ニックネーム:   パスワード:
| MyDoblogトップ | Doblogポータル | Doblogガイド | ユーザ登録 | 使い方 | よくある質問 | ツールバー | サポート |
よみがえれ!バサラの精神
Blog
[ 総Blog数:41件 ] [ このMyDoblogをブックマークする ] [ RSS0.91   RSS1.0   RSS2.0 ] [ ATOM ]
前のページ   |   次のページ
2005/02/18のBlog
今の日本の消費者は、
3000~5000円で「非日常性」が手に人るとなれば飛びつくのだ。
 価格とマーケットの大きさの関係は、価格を縦軸、ボリュームを横軸にとると、ピラミ
ッド型になると言われていた。つまり、ボリュームは価格が高いと小さくなり、価格が安
くなるほど大きくなるというのが経営学の常識だった。ところが、ここ1~2年は、これ
まで高くて手が屈かなかったものを半分から3分の1の値段にすると、そこがボリューム
ゾーンになる、という不思議な現象が起こっている。ボリュームゾーーンが280円の牛耳
ではなく3000~5000円になれば、全体的な底上げ効果はかなりある。
 さらに不思議な現象は、1万円もする焼酎が売れていることだ。焼酎はモツ鍋とともに
バブル崩壊後の不況の代名詞だった。それが今や高級品の代名詞になり、ついにボリュー
ムで日本酒を抜いてしまった。焼酎を300種類もそろえたショットバーなんてものも登
場して人気を集めている。結局、日本人の酒の嗜好はジョニ黒、ヘネシーなどの洋酒から
日本酒の大吟醸、さらに赤ワインと遠路はるばる旅をして、最後に焼酎へと行き着いたわ
けだ。
 しかし、焼酎はエチルアルコールに一番近い飲み物である。愛好者は「クセがなくて二
目酔いもしないいなんてことを言っているが、単なる化学薬品(9吊o芒を水で希釈し
た程度の飲み物である。それに2万円も出す、という理不尽なことをしている人々は、ヘ
ネシーやジョニ黒のコクをありがたがっていた人だちと同類なのである。
 今、焼酎屋さんの戦略は非常にはっきりしている。日本人が大好きな「非日常性」と「物
語性」を打ち出すことである。つまり、値段を高くすると売れる、物語を作れば売れる、
というわけだ。「ゆっくりとした音楽を聴かせて黒糖を熟成した」「オーク樵で貯蔵」「熟
成した」といった能書きがつけば、高くても人気が出る。そういう「非日常性」や「物語
性」に日本人は極めて弱い。そこを焼酎屋さんはうまく突いている。スコットランドの谷
(グレン)よりも、九州や奄美大島のほうにロマンが移ってしまったのである。
・ムード次第で財布の紐が緩む日本人
 同じく→わけのわからない3つ目の特需のまた別の現象は、高級温泉旅館が大繁盛して
いることだ。私は4月の土曜日が妻の誕生日だったので、新婚旅行で泊まった伊豆の温泉
宿を予約しようとしたのだが、全く空室がなかった。「新婚旅行で泊まった思い出の宿な
ので何とか……」と頼み込んでも、あっさり断られてしまった。次は熱海の有名高級旅館
に電話してみたが、ここも満杯。ようやく3軒目に、料理が美昧しいと評判の奥湯河原の
温泉宿がI室だけ空いていた。「悪い部屋ですが……」と告げられたが、それでも次の間付きで広々としていた。いまどきの「悪い部屋」は、露天風呂が付いていない部屋を指す 214
らしい。お値段は1人I泊4万5000円、2人で9万円! この高級旅館が満杯という
のはすごいな、と驚いた次第だが、ここ2~3年は高い旅館から先に埋まっていくという
状況が続いている。それが最近はさらに加速している感が強い。
 要するに、日本人は/‐ソギンチャク性〃を持っ七いるのだ。世界に例がないほど貯蓄
率が高く、I人平均3500万円持ったまま死んでいく国民だから、老後の心配がなけれ
ば使う。景気が回復してきた、と新聞が書くと、自分たちも何か買おう、旅行に出かけよ
う、という気になる。わけのわからない特需はそういう特異現象であり、それがある意味
で日本の消費を支えている。
 同じことは、おそらく5年前もできたはずだ。その頃から給料が上がっている人はほと
んどいないからである。ただし、5年前はそういうムードがなかった。今はそういうムー
ドになった。それだけの話である。
 逆に言えば、そういうムードが壊れたら、また消費はしぼんでしまう、ということだ。
たとえば、このあと年金問題が紛糾して老後が心配になったら、国民の財布の紐は固くな
るに違いない。何となく周りの様子が緩んできたらフワッと問いて、指を1本突っ込まれ
るとすぐに閉じてしまうイソギンチャク。それが日本人(とくに高齢者)の特性なのである。
 以上3つの特需が株価と景気を支えている。それ自体は悪くないし、人生、楽しみたい
時は楽しんでおいたほうがいいから、現状に水を差すつもりはないが、3つの特需があだ
花のようなものであることは否定できない。
 日本は就業人口から年間60万人ずつ定年退職していく本格的な高齢化社会に突入してい
る。政府がその場しのぎのカンフル剤経済を続けているために公共部門の財政状況は非常
に悪い。年金も実態は総額800兆円の債務超過である。政府は企業に対して年金の(将
来)債務を(時価で)簿価計上しろ、と指導している。それは正しいのだが、では自分の
ほうもまた国民にいくらのカラ約束(年金債務)があるのか、法律に従って払うとすれば
どのくらいの債務があるのか、時価で計上してみろ、と国民は言わない。そうした計算を
実際にやった人の結果だけいただくと、何と800兆円ということになる。これはすでに
発行している国債や地方債の合計700兆円の外側の数字である。道理で掛け率を上げ、
支給年齢をヒげ、支払い額を減らすという年金法案を通すことに熱心なわけだ。国民もマ
スコミも、この問題では政府のやらんとしているまやかしを完全にはひっぱがせていない。
なぜなら、制度そのものがほとんどの国会議員でも理解不能なほど複雑だからである。未
納問題よりも深刻なのは、現在の年金制度はすでに破綻してしまっている、ということな
のだ。
2004/10/17のBlog
[ 18:40 ] [ バサラ大名 高 師直 ]
下の画像は「足利尊氏」といわれていましたが、
現在では 高 師直 とするのが一般的です。

天降るあら人神のしるしあれば
世に高き名は顕れにけり
 『風雅和歌集』師直よみ

守屋家本騎馬武者像の像主について

かの像主のもつ個々の特色は、すべて高師直を像主とすることで説明がつくこととなった。さらに高師直は尊氏の執事であるとともに、将軍の直轄軍団長たる地位にあり、足利将軍家との結びつきは、他のいかなる武将にもまして強かったことを考えあわせれば、この点からもかの像主が必要とする条件を高師直はみたしてくれる。以上のことから、私は守屋家本の騎馬武者像の像主は、高師直であったと結論付けたい。
下坂 守 『学叢』第四号 から 昭和57年3月31日発行発行 京都国立博物館

近代足利市史』第一巻通史編.足利市.昭和52年.p215以下 第五節 
足利氏の家臣団根本被官高氏

 足利氏の被官の中で、最も名をあらわすのは高(こう)氏である。高氏の家系は、天武天皇〔631~86.56歳〕より出た高階氏の分流

足利氏の被官の中で、最も名をあらわすのは高(こう)氏である。高氏の家系は、天武天皇〔631~86.56歳〕より出た高階氏の分流で、筑前守成佐の後裔という。『尊卑分脈』によれば、成佐が源頼義〔988~1075.88歳〕の妹を娶って河内守惟章をもうけ、その子惟頼は、実は源義家〔1041~1108.68歳〕の四男で三歳の時から養われて大高大夫と称し、その子高新五郎惟真は夜討のために足利で討たれて、堀内御霊宮にまつられたという。惟真の子惟範は、母は那須大夫範之の娘で、父の夜討の際に生まれたが、三歳から十三歳まで祖父の許で養育され、その子刑部丞惟長は、「為足利庄依義兼申遣」って、頼朝の口入で陸奥国信夫郡を給わったという。

清源寺本「高階系図」では、成佐の子を惟孝とし、その子大高大夫惟頼は、前九年の役の際、源頼義の副将軍となったと伝え、その子高新太郎惟貞は、母が源頼義の娘で、足利義国〔1091~1155.65歳〕の乳母となっていた関係から、義国の足利下向に従ったらしい。その子惟章は、父惟貞が足利荘で夜討のために討たれた時には母の胎内にあったが、母の兄那須大夫清文の許で養育され、長寛年中(1163~65)、足利太郎(俊綱か)改易のあとをうけて、八条院庁より足利荘下司職に補任され、その子惟長は、弟惟信と共に、寿永二年(1183)十一月(閏十月の誤り)に、備中国水嶋の戦いで平家のために討たれたという。

 両系図は共に、高氏の本姓を高階氏とするが、地方豪族がその家系を中央貴族のそれに付会することは間々見受けられるから、高氏の場合もそのまま信ずべきでないかもしれない。両系図では、人名に違いがみられるほか、源氏との関係、足利の地との関係についても、伝承に異同があって判然としないが、史科の上で確かめることはできない。ただ、『奥州後三年記』に、源義家の郎等として高七がみえ、『太平記』にも、元弘三年(1333)五月、尊氏〔1305~58.54歳〕が六波羅勢と戦った際、高氏の一族大高重成(だいこうしげなり)が、敵将陶山・河野を求めて、「八幡殿(源義家)ヨリ以来(コノカタ)、源氏代々ノ侍トシテ、流石(サスガ)ニ名ハ隠(カクレ)ナケレ共(ドモ)、時ニ取テ名ヲ知ラレネバ、然(シカル)ベキ敵ニ逢難(アイガタ)シ。是(コレ)ハ足利殿ノ御内(ミウチ)ニ大高二郎重成ト云者也(イウモノナリ)……」と高声に名乗ったことが記されているから、源義家のころから源氏と主従関係をもっていたことが推測される。足利の地との関係については、高氏が本来、足利の住人であったとも考えられるが、清源寺本「高階系図」の伝える如く、足利義国の下向に従って足利の地に来住したとも考えられ、源姓足利氏の足利地方への進出が、この地の豪族藤原姓足利氏との間に対立を生み、これに関連して、高惟貞(惟真)が夜討にあい足利で討たれたのであろう。

 清源寺本「高階系図」は、つづいて鎌倉前期における一族の活躍を伝えている。それによれば、惟長の子惟忠・惟政兄弟は、建久元年(1190)正月、出羽で大河兼任が反乱を起こした際、足利義兼に従って戦い、軍功をあげている。また、承久の乱には、先に述べたように、惟長の弟惟重(『尊卑分脈』は惟長の子とする)・義定父子と惟長の孫大平惟行が足利義氏に供奉して従軍し、惟重は宇治川で戦死、義定は父子の勲功賞として近江国辺曾村を賜わり、惟行も他由(池田か)貫持を討取ったといい、宝治元年(1247)六月の宝治合戦の際には惟重の子重氏が戦闘に参加したという。

 この一族は、『吾妻鏡』には、足利氏が椀飯を勤める際などに、献上される馬を牽く役として出てくる。すなわち、嘉禎三年(1237)四月、将軍頼経〔1218~56.39歳〕が義氏の大倉邸に来遊した時には大平太郎、仁治二年(1241)正月、義氏が椀飯を沙汰した際は高弥太郎、ついで建長二年(1250)・同三年・同六年の椀飯では大平太郎左衛門尉、康元元年(1256)正月、頼氏が勤仕した時には大平左衛門太郎がそれぞれ馬を牽いている。

 ところで、清源寺本系図の記載内容を信ずる限り、高氏は足利氏の被官でありながら幕府の御家人でもあったのではないかと推測されるふしがある。先にあげた、義定が承久の乱の勲功賞として近江国辺曾村を賜わっていること、また、この所領は、義定の弟重氏の譜によると、その後、義定の後家を経て重氏に譲られ、重氏は正嘉元年(1257)五月十九日に政所より安堵の下文を賜わっていること、義定の子に美作国野介の地頭となった刑部右衛門尉があること、などである。勲功賞・政所下文の下賜や地頭職の保持をもって直ちに御家人身分の表徴とはなし得ないかも知れないが、惟章の譜の、足利荘下司職補任の記事に統いて、「下司職は本補地頭なり」と記されていることや、高氏が義家以来、源氏代々の家人であった事実を考えあわせるとき、高氏が頼朝〔1147~99.53歳〕から特に御家人身分を与えられたと考えることは必ずしも無理な推論ではあるまい。

 なお、元弘三年(1333)四月二十七日、尊氏の挙兵に際して、軍勢催促状を受けた野介高太郎は、美作国野介の地頭となった刑部右衛門尉の子孫かも知れない。

 高氏は鎌倉時代を通じて多くの一族を分出したが、彼らは惣領を中心に一族のまとまりを保ちつつ、足利氏に奉公した。前述のように、執事の職には、重氏-師氏-師重と、惣領が代々就任し、一族の者たちも、奉行人や地頭代・郷司などとして、足利氏の家政にたずさわったのである。

 高氏の庶流には、別掲系図にみられるように、足次(現館林市域)・泉(現和泉町)・田中・窪田(現久保田町)・恒見(現常見町)など足利荘内の郷名を名乗っている者がある。大平の地名は荘内に二か所(現桐生市域と現佐野市域)あるほか、足利氏所領の三河国額田郡内にも存在するので、何れとも決め難いが、彦部は足利義氏より孫家氏に与えられて斯波氏の所領となる陸奥国斯波郡内の彦部郷に、大高は彦部郷内大高名に当てることができる(「彦部家譜」)。彼らはそれぞれの住郷ないし本拠地の地名を苗字としたものであろう。

 これに対して、嫡流の系統は高を称するが、その所領には、長禄三年(1459)十二月、師行の子孫師長が提出した目録によると、足利荘内では足次郷(現館林市域)・渋垂郷(現上・下渋垂町)・小曾祢郷(現小曾根町)・山形郷(現佐野市域)・岩井郷・荒萩郷(現瑞穂野町)があった。また、重氏・師氏父子は松本とも称しているので(清源寺本「高階系図」、鑁阿寺文書一〇五)、彼らの屋敷が松本郷(現小俣町)にあったと考えることができる。嫡流は三河国額田郡にも所領を持っていた。永仁四年(1296)三月一日、師氏は額田郡の比志賀郷を娘の稲荷女房に譲っており(総持寺文書)、文和四年(1355)八月二十三日、師泰の娘尼明阿(師冬の後家)は、父から譲られた重代相伝の所領同郡管生郷を同郡籠田の総持寺に寄進している(総持寺文書)。総持寺は師重の娘満目尼の開基になる尼寺であり(「諸系図」一三)、前記の師泰娘明阿は姪ひめいちを比丘尼(びくに)にして同寺へ入れ、父祖の菩提を弔わせている(総持寺文書)。また、師重の子輔阿闍梨貞円が同郡瀧村の古刹瀧山寺(ろうせんじ)の大勧進となっており(清源寺本「高階系図」)、嫡流はこの郡とも深い関係をもっていたようである。

 嫡流師氏の弟頼基は、足利氏所領奉行注文に、奉行人第一グループの頭人として「南右衛門入道」と記されている人物で、以後この系統は南を苗字とする。清源寺本系図によれば、頼基は文永二年(1265)に足利荘内丸木郷(現名草下町)を知行したといわれる。名草中町の真言宗金蔵院の寺域は南氏の屋敷址と伝えられ、もとは「堀ノ内」と称したという(金蔵院碑)。現在も土塁の一部と堀跡とみられる凹地が残されており、おそらく方一町(約一○九メートル)程度の規模の屋敷であったと思われる(写真)。

高氏一族の活躍

 元弘三年(1333)三月、幕府の命を受けた足利尊氏〔1305~58.54歳〕は大軍を率いて鎌倉を発し、京都に上ったが、この時、高(こう)氏の一族四三人が尊氏に従って西上したという(『太平記』)。建武新政がなると、高氏一族も恩賞に預かり、師直〔?~1351〕が三河権守、師泰〔?~1351〕が尾張権守、師久が豊前権守、大高重成が伊予権守になるなど、それぞれ官途を得、所領をも賜わったようである。

 新政の下では、尊氏は警戒されて、中枢の地位にはつけなかったが、代わりに師直が上杉憲房〔?~1336〕、疋田妙玄とともに雑訴決断所の職員となって足利氏勢力を代表する立場にあった。

 師直は、父師重隠退の後をうけて尊氏の執事となったらしく(「武家年代記」)、建武二年〔1335〕五月七日、尊氏の意をうけ、松尾社祢宜相世への寄付地の打渡しを豊前国門司関(尊氏の元弘新恩地の一つ)政所に命じている(東文書)。

 建武二年七月、北条時行〔?~1353〕が信濃で挙兵し鎌倉を侵攻した。これを迎え撃った直義〔1306~52.47歳〕は敗れて三河に走ったが、この時、南宗継の兄弟宗章は武蔵の土沢で討死したという(清源寺本「高階系図」)。直義の敗報に接した尊氏は、八月初め、兵を率いて東下し、鎌倉を回復するが、高一族も尊氏に従って関東に下り、同月十四日、駿河国府の戦いで師泰・師久・大高重成が分取りの高名(こうみょう)をあげ、十九日の相模辻堂・片瀬原の合戦では重成が負傷している(康永四年山門申状裏書)。鎌倉に入った尊氏・直義兄弟はそのまま鎌倉に留まり、関東の経営をすすめるが、この間、師泰は侍所の頭人として将士の統率と鎌倉警固の任にあたっている(三浦文書天野文書)。

 同年十一月、尊氏が建武政府に反旗をひるがえすと、朝廷では新田義貞〔1301~38.38歳〕を主将とする討伐軍を東下させた。尊氏は師泰を派遣してこれを三河矢矧(やはぎ)に防がせたが、師泰は敗れて退き、救援の直義軍も駿可の手越河原で敗れた。十二月、尊氏は鎌倉を出て箱根に向かい、ここで義貞軍を撃破し、直義らと合流して敗走する義貞軍を追って西上した。師直は途中、山徒のたて籠る近江伊岐代城を攻め落としている(『梅松論』)。足利軍は翌建武三年(1336)正月の京都争奪戦に敗れて、一旦九州に走り、再挙東上・入京するが、高一族は常に尊氏・直義の身辺で活躍し、その後もしばしば戦功をあげている。

 建武三年(1336)十一月、尊氏は幕府を再開し行政機構を整えたが、師直は尊氏の執事として尊氏管轄下の諸機関を統轄する一方、直義の管掌する引付方の頭人の一人として所領訴訟の審理に従事し、師泰も侍所の頭人に任ぜられて、尊氏の下で全国の守護や武士達の統率にあたった。そのうえ、師直・師泰らは幕府直属の軍勢の長として各地に発向し、南朝軍を撃破して、戦局を大きく変えるほどの活動をすることが多かったから、高一族の幕府内部における勢力はおのずから増大することになった。このころ、師直は三河権守から武蔵守に転じ、師泰も尾張権守から越後守に転じている。

 建武三年〔1336〕十月、新田義貞が越前に走り金ガ崎城に拠ると、師泰は越前守護斯波高経〔1305~67.63歳〕の救援に赴き、翌建武四年〔1336〕三月には金ガ崎城を陥れて尊良親王および義貞の子義顕を自殺させた。同年、陸奥の北畠顕家〔1318~38.21歳〕が再度西上した時、武蔵守護として東国にあった師直の弟重茂は上杉憲顕らと顕家軍を利根川に防いで敗れ、一旦は逃れたが、翌暦応元年(1338)正月、武蔵の軍勢を率い、京都に向かう顕家を追って東海道を西上した(別府文書)。途中、三河で同国守護の従兄弟師兼や吉良満義が加わり、京都から軍勢を率いて馳せ下ってきた従兄弟の師冬〔?~1351〕と美濃青野原で顕家軍を狭撃したが再び敗れた。そこで師泰が細川頼春〔1304?~52.49歳?〕・佐々木氏頼〔1326~70.45歳〕・同道誉〔1296~1373.78歳〕らの諸将とともに急ぎ美濃に下ったが、二月、長途の軍旅に疲れた顕家の軍は師泰らとの決戦を避け、進路を転じて伊勢に入り、これを追う師泰らの軍と小規模な合戦をしつつ奈良に出て、一挙に京都を突こうとした。これに対して、師直は師冬らと大軍を率いて出京し、奈良般若坂で顕家軍を大いに撃破し、凱旋した。その後、顕家軍は勢力をもり返し、三月には天王寺で河内・和泉守護細川顕氏〔?~1352〕を破り、その一隊が男山に進出したので、師直は一族をあげて再度出撃し、男山・天王寺・堺などに戦い、五月、ついに顕家を和泉石津に倒した。尊氏の母上杉清子〔?~1342〕はこの合戦の模様を関東の一族に報じているが、その消息に、「ほそかハのひやうふのせう(細川兵部少輔)、むさしのかみ(武蔵守)かう(高)名とこそ申候へ、れいのくんせひ(軍勢)に(逃)け候けるが、この二人してかやうに候とこそ申候へ」とあり、師直が細川顕氏と並んで抜群の戦功をあげたことを述べている(上杉家文書)。 なお、『風雅和歌集』に、師直がこの戦いの後住吉社に詣でて詠んだ歌が収められている。

 天降るあら人神のしるしあれば
 世に高き名は顕れにけり

 この一戦によって高一族の名が世に高められたとする師直の自負が窺われよう。

 この戦勝は高(こう)氏の評価を一層高め、師泰が尾張、師秋が伊勢、大高重成が若狭の守護に任ぜられて、一族の守護国は従来の三河・武蔵・上総の三か国から六か国にふえ、重茂も暦応三年(1340)には引付頭人の一人となって、一族の幕府内における勢威は増大した。そして、幕政を主宰する直義に対して、師直を中心とする党派が形成され、やがて両派の間に対立がみられるようになった。


高氏一族の没落

 幕府の内紛は逼塞していた南朝側に再起の機会を与えた。貞和三年(1347)九月、楠木正行〔?~1348〕が挙兵し、直義派の部将で河内・和泉守護の細川顕氏および救援に赴いた山名時氏〔1303~71.69歳〕の軍を撃破した。そこで師直は、細川顕氏に代わって河内・和泉守護となった弟師泰とともに発向し、翌貞和四年〔1348〕正月四条畷に正行と戦ってこれを倒し、さらに進んで吉野の行宮を攻略した。

 直義方部将敗退のあとをうけた師直の勝利は幕府内における師直の権力をいちじるしく強め、直義との抗争がいちだんと激しくなっていった。この争いはさらに尊氏・直義の武力抗争に発展し、幕府内の分裂が深刻化した。これを観応の擾乱と呼んでいる。

 土佐守
 ┌師秋
 │ 三戸七郎
 ┌─師氏─┬師行─┼師澄──師親
 │ │ │播磨守
 │ │ └師冬
 │ │ 武蔵守 武蔵五郎
 │ │ ┌─師直──師夏
 │ │ │ 越後守 左近大夫将監
 重氏┤ ├師重─┼─師泰──師世
 │ │ │ 豊前守 豊前五郎
 │ │ └─師久──師景
 │ │ 刑部大夫 (高南遠江兵庫助)
 │ ├師春──師兼───宗久
 │ │ 備前守 ┌ 師兼養子
 │ └師信──師幸 │
 │ │
 │南 遠江守 │
 └頼基──惟宗──宗継──┘

 □は観応二年二月二十六日討死の者
 ※赤字に替えた。


 観応二年(1351)になると尊氏は直義に講和を申し入れた。師直・師泰を出家させることで和議が成立し、二月、播磨に逃れていた尊氏は師直兄弟を伴って帰京することになった。ところが、高一族が摂津の武庫川付近にさしかかった時、さきに師直によって殺された上杉重能〔?~1349〕の養子能憲〔1333~78.46歳〕の軍勢が待ち伏せて襲い、高一族および家人数十人を殺した。『園太暦』はこの時討死した高一族として、師直武蔵守入道・師泰越後守入道・師兼高刑部・師夏武蔵五郎・師世越後大夫将監・高備前・豊前五郎・高南遠江兵庫助の八名を記している。この一族の関係を清源寺本「高階系図」によって示すと上図の如くである。

 今日、菅田町の光得寺境内に鎌倉時代から南北朝時代ごろのものと推定される五輪塔が一九基並んでいる。これらの墓石は、もと樺崎八幡宮の境内にあったのを、明治の初め神仏分離の際に現在地に移したものという。この中に師直の墓があり、地輪に「前武州大守道常大禅定門」「観応二年辛卯二月廿六日」と刻まれている(写真)。

 高一族は直義・師直の対立に際して全員が一致した行動をとったわけではなかった。高一族の本来の嫡流である師秋父子は一族から離れて直義派に属し、観応二年〔1351〕七月の政変で、直義が京都を逃れて北国に走った時にも、父子三人が直義と行動をともにしている(『観応二年日次記』)。

 師直の没後高一族の惣領的地位についたのは誰であったか明らかではないが、師直の遺跡は子の師詮〔?~1353〕が相続したようである。師詮は丹後守護となったが(長福寺文書)、文和二年(1353)六月、楠木正儀・石塔頼房・山名時氏らの南朝軍が京都に進入した時、義詮の救援に向かい、西山で南軍と戦って敗れ、家人県(あがた)・阿保(あぼ)らとともに自殺した(『園太暦』)。師泰の遺跡は師幸の子師秀が継ぎ(清源寺本「高階系図」・総持寺文書)、河内守護となっている(妙心寺文書)。

 大高重成は、はじめは直義派に属していたが、師直の死後、尊氏・義詮側につき、観応三年〔1352〕五月、師直の弟重茂とともに雑務引付の頭人となった(『園太暦』)。重成は夢窓疎石〔1275~1351.77歳〕に帰依し、康永三年(1344)、直義と疎石の間でかわされた参禅の指針についての質疑応答をまとめた『夢中問答集』を刊行している。南宗継は終始尊氏と行動をともにし、観応二年十一月、尊氏が直義討伐のため東下した際これにしたがい、鎌倉に滞留した尊氏の下で執事のような役をつとめている。一族と分かれて直義にしたがった師秋父子も、直義が死ぬと、やがて帰参して鎌倉府に出仕した。師秋の子師有は、関東執事畠山国清〔?~1362〕が没落した康安元年(1361)から上杉憲顕〔1306~68.63歳〕が復帰して関東管領(執事)に就任する貞治二年(1363)まで、短期間ではあるが関東執事となっている。

 高一族は、このように、師直の死後も幕府の要職についたが、もはや師直時代のように威を内外にふるい幕政を左右するだけの力は持たなかった。そして、以後は、一族の中には、京都に出仕する者もあったが(『永享以来御番帳』)、多くは鎌倉にあって、関東公方の近習となっている(六波羅密寺文書)。




2004/09/01のBlog

写真はダダ
 「人間標本5・6/」
三面怪人 ダダ
[出身地]ダダ星
[身長]40メートル
[体重]7千トン

ダダイズム
Dadaism

第一次大戦渦中の1916年、チューリヒには合理主義を嫌悪する厭世的な気分が満ちていた。かの地でそのような気運に対応する反芸術運動を展開しようとしたルーマニアの詩人T・ツァラは、辞書に無作為にナイフを突き立てたところ、その刃先はフランス語では「木馬」を、スラブ系言語では「相槌」を意味する「ダダ」という一語を刺していたという。これ以降、ツァラがH・バルやJ・アルプらと創始した「ダダ」は明確な根拠を持たない、反芸術的な文芸運動として始まったが、F・ピカビア、K・シュヴィッタース、M・レイ(M・デュシャンを含める場合もある)らがその先鋭的な主張に刺激を受け、「アサンブラージュ」、「コラージュ」、「フォトモンタージュ」などの技法を駆使した造形作品を矢継ぎ早に発表した。なお、造形運動としてのダダの展開はほぼパリ一都市に限定され、この運動に参加した作家の大半は、20年代以降その理念や技法を「シュルレアリスム」へと継承していく。


知的体育会系フリーエージェントの実践記録

です
2004/08/21のBlog
渋谷 ライフアップ

僕らのお気に入りでいきつけです。
店長のえっちゃん
操体プラクティショナーりょうがゆく!」のりょうと飲む

痛飲!

ちなみに矢吹丈等身大人形
オレ 丸尾オーナー りょう 後ろは矢吹丈の人形

楽しかったぜー
きたる8月25日(水)は操体プラクティショナーりょうくんの29歳の誕生日のお祝い、
そして8月15日に会社を退職して、フリーエージェントになったキルゴアの未来へのマニフェストを宣言いたします。
皆様のブログ・メルマガでも告知をいただければと思います。
大物ゲストも来る可能性があります。
当然、ライフアップ丸尾オーナーもリキいれてくれてます。(^_^)V

開催日:2004-08-25 / 開催地域:東京都
/ 時間:20:00 - 22:00 / 場所:渋谷ライフアップ / 地図URL:
2004/08/14のBlog
「フィナンシャル ジャパン ONLINE」 より


な、なんと、岡本呻也導師が編集長になられています。
記者会見映像みてびっくり・・・・

岡村導師は、新日本人のカルヴァンヤン=フスにもたとえられる
私の心の師です。だから勝手に導師といっています。

小松原部長 「フィナンシャル ジャパン」ゼロ号が手に入りませんでしたので、
月曜日出席しますので、くださいね。お願いします。

いやしかし、行動力ありすぎます。やつぎばやに手を打ちますね。

本当にすごい。

木村さんが日向小次郎なら、石崎くらいにはなりたいな。joke!

それにしても内容は豪華ですね・・・。


木村剛がビジネス・投資情報月刊誌「フィナンシャル・ジャパン」を創刊!


◆第1特集◆ 日本経済 緊急浮上

経営トップの「意志」で組織は甦る

◇ 会社を活かすも殺すも社長の「やる気次第」です
修羅場をくぐって鍛えられたリーダーこそが会社を伸ばす
産業再生機構COO 富山和彦

◇ 五味廣文 vs.木村 剛 対談
銀行にほんとうに必要なのは資本でなく「競争」だ
新金融庁長官が語る金融界の新しい姿

◇ 三菱地所 丸ビル「建て替え」物語
誰も取り壊せなかった旗艦ビル、トップの決断はあまりにも重かった

◇ 「フジサンケイビジネスアイ」記者座談会
景気回復の牽引役「元気印企業」はココが違う

◇ 人気アナリストが語る 「企業を伸ばす経営者の条件」


◆第2特集◆ 資産運用ルネサンス

資産運用ルネサンス
◇ 「ファミリー・ウェルス・マネジメント」の新潮流
日本経済を支えている家族経営企業。その実態と課題に迫る

◇ 「最高水準の医療」まで手がけるプライベートバンク
税務、法務、不動産、医療、子弟教育、安全、お金持ちならPBにすべてお任せ

◇ 金持ち父さんたちのマネー・ライフ全解剖
一目瞭然。アメリカの富裕層はどう資産を運用し、何に悩み、何を望んでいるのか

◇ 「ひ孫の代まで」を見据えた資産運用を
三原淳雄とIFAがアドバイスする、富裕層が持つべき「真の資産」とは何か

◇ 「本物のプライバシー」とは何か?
「とにかく目立たないようにする、表札に他人の名前を掲示」。自分で自分を守るべし

◇ あなたの防犯対策は万全ですか?
薄れゆく日本の安全神話。「私だけ大丈夫」では通用しない


◆連載◆
Eye on Business
◇ 若者は、農業で鍛えよ! パソナが取り組む援農活動
◇ 現代おもちゃ進化論

コラム
◇ 「唯我独論」 二宮清純
◇ 「ミクロが変える経済」 財部誠一

The Essence of Precious

◇ 人生を彩る「くつろぎの逸品」
◇ 経営者の護身術 KFi
◇ 「フィナンシャル ジャパン120」景気指数発表
◇ FJ金融政策決定会合

岡本呻也さん 日本のカイシャいかがなものか

新潮45であの塩野七生さんが絶賛した編集者です。
塩野さん、だてじゃない見識眼です。(あたりまえか・・・)

松山市出身。1987年学校卒業後、プレジデント社というタイム社の子会社の出版社に入社。企業のPR雑誌を請け負う受託出版部門に配属され、バブル時代は、今は亡き山一証券の冊子の作成に携わる。この冊子はベンチャー企業の公開営業支援ツールで、20代の間に全国の200人を超えるタコ社長にインタビューし、すっかり経営耳年増になってしまう。6年間はこの部門で遊んでいたが、遊んでいたのがばれてしまって93年プレジデント編集部に異動させられる。

 「プレジデント」で4年間、おもしろおかしく雑誌編集をしていたが、97年に編集長が替わったことで、雑誌に見切りをつけて3カ月ほどイギリスに政治亡命。帰朝後は新雑誌企画準備室という名前だけの部署にひとり陣取って、プレジデント誌の凋落に心を痛めつつ遊び回る。

 99年10月、さすがに雑誌建て直しが課題になり、社内体制の一新を見届けた後、あっさり辞表を出してフリーの身に。「プレジデント」はその後も低空飛行を続け、01年2月に小学館に売り飛ばされた。

 退社後はしばらく遊ぶつもりだったのがネットベンチャーブームに興味を覚えていろいろ取材し、00年10月に『ネット起業! あのバカにやらせてみよう』(文藝春秋)を上梓。物書きとして歩み始める。

 仕事と平行してネットワーキングに力を入れており、いくつかの会の創設、運営に関わる。1990年から98年まで、勉強会ベスト&ブライテスト世話人。1999年から02年まで、メディア関係者限定の月例会「1の会」を友人と共同で運営。ほかに店頭上場企業ブロッコリーの非常勤監査役を務める。ちゃんと毎回取締役会と監査役会に出席するまじめな監査役。

岡本さんの仕事

政策ブリーフィングブック プロジェクト
(2001年度版:2000年3月~2001年3月)

立法府における政策論争と政策ビジョンの提起の欠如の主要因として、政党による所属国会議員等に対する「公共政策」教育の不十分さがあげられます。本プロジェクトはその現状を改善するために、国会議員等への優先順位の高い重要政策課題を解説した「政策課題本(テキスト)」の作成と配布を通じて国会での政策論争や議員の政策課題の理解と政策立案能力を高めます。2001年度版は、「政策提言2001:政策ブリーフィングブック」として全国会議員に配布、改訂版が朝日新聞社より刊行されました。




野中郁次郎先生の企業進化論はバイブルです。

P186ページ

「コンバット」のラストシーンでは皆燃え尽きてぼろぼろになって、戦友を肩に担いで引き揚げてゆく。するとそこに必ず、遅すぎた援軍が到着する。ここで分隊員は闘ったものだけが知る連帯感を噛み締め、ある種の悲哀と満足感を味わう。このような気分を仕事で味わえれば男の人生としては最高ではないだろうか。
しかし、燃え尽きるといっても年をとれば燃えることが難しくなる。若さは気の持ちようなんてウソだ。老眼になればモノは見にくくなるし、持続力も衰える。だから経営者はそうなる前に身を引かねばならない。これも良き伝統になっているので私も早く燃え尽きたいと思っている。

ホンダ 久米 元社長

P317

イノベーションをやろうとする場合は、何か自分にやりたい事があってね、そういう夢を実現することは良い事だと。だからそこには、truth, goodness, beauty 、強い思いとか志があって、何とかそれを実現したいんだ、形にしたいんだ、っていうそいいう生き様なんだね。イノベーションっていうのは、ただコンピュータをチャカチャカ叩いてね、そこから何か生まれるものじゃないんだよ。止むに止まれぬ強烈な思いがあって、ということなんですね
野中先生のお嬢さん

野中美峰さん コロンビア大学大学院 修士課程 創作(Creative Writing)専攻

「情報・信念・そして知」 P317~320

年末は家族で旅行するんです。おととしは薩摩、去年は長州にいった。

幕末から明治維新、あの時代に関心があるわけなんだな。あのあたりの日本人は
クリエイティブだった・・・というのは、司馬遼太郎の説だけどね。

その旅行でうちの娘と松下村塾とか回ると、「カッコイイ。幕末の志士。脱藩の志士。かっこいい。」っていうんだ

「みんな夢を持っている。やりたい事がある。そしてその大義のためにはいつでも命を懸ける。」と、だいたい20代から30代あたりで死んでいるからかっこいいと。
まずいんだよ、どうも、本当にかっこいいなんてそんなもんじゃないんだけども、。あぁそうか、そういえば俺60過ぎまで生きちゃって、かっこ悪いなぁと。

イノベーションの現場に入っていくとね、やっぱりかっこいいんですよ。夢があってね、
やりたいことがあってね、何が何でも命を懸けてでも、ってね、そういう人々の行き方なんですね。

そういう人達が「情報」を創造しているといっていいのか、「情報」というのは、フローで、受身でしょ。テレビひねれば勝手にやってくるんでね。、自分の主体的思いが何もなくても、勝手にやってきて勝手に去っていく。

それに対して「知識」というのは自分のものになっている情報だから、その根底にあるのは一人称の「belief 信念」なんだよね、「思い」!そういう思いから何ものかを実現していこうという、もっとactiveなものなんですよね。
P338

知のスパイラルをどこまで大きくするかを決めるのは、やっぱり個人の思いの高さだろうな。自己を超えて世界の知にしてゆき、世界の知の中からもう一度自分に帰ってくる。

知というものは、実に素晴らしいものじゃないか?そういう意味で、knowledgeというのは、「真・善・美」を無限に追求する姿勢というか、それもやっぱり思いの高さだ。

うちの娘が、幕末の脱藩の志士がかっこいいといった意味はね、志の大きさなんだよな。

すべてを懸けて、公なるもの、永遠の普遍の「知」を追求するわけだ。そういう意味ではな、諸君が会社にいっても、個人のためだけに生きるなんていう、つまらんことだけはやるな。
中略 幕末の脱藩の志士っていうのかな、なんかこう、世界のために俺は行きとるぞオレは、そのために恋人さえ犠牲にする、とかね。まぁ、そこまではいかないか。でも、そういう大きな志をもってknowledge creationに励んで欲しいというのが、私の思いだ。
私の思い

「人間を幸福にする日本というシステム」を創り上げる

「一利を興すは一害を除くにしかず。一利を生(ふ)やすは一事をへらすにしかず。」









1.Noblesse Oblige「高貴なる者の責務」
ニューモデルの育成
2.De Opresso Liber「抑圧からの開放」
「泥棒国家」Kleptocracy(クレプトクラシー)の壊滅

旧システム 旧制度の抑圧から解放する
今できる事
手形制度の実質的撲滅
応援したい事
連帯保証制度の撤廃
3.First to Fight & Go for Broke


50年後、この写真で野中先生のお嬢さんみたいな方に、「カッコイイ。ニューモデル、ニューモデルの志士。かっこいい。」「ニューモデルの人はみんな夢を持っている。やりたい事がある。そしてその大義のためにはいつでも命を懸ける。」と、いわれれば、十分意味ある人生ではないか。

かくあるべく行動する。


野中美峰さんの詩

The Dolls' Quarter
Miho Nonaka


It is strange how people mistake my hyacinth
For an imitation. The sound of rain orphans
My flower; its petals recurve like false lashes
In my grey room. "You will never be able to see

This star as I saw it. You don't understand:
It is like the heart of a heartless flower," says
Nadja quite removed from her growing insanity
I can only admire. Your neck smells of rain;

When the world is wet, I smell distant things
As if they were part of my body all this time.
The artist next door makes glass eyes that blink
At a marble's click, puts a lilac flame in each iris.



共和政時代)

 貴族に対抗して平民の権利を守ることを目的として設立された(前494年;聖山事件前494年、モンテサクロの聖山に立てこもり、戦争への参加を拒む平民たち。迫り来る外圧。そして、もはや、重装歩兵による密集戦という戦法抜きでは成立しなくなった、ローマ軍。こういう諸々の状況の中で、平民が貴族から勝ち取った公職が、護民官(trebuns plebis)という制度だった)。設立当初、法的な政務官職ではなかったが、選出母体の平民集会が、民会として承認にされるに従い、政務官職として認められる(前287年)。任期は、1年間で、定員は当初の2名から最終的には10人となる。年齢上の資格はないが、平民で貴族階級に属していないことが唯一の条件。権限としては、平時においてすべての政務官布告に対する拒否権(戦時においては例外)と、任期中は処刑されることはないという身体の不可侵権、平民集会及び元老院召集権を有していた。退任後には、元老院議員となれた(前4世紀)。毎年7月に平民集会で選挙を行い、12月10日に就任。

護民官権限(tribunicia potestas)
 「護民官としての権限」を意味する。帝政を始めたアウグストゥスは名門貴族であるユリウス一門に属するため、護民官就任ができなかったので、権限のみの付与を元老院に懇願し、それが認められた。これ以後の歴代皇帝は、即位時にこの権限を与えられ、1年ごとの更新(トラヤヌス帝時代以後は12月10日)をおこなった。
 権限としては、以下のようなものがある。
1.肉体の不可侵権
2.平民集会の召集権
3.あらゆる追訴からの免除
4.あらゆる行政上の措置に対する拒否権の保持、
5.政策立案の権利

なお、皇帝の権限と、一般の護民官の権限との相違は、後者が同僚制で任期が一年に対し、前者は1年ごとの更新であったが、事実上の終身で世襲制。そして、後者が首都ローマに限られるのに対し、前者はローマ帝国全域にわたって、職権を行使でき、かつ、後者の拒否権をも拒否できた。

貴族を官僚及び既成与党とすれば、現在日本でも十分活かせる
2004/08/10のBlog
僕の家主さんです
僕の住んでいるミレニアム成和です
お地蔵さんも守ってくれてます
屋上に都市のヒートアップ現象を防ぐため

ぶどう「巨峰」まで作ってるんですよ、家主さんは。
震災対策井戸をついてあり、25m下から汲み上げている井戸水が飲めるんです。

健康にいいですよ!井戸水のみ始めてから、風邪ひきません。
2004/08/09のBlog
支配者を支配せよ 選挙/選挙後より



アテネの市民身分の条件は積極的に政治に参加することだった。

「ここアテネでは、政治に無関心な市民は静かさを愛するものとは思われず、市民としての意味を持たない人間とされるのである。」

人類史上最も輝かしい概念の一つ「市民」の概念は、古代ギリシャで初めて誕生した。

政治は自分の生活を形づくる活動活動に参加する自由を意味している。

「市民」と名乗る権利を持つものには、問題の解決に参加する責任があった。
つまり、自分の立場を明確に示す責任だ。


初期アテネでは、傍観者でいたら特権的身分を失うとされていた


歴史家トゥキディデース『戦史』
「わたしたちの政体は,少数者による独占を排して多数者の公平を守ることを旨とするから,デモクラティア(民主政)と呼ばれる」

<古代ギリシアの身分と市民権>

貴族:家柄の良さ(「あの家は名門だ」「あの家からは有力者がたくさん出ている」などと人々に思われること)を誇る。 平民より豊かな場合が多い。
平民:家柄は普通。経済的に豊かになる人もいれば、貧しくなる人もいる。
奴隷:人間あつかいされず、お金で売り買いされる。労働を行なう。

市民権:国の政治に参加することのできる権利(参政権)
市民:市民権を持っている人(民主政においては貴族と平民。男性のみ。)

貴族政:貴族だけが市民権をもつ。
民主政:貴族と平民が平等に市民権をもつ。奴隷は市民権を持たない

奴隷は軍隊に入れない、ということだ。奴隷は、政治にも参加できないし、軍隊にも入れない。政治と軍事は、市民(貴族と平民)の特権

プラトンの考え

現実の民主政を、無知な大衆の支配するものと落胆していたプラトンは、著書『国家論』のなかで、理想国家の姿を描きました。それによれば、国家や人類一般の悪を根絶するためには、哲学者が君主になるか、あるいは現在の支配者が本当の意味の哲学をなして、政治と哲学とを結合させなければならない。

その国家の最大の使命は、善のイデアを実現することにあり、個人はその国家目的にまったく適応しなければならない。財産も妻も共用であり、教育、身分および職業の選択、芸術や科学活動すべてが支配者の指導によって行われる。結婚をして子供を生む年齢までが、その指導者によって定められる、と説きました。

奴隷

有名な哲学者アリストテレスは「奴隷は生きた財産である。・・・奴隷と家畜の用途には大差がない。なぜなら両方とも肉体によって人生に奉仕するものだから。・・・」と述べている。

スパルタ

ずば抜けた強国 ドーリア人がBC1200ころやってくる
ペロポネソス同盟の盟主へ
30人の長老会議と2人の王
 ①スパルタ人・・完全市民で中心市に住む・・軍役のみ 
 戦士階級として国家を作った
 少人数(24分の1)なので武装・・20~60歳 1万人以下
 市民・・平等、すべて土地をもち 重装歩兵となる
 一般行政は5人のエフェロイ(監督官)
 ②ペリオイコイ・・軍役義務・ 市民権なし 参政権をもたない
 商工業に従事 他地方出身のギリシア人
 ③ヘロット・・スパルタ人の小作人 奴隷 先住民で農業生産に従事軍役さえない
 厳格な軍国主義・・反動的・閉鎖的な軍事国家へ,
 戦士以外なにも生み出していない 
 スパルタ教育・・貧弱なものはタイゲトス山に捨てる 
 7歳から集団生活 20歳から兵役
 30歳まではテントの共同生活・・・結婚しても
 男女平等 勇猛と服従を求める
 貧富の差をうみだす貴金属貨幣の使用やクレーロスの処分を禁止
 鎖国政策・・封鎖社会
 リクルゴス法・・BC8世紀~7世紀
ペリクレス戦没者追悼演説

「かつてこの壇に立った弔辞者の多くは、この讃辞を霊前のしきたりとして定め た古人を称えている。戦いの野に生命を埋めた強者らには、讃辞こそふさわしい、と考え 、たたえためであろう。しかし思うに、行為によって勇者たりえた人々の栄誉は、また行為によって顕示されれば充分ではないか。なればこそ今、諸君の目前でおこなわれたように、この墓が国の手でしつらえられたのである。それに反して、多くの勇士らの勇徳が、わずか一人の弁者の言葉の巧拙によって褒貶され、その言うなりに評価される危険は断じて排すべきだと私は思う。なぜならば、真実の評価をなすべき基礎を欠く場合、公正な発言をおこなうことはきわめてむずかしい。事実を知り同情をもって耳を傾けるものは、おのれの心情や理解が弁者の言葉には汲みつくされていないと考えるであろう。逆に事実をわきまえず、しかもおのれの力量をもってしては成しがたい事績を聞いて嫉妬するものは、弁者の誇張を憤る場合も多々あるからだ。なぜなら、他者への讃辞は聞き手の自信を限界とし、その内にとどまれば素直に納受されるが、これを越えて讃辞を述べれば、聞き手の嫉妬と不信を買うにとどまる。しかしながら、戦没者への讃辞は古人が嘉しとした慣例ゆえ、私もしきたりを守り、諸君のできるだけ多くの人々の心情と理解を言葉につくすよう、つとめなくてはならぬ。


まず私は、わが祖先に讃辞をささげたい。今日この場にあって、祖先の思い出に 最初の位をゆずるのはわれらの義務であり、この職にふさわしいからである。なぜならば、この土を、わが血脈の祖先らは古よりつねに住み耕やし、その自由を守る勇徳によって世々今日にいたるまで子らにゆずり渡してきた。そのゆえにわれらは遠き祖先に与うべき讃辞を借しまない、だがそれにもまさる高い讃辞をわれらの父にささげねばならぬ。われらの父は古き領土に加えて、営々辛苦して今日の支配圏を獲得し、これを今日のわれらに残していった。そしてここにいるわれら自身、今なおさかんな活動期にある者たちは、受けついだ支配をいや増しに押し広げ、わが国の備えをあらゆる面で充実させ、和戦のいずれを問わず、かつてなき完全な態勢を把握するにいたった。ここに到達するまでの戦いの道程は、われらや父たちがギリシアの内外から襲う敵勢を勇敢に撃退し、かの戦いにはこの地を、この戦いにはかの地を得たという一々の手柄話に伝えられて、諸君はすでに熟知のこと、ながながとこれをくり述べることを省きたい。

 しかしながら、われらがいかなる理想を追求して今日への道を歩んできたのか、いかなる政治を理想とし、いかなる人間を理想とすることによって今日のアテナイの大をなすこととなったのか、これをまず私は明らかにして戦没将士にささげる讃辞の前置きとしたい。この理念を語ることは今この場にまことにふさわしく、また市民も他国の人々もこの場に集うものすべて、これに耳を傾けるものには益するところがあると信ずる。
われらの政体は他国の制度を追従するのではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範に習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平 を守ることを旨として、民主政治(2)と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生 ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言がみとめられる。だが一個人が才能の秀でていることが世にわかれば、輪番制に立つ平等を排し世人のみとめるその人の能力に応じて、公の高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起こそうとも、国に益をなす力をもつならば、貧しさゆえに道を閉ざされることはない。われらはあくまでも自由に公につくす道をもち、また日々にたがいに猜疑の目を恐れることなく自由な生活を享受している。よし隣人がおのれの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴びせることはない。私の生活においてわれらはたがいに制肘を加えることはしない、だがこと公に関するときは、法を犯す振舞いを深く恥じ恐れる。時の政治をあずかるものに従い、法を敬い、とくに、侵されたものを救う掟と、万人に廉恥の心を呼びさます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない

また、戦いの訓練に目を移せば、われらは次の点において敵側よりもすぐれている。まず、われらはなんびとにたいしても都を開放し、けっして異国の人々を逐い払ったことはなく、学問であれ見物であれ、知識を人に拒んだためしはない。敵に見られては損をする、という考えをわれらはもっていないのだ。なぜかと言えば、われらが力と頼むのは、戦いの仕掛けや虚構ではなく、事を成さんとするわれら自身の敢然たる意欲をおいてほかにないからである

 子弟の教育においても、彼我のへだたりは大きい。かれらは幼くして厳格な訓練をはじめて、勇気の涵養につとめるが、われらは自由の気風に育ちながら、彼我対等の陣をかまえて危険にたじろぐことはない。これは次の一例をもってしても明らかである。ラケダイモン人はわが国土を攻めるとき、けっして単独ではなく、全同盟の諸兵を率いてやって来る。しかるにわれらは他国を攻めるに、アテナイ人だけの力で難なく敵地に入り、おのが家財の防禦にいとまない敵勢と戦って、りっぱに彼らを屈服させることができる。しかもいまだかつてなんびともわれらの総力を相手に戦場で遭遇したためしはない。われらは余力をさいて海軍の操練をおこない、陸上部隊を諸地に派兵しているからだ。たまたま敵勢がわが軍の一小部分と遭遇しこれに勝とうものなら、全アテナイ勢を破ったかのごとくに豪語し、敗れればまた全軍に打ち破られたかのごとくに言う。

 ともあれ、苛酷な訓練ではなく自由の気風により、規律の強要によらず勇武の気質によって、われらは生命を賭する危機をも肯んずるとすれば、はやここにわれらの利点がある。なぜなら、最後の苦悶に耐えるために幼少より苦悶に慣れ覿しむ必要がない。また死地に陥るとも、つねに克己の苦悩を負うてきた敵勢にたいしていささかのひるみさえも見せぬ。これに思いをいたすとき、人はわが国に驚嘆の念を禁じえないだろう。だがわれらの誇りはこれにとどまるものではない。

われらは質朴のうちに美を愛し、柔弱に堕することなく知を愛する。われらは富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また身の貧しさをみとめることを恥とはしないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く私じる。そしておのれの家計同様に国の計にもよく心をもちい、おのれの生業に熟達をはげむかたわら、国政のすすむべき道に充分な判断をもつように心得る。ただわれらのみは、公私両域の活動に関与せぬものを閑を楽しむ人とは言わず、ただ無益な人間と見なす。そしてわれら市民自身、決議を求められれば判断を下しうることはもちろん、提議された問題を正しく理解することができる。理をわけた議論を行動の妨げとは考えず、行動に移るまえにことをわけて理解していないときこそかえって失敗を招く、と考えているからだ。

 この点についてもわれらの態度は他者の慣習から隔絶している。われらは打たんとする手を理詰めに考えぬいて行動に移るとき、もっとも果敢に行動できる。しかるにわれら以外の人間は無知なるときに勇を鼓するが、理詰めにあうと勇気を失う。だが一命を賭した真の勇者とはほかならず、真の恐れを知り真の喜びを知るゆえに、その理を立てていかなる危険をもかえりみないものの称とすべきではないだろうか。

 またわれわれは、徳の心得においても、一般とは異なる考えをもつ。われらのいう徳とは人からうけるものではなく、人にほどこすものであり、これによって友を得る。またほどこすものは、うけた感謝を保ちたい情