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2006/02/06のBlog
[ 06:39 ]
[ アジアチャンピオンズリーグ ]
以下、グーグルでサルベージしたキャッシュより。
しかし、日本がアジアのなかで押しも押されぬ強豪として目されるようににったのは、ほんのここ10年ほどのことである。それ以前には、日本が世界に挑戦する前にまずアジアという大きな壁にはね返された。当時の日本にとってそれらの国々は、身近なライバルであり、ときに胸を借りる相手ですらあった。そのような歴史のなかには、今まで顧みられることのなかったさまざま物語が埋もれている。そして現在日本に追い越されてしまった国々のなかにも、レベルこそ低迷し不遇の時代を送っているものの、その熱狂ぶりたるや今もって日本を凌ぐ国は少なくない。筆者が調査のために約1年にわたって滞在したインドネシアもそうした国の一つだ。
インドネシアは、13677の島々からなる世界最大の群島国家である。2億を超える人口の約90%がムスリムと、世界最高のムスリム人口を誇る。この地に初めて英国起源の、いわゆるスポーツとしてのサッカーがもたらされたのは1893年、オランダによってである。1931年には全国的なアマチュアリーグが開始され、1979年からのセミプロリーグを経て、1994年にはプロリーグが誕生した。インドネシアにおいてサッカーは、圧倒的な人気を誇る紛れもない「国民的」スポーツである。空き地では例外なく子供から大人まで連日ボールが蹴られ、プロの試合になれば熱狂的な観衆によってスタジアムは毎回超満員となる。
過去を繙いてみると、日本はインドネシアと1934年、1954年、1961年に対戦しているが、それぞれ1-7、3-5、0-2といずれも完敗を喫している。日本がインドネシアから初勝利を収めるのは、1970年になってからである(結果は4-3)。また、日本が1998年にようやく初出場を果たしたW杯に、1938年、アジア地域から初めて出場したのもインドネシアである(当時はオランダ領東インドの名で登録)。
アジアのサッカーとナショナリズムと伊藤壇
さらにドラゴンフットボールさんの昔のBBSから面白いエピソードなのでこちらもサルベージ。
19 名前: 管理人 投稿日: 2002/04/29(月) 21:11
インドネシアのメトロTVは、Jリーグを生中継している
のはご存知だと思います。
んで、そのJリーグ中断を利用して、今期第1節で鹿島相手
に大活躍した、FC東京の小林成光選手をインドネシアに
呼ぶ計画が持ち上がったそうです
(みんなスゲー選手だ、と盛り上がったらしい)。
んで、インドネシアのダンキンドーナツがそのスポンサーに
なるというニュースが入り、現地のTV局スタッフは大喜び
したものの、彼が怪我したそうで計画は中止。
スタッフみんなショボーンだそうです。
でも、メトロTVはJリーグ中断中もJリーグの試合並びに
日本代表の番組を放送しつづけるそうな。
あと、Jリーグ担当のTV製作者は、この放送を期にJリー
ガーの選手やユースの選手を呼んで、インドネシアの子供達
の指導してもらいたいと言っているそうであります。
(ソースは水嶋さん@ジャカルタよりのメール)
日本サッカーは今こそ東南アジアに恩返ししやがれ。
つーか、しましょうね。
この2002年の試合って小林成光が2得点でアシスト含めて4点全部にからんだ試合。
しかし、その小林を呼んでしまって何を聞くつもりだったのであろうかw
つか、Jリーガーは確かにインドネシアとか行っていもいいと思うんだよね。
あそこはサッカー好きならいい国だと思うよ。
以上、メモ代わり。
しかし、日本がアジアのなかで押しも押されぬ強豪として目されるようににったのは、ほんのここ10年ほどのことである。それ以前には、日本が世界に挑戦する前にまずアジアという大きな壁にはね返された。当時の日本にとってそれらの国々は、身近なライバルであり、ときに胸を借りる相手ですらあった。そのような歴史のなかには、今まで顧みられることのなかったさまざま物語が埋もれている。そして現在日本に追い越されてしまった国々のなかにも、レベルこそ低迷し不遇の時代を送っているものの、その熱狂ぶりたるや今もって日本を凌ぐ国は少なくない。筆者が調査のために約1年にわたって滞在したインドネシアもそうした国の一つだ。
インドネシアは、13677の島々からなる世界最大の群島国家である。2億を超える人口の約90%がムスリムと、世界最高のムスリム人口を誇る。この地に初めて英国起源の、いわゆるスポーツとしてのサッカーがもたらされたのは1893年、オランダによってである。1931年には全国的なアマチュアリーグが開始され、1979年からのセミプロリーグを経て、1994年にはプロリーグが誕生した。インドネシアにおいてサッカーは、圧倒的な人気を誇る紛れもない「国民的」スポーツである。空き地では例外なく子供から大人まで連日ボールが蹴られ、プロの試合になれば熱狂的な観衆によってスタジアムは毎回超満員となる。
過去を繙いてみると、日本はインドネシアと1934年、1954年、1961年に対戦しているが、それぞれ1-7、3-5、0-2といずれも完敗を喫している。日本がインドネシアから初勝利を収めるのは、1970年になってからである(結果は4-3)。また、日本が1998年にようやく初出場を果たしたW杯に、1938年、アジア地域から初めて出場したのもインドネシアである(当時はオランダ領東インドの名で登録)。
アジアのサッカーとナショナリズムと伊藤壇
さらにドラゴンフットボールさんの昔のBBSから面白いエピソードなのでこちらもサルベージ。
19 名前: 管理人 投稿日: 2002/04/29(月) 21:11
インドネシアのメトロTVは、Jリーグを生中継している
のはご存知だと思います。
んで、そのJリーグ中断を利用して、今期第1節で鹿島相手
に大活躍した、FC東京の小林成光選手をインドネシアに
呼ぶ計画が持ち上がったそうです
(みんなスゲー選手だ、と盛り上がったらしい)。
んで、インドネシアのダンキンドーナツがそのスポンサーに
なるというニュースが入り、現地のTV局スタッフは大喜び
したものの、彼が怪我したそうで計画は中止。
スタッフみんなショボーンだそうです。
でも、メトロTVはJリーグ中断中もJリーグの試合並びに
日本代表の番組を放送しつづけるそうな。
あと、Jリーグ担当のTV製作者は、この放送を期にJリー
ガーの選手やユースの選手を呼んで、インドネシアの子供達
の指導してもらいたいと言っているそうであります。
(ソースは水嶋さん@ジャカルタよりのメール)
日本サッカーは今こそ東南アジアに恩返ししやがれ。
つーか、しましょうね。
この2002年の試合って小林成光が2得点でアシスト含めて4点全部にからんだ試合。
しかし、その小林を呼んでしまって何を聞くつもりだったのであろうかw
つか、Jリーガーは確かにインドネシアとか行っていもいいと思うんだよね。
あそこはサッカー好きならいい国だと思うよ。
以上、メモ代わり。
2006/02/05のBlog
[ 20:43 ]
[ 書評 ]
◇ネオナチと極右運動―ドイツからの報告
1990年代前半のドイツにおけるネオナチおよび極右運動について概括的にまとめられた書籍。表紙がなんともはや独自のセンスwなのではあるが、中身はそれなりにまとまっている。
ヨーロッパにおける極右主義は、白人以外の移民や旧植民地の人々との民族的な混交が進むにつれ、右肩上がりの状況になり、例えば近年のフランスのルペンのような存在も生み出している。
データはかなり古いのであるが、例えば1992年における欧州各国の議会に占める「右翼」の議会占有率は以下のとおり。
ドイツ・・・ 2.4%
デンマーク・・・ 6.4%
オーストリア・・・16.6%
スイス・・・ 7.5%
ベルギー・・・ 6.6%
イタリア・・・14.2%
フランス・・・13.9%
ポルトガル・・・ 4.4%
この中でドイツの構成比率が低いのは、この国ではナチス的な政治活動や言論が厳しく規制されているためで、そのため公に政治的な表面に出てくることができないためであり、そしてだからこそその活動は地下にもぐり、そして様々なテクニックを駆使しながら生き延びてきているし、そしてさらにその活動の場を広げつつある。
彼らは禁止されたナチズムの鍵十字を変形させてマーク化し、ヒトラー式の敬礼は指三本のみを突き出すことにより、それをうまくごまかし、これも禁止されているホルスト-ヴェッセルの歌は音域をわざと外して歌う。
「アウシュビッツの嘘」という歴史修正主義者の本は発禁になりながらも10万部以上が頒布され、スキン・ヘッズのロックバンドはあからさまな人種差別の歌をデモ・テープにして売りさばく。
自分がこれまでわからなかったのが、「極右」とか「ネオナチ」とか「スキンヘッズ」といったものの差異であり、例えばそれがフーリガニズムとどのような結びつきがあるかはさらによくわからなかった。
本書を読む限りでわかるのは、
・政治的な国家主義と排外主義者・・・極右
・これに加えて具体的にナチスの復興をめざすもの・・・ネオナチ
・基本的に徒党をなしたヤンキー集団・・・スキンヘッズ
・これのサッカー版・・・フーリガン
という2つの位相にわかれているということだ。
スキンヘッズやフーリガンといった荒くれ集団は、そもそも思想や政治的に統一性をもたず、だからむしろ多種多様なグループみたいなものがある。
その中にはナチを崇拝するものもあれば、単に人種差別的な言動をするものもあるし、アナーキストや左翼のスキンヘッズもいる。
ただし、ドイツでは、これらのスキンが急速に政治化しつつあり、それらは排外主義的な人種差別行為を繰り返し、そして暴力行為にいたる。
そして、それを極右のグループは、その連中に入り込みつつ政治化していく。
なお、極右とネオナチの違いは、その極度の排外主義や暴力肯定の政治思想をナチスの基本思想において語るか語らないかの違いであり、そういう意味でそのようなナチの宗教色を表に出すか出さないかの違いである。
サッカースタジアムにたむろする荒くれにもこの風は流れ込んでおり、さらにドイツではナチズムというおそらく彼らにとって居やすい思想のパッケージがあるため、そちらに流れるものもいる。
*白色人種は維持されなくてはならない。人種混交、過度の外国主義、国際主義が白人種を脅かしている。
*白色人種の敵は排除されなくてはならない。
*スキン・ヘッズは、自らを人種保護者と見ており、彼らは現代の突撃隊であり、差し迫った人種戦争における戦闘者であると感じている。
-フランスのOIミュージック(スキンヘッズのパンクミュージック)のプロデューサーの発言
そして、その戦闘とはどんなものかというとこういうことだ。
ドイツのための戦い -これは彼らには、スキンヘッズを「ダニ」と言っている左翼と外国人に対するテロを意味し、同性愛者、都会の浮浪者、障害者に対するテロを意味している。
ちなみに、この「外国人」とはドイツでの多数派移民であるトルコ人のみらなずアジア人も含まれる。
そのようなネオナチの活動と「スキン・ヘッズ」の活動は、サブ・カルチャーにまで進出している。代表的なものはサッカーであり、そしてロックである。
極右は新人募集計画をスタジアムの周辺で開始し、そしてスキンヘッズのバンドは強力に政治化する。
1983年10月26日、ドイツ民族には悪臭のするトルコのならず者との戦いが差し迫っている。それはサッカーのドイツナショナルチームがトルコのげす野郎とベルリンでヨーロッパ選手権のポイントを巡る対戦なのだ。・・・・この試合の背景には、とくにドイツ人の自国における職場をめぐる戦いがあるのだ・・・だから外人よ出て行け!・・・われわれが解放されるのは暴力のみである。われわれは始めなければならないのだ。敵チームはどこでもよい。野郎どもに対する戦いのためにベルリンに行くのだ
--ヘルタBSCベルリンのファンに対して呼びかけたビラ--
オレは路上に立ち/目を見開いて/トルコ人を待つ/そいつに一発かませて/そして俺の番が来たら/蹴りも入れてやろう/やつらはたかがトルコ人じゃねえか/ブタとかわらねえ
トルコ人、おまえら何をやったのか/トルコ人、なんでおまえらオレをそそのかす/
あいつらはいつもニンニクを食ってやがる/ブタみてえにくせえ/やつらはドイツに来て/ただで暮らしていやがる/やつらはドイツをクソまみれにしやがる/やつらは殺すしかねえ/それしかねえ
牢獄にぶちこめ/収容所に叩き込め/なんなら砂漠に放り出せ/とにかくやつらを追い出せ/やつらのガキをぶっ殺せ、やつらの女をやっちまえ/やつらトルコ人種を消せ
--OIバンド「最終勝利」の「外人野郎の歌」--
基本的にこのようなフレーズは日本のネットでもよく見る類のものなのだが(もちろん相手はトルコ人ではないのは周知のとおり)、これがある程度大手をふって世間に流通してしまうことはものすごいことではないかと思う。
※もちろん、これらの潮流に対するアンチも存在しており、むしろそちらが「世論」であることはいうまでもないのだが。
なお、この書籍の巻末には、ドイツにおけるネオナチ活動が、ユダヤ教をはじめとする異教のみならずキリスト教までをも敵対視するゲルマン異教(ナチスが信奉したもの)がバックボーンとして存在することを指摘している。このへんは非常に濃い話であり、単にベネディクト・アンダーソン式のモジュール理論のナショナリズムの理解では追いつくことができない。
さて、このエントリーを書く中で、書籍にあった極右/白人至上主義者のバンドのことをググってみたら、次のようなコメントもトラックバックも受け取らない孤高のブログをみつけました。
極右/ネオナチのOIバンドというのも日本にはいるそうで、また白人至上主義者のバンドの愛好者に対しても、以下のブログが痛烈に批判おり大変興味をひきました。
□DQN Oi THE BLOG
◇自分の肌の色・人種を理解してないでトンチンカン極まりないナチ・ギミックで武装したトンデモ極右バンド
◇メンバーのうちの一人がSkul headというバンドのロゴが入ったTシャツ着てました
◇黄色いアジア人は決してアーリア人にはなれない
なるほど、勉強になりましたyp!
以上もあわせつつ、薄くていかがわしい表紙にも関わらず少し知恵が増えました。
ネオナチと極右運動―ドイツからの報告
1990年代前半のドイツにおけるネオナチおよび極右運動について概括的にまとめられた書籍。表紙がなんともはや独自のセンスwなのではあるが、中身はそれなりにまとまっている。
ヨーロッパにおける極右主義は、白人以外の移民や旧植民地の人々との民族的な混交が進むにつれ、右肩上がりの状況になり、例えば近年のフランスのルペンのような存在も生み出している。
データはかなり古いのであるが、例えば1992年における欧州各国の議会に占める「右翼」の議会占有率は以下のとおり。
ドイツ・・・ 2.4%
デンマーク・・・ 6.4%
オーストリア・・・16.6%
スイス・・・ 7.5%
ベルギー・・・ 6.6%
イタリア・・・14.2%
フランス・・・13.9%
ポルトガル・・・ 4.4%
この中でドイツの構成比率が低いのは、この国ではナチス的な政治活動や言論が厳しく規制されているためで、そのため公に政治的な表面に出てくることができないためであり、そしてだからこそその活動は地下にもぐり、そして様々なテクニックを駆使しながら生き延びてきているし、そしてさらにその活動の場を広げつつある。
彼らは禁止されたナチズムの鍵十字を変形させてマーク化し、ヒトラー式の敬礼は指三本のみを突き出すことにより、それをうまくごまかし、これも禁止されているホルスト-ヴェッセルの歌は音域をわざと外して歌う。
「アウシュビッツの嘘」という歴史修正主義者の本は発禁になりながらも10万部以上が頒布され、スキン・ヘッズのロックバンドはあからさまな人種差別の歌をデモ・テープにして売りさばく。
自分がこれまでわからなかったのが、「極右」とか「ネオナチ」とか「スキンヘッズ」といったものの差異であり、例えばそれがフーリガニズムとどのような結びつきがあるかはさらによくわからなかった。
本書を読む限りでわかるのは、
・政治的な国家主義と排外主義者・・・極右
・これに加えて具体的にナチスの復興をめざすもの・・・ネオナチ
・基本的に徒党をなしたヤンキー集団・・・スキンヘッズ
・これのサッカー版・・・フーリガン
という2つの位相にわかれているということだ。
スキンヘッズやフーリガンといった荒くれ集団は、そもそも思想や政治的に統一性をもたず、だからむしろ多種多様なグループみたいなものがある。
その中にはナチを崇拝するものもあれば、単に人種差別的な言動をするものもあるし、アナーキストや左翼のスキンヘッズもいる。
ただし、ドイツでは、これらのスキンが急速に政治化しつつあり、それらは排外主義的な人種差別行為を繰り返し、そして暴力行為にいたる。
そして、それを極右のグループは、その連中に入り込みつつ政治化していく。
なお、極右とネオナチの違いは、その極度の排外主義や暴力肯定の政治思想をナチスの基本思想において語るか語らないかの違いであり、そういう意味でそのようなナチの宗教色を表に出すか出さないかの違いである。
サッカースタジアムにたむろする荒くれにもこの風は流れ込んでおり、さらにドイツではナチズムというおそらく彼らにとって居やすい思想のパッケージがあるため、そちらに流れるものもいる。
*白色人種は維持されなくてはならない。人種混交、過度の外国主義、国際主義が白人種を脅かしている。
*白色人種の敵は排除されなくてはならない。
*スキン・ヘッズは、自らを人種保護者と見ており、彼らは現代の突撃隊であり、差し迫った人種戦争における戦闘者であると感じている。
-フランスのOIミュージック(スキンヘッズのパンクミュージック)のプロデューサーの発言
そして、その戦闘とはどんなものかというとこういうことだ。
ドイツのための戦い -これは彼らには、スキンヘッズを「ダニ」と言っている左翼と外国人に対するテロを意味し、同性愛者、都会の浮浪者、障害者に対するテロを意味している。
ちなみに、この「外国人」とはドイツでの多数派移民であるトルコ人のみらなずアジア人も含まれる。
そのようなネオナチの活動と「スキン・ヘッズ」の活動は、サブ・カルチャーにまで進出している。代表的なものはサッカーであり、そしてロックである。
極右は新人募集計画をスタジアムの周辺で開始し、そしてスキンヘッズのバンドは強力に政治化する。
1983年10月26日、ドイツ民族には悪臭のするトルコのならず者との戦いが差し迫っている。それはサッカーのドイツナショナルチームがトルコのげす野郎とベルリンでヨーロッパ選手権のポイントを巡る対戦なのだ。・・・・この試合の背景には、とくにドイツ人の自国における職場をめぐる戦いがあるのだ・・・だから外人よ出て行け!・・・われわれが解放されるのは暴力のみである。われわれは始めなければならないのだ。敵チームはどこでもよい。野郎どもに対する戦いのためにベルリンに行くのだ
--ヘルタBSCベルリンのファンに対して呼びかけたビラ--
オレは路上に立ち/目を見開いて/トルコ人を待つ/そいつに一発かませて/そして俺の番が来たら/蹴りも入れてやろう/やつらはたかがトルコ人じゃねえか/ブタとかわらねえ
トルコ人、おまえら何をやったのか/トルコ人、なんでおまえらオレをそそのかす/
あいつらはいつもニンニクを食ってやがる/ブタみてえにくせえ/やつらはドイツに来て/ただで暮らしていやがる/やつらはドイツをクソまみれにしやがる/やつらは殺すしかねえ/それしかねえ
牢獄にぶちこめ/収容所に叩き込め/なんなら砂漠に放り出せ/とにかくやつらを追い出せ/やつらのガキをぶっ殺せ、やつらの女をやっちまえ/やつらトルコ人種を消せ
--OIバンド「最終勝利」の「外人野郎の歌」--
基本的にこのようなフレーズは日本のネットでもよく見る類のものなのだが(もちろん相手はトルコ人ではないのは周知のとおり)、これがある程度大手をふって世間に流通してしまうことはものすごいことではないかと思う。
※もちろん、これらの潮流に対するアンチも存在しており、むしろそちらが「世論」であることはいうまでもないのだが。
なお、この書籍の巻末には、ドイツにおけるネオナチ活動が、ユダヤ教をはじめとする異教のみならずキリスト教までをも敵対視するゲルマン異教(ナチスが信奉したもの)がバックボーンとして存在することを指摘している。このへんは非常に濃い話であり、単にベネディクト・アンダーソン式のモジュール理論のナショナリズムの理解では追いつくことができない。
さて、このエントリーを書く中で、書籍にあった極右/白人至上主義者のバンドのことをググってみたら、次のようなコメントもトラックバックも受け取らない孤高のブログをみつけました。
極右/ネオナチのOIバンドというのも日本にはいるそうで、また白人至上主義者のバンドの愛好者に対しても、以下のブログが痛烈に批判おり大変興味をひきました。
□DQN Oi THE BLOG
◇自分の肌の色・人種を理解してないでトンチンカン極まりないナチ・ギミックで武装したトンデモ極右バンド
◇メンバーのうちの一人がSkul headというバンドのロゴが入ったTシャツ着てました
◇黄色いアジア人は決してアーリア人にはなれない
なるほど、勉強になりましたyp!
以上もあわせつつ、薄くていかがわしい表紙にも関わらず少し知恵が増えました。
ネオナチと極右運動―ドイツからの報告
[ 19:07 ]
[ 書評 ]
◇日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 山本七平
陸軍専任嘱託として太平洋戦争のフィリピンに赴任した技術者が、その捕虜体験の中で書き綴った「虜人日記」を題材に、山本七平が語る日本論。
日本がなぜ「敗れたのか」をこの書は取り扱ったのではない、日本が「なぜ敗れるのか」という現在形のタイトルがつけられていることに注意するべきである。
本書では、この技術者が目のあたりにした戦場体験をバックグラウンドとして、日本の国家体制の政治と軍事に関して、次のような敗因が分析される。
一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた
二、物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった
三、日本の不合理性、米国の合理性
四、将兵の素質低下(精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
五、精神的に弱かった
六、日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
七、基礎科学の研究をしなかったこと
八、電波兵器の劣等(物理学貧弱)
九、克己心の欠如
十、反省力なき事
十一、個人として修養をしていないこと
十二、陸海軍の不協力
十三、一人よがりで同情心のないこと
十四、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついたこと
十五、バアーシー海峡の損害と戦意喪失
十六、思想的に徹底したものがなかったこと
十七、国民が戦いに厭きていた
十八、日本文化の確立なき為
十九、日本は人命を粗末にし、米国は大切にした
二十、日本文化に普遍性なき為
二十一、指導者に生物学的常識がなかったこと
この日本論と敗戦の原因の追究は、非常に独自の視点で、それは軍人としてではなく、あくまでも民間人として苛烈で壮絶なその現場にいた経験から導き出されている。
「日本文化の確立なき為」とか「日本文化に普遍性なき為」などの言葉は非常に重い。そして、それを肯定する山本七平の戦場体験が、その言葉をなぞりながら、さらに深く問題点を抉り出す。
山本七平の日本人に対する警告は根本的なところにまでたどり着いている。
この『虜人日記』のすべてを通じて、自由人の小松氏が、負の形で描き出したものは結局、自由という精神のない世界、従って「自由な談話(フリートーキング)」が皆無で、そのため、どうにもならなくなり、外部からの強力な打撃で呪縛の拘束が打ち破られて、そのとき、その瞬間だけその通常性の表出を可能にする世界だったわけである-「軍の計画はその意気を示すだけである」・・・これは軍人のそのものの性格ではない、「日本陸軍を貫いているある何かの力が軍人にこうした組織や行動をとらしめているのだ」。
前述のようにこの力が貫いていたものは、軍人だけではなく、全日本人であり、それは今も昔も変わりない。その力はどう作用しているのか、一言で言えば、各人の自由を拘束している、これは、その力なのである。
戦後は「自由がありすぎる」などという。ご冗談を!どこに自由と、それに基づく自由思考(フリー・シンキング)と、それを多人数に行う自由な談論(フリー・トーキング)があるのか、それがないことは、一言で言えば、「日本にはまだ自由がない」ということであり、日本軍を貫いていたあの力が、未だにわれわれを拘束しているということである。
石原莞爾は次のように書いている。
「日本国体をもって世界のあらゆる文明を綜合し、彼らにその憧憬せる絶対平和を与うるは、わが大日本の天業なり」
このような自省なき『思想』がいかに薄弱なものであり、アジアにどのような事態を招いたのであるか、それが未だ亡霊のようにうごめいている現在、われわれには「まだ自由がない」のではないか。
巻末に、附註者からの言葉がのあとがきとしてまとめられている。
兵士であるのに戦場にも着けず、海の中に消え、餓死し、住民に虐殺され、人肉を食らうところまで追い詰められ、また食われた人々。
彼らに「安らかに眠れ」とは言えない。
たとえ若く、鍛えた身体でも、衰弱すれば自ら便を出すことさえ不可能になる。そのような兵士の便を、陸軍少尉山本七平は、ルソンの戦場で掻き出した。その兵士は手を合わせて死んだそうである。
敗因の、原因と責任者の究明は、未だ終わっていない。しかし、それをしなければ、また地獄を見る日が来るのではないか。
このあとがきの日付は平成16年2月。
イラクの情勢に触れながら書き起こしたと付されている。
日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条



評価・・・読んで損なし!
陸軍専任嘱託として太平洋戦争のフィリピンに赴任した技術者が、その捕虜体験の中で書き綴った「虜人日記」を題材に、山本七平が語る日本論。
日本がなぜ「敗れたのか」をこの書は取り扱ったのではない、日本が「なぜ敗れるのか」という現在形のタイトルがつけられていることに注意するべきである。
本書では、この技術者が目のあたりにした戦場体験をバックグラウンドとして、日本の国家体制の政治と軍事に関して、次のような敗因が分析される。
一、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた
二、物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった
三、日本の不合理性、米国の合理性
四、将兵の素質低下(精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
五、精神的に弱かった
六、日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
七、基礎科学の研究をしなかったこと
八、電波兵器の劣等(物理学貧弱)
九、克己心の欠如
十、反省力なき事
十一、個人として修養をしていないこと
十二、陸海軍の不協力
十三、一人よがりで同情心のないこと
十四、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついたこと
十五、バアーシー海峡の損害と戦意喪失
十六、思想的に徹底したものがなかったこと
十七、国民が戦いに厭きていた
十八、日本文化の確立なき為
十九、日本は人命を粗末にし、米国は大切にした
二十、日本文化に普遍性なき為
二十一、指導者に生物学的常識がなかったこと
この日本論と敗戦の原因の追究は、非常に独自の視点で、それは軍人としてではなく、あくまでも民間人として苛烈で壮絶なその現場にいた経験から導き出されている。
「日本文化の確立なき為」とか「日本文化に普遍性なき為」などの言葉は非常に重い。そして、それを肯定する山本七平の戦場体験が、その言葉をなぞりながら、さらに深く問題点を抉り出す。
山本七平の日本人に対する警告は根本的なところにまでたどり着いている。
この『虜人日記』のすべてを通じて、自由人の小松氏が、負の形で描き出したものは結局、自由という精神のない世界、従って「自由な談話(フリートーキング)」が皆無で、そのため、どうにもならなくなり、外部からの強力な打撃で呪縛の拘束が打ち破られて、そのとき、その瞬間だけその通常性の表出を可能にする世界だったわけである-「軍の計画はその意気を示すだけである」・・・これは軍人のそのものの性格ではない、「日本陸軍を貫いているある何かの力が軍人にこうした組織や行動をとらしめているのだ」。
前述のようにこの力が貫いていたものは、軍人だけではなく、全日本人であり、それは今も昔も変わりない。その力はどう作用しているのか、一言で言えば、各人の自由を拘束している、これは、その力なのである。
戦後は「自由がありすぎる」などという。ご冗談を!どこに自由と、それに基づく自由思考(フリー・シンキング)と、それを多人数に行う自由な談論(フリー・トーキング)があるのか、それがないことは、一言で言えば、「日本にはまだ自由がない」ということであり、日本軍を貫いていたあの力が、未だにわれわれを拘束しているということである。
石原莞爾は次のように書いている。
「日本国体をもって世界のあらゆる文明を綜合し、彼らにその憧憬せる絶対平和を与うるは、わが大日本の天業なり」
このような自省なき『思想』がいかに薄弱なものであり、アジアにどのような事態を招いたのであるか、それが未だ亡霊のようにうごめいている現在、われわれには「まだ自由がない」のではないか。
巻末に、附註者からの言葉がのあとがきとしてまとめられている。
兵士であるのに戦場にも着けず、海の中に消え、餓死し、住民に虐殺され、人肉を食らうところまで追い詰められ、また食われた人々。
彼らに「安らかに眠れ」とは言えない。
たとえ若く、鍛えた身体でも、衰弱すれば自ら便を出すことさえ不可能になる。そのような兵士の便を、陸軍少尉山本七平は、ルソンの戦場で掻き出した。その兵士は手を合わせて死んだそうである。
敗因の、原因と責任者の究明は、未だ終わっていない。しかし、それをしなければ、また地獄を見る日が来るのではないか。
このあとがきの日付は平成16年2月。
イラクの情勢に触れながら書き起こしたと付されている。
日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条



評価・・・読んで損なし!
2006/02/04のBlog
[ 17:12 ]
[ 書評 ]
◇日露戦争に投資した男―ユダヤ人銀行家の日記 田端則重
日露戦争は、「第0次世界大戦」とまでいわれるほど、これまでの戦争スタイルとは違ったものであった。それは戦術や火器の進歩、さらには桁違いの死傷者数などはこれまでになかったものであったが、それとともに大きな違いがあったのは戦費である。
日本が日露戦争で使用した戦費総額は17億円。この当時の日本の国家予算は2億円程度であり、その不足分はすべて外債によってまかなわれている。
日本は日本は戦費の融資を同盟国イギリスに頼んだがこれは断られており、結局は金融市場にて調達するしかなかったのである。
この金融市場で、大半の債権の買い手は実はアメリカで、その買い付けを行ったのはこの本の主人公であるユダヤ人の金融商人であるジェイコブ・シフであった。
シフの投資スタイルから、当時のアメリカの金融市場の世界戦略の構図が見えてくるのだが、そのへんが今ひとつわかりにくい。もともとこの本の大半は、このシフの日露戦争後の日本滞在記が中心となるからだ。
シフ自体は、ユダヤ人であり、当時かなりの迫害をうけていたロシア国内のユダヤ人を間接的に助ける目的で日本に投資したとのエピソードもあるものの、果たしてそれが彼の目的かといえば疑問ではある。ただし、ロシアが戦後に外債の引き受けにシフの元に訪れたときにも、ロシアがユダヤ人の迫害をやめない限り投資は絶対にしないと啖呵をきり、さらにはロシアの大蔵大臣がシフを「シフがやったことを忘れもしないし、許しもしない。海外におけるもっとも危険な人物」と名指しにしたのは事実である。
アメリカからすれば、この投資はあくまでも戦後復興、特に満州のビジネス的な参入をにらんだものに違いないのは、その後の満鉄への執着とそれがかなうことがなくなったときに、一転して日本を完全な競争者として見始めたことは、その後の歴史が説明する。
本書の半分は、シフの日本滞在記の翻訳、いわば明治の日本の旅行記である。
実はこれがなかなか楽しいのであるが、これは読んでのお楽しみ。
日露戦争に投資した男―ユダヤ人銀行家の日記
日露戦争は、「第0次世界大戦」とまでいわれるほど、これまでの戦争スタイルとは違ったものであった。それは戦術や火器の進歩、さらには桁違いの死傷者数などはこれまでになかったものであったが、それとともに大きな違いがあったのは戦費である。
日本が日露戦争で使用した戦費総額は17億円。この当時の日本の国家予算は2億円程度であり、その不足分はすべて外債によってまかなわれている。
日本は日本は戦費の融資を同盟国イギリスに頼んだがこれは断られており、結局は金融市場にて調達するしかなかったのである。
この金融市場で、大半の債権の買い手は実はアメリカで、その買い付けを行ったのはこの本の主人公であるユダヤ人の金融商人であるジェイコブ・シフであった。
シフの投資スタイルから、当時のアメリカの金融市場の世界戦略の構図が見えてくるのだが、そのへんが今ひとつわかりにくい。もともとこの本の大半は、このシフの日露戦争後の日本滞在記が中心となるからだ。
シフ自体は、ユダヤ人であり、当時かなりの迫害をうけていたロシア国内のユダヤ人を間接的に助ける目的で日本に投資したとのエピソードもあるものの、果たしてそれが彼の目的かといえば疑問ではある。ただし、ロシアが戦後に外債の引き受けにシフの元に訪れたときにも、ロシアがユダヤ人の迫害をやめない限り投資は絶対にしないと啖呵をきり、さらにはロシアの大蔵大臣がシフを「シフがやったことを忘れもしないし、許しもしない。海外におけるもっとも危険な人物」と名指しにしたのは事実である。
アメリカからすれば、この投資はあくまでも戦後復興、特に満州のビジネス的な参入をにらんだものに違いないのは、その後の満鉄への執着とそれがかなうことがなくなったときに、一転して日本を完全な競争者として見始めたことは、その後の歴史が説明する。
本書の半分は、シフの日本滞在記の翻訳、いわば明治の日本の旅行記である。
実はこれがなかなか楽しいのであるが、これは読んでのお楽しみ。
日露戦争に投資した男―ユダヤ人銀行家の日記
[ 17:06 ]
[ 書評 ]
◇日本海軍の終戦工作―アジア太平洋戦争の再検証 纐纈厚
日中戦争から第二次世界大戦に至るまでの外交政治政策を常にリードしてきたのが陸軍で苦渋の決断で太平洋戦争に突入した、というこれまでの通説を検証した書。
政治的なパワーゲームの中で、海軍が積極的に戦争の泥沼を拡大させてしまったという面を取り上げつつ、東条内閣の打倒工作の実状や終戦工作についてひととおりの知識を与えてくれる。
自分が認識を改められたのは、実は東条英機は天皇の肝入りにて任命され、そしてそれゆえに更迭することが難しかったという事実のくだりだ。
東条に大命が下ったのは、東条が有能な軍事官僚であり、天皇への忠誠心がきわめて厚く、天皇自身が深い信頼感を抱いていたからだ。
事実、天皇は戦後になって、東条ほど「朕の意見を直ちに実行に移したものはいない」と語り、その東条を推した木戸も東条起用に踏み切った理由を、「東条は、お上への忠誠ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにはかわりなかった」と記していた
忠実なる東条に固執する天皇のこの姿勢に伺い知れるのは、逆に東条以外のこれまでの廷臣が必ずしも天皇には信頼されていなかった事実と、さらには太平洋戦争の開戦決断から戦争指揮までもを天皇自らが意思反映させたいという現われである。
なお、すでに東条失脚後の昭和20年のはじめには絶望的な戦局に敗戦必至の上奏が近衛文麿からなされるも、「国体の維持」という一点に拘り、終戦は数万人の死者を出した沖縄の地上戦を経て、2発原爆投下後まで持ち越される。
この書でクローズアップされるのは、もちろん海軍が政局の中でどのような動きをしていたのかということなのだが、そこでは、旧来の陸軍による政権把握と暴走というような従来までの解釈のみならず、結局は海軍がそれになすすべもなく追従していった姿とさらには天皇自身の各種の意思決定の痕跡がくっきりと浮かび上がる。
日本海軍の終戦工作―アジア太平洋戦争の再検証
日中戦争から第二次世界大戦に至るまでの外交政治政策を常にリードしてきたのが陸軍で苦渋の決断で太平洋戦争に突入した、というこれまでの通説を検証した書。
政治的なパワーゲームの中で、海軍が積極的に戦争の泥沼を拡大させてしまったという面を取り上げつつ、東条内閣の打倒工作の実状や終戦工作についてひととおりの知識を与えてくれる。
自分が認識を改められたのは、実は東条英機は天皇の肝入りにて任命され、そしてそれゆえに更迭することが難しかったという事実のくだりだ。
東条に大命が下ったのは、東条が有能な軍事官僚であり、天皇への忠誠心がきわめて厚く、天皇自身が深い信頼感を抱いていたからだ。
事実、天皇は戦後になって、東条ほど「朕の意見を直ちに実行に移したものはいない」と語り、その東条を推した木戸も東条起用に踏み切った理由を、「東条は、お上への忠誠ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにはかわりなかった」と記していた
忠実なる東条に固執する天皇のこの姿勢に伺い知れるのは、逆に東条以外のこれまでの廷臣が必ずしも天皇には信頼されていなかった事実と、さらには太平洋戦争の開戦決断から戦争指揮までもを天皇自らが意思反映させたいという現われである。
なお、すでに東条失脚後の昭和20年のはじめには絶望的な戦局に敗戦必至の上奏が近衛文麿からなされるも、「国体の維持」という一点に拘り、終戦は数万人の死者を出した沖縄の地上戦を経て、2発原爆投下後まで持ち越される。
この書でクローズアップされるのは、もちろん海軍が政局の中でどのような動きをしていたのかということなのだが、そこでは、旧来の陸軍による政権把握と暴走というような従来までの解釈のみならず、結局は海軍がそれになすすべもなく追従していった姿とさらには天皇自身の各種の意思決定の痕跡がくっきりと浮かび上がる。
日本海軍の終戦工作―アジア太平洋戦争の再検証
[ 03:54 ]
[ 書評 ]
◇「グローバリゼーションの中のアジア」ポイエーシス叢書
◇「ナショナリズムの生命力」アントニー・D・スミス
◇「日本海軍の終戦工作」纐纈厚
◇「日露戦争に投資した男」田端則重
◇「資本論も読む」宮沢章夫
◇「アマゾン・ドット・コムの光と影」横田増生
◇「植民地の問題」J・P・サルトル
◇「日本はなぜ敗れるのか」山本七平
◇「カルチュラル・スタデーズへの招待」本橋哲也
◇「ナチ・ドイツと言語」宮田光雄
◇「ネオ・ナチと極右運動」フランツィスカ・フィンツェーダー
◇「ファシズム」アンリ・ミシェル
◇「戦争の日本近現代史」加藤陽子
◇「オシムの言葉」木村元彦
◇「Iラブ英国フットボール」島田佳代子
◇「最低ですかーっ!」外山恒一
◇「声に出してよめないネット掲示板」荷宮和子
◇「野中広務 差別と権力」魚住昭
◇「ナポリのマラドーナ -イタリアにおける南とは何か-」北村 暁夫
◇「失踪日記」吾妻ひでお
正月休みが入ったので、少し読書量が増えた。
とはいっても、だらだらと新書を中心に読んでいるだけなのだが。
←この絵文字はGJ!な本につけています。
以降、印象に残ったものと記録しておくべきと思ったものについては、適当に書評は分散したエントリーにしておこうと思う。
◇「ナショナリズムの生命力」アントニー・D・スミス

◇「日本海軍の終戦工作」纐纈厚
◇「日露戦争に投資した男」田端則重
◇「資本論も読む」宮沢章夫
◇「アマゾン・ドット・コムの光と影」横田増生
◇「植民地の問題」J・P・サルトル
◇「日本はなぜ敗れるのか」山本七平

◇「カルチュラル・スタデーズへの招待」本橋哲也
◇「ナチ・ドイツと言語」宮田光雄
◇「ネオ・ナチと極右運動」フランツィスカ・フィンツェーダー
◇「ファシズム」アンリ・ミシェル
◇「戦争の日本近現代史」加藤陽子

◇「オシムの言葉」木村元彦

◇「Iラブ英国フットボール」島田佳代子
◇「最低ですかーっ!」外山恒一
◇「声に出してよめないネット掲示板」荷宮和子
◇「野中広務 差別と権力」魚住昭
◇「ナポリのマラドーナ -イタリアにおける南とは何か-」北村 暁夫
◇「失踪日記」吾妻ひでお

正月休みが入ったので、少し読書量が増えた。
とはいっても、だらだらと新書を中心に読んでいるだけなのだが。
←この絵文字はGJ!な本につけています。以降、印象に残ったものと記録しておくべきと思ったものについては、適当に書評は分散したエントリーにしておこうと思う。
2006/02/01のBlog
[ 23:55 ]
[ アジアチャンピオンズリーグ ]
[ 22:46 ]
[ なんとなく社会時評 ]
<小泉首相>靖国参拝問題で国内の慎重論を強くけん制
小泉首相は1日の参院予算委員会答弁で、自身の靖国神社参拝問題について「参拝するのがいけない。それに同調する日本人が大勢いる。これが私には理解できない」と述べ、国内の慎重論を強くけん制した。
はいはい、小泉という人が理解できないオレがやってきましたよ。
最初に小泉という人の政治手法について以前から気づいていることを書いておこうと思う。
この人の場合、これまでタブーとなっていたような仮想的を見つけて、それに挑む姿を大向こうの人々に見せることにより政治的な求心力をつけてきた人だ。
「守旧派」や「郵政民営化反対派」などというターゲットがこれまでの小泉という人の敵とされてきて、そしてそれと戦う姿を見せつけてきた。
この舞台回しは、あくまでも玄人ではなく素人に向けたものであるのがポイントであることは言うまでもない。強いものと戦う姿は、判官ひいきの日本人の好みに会う。
ちなみに、この手法は落ちたイヌとなって現在叩かれまくっている例の人とも共通する手法であった。
旧弊や体制に立ち向かう威勢のよさはわかりやすく、そしてわれわれはその姿に共感を得る。
が、だからといって、実際に行われていることが正しいとは限らないのは今回の例のとおりである。
小泉という人は前回の選挙であまりにもこの手法が大当たりしてしまって、今度は「敵」がいなくなった。
で、今度選んだのは、中国・韓国の靖国批判の世論である。
恐らく、小泉という人は、自らの政治的な求心力を高めるために、もっとファナティックな言動と行動を繰り返すはずだ。それが自らの持ち味だからだ。
強硬外交で国内政治の求心力を得るというのは、まあ世界にはよくある手法であり、そして何よりも危険な政治手法であるのだが。
ライブドア・耐震偽装、これらの問題を隠蔽して話題をそらしていくのには、「靖国問題」はまさしく格好のネタであろう。
そして絶妙のタイミングでガソリン撒いている麻生という人はこの手法を丸々受け継いで、そして後継首班の指名をとるために一生懸命なのであろう。
ナイスアシストですね。
〔参考〕させてはいけない麻生太郎
---------------------------------------------------------
さて、小泉という人をはじめとする靖国神社の参拝についての批判についてエキセントリックな反応をしている人には、基本的な特徴がいくつかある。
その中でも自分的には、人間の論理などというものは、その行動や言辞を律しきれるものではないのだなあーと思うことがひとつある。
それは、靖国神社が宗教であると認めて、それにコミットする自分自身の言説も宗教的なものと自認しておきながら、それが真っ当で合理的な意見である主張する人たちの振る舞いである。
先に自分の見解を記しておこう。
「靖国問題」に対する自分の基本的な意見は、次に要約される。
1.靖国神社は宗教施設であり、その参拝も信仰活動であるから、その信仰そのものには批判はないし、むしろ尊重したい。
2.が、それを行政がコミットして国家行事になるには、過去の靖国神社の成立の経緯や国民国家の徴兵のためのプロパガンダ装置として機能してきたことなどから問題が多すぎる
3.ただしA級戦犯の合祀うんぬんについては、必ずしも問題視しない。
そもそも彼らを有権者として選択してきて、その暴走を止めなかったのは日本人全体の責任である。(もちろん一部にそれに立ち向かってきた人も多くいるが)
裁判そのものも、問題が多い。
4.そしてなによりも重要なのは、靖国神社に行政がコミットすることは憲法20条に反する違法行為である。
5.そしてオレ自身、その捏造された宗教装置を中心とする信仰に全く興味を感じない。
----------------------------------------------------------------
第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
----------------------------------------------------------------
小学生でもわかるような違法行為については、すでに幾たびも司法から違法であるとの指摘を受けている。
行政の長である内閣総理大臣は、その司法の見解を省みず、参拝をするとなれば、これは問題なわけである・・・・というのは、当たり前の話である。
なんにしても、自分は、1.のとおり、それでも靖国神社になんらかの思いを寄せる人については否定するつもりもない。
ネットでガタガタ書き散らかしている匿名の連中の「ネット世論」はひとつとして信用することはないが、実際に本気でその宗教施設に対する信仰をもっている人がいるのであれば、これは「信仰」として認める必要がある。
だが、これと法律的な判断はこれまた別である。
また勝者の裁判が下したロクでもない判決とは全く別に、戦争責任やアジアの各国に対する植民地化や戦争行為や占領行為は、冷静に批判しつづけていかねばならないと思う。
これは別に自虐史観とかそういう問題ではない。国家運営の合理性の問題である。
(ただし、国家そのもの存在の是非については、自分は違った考え方をもっている)
日本がくだらない理由の戦争を回避する方法はいくつもあったはずである。身の丈に全く似合わない大国主義に陥り、植民地による経済的な繁栄をめざさなければ、それでよかっただけの話なのである。
日本人は何かにトリツカレタのである。この事情は例えば北の方にある全体主義国家やまわりにケンカを売ることで国家の身の丈を高くみせようとして世界から孤立してしまうような砂漠の国の現在となんら変わりがないものだ。
靖国神社は植民地利益を得るために軍国主義化した国民国家の徴兵装置であった。
徴兵装置には宗教が利用された。天皇のために国民はすべて命をささげなければならないというたかだか数十年の間に、ヨーロッパの国民国家のみようみまねでつくられた思想をもとに急遽宗教は捏造された。そして、その阿片に国民は己が正体を忘れた。
が、宗教とは本来そんなものなのだ。
だからそれに入れ込んだ人にオレは批判的になろうとも、それをすべて否定しきれるわけではない。
人が必要だと思うから宗教はあり、その必要がなければ存在しない。そういった性質のものなのだ。
そして、その思いは時として、リアルそのものなのである。
しかし、その思いに対して、国家機関がコミットするというなら、現在は話が全く別だ。
さらに、そもそも靖国神社の成立そのものが、国家機関を作動させるためのものであったならなおさらである。
これが自分の見解である。
ところが、宗教施設としての靖国神社を信仰の手段として考えている人の一部には、それが人間が生み出した「宗教」という時として危ういものだという自省がない、または意図的に言説の中に隠蔽している。
今、「隠蔽している」と書いたのだが、これがまたほとんど子供じみた隠れん坊の遊戯のようで、頭隠して尻隠さずのような稚拙なものばかりなのである。
そして、隣国からの批判に対して、様々な罵詈雑言を繰り返すのにも関わらず、この拙い宗教的なそぶりは、むしろ自慢しているようにすら見受けられる。
例えばこのブログがその典型的な主張をしている。
「マスコミよ「馬鹿の壁」を越えよ」 靖国問題
〔参考〕バカの壁は限りなく高い
正直、どんな思い込みで書いているのかわからないけれど、その論旨は支離滅裂と断定した韓国や中国の論調よりさらに数倍もなんだかなあーなのだが、どうやらこれが「ネット世論」ということらしい。
それならば、ネット世論というものも随分まだ電波がかっているものだと思わざるを得ない。
以下、過去に書いたエントリーの抜粋である。
ネット世論はどのような方向に行くのだろうか。
-----------------------------------------------
ナショナリズムの文化的な成立には「出版資本主義」が大きな役割を果たしてきたということだ。
「国民」という概念が「流行」し、そしてそれが幻想の範疇を超えて姿を現してきた原因のひとつとして、コミニュケーション技術の強力な拡張、つまり出版物とそれを世界に流通させる出版資本主義の出現が大きなバックボーンになっているとアンダーソンは説く。
(中略)
ここで明らかにするべきなのは、印刷・出版という技術の普及と資本主義化による広範囲な影響力の拡大が、世界に対して大きな影響を与えてきたということだ。
これにより、言論はこれまでになかったほどの集積が可能になり、そして同時に様々な歴史の動きをはやめていった。そして、この時代の変化に、様々な新しいヒーローが誕生していっただろうことは想像に難くない。
ヒーローにはたくさんの種類がある。書き手のヒーローもしかり、読み手側にも出版によって言論がたくましくなったヒーローが生まれ出る。
おそらくwebのテクノロジーは、15世紀の出版資本主義に値するだけの影響力を行使している。世界中の地域と言語を取り結び、そしてグローバルなコミュニケーションを可能とする中で、様々な価値の変動や知的なパラダイムの変化を急激にもたらすはずである。
そこでは、誰でも情報を世界中に向けて、簡易で安価に発信することができる。
きっと言論は、出版ではなくwebを舞台として今後は拡張されていくだろう。ここでは、言論の読み手と書き手が近接して、時には交錯しつつ、新しい文化領域を形成する。このへんについての見解は、このブログを読んでいるような人であれば、特に問題なく受け取れるであろう。ネットで今、高々と「言論」を振りかざす人々の主役は、ほとんど従来の知的体系からはありえなかったような人々である。
そのような人々の言論が多大な影響力をもつこともある。
日本語フォントで読める言論には、人種・民族差別や誹謗中傷が床屋の政治談議なみのレベルで展開され、そしてそれがなぜか支持されつつある。
(中略)
今、webの世界は栄華の反面で混乱していっており、それが怪しげなヒーローを生み出す悲喜劇の舞台となっているということだけが伝えたいことだけだ。
得体の知れない哲学と思想を振りかざす人々の中を横断しつつ、信じられるものを選択する知恵が必要な困難な時代にいることを私たちは確認しておかねばならないだろう。
-----------------------------------------------------
私たちは、飛躍的にコミュニケーションの拡大がなされたwebの世界の中で、「ネット世論」の真贋を判断する冷徹な能力と読みの技術がいっそう必要になるのである。はだしのゲンのとうちゃんのように、例え「売国奴」といわれようと、たくましく生きる力も必要だ。もしかしたら新しく姿を変えて、困難な時代がやってくるかも知れないから。
小泉首相は1日の参院予算委員会答弁で、自身の靖国神社参拝問題について「参拝するのがいけない。それに同調する日本人が大勢いる。これが私には理解できない」と述べ、国内の慎重論を強くけん制した。
はいはい、小泉という人が理解できないオレがやってきましたよ。
最初に小泉という人の政治手法について以前から気づいていることを書いておこうと思う。
この人の場合、これまでタブーとなっていたような仮想的を見つけて、それに挑む姿を大向こうの人々に見せることにより政治的な求心力をつけてきた人だ。
「守旧派」や「郵政民営化反対派」などというターゲットがこれまでの小泉という人の敵とされてきて、そしてそれと戦う姿を見せつけてきた。
この舞台回しは、あくまでも玄人ではなく素人に向けたものであるのがポイントであることは言うまでもない。強いものと戦う姿は、判官ひいきの日本人の好みに会う。
ちなみに、この手法は落ちたイヌとなって現在叩かれまくっている例の人とも共通する手法であった。
旧弊や体制に立ち向かう威勢のよさはわかりやすく、そしてわれわれはその姿に共感を得る。
が、だからといって、実際に行われていることが正しいとは限らないのは今回の例のとおりである。
小泉という人は前回の選挙であまりにもこの手法が大当たりしてしまって、今度は「敵」がいなくなった。
で、今度選んだのは、中国・韓国の靖国批判の世論である。
恐らく、小泉という人は、自らの政治的な求心力を高めるために、もっとファナティックな言動と行動を繰り返すはずだ。それが自らの持ち味だからだ。
強硬外交で国内政治の求心力を得るというのは、まあ世界にはよくある手法であり、そして何よりも危険な政治手法であるのだが。
ライブドア・耐震偽装、これらの問題を隠蔽して話題をそらしていくのには、「靖国問題」はまさしく格好のネタであろう。
そして絶妙のタイミングでガソリン撒いている麻生という人はこの手法を丸々受け継いで、そして後継首班の指名をとるために一生懸命なのであろう。
ナイスアシストですね。
〔参考〕させてはいけない麻生太郎
---------------------------------------------------------
さて、小泉という人をはじめとする靖国神社の参拝についての批判についてエキセントリックな反応をしている人には、基本的な特徴がいくつかある。
その中でも自分的には、人間の論理などというものは、その行動や言辞を律しきれるものではないのだなあーと思うことがひとつある。
それは、靖国神社が宗教であると認めて、それにコミットする自分自身の言説も宗教的なものと自認しておきながら、それが真っ当で合理的な意見である主張する人たちの振る舞いである。
先に自分の見解を記しておこう。
「靖国問題」に対する自分の基本的な意見は、次に要約される。
1.靖国神社は宗教施設であり、その参拝も信仰活動であるから、その信仰そのものには批判はないし、むしろ尊重したい。
2.が、それを行政がコミットして国家行事になるには、過去の靖国神社の成立の経緯や国民国家の徴兵のためのプロパガンダ装置として機能してきたことなどから問題が多すぎる
3.ただしA級戦犯の合祀うんぬんについては、必ずしも問題視しない。
そもそも彼らを有権者として選択してきて、その暴走を止めなかったのは日本人全体の責任である。(もちろん一部にそれに立ち向かってきた人も多くいるが)
裁判そのものも、問題が多い。
4.そしてなによりも重要なのは、靖国神社に行政がコミットすることは憲法20条に反する違法行為である。
5.そしてオレ自身、その捏造された宗教装置を中心とする信仰に全く興味を感じない。
----------------------------------------------------------------
第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
----------------------------------------------------------------
小学生でもわかるような違法行為については、すでに幾たびも司法から違法であるとの指摘を受けている。
行政の長である内閣総理大臣は、その司法の見解を省みず、参拝をするとなれば、これは問題なわけである・・・・というのは、当たり前の話である。
なんにしても、自分は、1.のとおり、それでも靖国神社になんらかの思いを寄せる人については否定するつもりもない。
ネットでガタガタ書き散らかしている匿名の連中の「ネット世論」はひとつとして信用することはないが、実際に本気でその宗教施設に対する信仰をもっている人がいるのであれば、これは「信仰」として認める必要がある。
だが、これと法律的な判断はこれまた別である。
また勝者の裁判が下したロクでもない判決とは全く別に、戦争責任やアジアの各国に対する植民地化や戦争行為や占領行為は、冷静に批判しつづけていかねばならないと思う。
これは別に自虐史観とかそういう問題ではない。国家運営の合理性の問題である。
(ただし、国家そのもの存在の是非については、自分は違った考え方をもっている)
日本がくだらない理由の戦争を回避する方法はいくつもあったはずである。身の丈に全く似合わない大国主義に陥り、植民地による経済的な繁栄をめざさなければ、それでよかっただけの話なのである。
日本人は何かにトリツカレタのである。この事情は例えば北の方にある全体主義国家やまわりにケンカを売ることで国家の身の丈を高くみせようとして世界から孤立してしまうような砂漠の国の現在となんら変わりがないものだ。
靖国神社は植民地利益を得るために軍国主義化した国民国家の徴兵装置であった。
徴兵装置には宗教が利用された。天皇のために国民はすべて命をささげなければならないというたかだか数十年の間に、ヨーロッパの国民国家のみようみまねでつくられた思想をもとに急遽宗教は捏造された。そして、その阿片に国民は己が正体を忘れた。
が、宗教とは本来そんなものなのだ。
だからそれに入れ込んだ人にオレは批判的になろうとも、それをすべて否定しきれるわけではない。
人が必要だと思うから宗教はあり、その必要がなければ存在しない。そういった性質のものなのだ。
そして、その思いは時として、リアルそのものなのである。
しかし、その思いに対して、国家機関がコミットするというなら、現在は話が全く別だ。
さらに、そもそも靖国神社の成立そのものが、国家機関を作動させるためのものであったならなおさらである。
これが自分の見解である。
ところが、宗教施設としての靖国神社を信仰の手段として考えている人の一部には、それが人間が生み出した「宗教」という時として危ういものだという自省がない、または意図的に言説の中に隠蔽している。
今、「隠蔽している」と書いたのだが、これがまたほとんど子供じみた隠れん坊の遊戯のようで、頭隠して尻隠さずのような稚拙なものばかりなのである。
そして、隣国からの批判に対して、様々な罵詈雑言を繰り返すのにも関わらず、この拙い宗教的なそぶりは、むしろ自慢しているようにすら見受けられる。
例えばこのブログがその典型的な主張をしている。
「マスコミよ「馬鹿の壁」を越えよ」 靖国問題
〔参考〕バカの壁は限りなく高い
正直、どんな思い込みで書いているのかわからないけれど、その論旨は支離滅裂と断定した韓国や中国の論調よりさらに数倍もなんだかなあーなのだが、どうやらこれが「ネット世論」ということらしい。
それならば、ネット世論というものも随分まだ電波がかっているものだと思わざるを得ない。
以下、過去に書いたエントリーの抜粋である。
ネット世論はどのような方向に行くのだろうか。
-----------------------------------------------
ナショナリズムの文化的な成立には「出版資本主義」が大きな役割を果たしてきたということだ。
「国民」という概念が「流行」し、そしてそれが幻想の範疇を超えて姿を現してきた原因のひとつとして、コミニュケーション技術の強力な拡張、つまり出版物とそれを世界に流通させる出版資本主義の出現が大きなバックボーンになっているとアンダーソンは説く。
(中略)
ここで明らかにするべきなのは、印刷・出版という技術の普及と資本主義化による広範囲な影響力の拡大が、世界に対して大きな影響を与えてきたということだ。
これにより、言論はこれまでになかったほどの集積が可能になり、そして同時に様々な歴史の動きをはやめていった。そして、この時代の変化に、様々な新しいヒーローが誕生していっただろうことは想像に難くない。
ヒーローにはたくさんの種類がある。書き手のヒーローもしかり、読み手側にも出版によって言論がたくましくなったヒーローが生まれ出る。
おそらくwebのテクノロジーは、15世紀の出版資本主義に値するだけの影響力を行使している。世界中の地域と言語を取り結び、そしてグローバルなコミュニケーションを可能とする中で、様々な価値の変動や知的なパラダイムの変化を急激にもたらすはずである。
そこでは、誰でも情報を世界中に向けて、簡易で安価に発信することができる。
きっと言論は、出版ではなくwebを舞台として今後は拡張されていくだろう。ここでは、言論の読み手と書き手が近接して、時には交錯しつつ、新しい文化領域を形成する。このへんについての見解は、このブログを読んでいるような人であれば、特に問題なく受け取れるであろう。ネットで今、高々と「言論」を振りかざす人々の主役は、ほとんど従来の知的体系からはありえなかったような人々である。
そのような人々の言論が多大な影響力をもつこともある。
日本語フォントで読める言論には、人種・民族差別や誹謗中傷が床屋の政治談議なみのレベルで展開され、そしてそれがなぜか支持されつつある。
(中略)
今、webの世界は栄華の反面で混乱していっており、それが怪しげなヒーローを生み出す悲喜劇の舞台となっているということだけが伝えたいことだけだ。
得体の知れない哲学と思想を振りかざす人々の中を横断しつつ、信じられるものを選択する知恵が必要な困難な時代にいることを私たちは確認しておかねばならないだろう。
-----------------------------------------------------
私たちは、飛躍的にコミュニケーションの拡大がなされたwebの世界の中で、「ネット世論」の真贋を判断する冷徹な能力と読みの技術がいっそう必要になるのである。はだしのゲンのとうちゃんのように、例え「売国奴」といわれようと、たくましく生きる力も必要だ。もしかしたら新しく姿を変えて、困難な時代がやってくるかも知れないから。
[ 20:24 ]
[ なんとなく社会時評 ]
以下、時事ブログ「グースの勿忘草」のエントリー「マスコミよ「馬鹿の壁」を越えよ」に対する突っ込みです。
※コメント欄が連続投稿制限があるためこちらでまとめています。
【注記】以前、とあるサッカー系の人から、「すみません、戦争の話になると飛ばして読んでます」となんとも正当なるブログの読み方を伝えられたことがありますが(笑)、今回もそんなような話です、すみません。
----------------------------------------------
◇元ブログのエントリー
>国際的な常識からはかなり外れた反応です。
とありますが、さっそくこういう反応があります。
・<靖国参拝問題>ゼーリック副長官も、日中関係の悪化に懸念
・靖国参拝「真剣な感情問題」=中韓との関係修復促す-米国務副長官
こうした米政府の反応、また靖国参拝について疑義を呈する欧米のマスコミの論調は「国際的な常識から外れた反応」ということですね?
では、自分も「国際的な常識から外れた反応」とやらを開陳してみることにしましょう。
まずは、これ。
(1)日本と韓国は戦争状態にはなかった。
(2)韓国併合されており日本国として戦争に参加した。
(3)靖国神社に参拝することと「戦争の正当化」とは無関係。
(4)韓国の歴史認識は学術的に問題外なので共有する必要はない。
(5)天皇は過去、靖国神社に参拝している。
(6)毎年八月十五日には全国戦没者慰霊祭が行われており、それには野党の党首や天皇陛下も参列し「A級、BC級戦犯を含んだ戦没者」を慰霊・追悼しているが、戦争の正当化というマスコミの論評はない。
(1)-a.ある意味戦争状態よりももっと力関係がはっきりした植民地と韓国はなっていましたが
(2)-b.たとえばヴィシー政権のフランスやその他の戦争や植民地化された国が、傀儡政権によって戦争に参加することは珍しくないことです。そのとき、傀儡政権とその国にいる人の意思とはかなり乖離があるのですが。
(3)靖国神社の歴史がどのように国家神道として成立し、それが何を目的としていいたか、まさか知らないわけではないですよね。
(4)「学術的に問題外」とさしたる検証をしないでばっさり切り捨てるのは、まさに「学術的に問題」かと思いますが。
(5)天皇は過去靖国神社に参拝していましたが、それでは何故参拝しなくなったのでしょうか?それは外国からの干渉が原因でしたか?
(6)全国戦没者慰霊祭が対象としている人と靖国神社に合祀されている人との違いをご存知ですか?またその歴史の違いをご存知ですか?
さらに突っ込み。
>インターネットはすでに常識となっているものです
「インターネットで常識」っていったいなんですか?(笑)
まさか匿名掲示板や匿名ブログの論調が「常識」とはいわないですよね。なにしろ「インターネット」ですから。かなり広いですよ、「インターネット」は。
>この場合、戦争を正当化する為には「国際法の裁き」を覆さなければなりません。その上で無罪判決を得て初めて、「正当化」が完了するわけです。靖国神社にはこういった権限も効力もありませんから、靖国神社への参拝が「戦争の正当化」であるという考え方はかなりトンデモということができるでしょう。
「国際法の裁きを覆す」というのがどのような具体的な行為をさしているのか教えてください。
さらに無罪判決を得てはじめて「戦争の正当化」が完結するとすれば、ナチス・ドイツは第一次世界大戦を正当化してないということになります。
またあたかも「戦争の正当化」を繕う主体が宗教法人である靖国神社という風にかかれていますが、今問題になっているのは宗教団体である靖国神社の第二次世界大戦にいたるまでの歴史の評価ではなく、それにコミットする行政の人のふるまいなのではないでしょうか。この人たちには様々な「権限」がありますし、実際に行った事実については「効力」も発生します。
>少なくとも法治国家では成り立ちません。
イスラエルのように戦争犯罪に対して、極めてエキセントリックかつ国際法からどのように解釈しても許されない振る舞いをするならともかく、ここでは自由な言論を通じて、さらに三権からなる国家主権に直接介入することもなく批判していることに対して、「法治国家なら成り立たない」という批判は、どうにもなりたたないエキセントリックなものかと思いますが。
>これは単に「宗教観の違い」というものを理解できない方、具体的には唯物主義の共産主義者とか、排他的に特定宗教を信仰している方が陥りやすい誤解と言えます。支持政党で言うと「共産党」とか「公明党」を支持している方に多い勘違いだと思います。
ずいぶんおおざっぱなくくりですね。
ひとつここで指摘しておくと、「共産党」にしろ「公明党」にしろその思想とか信仰の原理からすれば、「宗教観の違い」があるのは当たり前の話だと思いますが。
共産党や公明党の支持者で、靖国参拝に関する「宗教観の違い」を持たない人というのは現在では皆無に近いと思います。
なお、自分は「共産党」も「公明党」も盲目的に支持しているわけではありませんが、自明の前提としてこれらの人々の思想・宗教の自由は保障されるべきだと思いますよ、法治国家ですからね。
>靖国神社へ参拝する方がどのような意図を持っていても自由となります。これは首相であっても、天皇陛下でも基本的に変わりありません。
どなたがいかなる宗教活動をしていてもそれは自由です。それは当たり前のことですが、憲法20条はそれを制限しているのは小学生でも知っている事実だと思います。
> つまり、靖国神社を参拝を参拝する意味は、「戦争の正当化アピール」に限定されないということです。ですから、靖国参拝を「戦争の正当化アピール」と限定する解釈は、少なくとも日本国憲法の下では成立しないということになります。
ここに至る論旨の進め方がかなりよくわからないのですが。というか意図的なんですかね、これって?
>靖国神社を参拝を参拝する意味は、「戦争の正当化アピール」に限定されない
これはそのとおりだと思います。
そしておそらく政府要人による靖国参拝に疑義を呈している人のほとんども、全部が全部の参拝の意図が「戦争の正当化アピール」などとは思ってもいないでしょう。
しかし、問題は靖国神社の成立とその歴史であり、そこに司法による違憲判断が幾たびも表明されているのにも関わらず、行政が宗教施設に対して特別なふるまいをしているからです。
>韓国の抗議のどこが間違っているのかと言えば、靖国参拝を韓国の宗教観で勝手に「戦争正当化」と解釈し、その宗教的解釈を日本国に押し付けている点です。これは中国も同じ。
なんども「宗教観」と繰り返していらっしゃいますが、そうすると「宗教観」をもとに行政行為をしている政府があるということを認めているということでしょうか?
>中韓の抗議は議論の余地なく「主権侵害」であり、執拗に繰り返すのは「国際法に違反」することになります。
抗議というのは自由な言論活動の上になりたっています。これが「主権侵害」や「国際法違反」というならば、何をやっても批判を受けるのは「主権侵害」で「国際法違反」なのではないでしょうか?なんだか北の方にある全体主義国家の外交声明やテレビニュースに似てますね。
ちなみに本日ブッシュ大統領は一般教書演説にて、北朝鮮、イラン、シリア、ジンバブエなどを非民主主義国家と非難しましたが、これなんかものすごい「主権侵害」で「国際法違反」ですね。
>未だに「中国・韓国のプロパガンダ」に加担していると言う点です。
この靖国の存在やその取り扱いに関する批判については、別に中国・韓国は関係なく、戦後すぐに日本人の保守主義者からも出ているのはご承知のことでしょう。これは別に中国・韓国だけの問題ではありません。
>中国や韓国は歴史の浅い国
これは初めて聞く説ですね(笑)
せめて国民国家の成立が遅いと書くべきところでしょう。
>先進国日本のマスコミが言論の自由が保障されていない中国、韓国と同レベルの見識を垂れ流すのは恥ずかしいと思って下さい。
戦前軍国主義日本と同レベルの見識を垂れ流すことについても、自分にとっては恥ずかしいことと考えています。
最後にひとこと。
正直言って、自分にとって、中国・韓国の非難は二次的なもので、それは参考にするべきものにすぎないと思っています。
靖国神社をどのように考え、「公式参拝」をどのように評価するのか、それはあくまでもわれわれの問題です。
これは最後に付け加えておきます。
以上、コメント欄が投稿制限があるため、こちらでトラックバックにてコメントさせて頂きました。
では失礼しました。
◇参考
限りなく宗教的な『靖国参拝』の言説とネット世論
※コメント欄が連続投稿制限があるためこちらでまとめています。
【注記】以前、とあるサッカー系の人から、「すみません、戦争の話になると飛ばして読んでます」となんとも正当なるブログの読み方を伝えられたことがありますが(笑)、今回もそんなような話です、すみません。
----------------------------------------------
◇元ブログのエントリー
>国際的な常識からはかなり外れた反応です。
とありますが、さっそくこういう反応があります。
・<靖国参拝問題>ゼーリック副長官も、日中関係の悪化に懸念
・靖国参拝「真剣な感情問題」=中韓との関係修復促す-米国務副長官
こうした米政府の反応、また靖国参拝について疑義を呈する欧米のマスコミの論調は「国際的な常識から外れた反応」ということですね?
では、自分も「国際的な常識から外れた反応」とやらを開陳してみることにしましょう。
まずは、これ。
(1)日本と韓国は戦争状態にはなかった。
(2)韓国併合されており日本国として戦争に参加した。
(3)靖国神社に参拝することと「戦争の正当化」とは無関係。
(4)韓国の歴史認識は学術的に問題外なので共有する必要はない。
(5)天皇は過去、靖国神社に参拝している。
(6)毎年八月十五日には全国戦没者慰霊祭が行われており、それには野党の党首や天皇陛下も参列し「A級、BC級戦犯を含んだ戦没者」を慰霊・追悼しているが、戦争の正当化というマスコミの論評はない。
(1)-a.ある意味戦争状態よりももっと力関係がはっきりした植民地と韓国はなっていましたが
(2)-b.たとえばヴィシー政権のフランスやその他の戦争や植民地化された国が、傀儡政権によって戦争に参加することは珍しくないことです。そのとき、傀儡政権とその国にいる人の意思とはかなり乖離があるのですが。
(3)靖国神社の歴史がどのように国家神道として成立し、それが何を目的としていいたか、まさか知らないわけではないですよね。
(4)「学術的に問題外」とさしたる検証をしないでばっさり切り捨てるのは、まさに「学術的に問題」かと思いますが。
(5)天皇は過去靖国神社に参拝していましたが、それでは何故参拝しなくなったのでしょうか?それは外国からの干渉が原因でしたか?
(6)全国戦没者慰霊祭が対象としている人と靖国神社に合祀されている人との違いをご存知ですか?またその歴史の違いをご存知ですか?
さらに突っ込み。
>インターネットはすでに常識となっているものです
「インターネットで常識」っていったいなんですか?(笑)
まさか匿名掲示板や匿名ブログの論調が「常識」とはいわないですよね。なにしろ「インターネット」ですから。かなり広いですよ、「インターネット」は。
>この場合、戦争を正当化する為には「国際法の裁き」を覆さなければなりません。その上で無罪判決を得て初めて、「正当化」が完了するわけです。靖国神社にはこういった権限も効力もありませんから、靖国神社への参拝が「戦争の正当化」であるという考え方はかなりトンデモということができるでしょう。
「国際法の裁きを覆す」というのがどのような具体的な行為をさしているのか教えてください。
さらに無罪判決を得てはじめて「戦争の正当化」が完結するとすれば、ナチス・ドイツは第一次世界大戦を正当化してないということになります。
またあたかも「戦争の正当化」を繕う主体が宗教法人である靖国神社という風にかかれていますが、今問題になっているのは宗教団体である靖国神社の第二次世界大戦にいたるまでの歴史の評価ではなく、それにコミットする行政の人のふるまいなのではないでしょうか。この人たちには様々な「権限」がありますし、実際に行った事実については「効力」も発生します。
>少なくとも法治国家では成り立ちません。
イスラエルのように戦争犯罪に対して、極めてエキセントリックかつ国際法からどのように解釈しても許されない振る舞いをするならともかく、ここでは自由な言論を通じて、さらに三権からなる国家主権に直接介入することもなく批判していることに対して、「法治国家なら成り立たない」という批判は、どうにもなりたたないエキセントリックなものかと思いますが。
>これは単に「宗教観の違い」というものを理解できない方、具体的には唯物主義の共産主義者とか、排他的に特定宗教を信仰している方が陥りやすい誤解と言えます。支持政党で言うと「共産党」とか「公明党」を支持している方に多い勘違いだと思います。
ずいぶんおおざっぱなくくりですね。
ひとつここで指摘しておくと、「共産党」にしろ「公明党」にしろその思想とか信仰の原理からすれば、「宗教観の違い」があるのは当たり前の話だと思いますが。
共産党や公明党の支持者で、靖国参拝に関する「宗教観の違い」を持たない人というのは現在では皆無に近いと思います。
なお、自分は「共産党」も「公明党」も盲目的に支持しているわけではありませんが、自明の前提としてこれらの人々の思想・宗教の自由は保障されるべきだと思いますよ、法治国家ですからね。
>靖国神社へ参拝する方がどのような意図を持っていても自由となります。これは首相であっても、天皇陛下でも基本的に変わりありません。
どなたがいかなる宗教活動をしていてもそれは自由です。それは当たり前のことですが、憲法20条はそれを制限しているのは小学生でも知っている事実だと思います。
> つまり、靖国神社を参拝を参拝する意味は、「戦争の正当化アピール」に限定されないということです。ですから、靖国参拝を「戦争の正当化アピール」と限定する解釈は、少なくとも日本国憲法の下では成立しないということになります。
ここに至る論旨の進め方がかなりよくわからないのですが。というか意図的なんですかね、これって?
>靖国神社を参拝を参拝する意味は、「戦争の正当化アピール」に限定されない
これはそのとおりだと思います。
そしておそらく政府要人による靖国参拝に疑義を呈している人のほとんども、全部が全部の参拝の意図が「戦争の正当化アピール」などとは思ってもいないでしょう。
しかし、問題は靖国神社の成立とその歴史であり、そこに司法による違憲判断が幾たびも表明されているのにも関わらず、行政が宗教施設に対して特別なふるまいをしているからです。
>韓国の抗議のどこが間違っているのかと言えば、靖国参拝を韓国の宗教観で勝手に「戦争正当化」と解釈し、その宗教的解釈を日本国に押し付けている点です。これは中国も同じ。
なんども「宗教観」と繰り返していらっしゃいますが、そうすると「宗教観」をもとに行政行為をしている政府があるということを認めているということでしょうか?
>中韓の抗議は議論の余地なく「主権侵害」であり、執拗に繰り返すのは「国際法に違反」することになります。
抗議というのは自由な言論活動の上になりたっています。これが「主権侵害」や「国際法違反」というならば、何をやっても批判を受けるのは「主権侵害」で「国際法違反」なのではないでしょうか?なんだか北の方にある全体主義国家の外交声明やテレビニュースに似てますね。
ちなみに本日ブッシュ大統領は一般教書演説にて、北朝鮮、イラン、シリア、ジンバブエなどを非民主主義国家と非難しましたが、これなんかものすごい「主権侵害」で「国際法違反」ですね。
>未だに「中国・韓国のプロパガンダ」に加担していると言う点です。
この靖国の存在やその取り扱いに関する批判については、別に中国・韓国は関係なく、戦後すぐに日本人の保守主義者からも出ているのはご承知のことでしょう。これは別に中国・韓国だけの問題ではありません。
>中国や韓国は歴史の浅い国
これは初めて聞く説ですね(笑)
せめて国民国家の成立が遅いと書くべきところでしょう。
>先進国日本のマスコミが言論の自由が保障されていない中国、韓国と同レベルの見識を垂れ流すのは恥ずかしいと思って下さい。
戦前軍国主義日本と同レベルの見識を垂れ流すことについても、自分にとっては恥ずかしいことと考えています。
最後にひとこと。
正直言って、自分にとって、中国・韓国の非難は二次的なもので、それは参考にするべきものにすぎないと思っています。
靖国神社をどのように考え、「公式参拝」をどのように評価するのか、それはあくまでもわれわれの問題です。
これは最後に付け加えておきます。
以上、コメント欄が投稿制限があるため、こちらでトラックバックにてコメントさせて頂きました。
では失礼しました。
◇参考
限りなく宗教的な『靖国参拝』の言説とネット世論
2006/01/27のBlog
[ 05:04 ]
[ マスターのつぶやき ]
[ 04:04 ]
[ なんとなく社会時評 ]
◇米グーグル、中国向けにアクセス制限した検閲版サービス提供で合意
インターネット検索サービス大手の米グーグル<goog.o>は24日、中国向けに新サービスを導入すると発表した。
グーグルの中国語サイト( http://www.google.cn)で通常システムの検閲版を提供する。ユーザーが提供する電子メールやチャットルーム、
インターネット検索サービス大手の米グーグル<goog.o>は24日、中国向けに新サービスを導入すると発表した。
グーグルの中国語サイト( http://www.google.cn)で通常システムの検閲版を提供する。ユーザーが提供する電子メールやチャットルーム、