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2005/11/02のBlog
[ 03:57 ]
[ 書評 ]
4ヶ月分。いろいろ仕事は大変だったものの、ちょこちょことまとめ読みする機会が多かった。それにしても、最近の新書の充実ぶりは凄い。今回は意識的に注意してチェックしていた期間もあったので新書多め。
「日本映画はアメリカでどう観られてきたか」北野圭介
「民族という名の宗教」なだいなだ
「スポーツを考える」多木浩二
「サッカーを愛する人の英語」今井健策
「地獄の黙示録完全ガイド」カール・フレンチ
「ナショナリズムの克服」姜尚中/森巣 博
「天皇誕生」遠山美都男
「なぜ世界の半分が飢えるのか」スーザン・ジョージ
「エンデの遺言-根源からお金を問うこと」河邑厚徳
「文学界-特集2005年の坂口安吾」文学界10月号
「ネーションと美学」柄谷行人
「小さきものへ」重松清
「『特攻』と日本人」保阪正康
「貨幣の思想史」内山節
「蹴球真髄-サッカーの名言集」岩永修幸
---------------------------------------------------
◆「日本映画はアメリカでどう観られてきたか」北野圭介
アメリカから日本はどのように見られてきたのか、ということを日本映画への評価の変遷をたどりった書。
溝口・黒澤・小津から宮崎駿まで。
カイエ・ド・シネマという映画批評誌を中心に欧州での作家主義的な批評を産み出し、さらにそれがアメリカに渡ったところで日本映画は評価を60年代に本格的に得はじめた、という流れに納得。黒澤明は、60年代に映画を学び、70年代に監督活動をしてきた人にはそういう時代の流れの中でのアイドルだったのだ。
---------------------------------------------------
◆「民族という名の宗教」なだいなだ
人間は一人では生き残れない動物
↓
最初に血縁の集団を形成→農業の発達による集団は拡大
↓
その集団維持のための行政組織とまとめるためのイデオロギーが必要となる
↓
血族による集団支配のための「神話」や「物語」がイデオロギーとして使われる
↓
血族は部族集団となり、それらがお互い争いあう
↓
やがて部族は戦争の末に強大なひとつの「帝国」になる ex:ローマ
↓
帝国は多部族を吸収して強大化している故、今度は違うイデオロギーが必要になる
↓
部族の垣根を越えた世界宗教がイデオロギーとして使われはじめる
↓
国家は部族の連合体としてまとまっていたが、産業革命による国家間競争で、さらに中央集権化された国家がうまれる。
↓
そこではバラバラだった部族(日本なら藩)をまとめるために「民族」という概念が使われて、さらに意味を失いつつあった宗教のかわりにイデオロギーとして機能した ↓
国民はひとつの「民族」と位置づけられ、その意味づけのために古代王国のイメージが無理矢理にイデオロギーとして動員されるようになった。(ex:ローマ帝国や天皇家)
↓
国家に忠誠を誓わせるためには神話的なイメージが必要。ひとつの宗教として機能しなければ、国家に戦争行為などでの死を、これまで単なる支配されていた農民や商工人に強制することはできない。そのため「民族」の歴史というようなフィクションが流通するようになった。
簡略化するとこんな感じ。国家とか民族というフィクションを理解するための格好の入門書か。ただし、国家や民族を超える新しいイデオロギーとして社会主義が出てきたというところ以降は切れ味が悪い。それは著者の切れ味が悪いのではなくて、それ以降のビジョンが世の中にないからなのだが。
---------------------------------------------------
◆「スポーツを考える」多木浩二
ドイツの歴史社会学者を引き、現在のスポーツの成立が、イギリスの議会制民主主義の発達と密接な関係があることを説きつつ、国民国家というこれまで身体的な訓練(ディシプリン)に無縁であった人々をも巻き込み成立する国家体制の機能になってきたことや、オリンピックをはじめとする国家の顕揚に使われてきたことなどを概略して書き起こした書。
同時に1933年に発行されたサッカー書の中の次のような言葉をひきつつ、それでもスポーツはネーションを超えてそれを相対化する可能性があるのではないかとも指摘する。
「すべての国民がナショナリストになり、シナの万里の長城と同じくらい隙のない、憎しみか関税かの城壁に囲まれるようになった1933年のわれわれの世界では、もはや国際的な性格をもった組織はふたつしかない。戦争とスポーツの組織である」
(ただしそれが資本のグローバリゼーションが招きよせていることの指摘はやや弱い)
---------------------------------------------------
◆「サッカーを愛する人の英語」今井健策
「フットボールの英語 Total Book」の方がぜんぜん良いです。CDついているし。失敗の本。
---------------------------------------------------
◆「地獄の黙示録完全ガイド」カール・フレンチ
わずか数時間の映画が、核融合するかの如く様々なイメージや哲学や文学と共鳴しあう、そんな経験を与えてくれる映画は少ない。自分はいつも、好きな映画をひとつだけあげてくれといわれたときには、必ずこの映画のタイトルをあげることにしている。
コンラッドのアフリカ植民地における理性を逸した白人支配者の物語を下敷きにし、金枝篇からダンテやエリオットを、仕掛けられたトリックのようにちりばめて映画は進行するのだが、この仕掛けられた罠の精巧さをひとつずつ解明していくのは骨の折れる作業だ。
ましてや、地獄の黙示録の「完全版」まで出てしまった現在、その解読のための参考書が必要かも知れない。その意味で、撮影そのものが映画そのもののような混乱に陥ってしまった現場をルポタージュするコッポラ婦人の「ノーツ」とともに重要な解説本がこの書である。
ちなみに、自分がもっとも衝撃を受けたのは、最初、この映画の監督をする予定だったジョージ・ルーカスが、「オレはオレの地獄の黙示録をつくる」といって、スターウォーズを作り出した、という記述でした。
理想を産み出すために自分の力を磨きあげ、その後、その力そのものに取り込まれていってしまう悲劇。そして、その結末には父殺しの物語があり、そしてそれこそが神話の始まりであること。
それがルーカスとコッポラの2つの父殺しの神話の構造だ。
ラストシーン、スターウォーズではフォースに調和が取り戻され、地獄の黙示録ではカンボジアのジャングルに救済の雨が降る。しかし、ルーク・スカイウォーカーもウィラードも、その後は行方が知れないし、結末は放り投げられたままだ。いったい彼らは父殺しの後に何が待っているのだろうか。きっと、ルーカスは7部以降の物語をつくることはできないだろう。それができるのならば、70年代に先行して物語を完結させてしまったコッポラはあんなに映画を混乱させなかったはずだ。
---------------------------------------------------
◆「ナショナリズムの克服」姜尚中/森巣 博
姜尚中についてはともかく、森巣博という人が不思議だった。
自称「博打打ち」ということなのだが、国際証券ディーラーか何かが本業なのではないだろうか。
国家は地方自治体のような機能として生き残るかも知れないが、経済や人権の動きを見ると国境の意味は薄れてくる。外部を生み出して、国をまとめていくような時代はもう続かない。変化を望まない人は、それでも無理やり外部を見つけ出してくる。セキュリティや防衛から外国人や外国の脅威を過剰に唱える人は外部がなければ困る人たちだ・・というのが森巣理論。
そういう意味で最初から最後まで石原慎太郎を小馬鹿にしつづけているのだが、今では小泉も「セキュリティによる外国人排斥」を任命大臣に唱えたらしいのだが。
本書とは関係ないが、日本は基本的に経済国家として旧来の手法で成り立たせるとすれば、労働人口を「外部」から受け入れるほかないのに、それでも、民族主義にこだわりつづけて、どうにも即効性なんかありもしない「少子化対策」などを推進するらしいですね。
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「天皇誕生」遠山美都男
「なぜ世界の半分が飢えるのか」スーザン・ジョージ
「エンデの遺言-根源からお金を問うこと」河邑厚徳
「文学界-特集2005年の坂口安吾」文学界10月号
「ネーションと美学」柄谷行人
「小さきものへ」重松清
「『特攻』と日本人」保阪正康
「貨幣の思想史」内山節
「蹴球真髄-サッカーの名言集」岩永修幸
以上は疲れたのでまたそのうち。。。
「日本映画はアメリカでどう観られてきたか」北野圭介
「民族という名の宗教」なだいなだ
「スポーツを考える」多木浩二
「サッカーを愛する人の英語」今井健策
「地獄の黙示録完全ガイド」カール・フレンチ
「ナショナリズムの克服」姜尚中/森巣 博
「天皇誕生」遠山美都男
「なぜ世界の半分が飢えるのか」スーザン・ジョージ
「エンデの遺言-根源からお金を問うこと」河邑厚徳
「文学界-特集2005年の坂口安吾」文学界10月号
「ネーションと美学」柄谷行人
「小さきものへ」重松清
「『特攻』と日本人」保阪正康
「貨幣の思想史」内山節
「蹴球真髄-サッカーの名言集」岩永修幸
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◆「日本映画はアメリカでどう観られてきたか」北野圭介
アメリカから日本はどのように見られてきたのか、ということを日本映画への評価の変遷をたどりった書。
溝口・黒澤・小津から宮崎駿まで。
カイエ・ド・シネマという映画批評誌を中心に欧州での作家主義的な批評を産み出し、さらにそれがアメリカに渡ったところで日本映画は評価を60年代に本格的に得はじめた、という流れに納得。黒澤明は、60年代に映画を学び、70年代に監督活動をしてきた人にはそういう時代の流れの中でのアイドルだったのだ。
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◆「民族という名の宗教」なだいなだ
人間は一人では生き残れない動物
↓
最初に血縁の集団を形成→農業の発達による集団は拡大
↓
その集団維持のための行政組織とまとめるためのイデオロギーが必要となる
↓
血族による集団支配のための「神話」や「物語」がイデオロギーとして使われる
↓
血族は部族集団となり、それらがお互い争いあう
↓
やがて部族は戦争の末に強大なひとつの「帝国」になる ex:ローマ
↓
帝国は多部族を吸収して強大化している故、今度は違うイデオロギーが必要になる
↓
部族の垣根を越えた世界宗教がイデオロギーとして使われはじめる
↓
国家は部族の連合体としてまとまっていたが、産業革命による国家間競争で、さらに中央集権化された国家がうまれる。
↓
そこではバラバラだった部族(日本なら藩)をまとめるために「民族」という概念が使われて、さらに意味を失いつつあった宗教のかわりにイデオロギーとして機能した ↓
国民はひとつの「民族」と位置づけられ、その意味づけのために古代王国のイメージが無理矢理にイデオロギーとして動員されるようになった。(ex:ローマ帝国や天皇家)
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国家に忠誠を誓わせるためには神話的なイメージが必要。ひとつの宗教として機能しなければ、国家に戦争行為などでの死を、これまで単なる支配されていた農民や商工人に強制することはできない。そのため「民族」の歴史というようなフィクションが流通するようになった。
簡略化するとこんな感じ。国家とか民族というフィクションを理解するための格好の入門書か。ただし、国家や民族を超える新しいイデオロギーとして社会主義が出てきたというところ以降は切れ味が悪い。それは著者の切れ味が悪いのではなくて、それ以降のビジョンが世の中にないからなのだが。
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◆「スポーツを考える」多木浩二
ドイツの歴史社会学者を引き、現在のスポーツの成立が、イギリスの議会制民主主義の発達と密接な関係があることを説きつつ、国民国家というこれまで身体的な訓練(ディシプリン)に無縁であった人々をも巻き込み成立する国家体制の機能になってきたことや、オリンピックをはじめとする国家の顕揚に使われてきたことなどを概略して書き起こした書。
同時に1933年に発行されたサッカー書の中の次のような言葉をひきつつ、それでもスポーツはネーションを超えてそれを相対化する可能性があるのではないかとも指摘する。
「すべての国民がナショナリストになり、シナの万里の長城と同じくらい隙のない、憎しみか関税かの城壁に囲まれるようになった1933年のわれわれの世界では、もはや国際的な性格をもった組織はふたつしかない。戦争とスポーツの組織である」
(ただしそれが資本のグローバリゼーションが招きよせていることの指摘はやや弱い)
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◆「サッカーを愛する人の英語」今井健策
「フットボールの英語 Total Book」の方がぜんぜん良いです。CDついているし。失敗の本。
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◆「地獄の黙示録完全ガイド」カール・フレンチ
わずか数時間の映画が、核融合するかの如く様々なイメージや哲学や文学と共鳴しあう、そんな経験を与えてくれる映画は少ない。自分はいつも、好きな映画をひとつだけあげてくれといわれたときには、必ずこの映画のタイトルをあげることにしている。
コンラッドのアフリカ植民地における理性を逸した白人支配者の物語を下敷きにし、金枝篇からダンテやエリオットを、仕掛けられたトリックのようにちりばめて映画は進行するのだが、この仕掛けられた罠の精巧さをひとつずつ解明していくのは骨の折れる作業だ。
ましてや、地獄の黙示録の「完全版」まで出てしまった現在、その解読のための参考書が必要かも知れない。その意味で、撮影そのものが映画そのもののような混乱に陥ってしまった現場をルポタージュするコッポラ婦人の「ノーツ」とともに重要な解説本がこの書である。
ちなみに、自分がもっとも衝撃を受けたのは、最初、この映画の監督をする予定だったジョージ・ルーカスが、「オレはオレの地獄の黙示録をつくる」といって、スターウォーズを作り出した、という記述でした。
理想を産み出すために自分の力を磨きあげ、その後、その力そのものに取り込まれていってしまう悲劇。そして、その結末には父殺しの物語があり、そしてそれこそが神話の始まりであること。
それがルーカスとコッポラの2つの父殺しの神話の構造だ。
ラストシーン、スターウォーズではフォースに調和が取り戻され、地獄の黙示録ではカンボジアのジャングルに救済の雨が降る。しかし、ルーク・スカイウォーカーもウィラードも、その後は行方が知れないし、結末は放り投げられたままだ。いったい彼らは父殺しの後に何が待っているのだろうか。きっと、ルーカスは7部以降の物語をつくることはできないだろう。それができるのならば、70年代に先行して物語を完結させてしまったコッポラはあんなに映画を混乱させなかったはずだ。
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◆「ナショナリズムの克服」姜尚中/森巣 博
姜尚中についてはともかく、森巣博という人が不思議だった。
自称「博打打ち」ということなのだが、国際証券ディーラーか何かが本業なのではないだろうか。
国家は地方自治体のような機能として生き残るかも知れないが、経済や人権の動きを見ると国境の意味は薄れてくる。外部を生み出して、国をまとめていくような時代はもう続かない。変化を望まない人は、それでも無理やり外部を見つけ出してくる。セキュリティや防衛から外国人や外国の脅威を過剰に唱える人は外部がなければ困る人たちだ・・というのが森巣理論。
そういう意味で最初から最後まで石原慎太郎を小馬鹿にしつづけているのだが、今では小泉も「セキュリティによる外国人排斥」を任命大臣に唱えたらしいのだが。
本書とは関係ないが、日本は基本的に経済国家として旧来の手法で成り立たせるとすれば、労働人口を「外部」から受け入れるほかないのに、それでも、民族主義にこだわりつづけて、どうにも即効性なんかありもしない「少子化対策」などを推進するらしいですね。
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「天皇誕生」遠山美都男
「なぜ世界の半分が飢えるのか」スーザン・ジョージ
「エンデの遺言-根源からお金を問うこと」河邑厚徳
「文学界-特集2005年の坂口安吾」文学界10月号
「ネーションと美学」柄谷行人
「小さきものへ」重松清
「『特攻』と日本人」保阪正康
「貨幣の思想史」内山節
「蹴球真髄-サッカーの名言集」岩永修幸
以上は疲れたのでまたそのうち。。。
2005/10/24のBlog
2005/10/19のBlog
[ 04:48 ]
[ なんとなく社会時評 ]
結局、靖国がうんたらかんたらとか慰安婦がどうのこうのとか南京がどうしただのっていう話は、日本の植民地主義史の検証ができていないから起こることだと思うんですよ、オレは。
司馬遼太郎史観では、明治マンセー昭和ショボーンって話になっているわけだけど、オレはこれに根本的な疑義がずっとある。
そもそも日本の植民地主義政策は、江華島事件あたりから始まる話で、そこから脈々と続くのが、さらに第一次大戦を経て爆発してきたと見るべきで、そういう意味では別に明治マンセーというわけでもないんだよなあ。
何がいいたいかというと、靖国という宗教施設にこだわる人の理論的な根拠というのは、あそこに祀られている人達というのが、「祖国のために」つまり国家防衛のために、戦った人という位置づけになっているからで、それは違うよ、と。
(そもそも日本国の防衛っていうなら、単に海軍力増強しておけばいいだけの話で。
あの当時、海軍力をもとにした上陸作戦で日本に侵攻できる国なんかアジアにねーっつーの。
日清戦争も日露戦争も単に大陸の様々な利権が欲しくてたまらなかっただけ。)
日中戦争から太平洋戦争に至る一切が、単に経済的な侵略戦争であって、15世紀から脈々と続くパターンの国民国家の利得のための経済戦争だってことを、もっと明るみに出さないといけないと思うわけですよ。
イラクへのアメリカの侵攻が実はオイルを巡る利権戦争であったというのと同じ。
手法がポストコロニアリズムの手法か、植民地主義時代の思想でやられたものかという違いだけで。
司馬遼太郎史観では、明治マンセー昭和ショボーンって話になっているわけだけど、オレはこれに根本的な疑義がずっとある。
そもそも日本の植民地主義政策は、江華島事件あたりから始まる話で、そこから脈々と続くのが、さらに第一次大戦を経て爆発してきたと見るべきで、そういう意味では別に明治マンセーというわけでもないんだよなあ。
何がいいたいかというと、靖国という宗教施設にこだわる人の理論的な根拠というのは、あそこに祀られている人達というのが、「祖国のために」つまり国家防衛のために、戦った人という位置づけになっているからで、それは違うよ、と。
(そもそも日本国の防衛っていうなら、単に海軍力増強しておけばいいだけの話で。
あの当時、海軍力をもとにした上陸作戦で日本に侵攻できる国なんかアジアにねーっつーの。
日清戦争も日露戦争も単に大陸の様々な利権が欲しくてたまらなかっただけ。)
日中戦争から太平洋戦争に至る一切が、単に経済的な侵略戦争であって、15世紀から脈々と続くパターンの国民国家の利得のための経済戦争だってことを、もっと明るみに出さないといけないと思うわけですよ。
イラクへのアメリカの侵攻が実はオイルを巡る利権戦争であったというのと同じ。
手法がポストコロニアリズムの手法か、植民地主義時代の思想でやられたものかという違いだけで。
[ 03:29 ]
[ マスターのつぶやき ]
エリック・ゲイルが大好きだ。
きっとフュージョン好きは、みんな彼のことをリスペクトしていると思うのだが、その独自のタメの効いたフレーズや音色は完全にワンアンドオンリーのもの。
・Forecast
・Multiplication
マーカスミラーにはこんな曲もあったな。
ちなみにこの曲でギターを弾いているのはハイラムブロックス。
で、そのエリックのソロアルバムで、長らく原盤が見つからなかった"Negril"という、なぜか知らねどジャマイカ録音の盤が再発になったわけなのだが、そのアルバムのライナーの中で衝撃の事実が発覚!
って、本当かどうかわからないんだけど、ここにそのエリックの日本人妻であるマサコ・ゲイルさんの文章をそのまま紹介。
-ある日ラジオのスイッチを入れるとビートルズの"抱きしめたい"が流れていたので何気なく聴きながら、ふと『エリック、ビートルズのギターサウンドはあなたのサウンドに似ているけど、この曲をレコーディングしたの?』と何気なく聞いてみました。すると主人は「うん、そうだね。この曲は"I want to hold your hand"だよね?確かにレコーディングしたよ』。(中略)
ビートルズは彼ら自身がプレイしていたものと信じていたので、この話を聞いたときには大きな驚きがありました。主人が他界したあと、ある日本人の方が『バーナード・パーディーから初期のビートルズのレコーディングをエリックたちとしたと聞いているよ』と話してくれたとき、そういえば昔エリックからそのような話を聞いたことがある。(中略)
その当時のことをもっと聞きたくて、早速ドラマーのバーナード・パーディーにコンタクトを取ってインタビューを試みました。バーナードはニューヨークの私のアパートを訪ねてくださり、さっそくビートルズの初期レコーディングの思い出話を伺うことができました。
その当時は初期のモータウン系のミュージシャンたちがほとんどのレコーディングセッションに加わっていたが、R&Bサウンドでも白人系のロックンロール・ミュージックとしてヒットしたわけです。当時は毎日5~6箇所のスタジオを駆け回り、ビートルズのレコーディングといっても、イギリスのリバプール出身の無名のミュージシャンのレコーディングをしただけであって、それが世界のビートルズとしてこんなに有名になろうとは思いもよらなかったと思います。
"抱きしめたい"に関わらず、初期ビートルズには確かに演奏がうますぎるのがありすぎなのは事実なので、あながち全くウソというわけではなさそうな。。。
ちなみに、スタジオのみの録音になってからも怪しいのたくさんあるぞ!ホワイトアルバムとかアビーロードとか、本当にこれジョージかジョンが弾いてんのかよ?!というの多数。
ちなみに当時のイギリスロック事情では、むしろ自分達で本当に演奏している方がレアなケースで、ジミーペイジとかはビートルズがライブ演奏をしているのに、ずいぶん感銘をうけたみたいなことを言っていたのをどこかで見た記憶あり。
あっ、Negrilは録音状態がよくないので、あんまり素人にはおすすめできない。
けど、いいアルバムだよ。
きっとフュージョン好きは、みんな彼のことをリスペクトしていると思うのだが、その独自のタメの効いたフレーズや音色は完全にワンアンドオンリーのもの。
・Forecast
・Multiplication
マーカスミラーにはこんな曲もあったな。
ちなみにこの曲でギターを弾いているのはハイラムブロックス。
で、そのエリックのソロアルバムで、長らく原盤が見つからなかった"Negril"という、なぜか知らねどジャマイカ録音の盤が再発になったわけなのだが、そのアルバムのライナーの中で衝撃の事実が発覚!
って、本当かどうかわからないんだけど、ここにそのエリックの日本人妻であるマサコ・ゲイルさんの文章をそのまま紹介。
-ある日ラジオのスイッチを入れるとビートルズの"抱きしめたい"が流れていたので何気なく聴きながら、ふと『エリック、ビートルズのギターサウンドはあなたのサウンドに似ているけど、この曲をレコーディングしたの?』と何気なく聞いてみました。すると主人は「うん、そうだね。この曲は"I want to hold your hand"だよね?確かにレコーディングしたよ』。(中略)
ビートルズは彼ら自身がプレイしていたものと信じていたので、この話を聞いたときには大きな驚きがありました。主人が他界したあと、ある日本人の方が『バーナード・パーディーから初期のビートルズのレコーディングをエリックたちとしたと聞いているよ』と話してくれたとき、そういえば昔エリックからそのような話を聞いたことがある。(中略)
その当時のことをもっと聞きたくて、早速ドラマーのバーナード・パーディーにコンタクトを取ってインタビューを試みました。バーナードはニューヨークの私のアパートを訪ねてくださり、さっそくビートルズの初期レコーディングの思い出話を伺うことができました。
その当時は初期のモータウン系のミュージシャンたちがほとんどのレコーディングセッションに加わっていたが、R&Bサウンドでも白人系のロックンロール・ミュージックとしてヒットしたわけです。当時は毎日5~6箇所のスタジオを駆け回り、ビートルズのレコーディングといっても、イギリスのリバプール出身の無名のミュージシャンのレコーディングをしただけであって、それが世界のビートルズとしてこんなに有名になろうとは思いもよらなかったと思います。
"抱きしめたい"に関わらず、初期ビートルズには確かに演奏がうますぎるのがありすぎなのは事実なので、あながち全くウソというわけではなさそうな。。。
ちなみに、スタジオのみの録音になってからも怪しいのたくさんあるぞ!ホワイトアルバムとかアビーロードとか、本当にこれジョージかジョンが弾いてんのかよ?!というの多数。
ちなみに当時のイギリスロック事情では、むしろ自分達で本当に演奏している方がレアなケースで、ジミーペイジとかはビートルズがライブ演奏をしているのに、ずいぶん感銘をうけたみたいなことを言っていたのをどこかで見た記憶あり。
あっ、Negrilは録音状態がよくないので、あんまり素人にはおすすめできない。
けど、いいアルバムだよ。
2005/10/14のBlog
2005/09/27のBlog
[ 00:27 ]
[ なんとなく社会時評 ]
2chで今話題なのは、例の「のまネコ」問題だ。
騒動の概略を書くと、2chで多数の匿名の人々によって自然発生的につくられて(?)、いつの間にかキャラクターとなったアスキーアートのキャラクターが、Avexのとある曲のキャラになって、しかもそのキャラを商標登録してしまった会社が出てきてしまった、というところである。
のまねこはモナー?ネットで騒動に
のまネコ問題とは
これに対して、キャラクターを無断?で登録されてしまったねらーの反感を呼び、それに対して商標登録した会社に様々な抗議運動を開始するねらーのみなさん、という構図なのだが、いつだったかタカラが「ギコ猫」という同種のキャラを商標登録した際には、様々な抗議活動により同社が結局商標登録を取り下げるという話になった。
「ギコ猫」、タカラが商標登録を出願
タカラ、「ギコ猫」商標出願を取り下げ 「ユーザーにお詫びしたい」
落ちついて「タカラ・ギコ猫商標問題」を考えてみるページ
しかし、今度は、こういう知的所有権をめぐってはそれが商売のタネであり、しかも数々のこういった抗議やらクレームやら圧力団体やらの取り扱いに長けている音楽会社であるから、ちょっと一筋縄ではいかない展開になっている。
エイベックスグループのコメント
頭は下げるそぶりで、排他的権利は主張しないという文章はあるものの、それは単にネットでの言い訳にすぎず、結局商標登録は取り下げずに、このままビジネスを進めるという宣言だ。
これに対して、2ちゃんの管理人のひろゆき氏は、次のようなコメントを発表した。
全面対決である。
■のまタコについての公開質問状■
先に出した、avexのコメントを完全に逆手にとり、オリジナルのものに「インスパイア」されたキャラクターなら勝手に商売にしてもOKなんだろ?というこの反論は、本当に見事である。
さて、ここからちょっと話はかわる。
そもそも自分は2chねらーの正義ファシズムみたいなノリがあんまり好きではない。
正義であれば、なんでもやっていい!というダーティーハリー的な正義感は、それは孤軍奮闘してやるからかっこいいのであり、それが集団になると単なるファシズムである。
もちろん、今度は相手は企業だ。だから、それはそれで面白いし、共感する気持ちでいっぱいなのだが、果たしてこの「祭り」は何を志向しているのか、ハタと考えてしまった。
ほとんどの反対を表明している人間は、共有財産みたいなものを私物化された、という素朴な正義感みたいなもので動いているようなのだが、ここにあいまいなものが残る。
思ったのは、「オープンソース」の思想だ。
オープンソースとは
オープンソースの定義(OSG-JP)
誰でもそれを使ってよくて、さらにはそれを改良することも可能。自由に改変し、さらにはそれを再配布することもできる。
それを使う人間も差別してはならず、そのソースの進化のために自由に誰でも参加でき、さらに再配布することができる、それが「オープンソース」の思想だ。
プログラムは著作権によって保護されており、通常それは開発者に帰属する。
ところが、オープンソースでは、ソースコードは自由に閲覧することができ、その改良や改変は自由になっている。そして、その改良したものを再配布することも可能だ。それは著作権は放棄されている。
LinuxやApacheといったソフトウェアは、このような過程をへて現在の姿にたどり着いている。
VAリナックス、オープンソースに関する信条とコミュニティーへの約束を条文化
ちなみに、とあるオープンソース開発者は次のように、「オープンソース開発の楽しみ」を語っている。
難しい問題が次々降ってくる「知的な喜び」
同じ興味を持つ人と情報交換できる「コミュニケーションの喜び」
自分ってスゲェ感が味わえる(かも)という「充実の喜び」
好きなことで生計が立てられる(かも)という「自己実現の喜び」
オープンソース開発で得られる喜び「スゲェ感」
おそらく2chでシコシコと毎日アスキーアートを「開発」している人と、似たような動機なのではないか?
(生計は立てれないだろうが)
ちなみに、オープンソースでつくられた傑作OSリナックスの作者リーナス・トーバルズは次のように語っている。
「日常生活には何ら変化がない。町を歩いていてもだれも気付かない。失業の心配はなさそうだが、大金を得たわけでもない。多くの人が「有益なことをした」と喜んでくれるので、エゴはみたされる」
「利用者も増えたが、僕を助けてくれる開発者も増えた。いいプログラムを開発するのは アートのようなもの。人々がスポーツを楽しむように、僕はプログラムを楽しむ。ネット上にコミュニティーが生まれ、共同作業がまた面白い」
「プログラマーは仕事場から戻っても、好きだからついコンピュータの前に座ってしまう。創造的で賢明な彼らは意義のあることをしたがっている。経済的な理由からではない。ビル・ゲイツ氏の主張は通じない」
知的財産を皆でつくりあげ、そしてその成果を共有する思想は、まさに匿名掲示板でのアスキーアートの世界観と全く同じものだ。
だから、「のまネコ」を商標登録をするということは、アスキーアートにおける「オープンソース」の思想と哲学を否定する行為になるわけだ。
公開、共有、自発的貢献と協力、それがアスキーアートに適用されるシーン、それがこの「のまネコ」問題の核心部分だ。
1984年にフリーソフトウェア財団を設立したリチャード・ストールマンは、もともとはハッカーであり、そして今でもハッカーを名乗る。
「自由なソフトウェア 」の概念は彼によって整理され、そしてその運動により、 コピー、研究、変更、配付が自由に出来る知的財産ができあがり、そしてわれわれはその恩恵を受けている。
「のまネコ」の問題は、リチャード・ストールマンの試みと同じものだ。
自由な表現物と、主張されない著作権の試みは、商標と特許と意匠など等にからめとられた新しい社会的な成果物のあり方を定義するのである。
「私有財産は盗みである」という社会主義思想の根底に横たわる思想は、すでに国家社会主義の100年の暗い実験により、こんなにも汚れてしまったけれど、実際は、著作権という私有財産の独占に対するラジカルな戦いを通じて、実はこんなところでまだ続いており、そして実際ソフトウェアの世界ではひとつの理想郷に近い状況を生み出している。
いや、ちょっと待て。また「社会主義」だの言い出すと、わけわからんちんがやってきてせっかくのひろゆきとねらーのユートピア的な試みに泥を塗るかも知れない。
きっと、ひろゆきあたりはこんなことを考えているのかも知れないけれど、一緒に闘っている連中は、もっと素朴な正義感で自分達のつくりあげた共有財産を守ろうとしているのだと思う・・・と一応のフォローw
騒動の概略を書くと、2chで多数の匿名の人々によって自然発生的につくられて(?)、いつの間にかキャラクターとなったアスキーアートのキャラクターが、Avexのとある曲のキャラになって、しかもそのキャラを商標登録してしまった会社が出てきてしまった、というところである。
のまねこはモナー?ネットで騒動に
のまネコ問題とは
これに対して、キャラクターを無断?で登録されてしまったねらーの反感を呼び、それに対して商標登録した会社に様々な抗議運動を開始するねらーのみなさん、という構図なのだが、いつだったかタカラが「ギコ猫」という同種のキャラを商標登録した際には、様々な抗議活動により同社が結局商標登録を取り下げるという話になった。
「ギコ猫」、タカラが商標登録を出願
タカラ、「ギコ猫」商標出願を取り下げ 「ユーザーにお詫びしたい」
落ちついて「タカラ・ギコ猫商標問題」を考えてみるページ
しかし、今度は、こういう知的所有権をめぐってはそれが商売のタネであり、しかも数々のこういった抗議やらクレームやら圧力団体やらの取り扱いに長けている音楽会社であるから、ちょっと一筋縄ではいかない展開になっている。
エイベックスグループのコメント
頭は下げるそぶりで、排他的権利は主張しないという文章はあるものの、それは単にネットでの言い訳にすぎず、結局商標登録は取り下げずに、このままビジネスを進めるという宣言だ。
これに対して、2ちゃんの管理人のひろゆき氏は、次のようなコメントを発表した。
全面対決である。
■のまタコについての公開質問状■
先に出した、avexのコメントを完全に逆手にとり、オリジナルのものに「インスパイア」されたキャラクターなら勝手に商売にしてもOKなんだろ?というこの反論は、本当に見事である。
さて、ここからちょっと話はかわる。
そもそも自分は2chねらーの正義ファシズムみたいなノリがあんまり好きではない。
正義であれば、なんでもやっていい!というダーティーハリー的な正義感は、それは孤軍奮闘してやるからかっこいいのであり、それが集団になると単なるファシズムである。
もちろん、今度は相手は企業だ。だから、それはそれで面白いし、共感する気持ちでいっぱいなのだが、果たしてこの「祭り」は何を志向しているのか、ハタと考えてしまった。
ほとんどの反対を表明している人間は、共有財産みたいなものを私物化された、という素朴な正義感みたいなもので動いているようなのだが、ここにあいまいなものが残る。
思ったのは、「オープンソース」の思想だ。
オープンソースとは
オープンソースの定義(OSG-JP)
誰でもそれを使ってよくて、さらにはそれを改良することも可能。自由に改変し、さらにはそれを再配布することもできる。
それを使う人間も差別してはならず、そのソースの進化のために自由に誰でも参加でき、さらに再配布することができる、それが「オープンソース」の思想だ。
プログラムは著作権によって保護されており、通常それは開発者に帰属する。
ところが、オープンソースでは、ソースコードは自由に閲覧することができ、その改良や改変は自由になっている。そして、その改良したものを再配布することも可能だ。それは著作権は放棄されている。
LinuxやApacheといったソフトウェアは、このような過程をへて現在の姿にたどり着いている。
VAリナックス、オープンソースに関する信条とコミュニティーへの約束を条文化
ちなみに、とあるオープンソース開発者は次のように、「オープンソース開発の楽しみ」を語っている。
難しい問題が次々降ってくる「知的な喜び」
同じ興味を持つ人と情報交換できる「コミュニケーションの喜び」
自分ってスゲェ感が味わえる(かも)という「充実の喜び」
好きなことで生計が立てられる(かも)という「自己実現の喜び」
オープンソース開発で得られる喜び「スゲェ感」
おそらく2chでシコシコと毎日アスキーアートを「開発」している人と、似たような動機なのではないか?
(生計は立てれないだろうが)
ちなみに、オープンソースでつくられた傑作OSリナックスの作者リーナス・トーバルズは次のように語っている。
「日常生活には何ら変化がない。町を歩いていてもだれも気付かない。失業の心配はなさそうだが、大金を得たわけでもない。多くの人が「有益なことをした」と喜んでくれるので、エゴはみたされる」
「利用者も増えたが、僕を助けてくれる開発者も増えた。いいプログラムを開発するのは アートのようなもの。人々がスポーツを楽しむように、僕はプログラムを楽しむ。ネット上にコミュニティーが生まれ、共同作業がまた面白い」
「プログラマーは仕事場から戻っても、好きだからついコンピュータの前に座ってしまう。創造的で賢明な彼らは意義のあることをしたがっている。経済的な理由からではない。ビル・ゲイツ氏の主張は通じない」
知的財産を皆でつくりあげ、そしてその成果を共有する思想は、まさに匿名掲示板でのアスキーアートの世界観と全く同じものだ。
だから、「のまネコ」を商標登録をするということは、アスキーアートにおける「オープンソース」の思想と哲学を否定する行為になるわけだ。
公開、共有、自発的貢献と協力、それがアスキーアートに適用されるシーン、それがこの「のまネコ」問題の核心部分だ。
1984年にフリーソフトウェア財団を設立したリチャード・ストールマンは、もともとはハッカーであり、そして今でもハッカーを名乗る。
「自由なソフトウェア 」の概念は彼によって整理され、そしてその運動により、 コピー、研究、変更、配付が自由に出来る知的財産ができあがり、そしてわれわれはその恩恵を受けている。
「のまネコ」の問題は、リチャード・ストールマンの試みと同じものだ。
自由な表現物と、主張されない著作権の試みは、商標と特許と意匠など等にからめとられた新しい社会的な成果物のあり方を定義するのである。
「私有財産は盗みである」という社会主義思想の根底に横たわる思想は、すでに国家社会主義の100年の暗い実験により、こんなにも汚れてしまったけれど、実際は、著作権という私有財産の独占に対するラジカルな戦いを通じて、実はこんなところでまだ続いており、そして実際ソフトウェアの世界ではひとつの理想郷に近い状況を生み出している。
いや、ちょっと待て。また「社会主義」だの言い出すと、わけわからんちんがやってきてせっかくのひろゆきとねらーのユートピア的な試みに泥を塗るかも知れない。
きっと、ひろゆきあたりはこんなことを考えているのかも知れないけれど、一緒に闘っている連中は、もっと素朴な正義感で自分達のつくりあげた共有財産を守ろうとしているのだと思う・・・と一応のフォローw
2005/09/24のBlog
[ 02:19 ]
ACLが一向に盛り上がらない件についてはもう書いた。
一万数千の警察官に囲まれ、身ぐるみはがされんばかりの勢いであらゆるものを奪われてスタに入って、審判・ボールボーイ・公安・警備員、全て敵という、まさしくアウェイの環境で結局は敗退して、それで日本に帰ってきたら、ACLのことなんざひとつも触れられずに、ビーチサッカーの話で盛り上がっているのには心底イヤになったものだ。
が、おそらくそれは今年までだろうと思う。
楽観的な観測かも知れないが、今年の世界クラブ選手権が今年から目の前でやる。
おそらく、目の前で欧州や南米の競合の中にいるアジアのチームを見て、はじめてACLの意味がわかるのではないか、と。
まあ希望的な観測だけど。
今現在はクソッタレの山東は敗退、釜山・深セン・アルイテハド・アルアインが準決勝まで進んでいる。
ACLの準々決勝のダイジェストムービーはこちら。ここはACL情報に非常に詳しい
深センなんて、A3であたったときはどうでもいいような部活サッカーでバレーボールみたいな選手で固められていたチームだったのに、いつのまにやらこんなところにいるのは驚きである。
ACLで、特に東アジア地区のグループリーグは、基本的なフィジカルが問題になる。
フィジカルといっても、なんのことはない。
欧州のチャンピオンズなど比べ物にならない長距離の移動、気候の変動と差異、食べ物とピッチコンディション、そんなものに対応できなければきっと勝つことは出来ないと思う。
Jリーグのチームで、この高みに最初に上るのは何処なのか、それは楽しみなことである。横浜は2年連続で中途で潰えたけれど、この苦労がわかるのは行ったものだけだ。去年行ったインドネシアのケデリというアウェイは、飛行機を2回乗り換えて、そこからさらにバスで6時間かけなければたどりつけない。日曜日に試合、そのまま翌日に飛行機に乗り、火曜日に練習し、翌日アウェイの炎天下で試合。
さらにそこで試合が終われば、即移動し、またまる一日かけて日本に戻り、そして土曜日は試合。
柔な日本人よりも過酷な試合条件になれていて、土壇場の精神力が強いハングリーな中国や韓国が突破するのはなんとなくわかるような気がする。
さて、話は来年のことだ。
ご存知のとおり、ヴェルディが降格の危機に瀕している。
(おそらく、神戸は降格で決まりだろう。
先日神戸アウェイに行った連中は、神戸のスタンドの危機感の無さに驚いていたらしい。神戸サポには申し訳ないけれど、ファンやサポーターがそうなら、それは確実に試合に影響する。)
もうひとつの枠、さらに今年は入れ替え戦まであるので、現在の順位から言えばヴェルディは大変つらい位置にいる。
そのヴェルディは今年の天皇杯を制しているために、すでに2006年のACLの出場権を手にしているのだが、これが降格ということになれば、出場権を逸することになる。
そうなれば、いったいACLの出場2枠、つまり2005年Jリーグチャンピオンと天皇杯優勝チームの2つのうちのひとつが欠けることになろう。
順当に行けば、天皇杯の準優勝チームの磐田が出場権を得ることになるのだが、そうすると磐田は3年連続の出場になるわけだが、それはどうなのか?
ちなみに、第二回のACLでは、出場権のある京都が、今回の想定されるケースと同じくJ2に降格してしまったのだが、その時は2003年の1stステージ優勝チームの横浜が出場することになった。
そもそもJリーグは、こういうことについては臨機応変に対応することが多々あり、現状を見て、出場チームを決めることは大いにありうる。
おそらく、チーム編成の都合上、リーグが終わる前には、ヴェルディ降格のケースの場合の出場チームは決められるだろう。
ちょっと整理する。
【ヴェルディが降格した場合の代替出場チーム】
(1)05年天皇杯準優勝の磐田 ※磐田がリーグ優勝しなかった場合
(2)05年のJリーグ2位
(3)リーグカップ(ナビスコ)の優勝チーム
おそらく、このうち上記2つが有力なのであろう。
自分としては、リーグカップの位置づけがいまだによくわからないため、ここに何らかの優勝オプションをつけてあげていいといつも思っている。
例えば、単なる罰ゲームであるA3とか。
そして、今回のケースのような場合。
事の判断はJリーグが決める話なので、これ以上はなんともいえないのだが、実際降格争いしているチームが世界最強クラブを決める道程にのせちゃやっぱりアカンよ!とは思う。
天皇杯は天皇杯で歴史と伝統のあるものなのだから、わざわざ一年の遠回りをさせないで、素直にナビスコの勝者がACLいけるってことにすればいいんじゃないか、と考えたりしますです。
横浜や磐田のサポは十分認識していると思うのだけど、Jリーグは世界の高みにのぼるためのひとつの関門に過ぎないのである。
アジアの戦いに参戦したものならわかっていることだと思うし、これからきっとみんなわかってきて、そしてACLがビッグゲームになってくれることを考えました。
一万数千の警察官に囲まれ、身ぐるみはがされんばかりの勢いであらゆるものを奪われてスタに入って、審判・ボールボーイ・公安・警備員、全て敵という、まさしくアウェイの環境で結局は敗退して、それで日本に帰ってきたら、ACLのことなんざひとつも触れられずに、ビーチサッカーの話で盛り上がっているのには心底イヤになったものだ。
が、おそらくそれは今年までだろうと思う。
楽観的な観測かも知れないが、今年の世界クラブ選手権が今年から目の前でやる。
おそらく、目の前で欧州や南米の競合の中にいるアジアのチームを見て、はじめてACLの意味がわかるのではないか、と。
まあ希望的な観測だけど。
今現在はクソッタレの山東は敗退、釜山・深セン・アルイテハド・アルアインが準決勝まで進んでいる。
ACLの準々決勝のダイジェストムービーはこちら。ここはACL情報に非常に詳しい
深センなんて、A3であたったときはどうでもいいような部活サッカーでバレーボールみたいな選手で固められていたチームだったのに、いつのまにやらこんなところにいるのは驚きである。
ACLで、特に東アジア地区のグループリーグは、基本的なフィジカルが問題になる。
フィジカルといっても、なんのことはない。
欧州のチャンピオンズなど比べ物にならない長距離の移動、気候の変動と差異、食べ物とピッチコンディション、そんなものに対応できなければきっと勝つことは出来ないと思う。
Jリーグのチームで、この高みに最初に上るのは何処なのか、それは楽しみなことである。横浜は2年連続で中途で潰えたけれど、この苦労がわかるのは行ったものだけだ。去年行ったインドネシアのケデリというアウェイは、飛行機を2回乗り換えて、そこからさらにバスで6時間かけなければたどりつけない。日曜日に試合、そのまま翌日に飛行機に乗り、火曜日に練習し、翌日アウェイの炎天下で試合。
さらにそこで試合が終われば、即移動し、またまる一日かけて日本に戻り、そして土曜日は試合。
柔な日本人よりも過酷な試合条件になれていて、土壇場の精神力が強いハングリーな中国や韓国が突破するのはなんとなくわかるような気がする。
さて、話は来年のことだ。
ご存知のとおり、ヴェルディが降格の危機に瀕している。
(おそらく、神戸は降格で決まりだろう。
先日神戸アウェイに行った連中は、神戸のスタンドの危機感の無さに驚いていたらしい。神戸サポには申し訳ないけれど、ファンやサポーターがそうなら、それは確実に試合に影響する。)
もうひとつの枠、さらに今年は入れ替え戦まであるので、現在の順位から言えばヴェルディは大変つらい位置にいる。
そのヴェルディは今年の天皇杯を制しているために、すでに2006年のACLの出場権を手にしているのだが、これが降格ということになれば、出場権を逸することになる。
そうなれば、いったいACLの出場2枠、つまり2005年Jリーグチャンピオンと天皇杯優勝チームの2つのうちのひとつが欠けることになろう。
順当に行けば、天皇杯の準優勝チームの磐田が出場権を得ることになるのだが、そうすると磐田は3年連続の出場になるわけだが、それはどうなのか?
ちなみに、第二回のACLでは、出場権のある京都が、今回の想定されるケースと同じくJ2に降格してしまったのだが、その時は2003年の1stステージ優勝チームの横浜が出場することになった。
そもそもJリーグは、こういうことについては臨機応変に対応することが多々あり、現状を見て、出場チームを決めることは大いにありうる。
おそらく、チーム編成の都合上、リーグが終わる前には、ヴェルディ降格のケースの場合の出場チームは決められるだろう。
ちょっと整理する。
【ヴェルディが降格した場合の代替出場チーム】
(1)05年天皇杯準優勝の磐田 ※磐田がリーグ優勝しなかった場合
(2)05年のJリーグ2位
(3)リーグカップ(ナビスコ)の優勝チーム
おそらく、このうち上記2つが有力なのであろう。
自分としては、リーグカップの位置づけがいまだによくわからないため、ここに何らかの優勝オプションをつけてあげていいといつも思っている。
例えば、単なる罰ゲームであるA3とか。
そして、今回のケースのような場合。
事の判断はJリーグが決める話なので、これ以上はなんともいえないのだが、実際降格争いしているチームが世界最強クラブを決める道程にのせちゃやっぱりアカンよ!とは思う。
天皇杯は天皇杯で歴史と伝統のあるものなのだから、わざわざ一年の遠回りをさせないで、素直にナビスコの勝者がACLいけるってことにすればいいんじゃないか、と考えたりしますです。
横浜や磐田のサポは十分認識していると思うのだけど、Jリーグは世界の高みにのぼるためのひとつの関門に過ぎないのである。
アジアの戦いに参戦したものならわかっていることだと思うし、これからきっとみんなわかってきて、そしてACLがビッグゲームになってくれることを考えました。
[ 00:23 ]
[ サッカー関連ショップ ]
ずっと書くの忘れていた。
渋谷の桜ヶ丘といえば、渋谷でも地味なサラリーマンと専門学校生の集まるエリアであり、そして何よりも自分にとっては、最初にやったBarがここにあったというところなのだが、その桜ヶ丘で牛タンといえばここだった。
渋谷「牛タンいなば」
オレにとっては、ここは牛タンで有名だったのではない。
サッカー隙の親父さんのいる店として有名だったのだ。
詳しくはスポカフェの記事読んでくらはい。けど、ここに書いてあるより、もっと濃い、さらに濃い、凄く濃い。そういう親父さんが嫁さんと二人でやっている店だ。
自分は、サッカーバーでちゃんと自分で営業している頃wに、よく昼飯を食いにいかせてもらっていた。
いつだかどこかで書いたことがあると思うが、渋谷の桜ヶ丘というのやたらめったらサッカーエリアであり、昔からサッカーバーが出来ては消え、出来ては消え、とやっているところばかりか、サッカー関連の小さなショップや会社も多い。
たぶん、昔道玄坂にJFAがあった頃の影響もあると思う。
ちなみに、自分のやっていた雑居ビルのバーの向かいの板さんは審判員の資格をもち、ハラヒロミの息子を教えていたし、その下のバーのマスターはマリサポであり、関係ないけど、4階の店子は会員制のゲイバーであり、その向かいはおなべバーだった。
いや、そんな話をしようとしたのではない。
そのいなばがピンチなのだ。
もちろん理由はBSE。
長い間仕入れてきた牛タンがついに入手できなくなり、先日行ってみたら、「牛タン居酒屋」の文字の「牛タン」の部分が消されていた。
しょうがあんめえよ、高いのしか手にはいらないんだから!ということなのだが、代わりのメニューもなんだか急増っぽくてなんともいえない。
ここの親父さんは本当にサッカーが好きな人だ。
それが年月に現れて、とても心地よい。
メシなんかどうでもいい。
おい、おまいら!
サッカー好きがBSEのおかげで苦労しているんだ。
ちょっとはいってやれ。
ちなみに、ここは本当に居酒屋。
浦和は「力」があって、肩肘張らずにサッカー好きがたまれる場所があるが、都内にはそういうところは少ない。
だから、たまにはこんなとこもいいんでないか?
ちなみにたぶんランチもやっている。
出先の昼飯に、仕事帰りの飲みに、よってやってくれ!
渋谷の桜ヶ丘といえば、渋谷でも地味なサラリーマンと専門学校生の集まるエリアであり、そして何よりも自分にとっては、最初にやったBarがここにあったというところなのだが、その桜ヶ丘で牛タンといえばここだった。
渋谷「牛タンいなば」
オレにとっては、ここは牛タンで有名だったのではない。
サッカー隙の親父さんのいる店として有名だったのだ。
詳しくはスポカフェの記事読んでくらはい。けど、ここに書いてあるより、もっと濃い、さらに濃い、凄く濃い。そういう親父さんが嫁さんと二人でやっている店だ。
自分は、サッカーバーでちゃんと自分で営業している頃wに、よく昼飯を食いにいかせてもらっていた。
いつだかどこかで書いたことがあると思うが、渋谷の桜ヶ丘というのやたらめったらサッカーエリアであり、昔からサッカーバーが出来ては消え、出来ては消え、とやっているところばかりか、サッカー関連の小さなショップや会社も多い。
たぶん、昔道玄坂にJFAがあった頃の影響もあると思う。
ちなみに、自分のやっていた雑居ビルのバーの向かいの板さんは審判員の資格をもち、ハラヒロミの息子を教えていたし、その下のバーのマスターはマリサポであり、関係ないけど、4階の店子は会員制のゲイバーであり、その向かいはおなべバーだった。
いや、そんな話をしようとしたのではない。
そのいなばがピンチなのだ。
もちろん理由はBSE。
長い間仕入れてきた牛タンがついに入手できなくなり、先日行ってみたら、「牛タン居酒屋」の文字の「牛タン」の部分が消されていた。
しょうがあんめえよ、高いのしか手にはいらないんだから!ということなのだが、代わりのメニューもなんだか急増っぽくてなんともいえない。
ここの親父さんは本当にサッカーが好きな人だ。
それが年月に現れて、とても心地よい。
メシなんかどうでもいい。
おい、おまいら!
サッカー好きがBSEのおかげで苦労しているんだ。
ちょっとはいってやれ。
ちなみに、ここは本当に居酒屋。
浦和は「力」があって、肩肘張らずにサッカー好きがたまれる場所があるが、都内にはそういうところは少ない。
だから、たまにはこんなとこもいいんでないか?
ちなみにたぶんランチもやっている。
出先の昼飯に、仕事帰りの飲みに、よってやってくれ!
2005/09/19のBlog
[ 04:12 ]
[ Football Lovers ]
サッカー批評のイベントやるです、はい。今回も大物登場の強力トークライブ!
------------------------------------------------------------
サッカー批評トークライブ
「サッカー監督、名将の条件」
サッカーの監督はなにを考えて何を為しているのか?
ピッチの外からゲームをつくる存在である「監督」について、サッカー批評気鋭のライター陣がその"現在"を語りつくす。
ジーコからオシム、さらには欧州の歴戦の名将達まで、その戦術、チームマネジメント、さらにはその「人」に至るまでを縦横無尽に論じます。
好評のフットボールラバーズトークライブが今回も熱い!
◇日時: 9月22日(木)19:30~21:30
◇会場: Pub Football Lovers
◇ゲスト:
西部謙司
宇都宮徹壱
浅野賀一
◇受付
先着順での入場になります。お早めにご来場ください。
詳細はコチラ
------------------------------------------------------------
サッカー批評トークライブ
「サッカー監督、名将の条件」
サッカーの監督はなにを考えて何を為しているのか?
ピッチの外からゲームをつくる存在である「監督」について、サッカー批評気鋭のライター陣がその"現在"を語りつくす。
ジーコからオシム、さらには欧州の歴戦の名将達まで、その戦術、チームマネジメント、さらにはその「人」に至るまでを縦横無尽に論じます。
好評のフットボールラバーズトークライブが今回も熱い!
◇日時: 9月22日(木)19:30~21:30
◇会場: Pub Football Lovers
◇ゲスト:
西部謙司
宇都宮徹壱
浅野賀一
◇受付
先着順での入場になります。お早めにご来場ください。
詳細はコチラ
[ 03:39 ]
[ サッカー時評 ]
昨日の東京戦で、ルーカスが負傷退場した一件は既にここを読んでいる人ならば承知のことかと思う。
0-0でロスタイム、FT間際。
試合は荒れかかっていて、こういう試合のパターンであるが、松田がまたわけのわからないことをしでかしたりして、緊迫しつつある場面であった。
倒れているのは誰か最初はわからなかった。
たぶん今野だと思うが、ガスの選手は、まだ倒れているのかよ?という風にピッチ中央で座り込んで柔軟体操を始めた。時間稼ぎなのは明らかに見える。
だから、ヨコハマのゴール裏は、あと一点なんとかしてももぎ取るというためのチャントを延々ループさせていた。このまま止めるつもりはない。
が、少し様子がおかしい。
本当ならばこのチャントで最後まで押し切るパターンなのだが、誰か選手がジャージを脱いで倒れた選手を仰いでいるのを見て、トラメガをもっていた身内に、おそらくかなり重いケガだろうということを伝えて、コールリーダーにそれを伝えてコールを切った。
この時点で向こうのゴール裏から、個人コールが聞こえてきて、はじめて倒れているのがルーカスだと知った。
ピッチの様子から、救急車を入れようとしているのがわかった。
思いのほか重症なのは、ピッチに出入りする人の多さや、遠めに見る選手の態度でわかった。
ひとりオレらのバンデーラの横で、その聞こえてくるルーカスコールにあわせて歌いだしたヤツがいた。オレは頭のおかしいヤツか、勘違いしたバカのヤツかと最初思って、「それはどんな意味があるのか?」と怒鳴り飛ばした。
試合は終了してないし、ロスタイムはまだ数分はあるはずだ。
そのうち、やはり救急車がピッチに入ってくる。
その後、これも身内が突然トラメガをコール出ししているヤツから取り上げて、携帯でピッチの救急車を取ろうとしている多数の連中に「こんなときに写真とってんのバカ者!」とやりあげる。
コア部分以外は、ガス側のルーカスコールにあわせて手拍子し始める。
オレは今度は黙って聞いていた。
後ろから、今度は別のグループからトラメガで「ガスのコールをするというのはどういうわけか?」という煽りが聞こえた。
オレはその声で、ガスサポにはずいぶんヨシカツをいじられて、いつだったかアマラオと激突してケガをしたときにも、ずいぶんな目に合わされていたことを思い出した。
ルーカスを乗せた救急車がピッチを出た。コールリードの若いのに、まだ時間はある、さめてしまったから一挙にヒートアップさせよう、と伝えた。
そして、試合は再開しボールがピッチに入った瞬間にフルタイムの笛がなる。
----------------------------------------------------------
この「ルーカスコール」をどのように考えるか。
個人的には、今でも、あれはやるべきではない。
もし、やるとしたら、ルーカスがピッチを出た後。または笛がなったあと。
ましてや、ガスのコールにあわせる必要はない。
あの時点では試合は終わってないから。
オレらは、ひとつの仁義として、そのときループさせていたコールを切った。明らかな異変に気づいたからだ。
しかし、もう一度言う。あの時点では試合は終わっていない。
応援は個々人の判断だし、それぞれ哲学をもってやっていることだと思うので、オレはそれなりの気合をもっている連中が、ポリシーをもってルーカスへのコールをしているならそれはそれで仕方ないと思う。ひとり気合の入った身内がコールを続けて揉めたらしい。非常に判断の難しい問題だと思う。しかし、まだロスタイムはあるのだ。
あそこでコールを止め、ブーイングを一切出さなかったのが、それが戦ううえでのせめてのもの敬意で、それが限界ギリギリである。チャントを止めて、相手の歌をただ聞いているというのは、ゴール裏の文脈からいえば、それを受け入れているということだ。
そして、もしルーカスに対して、ひとりのサッカー選手として心配する気持ちがあるのならば、必ず違う方法があるはずだ。
ルーカスコールを止めるべく、トラメガを出したコールリーダーは批判されているようだが、オレはあれはしょうがない判断だったと思う。
そもそもサッカーは危険なスポーツであり、だから何がおきるかわからない。そういう場にいて「チームとともに闘う」と常日頃断言しているものであればそれはありえる判断だったと思う。
しかし、難しい話だよ、これで批判されてしまうとなれば。
正直オレはよくわからん。
ローカルな話題であるが、いろいろ考えた。
0-0でロスタイム、FT間際。
試合は荒れかかっていて、こういう試合のパターンであるが、松田がまたわけのわからないことをしでかしたりして、緊迫しつつある場面であった。
倒れているのは誰か最初はわからなかった。
たぶん今野だと思うが、ガスの選手は、まだ倒れているのかよ?という風にピッチ中央で座り込んで柔軟体操を始めた。時間稼ぎなのは明らかに見える。
だから、ヨコハマのゴール裏は、あと一点なんとかしてももぎ取るというためのチャントを延々ループさせていた。このまま止めるつもりはない。
が、少し様子がおかしい。
本当ならばこのチャントで最後まで押し切るパターンなのだが、誰か選手がジャージを脱いで倒れた選手を仰いでいるのを見て、トラメガをもっていた身内に、おそらくかなり重いケガだろうということを伝えて、コールリーダーにそれを伝えてコールを切った。
この時点で向こうのゴール裏から、個人コールが聞こえてきて、はじめて倒れているのがルーカスだと知った。
ピッチの様子から、救急車を入れようとしているのがわかった。
思いのほか重症なのは、ピッチに出入りする人の多さや、遠めに見る選手の態度でわかった。
ひとりオレらのバンデーラの横で、その聞こえてくるルーカスコールにあわせて歌いだしたヤツがいた。オレは頭のおかしいヤツか、勘違いしたバカのヤツかと最初思って、「それはどんな意味があるのか?」と怒鳴り飛ばした。
試合は終了してないし、ロスタイムはまだ数分はあるはずだ。
そのうち、やはり救急車がピッチに入ってくる。
その後、これも身内が突然トラメガをコール出ししているヤツから取り上げて、携帯でピッチの救急車を取ろうとしている多数の連中に「こんなときに写真とってんのバカ者!」とやりあげる。
コア部分以外は、ガス側のルーカスコールにあわせて手拍子し始める。
オレは今度は黙って聞いていた。
後ろから、今度は別のグループからトラメガで「ガスのコールをするというのはどういうわけか?」という煽りが聞こえた。
オレはその声で、ガスサポにはずいぶんヨシカツをいじられて、いつだったかアマラオと激突してケガをしたときにも、ずいぶんな目に合わされていたことを思い出した。
ルーカスを乗せた救急車がピッチを出た。コールリードの若いのに、まだ時間はある、さめてしまったから一挙にヒートアップさせよう、と伝えた。
そして、試合は再開しボールがピッチに入った瞬間にフルタイムの笛がなる。
----------------------------------------------------------
この「ルーカスコール」をどのように考えるか。
個人的には、今でも、あれはやるべきではない。
もし、やるとしたら、ルーカスがピッチを出た後。または笛がなったあと。
ましてや、ガスのコールにあわせる必要はない。
あの時点では試合は終わってないから。
オレらは、ひとつの仁義として、そのときループさせていたコールを切った。明らかな異変に気づいたからだ。
しかし、もう一度言う。あの時点では試合は終わっていない。
応援は個々人の判断だし、それぞれ哲学をもってやっていることだと思うので、オレはそれなりの気合をもっている連中が、ポリシーをもってルーカスへのコールをしているならそれはそれで仕方ないと思う。ひとり気合の入った身内がコールを続けて揉めたらしい。非常に判断の難しい問題だと思う。しかし、まだロスタイムはあるのだ。
あそこでコールを止め、ブーイングを一切出さなかったのが、それが戦ううえでのせめてのもの敬意で、それが限界ギリギリである。チャントを止めて、相手の歌をただ聞いているというのは、ゴール裏の文脈からいえば、それを受け入れているということだ。
そして、もしルーカスに対して、ひとりのサッカー選手として心配する気持ちがあるのならば、必ず違う方法があるはずだ。
ルーカスコールを止めるべく、トラメガを出したコールリーダーは批判されているようだが、オレはあれはしょうがない判断だったと思う。
そもそもサッカーは危険なスポーツであり、だから何がおきるかわからない。そういう場にいて「チームとともに闘う」と常日頃断言しているものであればそれはありえる判断だったと思う。
しかし、難しい話だよ、これで批判されてしまうとなれば。
正直オレはよくわからん。
ローカルな話題であるが、いろいろ考えた。
[ 02:03 ]
[ FWF ゴールドディスク ]
Live at Birdland John Coltrane買ったときの光景を明確に覚えているレコードというのは自分にとって珍しい。
いつのまにか積もり積もって数千枚の規模になった音源の中でもレアなケースだ。
その頃、貧乏学生だったから、そんなに数は買わなかったからかも知れないが、ここまでキチンと思い出せるのはこのアルバムだけだ。
渋谷の公園通り上には、その頃「ハンター」というチェーンの中古ショップがあり、そこで購入した。買ったときにもジャケットの状態はよくなかったから安かったと思う。もっとも、その当時はジャケの具合の悪さで安い盤を狙い撃ちして購入していたのだが。
公園通りは、その当時はバブルのど真ん中だ。名前は忘れたが、その名をつけたトレンディドラマがあったかとも思う。もちろんそのドラマは見てもいないのだが。そうそう、そのハンターの前で、中山美穂がドラマのロケをやっているのに出くわしたこともある。ライトの中に照らされていて、人ごみの中でもアンドロイドのように見えた。
ハンターの横のビルの2階には、パソコン通信のカフェがあった。まだ1980年代の中頃である。友人がそこの常連で何度か連れて行かれたのだが、画面の中でテキストの文字列が動いているのを見せられ、これで遠くの人と会話していると説明されて、まったく意味がわからぬままだったのを思い出す。まさに遠い昔の話である。
自分の生まれ育ちをしていた軍港の町はまだ70年代の影を落としたままだったが、ここは本当に華やいでみえた。横須賀から出てきたばかりで、八王子暮らしの自分だったからなおさらだったかも知れない。
その頃、自分はいくつかの悩みをもっていた。今となるとどうでもいい話なのだが、それでもこういう街の中にいることが、なんとなく似つかわしくないように思えていた頃だ。
"Live at Birdland"は自分にとって、音楽的な転機の一枚となる。
学生時代の八王子の下宿はロックだけだった。その頃夢中になっていたのは、なによりもJimi Hendrix。Jazzに入っていくきっかけは、明らかにその頃違うジャンルで決定的な影響力を自分に及ぼしていた中上健次の影響だ。だから始めて聴いたのは当然Trane、そしてAlbert Ayler。今考えると、実に因果なJazzへの入り方である。
しかし、Jimi Hendrixでインプロビゼーションの洪水に慣れていたオレにとっては、コルトレーンは実に気持ちがよかった。
後に、マイルスディビスの自叙伝を読んで、ジミがコルトレーンのようにギターを弾きたかったと述懐していたことや、エクスペリアンスのドラマー、Mitch Mitchellがエルビンジョーンズのドラムに大きな影響を受けたのを知ったのだが、その頃はそれも知る由もない。
"Live at Birdland"は、1963年の作品。マイフェイバリットシングと同じく、長尺の一曲目がなんともいえないエスニックなモード調で、しかもソプラノサックスだ。
その一曲目"Aflo blue"にはぶっとんだ。
そして、まだJazzの文法を読み取るのに慣れていなかった自分にはわからなかった"I want to talk about you"に、しばらくJazz漬けになった数年後に再度ノックアウトさせられた。
コルトレーンは常に何かに挑んでいたと思う。単音しか吹くことが出来ない管楽器で、和音を吹こうとしているかのように、一音を追いかけるように一音が続き、さらにそれを塗りこめてしまおうかと次の一音がやってくる連鎖。いわゆるシーツオブサウンドというヤツなのだが、そんな形容以上の意味があるように自分には思えた。なにか得体の知れないものと格闘している姿を見せているように思えたのだ。
フラクタルの文様のように、ミクロな文様が実は壮大な幾何学模様を作り出していくように、トレーンは刻み付けるようにひとつずつ音符を重ねて、そして大きなテーマを描き出す。
ソプラノサックスのテーマから始まる"Aflo Blue"は、コルトレーンに傾倒するきっかけになった一枚もあるのだが、自分のいろいろな転機になることが起こる時期の一枚でもある。それもまたおいおい。
Live at Birdland John Coltrane◇FWFゴールドディスク
〔MGD001〕"Live at Birdland" John Coltrane
〔MGD002〕"ギル・エヴァンスの個性と発展" Gil Evans
〔MGD003〕"Who is this bitch, anyway?" Marlena Shaw
〔MGD004〕"太陽と戦慄" King Crimson
〔MGD005〕"Second Edition (Metal Box)" Public Image limited
〔MGD006〕 "Hallucination Engine" Material
〔MGD007〕"On Love" David T. Walker
〔MGD008〕"Beggars Banquet" The Rolling Stones
〔MGD009〕"稲村ジェーン" サザンオールスターズ
〔MGD010〕"Chapter one:Latin America" Gato Barbieri
〔MGD011〕"New Glass" Albert Ayler
〔MGD012〕"Somewhere before" Keith Jarrett Trio
◇無人島レコード
2005/09/13のBlog
[ 02:53 ]
[ なんとなく社会時評 ]
ここの荒れっぷりがいつもにましてスゴイw
年金・消費税・所得税、すべて国民負担で建て直し、さしたる改革も郵政どまりの時代がやってくる。
これ以上のチャンスはない。
消費税は自分の任期ではやらないと言っているが、それは次のハードナショナリストの総理に指名するための条件になることだろう。確実にあがる。
憲法改正の国民投票は、両院の2/3以上の賛成がないと出来ないことになっているが、これを規定する憲法96条の改正は出来る。これを狙っている連中にも白紙委任状。
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「馬鹿め。自民に投票したのは、金持ちと、ワイドショーしか見ない馬鹿だけだよ。」
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民主がキチンとした争点を準備できなかったとか、国民にアピールできなかったとか、したり顔で言っているヤシは評論家かね?そのぐらいガキやボケた婆じゃねーんだから調べてから投票するべきではないかね、それが民主主義じゃないの?ワイドショーと2ch以外にも情報を得て、それから自分の判断で投票するのが議会民主主義の根幹なのではないかね?
そんなわけで、自民に投票した
年金・消費税・所得税、すべて国民負担で建て直し、さしたる改革も郵政どまりの時代がやってくる。
これ以上のチャンスはない。
消費税は自分の任期ではやらないと言っているが、それは次のハードナショナリストの総理に指名するための条件になることだろう。確実にあがる。
憲法改正の国民投票は、両院の2/3以上の賛成がないと出来ないことになっているが、これを規定する憲法96条の改正は出来る。これを狙っている連中にも白紙委任状。
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「馬鹿め。自民に投票したのは、金持ちと、ワイドショーしか見ない馬鹿だけだよ。」
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民主がキチンとした争点を準備できなかったとか、国民にアピールできなかったとか、したり顔で言っているヤシは評論家かね?そのぐらいガキやボケた婆じゃねーんだから調べてから投票するべきではないかね、それが民主主義じゃないの?ワイドショーと2ch以外にも情報を得て、それから自分の判断で投票するのが議会民主主義の根幹なのではないかね?
そんなわけで、自民に投票した