博『脳死の人――生命学の視点から』法蔵館


2008/09/02のBlog

 安倍前首相に続く福田首相の政権投げ出しをマスコミは嬉々として報じている。
「無責任すぎる!」と怒ったふりをしていても、その裏には、こうして毎度繰り返される政界ドタバタ茶番劇を報じるのが楽しくて仕方がないという本音が透けて見える。
 その証拠に、昨夜からどのテレビ局も、福田辞任による今後の政局予想というマスコミお得意のネタではしゃいでいるようだ。

 しかし、国民の大半は盛り上がるどころかしらけきっているというのが実情だろう。テレビをつけて、政治家の顔が映っていると、うんざりしつつすぐにチャンネルを切り替える人が多いのではないだろうか。

 問題は、自民党が末期症状であるとか、自民党に政権担当能力がないとかといったことではない。そんなことはあまりにも当たり前すぎて、今さら言うこと自体バカバカしい。

 根本的な問題は、福田政権に限らず、現行憲法下での歴代政権の大半において、民主的正統性と民主的統制可能性がともに欠如していることである。

 現行憲法は前文において、主権が国民に存することを宣言し、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と定めている。それを受けて、憲法41条は、(国民の信託を受けた)国会が国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関であることを定めており、さらに66条3項は「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」と定め、日本国憲法が議院内閣制を採用していることを闡明している。

 つまり、主権者である国民がその代表者として国会議員を選挙で選び、国会議員の中から首相を指名し、首相が国務大臣を任命して組閣するのであるから、内閣は国会に対して責任を負い、国会は国民に対して責任を負う、という論理構造になっているのである。

 ところが、現実には全くそうなっていない。議院内閣制民主主義の本質から言えば、国会は国民の信託を受け、内閣は国会の信託を受けたものでなければならない以上、内閣は間接的とは言え国民の信託を受けたものでなければならないはずである。ところが、戦後の歴代政権を見ると、総選挙の洗礼を受けずに成立した政権が過半数を占める。最近10年を近い方から見ていくと、福田内閣、安倍内閣、第1次小泉内閣、第1次森内閣、小渕内閣と5つの内閣は総選挙の洗礼を受けておらず、総選挙後に組閣されたのは、第3次小泉内閣、第2次小泉内閣、第2次森内閣の3つの内閣のみである。こうした傾向は過去に遡っても変わらない。総選挙を経ることなく次々に新しい内閣が誕生する最大の原因は、自民党の総裁を総理に選ぶという自民党内部の慣行のせいであって、憲法とも国会法とも内閣法とも関係なく、いわば自民党の「お家の事情」で決まっていることである。

 総選挙を経ることなく内閣が変わるもうひとつの原因は、安倍政権、福田政権と繰り返された首相の政権放り出し(自発的辞職)である。行政の最高責任者がこれほど国会と国民を冒涜する行動に出ても、主権者である国民にはどうすることもできず、愚劣な政界茶番劇の「観客」としての地位に縛り付けられているのである。地方自治法に認められているような議会の解散請求権や議員・長の解職請求権といった直接民主制的権利は一切認められていないのである。が、それだけではない。国民の負託を受けた国権の最高機関であって、内閣がそれに対して責任を負っているはずの国会ですら、どうすることもできないのである。もっとも、仮に衆議院で野党が過半数を占めていたとすれば、内閣不信任決議を可決することができ、そうなれば、内閣は総辞職するか衆議院を解散するかの選択を迫られることになる。しかし、現状では衆議院で与党議員が3分の2以上を占めているため、そうした可能性は皆無であり、野党が多数を占める参議院には内閣不信任決議をする権限がない。

 しかし、今さら言うまでもないことだが、現在の衆議院の構成をもたらしたのは2005年9月11日のいわゆる小泉郵政総選挙であり、郵政民営化の是非だけをほとんど唯一の争点として争われた選挙である。しかし、その約1年後、総選挙の洗礼を受けることなく成立した安倍政権下で、教育基本法改悪、自衛隊法改悪、国民投票法、改正イラク特措法など、次々と悪法を強行採決した結果、昨年7月の参院選で自民党は歴史的な大敗を喫した。この時点で、民意は明らかに自民党政権にノーを突きつけていたわけだが、高慢で卑劣な自民党は再度の惨敗を恐れて衆院解散・総選挙を行うこともなく福田政権を発足させたものの、内閣支持率は終始低空飛行のまま、再び安倍晋三と同じく政権放り出しという最悪の結末を迎えたのであるが、ことここに至っても、3度自民党内での政権たらいまわしをしようとしているのである。福田前首相は辞任会見で、衆参ねじれ現象によって苦労させられた、あたかも被害者のごとき弁明をしていたが、衆参ねじれ現象が解消しないのは、自民党政権が惨敗を恐れて衆院解散・総選挙をしないからである。

 衆議院の解散権は内閣が握っているため、いつ解散するかは、与党・自民党にとって都合のいいタイミングをいつでも選べるわけで、言い換えれば、民意に反した不人気な内閣であればあるほど解散権を行使しないことによって、反民主的な政権が続くことになるのである。これは喩えて言えば、裁判を開くか否かの決定権を被告人が握っているようなものである。

 このように、あまりにも民主的正統性に欠けた愚劣極まりない政治状況に対し、主権者たる国民による民主的統制の手段・可能性が欠如している現状は、政治に対するシニシズムとアパシーを無限に増殖させ、さらなる政治腐敗の温床となるであろう。


【9月3日追記】
 最近、世論調査で、「あなたは憲法改正に賛成ですか」と聞くと、過半数の人が「はい」と答える。一方、「あなたは9条の改正に賛成ですか」と聞くと、過半数の人が「いいえ」と答える。さらに、「9条以外で憲法を改正すべき項目はありますか」と聞くと、やはり過半数の人が「いいえ」と答えるという。
 こうした矛盾した回答の背景には、国民が今の政治状況に対して、何もできないという無力感と疎外感を抱いており、そのような無力感や疎外感を癒すために、主権者としての権能を行使することによってカタルシスを味わいたい、という秘かな願望があるのではないか、と政治学者の杉田敦氏は指摘している(*1)。これはなかなか鋭い指摘なのではないかと思う。世論調査に表れる改憲賛成派の中には、「癒しとしての改憲支持者」がかなり含まれているということであろう。

 しかし、憲法学者の愛敬浩二氏が強調するように、「改憲論議」と「憲法論議」はしっかり区別する必要がある(*2)。前者は現実の政治勢力としての改憲派が実際に主張している改憲案の是非をめぐる議論であるのに対し、後者は現行憲法典をより良きものにするために改正すべき論点があるか否かをめぐる原理的議論である。
 現在の改憲論が、9条2項を削除して自衛隊の恒常的海外派兵に対する一切の障害を除去することを最大の眼目としていることは間違いのないところであり、その意味で、私は改憲論議においては断固改憲反対の立場に立つ。しかし、原理論的に言えば、現行憲法に欠点がないわけではなく、改正すべき部分もあると思っている。ひとつは第1章、天皇条項の削除であるが、第4章「国会」と第5章「内閣」についても、内閣の民主的正統性と民主的統制可能性を担保しうるような制度を構築するために改正すべきなのではないかと思っているが、不勉強のため、具体的な改革提案までは構想できていない。

 しかしながら、内閣の民主的正統性を確保するために憲法改正を行うというのは現実的ではない。しかるに近年、一部の政治学者や憲法学者の中から、憲法改正をしなくても、同様の効果を上げうるという改革提案が出されていることを知った。

 飯尾潤氏によれば、衆議院の総選挙を、有権者が政権政党(連合)・首相候補・政権公約の3点セットで選択できるような選挙へと変革することが必要だという。そのためには、各政党が選挙前に、あらかじめ首相候補を提示し、政権獲得後に実現する政策の大枠を公約(マニフェスト)として掲げ、有権者の支持を競うことが必要である(*3)。単独政権を見込めない諸政党はあらかじめ連合協定を結び、連立政権構想を有権者に提示することが必要となるだろう。この提案に、さらに加藤秀治郎氏の提案を加えれば、各党は党首の任期を総選挙に合わせて原則4年とし、与党はその党首を次の選挙までは担ぐことにすべきである(*4)。さらに私の意見を付け加えれば、内閣が何らかの事情で総辞職するに至ったときには、必ず衆議院の解散・総選挙を実施するとともに、(内閣総理大臣が与党の党首でもある場合には)与党の党首も辞任し、総選挙で勝利した政党の党首(またはあらかじめその政党が指名した首相候補)によって組閣されるという慣行を確立すべきである。さらには、内閣の衆院解散権は、憲法69条に規定された場合(衆院で不信任決議を可決、もしくは信任決議を否決された場合)と、上述した総辞職に伴う場合に限定すべきであろう。もっとも、こうした一連の改革が憲法改正なしに可能かどうか、今のところ私にはよくわからない。また、参議院を、ひいては二院制をどうすべきかという難問も残されている。これらについては、今後も引き続き考えていきたい。

(*1)『対論・憲法を/憲法からラディカルに考える』(法律文化社)所収の樋口陽一氏と杉田敦氏の対論「憲法は何のためにあるのか」における杉田氏の発言参照。

(*2)同書所収の愛敬浩二氏のエピローグ参照。

(*3)飯尾潤『日本の統治構造』中公新書

(*4)加藤秀治郎『日本の選挙』中公新書


2008/08/29のBlog

――8月27日付東京新聞の「特報面」に「日本のメタボ、早くも退場?」という記事が載りました。日本のメタボ基準がいかにデタラメであるかを徹底的に暴露した優れた記事ですので、以下に全文を引用します(メタボリアン・メタボリスト・メタボラー・ツナミン)。



==========<以下、引用>===============

 日本のメタボ基準にレッドカード? 国際糖尿病連合(IDF)などにより新たなメタボリック症候群の診断基準が検討されているが、日本では必須の腹囲測定が必須ではなくなりそうな雲行きだ。今年4月の導入当初から「法的病人を増やすための基準」とも批判されてきた日本基準。早くも退場か。

 日本ではメタボ診断の第一条件は腹囲だ。基準は「男性85㌢、女性90㌢以上」。常識的に考えて、女性の基準値が大きいことは不可解で、これまでにも散々、疑問が投げかけられてきた

 IDFは2006年に「日本の基準は奇妙」と指摘。日本が反応しないため、翌07年度には「男性90㌢、女性80㌢」とご丁寧に基準の提案までした。それでも日本が無視するため、IDFは米コレステロール教育プログラム(NCEP)などと協力して、腹囲を必須としない基準作りを検討している。

 そもそもメタボ自体は病気ではない。その基準は、食生活や運動といった生活習慣改善の目安。糖尿病や心筋梗塞といった病気の予防が目的だ。そのため、国際的にはメタボ基準は病気ごとに作られている。あたかもメタボそのものを病気のように扱い、検査数値を基準に高脂血や高血圧の治療薬を処方するのは日本だけだ

 それに、腹囲に象徴される日本の基準値を疑問視する声は強い。
 例えば、心血管疾患予防において日本のメタボ基準は有効に機能しなかったのに対し、NCEP基準ではリスクを判別できたとの疫学データもある

 日本では腹囲に続き、血糖値、中性脂肪値、血圧を測定。2つで基準値を超えればメタボとされる。NCEPにも腹囲はあるが、必須ではなく、血糖値などを加えた5項目のうち3項目で基準値を超えれば該当する。

 また、腹囲測定の位置も、日本は数値が大きくなりがちなへその位置だが、海外では「内臓脂肪の計測なのだから、肋骨の下で骨の影響が少ないところ」と数㌢上の位置で測る。

 現行のIDF基準では腹囲は必須になっているが、関係者によれば「日本の専門家が強く主張したため、妥協案として国別に腹囲の基準値が入った」という。その反省も今回の検討の背景にあるという。

 いずれにせよ、現状の日本の基準では、男性の9割以上、女性の8割以上が、いずれかの項目で引っかかる。そんな国が「世界有数の長寿国」というのは、やはり基準に問題があることを示している

 「薬好き」という日本人の国民性もあり、製薬会社はメタボで高脂血や高血圧の薬の販売増が期待できる。それによって厚生労働省は天下り先を、研究者は寄付金をそれぞれ増やす。メタボは「新たな産官学の癒着構造をつくるための公共事業」とも呼ばれている

 「メタボの罠」などの著書で知られる東海大医学部の大櫛陽一教授はこう指摘する。「日本がめちゃくちゃな基準を作ってそれを利用しているために、メタボ基準が国際的に混乱している。『これを正そう』としているのが今回の動きだ」

=========<以上、引用>=============


*記事と画像は何の関係もありません。
画像は「映画生活」の「スカイ・クロラ」フォト・ギャラリーからお借りしています。


2008/08/27のBlog
[マキノコさんの関連記事]

 しばらくブログを休もうと思っていたが、これを読んでは書かないわけにはいかない。
 マキノコさんの記事「生命」である。これは加賀乙彦氏の著書『死刑囚の記録』に対する書評であると同時に、マキノコさんが死刑制度に反対する理由を述べた文章である。私もマキノコさんとほぼ同じ意見であるし、『死刑囚の記録』について、マキノコさん以上の感想が書けるわけではないので、ここでは本書の感想そのものよりもその背景や周辺にある問題について述べてみたい。

 実は私は、かなり前からこの本は持っていながら、一昨日まで読んでいなかった。しかし最近、死刑制度を特集した『世界』9月号に掲載された加賀乙彦氏と安田好弘弁護士の対談「死刑は社会を野蛮にする」を読み、改めて『死刑囚の記録』を読みたくなっていたところだったのだ。そんな矢先に出現したマキノコさんの記事である。これはもう、私に「読め」という御告げだろう(笑)と思い、読んでみた。

 まずはじめに指摘しておきたいのは、本書が死刑囚の実態――日常生活と意識――に関する極めて貴重な実地研究の成果であり、今日ではこのような研究をすること自体が不可能である、ということだ。本書が出版されたのは1980年だが、本書に登場する様々な死刑囚――厳密に言うと、下級審段階で死刑判決を受けたが上訴(控訴または上告)中であって未だ被告人の地位にある者と、確定死刑囚の両者が含まれる――に著者が実際に面接・面談したのは、著者が若手精神科医として都立松沢病院に勤務した1954-55年、及び、東京拘置所に医官として勤務した1955-57年のことであって、その後、とくに60年代半ば以降は、法務省・刑務所の密行主義が進行し、加賀氏が行ったような死刑囚に対する比較的自由な実地研究はほとんど不可能になってしまった、ということだ。

 ところで、現在日本では死刑を支持する人が8割を超えるといわれており、おそらく世界で最も死刑存置論者の比率が高い国の一つだろう。日本でこれほど死刑賛成派が多い最も重要な要因としては、国民の大半が死刑囚と死刑制度の実態を知らないことが挙げられるだろう。まず第1に、国民の大半は、死刑囚について、自分とは全く無縁の極悪人、といったイメージを持っているだろう。多くの人は、死刑囚を、自分や自分の家族、友人や知人とは全く違った“人種”であると思っているのではないだろうか。そして、自分や自分の家族・友人・知人が殺人事件の被害者になるような事態は想像しても、自分や自分の家族・友人・知人が死刑囚になる、といった事態は夢にも想像していないのではないだろうか。しかし私は、思春期以降、殺人犯や死刑囚が自分とは無縁の人間であると思ったことは一度もない。もちろん、個々の犯罪者についていえば、一片の共感も共通点も見出せないような者も少なくないが、自分が決して死刑囚になることはない、と思ったことはない。本書『死刑囚の記録』には、著者が実際に面接した死刑囚数十名――そのなかにはその後も文通などと通じて加賀氏が友人として深い交流を持った人も含まれる――のうち、約20名の死刑囚が登場するが、わずかそれだけの死刑囚のなかにも、“娑婆”と同じくらい多様な人々がいることがわかる。中には、私など及びもつかない学識や人格を備えた人もいる。むろん、中には極悪非道な犯罪を犯していながら、ほとんど反省する様子を示さない者もいるが、前非を深く悔いて内省と信仰の日々を送る人もいる。

 そして、多くの人は見落としているか忘れていると思うが、死刑囚の中には実際には無実(つまり冤罪)の人がいる。加賀氏の調査によれば、死刑囚のうちおよそ2割の者が無実を主張しているらしいが、むろんこれらがすべて冤罪であるわけではない。死刑囚が死刑を免れるためには、無実を主張することが唯一の道であるため、故意に虚偽の主張をする者がいるほか、死刑囚が収監されている独居房は様々な妄想を生みやすいことから、無実であればという願望からいつしか無罪妄想を発展させる者も少なくないようである。ところが、同じく無罪を主張する死刑囚の中でも、加賀氏がその面接(もちろん、加賀氏は面接する被告・囚人については、事前にすべての裁判記録を含む身分帳を綿密に読み込み、囚人のあらゆる情報を事前に得ている)の結果、他の無罪主張者とは違って、これは冤罪ではないかという確かな手応えを得た死刑囚が、本書には6名登場する。これらの人々に共通するのは、他の無罪主張者の態度に強い不安と動揺と苛立ちが見られるのに対し、無罪を確信している者らしい裁判に対する強い確信と安心に満ちた落ち着きが鮮やかな印象を残したことであるという。うち3名は1948年の幸浦事件で起訴され、1審・2審で死刑判決を受けていたが、その後、3審の最高裁で差し戻し(裁判のやり直し)判決を得、59年の差し戻し審(東京高裁)で無罪判決を受け、63年7月には最高裁で再上告棄却・無罪判決が確定した。

残る3人のうち1人は、49年に起きた三鷹事件で逮捕された竹内影助で、1審で無期、2審と3審(最高裁)で死刑判決を受けた。死刑確定者となった竹内はその後も一貫して冤罪を叫び続けたが、67年1月、東京拘置所で脳腫瘍のため死亡した。2人目はかの有名な帝銀事件の平沢貞道である。あまりにも有名なこの事件については多言を要しないだろう。節目となる年月のみを記せば、事件発生が1948年1月、平沢が逮捕されたのが同年8月、50年7月の1審で死刑、52年9月の控訴審でも再び死刑判決を受け、55年4月の上告審で上告棄却、死刑判決が確定した。平沢はその後繰り返し再審請求を行ったが、87年5月に拘置所で死亡した。3人目は牟礼事件の被告・佐藤誠である。事件発生は50年4月、佐藤が逮捕されたのが52年10月、54年10月の1審で死刑、57年6月の2審は控訴棄却、58年8月の上告審で上告棄却され、死刑が確定した。佐藤もその後繰り返し再審請求したが、第8次再審請求中の89年10月に佐藤も死亡した。これら3つの事件について、加賀氏自身は「冤罪かも知れぬと思った」という控えめな表現で、断定を避けているが、刑事訴訟法学者で冤罪研究の専門家である小田中聡樹も『冤罪はこうして作られる』(講談社現代新書)の中で帝銀事件と牟礼事件については冤罪事件として取り上げている。

 日本で死刑存置論者が多い第2の要因としては、先に述べたように、死刑制度の実態が知られていないことが挙げられるだろう。憲法は残虐な刑罰を禁じている(36条)が、死刑は残虐な刑罰ではない、と主張する人々がいる。1948年3月12日の最高裁判決がその例で、「一人の生命は全地球より重い」と言いながら、絞首刑という死刑の執行方法は「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで」などに比べると残虐ではない、と主張する。また59年の古畑種基鑑定は、絞首刑では頸をしめられた瞬間に意識を失い、その後数分で絶命に至るから、苦痛は感じないと推測し、それゆえ残虐ではない、と主張されることもある。しかしながら、死刑の残虐さを論じるにあたり、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで」と比較したり、絞首刑の瞬間のみの苦痛を推測して、これを否定するのは、あまりにも戯画的である。死刑確定者は、自分がいつ死刑に処せられるかが、処刑当日の朝になるまでわからないため、不断に死と向き合い、死について考えないことも、気晴らしをすることもできず、拘禁ノイローゼになる以外に逃避の道がないほどの恐怖と精神的苦痛を日々強いられるのである。死刑囚の過半数が拘禁ノイローゼにかかっているという事実そのものが死刑制度の残酷さを示している。

 しかし死刑が残酷なのは、死刑囚にとってだけではない。死刑執行を命じられる刑務官は激しい精神的ストレスと苦痛を感じ、悪夢にうなされることもしばしばであるという。しかも、死刑執行にあたる刑務官は、それまでの日々、死刑囚と向き合い、場合によっては温かい心の交流を深めているケースもある。そして、なかにはすっかり改心して静謐な精神を持つに至った死刑囚もいるのだが、そういう死刑囚であっても、死刑執行命令を受ければ、死刑執行という名の殺人を行わなければならないのである。死刑判決を下す裁判官や、死刑執行命令書に署名する法務大臣も、自分が直接処刑をしなければならないとしても、全く同じ判断ができるのだろうか。

さらに、死刑制度が存在する限り、無実の人が誤って処刑されてしまうという悲劇を完全に避けることは原理的にできない。冤罪は、おそらく普通の人が思っているよりも、はるかに多く起きている。そして、それは死刑判決事件においても例外ではない。前記『冤罪はこうして作られる』には、最近の主な再審無罪事件として13件のケースが例示されているが、そのうち4件が死刑判決確定後の再審無罪事件である。また、再審請求中および再審請求棄却等に終わった主な事件として14件が挙げられているが、このうち死刑判決を受けた事件が7件ある。いずれも「主な」事件だけである。冤罪が原理的に避け得ないのは、事件によっては、物証のないケース、状況証拠や証言や自白しかないケースもあるのに、ときには物証が偽造されることもあれば、証言が誤っていたり偽証であることもあり、さらには自白が虚偽自白であることもあるからだ。そして裁判官は、検察の立証により被告人が真犯人であることが「合理的疑いを超える」程度に証明されたとの心証を抱けば、有罪判決を下すことになる。それは死刑判決の場合も同じである。「合理的疑いを超える程度の心証」とは、裁判官個々人によっても異なるが、概ね95%くらいの確からしさだと言われている(団藤重光『死刑廃止論』参照)。つまり、裁判官は、被告人が真犯人であることに一抹の不安を覚えたとしても、ほとんど間違いないだろう、と思えば(罪状が極めて重い場合は)死刑判決を下すことになるのである。しかもこの判断は裁判官によっても異なるから、下級審(1,2審)の場合、3人の裁判官のうち一人が「合理的疑いが残る」と考えても、後の2人が「ほとんど間違いない」と思えば、死刑判決が下ることになるのである。もとより、3人の裁判官全員が「絶対に間違いない」と思ったとしても、人間である以上、その判断が文字通り「絶対に間違いない」とは言えないのであるが、上記の程度の心証で下される死刑判決が「絶対間違いない」と言えないことは明らかである。つまり、死刑という絶対的な刑罰を下す根拠はかなり曖昧なのである。

 『死刑囚の記録』からは離れた内容になってしまったが、本書は、死刑囚と死刑制度の実態を知るうえで貴重な記録である。現在、死刑制度に賛成の人にとっても反対の人にとっても、同制度について再考するうえで一読の価値はあると思う。


*画像は映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の一場面。
この映画は、私の解釈では、死刑制度の残酷さを訴えた映画である。


2008/08/20のBlog
[関連記事]

備忘録として、今日の毎日新聞オンライン版に掲載された2つのニュースを引用しておきます。


http://mainichi.jp/select/today/news/20080820k0000m040155000c.html
メタボ:腹囲が必須条件から外れる 診断基準を国際統一

 メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の診断基準が国際的に統一され、腹囲が診断の必須条件から外れることが分かった。年内にも暫定基準が公表され、今後、世界のメタボ診断や治療・研究は、統一基準に基づいて行われる。一方、日本が今年度から始めた特定健診・保健指導(メタボ健診)では、腹囲測定が必須でシンボル的存在。今回の統一は、国際的に日本の特異さを際立たせることになる

 世界には複数のメタボ診断基準があり、混乱が生じている。このため、約150カ国の専門家が参加する国際糖尿病連合(IDF)と、米国コレステロール教育プログラム(NCEP)が中心となって、診断基準の統一を呼び掛け、今年2月から協議を進めた。

 IDF基準は、腹囲が基準値以上で、中性脂肪など血液検査の結果の4項目のうち2項目に異常があればメタボと診断する。腹囲は人種別に定めている。一方、NCEPと米心臓協会・米国心肺血液研究所は、腹囲など5項目のうち3項目に異常があればメタボとする。腹囲は必須条件ではなく、基準値は1種類しかない。日本はIDFと同じ考え方に基づく。

 統一基準はNCEPを基本とし、腹囲は必須条件から外れるが、人種別に定める。NCEP基準は肥満でなくても他の項目に異常があればメタボと診断される。日本では、肥満ではない生活習慣病患者も多く、腹囲を必須にした場合、「見落とし」を懸念する声が出ていた

 米国心肺血液研究所のジェームズ・クリーマン博士によると、同研究所などが今後、暫定基準に合致する人とそうでない人を対象に、心血管疾患発症や死亡率の違いを分析し、診断基準としての科学的妥当性を検討する。

 日本基準の腹囲については、これまでも科学的根拠に疑問が出されている。基準策定で中心になった日本肥満学会理事長で松澤佑次・住友病院長は「日本の基準は、内臓脂肪がメタボの原因にあるとの考え方から、腹囲によって対象者をNCEPよりも絞り込んでいる。効率的な対策を実施するという意味では日本基準は正しく、変える必要はない」と話している。【大場あい、永山悦子】


http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080727k0000m040108000c.html
メタボ健診:自治体の6割「見直し」1割「廃止」求める

今年4月から始まった特定健診・保健指導(メタボ健診)について、6割の自治体が見直しを求め、1割は廃止すべきだと考えていることが、全国に806ある市と区を対象にした毎日新聞の調査で分かった。費用は国と県が3分の1を補助する仕組みだが、国の補助単価が実費に届かない自治体が8割近くあることも判明。がんなど他の検診への補助を削減する自治体もあり、メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)以外の対策が後退し始めた実情も浮かんだ

 調査は6月、全国783市と東京23区に実施。551市区(68.4%)が回答した。

 「特定健診を現在のかたちのまま継続すべきだと思うか」との問いには、347市区(63%)が「問題点を見直すべきだ」、60市(11%)は「制度自体を廃止すべきだ」とした。「現行制度のまま継続すべきだ」は62市区(11%)。見直すべき理由は▽メタボに限定した検査で他の病気を見落とす可能性がある▽制度が複雑で受診率が下がる▽医療費抑制につながるか疑問--などが挙がった。

 国は昨年末、国、県の補助額を決める補助単価案として、集団健診2880円(課税世帯の65歳未満の場合、1人あたり)、委託先医療機関などで個人が受診する個別健診5300円(同)と示した。この単価より実費の方が高いと答えた市区が、集団健診を実施する市区の76%(335市区)、個別健診では79%(397市区)に達し、自治体の持ち出しになる例が目立つ。

 今年度から保健事業の縮小・廃止をしたと答えたのは293市区(53%)に上る。▽がん検診受診者への補助削減▽人間ドック受診者への補助削減▽メタボ健診の対象外の40歳未満の健診の縮小--などが起きていた。

 メタボ健診は、受診率などの目標を達成できない場合、ペナルティーとして後期高齢者医療制度への拠出金が増額されるが、「達成可能」は41市区(7%)のみ。「分からない」408市区(74%)、「不可能」97市区(18%)だった。不可能と答えた市区に対応を尋ねると(複数回答可)、「保険料を上げる」が7割を超えた。【永山悦子、大場あい】

 【ことば】特定健診・保健指導(メタボ健診)

 腹部に内臓脂肪のたまったメタボリックシンドロームの人は、脳卒中や心筋梗塞などの心血管疾患を起こしやすいという学説に基づき、今年度から導入された健診制度。背景に、生活習慣の改善を指導することによって生活習慣病の患者を減らし、医療費削減を目指そうという国の方針がある。医療保険の保険者に実施が義務付けられ、健診実施率、指導実施率、メタボ該当者の改善率が目標を下回ると、保険者に財政的なペナルティーが課される

======================
【追記】
さらに次の記事は一層わかりやすい。

http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/life/20080820ddm003040097000c.html
メタボ、国際基準統一へ おなか優先、日本だけに
2008年8月20日(水)13:00

 ◇男性85センチ、女性90センチ

 腹囲測定をメタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)診断の第一条件として、今年4月から始まった特定健診・保健指導(メタボ健診)。「男性85センチ、女性90センチ」という腹囲基準の分かりやすさが注目を集めたが、肝心の腹囲が国際的な統一基準の必須条件から外されることになった。世界とは異なる基準で、公的健診を続けることは妥当なのだろうか。【大場あい、永山悦子】

 ◇健診現場も「根拠に疑問」

 先月、東京都江戸川区でメタボ健診を受けた60代の女性は「腹囲を測ってもらえれば、食事に気をつけるきっかけになる」と屈託なく話した。受診者は順に、ついたてで仕切られたスペースに入り、腹を出してメジャーを巻かれた。

 メタボ健診は、メタボや予備群に該当する人を健診で見つけ出し、生活習慣改善のための保健指導を実施する新しい公的健診だ。まず腹囲を基準に受診者を振り分け、その後、血液検査の結果などを加味して指導の必要性や内容が決められる。だが、保健指導に携わる看護師は「去年までと検査項目が変わったことに気づいても、何を目的とした健診か理解している人は少ない」と漏らす。各地の健診会場では腹囲測定に対し、「根拠が理解できない」「スポーツで鍛え腹囲が大きい場合も基準に引っかかるのはおかしい」など疑問の声が上がっている

 厚生労働省のメタボ健診の基本指針は「生活習慣病の発症には内臓脂肪の蓄積が関与している」とする。内臓脂肪が蓄積した肥満に高血糖や高血圧などが重なった状態がメタボで、心筋梗塞(こうそく)など心血管疾患を発症しやすくなるとの考え方だ。腹囲測定は、内臓脂肪の多い人を見つけるために導入した。

 だが、メタボ健診の基になっている日本内科学会など8学会による腹囲基準には「世界で唯一、男性の基準が女性より小さい」など、策定当初から再検討を求める声が相次いだ。8学会は今年3月、再検討に取り組む方針を発表し、厚労省研究班も2万4000人のデータから最適な基準を導き出す作業に着手した。腹囲基準を何センチにすべきか、今なお議論が続いている。

 ◇心血管疾患との関連不明

 腹囲を第一条件にした日本の基準に当てはまる人が、本当に心筋梗塞などの心血管疾患を発症しやすいのかも不明のままだ

 厚労省研究班の磯博康・大阪大教授(公衆衛生学)が茨城県内で実施した疫学調査(約2600人対象)。日本の基準でメタボとされた人が、心血管疾患を発症する危険性は、メタボでないとされた人と変わらなかった。一方、腹囲を必須条件としていない米国コレステロール教育プログラム(NCEP)の基準でメタボとされた人は、発症の危険性が高かった。

 磯教授は「日本人を対象にメタボと心血管疾患の関係を調べた研究はあまりない。これから最適な基準を検討する段階」と話す。

 欧米では、心血管疾患を起こしやすい人を見つけるには、NCEP基準が適しているとの研究成果が多い。ある専門家は「海外に論文を出す時は、日本の基準では掲載を認められないため、NCEP基準で分析する人がほとんど」と明かす。

 しかも、NCEP基準ですら、心血管疾患との関係に疑問を投げかける研究もある。英医学誌ランセットに5月、英国での疫学研究が発表された。60~80代の計約7500人を対象に、NCEPの基準と心血管疾患との関係を調べると、基準に合致してもしなくても、発症の危険性にほとんど差はなかった。

 研究を担当した英グラスゴー大のナビード・サッター教授は「日本が腹囲をメタボ健診に使っていると聞いて驚いた。この基準で心血管疾患の危険性の高い人を見つけようという方法は医学的に意味がなく、貧弱な医療としかいいようがない」とあきれている

 報道機関も冷ややかだ。

 「細いウエストを探し求め、膨大な数の人を測る日本」。6月中旬、米紙ニューヨーク・タイムズにこんな見出しの記事が掲載された。日本のメタボ健診を「太りすぎがあまりいない日本で、一般市民をスリム化するために始まった野心的なキャンペーン」と紹介し、腹囲の結果に一喜一憂する受診者の様子や自治体の担当者らのコメントとともに、制度の目的が「医療費抑制という政治的問題にある」と解説した。





2008/08/18のBlog

まずはじめに今日の中国新聞の社説を掲げる。

------------------------------------------------------------------
グルジア紛争 避けたい米露「新冷戦」
'08/8/17

 グルジアの南オセチア自治州をめぐる紛争が起きてから一週間余りになる。フランスやドイツによる調停の努力もあって、停戦をめぐる合意文書にグルジアのサーカシビリ大統領が署名。ロシアもきのう署名したことで、やっと停戦が発効する運びになった。

 合意した六原則は(1)戦闘の全面終結(2)武力行使をしない(3)グルジア軍の撤退(4)ロシア軍は紛争前の配備地域に戻る(5)人道援助は制限しない(6)南オセチアとアブハジア自治共和国の安全保障に関する国際協議の開始―である。

 ところがロシア軍は一時、グルジアの首都近郊に迫るなど、停戦合意に逆行する動きも見せている。一方、米国も人道援助を名目にグルジアへ米軍の輸送機などを派遣。旧ソ連圏で米ロが縄張りを争う「新冷戦」に発展しかねないという指摘もあり、今後の展開に目が離せない。

 もともと黒海とカスピ海に挟まれたカフカス地方は、キリスト教、イスラム教が混在する民族の火薬庫ともいうべき地域だ。一九九一年にグルジアからの分離独立を宣言した南オセチアでは、その後「平和維持部隊」としてロシア軍が駐留。実際は南オセチアの後ろ盾としてグルジア政府への挑発を繰り返してきた。

 その南オセチアに政府軍が攻撃を仕掛けたのが今回の発端だ。ロシアがグルジア国内の空港を爆撃するなど軍事介入に乗り出したが、明らかに過剰反応ともいえる行動である。「反ロ政権打倒が狙いでは」という批判が出るのも当然だろう。

 気がかりなのは、ロシアの脅威を感じたウクライナが、ロ軍の黒海艦隊が入港する際に許可制を導入するなど、緊張関係が地域的に広がる可能性が出てきたことだ。さらにこれまで交渉が難航していた米国とポーランドが、紛争を機にミサイル配備計画に最終合意。ロシア軍側からは核兵器での対抗もあり得るとの見解さえ示された。米ロ関係が一段と悪化する恐れもある。

 ともかく停戦を確実にすることが第一だ。欧州連合(EU)による監視団派遣など、国際社会の連携が何より欠かせない。国連も手をこまねいていてはなるまい。ロシアも孤立して、主要国(G8)から除名されるなどの制裁を受けるのは得策でないのは知っているはずだ。欧州の安定を脅かす事態にしないためにも、米国とともに自制が求められる。
<以上、引用>
------------------------------------------------------------------

 さて、これを読んでどう感じただろうか。大抵の人は「ふーん、そうなの」とか、「へえ、そうなんだ」といった反応が一般的なのではないだろうか。予備知識がなければ、新聞に書かれていることがそのまま事実だと受け止めてしまっても仕方ないだろう。しかし、この社説は明らかに偏向しているのだが、そのことに社説の筆者は気づいていない。自分では客観的で公平な記事を書いているつもりで、せっせと米国政府の宣伝をしているのである。もちろんそれは、なにもこの社説や中国新聞に限った話ではなく、この国のマスコミすべてについて言えることである。そうなる原因は火を見るより明らかである。それはこの国のマスコミが当局発表モノに依存する癖がついているからである。当局が発表するものをそのまま客観的な事実であるかのように報じ、その真偽について、自ら検証しようという姿勢が決定的に欠如しているのである。国内ニュースの報道で身に付いた習性は当然海外ニュースを報道するときも同じように作用する。すなわち、米国絡みのニュースであれば、日本のマスコミが依拠するのはもっぱら米国政府の発表と米国マスコミの報道である。米国のマスコミは自国内のニュースに関しては日本のマスコミよりは批判精神があるようだが、こと外交や国際関係絡みのニュースになると、米国政府べったりの報道一辺倒になる傾向が顕著である。そして、日本のマスコミは情報源を米国政府と米国のマスコミに大きく依拠しているため、米国政府の見解(というより正しく事態を表現すれば洗脳工作というべきだが)だけが一方的に垂れ流される結果となるのである。

 例えば、2003年3月、米国がイラクへの侵略攻撃を開始する前、「フセイン政権が大量破壊兵器を隠し持っている」だの、「核兵器製造計画がある」だの、「フセイン政権とアルカイダがつながっている」だのといった米国政府が垂れ流す偽情報を日本のマスコミは連日大量に報道した。しかも、これらの情報が全て嘘であることは、少しでも国際情勢に通じている人なら誰でも知っていることであったにも関わらず、マスコミはそうした偽情報を米国政府のために垂れ流し続けたのである。今日、そうした情報がすべて嘘であったことは米国政府自身が認めていることであるが、そのことをもって、現在、日本のマスコミが米国政府を批判するのは茶番以外の何ものでもない。まず自らを反省することなく、米国政府を批判するのは、自らの罪を隠蔽するためのものと言うしかないだろう。

 さて、今回の紛争においては、<南オセチア=ロシア>対<グルジア=米国>(注:「=」は提携・協力関係を表す)という構図になっており、日本のマスコミはロシア支局にも特派員を派遣しているから、必ずしも米国の見方だけではなく、ロシア側の見方も伝えられるのではないか、と思う人もいるかもしれないが、現実にはそういうふうにはなっていない。面白いことに、ロシアや中国に関する報道をする記者は、ロシア当局や中国当局の発表については、まず疑ってみる、という、マスコミとしては当然の姿勢があるのだが、日本政府や米国政府についてはそういう姿勢が欠如している、という二重の基準を採っているからである。

 この社説も、基本的に悪いのはロシアだ、という前提に立って書かれている。そして、「「反ロ政権打倒が狙いでは」という批判が出るのも当然だろう」と、「反ロ政権打倒が狙いでは」という批判が、あたかも中立・公平な立場からの批判であるかの如くに書いているが、これは米国政府の要人が繰り返し宣伝していることだが、ロシア側は否定している。もちろん、ロシア側が否定しているから、「反ロ政権打倒が狙いではない」と言いたいのではない。そうではなく、一方当事者の宣伝だけを鵜呑みにしてしまうことの危険性に注意してもらいたいのだ。そもそも、今回の紛争はグルジア政府軍側の攻撃によって始まったものであることを強調しなければならない。ロシア軍の反撃が「過剰反応」であったとしても、それはグルジア軍の攻撃によって引き起こされた、という因果関係をはっきりさせなくてはならない。確かにこの社説でも、「南オセチアに政府軍が攻撃を仕掛けたのが今回の発端だ」とは書いてあるが、これだけでは、どこの「政府軍」かがはっきりしないうえ、南オセチアとグルジアの関係についてよく知らない大半の読者にとっては、これが何を意味しているかはほとんどわからないだろう。そして次の一文を読めば、ロシアの「過剰反応」が今回の紛争の原因なのだと誤解してしまうことは避けられないだろう。いや、この社説の筆者自身からしてそう思っているのだろう。しかし繰り返すが、ロシアの「過剰反応」はグルジア軍の攻撃がなければありえなかったのだ。

 今回、グルジア軍が攻撃をしかけた南オセチアは、イラン系のオセット人という少数民族が多数(約3分の2)を占める地域で、ソ連邦時代はグルジア共和国内の自治州だったが、1991年にソ連邦が解体しグルジアが独立すると、グルジア政府は南オセチア自治州の自治権を剥奪しようとしたため、南オセチアは猛反発して独立宣言を行い、グルジア政府軍との戦争が勃発した。92年にはグルジアと南オセチアの間で停戦が実現し、それ以降、ロシア軍と南オセチア軍が平和維持軍として駐留しているが、グルジア政府の支配は及ばず、事実上の独立状態にあった。したがって、南オセチア問題は単純にグルジアの国内問題とは呼べないのである。最初のグルジア軍の攻撃によって、約2000人が殺害され、4万人(その大半が女性と子供)が難民となってロシア側の北オセチア共和国内に避難しており、南オセチア共和国の首都ツヒンヴァリのほとんどが破壊された、との報道もある(参考記事)。

 また、グルジアのサアカシヴィリ政権は、米国の傀儡政権であることはよく知られており(前シュヴァルナゼ政権を失墜させたいわゆる「バラ革命」はCIAの仕掛けたクーデターだという説もある)、今回の攻撃についても、米国政府の事前承認があったと見るのが自然だろう。ブッシュ政権は今春、グルジアのNATO加盟を強力に支持すると表明しただけでなく、7月には千人以上の軍事要員をグルジアに派遣し、グルジア軍部隊の訓練にあたっている。今回の紛争にはイスラエルも間接的に関わっている。イスラエルも約千人の軍事顧問団をグルジアに派遣してグルジア軍部隊を訓練してきた。グルジアのヤコバシュヴィリ再統合相は11日、「イスラエルはロシア軍に大きな被害をもたらしたわが国兵士を訓練した自国の軍隊を誇りに思うべきだ」と述べている。

 今回のグルジア軍の動きの背後には、旧東欧圏に続いて旧ソ連邦を構成していたCIS(独立国家共同体)諸国をNATOに引き入れてロシアを孤立化させ、中央アジアの石油パイプライン敷設地帯を支配下に置こうとする米国政府の意図も透けて見える。その意味で、今回のグルジア紛争が米ロ代理戦争(新冷戦)であるのは明白であり、そのような大国間のパワーポリティクスの犠牲になるのは、いつでも小国の民衆なのである。

それはさておき、マスコミの報道を見るときには、そこにどのようなバイアスがかかっているのか、常に注意しながら見る必要があるだろう。

****************

【8月20日追記】
 国際情報解説者の田中宇氏は8月19日付の最新記事「米に乗せられたグルジアの惨敗」において、極めて興味深い分析を示している。
 グルジア問題の背景が多角的に分析されており、非常に参考になる。この問題に感心のある向きにとっては一読の価値があると思う。

2008/07/25のBlog

 昨夜から今朝にかけて、相次いで力作ブログが現れた。しかし、それについて書くのは後回しにして、まずは次の2つの文章を虚心坦懐に読んでみてください。


==============【A】=================
ビルに囲まれた空に入道雲がわいていた。献花台に夏の日が照る。花に埋もれるようにメッセージがあった。「ほんやのおねえちゃん いつもたくさんのえがおをありがとう きっとわすれないよ」。やりきれぬ、突然の終止符である▼東京・八王子の書店で起きた無差別殺傷事件で、アルバイトの大学生斉木愛(まな)さんが犠牲になった。人柄を知る人は「明るく、まじめな人でした」と評している。だが、一昨日までなら、尋ねられれば「明るく、まじめな人です」と答えていたはずだ▼憎んでも余りある凶行が、「です」を「でした」に変えさせた。かけがえのない命を過去のものにした。愛する肉親を、親しい友を、いまや過去形で語らなくてはならぬ人たちの無念は、いかばかりかと思う▼献花台に手を合わせながら、三好達治の詩の一節を思った。〈いいえ昨日(きのう)はありません/今日を打つのは今日の時計……昨日はどこにもありません/そこにあなたの立っていた/そこにあなたの笑っていた/昨日はどこにもありません〉。誰よりも本人が、一番悔しいに違いない▼昨日と今日を断ち切った男は、またも「誰でもよかった」とうそぶく。「親が話を聞いてくれず、事件でも起こせば名前が出ると思った」。33歳とは思えぬ幼稚さと、凶暴性の混在に背筋が冷える▼「ほんやのおねえちゃん」は、だれからも好かれたそうだ。就職を決め、卒論に励み、前向きな意欲に満ちていたと聞く。不平不満を社会や他人のせいだと決め込む愚か者からは、最も遠い人だったのに違いない。
==================================


==============【B】=================
人は誰しも、自分の平凡さをどれほど自覚していても、劇的な達成や瞬間に憧れる生き物かもしれない。多くのブロガーがアクセス数が多いほうがいい、と思うのも、自分の日常に劇的な達成を夢見るがゆえかもしれない▼「誰でもよかった」、「親を困らせてやろうと思ってやった」。八王子の通り魔殺人犯の言葉である。これは最近もどこかで聞いた。前者は秋葉原で、後者はバスジャックで。自分の人生に劇的瞬間が訪れないことに不合理さを感じる人にとって、「テレビに出てくる人」というのは劇的日常を達成しているように見えるのかもしれない▼犯罪というのは、犯人にしか計りしれない、社会的に例外的な行動だと私たちはおもいがちだ。しかし、今や犯罪の動機すら二番煎じの時代になってしまった。しかもこの動機、二つの事件から引用して張り合わせたパッチワークのようだ▼彼は罪を犯した青年たちが次々テレビで大々的に報道されたのを見て、自分も劇的な人生を達成できる、と思ったのだろうか。人を刺す瞬間、彼の脳裡には、自分がテレビに大々的に出ている光景、そのことで親が困り果てる様子がよぎっていたことだろう▼しかし、何かの行動を起こす際に、自分にしか働かない独自の論理で動けない人は、どれほどショッキングな行動に出ようと、劇的瞬間を味わうことはないだろう。もとより、このような画一化された行動様式を生み出すことについては、テレビにばかりその責任を求めるのは酷なことだろう。われわれ大新聞も他山の石としなくてはならない▼テレビ同様われわれも、彼らの事件によって、劇的な瞬間を味わい、大々的に報道することで社員一同劇的な日常生活を達成している。新聞に載るような人生にもいろいろある。このような事件ではなく、人はもっと望ましい形で劇的な人生を達成することができることを伝えたいものである。
==================================


 どちらも八王子で起きた無差別殺傷事件を取り上げているが、【A】の方は、容疑者を
「33歳とは思えぬ幼稚さと、凶暴性の混在に背筋が冷える」と断罪し、「不平不満を社会や他人のせいだと決め込む愚か者」と決めつける一方、被害者に対しては、「「ほんやのおねえちゃん」は、だれからも好かれたそうだ。就職を決め、卒論に励み、前向きな意欲に満ちていたと聞く」という伝聞証拠を挙げつつ、「不平不満を社会や他人のせいだと決め込む愚か者からは、最も遠い人だったのに違いない」との推測を述べるのである。
 ここにはいかなる意味でも独自の分析といえるものは一切存在しない。あるのはひたすら犯人を罵倒し、被害者を美化することによって、大衆の心理に迎合する卑しい根性だけである。warmgun氏が今朝の記事「snapshot 想像力の問題」で的確に批判されているとおり、「犯人を憎み、被害者を哀悼することなど、誰にでもできる」のであり、この文章は、「<ただひとりの独自の生>であった“ほんやのおねえちゃん”を自分の独断のために利用しているだけ」なのである。


一方、【B】はどうか。
まず、「人は誰しも、劇的な達成や瞬間に憧れる生き物かもしれない」という一般論を述べたうえで、「自分の人生に劇的瞬間が訪れないことに不合理を感じる人」のなかには「テレビに出てくる人」が「劇的日常を達成しているように見える」かもしれず、そのことが秋葉原、バスジャック、八王子と続く一連の事件の背景にある、という第1の分析が導かれる。しかしながら、八王子事件の犯人の言葉は、秋葉原事件とバスジャック事件の容疑者の言葉のつぎはぎであり、「今や犯罪の動機すら二番煎じの時代になってしまった」という第2の分析が導かれ、このような他者の模倣に基づく行動(そのことの善悪はさておき)の結果は、たとえどれほど衝撃的なものであれ、決して劇的瞬間を味わうことはできないだろう、という第3の分析が導かれる。ここまでの論理展開は明晰かつユニークなものである。そして最後に、「このような画一化された行動様式を生み出す原因は、テレビや大新聞のまさに画一的な報道姿勢にある」ということが痛烈な皮肉とともにあぶり出されるのである。

これら2つの文章は、同じ事件を題材にしながらも、その質において雲泥の差があることがおわかり頂けたであろう。以上、2つの文章の出典(筆者)はなに(誰)か?

【A】については、もうおわかりでしょう。今朝の朝日新聞「天声人語」である。
【B】は鏡 響子さんの双子の妹、響 鏡子さんが昨夜書かれた「天声人語」である。(ただし、引用に際して改行と句点を一部変更しました。)

これは私の勝手な憶測ですが、響 鏡子さんは本当はもっと「天声人語」を徹底的に茶化したパロディを書きたかったのではないでしょうか。しかし、出来上がった文章は、一部に強い皮肉な調子が込められているものの、全体としては正統派の論説文になっているのは、パロディを書いてもそれがパロディとして受けとられない可能性を危惧されたからではないでしょうか。【A】のような文章を読んでも違和感を感じない人にとっては、パロディをパロディとして受け止める力がなくなってしまっているでしょうから。


【A】の天声人語については、前述の通りwarmgunさんによって的確な批判がなされているが、このような「天声人語」的感性に対する、より一般的・包括的な批判としては、やはり昨夜書かれたmakinokoさんの記事「バカは誰だ?」が実に痛快かつ適切な批判を行っている。マキノコさんは言う。

「犯人をここぞとばかりに、罵倒したり、その被害を憂う。
被害者に同情する。
犯人より自分は優位であると誇示し、したり顔で事件を見解する…。
もちろん、被害者は悲惨であるのだが、
いくら表面をなでるように同情したところで、
当事者の悲哀などわかるわけはないだろう。
むしろ、わかった気になって犯人を責めることは、
ちがう意味で一つの罪だと思う。
決まり切ったことに対して、そうだそうだ、とうなずくことはバカでもできる。」

まさしくそのとおりである。


2008/07/22のBlog
[ 20:49 ] [ 社会 ]

 warmgunさん「非国民通信」さんのブログから「不寛容に寛容な国」という記事を引用されていたので、私も「非国民通信」さんのブログを読んでみた。

「寛容は不寛容にも寛容であるべきか」という問いは、政治哲学では「寛容のパラドックス」とか「寛容の限界」と呼ばれる有名な問いである。非国民通信さんは要するに、日本は「不寛容に寛容な国」、つまり不寛容な国であると主張されているわけですが、私はその論説を読みながら、別の問題を考えていた。それは、「日本は不正に寛容な社会か?」という問いである。

 はじめに結論を言ってしまうと、日本社会は不正に対してダブルスタンダードを取っている。つまり、「巨大な不正に対しては極めて寛容だが、小さな不正に対しては極めて不寛容な社会である」というのが、私の見解である。

 つい先ごろ、イタリアの世界遺産の聖堂にどこかの短大生らが自分の名前や学校名を落書きした、というマヌケな事件が報道されたが、それに便乗するかのように、どこかの名門野球部監督だの芸能人だのの落書き事件が取り沙汰されると、ネットやメディアでバッシングが起こり、